Radiation Offers New Cures, and Ways to Do Harm
(8) からのつづきです。
2年前、ニューヨーク州は、全国学会に出席している医療物理学者に、コンピューター・プログラムの過信は医療事故につながる危険があると警告を発しました。
ニューヨーク州はジェロームーパークス氏の過量照射についてなんの処罰も下しませんでしたが、ニューヨーク市は罰金1,000ドルをセント・ビンセント病院に、1,500ドルをブルックリンの大学病院に科しました。
取り返しのつかないダメージ
ジェローム‐パークス氏は(彼のエピソードは(3)(4)(5)をご覧下さい)強力な鎮痛剤を過量照射の直後から必要としました。しかし最悪なのは痛みではありませんでした。
ほとんど眠ることも飲み込むこともできないのに加え、ひっきりなしのシャックリ、嘔吐、胃管チューブ、24時間持続の薬剤投与が行われました。これら全てに加え、深刻な放射線障害がもたらす真実について直面しなければなりませんでした。彼の放射線傷害を治療する方法はないのです。薬も手術も、何一つ有効な方法はないのです。
ジェローム‐パークス氏は事故後まもなく友人にe-メールでこう言っています。
「過量照射を受けた身体部位の細胞障害を治す方法はない。」
コンサルトを依頼された国立研究所の放射線専門家も手の施しようがありませんでした。
高圧酸素療法は少しは足しになるかもしれないが、どれだけ効くかはわからない、という程度でした。
「彼は、本当に多量の放射線に暴露された。その、過量の度合いという意味で、全く途方もない間違いだった。」とスローン‐ケタリング記念がんセンターの神経内科医であるジェローム・B・ポスナー先生は言っています。ポスナー先生は家族からのリクエストによりジェローム‐パークス氏を診察し、有効な治療は無いと伝えました。
これほどの傷害を受けたにもかかわらず、ジェローム‐パークス氏には悲痛感や怒りはありませんでした。
教会を通じての友人であるレオナードさんはこう言っています。「誰かを本当に知るということは、その人が苦難の中にいてどう過ごすのか、目の当たりに接してはじめてわかります。そして彼こそが私たち皆を支えている強さなのです。」
ジェローム‐パークス氏は自分の陥った状況のアイロニーをよく理解していました。コンピューターにかかわる問題を解決して生計を立てている者が、コンピューターの問題によってこのような状態に陥ったのです。
ジェローム‐パークス氏は、彼の放射線傷害を引き起こした医療チームを率いていた、癌専門医のバーソン先生と親しくなって行きました。
ジェローム‐パークス氏の父親であるジェームス・パークス氏は「彼とバーソン先生はとても現実的に、何が彼の身に起こるか話し合っていた」と言っています。
ジェローム‐パークス夫人は24時間体制で夫の介護にあたり、夫の回復を祈る祈りのグループを立ち上げました。
しかし病状は確実に進行して行きました。視力、聴力、歩行のバランスと次々に失われて行ったのです。
友人の一人ギリアノさんは、ジェローム‐パークス氏は、病状の進行は止められないことを悟り、自身の死に、何らかの意義を見出そうとしていたと言っています。
最終的にジェローム‐パークス夫妻は、「沈黙」と引き換えに和解補償を申し入れられ、それを受け入れました。
ジェローム‐パークス氏は彼の身に起きたことが今後繰り返されないことにより、他の人に役立つ事を願っていました。
ジェローム‐パークス氏が亡くなった2007年2月、彼の両親はガルフポートでハリケーン・カタリーナで破壊された家屋が再建されるのを待っている所でした。
後に両親はバーソン先生からの手書きの手紙を受け取りました。その中で
「私には、スコット(ジェローム‐パークス氏)ほど深く知り合った患者はいません。そして彼以上に深い絆を感じた患者もいません。スコットは紳士で最高の尊厳を持って病気に立ち向かって行きました。彼は自分の困難にもかかわらず、周囲を思いやる人間でした。」
とあり、手紙はこう締め括ってありました。
「私はスコットと約束しました。スコットの傷害を起こした医療過誤から学んだ全てを、国中に広め、もう誰もこのような傷害を受けないようにするよう働きます。ご両親にもお約束します。個人として、スコットが私に与えてくれたものを決して忘れません。」
バーソン先生はジェローム‐パークス氏の事件をきっかけに、診療活動から引退したと、事故後にジェローム‐パークス氏の診療に加わった神経内科医のジョッシュ・トルゴヴニック先生は言っています。一方病院側はそのような事実はなく、バーソン先生は病院で診療活動を続けているとしています。
バーソン先生自身も病院もプライバシーへの懸念からニューヨーク・タイムズのインタビューには応じられないと返答しています。
7月、ジェローム‐パークス氏の父親、パークス氏はこう言いました。
「息子は私たちに死に方を教えてくれた。息子は、落ち着いて静かに、そして思慮深く全てを整えてから逝った。ほとんどの人間はこうは行かない。だが息子はやり遂げた。しなければならないことは全部し終えて、それから去って逝ったんだ。」
パークス氏は、医療過誤についてのキャンペーンを公(おおやけ)に張ることを始めようと考えましたが、しかし、実際には決して行いませんでした。そこから得られるものは何も無いという結論に達したのです。
<この項終わり>