・北條民雄

2015年12月27日

北條民雄の死を悼む――川端康成「寒風」

「その作家が死んだという、癩院からの電話は、十二月の夜明け前、ベルの音まで氷原の中でのように響いた」
その作家のモデルは、北條民雄である。
北條民雄が東京の全生病院で、腸結核のため二十三歳の若さで逝ったのは、昭和十二年十二月五日のことだった。
全生病院はハンセン氏病患者の隔離病院だった。一旦入れば、まずは終身出られない。
当時、ハンセン氏病は、業病と恐れられ、忌み嫌われた病気だった。
患者は、社会生活を捨て、肉親との縁を絶って入ってくる。北條民雄も、入院の前に父親から籍を抜かれていた。
『寒風』は、北條民雄の訃報を受け、文学の師であった川端康成が、全生病院に駆け付けたときの一部始終を小説にしたものである。
昭和十六年から十七年にかけて、雑誌に発表された。
その作家の死後、時を経て書かれたせいか、亡くなった当日のできごとを柱に、後に故人を巡って起きたできごとへの作者の思いも入り混じる。
「彼の現身は人知れず生き、人知れず死に、ただ彼の作品だけが世に出ているとしてやりたかった」と、作者は書く。
その配慮は、川端康成と北條民雄の書簡集からも十分に読み取れた。
後日、故人の人となりを誹謗する文章を発表した癩院の医師がいたらしい。
作者は、死者を言葉で鞭打つその行為を、静かに憤る。
孤独に心を高くもてと、手紙の中でくり返し故人に助言した真意を語る。
死屍となった故人と対面したあと、作者は、故人の文学仲間と面会する。
院内の文学青年たちが、大きなテーブルをはさんで、作者の対面に居並んだ。
作者は、厳かな筆致で書いている。
「一斉にこちらを注視している青年達から、異様にひたぶるなものが私に迫ってきた」
「文学の厳粛な姿と対面しているようだった」
一日の終わりに、院内の「有毒地帯」と「無毒地帯」を分ける溝を渡っているとき、若い看護婦が駆けるように通りすぎて行った。寒さのために赤くそまったその人の足を見て、作者は胸を温かくする。
作者の故人への愛情が切々と伝わって来るような追悼小説である。







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2015年12月24日

孤独に心を高く――北條民雄、川端康成との往復書簡(九十通)

七條晃司は、十八歳のとき(1933年)、ハンセン氏病の診断を受けた。
翌年の五月に、父に付き添われ、東京の全生病院に入る。
父は徳島から上京する前に、発病した息子の籍を抜き、東京蒲田を本籍とする手続きをすませていたという。
病気治療のための入院というよりも、社会からの隔離収容だった。
三か月後の八月、彼は、川端康成に手紙を書く。
自分は、ハンセン氏病で入院していること。ずっと前から文学に励んでいること。作品を読んで批評してほしいこと。すがるような必死さで、川端に請い、訴えた。
返事が来たのは、二か月後だった。温かい内容だった。「お書きになったものは拝見いたします」「現実を生かす道も創作の道にありましょう」「文学の御勉強を祈り上げます」
川端の励ましに狂喜し、業病を病んだ青年は、創作に励む。書き上げた「間木老人」を川端に送る。
約束通り、川端は、無名の青年の作品を読んだ。「感心しました」「私共から見ても書く価値あるだけ、よいものです。発表するに値します」「立派なものです」。青年の病身をいたわりながら、励ましと賛辞を書き送った。
最初の返事は、過酷な運命を背負った青年への同情と作家的好奇心が書かせたのかもしれない。作品を読んでからはちがった。川端は、青年の才能を確信し、添削や批評を書き送るばかりでなく、作品の発表のために奔走する。よい筆名をつけることも提案し、二転三転した末、北條民雄という名が決まる。
「北條民雄 小説随筆書簡集」(講談社文芸文庫)には、北條民雄と川端康成との往復書簡九十通が収められている。そのうち川端から北條に宛てたものは、二十通余りしかないが、それらの手紙の文面からは、川端がいかに北條の才能を愛したか、過酷な境遇にある北條をいたわり、作品だけが世に出るように心を砕いていたか、痛いほどに伝わってくる。
「ほんとうに書きたいものだけを書く習慣を守りなさい。そしたら、あなたは文学にとっても同病者にとっても、尊い存在になりますよ」「原稿の註文は一切小生という番頭を通してのことになさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです」
川端の励ましで書きあげた「いのちの初夜」は、芥川賞候補にもなった。
昭和十二年九月二十七日、北條民雄は川端康成に短いハガキを送っている。
「胃腸病が悪化したので、また重病室へ入室加療することになりました。体の具合の良い時をねらって、続重病室日記を書こうかと思っています」
北條民雄が二十三年の生涯を閉じたのは、その約二か月後、十二月五日のことだった。死因は腸結核だった。




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2012年11月08日

剥き出しにされるいのち――北條民雄「いのちの初夜」

蔵書を整理していてみつけた本である。角川文庫「いのちの初夜」(北条民雄著)。
奥付を見ると、昭和三十年九月十五日初版発行、昭和五十三年五月三十日改版十六版発行、となっている。

北條民雄は、昭和十二年十二月五日の朝、東京府東村山の癩療養所全生病院で、二十四年の生涯を閉じた。
死因は、癩病ではなく、腸結核だった。
彼が癩療養所に入所したのは、昭和九年の五月。二十一歳のとき。
「いのちの初夜」は、癩療養所の中で書かれた小説である。

二十三歳の尾田は、癩病の診断を下され、癩療養所に入所してきた。
彼がそこに見たのは、皮膚や骨が朽ち崩れても、死なずに生き続ける重症患者たちの姿だった。
肉体という鎧を失い、剥き出しになったいのち。
ここで生きていくには「とにかく癩になりきることだ」と、アドバイスする先輩患者の佐柄木。
絶望の中でも「やはり生きてみることだ」と、痛々しく決意した夜を、作者は「いのちの初夜」と名づけた。

表題作の他、七編の癩院に題材をとった小説が収められている。
最後を飾るのは、「吹雪の産声」。
妊娠して入所してきた癩患者が、出産する。
生まれてきた子は、もちろん癩ではない。健康である。
同じ日に、ひとりの患者が、壮絶な闘病の末に息を引き取る。
威勢よく泣く赤ん坊の声を聞きながら、「私」は死んでいった男を思い、ぽろぽろ涙をこぼす。

入所してから死ぬまで、わずか三年の執筆期間だった。
絶望の中で文学にすがり、肉体の鎧が朽ち崩れる前に、北條民雄は、いのちの火を燃やし尽くした。
あとがきを、川端康成が書いている。
北條民雄は、川端康成に師事していた。
川端康成は、癩院から送られてくるすべての北條作品を読み、才能を認め、励まし続けた。

厚生労働省のHPに「ハンセン病に関する情報ページ」がある。
それによると、ハンセン病(癩病)は、今日では服薬治療で根治できる。
感染力も非常に弱く、人から人へ伝染することはめったにない。
非常に弱い菌で毒もないから、ハンセン病で死ぬことはない。
今の日本でハンセン病と新たに診断される人は、年に0〜1人である。

aotuka202 at 09:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)