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虎馬:ガリレオ・ガリレイ - W 
ガリレオ・ガリレイ
(Galileo Galilei)
1636年の肖像画(Justus Sustermans 画)
人物情報
生誕ユリウス暦1564年2月15日
Bandiera del granducato di Toscana (1562-1737 ).png トスカーナ大公国 ピサ
死没グレゴリオ暦1642年1月8日
Bandiera del granducato di Toscana (1562-1737 ).png トスカーナ大公国 フィレンツェ郊外アルチェトリイタリア語版
出身校ピサ大学学芸学部(途中退校)
学問
研究分野天文学
物理学
哲学
研究機関ピサ大学
パドヴァ大学
主な業績天体観測望遠鏡を導入
地動説への言及
木星衛星の発見
金星の満ち欠け及び大きさの変化を発見
署名
プロジェクト:人物伝
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ガリレオ・ガリレイGalileo Galileiユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリア物理学者天文学者哲学者

パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレリラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。



名前

トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[1][注 1]

イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテレオナルドミケランジェロラファエロナポレオン(イタリア系フランス人)等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い。ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[2]

生涯

生い立ち

ガリレオは1564年に、ヴィンチェンツォ・ガリレイVincenzo Galilei )を父として、ジュリア・アンマンナーティ (Giulia Ammannati )を母として、トスカーナ大公国ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォは1520年フィレンツェ生まれの音楽家で呉服商も営んでいた人物で、母はペーシャ生まれで、二人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長子で長男のガリレオが生まれたのであった。この後、ガリレオには4人、2人が出来た。(なお弟のひとりミケランジェロ・ガリレイ英語版1575年 - 1631年)は父のように音楽で活躍し、リュート奏者、作曲家として名を残した。)

ヴィンチェンツォ音響学研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これが後に息子ガリレオが運動研究で採った数的な手法に影響を与えることになったと指摘されている。

学業と業績

1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチ英語版ユークリッドアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。

1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。

1605-1607年ころのガリレオ

1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。

1624年のデッサン

前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている[注 2]。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。

父の死と家族の扶養

1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのし掛かることになった[3][4]

結婚と子供

ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで(6歳ほど年下の)マリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年生まれ)と出会い、交際が始まり、当時パドヴァにあったガリレオの家で二人は一緒に暮らし始めた。二人は2女1男をもうけた。

ガリレオは敬虔なローマ・カトリック教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたからである[5]

愛娘のマリア・チェレステ
フィレンツェでのガリレオの家

信仰の篤いガリレオは、二人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei, 1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia, 1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ英語版聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年修道女になりマリア・チェレステ (Maria Celeste) と改名した(この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたものである。Celesteとは天のこと。)。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通がガリレオの死後彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年修道女になりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio, 1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ (Sestilia Bocchineri) と結婚した。

晩年

晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。ユストゥス・サステルマンスen)による肖像画。

当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦[注 3]に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい[6]、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった[6]。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。

フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあるガリレオの墓

だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。

年譜

  • 1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
  • 1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
  • 1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
  • 1586年 最初の論文『小天秤』を発表。
  • 1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
  • 1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。
  • 1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
  • 1592年
  • 1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
  • 1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
  • 1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)
  • 1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
  • (1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
  • 1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
  • 1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
  • 1610年
    • 木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
    • (ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)
    • ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
  • 1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
  • 1613年太陽黒点論』を刊行。
  • 1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
  • 1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。
  • 1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
  • 1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
  • 1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
  • 1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
  • 1632年
    • 『二大世界体系についての対話(Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』をフィレンツェで刊行。日本では『天文対話』という題で出版されている。
    • ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
  • 1633年
    • 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
    • シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
    • アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
  • 1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
  • 1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
  • 1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
  • 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
  • 1642年 アルチェトリにて没。

業績

天文学

ガリレオのものとされる望遠鏡(レプリカ、グリフィス天文台)
木星の衛星の初の発見を記した1610年の草稿。この成果は『星界の報告』に織り込まれてゆく。
星界の報告』(1610年)
ガリレオによるの満ち欠けの観測図(1616年)
Il Saggiatore贋金鑑識官』(1623年)。彗星が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。またこの書でガリレイは、自然という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。

ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[7]

これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこをと考えた[注 4])があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった[8]

また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。

金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返す上に、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球からつねに三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった・

さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった[9]

ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある[要出典]

なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている[10]

ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが[11]、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。

その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した[12]

物理学

Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊

ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている[13]。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。

ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[14]

この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い[注 5]。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。

実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである[14]。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。

アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている[15]

