ソクラテスの弁明

ピッビー、フラワームーブメント、カルト 〜60年代アメリカの対抗文化とその周辺

§ カルトの歴史

カルトとは何か〜カルトの歴史にみるその歴史的本質その2


 “cult”と“カルト”

カルトの歴史を顧みる前に、この外来語の語源を考えてみることとしたい。

先ず、以下の点を特に強調しておきたい。マーガレット・シンガーが「カルトという用語は侮蔑語ではなく、単なる説明語である」と述べているように、本来“cult”という言葉は、否定的価値概念を含んでいない。それは、その語源からも明らかである。そもそも、この言葉は、ラテン語の“colere”( 耕す ) に由来した英語であり、現代英語においても“cult”は、「耕す」( =to till )を意味する「語根」( root )として、語彙を形成している。例えば、英語の“culture”( 文化 )も、この“cult”( =colere )から派生した言葉である。つまり“culture”という言葉が、「耕す」という原義から「耕作」「教化する」「文化」という意味に変化していった様に、“cult”という言葉もまた、「礼拝」「崇拝」「熱狂」を意味する言葉へと変化していく。「耕す」ことは「教化する」ことであり「崇拝」することに発展していく――そう理解できるのかもしれない。この点は、文化論を論じる際に興味深い論点のひとつである。

また、興味深いのは「植民地」や「村落」を意味する“colony”も“colere”( =cult )から作られた言葉だということである。これは、「耕作」「耕作する所」「植民地」「集団」といったようにその意味が変化していったものだ。例えば、現在、英英辞典で“colony”の項目を引けば「a group of people with a shared interest or job who live together in a way that is separate from other people」( 興味や仕事を共有し、他の人々から離れて暮らしている集団 )と言う記述を目にすることができる。つまり、“colere”とは、歴史の中で“cult”となり、“culture”や“colony”を生み出してきたのである。“cult”の語源をひも解くとき、人間が何かに対して働きかけることには、一定のルールや文化をもった集団を生み出し、それを熱狂的に崇拝することへ発展することが必然的であるかの様な印象を受ける。

補足するならば、ヨーロッパにおけるこうした教団のことを“sect” ( 仏:secte,独:sekte )と呼ぶが、“sect”はラテン語の“secare”( 切る ) に由来する言葉である。例えば“sect”は「宗派」とも訳されることからも分かるように、創唱型(教祖が新しい宗教を創始するタイプ)の“cult”とは区別される。

日本では、オウム事件の際、シンガーの「オウムはカルトである」というコメントが流れ、「カルト」という言葉が否定的価値概念を含む言葉として広く社会に流通するようになったと言われている(それ以前、オウムは新宗教と呼ばれていた)。それでは、何故、シンガーは、オウムを単なる説明語に過ぎない“cult”という言葉で呼んだのだろうか。ここには、ひとつの誤解が潜んでいる。1995年3月24日、共同通信によって彼女の談話が日本に配信されたが、正確には『オウムは終末論を説くカルト(doomsday cult)』というものだった。シンガーによれば、“cult”とは「ひとつのグループに関する起源と社会的構造と権力構造を指し示している言葉」に過ぎないのであり、「全てのカルトが宗教的な団体である訳では全くない」のである。つまり、シンガーはオウムを前述の権力構造をもつグループのひとつの類型として捉えたのであり、“cult”という言葉を宗教的マイノリティに対する侮蔑語として用いた訳では決してないのである。

しかしながら、日本のマスメディアがオウムを「カルト」として紹介した結果、「カルト」は「社会問題化した宗教」という一般的認識が定着することとなる。1995年当時の日本を振り返るならば、オウムの一連の事件の影響があまりにも甚大だったために「カルトとは何であるか」という冷静な議論をする社会的余裕はなかったのかもしれない。しかし、結果として、日本では“cult”という英語を“カルト”として導入する際に、この言葉がもつ多様性やその背後にある問題の多くを等閑視してしまったのではないだろうか。わたしには、そう思えてならない。もちろん、アメリカにおいてもカルトに対する誤解や偏見は根強い。しかしながら、日本では前述のオウムの事件以来、カルトに関する議論は歪曲され、より限られたものになっている感は否めないのも事実なのである。シンガーはその著作『カルト』の中で以下のように述べているが、それが示している内容は的確に現実を捉えている。


