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世界歴史日本中国

孫文 - W(保存)ファシスト

虎馬:孫文 - W 
 
Sunyatsen1.jpg
中華民国の旗 中華民国  初代臨時大総統
任期 1912年1月1日 – 1912年4月1日
中華民国の旗 中華民国 中国国民党総理
任期 1919年10月10日 – 1925年3月12日
出生1866年11月12日(清同治5年10月初6日)
清の旗 清広東省広州府香山県翠亨村(現・中山市)
死去 1925年(民国十四年)3月12日
中華民国の旗 中華民国京都特別市東城鉄獅子胡同5号行轅(現・中華人民共和国の旗 中国北京市東城区張自忠路)
政党 中国同盟会、中国国民党
配偶者 盧慕貞(1885–1915) 大月薫(1903-1906) 宋慶齢(1915–1925)
署名Sun Yat Sen Signature.png 孫中山職業:革命家・政治家
各種表記繁体字:孫中山 簡体字:孙中山 拼音:Sūn Zhōngshān 和名表記:そん ちゅうざん
発音転記:スン・ヂョンシャン ラテン字:Sun Chung-shan 英語名:Sun Yat-sen (孫逸仙)
各種表記(本名)繁体字:孫文 簡体字:孙文 拼音:Sūn Wen 和名表記:そん ぶん 発音転記:スン・ウェン
孫 文(そん ぶん、1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中国の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。

目次
1 呼称・号 1.1 号の由来
2 生涯 2.1 生い立ち
2.2 革命家へ
2.3 中華民国建国
2.4 国民党と第二革命・第三革命
2.5 広東軍政府と護法運動
2.6 五・四運動の影響
2.7 佐々木到一軍事顧問就任
2.8 孫文・ヨッフェ共同宣言
2.9 国共合作
2.10 死後
3 思想 3.1 明治維新と孫文の革命観
3.2 革命三段階論
3.3 民族主義
4 遺言
5 日本との関係
6 評価
7 人物
8 親族
9 孫文が登場する作品
10 関連記念館・建築
11 脚注
12 著作
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク

呼称・号

譜名は徳明 、字は載之、号は日新 、逸仙 (Yixiān) または中山 、幼名は帝象 。他に中山樵(なかやま きこり)、高野長雄(たかの ながお)がある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。

号の由来

孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている[1]。

中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。

生涯

生い立ち

孫文(17歳)
清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878年、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883年中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。

革命家へ

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。

1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。

のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[2]。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。

1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで留学中の蒋介石と出会う。

中華民国建国

武昌蜂起の兵士たち
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

国民党と第二革命・第三革命

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得[3]。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[3]。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[3]。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる[3]。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[3]。

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する[3]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、段祺瑞が後継者になる。

広東軍政府と護法運動

詳細は「護法運動」を参照

この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった[3]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する[3]。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を追われた。

孫文は一時、日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている[4]。

この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[5][6]。

五・四運動の影響

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8]。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]。

佐々木到一軍事顧問就任

孫文(右)と蒋介石
1922年に広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蒋介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

孫文・ヨッフェ共同宣言

1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした[9]。 この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。

しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃している。

国共合作

1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[9]。

コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。

1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

死後

孫文の晩年の写真(1924年)
孫文はガンに侵されており、1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。

霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[10]。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。

孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲は暗殺され[11]、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広東国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される[11]。総司令官には蒋介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。

1927年、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。

「中国国民党」および「蒋介石」も参照

思想

明治維新と孫文の革命観

保坂正康によれば、宮崎滔天や山田良政・山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという[12]。 しかし孫文自身も1919年に次のように発言している

そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした[13]。

また1923年には、次のように発言している。

日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する[14]

このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった[15]。

革命三段階論

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。

民族主義

三民主義の一つに民族主義を掲げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した[16]。

「五族共和」を参照

しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する[17]。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う[18]。

遺言
“ 余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。
しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。

