資本主義終焉超恐慌

強欲増税日本倒産 ADVAIZARHINT 全手餓此世鬼拒絶仕様 十四星座 知救自善復興公害税同盟

悪魔正体

地球自然環境国害罰金税超∞$$DMPB回収同盟~国際税理府準備連携委員会~皇我内座~知救自善復興公害税同盟~世解平案トービン税連盟~国際PPP連合問題解決案~太平洋TPP連邦【思考】~極北開拓合衆国~極東防災防衛府体政~人間生活府【基本原案】~道州修心省陸海空護民保安官庁~自救自足互助組織~健幸予防府平等年金機能~住宅学園学級会~住民組合準備会~流浪難民人権会~特許友政府準備投票所~

親衛隊 (ナチス) - W【前半】

虎馬:親衛隊 (ナチス) - W 
親衛隊
Schutzstaffel
Flag Schutzstaffel.svg
ルーン文字で表記した「SS」
別名“黒地に銀の重ね稲妻”
SS Totenkopf.jpg
トーテンコップ(髑髏)
創設1925年
廃止1945年
所属政体ドイツの旗 ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツの旗 ナチス・ドイツ
所属組織Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党
部隊編制単位総軍
人員125万人(1945年2月)
所在地Muenchen Kleines Stadtwappen.svg ミュンヘン褐色の家
ベルリンプリンツ・アルブレヒト通り
通称号/略称SS
標語Meine Ehre heißt Treue
  (忠誠こそ我が名誉
上級単位SA-Logo.svg 突撃隊(1934年まで)
担当地域ヨーロッパ
主な戦歴第二次世界大戦
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親衛隊(しんえいたい、Schutzstaffel De-Schutzstaffel.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、略号:SS)は、ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者党の組織である。



概要[編集]

元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。1929年ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察ゲシュタポ刑事警察)、秩序警察親衛隊情報部強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊が出征してヨーロッパ各地で勇戦したが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所アインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。

隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。

歴史[編集]

前身[編集]

1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は反対政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった[1]

党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団としては1923年3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である[2][3][4]。この組織は1923年5月に「アドルフ・ヒトラー衝撃隊 (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された[4][5][注釈 1]。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり[6][5]、隊長は突撃隊員ユリウス・シュレック退役大尉ドイツ語版とナチ党財務担当ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉ドイツ語版の二人で務めていた[2][3]

ミュンヘン一揆の際、「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した[7]ウルリヒ・グラーフもヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である[4]。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちにニュルンベルク党大会で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「血染めの党旗ドイツ語版」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている[7]

ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた[7][8]

結成[編集]

1924年12月20日ランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った[9]

ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた[10][11][12][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[11]

初期の親衛隊にはこのような入隊条件があった。年齢は23歳から35歳まで、保証人が二人以上いて、五年以上同一の住居に居住している旨を警察に届けてあり、健康で頑強な体を持っていることである。また親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[12][13][14]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[7][14]

シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[14]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという[15]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[16]

1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[17][18]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[15][19][20]

1926年11月1日フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)の肩書を得た[18][19][21]

結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[22]1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[22][23][24]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[22][25]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[20][19]

勢力拡大[編集]

1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導者に任じられた[24][26][27][28][29][30][31]。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人[20][32]、1930年末には2700人[20][32]、1931年には1万5000人[33]、1932年4月には2万5000人[34]、1932年末には5万人以上になっていた[35][36]

これは1929年10月24日ニューヨークウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[37]。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[20][38]。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスドイツ語版が党指導部に対して反乱を起こした[39]

こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に突撃隊の下部組織であった)[40][41]

ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[42]。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の北方人種のことであった[43][44]

農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[45][42]

人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった[37]。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている[46]。ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった[16]

1930年7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた[47]。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった[34]

なおシュテンネスの反乱にはプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した[48]。1931年6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織はSDに改組された。SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった[49]。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった[50]。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた[51][52]

1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権がヒムラーに任せられた[53]。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった[34]。ヒムラーは親衛隊の模範としてイエズス会を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた[54]

政権掌握後[編集]

隊員数の増加[編集]