「全てのカルトが宗教的だという誤解ゆえに、カルトの内容が多種多様であるばかりか、大小様々なカルトが我々の社会で増殖していることに多くの人々は気づいていない。」


我々は、“カルト”を論じる前に“cult”という言葉がもつ多様性や、その背後にある問題を再検証しなければいけない時期にきているのかもしれない。

Posted at : Nov 29, 2006 20:21

カルトとは何か〜カルトの歴史にみるその歴史的本質その3


 1960年代(前編)〜カルトの温床

1960年代の世界情勢、とりわけアメリカにおける社会的政治的変化は、カルト発生の温床になったことは多くの専門家の指摘がある。例えば、シンガーは以下の様に述べている。

1960年代末に指しかかると、アメリカは、新しいカルトが次々に生れることになる類まれな時代を経験することになる。アメリカが大規模な社会的政治的変化――すなわち、麻薬文化、抗議デモ、ベトナム反戦運動、市民の不服従、学生のよる反乱、性革命、家族生活の崩壊――に見舞われると、社会情勢はカルト指導者たちの出現に打ってつけのものとなった。

アメリカでは、第二次世界大戦と朝鮮戦争後の1940年代から1950年代にかけて、カルト的な活動が新しい反文化(カウンター・カルチャー)の幕開けともに登場したが、続くこの1960年代、つまりアメリカ文化の変動期であるこの時代にその動きが加速されることになる。大規模な紛争、核兵器による潜在的な大量虐殺への恐怖、そしてそれらによって生じた深刻な価値感の危機が、やがてカルトやセクトの揺籃期を導くことになる。

1960年代の世界情勢を振り返るなら、世界的に、マイノリティーの運動と学生運動が結びつき、ラジカルな運動が展開されていた時代である。1968年、フランスでは、べトナム戦争、プラハの春事件等の国際的な「グローバリゼーション」に反対し、自由と平等と自治を掲げ、パリで一千万人の労働者や学生がゼネストを行った。これには、実存主義哲学のサルトル( Jean-Paul Sartre )も応援演説に駆け付けたと伝えられている。各大学はストライキに突入し、このゼネストは、第二次世界大戦以来、フランス政府に深刻な危機をもたらす結果となった。これが有名な五月革命である。フランスのみならず、ドイツのボンでの反グローバリゼーションの抗議行動、イタリアのフィレンツェでの大学学生抗議行動、ローマでのストライキ、遅れて1969年からの東京大学学生占拠にみられる全共闘の活動に連携し、国際的反グローバリゼーション運動は世界中に広がっていた時代である。

そして、この時代のアメリカは、前述した様に、1963年のワシントン大行進で最高潮に達した公民権運動、そして1960年から始まるベトナム戦争への反対運動のその只中にあった。しかしながら、周知の通り、ベトナムから撤退を宣言するはずだったケネディ( John Fitzgerald Kennedy )が暗殺され、公民権運動の果てにキング牧師Martin Luther King )は凶弾に倒れてしまう。全て”死”という悲劇的な形でしか結論を見出せないような混迷の時代の入口にアメリカ社会は立たされていた。そうした中で、こうしたアメリカ的な価値観に背を向けた若者たちが「ヒッピー」を名乗り、既成の社会体制や価値観を否定し、脱社会的行動をとっていくのである。

The 1960s

では、カルトを生み出したヒッピー・ムーブメントとは一体何だったのだろうか。ヒッピー・ムーブメントと、そして、この時代のサブカルチャーについて若干振り返ってみたい。