日本との関係
孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天[19] や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[20]。また、実業家では、松方幸次郎、安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎、梅屋庄吉[5][6]からも資金援助を受けている。日本滞在中に日本人女性と結婚して孫文に非常に良く似た容姿の娘をもうけたが、帰国後に母子に対して経済的な援助を一切行っていない。
ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[21]。
また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周・大石正巳・尾崎行雄・副島種臣・頭山満・平岡浩太郎・秋山定輔・中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・大塚信太郎・久原房之助・山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一・萱野長知・副島義一・寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[22]

評価
孫文の肖像画の旧台湾ドル紙幣
孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。

孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。

彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。

2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)では、保守主義的見地から、蒋介石と並んで孫文が厳しく非難されている。本著によれば孫文の「親日」は、彼の「外国への病的依存体質」の一つとして日本がたまたま一時期選択されただけのことであって、孫文からすれば革命を援助してくれる国であればどこでもよかったとされる。晩年の「大アジア主義演説」にしても、実証性を著しく欠き、自分を支援してくれたソ連への媚びと、自分を支援してくれなかった日本への嫌味を連ねたものだったと本書では指摘されている。

孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。

孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。

人物
春秋時代の孫子および三国時代の呉の孫権の末裔と伝わる[23]。
生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。
非常に短気で激昂しやすい性格であったと伝わる。林語堂はその態度を批判して、古来の諺を引用して「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」と諫言したが、孫文は耳を貸さず「水に落ちた犬は打て(打落水狗)」と過激な発言を行った。現在の日本や韓国では、むしろその孫文の過激発言のほうが有名な諺になっている。

親族
孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子
孫治平・孫治強 - 孫文の孫、孫科の長男と次男
孫国雄・孫偉仁 - 孫文の曾孫と玄孫
宮川富美子 - 孫文と大月薫との子
宮川東一 - 孫文の孫

孫文が登場する作品
小説三好徹『革命浪人 滔天と孫文』中央公論社, 1979.11. のち文庫
陳舜臣『江は流れず-小説日清戦争』中央公論社、1981年(文庫、1984年)
浅田次郎『蒼穹の昴』講談社、1996年(文庫、2004年)
伴野朗『砂の密約 孫文外伝-革命いまだ成らず』実業之日本社, 1997.9 のち集英社文庫.
陳舜臣『山河在り』講談社、1999年(文庫、2002年)
陳舜臣『青山一髪』(上下巻)中央公論新社、2003年(改題『孫文』文庫、2006年)
平路 池上貞子訳『天の涯までも 小説・孫文と宋慶齢』風濤社, 2003.6.
浅田次郎『中原の虹』講談社、2006-07年(文庫、2010年)
映画孫文が主人公の映画孫文(1986年、中国、監督:丁蔭楠、孫文役:劉文治)
孫文(1986年、台湾・香港、監督:丁善璽、孫文役:ラム・ワイサン)
孫文 -100年先を見た男-(2006年、中国、監督:デレク・チウ、孫文役:ウィンストン・チャオ)
孫文が登場する映画ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱(1993年、香港、監督:ツイ・ハーク、孫文役:ジャン・ティエリン)
宋家の三姉妹(1997年、香港、監督:メイベル・チャン、孫文役:ウィンストン・チャオ)
孫文の義士団(2009年、香港・中国、監督テディ・チャン、孫文役:チャン・ハンユー)
1911(2011年、中国・香港、総監督:ジャッキー・チェン、監督:チャン・リー、孫文役:ウィンストン・チャオ)
漫画一輝まんだら(手塚治虫)
同人誌鉄拳無敵孫中山

