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大前研一 - W(保存)

大前研一オフィシャルウェブ[OHMAE&ASSOCIATES GROUP] 
虎馬:大前研一 - W 
大前 研一(おおまえ けんいち、1943年2月21日 - )は、日本の経営コンサルタント、起業家。「ボーダレス経済学と地域国家論」提唱者[1]。
元カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院公共政策学部総長教授[1]。韓國梨花女子大学国際大学院名誉教授[1]。高麗大学名誉客員教授[1]。(株)大前・アンド・アソシエーツ創業者兼取締役[1]。(株)ビジネス・ブレークスルー代表取締役社長[1]。ビジネス・ブレークスルー大学学長[1]。
目次 1 略歴 2 主張 3 人物 4 家族・親族 4.1 大前家 5 著書 5.1 共著
5.2 翻訳 6 脚注 7 関連項目 8 外部リンク
略歴
福岡県若松市(現北九州市若松区)出身。父・忠男は長崎県対馬の漁師の家に生まれた三男で、博多の百貨店に勤めていた時に陸軍に召集された陸軍大尉[2]。
第二次世界大戦中は山口県富田に疎開し、大阪府の親類の家に身を寄せた。1951年母の出身地である神奈川県横浜市神奈川区反町に移り住んだ。
神奈川県立横浜翠嵐高等学校を経て、早稲田大学理工学部卒業[1]。東京工業大学大学院原子核工学科で修士号を取得[1]。1970年マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科で博士号を取得[1]。日立製作所へ入社(原子力開発部技師)[1]。
1972年経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー入社[1]。この頃書きためたノートを「企業参謀」のタイトルで1975年に出版[1]。マッキンゼー・アンド・カンパニーではディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を務めた[1]。1987年の「「見えない税金」に怒れ」で第49回文藝春秋読者賞受賞。
1992年11月、新自由主義を標榜する市民団体・平成維新の会を設立し、同会代表に就任。翌1993年、文藝春秋3月号で「新・薩長連合結成宣言」を発表。知事連盟構想を掲げて1995年東京都知事選挙に立候補したが青島幸男に敗れ落選する。同月の北海道知事選挙では、大前の構想に呼応した友人の三浦雄一郎が出馬したが落選した。1994年マッキンゼー・アンド・カンパニーを退職[1]。
第17回参議院議員通常選挙に比例区から、平成維新の会公認で大前、三浦を含め10人が出馬したが、10人全員が落選した。この選挙の際、ユダヤの手先説を始め、フリーメイソン、統一教会、勝共連合、半島出身説等、数々の誹謗中傷が流布された[3]。統一教会説は、当時衆議院議員だった石原慎太郎が自由民主党の総務会で発言したものだが、大前が石原を問い詰めたところ、石原は「いや、そういう噂があるから調べとけ、と言っただけだ。自分がそう思っているわけではない。自分も最初のときは世話になったこともある」と答えたという[4]。
平成維新の会は参院選惨敗後に事実上解散したが、その後、一新塾を主宰(2003年1月より特定非営利活動法人化)。さらに教育関連事業会社ビジネス・ブレークスルーを設立。2004年には構造改革特区制度により、株式会社運営による大学院大学・ビジネス・ブレークスルー大学院大学を開校し学長に就任。自ら教授として講義と学生指導を担当している。ビジネス・ブレークスルーは2005年12月に東京証券取引所マザーズ上場。アジアのドラッカーとも呼ばれる。
スタンフォード大学ビジネススクール客員教授、梨花女子大学国際大学院名誉教授、高麗大学名誉客員教授も務める一方、中国遼寧省、重慶市および天津市の経済顧問など、世界の大企業やアジア・太平洋における国家レベルの経営コンサルタントとしても活躍した。[5]
2011年10月28日、民間プロジェクトチーム TeamH2Oの総括責任者として、報告書「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」をまとめ、細野豪志環境大臣兼原子力発電所事故収束・再発防止担当大臣に提出した。
2012年9月11日、東京電力株式会社の取締役会の諮問機関として新設された「原子力改革監視委員会」の委員に就任した。
主張
移民政策を行うべきだと主張し[6]、1990年代前半より「グリーンカード制」導入を提案している[7]。母国の学校を優秀な成績で卒業した人や、きちんとした資格を持つ人を積極的に受け入れ、2年間無料で日本語、日本の社会習慣、法律を教育し、成績優秀者には永住と勤労を保証するというものである[7]。
道州制の導入を主張している[8]。市町村合併の延長ではなく、世界中に余っているお金を呼び込む単位、産業基盤を確立する単位として道州制が必要だと説いている[8]。
18才成人制の導入に肯定的な立場である[9]。例えば、「18歳以上を対象とするのは国民投票に限られるが、普通の選挙は20歳から」と言われれば、矛盾があると感じるのは当たり前。そうではなく、18歳で成人と定義し、自動車免許、飲酒、タバコなどを許可し、全ての選挙権を与えるとするべきと主張している[9]。
2008年、日本経済新聞上にて『これからは韓流。日本は韓国を見習え』と韓国経済を評価する主張をしていたが、6年後の2014年には『サムスン電子と心中か? 韓国経済の暗雲』という表題でPRESIDENT紙上にて「サムスン電子がコケたら皆コケた」という韓国経済の脆弱性を批判している[10]。
北方領土は旧ソ連の“正式な戦利品”であり、「北方領土は日本固有の領土」という日本側の主張は史実を曲げていると主張している[11]。
医療費抑制策として、救急車の有料化を主張している[12]。
地方議員はすべて無給のボランティアにすべきだと主張している[13]。
航空機が東京都心上空を通過するルートをとる、都心の飛行拡大案については、騒音などの問題をきちんと議論するという条件付きで、基本的賛成の立場をとっている[14]。
人物
Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年4月)
趣味はスキューバダイビング、スキー、オフロードバイク、スノーモービル、クラリネット[1]。
高校時代は不登校であまり学校へ通わなかったが吹奏楽部に入部していた。東京藝術大学への進学を希望していたが、親の反対を受け、音楽家への道を断念した。
「社長と社員の給料の差は、1000対1でいい」と発言している。
消費税に代わる付加価値税の導入を提唱している(付加価値税はイギリスにおける消費税であり、本質的には同じもの)。
大阪維新の会の橋下徹の個人的な助言などをしている。橋下徹が推進する発送電分離や道州制は大前研一の案である。また、大阪維新の会の命名は、橋下徹が大前の許可をもらって平成維新の会より名付けたものである。
家族・親族
大前家
父・忠男(元百貨店従業員、元陸軍大尉)
明治43年生まれ[2]。長崎県対馬の漁師の三男として育つ[2]。漁師を継いだ父の長兄は船の転覆で亡くなった[2]。父・忠男は大倉高商(現東京経済大学)で経理を学んだ[2]。そして博多の百貨店に勤めていた時に陸軍に召集され、ノモンハンに行った[2]。大前によれば「親父がホワイトカラーながら陸軍大尉まで進んだのは、田舎育ちで身体が頑丈な上、漁師の経験がものを言って、ナイフの扱いから縄結びまで器用にこなし、サバイバル能力が高かったせいもあるだろう」という[2]。母[2]