1960年代はサーファー、サイケ、ロックンロール、フォークなどが大流行した時代であり、ビートルズが“ブリティッシュ・インベンジョン”( イギリスの侵略 )としてアメリカの音楽を席巻していた時代でもある。インドの瞑想に代表される東洋的な哲学に耽るなど、非生産的・快楽主義的な傾向が特徴とされている。LSD( 幻覚剤 )の使用がヒッピーの間で使用されたのもこの時代である(1967年にアメリカで禁止になる)。ヒッピー・ムーブメントは、何よりも、アメリカ社会が専門家、技術者集団に管理される高度資本主義社会に対しての反文化として存在していた。この反文化の精神こそがヒッピーを生み出したのである。神に対する悪魔崇拝、伝統的キリスト教に対するインドの瞑想、また既存の音楽に対するロックンロール、これら全てが既成の価値観に対するカウンター( 対抗 )だった。例えば、悪魔崇拝は、神と対抗する存在である悪魔こそ最高の神であると考えてそれを崇拝することに他ならなかった。また、アメリカにおけるキリスト教は、第二次世界大戦終結後、青年層の中で西欧キリスト教文明の終焉が強く意識されるようになり、これに対する反文化として禅などの東洋思想が注目され始めたとのもこの時代である。ヒッピーの精神を体現している言葉は、“LOVE&PEACE”であり、ジョン・レノン( John Winston Ono Lennon )の歌のタイトルでもある“Power to the People”であると言われている。彼らは“Flower of Children”とも“Love Generation”とも呼ばれていた。ヒッピーは平和と愛の象徴として花で身を飾ったことからこの名前がつけられたと言われているが、その根底には、「平和」や「博愛」といった不健全なまでに真面目な精神があったのである。

また、1960年代のアメリカの社会情勢は、当時の娯楽映画や大衆文学にも有形無形の影を落としている。フランケンシュタインや狼男といったモンスター映画の人気が復活し、「Famous Monsters of Filmland」といった専門雑誌まで登場し、古い恐怖映画に注目が集まるのもこの時代である。1967年に発表されたアイラ・レヴィン(Ira Levin)のホラー小説『ローズマリーの赤ちゃん』(Rosemary's Baby)には当時興りつつあった悪魔崇拝(Satanism)の影響を見てとることができる。また、1968年に公開されたゾンビ映画の原点である作品『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(Night of the Living Dead)では、無差別に銃殺されるゾンビが描かれているが、それはまさに公民権運動の果てに無慈悲に殺される労働者のイメージに重なるものであることを、監督であるジョージ・A・ロメロ(George Andrew Romero)が、後に自ら語っている。さらに、この時代を象徴する1969年の映画『イージー・ライダー』(Easy Rider)の中でには、当時のアメリカの姿が若者の視点から余すところなく描かれているが、ロック、マリファナ、ベトナム戦争、人種問題、そして自由といった問題が当時の若者文化に影響を及ぼしていたかが分かる。

The late 1960s

また、特筆すべきは、このヒッピー・ムーブメントがパーソナルコンピュータ革命を生みだすきっかけになったという指摘がある点である。アップル・コンピューターの創立者であるスティーブ・ジョブズ( Steven Paul Jobs )や、オラクル社のCEOであるラリー・エリソン( Larry Ellison )は、共にヒッピーであったことは良く知られている。スチュワート・ブラント( Stewart Brand )は、1995年にTIME誌に寄稿したエッセイの中で「当時は、社会全体に無政府主義が危険なまでにはびこっていたが、権威を軽蔑するカウンターカルチャーのこうした姿勢が、管理者を置かないインターネットコミュニティー、ひいてはパーソナルコンピュータ革命の哲学的基礎を与えることになった」、と述べているが、事実、インターネットの起源とされるARPANET(Advanced Research Project Agency)が作られたのが1969年。このARPANETが1970年にUCLAなど西海岸を中心とする四大学に接続した時、ネットワーク構築の中心にいた20歳代の研究者は、まさにヒッピー世代に属していた。「人民に力を」が「人民にコンピュータを」につながった訳である。