科学革命

ガリレオは、ニコラウス・コペルニクスヨハネス・ケプラーアイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。

読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベーウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。

有名な失敗

彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。

  • ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった[16]
  • 地動説の証拠として潮汐を挙げた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。

その他の主な業績

関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を

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地球上での極小型ブラックホール生成

以下のように地球上で極小型ブラックホール生成が生成された、あるいは生成される可能性があるとする論があるが、2013年現在ブラックホール生成が確認された客観的な報告はない。

  • 2008年運転開始の大型ハドロン衝突型加速器 (LHC) で、極小のビッグバン再現実験が予定されていたが、その過程で極小型ブラックホールが生成される可能性を懸念する声もあった[46]余剰次元理論に基づく計算によれば、LHCの衝突エネルギー (7TeV) で極小ブラックホールの生成が不可能ではないとされ、余剰次元理論の検証ができる可能性があると期待された。但し、これは理論中のパラメータが観測から許される限界ぎりぎりの値である場合の結果であり、より穏当なパラメータの場合は (たとえ理論が正しかったとしても) この程度のエネルギーではブラックホールの生成は起こらない。余剰次元モデルが正しくなければブラックホールは生成しないが、仮に生成した場合、ホーキング輻射によってブラックホールは直ちに蒸発すると考えられた。CERNは「宇宙線の中にはLHCよりもエネルギーが格段に高い陽子が存在し、大気の分子と衝突して様々な粒子を生み出している。もし本当にLHCでブラックホールが生成できるなら宇宙線によってもミニブラックホールが大気圏内で生成されているはずだ。にもかかわらず、地球はブラックホールに呑み込まれていない」とコメントした[47]
  • 2009年10月、大阪大学中国韓国で構成する国際共同研究チームが高出力レーザーを用いて、ブラックホールとされる天体の周辺で実際に観測されているデータとほぼ同じ光電離プラズマを実験室で発生させることに成功した。研究チームは「将来的にブラックホールそのものを生成できる可能性が高まった」としている[49]

参考文献

  • 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる (原題: Lonely Hearts of the Cosmos)』デニス・オーヴァバイ著 白揚社 (2000年) ISBN-10: 4826900961
  • 『宇宙300の大疑問』ステン・F・オデンワルド著 塩原通緒訳 加藤賢一監修 講談社ブルーバックス (2000年) ISBN-10: 4062572931
  • 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 林田陽子訳 日経BP社 (2009年) ISBN-10: 4822283658

脚注

注釈

  1. ^ この乱暴な態度が、その後40年間ブラックホールの研究が滞る結果を招く要因となる。また、このやりとりはチャンドラセカールのその後の人生にも暗い影を落とすことになった[10]
  2. ^ なお、カー解は、ブラックホール唯一性定理により、軸対称定常・真空かつ無限遠平坦という仮定のもとでのアインシュタイン方程式のただ一つの解であることが示されており、ブラックホール脱毛定理 (無毛定理) の描像とあわせて、物理的に形成されるブラックホールの最終段階と考えられている (出典: B. Carter, Phys. Rev. Lett. 26, 331 / 1971年)。1973年に京都大学冨松彰佐藤文隆が発見したトミマツ・サトウ解はカー解を歪めたもので裸の特異点が存在する。
  3. ^ ペンローズ本人は幾何学を専門としており、デニス・シアマにその才能を一般相対性理論の領域で活かすべきだと誘われている[17]
  4. ^ なお、ホイーラーはダラス会議から1年と経たない段階で、スティーヴン・ホーキングと出会っている[17]。ホーキングは後に、事実上ホイーラーの最良の教え子となり、ブラックホールの研究を最も確固たる形で受け継ぐことになった[17]。ホーキングは飲み込みの良い学生で、ペンローズの手法を全て吸収し[16]、逆向きの星の崩壊と考えることができる、開いた宇宙 (永久に膨張し続ける宇宙) に手法を応用した[16]

