な行

2019年09月08日

人が生きて行くことの罪の深さ――夏目漱石「門」

「三四郎」「それから」「門」の三部作のトリを飾る「門」。

主人公は、宗助、御米の夫婦。
年のころは、はっきり書かれてはいないが、三十代の半ばだろうか。
女中の清と三人で、東京で借家暮らしをしている。
宗助は役所勤め、御米は清とともに夫の世話と家事にいそしむ。
子どものいない、静かな暮らしである。

休暇に遊山を楽しんだり、友人をよんで宴会を開いたりするわけでもない。
夫婦の慎ましい日常を波立たせるのは、妻の病気や弟の小六との同居ぐらい。
そして、ふとしたきっかけで始まった大家の坂井との交流。

どこにでもありそうな夫婦の日常が、四季の移ろいを示す情景描写を織り交ぜて、巧みな文章でつづられていく。
読み進むにつれ、この夫婦には、過去になにか後ろ暗い事情がありそうだということがわかってくる。流産をくりかえす妻の御米には、その事情が原罪のように思われて苦しいのだろうとも見当がつく。
過去に何があったのか。宗助の立場から言えば、親友から妻(恋人)を奪ってしまったこと。御米の立場からいえば、夫(恋人)を裏切り、夫の親友のもとにはしったこと。
そういう事情が、明確にではなく抽象的にしか表現されないことが、二人の胸に刻印された罪の深さをかえって印象づける。

人はだれでも、何十年も生きていれば、後ろ暗いところのひとつやふたつはあるものだ。自分にはやましいところなど一つもないといい切る人は、よほど鈍感なだけだと思う。たいていのひとは、この小説を、身につまされて読むだろう。大家の坂井のように、恵まれた境遇で生長し、何の苦労も不足もなく生きている闊達な好人物でも、それゆえの苦悩はあるだろうから。

宗助は、過去に裏切った親友の影におびえ、禅寺の門をたたく。
十日間の座禅修行を試みたものの、悟りの門の内に入ることはできなかった。

東京に戻れば、平凡な夫婦の日常だ。
役所のリストラにおびえ、五円の昇給を尾頭付きの魚で祝う小市民の生活。
過去の暗い影は胸の奥にしまい込み、今日と明日を生きて行く。

人が生きて行くということの罪の深さを、ありふれた日常の情景に重ねて書き切っている。
文豪にこんなことをいうのは失礼かもしれないが、漱石は小説がうまいなあと、つくづく思った。




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2019年07月28日

過去の記憶が「私」を作る――中村文則「私の消滅」

人は、過去の積み重ねでいまがある。
脳に蓄えられた過去の記憶がいまの「私」を作っている。
「このような両親のもとに生まれ、このような友たちとたわむれ、このようなことを学び、このような仕事に励み、このような異性と愛を育み、いまに至る」
自分自身の来歴をこのようにスラスラと語ることができる人は、幸せな人生を歩んできた人だ。
「私はこういうものです」と、胸を張って、あるいは多少恥じらいながらでも、言うことができる。

この小説の主人公、小塚亮大は、精神科の医者である。
人は、耐え切れない精神的苦痛を受けたために、心を病んでしまうことがある。
彼らを苦しめるのは、虐待、貧困、いじめ、暴力などなどの記憶。
ならば、患者の脳からその忌まわしい記憶を消してしまえばいいと、小塚は考える。
電気ショックを与え続けて、記憶喪失に陥らせる乱暴な「治療」。
空っぽになった脳に、偽りの「幸福な記憶」を注ぎ込む。
かくして不幸な「私」は消滅し、幸せな「私」が生まれる。
小塚自身も、複雑な生い立ちの記憶に苦しむ患者なのだ。

恋愛があり、悪意の企みがあり、殺人がある。
ミステリー小説でもあるのだが、謎解きの面白さよりも、肌にまとわりつくような陰湿な悪意の不快さが読後感として残った。
ああ、気が滅入る。