このようにして見てくるならば、ヒッピー・ムーブメントとこの時代のサブカルチャーは、総じて既存の権力に対する反文化(カウンター・カルチャー)として存在していたと言っても過言ではない。また、劇的な社会情勢の変化は、人々の混乱と狂気を誘発し様々なサブカルチャーを生み出していく。もちろん、反文化運動は宗教運動ではないが、この反文化運動には、心霊的なものや、東洋的なものへの顕著な志向を有していた。特にヒッピーたちはコミューンを作り社会と遊離するに連れ、快楽主義的な傾向を強め、また、異教への憧れからLSDや神秘主義へと没入して行くことになるのである。

こうしたヒッピーたちの間に、強力なカリスマ性を持ち、支配的な指導者が現れるとき、“カルト”は、時代の中でその意味を大きく変えていくことになるのである。

Posted at : Dec 6, 2006 00:01

カルトとは何か〜カルトの歴史にみるその歴史的本質その4


 1960年代(後編)〜カルトの拡大

1960年代、社会的変動が激しさを増せば増すほど、若者は、より一層、心霊的なもの、異国的にものに惹きつけられて行った。それは、取りも直さず、凄惨極まるベトナム戦争と、信用失墜した政府に対する反動に他ならなかった。こうして、この時期に出現した新(ネオ)キリスト教と、東洋式のカルトが精力的にその勢力を伸ばすことなる。ここで、その代表的なものを概観することにしたい。

●ハーレ・クリシュナ
A. C. Bhaktivedanta Swami Prabhupadaハーレ・クリシュナ、正式名称「国際クリシュナ意識協会」(The International Society for Krishna Consciousness)は、1966年、A・C・バクティヴェー・ダンタ・スワミ・プラブパーダ(A. C. Bhaktivedanta Swami Prabhupada)によってニューヨークで設立された新興宗教である。クリシュナ(Krisna)とは、インド神話に登場する英雄で、ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身である。"ハレー・クリシュナ"とは、本来はクリシュナ神を讃える言葉(マントラ)であるが、尊氏(グル)であるスワミが、クリシュナ神が心の中にいつも存在するという「クリシュナ意識」に到達するためのマントラとしてこの言葉を欧米に広めた。以来、「ハーレ・クリシュナ」は、間接的に「クリシュナ意識運動」を指す言葉として定着している。1960年代後半には、繁華街でサフラン色の僧衣を着た剃髪の外人が太鼓をたたいてハーレクリシュナと歌っている光景がよく見かけられた。この運動は、60年代末のビートルズ旋風やヒッピー・ムーブメントと共に、これまでとは全く異質で新しい信仰や運動の形態として、当時の若者に歓迎された訳である。つまり、この運動は、当時の社会の中では対抗文化のひとつとして受け入れられたのである。この運動及びこの協会が、カルト宗教であるか否なについては議論が分かれるところではあるが、この協会は、幼児虐待問題など数々の論争の的になってきたことも事実である。また、一言付言するならば、ビートルズが、1967年に発表したシングル「アイ・アム・ザ・ウォルラス」(I Am the Walrus)の歌詞の中で、このハーレ・クリシュナが歌われている。