姉[2]
昭和16年生まれ[2]。妻・ジャネット[1] オーボエ奏者・日本伝統楽器奏者。- 大前がマサチューセッツ工科大学留学中にオーケストラを通じて知り合った。
長男・創希(実業家・クリエイティブホープ社長)
次男・広樹(実業家・KH20社長)
著書
『悪魔のサイクル 日本人の"よりかかり"的ものの見方・考え方』明文社 1973 のち新潮文庫 
『企業参謀 戦略的思考とはなにか』ダイヤモンドータイム社 1975 のち講談社文庫 
『続・企業参謀 戦略的経営計画の実際』ダイヤモンドータイム社 1977 のち講談社文庫 
『マッキンゼー現代の経営戦略』編著 プレジデント社 1979
『加算混合の発想 硬直思考からどう脱するか』プレジデント社 1980
『マッキンゼー成熟期の成長戦略』編著 プレジデント社 1981
『ストラテジックマインド 変革期の企業戦略論』田口統吾,湯沢章伍訳 プレジデント社 1984 のち新潮文庫
『トライアド・パワー 三大戦略地域を制す』講談社 1985 のち文庫 
『大前研一の新・国富論』(講談社 1986)のち文庫 
『世界が見える/日本が見える』講談社 1986 のち文庫 
『大前研一の日本企業生き残り戦略』プレジデント社 1987 のち新潮文庫 
『日本経済に斬りこむ』文芸春秋 1987
『遊び心』学習研究社 1988 のち新潮文庫 
『地球時代の新視点』プレジデント社 1989 のち新潮文庫 
『平成維新』講談社 1989 のち文庫 
『ボーダレス・ワールド 日本語版』田口統吾訳 プレジデント社 1990 のち新潮文庫 
『生活者革命 国家主義の終焉』日本放送出版協会 1991 のち新潮文庫 
『世界の見方・考え方 The Japanism』講談社 1991 のち文庫 
『平成維新 part 2』講談社 1992 のち文庫 
『マッキンゼーボーダレス時代の経営戦略』編著 プレジデント社 1992
『新・大前研一レポート』講談社 1993
『理想の国 内向き、下向き、後ろ向き政治への訣別』ジャパンタイムズ 1993
『異端者の時代 現代経営考』マネジメント社 1994
『平成官僚論』小学館 1994
『インターネット革命』プレジデント社 1995
『大前研一敗戦記』文芸春秋 1995
『「金融」危機からの再生 日本的システムは対応できるか』プレジデント社 1995
『生活者たちの反乱 平成立法講座』小学館 1995
『地域国家論 新しい繁栄を求めて』山岡洋一,仁平和夫訳 講談社 1995
『柔らかい発想 この人たちから学んだこと』イースト・プレス 1995 のちPHP文庫 
『アジア連邦の世紀 日本がアジアで成功する10の法則』小学館 1996
『親が反対しても、子どもはやる 新・家族論』ジャパンタイムズ 1996 のちPHP文庫 
『さあ、やりなおそう!』小学館 1996
『税金って何だろう 哲学のない税制が日本をダメにする』ダイヤモンド社 1996
『「知」のネットワーク 時代を動かす力』イースト・プレス 1996 のちPHP文庫 
『「国家」の限界が見えてきた。 インターネット社会の「国家」と「個人」』一新塾共編 ダイヤモンド社 1997
『時代の交代世代の交代』PHP研究所 1997
『デジタル革命とニュービジネス』アタッカーズ・ビジネススクール共編著 プレジデント社 1997
『もう騙されないぞ! 本当の問題の読み方』青春出版社 1997
『大前研一のガラガラポン』テレビ東京制作スタッフ共著 フォレスト出版 1998
『変わる世界変われ日本! これが経済再浮上の条件だ』PHP研究所 1998
『日本再建へのシナリオ グローバル・スタンダードへの大転換』一新塾共編 ダイヤモンド社 1998
『21世紀維新 栄える国と人のかたち』文春新書 1999
『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』一新塾共編 ダイヤモンド社 1999
『大前研一のアタッカーズ・ビジネススクール 起業家スキルと事業アイデア養成講座 pt.3』プレジデント社 1999
『サラリーマン・サバイバル』小学館 1999 のち文庫
『「一人勝ち」の経済学 選択をやめた日本人』光文社 1999
『Re-Boot! ゼロからの出発 日本のエスタブリッシュメントはなぜ崩壊したか』大前・アンド・アソシエーツ共著 PHP研究所 2000
『サラリーマン・リカバリー』小学館 2000
『ドットコム・ショック 新旧交代の経済学』小学館 2000
『eブレークスルー』テレビ東京「大前研一のガラポン2001!!」共著 ダイヤモンド社 2001
『大前研一「新・資本論」 見えない経済大陸へ挑む』吉良直人訳 東洋経済新報社 2001
『やりたいことは全部やれ!』講談社 2001 のち文庫 
『サラリーマンIT道場』小学館 2002
『新・ビジネス思考 ボンド大学・BBT MBAプログラム』編著 PHP研究所 実践!MBAトレーニング 2002
『チャイナ・インパクト』講談社 2002
『中華連邦 台湾から明日の中国が見える』PHP研究所 2002
『中国シフト』小学館 2002
『なぜあなたはやらないのか 異端起業家になる』小学館文庫 2002
『ビジネス・ウエポン 生き残りたいサラリーマンのための発想術』小学館 2002
『大前研一のアントレプレナー育成講座 アタッカーズ・ビジネススクール』ほか編著 プレジデント社 2003
『質問する力』文藝春秋 2003 のち文庫 
『ドットコム仕事術』小学館 2003 のち文庫 
『50代からの選択 ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか』集英社 2004 のち文庫 
『考える技術』講談社 2004 のち文庫 
『日本の真実』小学館 2004
『遊ぶ奴ほどよくデキる!』小学館 2005 のち文庫 
『ザ・プロフェッショナル 21世紀をいかに生き抜くか』ダイヤモンド社 2005
『東欧チャンス pathfinder 5』小学館 2005
『ニュービジネス活眼塾 アタッカーズ・ビジネススクール講義録』プレジデント社 2005
『私はこうして発想する』文藝春秋 2005 のち文庫 
『新・経済原論 世界経済は新しい舞台へ』吉良直人訳 東洋経済新報社 2006
『即戦力の磨き方 下剋上の時代を生き抜く』PHPビジネス新書 2006
『旅の極意、人生の極意』講談社 2006
『「ベンチャー起業」実戦教本 決定版!』アタッカーズ・ビジネススクール共編著 プレジデント社 2006
『ロウアーミドルの衝撃』講談社 2006
『大前研一戦略論 戦略コンセプトの原点』吉良直人訳 ダイヤモンド社 2007
『大前流心理経済学 貯めるな使え!』講談社 2007
『ビジネス力の磨き方 大チャンス到来!』PHPビジネス新書 2007
『マネーハザード金言集 お金と人生の本質 大前研一通信・特別保存版』ビジネス・ブレークスルー出版 2007
『サラリーマン「再起動」マニュアル』小学館 2008
『社会を生き抜くための知的武装金言集 ビジネス・サバイバル 大前研一通信・特別保存版 part.2』ビジネス・ブレークスルー出版 2008