作者は、「共に生きましょう」と、いつもあとがきに書いてくれる。
この世に生き難さを感じている人へのメッセージだと思うが、もう少し、わかりやすい救いが、作品にあったらと思う。
それなのに、中村作品を書店で見かけると、ついてが出てしまうのは、なぜだろう。
わたしも、多少病んでいるのかもしれない。





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2019年07月09日

さらば、高等遊民――夏目漱石「それから」

「三四郎」(1908)、「それから」(1909)、「門」(1910)の、夏目漱石前期三部作の二作目。

「三四郎」を読んだとき、明治の優雅な青春群像を書いたユートピア小説だと思った。登場人物は上流階級の子弟ばかりで、気楽でのんきな学生生活を送っていた。
三部作の二作目ならば、「それから」は、大学というユートピアを出た青年の、それからの話なのだろうと思って、読み始めた。

主人公の代助は、学生時代とかわらず親から援助を受け、紅茶を飲み本を読むだけの優雅な日々を送っている。
もうすぐ三十歳になろうというのに、職業を持とうとしないし、結婚する気もない。
明治のころの三十歳というのは、青年とはいえない。かなりのおじさんだ。
実業家の父や兄から、何か仕事をしろと意見されることはしばしばだが、彼独特の論理でのらりくらりとかわしている。彼は、パンのために働くことを軽蔑しているのである。

代助は、親に寄生する身でありながら、一軒家を構え、書生と女中を置いている。
自身の生活費と、二人の使用人に支払う給金と……、この人、いったい親からいくらもらっているのだろう。
手をたたけば、ばあさんの女中か書生がとんできて、それぐらい自分ですればというようなこともやってくれる。彼らに月々いくら払っているか知らないが、食住を保証しての奴隷労働のようなものだろう。パンのために働くことを軽蔑しながら、使用人の奴隷労働の上にあぐらをかいて生きているなんて、最低の人間だわ。

書生の名を門野というが、彼もなかなかの怠け者である。
兄も弟もきちんと俸給をとって家計を支えているが、自分は学校へ行く気もしないし、ちゃんとしたところに就職もしたくない。あくせく働くよりも、先生(代助)のところで、のらくら使い走りをしていたほうが楽でいいという。
門野のあっけらかんとした怠け者宣言には、好感がもてる。彼は、勤労階級の人間だから、近い将来には兄や弟のようにあくせく働かなければならないだろうし、いまだって他人の労働に寄生して楽をしているわけではないから。

父は実業家だから、ただ息子を甘やかしているわけではない。
実業家としての計算があってそうしているのである。
息子にしきりに縁談をすすめる。地方の大地主の娘と結婚してくれれば、事業の面でも大いに助かると思っている。
結婚話からも、のらりくらりと逃げている代助には、ちょっとした「過去」があった。

好きだった女がいたが、善意(?)からその女を親友に譲り、結婚させたのだ。三年前のことだ。
女の名を三千代、親友の名を平岡という。
好きといっても、抜き差しならない恋愛関係にあったわけではないだろう。ただ「好き」だったのだ。三千代も、あっさり譲られて結婚してしまうのだから、代助に対してそれほど深い恋情があったとも思えない。代助は、恋にしても仕事にしても、当事者になって苦労したり傷ついたりするのが、いやなのだ。自分の手を汚さずに生きて行きたいのだ。ずるいやつだ。

それからというのは、恋人を親友に譲った、それからの意味かもしれない。
銀行に就職していた親友の平岡は、三年経って失職し困窮して、上方から東京に帰ってくる。妻の三千代は、流産に病気が重なり、すっかりやつれている。夫婦の仲が良いならまだしも、平岡は、借金してまで放蕩するようになっていた。