●神の子供たち
David Berg神の子供たち(Children of God)とは、1968年、デービッド・バーグ(David Berg)によって、カリフォルニアで設立された新キリスト教系の教団である。バーグは、1964年、クリスチャン・アンド・ミショナリ・アライアンス(Christian and Missionary Alliance) の牧師となるが、その後、転向し、1967年、ヒッピーの本拠地である南カリフォルニアで、キリスト教プロテスタントのペンテコステ派の一派であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド(Assemblies of God)の牧師として伝道活動を開始する。「神の子たち」はのちに「愛の家族」(Family of Love)という名称になり、やがて単に「ファミリー」(The Family)と呼ばれるようになるが、ロックやアートを布教に活用し、無料でサンドイッチとコーヒーを提供するというスタイルで、ヒッピーを対象に伝道活動を始めることになる。神の子たちのメンバーは、当初、村落(colony)と呼ばれる共同体(Commune)を組織するが、現在、この共同体は、「家」(home)と呼ばれており、世界中の様々な都市で共同生活を行っている。アメリカではカルト教団のひとつとして認識されており、幼児虐待やマインドコントロールを行うカルトであるという調査報告が多数ある。

●超越瞑想
Maharishi Mahesh Yogi超越瞑想(Transcendental Meditation)とは、インドの物理学者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(Maharishi Mahesh Yogi)が、1958年、インドで開始された超越瞑想運動が原点である。この"マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー"とは、「悟りを得た偉大なるマヘーシュ師」という意味である。マリハシは「人類が背負っている苦悩や悲惨は不要なものである。生命はその本質において至福であり、すべての人間は何物にも縛られない至福の意識を経験することができる。超越瞑想の簡単なテクニックで、それを日常生活にまで貫徹させることができるのである」と主張する。この内容は、1963年、マハリシによって著わされた『超越瞑想入門』(Science of Being and Art of Living)の中で、我々の前に最も纏まった形で提示されている。マリハシ自身が超越瞑想の医学的効果を強調するように、超越瞑想は「宗教=科学複合運動」の性格が強い。超越瞑想運動は、1970年代に入り、国際的に認可された大学、マハリシ国際大学(Maharishi International University)を設立し、その後、この教育機関を世界100ヶ国に広げていく。こうして、この時代、超越瞑想のテクニックを、ビートルズや女優のミア・ファロウと言った多くの著名人が学んだと言われる。例えば、ビートルズが、1968年に発表した通称ホワイト・アルバムに収録された「セクシー・セディー」(Sexy Sadie)という曲は、マハリシが歌われている。また、1978年にリリースされたザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)のアルバム「M.I.U. Album」のタイトルの中の"M.I.U."とは、前述のマハリシ国際大学を意味しているなど、この運動がサブカルチャーに与えた影響は大きい。また、ハーレ・クリシュナ同様、この運動が、カルト宗教的な要素があるか否かについては、議論が分かれるところである。この協会も幼児虐待問題など問題点が指摘されてきたことも事実である。

●国際化の道
Victor Paul Wierwille国際化の道(The Way International)とは、1967年、ビクター・ポール・ウィルヴィレ(Victor Paul Wierwille)によって正式に設立された宗教的組織である。この組織の起源は、1942年、創立者であるウィルヴィレが出演した“夕べの調べ”(Vesper Chimes)というラジオ番組まで、その起源を遡ることが出来る。それ以前、ウィルヴィレは、オハイオ州はバン・ワート郡で、プロテスタントの牧師として働いていたが、このラジオ番組を境に伝統的なキリスト教の教義を拒絶し始める。ウィルヴィレは主張した。「今、私があなたに話しかけているように、神は、私にはっきりと聞き取れる声で話しかけてきた。神は、私が多くの人々にそれを述べ伝えることが出来るなら、キリストが生れてから現在に至るまで決して知りえなかった真の御言葉を教えようと言われた」、と。しかし、彼が主張する教義は、その多くがE.W.ブルリンガー(E. W. Bullinger)やE. W. ケニアン(E. W. Kenyon)いった理論家の剽窃であり、また、三位一体の教義とイエスに関する主張に関しても、エホバの証人(Jehovah's Witnesses)のそれと酷似していることが指摘されている。ウィルヴィレの教義のほとんど全ての原理は、目新しいものは全く無く、折衷的で、異種の教義の混合に過ぎなかったのである。この組織は、大学のキャンパスを中心にその勢力を伸ばしていくが、特に、1985年、創立者であるウィルヴィレの死後、様々なスキャンダルに巻き込まれていく。