関連記念館・建築[編集]
移情閣 - 神戸市垂水区にある孫文ゆかりの建物
孫中山紀念館
国父記念館 - 中華民国台北市にある孫文の記念館

脚注
1.^ 拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』
2.^ “孫文:米国籍取得…米政府の資料で判明、安全のため”. 毎日新聞. (2011年6月7日) 2011年11月5日閲覧。
3.^ a b c d e f g h 天児 2004, p.58
4.^ 『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、 ISBN 4390602802
5.^ a b 2007年2月25日NHK BS1 『世界から見たニッポン〜大正編』
6.^ a b 『梅屋庄吉と孫文 盟約ニテ成セル』 読売新聞西部本社編、海鳥社、2002年10月。ISBN 4-87415-405-0。
7.^ 天児 2004, p.61
8.^ a b c 天児 2004, p.63
9.^ a b 天児 2004, p.64
10.^ 辛亥革命百年(25)犬養木堂と孫文の友情
11.^ a b 天児 2004, p.65
12.^ 保坂正康 『孫文の辛亥革命を助けた日本人』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2009年8月。ISBN 978-4-480-42634-5。
13.^ 「中国の青島回収につき朝日新聞記者に回答せる書簡」1919年,『孫文選集』第三巻所収
14.^ 「犬養毅への書簡」1923年,『孫文選集』第三巻所収
15.^ 清水美和 『中国はなぜ「反日」になったか』 文藝春秋、2003年5月、pp. 62 f。ISBN 4-16-660319-1。
16.^ 高山正之 『サダム・フセインは偉かった 変見自在』 新潮社、2007年10月。ISBN 978-4-10-305871-7。
17.^ 加々美光行『中国の民族問題―危機の本質』岩波現代文庫、岩波書店、2008年。51頁
18.^ 加々美光行「中国の民族問題」51-52頁
19.^ 宮崎滔天 『三十三年の夢』 島田虔次・近藤秀樹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1993年5月17日。ISBN 4-00-331221-X。
20.^ 頭山統一 『筑前玄洋社』 葦書房、1977年9月。ISBN 978-4-7512-0035-3。
21.^ 日本孫文研究会『孫文と南方熊楠』『孫文と華僑』『孫文とアジア―1990年8月国際学術討論会報告集』汲古書院
22.^ 孫文 「志あらばついに成る」『孫文全集 第2巻 建国方略』 外務省調査部訳編、第一公論社、1939年。
23.^ 清代の『四庫全書』および、浙江省杭州の富陽市南部に現在は観光地の龍門古鎮という村があり、9割の人の姓が孫武を祖とする富春孫氏の子孫と自称している。村の族譜によると、孫文もその系統に属するという。しかし孫文は客家出身のために、疑わしい部分も多く真偽の程は不明である。

著作[編集]
孫中山 『国父全集』 秦孝儀主編、台北近代中国出版社、1989年11月。
孫中山 『孫中山集外集』 陳旭麓・郝盛潮主編、上海人民出版社、1990年7月。
孫文 『孫文革命文集』 深町英夫編訳、岩波書店〈岩波文庫青230-3〉、2011年9月16日。ISBN 978-4-00-332303-8。
孫文全集 外務省調査部訳編. 第一公論社, 1939-40. のち原書房 
孫文選集 全3巻 社会思想社, 1985-89