幸せを信じて平岡に譲った三千代が、不幸せに泣いている。
胸の奥に封じ込めていた代助の恋心に火がついた。
三千代を助けなくちゃ、自分の妻にしなくっちゃ……

代助は、父が進めた縁談をきっぱり断り、人妻との禁断の恋に突き進む。
怒った父からは、勘当される。

さあたいへん。仕事をさがさなくっちゃ。職業を持たなくっちゃ。さらば高等遊民。
代助は、あてもなく街にさまよい出た。

代助が、道ならぬ恋に走り出してから、話は、がぜんおもしろくなった。
ハラハラドキドキが止まらない。
漱石って、こんなおもしろい小説を書く人だったのかと、感心した。
なんだか「門」まで読みたくなって、ダウンロードしちゃった。




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2019年06月09日

そこに猫がいればーー夏目漱石「道草」

漱石の死の前年、1915年6月3日から9月14日まで、朝日新聞に掲載された。
「吾輩は猫である」執筆当時の私生活と自らの生い立ちを書いた、自伝的小説だという。

主人公の名は健三というが、その家庭は、猫が食客になっていた、まさしくあの家庭である。
猫を邪険にした愛想のない奥さんと二人のやんちゃな女の子。
「道草」の作中に彼女らが現われたときは、あらまあ久しぶりと、声をかけたくなった。

「吾輩は猫である」は、美学者や哲学者や詩人が主人公の家に訪ねてきて、実生活にはさっぱり役に立たない芸術や哲学や文学を、口角泡を飛ばして論じ合い、ときには眉唾なうさんくさい話をして、読者を煙に巻く話だった。
浮世離れした話だから、主人公には珍野苦沙弥なんてふざけた名前がつけられていたし、彼の家にも「臥龍屈」なんて変な名前がつけられていた。

「道草」の健三の家に来る客は、彼の養父や、姉や義兄や実兄や義父。昔はそれなりに羽振りがよかったが、いまは零落してお金に困っている人ばかりだ。
彼らは、一族の出世頭である健三に金の無心に来る。
健三を苦しめるのは、恩だの義理だの人情だの、切るに切れない世俗のしがらみだ。

苦沙弥と健三、二人合わせて夏目漱石なのだ。

ずっと苦沙弥先生でいられたら漱石もしあわせだったのだろうに、この世で稼いで生きて行く社会人として、妻を抱き子を養う家庭の人として、文学や学問ばかりにかまけてはいられなかったということだろう。

奥さんについても、かなりのページを割いて書かれている。
特に仲睦まじいというわけではないが、悪くもない。
このぐらいなら、まあ普通だろうという夫婦だ。
明治という時代を考えると、奥さんが夫に対して、対等にモノをいってるので、感心する。
小学校の教育しか受けていないというが、頭のいい人なのだろう。
帝大出の健三相手に、理詰めで我を通すところは、あっぱれだと思う。

父としての健三は、けっして子煩悩とはいえないが、なりゆきで、三人目の子をとりあげることになってしまう。
夜中、寝ているときに奥さんが産気づき、産婆が間に合うわけもなく、つるりと産み落とされてしまった我が子を、無我夢中で綿でくるんでやった。
ふだんの仲がどうであれ、いざというときは、夫として父として、するべきことはちゃんとする。

金をせびりに来る養父と相対するとき、健三の脳裏に去来するのは、幼いころの思い出である。
子だくさんだった実父母からはやっかい者あつかいされ、養父母には打算で養われた。
妻や子に冷淡なのは、愛されたことのない生い立ちが影響しているのかもしれない。

この小説、どこかで猫が出てくるんじゃないか、せめて鳴き声が聞こえて来やしないかと、期待して読み進んだが、ついに猫の吾輩は、姿を現さなかった。読みながら、そこに猫がいればなあと、何回思ったことか。嫌な客と向き合う健三の膝の上に、夫婦が言い合う部屋の障子の陰に……