『ロシア・ショック』講談社 2008
『大前の頭脳 「産業突然死」時代を生き抜く知恵』日経BP社 2009
『最強国家ニッポンの設計図 ザ・ブレイン・ジャパン建白』小学館 2009
『さらばアメリカ』小学館 2009
『衝撃! EUパワー 世界最大「超国家」の誕生』朝日新聞出版 2009 
『「知の衰退」からいかに脱出するか? そうだ!僕はユニークな生き方をしよう!!』光文社 2009 のち知恵の森文庫 
『パスファインダー 道なき道を切り拓く先駆者たれ!! 大前研一通信・特別保存版 part.3』ビジネス・ブレークスルー出版 2009
『マネー力 資産運用力を磨くのはいまがチャンス!』PHPビジネス新書 2009
『大前研一の新しい資本主義の論点 「ニュー・ノーマル」という秩序の登場』編著 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部訳 ダイヤモンド社 2010
『慧眼 問題を解決する思考 大前研一通信・特別保存版 part.4』ビジネス・ブレークスルー出版 2010
『民の見えざる手 デフレ不況時代の新・国富論』小学館 2010 のち文庫 
『大前研一洞察力の原点 プロフェッショナルに贈る言葉』日経BP社 2011
『お金の流れが変わった! 新興国が動かす世界経済の新ルール』PHP新書 2011
『警告 目覚めよ!日本 大前研一通信・特別保存版 part.5』ビジネス・ブレークスルー出版 2011
『訣別 大前研一の新・国家戦略論』朝日新聞出版 2011
『日本復興計画』文藝春秋 2011
『「リーダーの条件」が変わった 「危機の時代」を乗り越える新しい統率力』小学館101新書 2011
『大前家の子育て 「一生食べていける力」がつく』PHP文庫 2012
『原発再稼働最後の条件 「福島第一」事故検証プロジェクト最終報告書』小学館 2012
『進化する教育 あなたの脳力は進化する!』ビジネス・ブレークスルー出版 2012
『稼ぐ力 「仕事がなくなる」時代の新しい働き方』小学館 2013
『クオリティ国家という戦略 これが日本の生きる道』小学館 2013
『挑戦 新たなる繁栄を切り開け!』ビジネス・ブレークスルー出版 2013
『日本の論点』プレジデント社 2013
共著
『マッキンゼー成熟期の差別化戦略』若松茂美共編著 プレジデント社 1982
『日本電気の総合研究 日本のエクセレント・カンパニー』他著 プレジデント社 1984
『マッキンゼー:変革期の体質転換戦略』千種忠昭共編著(プレジデント社 1985)
『証券・金融市場改革 利用者の立場に立った 東京市場が世界の仲間入りをするために』丸山嘉浩共著 プレジデント社 1991
『激論日本大改造案 いま、平成維新のときだ』田原総一朗共著 徳間書店 1992
『アジア人と日本人 マハティールマレーシア首相との対話』小学館 1994
『うろたえるな、日本 アジアから見た日米関係』ビル・トッテン共著 徳間書店 1994
『アジア合州国の誕生 世界経済に地殻変動を起こす新しい力学』織山和久共著 ダイヤモンド社 1995
『熱論合州国家・日本 :21世紀の国のかたち繁栄のかたち』平松守彦,江口克彦共著 PHP研究所 1998
『感動経営学 ヴィーナスフォート誕生秘話』宮本雅史共著 小学館 1999
『「勝ち組」の構想力 21世紀、われわれはいかに富を創出するか』田原総一朗共著 PHP研究所 2001
『実戦!問題解決法』齋藤顯一共著 小学館 2003 のち文庫 
『「茹で蛙」国家日本の末路 日本が元気になる最後の一手』田原総一朗共著 ビジネス社 2003
『時間とムダの科学 仕事の半分は「見せかけ」! なぜか結果が出る人の24時間』ほか著 プレジデント社 2005
『グローバルリーダーの条件 次はあなたの番だ!』船川淳志共著 PHP研究所 2009
『この国を出よ』柳井正共著 小学館 2010 のち文庫 
『大前研一と考える「営業」学 営業こそプロフェッショナルを目指せ』編著 斎藤顕一,須藤実和,川上真史,後正武共著 ダイヤモンド社 2011
翻訳
T.R.ブレークスリー『右脳革命 創造力活性化の決め手』訳編 プレジデント社 1981 のち新潮文庫 
T.J.ピーターズ, R.H.ウォータマン『エクセレント・カンパニー 超優良企業の条件』講談社 1983 のち文庫 
ハーベイ・ブライトマン『戦略思考学 創造的問題解決の手法』監訳 プレジデント社 1983
T.J.ピーターズ, N.K.オースティン『エクセレント・リーダー 超優良企業への情熱』講談社 1985 のち文庫
D.K.クリフォード, R.E.キャバナー『ウイニング・パフォーマンス 勝利企業の条件』プレジデント社 1986
リチャード・フォスター『イノベーション 限界突破の経営戦略』ティビーエス・ブリタニカ 1987
アナリー・サクセニアン『現代の二都物語 なぜシリコンバレーは復活し、ボストン・ルート128は沈んだか』講談社 1995
アール・ウッズ、ピート・マクダニエル『タイガー・ウッズ父子のゴルフ&教育革命』監訳 小学館 1997
トーマス・R.ブレークスリー『あなたの右脳が全開する!』訳編 三笠書房 2003
ダニエル・ピンク『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房 2006
ダニエル・ピンク『モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか』講談社 2010
脚注
1.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 大前研一オフィシャルウェブ(プロフィール)
2.^ a b c d e f g h i j 『文藝春秋』(2007・9、272頁)
3.^ 『「ユダヤの手先」「国賊」大前研一を斬る』太田龍 (1993/06)
4.^ 『大前研一敗戦記』11頁(文藝春秋)
5.^ 『お金の流れが変わった! : 新興国を動かす世界経済の新ルール』(PHP新書) 大前研一(第一刷2011年01月)
6.^ “長期衰退を止めるには移民政策しかない”. PRESIDENT. (2013年9月19日) 2014年5月18日閲覧。
7.^ a b “【大前研一のニュース時評】人口減少問題 働き手不足解消する「グリーンカード制」”. 夕刊フジ. (2015年5月18日) 2014年5月18日閲覧。
8.^ a b “道州制に移行しなくてはいけない真の理由”. 日経BP. (2006年11月8日) 2014年5月26日閲覧。
9.^ a b 大前研一公式サイト -大前研一「ニュースの視点」
10.^ PRESIDENT2014年3月31日号
11.^ “北方四島は日本の領土」という外務省のペテン”. PRESIDENT. (2013年7月30日) 2014年5月18日閲覧。
12.^ “国民医療費が過去最大の伸び、病院の入場制限を”. PRESIDENT. (2012年6月20日) 2014年5月31日閲覧。
13.^ 週刊ポスト2014年8月8日号}
14.^ “都心の飛行拡大案には賛成 騒音の影響など実験し議論を”. 夕刊フジ. (2014年8月17日) 2014年8月20日閲覧。
関連項目
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ジャンヌ・ダルク - W(保存)【前半】