英外相に捧げ銃の敬礼をする親衛隊員(1935年3月24日ベルリン)

1933年1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握した。

日和見主義者達が保身から続々と入党していたため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが[29]1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた[55]。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった[56]

隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け[57]北方人種の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際シークレットブーツなどを履いた者もいたという。また、結婚も親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた[58]

旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった[35]。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた[59]

警察権力の掌握[編集]

1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日にハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された[60][61]。さらに4月にはヒムラーがバイエルン州警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった[61]

ベルリン。警察官(左)と一緒にパトロールする補助警察官の親衛隊員(1933年3月5日)

一方ベルリン親衛隊の指導者であるクルト・ダリューゲは、プロイセン州内相に就任したゲーリングと接近してプロイセン州警察特別委員に任じられ、さらにプロイセン州警察中将の階級を与えられていた。2月22日にはゲーリングは突撃隊員2万5000人と親衛隊員1万5000人をプロイセン州の補助警察として採用したが、その指揮はダリューゲに任せられていた[62][63]。ダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになった。1933年春にはハイドリヒがヒムラーからダリューゲ鎮撫のためにベルリンに派遣されたが、ゲシュタポ(プロイセン州秘密警察。当時はゲーリングが長官、ルドルフ・ディールスが局長をしていた)に脅迫されてミュンヘンに追い返されている[64]。ヒムラーとハイドリヒはひとまずプロイセン州やベルリンの「ゲーリング王国」に手を出すのを諦め、バイエルン州で反体制派取り締まりに精を出して実績を上げた。彼らは1933年3月にミュンヘン郊外のダッハウに最初の強制収容所ダッハウ強制収容所を創設している[65]

ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックは独立傾向のプロイセン州内相ゲーリングに対抗するための実力を求め、親衛隊に接近してきた[66]。1933年から1934年初めにかけて強制的同一化と併せて各州の政治警察がヒムラーに任せられていった[66]。しかしドイツの国土の大半を占めるプロイセン州の警察は相変わらず、ゲーリングやディールス、ダリューゲらによって支配され続けた。ヒムラーは、自分とゲーリング、ダリューゲなどの間をふらふらしていたプロイセン州やベルリンの親衛隊員達が自分に乗り換えるよう粘り強く揺さぶりをかけ、「ゲーリング王国」の足腰を弱体化させていった。さらにゲシュタポの指揮権を手に入れるため、ディールスについてヒンデンブルク大統領に讒言して一時ディールスをゲシュタポ局長から失脚させている[67]

ヘルマン・ゲーリングから「ゲシュタポ総監兼長官代理」に任じられたヒムラー(1934年4月20日)

突撃隊の指導者レームとも争うところが多かったゲーリングは親衛隊とこれ以上争うことは得策ではないと判断し、1934年4月20日、ディールスが務めるゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ総監兼長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」を新設し、ヒムラーをこれに任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ヒムラーは、ただちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、1934年4月22日に後任としてハイドリヒをゲシュタポ局長に任じ、彼にゲシュタポの実質的な運営をゆだねた[68][69]。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった。以降、ドイツの政治警察はほぼヒムラーとハイドリヒが掌握するところとなった。

一方突撃隊は政権獲得後に総隊員数400万人(うち武装兵士50万人)を抱え、「第二の国防軍」などと呼ばれるまでになっていたが、権力からは遠ざけられ、しかも深刻な隊員の失業問題を抱えていた。突撃隊員の中には「第二革命」を唱えて貴族階級が軍部を占める国防軍を解体して突撃隊を代わりの正規軍とすべきと主張する者も増え、軍と党の軋轢を強めていた。ヒトラーはいよいよ突撃隊の大掃除を考えるようになった。1934年6月30日、長いナイフの夜においてエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部や反党分子が数百名殺害された。この事件で主導的地位を果たしたのはプロイセン州内相ゲーリング、そしてヒムラーやハイドリヒなど親衛隊の幹部であった。この実績が認められ、1934年7月20日に親衛隊は突撃隊から分離、独立を果たした[70]。また、1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられた敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の監督権もすべて親衛隊に移された。ヒムラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケを強制収容所総監に任じた。アイケは1933年末にダッハウ強制収容所の監視部隊を親衛隊髑髏部隊として組織しており、長いナイフの夜事件の際にも粛清の実行部隊として活躍し、事件後には五個大隊に再編されて各強制収容所に警備部隊として配置されるようになった[71]