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2018年12月05日

『コートの男』を探せ――中村文則「あなたが消えた夜に」

毎日文庫で読んだ。創刊されたばかりの文庫で、記念すべき第一号なんだそうだ。
それもそのはず、2014年に毎日新聞に連載されていた小説である。

ある夜、路上で一人の男が殺された。
目撃情報によれば、犯人は、灰色のコートを着た男。
第二、第三の事件も起きて、そのすべてに灰色のコートの男が目撃される。

コートの男を探せ―――物語は、三十代半ばバツイチ独身の中島刑事の一人称で語られる。
捜査で浮上してくる人物は、暴力や虐待で心に深い傷を負った者ばかり。
捜査する中島刑事自身も、少年時代に犯した罪の記憶に苦しめられている。

中島刑事とコンビを組んだのは、小橋刑事。
二十代半ばの美しい女性で、捜査一課のエリートだ。ちなみに中島くんは、現地の所轄の刑事。
小橋刑事は、カンが鋭く、頭がきれるが、考えこむときは口をぽかんと開ける。
喫茶店に入ると、必ずパフェを注文する。
いつもポケットに、羊かんを持ち歩いている。
寝ぐせではねた髪のうしろに、何かの毛玉がついていることもある。
小橋さんを観察する中島くんの目が、陰鬱で重苦しい作品世界のオアシスになっている。

小説は、三部構成になっていて、第一部と第二部は、事件の捜査と推理。
第三部は犯人の手記。
手記は、「あなた」に向けて、「僕」の一人称で書かれている。「僕(犯人」)が犯行に至った深層と真相が、微に入り細に入り、記されている。犯人の「僕」が抱えている心の闇が、中島刑事の抱えている心の闇にとても似ているので、手記を読んでいると、僕って中島刑事のことかと、しばしば思ってしまった。犯人が書いた陰鬱で重苦しくて長い小説のような手記は、死んだ恋人の墓の前で、「あなた」に届けるために、犯人の僕が燃やしてしまった。だから、中島刑事も小橋刑事も、灰を見つけただけで、読むことはできなかった。
「あなた」とは、どこかで僕を見ていてくれるはずの、守ってくれているはずの、「神」のことだった。

そして、エピローグ。
ここだけは、三人称で書かれている。
犯人を好きだった女性の、長いモノローグ。
彼女が「あなた」と呼びかけるのは、「神」ではない、人だ。
愛する人、愛してくれる人。
彼女を絶望させる「あなた」が人なら、救ってくれる「あなた」も人。
「あなた」が人であることが、この重苦しい作品世界の大きな救いになっていると思った。




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2018年07月16日

境界はテムズ川を渡る塔橋ーー夏目漱石「倫敦塔」

明治33年10月から35年の12月まで、夏目漱石は、文部省の命令で英語学を学ぶためにイギリスに留学しています。
出発のとき、漱石は33歳。長女と、次女を妊娠中だった妻を日本に残し、単身での留学でした。

「倫敦塔」は、帰国して三年後の明治38年1月、雑誌「帝国文学」に文学士夏目金之助の名前で発表されました。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などと同時期で、小説家としての出発を告げる作品のひとつとなりました。

夏目漱石が、ロンドン塔を訪れたのは、イギリスへ到着して間もなくのこと。
初めての名所見物だったようです。
方角もわからない、地理も知らない、まるで御殿場の兎が急に日本橋の真ん中へ放り出されたようだと、そのときの心境をふり返って書いています。
どのような道筋で塔にたどりつき、どうやって宿に帰り着いたかも覚えていない。
前後は不覚なのに、宿世の夢の焼点のように、ありありと思い浮かべることができる倫敦塔の記憶を、漱石は、幻想的な文章にしたためました。

まず、塔橋に立った時の情景を、丁寧に描写しています。
季節は、冬の初め。灰汁桶を掻き混ぜたような色の空。
壁土を溶かし込んだようなテームズ川のゆるゆるとした流れ。
漱石の目には、対岸にある塔が二十世紀を軽蔑するように立っていると映ります。
しばらく塔橋にたたずんで、倫敦塔に見とれていましたが、やがて長い長い手に手繰り寄せられるように、塔の中に引きこまれて行きます。