虎馬:ジャンヌ・ダルク - W 
曖昧さ回避 この項目では、15世紀のフランス王国の軍人について説明しています。その他の用法については「ジャンヌ・ダルク (曖昧さ回避)」をご覧ください。
1485年頃に描かれたミニアチュール。ジャンヌを直接のモデルとして描いた肖像画は現存しておらず、このミニアチュールもジャンヌの死後に想像で描かれた作品である (Centre Historique des Archives Nationales, Paris, AE II 2490)
他言語表記
仏: Jeanne d'Arc
生誕
1412年頃1月6日[1]
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国、ドンレミ[2]
死没
1431年5月30日(満19歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国(占領下)、ルーアン
列福日
1909年4月18日
列福場所
フランスの旗 フランス共和国 ノートルダム大聖堂 (パリ)
列福決定者
ピウス10世
列聖日
1920年5月16日
列聖場所
バチカンの旗 バチカン サン・ピエトロ大聖堂
列聖決定者
ベネディクトゥス15世
記念日
5月30日
守護対象
フランスの旗 フランス、殉教者、捕虜、軍人、女性従軍者など
ジャンヌ・ダルクの紋章
ジャンヌ・ダルク(フランス語: Jeanne d'Arc、過去:Jehanne Darc[3]、IPA: [ʒan daʁk]、ユリウス暦 1412年頃1月6日[4] - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orleans[5]/英: The Maid of Orleans[6])とも呼ばれる。
ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、後のフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端[7]」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた[8]。
ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われ、その結果ジャンヌの無実と殉教が宣言された[8]。その後ジャンヌは、1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている[9]。
ジャンヌは、王太子シャルル7世を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じたシャルル7世は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任に当たらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか九日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回したシャルル7世はランスでフランス王位に就くことができた。
フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。
目次 [非表示]
1 背景
2 ジャンヌの生涯 2.1 歴史への登場
2.2 ジャンヌの軍事指揮能力
2.3 捕縛
2.4 異端審問
2.5 処刑
3 ジャンヌの死後 3.1 復権裁判
4 列聖
5 後世への影響と評価
6 幻視と神からの声
7 偽造されたジャンヌの遺骨
8 関連作品 8.1 小説
8.2 音楽
8.3 戯曲
8.4 映画
8.5 テレビドラマ
8.6 絵本
8.7 漫画
8.8 ゲーム
8.9 関連図書