出典

  1. ^ デジタル大辞泉
  2. ^ a b c 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著、P.158
  3. ^ weblio
  4. ^ ブラックホール:相対性理論と宇宙物理学, http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=10527 
  5. ^ 『宇宙300の大疑問』ステン・F・オデンワルド著 P.191
  6. ^ a b c d e f g h i “『銀河宇宙オデッセイ』第3集 - 接近 ブラックホール”. NHKスペシャル. (1990年7月15日)
  7. ^ a b c 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.27-30
  8. ^ a b 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.43
  9. ^ a b c 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著
  10. ^ a b 『ブラックホールを見つけた男』アーサー・ミラー著 草思社 (2009年)
  11. ^ a b c d 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.152
  12. ^ J. R. Oppenheimer and H. Snyder, Phys. Rev. 56, 455 (1939)
  13. ^ a b c 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.153
  14. ^ 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.156
  15. ^ R. P. Kerr, Phys. Rev. Lett. 11, 237 (1963)
  16. ^ a b c d e f g h 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.161
  17. ^ a b c 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.160
  18. ^ 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.163
  19. ^ a b c 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.165
  20. ^ a b 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』デニス・オーヴァバイ著 P.166
  21. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.201-202
  22. ^ a b 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.8-9
  23. ^ “謎の天体 ブラックホールを解き明かせ!”. NHK サイエンスZERO. (2012年4月29日). http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp383.html 
  24. ^ D. Batcheldor, Astrophys. J. 711, L108 (2010)
  25. ^ 超巨大ブラックホールは何処に?噴出ガス源流の隠れ家を突き止める”. 2013年5月17日閲覧。
  26. ^ “全天X線監視装置(MAXI)と米国スウィフト衛星を用いた観測による成果論文の英科学誌「ネイチャー」への掲載について”. JAXA. (2011年8月25日). http://iss.jaxa.jp/kiboexp/equipment/ef/maxi/maxi_nature.html 2014年1月26日閲覧。 
  27. ^ a b 『ブラックホール ホワイトホール』ニュートン別冊
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  30. ^ 牧野淳一郎「大質量ブラックホールの形成過程 : 恒星系の熱力学的進化の観点から」、『日本物理学会誌』第57巻第5号、日本物理学会2002年1月21日、 331-336頁、 NAID 1100067884982015年1月8日閲覧。
  31. ^ KECK LASER CAPTURES NEW VIEW OF DISTANT COLLIDING GALAXIES
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  33. ^ “X-rays Signal Presence of Elusive Intermediate-Mass Black Hole”. NASA CHANDRA X-RAY OBSERVATORY. (2005年3月22日). http://chandra.harvard.edu/press/05_releases/press_032205.html 
  34. ^ a b 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.194-196
  35. ^ a b c d 『アインシュタインの宿題』福江純大和書房 ISBN-10: 4479390790 (2000年)
  36. ^ a b 都築卓司 『時間の不思議;タイムマシンからホーキングまで』 講談社1991年、125頁。ISBN 4-06-132872-5 
  37. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.210
  38. ^ a b 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.212-213
  39. ^ S. W. Hawking and J. M. Stewart, Nucl. Phys. B 400, 393 (1993)
  40. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.236
  41. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.217
  42. ^ ブラックホールの情報喪失問題と弦理論における一次相転移(科学研究費補助金データベース)
  43. ^ ブラックホールと情報のパラドックス (レオナルド・サスキンド) 日経サイエンス 1997年7月号
  44. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.500
  45. ^ 『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの戦い』レオナルド・サスキンド著 P.530-531
  46. ^ “加速器実験で地球消滅?元米政府職員ら差し止め提訴”. 西日本新聞. (2008年3月30日). オリジナル2008年4月2日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20080402122651/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/science/20080330/20080330_001.shtml 
  47. ^ ニュートン 2008年10月号
  48. ^ “Little Black Holes:Dark Matter And Ball Lightning”. Arxiv.org (Cornell University Library). (2002年12月11日). http://arxiv.org/abs/astro-ph/0212251 
  49. ^ “実験室で模擬ブラックホール=高出力レーザーで実現-大阪大”. 時事通信社. (2009年10月19日) 

関連書籍

  • 『ブラックホール 一般相対論と星の終末』佐藤文隆、Remo Ruffini著 ちくま学芸文庫 (筑摩書房) (2009年) ISBN-10: 4480092498
  • 『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』キップ・S・ソーン著 林一、塚原周信訳 白揚社 (1997年) ISBN-10: 4826900775
  • 『一般相対性理論入門 ブラックホール探査』エドウィン・テイラー、ジョン・ホイーラー著 牧野伸義訳 ピアソン・デュケーション (2004年) ISBN-10: 4894714272
    • (上記英語版)『Exploring Black Holes: Introduction to General Relativity』Edwin F. Taylor & John Archibald Wheeler Addison Wesley Longman (2000年) ISBN-10: 020138423X
  • Large Scale Structure of space time』Stephen W. Hawking, G. F. R. Ellis, P. V. Landshoff, D. R. Nelson, D. W. Sciama, S. Weinberg Cambridge University Press (1975年) ISBN-10: 0521099064

関連項目

外部リンク

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