11世紀に要塞として築かれ、幾たびか王朝が交代する中で、王宮としても監獄としても使われてきた倫敦塔。

亡霊か幻視か、空想か。
塔を巡り歩くうち、漱石は、過去に幽閉され処刑された王子や王妃や女王の有様を、まるで見てきたように書くのです。
くるくると舞台が回る歴史劇の観客になったように。
観光名所ですから、他の見物客だっています。カラスにえさをやる子どもと、三羽しかいないカラスを「五羽います」と言い切る母親は、劇中劇に溶け込んで、まるで登場人物のよう。

また漱石は、壁に刻まれたおびただしい文字を見て、処刑されるまで生きねばならなかった囚われ人の、血まみれの爪を想像します。
悲劇の女王ジェーン・グレーの、斬首刑も目撃します。首切り役が斧を振り下ろした瞬間、漱石のズボンの膝に数滴のの血がほとばしり……

はっと我に返った漱石は、無我夢中で宿に帰りつきます。
宿の主人に倫敦塔へ行ってきたことを話すと、ああ行ってきたの?カラスが五羽いたでしょ、そう決まってるんだよ。壁に刻まれた文字?見物客の落書きでしょ。なんて、身もふたもないことを言われてしまいます。


読み終えてから、これは紀行文ではなく小説だと思いました。
異世界との境界をテムズ川、出入口を塔橋とするファンタジー小説。




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2018年07月03日

あなたは真っ直ぐでよいご気性だ――夏目漱石「坊ちゃん」

坊ちゃんとは、主人公の青年のことである。
彼は、親譲りの無鉄砲な性格で、幼少のころから乱暴者。
友だちや兄に働いた暴力の数々が書きならべてあるが、ちょっと度が過ぎている。
いまの世なら、発達障害のレッテルを貼られそうだ。
親譲りと書いてあるから、父親も似たり寄ったりの乱暴者だったと思われる。
その父親も手を焼くほど暴力的だったのだ。
主人公は、父親から疎まれる。
母親は、早くに死んでしまったが、その母親からも愛想をつかされていた。

父からも母からも見捨てられた男の子を、心から慈しんでくれた人がいた。
女中の清。
「あなたは真っ直ぐでよいご気性だ」と、抱きしめてくれた。
きっとあなたは偉くなりますと、温かく期待して励ましてくれた。
その女中の清が、主人公のことを「坊ちゃん」と呼んでいた。
「坊ちゃん」とは、清の坊ちゃんなのである。
清は、坊ちゃんの心の母なだ。

主人公が中学校を卒業した年に、父親が死んだ。
遺産を少し分けてもらって、彼は、物理学校に進学する。
「生徒募集」の立て札を見て入ったというから、恐れ入る。
ビリに近い成績で卒業したが、四国の中学校へ数学の教師として赴任することになった。月給は四十円。

四国へ立つ三日前に、甥の家に厄介になっている清をたずねた。
風邪をひいて寝ていた清は、坊ちゃんいつ家をもちなさると、目に涙をいっぱいためてきいた。

主人公は、四国の中学校に就職したものの、たった一か月で辞めてしまう。
その一か月の騒動が、この小説の大半を占めているのだが、主題は、坊ちゃんと清との強い心の結びつきなのではないかと思う。

東京へ帰った坊ちゃんは、ある人の周旋で、街鉄の技手になった。月給二十六円。
家賃六円で小さな家を借り、清と暮らした。
清は、まもなく肺炎になって死んでしまったけれど。