9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
背景
歴史家ケリー・デヴリーズ (en:Kelly DeVries) は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた[10]。また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している[11]。
ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており[12]、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にルイがジャン1世の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった[13]。
オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャン1世を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る[14]。そして後にフランス王位に就くシャルル7世は、兄4人が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた[15]。シャルル7世が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュ公国との間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながらシャルル7世が安全を保証した会合の席で、ブルゴーニュ公ジャン1世はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。父ジャン1世の後を継いでブルゴーニュ公となったフィリップ3世はシャルル7世を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった[16]。
1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去した後のフランス王位を王太子シャルル7世ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。この条約の締結は、シャルル7世がフランス王シャルル6世の子供ではなく、王妃イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子供であるという噂を再燃させることになった[17]。ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世もその二カ月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ一歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った[18]。
1429年の初めごろにはフランス北部のほぼ全てと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュ公国はフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである[19]。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だと見なされていた[20]。
ジャンヌの生涯
ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。
ジャンヌはジャック・ダルク (en:Jacques d'Arc) とイザベル・ロメ (en:Isabelle Romee) の娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年 - 1468年)と結婚したのは1405年のことで、二人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子供が生まれている[21]。ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領は後にロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン (la Pucelle d'Orleans))」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている[22]。ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた[23]。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度が襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。
後にジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで当時12歳だったと証言している。このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、三名が消えた後にジャンヌは泣き崩れたと語っている[24]。
ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォークルール (en:Vaucouleurs) へと赴き、当地の守備隊隊長だったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった[25]。翌年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス (en:Jean de Metz) とベルトラン・ド・プーランジ (en:Bertrand de Poulengy) という二人の貴族の知己を得た[26]。この二人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦い (en:Battle of the Herrings) でフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した[27]。
歴史への登場
1415年-1429年
イングランド王ヘンリー6世の支配下
ブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下
フランス王太子シャルル7世の支配下
主戦場
1415年のイングランド軍侵攻路
ドンレミからシノンに至るジャンヌの進路
1429年のランスに至るジャンヌの進路
「:en:Siege of Orleans」も参照
ロベール・ド・ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった[28]。シノンの王宮に到着して間もないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。当時シャルル7世の妃マリーの母でアンジュー公妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について歴史家スティーヴン・リッチーは、崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろうとしている。
度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。王太子シャルルがジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたなどという無学な農夫の娘の訴えに耳を傾けるのだ。
— Stephen W. Richey 、"Joan of Arc: A Military Appreciation" [29]
神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた[30]。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。ジャンヌを異端と見なす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議に当たった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」した[30]。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した[31]。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことはオルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。
イングランド軍が包囲していたオルレアン (en:siege of Orleans) にジャンヌが到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初のド・デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった[32]。しかしながら、このようなド・デュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。
ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加して兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている[33]。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、後の異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている[28]。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している[34]。
ジャンヌの軍事指揮能力
「... ここにいる乙女が八日間でロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士は戦死あるいは捕虜となり、戦いの意思を失っています。サフォーク伯、ラ・ポール卿兄弟、タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランドの貴顕や指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」
-- ジャンヌが1429年6月25日にトゥルネー市民に送った書簡。Quicherat V, pp. 125–126.
ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、さらにこの作戦は大失敗に終わっていた。ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていたサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはド・デュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。ド・デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した[35]。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにも関わらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった[36]。
オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディ攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後に、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ二倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった[37]。
イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョー、6月15日にマン=シュール=ロワール、6月17日にボージャンシーと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるド・デュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた[38]。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。6月18日にジョン・ファストロフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。パテーの戦いでは、フランス軍前衛がイングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストロフは僅かな護衛とともに戦場を離脱したが、後にこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった[39]。
「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします」
-- ジャンヌが1429年7月17日にブルゴーニュ公フィリップ3世に宛てた書簡。Quicherat V, pp. 126–127.
フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件付降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した[40]。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである[41]。
ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとアランソン公ジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った[42]。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだ国王シャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している[43]。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦 (en:Siege of Saint-Pierre-le-Moutier) で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦 (en:Siege of La Charite) にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。
ジャンヌと王太子シャルル7世が出会ったシノン城の大広間跡。シノン城で唯一現存している塔がジャンヌの記念博物館になっている。
ヤン・マテイコが描いた、1429年のジャンヌのランス進駐。
ジャンヌの戦場となった現存する数少ない城塞ボージャンシー城 (en:Beaugency)。フランス軍が都市の城壁を打ち破ると、イギリス軍は画面右上に見える塔に立て篭もった。
歴代フランス王が戴冠式を挙行したランスのノートルダム大聖堂。1481年に火災に遭っており、現在見られる尖塔は火災後に増築されたもの。
ドミニク・アングルが1854年に描いた『シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク』(ルーヴル美術館、パリ)。長い髪、スカートなど、ジャンヌの女性らしさをより強調した作風となっている。
捕縛
コンピエーニュでブルゴーニュ公国軍に捕らえられるジャンヌ。パリのパンテオンの壁画。
フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数カ月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた[44]。フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効した。ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦 (en:Siege of Compiegne) の援軍としてコンピエーニュへ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう[45]。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ[45]、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった[46]。
「王(シャルル7世)がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだのは事実であり、ブルゴーニュ公が15日が経たないうちにパリへと兵を進軍させたのも事実です。私がすぐさまパリに向かわなかったとしても驚くことではありません。私はこういった休戦協定には反対であり、私自身がこの協定を破る可能性すらあります。私がこの協定を尊重するとすれば、それは王の名誉を守るためという一点だけです。王族の間で交わされるこのような協定が今回の15日間の休戦協定のように平和をもたらさない馬鹿げたものであっても、私は協定を守り、不測の事態に備えて軍を整えることでしょう」
-- ジャンヌが1429年8月5日にランス市民に宛てた書簡。 Quicherat I, p. 246.
当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは幾度が脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった[47]。最終的にイングランドがブルゴーニュ公フィリップ3世に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてイングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる[48]。
異端審問
「:en:Trial of Joan of Arc」も参照
異端審問裁判期間にジャンヌが監禁されていたルーアン城の塔。後に「ジャンヌ・ダルクの塔」として知られるようになった。
ジャンヌの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公ジョンは、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された[49]。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。
ポール・ドラローシュが1824年に描いた『ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク』(ルーアン美術館(ルーアン)。
ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる[50]。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった[51]。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した[52]。
この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものはジャンヌが「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と訊かれたときに「恩寵を受けていないのであれば神が私を無視しておられるのでしょう。恩寵を受けているのであれば神が私を守ってくださっているのでしょう」と答えた問答である[53]。この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」と後になって証言している[54]。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた[55]。さらに数名の法廷関係者が後に、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、なかにはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した[56]。裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している[57]。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた[58]。
処刑
へルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』(エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)。ジャンヌは白いロングスカートを身に付け、頭には罪人を示す被り物がある。
当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた[59]。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれて他に着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった[60]。
マキシム・レアル・デル・サルトが1928年に制作したジャンヌの彫像。ジャンヌが処刑された場所から数インチのところに設置されている。2002年10月には歴史的記念物に登録された。
ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身に付けた。『乙女の記録 (Chronique de la Pucelle)』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している[61]。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった[62]。
ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった[63]。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、後に復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している[64]。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。
1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛り付けられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの二人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の一人ジョフロワ・セラージュは後に「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている[65]。
2006年2月に法医学の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を六カ月かけて調査すると発表した。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた[66]。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている[67]