事件後、フリック内相はヒムラーやハイドリヒを警戒して、引き続きヒムラーから独立的な姿勢を見せていたダリューゲと接近し、彼を内務省警察局長に任命した。さらにヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えた[72]。しかしヒトラーのヒムラー達への信任はすでに盤石なものとなっており、フリックとダリューゲでは抗いきれず、1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官に任じることとなった。以降フリックの内相としての地位は形式的なものとなっていった。

ヒムラーと国家保安本部幹部たち。左からフランツ・フーバーゲシュタポ高官)、アルトゥール・ネーベクリポ局長)、ヒムラー(親衛隊全国指導者)、ハイドリヒ(国家保安本部長官)、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)(1939年11月、ミュンヘン

ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は秩序警察(オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は保安警察(ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメーソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人、過激派、黒色戦線ナチス左派オットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[69]

さらに1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者(Höhere SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた[73]

1939年9月、ハイドリヒは政治警察活動の重複を避けるために党機関であるSDと国家機関である保安警察を一つの傘の下に束ねた。それが親衛隊の国家保安本部である。SDは第III局(SD国内諜報)とVI局(SD国外諜報)に、秘密警察(ゲシュタポ)は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。III局はオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、IV局は「ゲシュタポ・ミュラー」と呼ばれたハインリヒ・ミュラー親衛隊中将、V局はアルトゥール・ネーベ親衛隊中将、VI局は30歳で親衛隊少将兼警察少将となったヴァルター・シェレンベルクが指揮した。第二次世界大戦後期には国防軍の諜報部であったはずのアプヴェーアが国家保安本部VI局に組み込まれ、ドイツの対外諜報活動はすべて国家保安本部が管轄するところとなった。

占領下のポーランドで家宅捜索に出動するSD隊員(1939年)

戦時中に国家保安本部はホロコーストの執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒがヴァンゼー会議を開催し、ラインハルト作戦を策定してベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線ではアインザッツグルッペンを組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行った。

1942年6月にエンスラポイド作戦でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハが長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からはエルンスト・カルテンブルンナーが後任に任じられて国家保安本部長官となった。

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという。

凶悪魔犯罪組織記録

表面敵現実経験問題⇒裏面敵真術諜報問題⇒超越敵理創問題
苛斂誅求特別公務員暴虐罪破防法適用天皇一属郎党虐殺計画

日本が危ない!カルト集団を根絶撲滅する会(集団ストーカーⅠ  

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なぜ警察官は犯罪を犯しても罪が軽くなるの?Ⅱ - NAVER まとめ 





日本征服計画⑦創価学会を悪魔教日本出張所として利用せよ【前半】 

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重要問題
311―これでも自然災害ですか?.mp4 
↓証拠隠滅=真犯忍邪疑惑星農工搾宗教悪販財
毎日起こる警察の犯罪 

2.62MILLION ZOMBIE COMPANY BANKRUPT【定期保存】

2.62MILLION ZOMBIE COMPANY BANKRUPT 

巨大地震革命災害予測2012後半記録  

6.26MILLION SHOT UP SHOP 無残念なお知らせ新定義必要~十四構成:国際PPP連合問題解決案 地球自然環境国害罰金税超∞$$DMPB回収同盟~国際税理府準備連携委員会~皇我内座~知救自善復興公害税同盟~世解平案トービン税連盟~国際PPP連合問題解決案~太平洋TPP連邦【思考】~極北開拓合衆国~極東防災防衛府体政~人間生活府【基本原案】~道州修心省陸海空護民保安官庁~自救自足互助組織~健幸予防府平等年金機能~住宅学園学級会~住民組合準備会~流浪難民人権会~特許友政府準備投票所~

シーベルト - G(重大保存)