参考文献[編集]
天児慧 『巨龍の胎動 毛沢東vs小平』 礪波護ほか編、講談社〈中国の歴史 = A history of China 11〉、2004年11月。ISBN 4-06-274061-3。
『辛亥革命の多元構造 辛亥革命90周年国際学術討論会(神戸)』 孫文研究会編、汲古書院、2003年12月。ISBN 4-7629-2690-6。
陳徳仁、安井三吉 『孫文と神戸』 神戸新聞出版センター〈シリーズ兵庫の歴史 3〉、1985年10月。ISBN 4-87521-052-3。
藤村久雄 『革命家 孫文 革命いまだ成らず』 中央公論社〈中公新書〉、1994年4月。ISBN 4-12-101184-8。
横山宏章 『孫文と袁世凱 中華統合の夢』 岩波書店〈現代アジアの肖像 1〉、1996年1月8日。ISBN 4-00-004396-X。
孫文主義の哲学的基礎 戴季陶 中山志郎 訳. 生活社, 1939.
孫文主義国家論 林桂圃 中山志郎訳 生活社, 1940.
孫文の生涯と国民革命 河野密 日本放送出版協会, 1940 ラジオ新書
孫文 高橋勇治 日本評論社, 1943. 東洋思想叢書
孫文の経済思想 出口勇蔵. 高桐書院, 1946.
孫文 小野則秋. 大雅堂, 1948.
孫文伝 鈴江言一. 岩波書店, 1950.
孫文 中国革新の父 小田岳夫 偕成社, 1953. 偉人物語文庫
革命前夜 孫文をめぐる人々 長崎武, 萱野長雄共著. 松沢書店, 1958.
孫文 革命いまだ成らず 野沢豊 誠文堂新光社, 1962. 歴史の人間像
孫文と中国革命 野沢豊 1966. 岩波新書
孫文の研究 とくに民族主義理論の発展を中心として 藤井昇三 勁草書房, 1966.
茫々の記 宮崎滔天と孫文 立野信之 東都書房, 1966.
現代中国と孫文思想 安藤彦太郎,岩村三千夫,野沢豊編. 講談社, 1967.
孫文と日本 貝塚茂樹 1967. 講談社現代新書
孫文 横山英,中山義弘 清水書院, 1968. センチュリーブックス. 人と思想
孫文 中国の国父 R.チフビンスキー 高山洋吉訳. 刀江書院, 1972.
孫文 救国の情熱と中国革命 堀川哲男 清水書院, 1973. センチュリーブックス. 人と歴史シリーズ 「孫文と中国の革命運動」清水新書
孫文思想 王昇 松田憲澄 編訳. 世界情勢研究会, 1978.11.
君ヨ革命ノ兵ヲ挙ゲヨ 日中友好秘録 革命の父・孫文に生涯した一日本人 車田譲治 六興出版, 1979.4.
革命いまだ成功せず 孫文伝 安藤彦太郎 国土社, 1981.9. 世界を動かした人びと
人類の知的遺産 63.孫文 堀川哲男 講談社, 1983.9.
孫文と中国革命 孫文とその革命運動の史的研究 池田誠 法律文化社, 1983.11.
孫文の革命運動と日本 兪辛焞 六興出版, 1989.4. 東アジアのなかの日本歴史
移情閣遺聞 孫文と呉錦堂 中村哲夫 阿吽社, 1990.3.
醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎 結束博治 プレジデント社, 1992.9.
仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人 保阪正康 朝日ソノラマ, 1992.2. のちちくま学芸文庫
孫文の経済学説試論 中村哲夫. 法律文化社, 1999.10.
孫文 百年先を見た男 田所竹彦 築地書館, 2000.3. のち新人物文庫 
孫文を守ったユダヤ人 モーリス・コーエンの生涯 ダニエル・S.レヴィ 吉村弘訳. 芙蓉書房出版, 2001.4.
孫文 その指導者の資質 舛添要一 2011.10. 角川oneテーマ21
蒋介石の密使 辻政信 渡辺望 祥伝社新書 2013.11

関連項目

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孫文

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中国国民党
蒋介石
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辛亥革命
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章炳麟
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中華民国憲法
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中華民国の歴史
平岡浩太郎
北京飯店
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外部リンク[編集]
孫文記念館(日本)
国立国父紀念館(台湾)
孫中山故居記念館(広東省)
横濱中華學院(孫文創設校)
福田惠子「孫文の人物像と日本人ネットワークの検討 : 康有為と比較して」、『国際開発学研究』第5巻第2号、勁草書房、2006年3月、 pp. 49-62、 NAID 110004812535。
竹之内安巳「孫文革命の展開と何香凝―1―〔何香凝「我的回憶」(人民日報掲載)の要訳・注解〕」、『鹿児島経大論集』第9巻3・4、鹿児島経済大学経済学部学会、1969年2月、 pp. 45-68、 ISSN 0288-0741、 NAID 110004671289。 - 孫文の盟友廖仲の妻であり革命運動を支えた何香凝による「我的回憶」の要約。
竹之内安巳「孫文革命の展開と何香凝―2―」、『鹿児島経大論集』第10巻第1号、鹿児島経済大学経済学部学会、1969年7月、 pp. 19-45、 ISSN 0288-0741、 NAID 110004671296。
竹之内安巳「孫文革命の展開と何香凝―3―」、『鹿児島経大論集』第10巻第2号、鹿児島経済大学経済学部学会、1969年10月、 pp. 149-176、 ISSN 0288-0741、 NAID 110004671305。
孫文の北京における死とその政治効果 - 家近亮子、敬愛大学国際研究第2号、1998年