メタファー - W【保存】

虎馬:メタファー - W 
メタファー(希: μεταφορά「metaphora」、羅: metaphora、独: Metapher、英: metaphor)は、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、
 伝統的には修辞技法のひとつとされ、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。
つまり、「〜のようだ」のような形式だけであからさまに比喩とわかる比喩(=simile 直喩、明喩)ではないもののことである。
目次 1 概説 2 メタファーの例 3 古典的なメタファー 4 メタファー観の歴史 4.1 言語哲学におけるメタファー理解の変革
5 関連する概念 6 参考文献 7 出典 8 関連項目 9 関連文献
概説
メタファーは、言語においては、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え簡潔に表現する機能をもつ。
わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。
 メタファーにもいくつかタイプがあるが、比較的分かりやすい例としては「人生はドラマだ」のような形式をとるものがある。
 メタファーは日常的に頻繁に用いられているもの、話している本人も気づかずに用いているものから、詩作などにおいて創造される新奇なものまで、様々なレベルにわたって存在している。
 また、メタファーが用いられるのは、いわゆる"言語"(言葉)に限らない。絵画、映画などの視覚の領域でも起きる。
 メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきているのである。
 「metaphor メタファー」という語はギリシャ語の「meta-(〜を越えて)」「 -phorein(運ぶ)」に由来している。

メタファーの例
 冒頭に挙げた「人生はドラマだ」はもっとも初歩的なメタファーである。「...は...だ」という形で比喩だということがわかりやすい。
 次のようなものもメタファーである。

 人生は旅だ。私と一緒に旅をしてみないか?