虎馬:https://www.google.co.jp/search?biw=1920&bih=960&noj=1&site=webhp&source=hp&q=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88&oq=%E3%81%97%E3%83%BC%E3%81%B9%E3%82%8B%E3%81%A8&gs_l=hp.1.0.0i4l10.1916.4758.0.6860.9.9.0.0.0.0.89.692.9.9.0.msedr...0...1c.1j4.64.hp..0.9.690.0IWcUSqqV-Q

十二天 - W(保存)

虎馬:十二天 - W 

十二天(じゅうにてん)は、仏教護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である。密教では四天王とともに重視されている。十二天のうち、特に八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る諸尊を八方天あるいは護世八方天といい、更に天地を護る諸尊を加えて十天ともいう[1]
目次1 起源


起源

仏教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものである。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天としたものである[1]

一覧

漢名読み梵名読み種子方角
帝釈天たいしゃくてんIndraインドラ
火天かてんAgniアグニ東南
焔摩天えんまてんYamaヤマエン
羅刹天らせつてんRākṣasa / Nirṛtiラークシャサ / ニルリティニリ西南
水天すいてんVaruṇaヴァルナ西
風天ふうてんVāyuヴァーユバー西北
毘沙門天びしゃもんてんVaiśravaṇaヴァイシュラヴァナバイ
伊舎那天いざなてんĪśānaイシャーナ東北
梵天ぼんてんBrahmāブラフマーボラ
地天じてんpṛthivīプリティヴィービリ
日天にってんSūrya / Ādityaスーリヤ / アーディティヤ
月天がってんCandraチャンドラシャ

四方を司る四天のうち、四天王との一致は北の毘沙門天(四天王としては多聞天)のみである。

日天スーリヤと月天チャンドラは、天体を司る九曜にも現れる。

日本における作例

水天像(部分)京都国立博物館蔵(東寺旧蔵) 1127年
十二天像火天図(江戸時代、英一蝶・画)

日本では平安初期の9世紀から作例がある。

十二天は、方角を護る「護方神」としての性格が強い。遺品は彫像よりも圧倒的に画像が多く、仏教の重要な修法や儀式の行われる道場の守護神として、掛軸あるいは屏風に描かれたものが用いられた。

京都国立博物館蔵(東寺旧蔵)の十二天画像(平安後期、大治2年, 1127年、国宝)は、十二天それぞれを掛軸に描いたもので、王朝風の繊細優雅な仏画の代表作である。これは後七日御修法(ごしちにちのみしほ、宮中の真言院で正月に天皇の健康を祈って行われた修法)に用いられたものである。

奈良・西大寺の十二天画像(平安初期、国宝)は、9世紀に描かれた日本最古の十二天像で、京都国立博物館本の各尊が敷物の上に座す形で表されているのに対し、西大寺本の各尊は、それぞれ水牛、亀などの鳥獣座に乗っている。

十二天各尊を立像として六曲屏風一双に表した遺品は数多く残っており、これらは密教の重要な儀式である伝法灌頂の道場などを守護する目的で使用された。十二天屏風としては、東寺蔵の鎌倉時代のものがよく知られる。

また、十二天は曼荼羅を構成する諸仏の一員としても登場する。両界曼荼羅のうち、胎蔵曼荼羅の最外院(外金剛部院)の諸尊中には十二天像が見られる。また、四臂不動明王像の周囲に十二天を配した十二天曼荼羅は国家安穏を祈念する安鎮法において使用される。

彫像の十二天像として稀有の遺例である愛知県蒲郡市無量寺の木像は、立体曼荼羅の一部として造像されたものと見られる。

このほか、京都国立博物館には東寺旧蔵の十二天面(平安後期、重要文化財)がある。平安時代の伝法灌頂の儀式の際には「十二天行道」として十二天の面をかぶり、装束を着けた人間が登場したが、中世以降は十二天屏風にとって代わられた。

画像

京都国立博物館本十二天像(平安時代後期、国宝、東寺旧蔵)(※諸般の事情により、帝釈天像のみ画像欠。)

十二天をテーマにした作品

仏像・仏画以外では以下のような作がある。

出典

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  1. ^ a b 児玉義隆『印と梵字ご利益・功徳事典』学研パブリッシングpp256、2009、ISBN 9784054041875

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