環境オンブズマンと環境アドボカシー
の提唱と実践

青山貞一
武蔵工業大学環境情報学部教授

初出:環境と正義 2005年春号
(日本環境法律家連盟)


 私は三十年程前から、環境オンブズマンと環境アドボカシーを提唱し自ら実践してきた。

 言うまでもなくオンブズマンの起源は北欧にある。北欧ではオンブズマンは「議会を監視するひと」と言う意味だが、それが米国に伝搬する過程で行政の諸活動を監視するひと、すなわち行政オンブズマンとなった。

 私が最初に行政オンブズマンにであったのは、今から約三十年前、米国ワシントン州シアトル市の行政オンブズマン局であった。当時、シアトル市では、行政及び地下鉄事業のような公益事業全般について、市民からの各種苦情を受け付ける行政オンブズマンがいた。受理後、スタッフが行政とは別に一定期間内に独自の調査を行い行政オンブズマンに調査結果を報告する。

 行政オンブズマンには独自の権限とスタッフそれに予算が与えられていた。オンブズマンはその報告をもとに関連する行政組織、職員等に各種の勧告を行い、結果を住民に報告していた。 日本でも相当前に、「日本最初が好き」な川崎市が行政オンブズマン制度を設けたことがある。確か初代のオンブズマンは女性だった。

 その後、ご承知のように日本には全国市民オンブズマン連絡事務局等もでき、弁護士や行政書士等が中心となって地方行政や地方議会の監視が活発化している。

 私は環境行政改革フォーラムと言うNPOを1992年に友人らと設立、環境分野でオンブズマン活動を徹底して行ってきた。たとえば環境に関連する国、自治体の各種調査、分析、アセスメントなど業務発注の監視、環境関連審議会、審査会の監視、国、地方の環境関連法、条例の制定過程への意見書、公述人としての関与による監視など多岐にわたっている。最近では行政事件訴訟法改正に関連した首相官邸ヒヤリングにもNPOの立場から公述してきた(ジュリスト臨時増刊参照)。

 他方、環境アドボカシーだが、この起源は1960年代の米国にさかのぼる。米国社会には、弁護士や都市計画の専門家が中心となり、カリフォルニアやニューイングランドの市街地で盛んに行われた再開発などの公共事業により理不尽に立ち退きを迫られる黒人やマイノリティー、さらに社会経済的な弱者を救済する目的で、アドボケイト・プランニング(advocate planning)ないしアドボカシー(advocacy)が盛んに行われた。

 アドボカシー・プランニングを行うひとをアドボケイト・プランナーと呼び、各地の弁護士によってつくられた地方事務所そして建築家や都市計画家の個人設計事務所がその舞台となっていた。いずれもボランティアで活動に当たっていた。

 私が最初に地方事務所を訪れたのは、やはり今から約30年も前になる。ロサンゼルスのリトル・トウキョーだ。当時、日本人街の再開発が行われていた。多くの貧しい日系人や零細商店がその再開発事業によって立ち退きを迫られていた。今で言う地上げも横行していた。激しい反対運動で地上げがうまく行かない時、事業者側は日本人のプランナーを使い、同じ日本人であることを利用し、説得に乗り出した。私が訪問したのはその説得が始まったときだった。

 アドボケイト・プランナーは、住民団体と事業者の間に入りさまざまな紛争調整、利害調整、専門的支援を行う。私と同年代の読者なら覚えていると思うが、昔の米国の映画に「いちご白書」(Strawberry Statement)と言うのがある。実はこの映画の中で、アドボケイト・プランニングが素材として取り上げられていたのである。

 1970年代以降、アドボケイト・プランニングは変節する。大きな理由は、まったくのボランティアでは活動の持続が難しいことである。かと言って、行政、民間を問わず事業者側から報酬をもらっては、いくら第三者性を強調しても、なかなか住民側の信頼性が得られない。

 ところで、私が米国で経験し学んだ上記2つの活動、すなわち行政オンブズマンとアドボケイト・プランナーを何とかして、日本、それも東京など大都市で実践することを考えた。今から25年も前のころである。

 当時、東京ではあちこちで建築紛争、道路拡幅をめぐる紛争、それに公共緑地、公共空地への民間ホテルの建設ラッシュがあった。最初に手がけたのは、東京都品川区の自宅近くの事例である。

 当時、武蔵小山商店街にあった東京電力の資材置き場で巨大マンションが建設されることになった。事業者、設計事務所、ゼネコンと零細商店、住民との間に入り、1年と3ヶ月、東京都、品川区の建築部局に建築確認をスタンバイさせる中で、日影、日照、通風、電波障害、景観、自動車排ガスなど、環境面を考慮してもらい、最終的に大幅な階数と容積の削減、そして周辺住民用集会室、屋上日光浴広場及び自転車置き場の設置などを事業者に納得してもらった。

 当時は建築基準法改正前、もとより行政手続法もなく、行政側は実に1年以上も私の環境アドボケイトプランニングに協力してくれた。東京都都市計画局以外に品川区役所、東京電力品川支所が間接的に支援してくれたことが大きいかった。

 次に手がけたのは、目黒駅近くの国立自然教育園の隣にあった西武のプリンスホテルが所有する緑地に高層ホテルが建築されそうになったときである。白金幼稚園の海園長からの依頼で行ったアドボケイト・プランニングである。当時、東京都職員研修所で環境アセスメント研修をしていた。そこで研修生全員を現地を視察してもらい、先生や父兄もいる幼稚園でひとりひとり自分なりの政策提言をしてもらった。その結果、私も思いも寄らぬ具体案がでてきた。

 この政策提言がきっかけとなり、東京都がホテル用地を起債、縁故債を発行し全面買収することになった。当時の金で数百億円にもなる。現在、東京都庭園美術館となっている緑地は、当時のアドボカシーの一つの成果でもある。緑地保全だけでなく、アールデコの歴史的建造物も一帯として保存された。

 その後も本業の環境総合研究所の仕事の合間に、信じられない程多くの環境アドボカシーを手がけた。その中には渋谷区にあったサッポロビール跡地に恵比寿ガーデンプレイスなる巨大再開発事業への7年に及ぶ継続的なかかわりや都市高速中央環状道路、圏央道はじめ道路事業、さらにこの10年は川崎公害訴訟、東京大気汚染公害訴訟などにも、本業の成果を生かして環境アドボカシーを行った。

 その結果、首都圏だけで環境アドボカシーが50カ所以上に及んだ。有名な所沢ダイオキシン事件や湾岸戦争時の現地環境調査、さらに諫早湾干拓事業水門解放時の潮流調査もその一部である。

 最初、米国でその存在を知った行政オンブズマン都市計画アドボカシーを、こうして私は日本社会でまがりなりに実践することができた。その背景には、志を同じくする友人の弁護士や池田こみちさんや鷹取敦さんなど研究所の同僚の存在がある。

 環境弁護士の皆さんに、環境オンブズマンと環境アドボカシーをぜひとも、日本社会に根付かせて頂きたいと心から祈願している。