 中華民国の旗 中華民国(南京臨時政府)
先代:(創設) 中華民国臨時大総統初代:1912年1月 - 4月 次代:袁世凱

 中華民国軍政府
先代:(創設) 大元帥1917年9月 - 1918年7月 次代:岑春煊(主席総裁)

先代:岑春煊(主席総裁) 非常大総統1921年5月 - 1922年6月 次代:(大元帥に改組)

 広東大元帥府
先代:(非常大総統から改組) 大元帥1923年1月 - 1925年3月 次代:胡漢民

 中国国民党
先代:(中華革命党から改組) 総理1919年10月 - 1925年3月 次代:張人傑

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中華民国の人物 そ
中華民国大総統
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中山出身の人物
客家人
1866年生
1925年没
在日中国人

始皇帝 - W(保存)【中半】

始皇帝 - W(保存)【前半】  始皇帝 - W(保存)【後半補足】 
暗殺未遂
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[102]。

高漸離の暗殺未遂
詳細は「高漸離」を参照

荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[103]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を撃ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[102][104]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[102]。

張良の暗殺未遂
詳細は「張良」を参照

第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[70])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[99]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[99]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[33][102][105]。

咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[102][106]。

「真人」の希求

天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを過去に存在しなかった人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[107]。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている[88]。過去誰も達しなかった頂点を極めた始皇帝は、不可能なことなどないという考えに取り付かれ、ますます神仙への傾倒を深めた[92]。逐電した徐市[96]に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に廬生は様々な影響を与えた[108]。

『録図書』と胡の討伐

廬生は徐市と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[109]という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[108]。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[108]。

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡農民や債務奴隷・商人らを中心に編成された軍団を派遣し[108]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[45]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[108]。

焚書

胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[110]。始皇帝はこれを李斯の諮問にかけたが、元よりも郡県制を推進した李斯が意見に利を認めるはずがなかった[111]。そして、始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[112]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[111]。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[113]。

すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[113]。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[114]。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い、認められた[115]。特に『詩経』と『書経』の所有は、始皇帝の蔵書を除き[注 3]厳しく罰せられた[111]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[57]。

坑儒

始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[116]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[117]を元にする超人を指した[100]。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[100]。

しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決してなく、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[118]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[100]。『史記』には、学者らを「諸生」[110]と表記しており、さまざまな学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の扶蘇[119]の言「諸生皆誦法孔子」[110]から、儒家の比率が高かったものと考えられる[120]。

讒言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[100]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[110]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[70]。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[57]。

祖龍の死

不吉な暗示

『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた[121]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[122]上、隕石は焼き砕かれた[20]。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[102]。鉄隕石にはニッケル・鉄比の異なるカマサイトとテーナイトの二相からなる視覚的に特徴ある組織が観察され、それが解釈の仕様によっては漢字のように見える場合がある。従って、当時落下した鉄隕石が後に伝説となった可能性がある。

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉壁を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉壁は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[102][122]。

最後の巡遊

末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[123]は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[124]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、芝罘で大魚を仕留めた[124][125]。

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている正統な後継者である[126]長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高[127]に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省平郷[128])で亡くなった[2][124]。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[76]。

その後

隠された死

始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[47]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[47][129][130]。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][124]。死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し[2][47]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[47]帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[126][127][131]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた[131]。

二世皇帝

始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20才の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)[47]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ[132]。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[132]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[133]。

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られた。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[134]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[134]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた[134][135]。

人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[40]が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った[28]。

秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。

— 史記「秦始皇本紀」4[136]

秦王政の風貌を、鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる[28][40]。

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[53][48]。

夫秦王怚而不信人。

— 史記「白起王翦列伝」11[52]
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもつかない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。彼の頭には、白起がたどった末路という教訓があった[48][53]。

方士の廬生と侯生が逃亡する前に始皇帝を誹謗した言が残っている。

始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)

— 史記「秦始皇本紀」41[137]
始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[100]。

評価
暴虐なる始皇帝
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された[138]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[139]。この時代には「無道秦」[140]や「暴秦」[141]等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[142]。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった[143]。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[143]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[144]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[145]。