最後に清を幸せにしてあげて、主人公は、「坊ちゃん」から卒業できたのかなと思う。




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2018年05月21日

猫が死に際に生涯を思い起こす――夏目漱石「吾輩は猫である」

1905(明治38)年1月から1906(明治39)年8月まで、文芸誌「ホトトギス」に掲載された。夏目漱石の初めての長編小説。全11話から成る。

生まれて間もない一匹の野良の子猫が、中学の英語教師の家に入りこみ、飼い猫となった。不慮の死を遂げるまで一年数か月。その間に見聞きしたあんなことやこんなことが、軽妙な語り口で書かれている。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」
最初の一行は、あまりにも有名だ。
これは、生まれたばかりの子猫がいっているのではない。死ぬ間際の猫が、生涯を回想して語り起こした始めの言葉なのだ。
一年数か月もの間飼われていたのだ、名前ぐらいはつけてほしかったと、無念の思いがにじみ出ているではないか。

いったい、猫の吾輩は、飼い主である珍野家の面々に愛されていたのか。
三人の小さな女の子たちには、しっぽをつかまれ吊り下げられる。
奥さんと女中の清には、邪険にされる。
主婦や家事使用人に愛されないと、動物は幸福にはなれない。
彼女たちは家庭の食物を支配しているから。
猫の吾輩は、はたして餌というものをもらっていたのか。一家の食事風景は活写されているが、そこに猫の皿は見当たらない。

じっさい、猫の吾輩は、常に腹を空かせていたようだ。
椀の底に残った雑煮の餅を盗み食いして、窒息しそうになり、苦しさのあまり踊り狂ったことがある。先生の客の食べ残したかまぼこの切れ端を、失敬したことがある。
女中の清のサンマを盗み食いしたことがある。
ねずみを獲ろうとして、大事なヒゲやしっぽに食いつかれたこともある。
庭でカマキリやセミを狩ったこともある。
プライドの高い猫だから、やれ好奇心に負けたの、運動のためだのというが、腹が減っていたから、食うためにやったことにちがいない。

とはいえ、猫の吾輩は、ただ腹を空かせてかわいそうなだけの猫ではない。
類まれな知能を天から授かった猫である。中学三年生ぐらいの知力学力はあると自認している。
先生が新聞を読んでいるときは、膝に乗って、のぞき読みする。先生のところにきた手紙だって読んでしまうのだ。
中学の教師のくせに、なぜか家にばかりいる先生のところには、理学士だの美学者だの哲学者だの詩人だの、インテリの客がひっきりなしに出入りして、駄弁を弄していく。百年経った今日では、聞くに堪えないような差別的な話も、滔々と語っていく。
吾輩は彼らの話に聞き耳を立て、先生の心の中まで見透かしてしまうすごい猫なのである。

猫の吾輩が、二年足らずで生涯を終えることになったのは、天才ゆえの宿命かもしれぬ。主人の部屋に集っていた客たちが散会し、静けさとわびしさの漂う夜。話題になっていた自殺論に影響されたのか、「死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかもしれない。」なんて、猫らしからぬことを考え、客の飲み残したビールをびちゃびちゃと飲み干し、ふらふら歩いているうちに、水甕の中に、ぼちゃん……

夜が明けて、水甕にぷかりと浮かんだ猫の吾輩を見て、珍野家の人々は、「せめて名前ぐらいつけてやればよかった」と、その死を悼んだと信じたい。





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2018年04月15日

とかくに人の世は住みにくいーー夏目漱石「草枕」

三十歳の画工(絵描き)は、人の世の煩わしさから逃れるために旅に出ました。東京山の手から熊本へ。目的の那古井温泉へ行きつくには、峠を越えなければなりません。絵具箱を肩にかけ、山道を、一歩一歩踏みしめながら考えます。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