この例などは、ひとつめの文に加えて、ふたつめの文「私と一緒に旅をしてみないか?」もメタファーであるが、ひとつめの文がメタファーだと分かるため、ふたつめも引き続きメタファーだと理解されやすい。

次の会話の例にもメタファーが含まれている。

 A 「どうしたのですか?」B 「それが・・・、最近、いくら努力してもうまく行きません。つらいことばかりなのです。」A 「そうですか・・・。一緒にがんばりましょう。闇が深ければ、夜明けは近いのですよ。」
この会話では「闇が深ければ、夜明けは近い」がメタファーである。

(人によっては)メタファーだと気づきにくいタイプのメタファーもある。例えば次のような例である。

わらべは見たり、野中のばら (男の子は見つけた、野に咲く薔薇を)

— ゲーテの詩『野ばら』

私の庭にスミレが咲いた。

上記2例のようなメタファーは、恋をする男性の心に生まれることがあるものである。

さらに気づきにくい例を挙げる。例えば次のような一文が芸術的な小説の中に配置されていれば、それは単なる情景描写というよりもメタファーの可能性が高い。

 その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた。

メタファーは人間が根本的に持つ世界の認知、世界の見え方に深く関わっており、聞き手の心の状況に合ったメタファーは強く心を打ち、大きな影響力を持つ。

古典的なメタファー

メタファーは古今東西の文学作品に普遍的に存在している。その中でも歴史的に見て、多くの人々に読まれ、影響力の大きなメタファーをいくつか挙げる。

メタファーは現存する最古の文学作品といわれる『ギルガメシュ叙事詩』にも豊富に見だすことができる。同作品は多数の写本が作成され、広く流布したと考えられており、現代の視点でも文学作品として第一級だとしばしば評されている。

聖書は、メタファーと譬え話に満ちた文書の典型としてしばしば挙げられている。聖書およびイエス・キリストのたとえ話は、西洋文学におけるメタファーのありかたに多大な影響を与えている。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。

— 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 15:5、イエスの言葉

 私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです

— 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 8:12

 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか

— 新約聖書『マタイによる福音書』 5:13 ( 「地の塩、世の光」の記事も参照可)

仏教においても、仏陀は、相手に応じて比喩を巧みに用いて説いたとされ、メタファーに満ちた話が現在まで伝わっており、仏教圏の人々には広く浸透している。

『涅槃経』第29巻では比喩を、順喩、逆喩、現喩、非喩、先喩、後喩、先後喩、遍喩の8種類に分類している。その中で、現喩は現前のものをもって表現する比喩で、遍喩は物語全体が比喩であるもののことである。

日本の仏教の文書にもメタファーは見出すことができる。

 難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する惠日なり

— 親鸞『教行信証』総序冒頭部

メタファー観の歴史

初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
西洋の伝統的な修辞学では比喩(trope、転義法)が研究・分類されてきたが、その中でもメタファーは特に大きなテーマとして扱われている。

文芸においてはメタファーは一貫して称揚されている。

ただし、一時期、近代の言語学や論理学では、メタファーを周辺的な現象とし、批判的に見ることがあった。近代の哲学者の中には、メタファーによって説得しようとする議論を「非理性的なもの」として否定する者がおり、例えばホッブズやロックは、メタファーに頼った議論を「ばかげており、感情をあおるものに過ぎない」などとして批判した。

だがこうした少数の意見を除けば、一般にメタファーは重視されており、文芸においては、ロマン主義以来は、理性を越えた想像力の発露であると見なされるようになった。

言語哲学におけるメタファー理解の変革

言語哲学では、「隠喩は言語において特殊な現象にすぎない」と見なす見解がかつて主流で、その後、隠喩はつねに言語の根源にあるとする見解が登場することになった。前者の見解は、ある意味で素朴で、そう見なす人のほうが多かった。例えば、古代ギリシャのプラトンや現代のオースティンなどは前者の見解を示した。

だが、近代にはヴィーコ、現代ではブラックが、異なった見解を示し、 言語学者のロマン・ヤコブソンは、絵画、文学、映画あるいは夢などの表現の中には、根本的な認知方式としてメタファーの作用があることを指摘した。 さらに近年では、1980年にジョージ・レイコフとジョンソン(M. Johnson)らが『レトリックと人生』 Metaphors we live byを出版し、「メタファーは抽象概念の理解を支える根本的な概念操作である」「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している[1]」と指摘し、多数の資料を提示しつつ分析してみせ、広範囲の支持を得て、学者らのメタファー観は大きく変わった。

近年では、メタファーは単なる言語の要素ではなく、人間の認知と存在の根幹に関わる要素だという認識がされるようになり、メタファーを基礎に据え、概念理解のしくみ・構造を解明しようとする研究が進められている。

政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。

また、精神分析学者ラカンのメタファー・メトニミーへの言及が重要視されることがある。ポール・リクールも隠喩論を展開した。

関連する概念

物語全体で他の何かを暗示するように構成されたものは寓喩と呼ばれる。

概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現はメトニミーまたは換喩という。「漱石を読んだ」、「やかんが沸いた」のような表現がこれにあたる。また概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現はシネクドキまたは提喩という。例えば「花見」という語における「花」は普通、桜の花を指している。

「〜のようだ」「〜みたいだ」のように、わざわざ比喩であることを明示する語や形式を用いている比喩は「simile 直喩」と呼ばれる。

参考文献
George Lakoff and Mark Johnson. Metaphors We Live By. University of Chicago Press, 1980. ISBN 9780226468006.

出典
1.^ 『レトリックと人生』p.2-4

関連項目
転義法
修辞技法
認知言語学
概念メタファー
図像学

関連文献
George Lakoff & Mark Johnson著・渡部 昇一,楠瀬 淳三,下谷 和幸(訳)(1986)『レトリックと人生』大修館書店.
山梨 正明 (1988)『比喩と理解』(認知科学選書)東京大学出版会.
Janet Martin Soskice著・小松 加代子(訳)(1992)『メタファーと宗教言語』玉川大学出版部.
Wolfgang Harnisch著・広石 望(訳)(1993)『イエスのたとえ物語―隠喩的たとえ解釈の試み』日本基督教団出版局.ISBN 4818401293.
小原 克博 (1994)「神理解への隠喩的アプローチ」、『基督教研究』第56巻第1号[1].
中村 明 (1995)『比喩表現辞典』角川書店.
瀬戸 賢一 (1995)『メタファ-思考』講談社現代新書.
辻 幸夫 (2001)『ことばの認知科学事典』大修館書店.
石川 淑子 (2001)『ことばと意味―隠喩・広告を通して』 リーベル出版.
Northrop Frye著・山形 和美(訳)(2001)『力に満ちた言葉―隠喩としての文学と聖書』叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局. ISBN 4588007262.
辻 幸夫 (2002)『認知言語学キーワード事典』研究社.
谷口 一美 (2003)『認知意味論の新展開―メタファーとメトニミー』研究社.
瀬戸 賢一 (2005)『よくわかる比喩―ことばの根っこをもっと知ろう』研究社.
橋本 功・八木橋宏勇(2006)「聖書のメタファー分析」『人文科学論集』vol.40.[2].
楠見 孝 (2007)『メタファー研究の最前線』 ひつじ書房.
山梨 正明 (2007)『比喩と理解 (コレクション認知科学)』東京大学出版会.
橋本 功・八木橋宏勇(2007)「メタファとメトニミの相互作用 : 聖書を読み解く認知メカニズム」『人文科学論集』vol.41. [3].
Raymond W. Gibbs Jr.著・井上逸兵・辻 幸夫(監修)、小野 滋・出原 健一・八木 健太郎(訳)『比喩と認知: 心とことばの認知科学』研究社. ISBN 4327378135
山梨 正明(編集) (2008)『概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ 』研究社.
橋本 功・八木橋宏勇(2011)『聖書と比喩』 慶應義塾大学出版会. ISBN 4766417661.