唐代の詩人・李白は『国風』四十八[146]で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。
阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 4]という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[147]。

封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[113]、以後2000年にわたって継続された[138]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[138]。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[138]。

始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市
近代以降の評価

清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[138]。

日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した[138]。

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蒋介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

文化大革命期には、始皇帝の再考察が行われた。当時は、儒家と法家の闘争という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[138]。

文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[65]。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[148]。
文化への影響
エッセー
アルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』(Otras Inquisiciones)の中で「La muralla y los libros」(「壁と書」の意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている[149]。
小説
1956年の『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている[150]。日本未出版。
『流亡記』。開高健の小説[151]。始皇帝の支配体制を一民衆の視点から描いている。
『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』。蕪木統文の小説[152]。
映画
『秦・始皇帝』(1962年)。中国統一後の始皇帝を描いた日本映画。勝新太郎が始皇帝を演じた[153][154]。
『テラコッタ・ウォリア 秦俑』(1989年)。輪廻転生とタイムスリップを題材とした香港・中国合作のSFアクション映画。陸樹銘(中国語版)が始皇帝を演じた[154]。
『異聞 始皇帝謀殺(英語版)』(1996年)。始皇帝と、彼の暗殺を試みた荊軻の友人に当たる高漸離との交流を描いた中国映画。姜文が始皇帝を演じた[155]。
『始皇帝暗殺』(1998年)。秦王政と、彼が愛した趙姫、そして暗殺者の荊軻の3者の愛憎を描いた中国映画。李雪健(中国語版)が秦王政を演じた[156][157][154]。
『HERO』(2002年)。秦王(後の始皇帝)の命を狙う架空の刺客たちを描いた中国の武侠映画。陳道明が秦王を演じた[154]。
TVドラマ
『尋秦記 タイムコップ B.C.250(中国語版)』(2001年)。タイムトラベルを題材とした黄易(中国語版)のSF小説を原作とする香港のTVドラマ。レイモンド・ラムが嬴政を演じた[158]。
『始皇帝烈伝 ファーストエンペラー(中国語版)』(2001年)。始皇帝の生涯をフィクションを交えて描いた中国のTVドラマ。張豊毅が始皇帝を演じた[159]。
『始皇帝暗殺 荊軻』(2004年、原題:荊軻傅奇)。秦王政を暗殺しようとした荊軻を主人公とする中国のTVドラマ。邵兵が秦王政を演じた[160]。
『THE MYTH/神話』(2009年)。2005年の同名の香港映画のリメイクした、タイムスリップと輪廻転生が題材の中国のTVドラマ。臧金生が始皇帝を演じた[161][162][163][164] 。
『始皇帝 -勇壮なる闘い-』(2009年、原題:大秦直道)。直道建設にまつわる陰謀譚を描いた中国のTVドラマ。全45話。冦世勲が始皇帝を演じた[165]。中国では途中で放映が打ち切られ、またDVDビデオ等も発売されなかったとのことであるが理由不明である。日本では手を入れられたものが放映ないしDVD販売されており、中国正規版と称する日本向けDVDが販売されているが、これが中国国内に流通しているのかは不明である。
漫画・テレビアニメ
『キングダム』(2006年 - 連載中)。原泰久による日本の漫画作品。中華一の大将軍を目指す少年信の活躍を軸に、中華統一を目指す嬴政と秦の攻防を描く[166]。2012年6月からNHKBSプレミアムで神谷純監督によりテレビアニメ化され放映されており、福山潤が嬴政を演じた。[167]
TV番組
『Secrets of China's First Emperor, Tyrant and Visionary』(2006年)。ナショナルジオグラフィック協会製作のドキュメンタリー[168]。日本未公開。
『China's First Emperor(英語版)』(2008年)。アメリカ合衆国のテレビチャンネル「ヒストリー」製作のドキュメンタリー[169]。日本未公開。
音楽
『The First Emperor(英語版)』。始皇帝を描いたオペラ[170]。日本未公開。
ゲーム
2005年発売のTVゲーム『Sid Meier's Civilization IV』では、中国の指導者として始皇帝が登場する[171]。
『真・三國無双 MULTI RAID 2』では始皇帝が三国時代に復活して登場する。