時代は、二十世紀の初め。日露戦争が始まったころ。空には雲雀が歌い、遠くの峰には山桜が棚引き、足元には蒲公英(たんぽぽ)が咲いています。
都会生活の人間関係に疲れちゃったのでしょう、たぶん。非人情の世界に身を置きたくて旅に出たようです。不人情ではなく、非人情。周囲がゴタゴタしても超然としていたい、そのためには、親しい人や利害関係のある人から離れなくちゃならんのです。途中、雨に降られ、ひたぶるに濡れて歩くわれの姿を、詩にもなる絵にもなるとうっとりするようなナルシストです。
立ち寄った茶店の婆さんに、那古井の宿の話を聞きました。宿は一軒しかなく、村の庄屋の隠居所のようなもの、戦争が始まってからは湯治の客もなくがらんとしているといいます。婆さんは、長良の乙女の伝説も物語ってくれました。二人の男に懸想され、どっちの男になびこうか迷ったあげく、淵川に身を投げて果ててしまったという乙女の悲話。那古井の宿には出戻りの嬢様がいて、長良の乙女と身の上がよく似ているというのです。

宿に着くと、しばらく泊り客がなく客室の掃除もしていないので、ふだん家の者が使っている部屋に泊まってくれという。そこは、出戻りの嬢様、那美の部屋でした。那美は、もし二人の男に思われたら二人とも情夫にしちゃうわ、というような女です。並の小説なら、出戻りの嬢様と抜き差しならぬ関係になって、手に手を取って山を越え……なんて展開になるのでしょうが、なんたってこれは、非人情の旅。愛だの恋だのどこ吹く風、劇的な事件はいっさい起きません。それでも宿の主人の若い甥(那美の従弟)が、日露の戦争に出征していくと聞いたときは、画工の心は激しく波立ちます。現実世界は、こんな山奥の村にまで迫っていることを思い知ったときでした。

主人公が画工なだけに、美しく目に浮かぶような自然の景観や情景の描写が随所にあり、読みながら何度も、ほーっとため息をつきました。







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2017年08月15日

物語を生むために生きる――中村文則「教団X」

この小説を書くために、作者は、ずいぶんたくさんの本を読み、資料を調べ、勉強したにちがいない。脳科学や、物理学、宗教や現代史、国際情勢……。1977年生まれの作者が、持てる力を出し切って書いた力作と感じた。この膨大な知識量は、いつまで作者の脳内にとどまっているだろう、もしかしたら、書き上げたとたんに忘れてしまったかも。なんて、失礼なことも思ってしまった。作品として結実しているのだから、それでもちっともかまわないけれど。
登場人物が多く、それぞれの生い立ちのエピソードも語られるので、主人公というものがはっきりしない。彼ら彼女らは、生育時に虐待を受けて心に深い傷を負ったサイコパスばかり。
タイトルとなっている「教団X」は、気持ちの悪いカルトである。セックスを神事としている。教団内では、おおっぴらに男女が重なりあっている。宗教の根本に男女の性があるというのは、なんとなくわかる。男根や女性器をご神体として祀る神社は珍しくない。豊穣と子孫繁栄の願いというが、ほんとうのところは、性の恍惚感が信仰の源になっているのだろう。性描写の多い小説だが、その過激さでは中上健次に遠く及ばない、なんてまたまた余計なことを思ってしまった。いかにも原始的なセックス教団が、国際的なテロリスト教団と結びついて、世界を破滅させるようなテロを企てる。
この世界から、貧困や戦争が絶えないのはなぜか、どういうからくりで生み出されるのか、作中人物が、手記や演説でとうとうと語ってくれるのだが、それが物語にしっくり融けこんでいない。この作品につめこんだことを、一つの物語として書くには、文庫本で595ページというボリュウムでは、とても足りない。
文庫本の帯に書かれたキャッチフレーズは、「絶対的な悪、圧倒的な光」。
松尾正太郎という教祖の遺言を読んで、まさに光だと思った。
われわれは無から来て、つかの間の有を手に入れ、無に帰る。いのちは物語を生むために生きる。一つの命に一つの物語。その物語に優劣はない。さあ、生きて、自分だけの物語をつむごう。


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