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長谷川 慶太郎(はせがわ けいたろう、1927年11月29日 - )は、日本の経済評論家。主な評論の対象は時事の経済評論の他、国内政治評論、国際政治、
国際経済、軍事関係等である。国際経済・政治評論に製鉄・金属加工の切り口からの分析を加えている。日本個人投資家協会理事長。
目次
1 経歴
2 評価
3 著書(単行本)
4 論文
5 脚注
6 参考
7 外部リンク
経歴
京都府出身。茨木中学校、大阪高等学校を経て大阪大学工学部冶金学科に入学、1953年卒業。日本共産党に入党、志賀義雄衆議院議員秘書。1955年から1963年まで産業新聞社記者を経て、1963年に経済評論家として独立し、証券アナリスト業、評論家業を営み、著述や朝の情報番組へのテレビ出演なども行う。
80歳を超えた現在でも積極的に出版・講演活動を行い、自分とコンサルティング契約を結んだ金融関連企業などでの発言を続けている。長年続けている活動として、週1回発刊の長谷川慶太郎ニューズレター、証券会社向けの週報がある。著書『さよならアジア』では、韓国を除くアジア諸国との決別を唱えた。
評価
砂川事件の後、方針について行けず転向しているが、党員時代の人脈から1968年にブルガリアの共産党から招かれ、3ヶ月にわたり生産設備に対する指導・助言を求められている。
『千載一遇の大チャンス』で長谷川は自らを、軍事評論家になりたかったが太平洋戦争の終戦で叶わぬこととなり、終戦翌日から独自に軍事の勉強を始めたと述べている。また実際に自衛隊幹部学校、防衛省防衛研究所一般課程の非常勤講師を30年以上にわたって務め、田母神俊雄をはじめ「現役自衛官の中にはわたしの教え子がたくさんいる」と称してる。
約50年にわたって日本経済の分析を続けており、1981年「世界が日本を見倣う日」で文藝春秋読者賞、1983年、『世界が日本を見倣う日』で第3回石橋湛山賞(東洋経済新報社後援)を受賞。
1990年の東西ドイツを分けるベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦終了後は、世界的規模の国家間戦争は今後経済的に割に合わず、その結果各陣営に囲い込まれた経済的資源が世界で共有されることによりデフレーションが継続すると主張している。特に、2005年前後からはデフレは100年(程度)継続し、21世紀はデフレの世紀になると主張している。
著書(単行本)
1978年 「韓国の経済」教育社 「日本の経済力診断」学陽書房
1979年 「日本株式会社の挑戦」徳間書店 「中国近代化の幻想」ダイヤモンド社
1980年 「80年代経済の読み方」祥伝社 「日本は石油に勝てる」ベストセラーズ 「国際通貨のことがわかる本」日本実業出版社 「先見力の技術」PHP研究所 「総合比較 日本の国防力」祥伝社 「日本経済の世界戦略」グリーンアロー社
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1985年 「情報化社会のほんとうの読み方」PHP研究所(PHP文庫) 「日本近代と戦争」全七巻(PHP研究所) 「世界をホンネで読む」時事通信社 「情報新社会のニュービジネス」講談社 「迷走する中国」光文社 「異端のすすめ」省エネルギーセンター(新潮文庫)
1986年 「組織の戦闘能力」東洋経済新報社 「さよならアジア」ネスコ 「日本はこう変わる」(徳間書店) 「これからの世界と日本」PHP研究所 「組織の自己改革法」中公文庫
1987年 「日本の選択・企業の選択」(共著)徳間書店 「日本の革命」ネスコ(文春文庫) 「世界が動く日本が変わる」PHP研究所 「投機の時代」中央公論社(中公文庫) 「日米の時代をホンネで読む」時事通信社 「強い個性の経済学」講談社(講談社文庫) 「連合艦隊の蹉跌」(共著)プレジデント社
1988年 「マンガ1993年の日本・幸福な結婚?」(原作)PHP研究所 「日本の時代90年代を読む」東洋経済新報社 「ビジネスマンの国際学」徳間文庫 「日本の時代90年代を読む」東洋経済新報社
1989年 「教育とビジネス」(共著)関塾 「90年代の日本繁栄への戦略」(共著)PHP研究所 「先見力」角川書店(角川文庫) 「これからの基調の読み方」文藝春秋 「麻雀・カラオケ・ゴルフはおやめなさい」PHP研究所 「長谷川慶太郎の世界はこう変わる」徳間書店 「関東平野は世界の心臓」徳間文庫
1990年 「国家が見捨てられるとき」東洋経済新報社 「経済頭脳を持っているか」青春出版社 「新しい世界秩序と日本」講談社 「1991年長谷川慶太郎の世界はこう変わる」徳間書店
1991年 「変容を読み切る情報頭脳の新時代」青春出版社 「ポスト湾岸 日本と世界はこうなる」(共著)東洋経済新報社 「金の時代金の世界」ダイヤモンド社  「NEWTON 近未来最新情報」KYOIKUSHA 「戦争論を読む」「1992年長谷川慶太郎の世界はこう変わる」徳間書店
1992年 「国際頭脳を持っているか」青春出版社 「21世紀の世界をさぐる」(共著)学習研究社 「繁栄か衰退か日本の行方」きんざい 「先見力の達人 長谷川慶太郎」学研(谷沢永一著) 「国際頭脳を持っているか」青春出版社
1993年 「解体する中国」東洋経済新報社 「日本の進路を問う」講談社 「これからの日本経済」学研 「長谷川慶太郎の世界はこう変わる 超失業」徳間書店 「コスト頭脳を持っているか」青春出版社 
1994年 「1995年長谷川慶太郎の世界はこう変わる 大決断」徳間書店 「逆転頭脳を持っているか」青春出版社 「アメリカンドリームの終焉」飛鳥新社(訳・解説) 
1995年 「「超」価格破壊の時代」東洋経済新報社 「幻想の超大国中国」徳間書店(渡辺利夫共著)春出版社 「常識の大逆転」光文社 「これからの日本とアメリカ」学研(竹中平蔵共著)
1996年 「有事のアジア」PHP研究所(リチャードクー共著) 「ネットの世紀」光文社 「「情報化社会」の本当の読み方」徳間書店 「成功の記憶を捨てろ」東洋経済 「これまでの百年これからの百年」講談社 「アジアの激動日本の選択」徳間書店(日下公人共著) 「1997長谷川慶太郎の世界はこう変わる 激変激動の世界と日本」徳間書店 「北朝鮮崩壊と日本」光文社(佐藤勝巳共著)
1997年 「これからのアジアこれからの日本」PHP研究所(中西輝政共著) 「情報力」サンマーク出版 「1998長谷川慶太郎の世界はこう変わる 大変貌」徳間書店 「長谷川慶太郎のビッグバンで日本はこう変わる」徳間書店 「歴史頭脳を持っているか」青春出版社  「軍事頭脳を持っているか」青春出版社 「アジア大転換と日本」光文社
1998年 「アジアの悲劇」東洋経済新報社 「日本経済復活の条件」ダイヤモンド社 「1999長谷川慶太郎の世界はこう変わる 世紀末大転換」徳間書店 「金融頭脳を持っているか」青春出版社 「「投資クラブ」で資産を殖やせ」徳間書店
1999年 「価値逆転」ビジネス社 「ロシアは再生できるか」東洋経済新報社 「不況は終わった」ビジネス社 「定年後とこれからの時代」青春出版社 「日本経済は復活する」ダイヤモンド社 「デフレはチャンスを生む」PHP研究所 「デフレ時代の新投資戦略」ビジネス社 「2000長谷川慶太郎の世界はこう変わる「日本の復活」元年」徳間書店  「国家頭脳を持っているか」青春出版社 「21世紀、日本の生きる道」長谷川慶太郎
2000年 「やっと浮上したぞ日本経済」ビジネス社 「2000年からの大転換」PHP 「長谷川慶太郎の「21世紀を読む」」東洋経済新報社 「転んでもタダでは起きない経済学」幻冬舎 「株式市場大予測」ビジネス社 「21「世紀日本を動かす大原則」PHP 「長谷川慶太郎の「株」の鉄則」徳間書店 「2001長谷川慶太郎の世界はこう変わる 繁栄の選択衰退の行方」徳間書店 「デフレ頭脳を持っているか」青春出版社 「朝鮮統一の戦慄」光文社(佐藤勝巳共著) 「世界を凌駕する新リーデイング企業」ビジネス社 「環境先進国日本」東洋経済新報社
2001年 「外務省の掟」ビジネス社 「探査する21世紀の行方」青朋堂 「小泉改革を邪魔するのはおやめなさい」日本実業出版 「世界は変わる日本が動く」ビジネス社 「朝令暮改の発想法」講談社 「デフレを読むお金を殖やす」PHP研究所 「2002長谷川慶太郎の世界はこう変わる リスクの時代と日本」 「情報王」ビジネス社「躍進の時代淘汰の時代」ぶんか社 「デフレに勝つ経営学」東洋経済新報社 「人権頭脳を持っているか」青春出版社 
2002年 「アメリカの警告」東洋経済新報社 「情報戦に勝つ技術」幻冬舎 「コイズミさん家の家計簿」日本実業出版 「一極支配で甦る日本経済」ビジネス社 「2003長谷川慶太郎の世界はこう変わる 100年デフレと日本の行方」徳間書店 「新「戦争論」の読み方」PHP研究所
2003年 「中国の深層」日本実業出版社 「北朝鮮の最終結末」PHP研究所 「安全有利な資産運用法」ビジネス社 「世界デフレで甦る日本」実業之日本社 「さらば、インフレ待望論」PHP 「2004年 長谷川慶太郎の大局を読む」ビジネス社 「2004 長谷川慶太郎の世界はこう変わる 大復活のデフレ先進国日本」徳間書店
2004年 「北朝鮮自壊」東洋経済新報社 「株で確実に儲かる唯一の方法」ビジネス社 「長谷川慶太郎の戦争と日本」日本実業出版 
2005年 「アジアが日本に屈する日」ビジネス社 「中国「反日」の末路」東洋経済新報社 「日本と世界の大潮流」 「2006年 長谷川慶太郎の大局を読む ビジネス社 「2006 長谷川慶太郎の世界はこう変わる 大展開する日本」徳間書店
2006年 「「格差拡大の時代」東洋経済新報社 「2007 長谷川慶太郎の大局を読む」ビジネス社 「長谷川慶太郎の大局を読む「株」」ビジネス社 「2007 長谷川慶太郎の世界はこう変わる 大動乱の世界と日本」徳間書店
2007年 「世界大規模投資の時代」東洋経済新報社 「「株」は頭だ!」ビジネス社
2008年 「日本は「環境力」で勝つ」東洋経済新報社 「中国大乱を乗り切る日本の針路」ベストセラ−ズ  「長谷川慶太郎の大局を読む」李白社 (フォレスト出版) 「大統領が変わると日本はどこまで変わるか?」ソニ−・マガジンズ 「千載一遇の大チャンス」講談社インタ−ナショナル
2009年 「それでも、「平成恐慌」はありません。これが、世界経済再生のシナリオ」ワック  「この身、死すとも「これだけは言いたい」(田母神俊雄/長谷川慶太郎) フォレスト出版  「大上昇気流に乗る10の至言」KKベストセラーズ  「日本は「掃き溜めの鶴」になる」PHP研究所  「日本経済はV字回復する」フォレスト出版 「経済戦勝国」日本の底力」出版文化社  「2010年 長谷川慶太郎の大局を読む」李白社
2010年 「デフレは大好機」東洋経済新報社 「メガ・グループの崩壊」李白社 「無策! - あと一年で国債は紙クズになる -」フォレスト出版 「12億の常識が世界を変える インド」ポプラ社
2011年 「東日本大震災 大局を読む! 」李白社 「必ず復興する日本のシナリオ」ポプラ社
2012年 「中国大分裂 改革開放路線の終焉と反動」実業之日本社
論文[編集]
国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所
脚注[編集]
参考[編集]
デジタル版日本人名大辞典

外部リンク[編集]
長谷川慶太郎 公式サイト
日本個人投資家協会(JAII)

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