注釈
[ヘルプ]
^ 『史記索隠』が引く『竹書紀年』によると、前漢の武帝の治世以前の年始は冬10月と記述されている。
^ 参考文献「秦の始皇帝」p.166では、衡山の後は湘山祠、南郡、武關の順序となっているが、ここでは『史記』「始皇帝本紀」26にならう。
^ この蔵書は紀元前206年に項羽が咸陽宮に火をかけたことで消失した。Records of the Grand Historian, translated by Raymond Dawson in Sima Qian: The First Emperor. オックスフォード大学出版局, ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9
^ 参考文献「秦の始皇帝」終章のタイトルやp.277表記では「轆」でなく「車へんに度」の文字が使われている。仮に「轆」を用いる根拠は雲門文偃 に基づく。

虎馬:始皇帝 - W 

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地球天皇カナダ領
始皇帝曹操織田ブッシュ大元帥売虎7
地球太閤秀次ダビデ
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関白劉邦劉備秀頼ジィコブ
女皇毛利フリーザエリザベス
足利北朝ローマ上皇
ダライラマ南朝
皇孫賛上杉謙信プーチン
皇孫越伊達政宗キルサンイリュミジニフ
執権後北条習近平
源頼朝ガジシン鏡
項羽孫権徳川南米

日本古代史神武天皇〜

日本古代史の謎 ヨリ  

初代神武天皇 - W  = 第十代崇神天皇 - W  318年(または258年)没。
258年没説、崇神天皇、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半。
= 十四代神功皇后 - W = 壹與= 台与- W 
=第十五代応神天皇 - W 4世紀後半  

天照大神 - W =? サルタヒコ - W 
卑弥呼 - W (250年没?)
年譜 中国の歴史書による。
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
倭国、男性を王とした七、八十年
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。
魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、
掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始九年(248年) - またはその前後 卑弥呼が死に、墓が作られた。
(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、
掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
天照大御神の天の岩戸の神話は日食を表しているとの見方がある。
現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていない。
計算上は、邪馬台国の時期に日本列島で日食が2回起きた可能性がある。
卑弥呼が死んだとされる247年と248年である。国立天文台の谷川清隆・相馬充らは、
「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、
それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。
イザヤ - W =? イザナギ - W = オルペウス - W 

日本古代史をとりまく謎 - 邪馬台国大研究 

神武天皇日本建国思考3

§…九州王朝「倭国」…§  
http://www.geocities.jp/waikoku/index.html 
660年、百済滅亡。
661年、「倭国」の常色・白雉「甘木王」崩御、伊勢王崩御、白鳳王「薩夜麻」即位。
663年、白村江敗戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・捕虜連行。
664年、難波副都の天智が長門以東(本州・四国)守備・防衛・直接支配。唐劉仁願・郭務悰遣倭
665年、唐、司馬上柱国劉徳高・郭務悰254人遣倭。この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都「近江朝」独立・遷都・天智即位。唐・法聡遣倭。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐、郭務悰2千余人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、李守真遣倭。天智天皇崩御。倭国白鳳王「薩夜麻」帰国。唐、郭務悰2千人・船47隻来倭
672年、壬申大乱・天智「近江朝」滅亡・倭国再統一・白鳳王復位。
673年、倭国で復位の白鳳王が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、天武大海人崩御。
690年、最後の倭国王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、建郡「本来の大化改新」発詔、倭王高市暗殺、倭国滅亡。
697年、大和の文武天皇が日本国で初の即位。
698年、大和の文武天皇が日本国で初の大嘗祭。
701年、日本国開闢、「大宝」建元、新・大宝律令発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、高市天皇暗殺の倭国側下手人3名連続死(暗殺死?)。
704年、倭王天子「大宰府回帰」遷都「大長」改元。
710年、大和王朝「日本国」の新都・平城京遷都。
712年、隼人の乱、倭国残存兵全滅。続きを読む

維新幕末春間下丼〜

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