その他、この時代の代表的なカルトとして、トニー・アンド・スーザン・アラモ財団(Tony and Susan Alamo Foundation)や神の光伝道会(Divine Light Mission)と言った団体が挙げられる。さらに、この時代に設立された訳ではないにせよ、統一教会(Unification Church)と言った東洋式のカルトが、日本やアメリカで勢力を伸ばしていくのもこの時代である。また、カルト性は低いものの、チャーチ・オブ・サタン(Church of Satan)と言った宗教的組織が現れる点も見過ごせない。チャーチ・オブ・サタンとは、1966年、アントン・ラヴェイ(Anton LaVey)によって、サンフランシスコで設立された組織であるが、ラヴェイによって著された『サタニック・バイブル』(The Satanic Bible)の中で示されたサタニズムを実践することをその特徴としている。この著作の中で示されるサタニズムとは、今日我々が想像することが出来るそれとは、多くの点で相違点があるにせよ、この組織の登場は、この時代を象徴する出来事のひとつである。

                   ◆     ◆     ◆

Charles Milles Mansonこうした時代の中で、1969年、シャロン・テート殺人事件が起こる。この事件は、チャールズ・マンソン(Charles Milles Manson)がマンソン・ファミリーを名乗り、「戦場のピアニスト」で有名な映画監督ロマン・ポランスキー(Roman Polanski)の当時の夫人シャロン・テート(Sharon Marie Tate)をはじめ計5名を殺害した事件である。マンソンは、催眠術や魔術、フリーメイソンやサイエントロジー等の精神医学を研究する一方で、聖書を愛読し、歌手を志していた。ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)のデニス・ウィルソン(Dennis Carl Wilson)と曲の共作していたことも良く知られている。「ヘルタースケルターに備えよ。公害が環境を破壊している。人種偏見は醜い。愛は正しく悪は誤りだ。彼だけが病んだ社会を回復できる」、「やがて白人と黒人が大戦争を起こし黒人が勝つ。そのとき超純血種であるマンソンファミリーが世界の頂点に立つ」と言った狂言を繰り返し、音楽とドラッグで若者を意のままに操ったと言われている。マンソンは、独特のカリスマ性を持っていたと言われる。今日でも、マンソンに惹かれ、彼を英雄視するものは少なくない。例えば、80年代を代表するアメリカのロックバンドガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N' Roses)のアルバム『The Spaghetti Incident? 』の中では、マンソンが作った曲が、カヴァー曲として取り上げられていことは良く知られている。また、マンソンの顔をプリントしたTシャツを着るミュージシャンは後を絶たないことからも、それがうかがい知れる。こうして、ヒッピーたちの間に、強力なカリスマ性を持ち、支配的な指導者が現れるとき、“カルト”は、その反社会的性格を一気に加速されていくのである。

                   ◆     ◆     ◆

このように、1960年代という時代を振り返るとき、我々は倒錯した感覚に襲われる。この時代、ロックやサブカルチャーは、ピッピー・ムーブメントとカルトと別ち難く結びついている。今日、カルトとして名指しされている団体に、我々が良く知るミュージシャンや女優が関係していたことは、それはある意味衝撃的なことかも知れない。しかし、彼からがカルト信者だったという単純な構図で捉えられるものでは決してない。その事実は、この1960年代のアメリカという類まれな時代において、如何に社会全体に反文化運動や無政府主義がはびこっていたのかを、逆説的に証明するものではないだろうか。

続く1970年代、カルトは、この1960年代の精神を背景として、より広範囲にその勢力を拡大していくことになる。

Posted at : Dec 20, 2006 23:41
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