schizo-sphere 断腸亭「非」日常

この空間は、10パーセントの即物的客観的リアリティーと、90パーセントの「孤独な散歩者(ストーカー)の夢想」によって構成されています。 まちづくりウォッチャー。最近は珈琲に救われることが多くなりました。センスなし、ペーソスなし、ほぼ愚痴あり… 最近の課題は、学生に「昭和枯れすすき」についてどうやったら理解してもらえるだろうかと、そればっかり考えています…。

2014年05月

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 えーととりあえず波は乗り切ったとはいえ、少しまだちょっとバタバタ観がくすぶっておりますが、この間、執筆した原稿とは別に、ずっとヤンキー論的な文献をフォローもしていたんでそのあたりの中間まとめですか。いずれ一冊一冊の詳しい書評も簡単にしておきたいところですが、ざっとした備忘録的なメモです。

 そもそも、ヤンキー論とはいっても、既に序の分野では、前もご紹介した通り、80年代末に、京都の実際の暴走族に「参与的観察」という形でじっくり社会学者(でも手法としては文化人類学的なんでしょうか)の佐藤郁哉(今は一橋大の先生でしょうか)さんが取り組まれた著作が新曜社から出ていまして(今でも新刊で手に入る『暴走族のエスノグラフィー』となぜか入手しにくい『ヤンキー・暴走族・社会人』)、これは私の理解では、ある種の集団である限り、その範囲で暴走族の方々も「社会的行為」をされておりその行為には何らかの「合理的な(文化的?)背景」があるということを、綿密なフィールドノーツといいますか調査によって分析されていて、今でも非常に勉強になる資料なんですが、私の理解では、表のテーマが「暴走族の行動や行為を社会学的に合理的に説明できるか」という研究動機があると思うんですが、これらの仕事の裏テーマといいますかその背景として、1960年代前半のアメリカの逸脱者に対する社会学的研究があるのかなと。いわゆるラべリング論批判とでも言いましょうか、暴走族もそうですが、色々な社会的にトラブルメーカーとされていたり「逸脱者」の烙印を押されている人に対する実体の研究と、なぜ「逸脱者」が逸脱者という先入観を持って判断されるのかという文脈も研究対象にしためた研究として成立していたと思います。
 一方で、1960年代について別のことでいろいろ調べてまして、『孤独な群衆』でおなじみ、リースマン先生が、このころの大学が、大衆化したと色々な当時の大学の問題点をまとめた著作を読んでおりました。どうもアメリカ(つまりが米合衆国ですが)ではこのころ、教育の場面や社会的な場面での大衆化の社会的統合に関する何かのトピックが会った時代なのかもしれません。一方で、ソーシャルキャピタルでおなじみのパットナムや心の習慣のベラーによると、このころは、人々の都市生活や消費生活が発展したこと以外にもコミュニティーといいますか色々な市民サークルとか受け皿が教会以外の組織として増えていったり、本格的な工業社会化して郊外生活が展開した時代のようですが(『ボーリング・アローン』や『心の習慣』)、そんなことと後のヒッピーだとかアメリカ版の暴走族の出現などが関係している、その要因は何だろうか、このあたりもっと今後詰めてみます。

 で、日本に戻りますが、90年代に宮台さんがオタクとギャルの二文法でポストオウム社会の若者原像を取り上げて以降、細々と「オタク」とされるひとびとの分析とか社会的引きこもりとかの問題を扱った研究とかはあったんですが、00年代後半に例の丸山真男ひっぱたきたい宣言以降、社会学系の方はどうも若者論(かつての青年論)に関心を持たれ現在に至るようです。このあたり、実際はどうあれアイデンティティは「教育学者」の私としては実にくやしい。なんで教育学者は論客が出てこないのと。まあそれはさておき、浅野智彦さんや、本田由紀さんをはじめ、鈴木謙介さんも入るかな?、教室内カーストの鈴木さんやあとはそのさらにあとの世代では古市さんの『絶望な国の幸福な若者たち』なんかにもずーっと接続した分野だったんですね。これとまた別な視点からマーケッターの分析として、マイルドヤンキー論の原田さんや成熟社会の消費を分析対象にしている三浦展さん、オタク系やひきこもり系の論客ながら近年はまたヤンキー論の火付け役となった斉藤環さん、こういった論客の方々がそれぞれの分野から論点の軸線をのばしているんですね。賢い方々ばかりなので、当たり前ですが、「若者を論じること」や「ヤンキーを論じること」に現代の課題のとっかかりがあるとして皆さん注目されているんだと思うわけです。

 こういった流れとは一見、別の視点ですが、一方で、80年代後半以降の消費社会が日本に「定着」して以降の主に「文学」(市場)面での評論をされている編集者の仲俣さんや小谷野敦さん(トン先生ですね)の議論からは、本を読む人たちの中の大衆化、消費化の問題が扱われており、特にトン先生の俗物論なんかは興味深かったですね。本を読むかどうかだけでヤンキー論をわけるというのもあるんですが、本を読むからといって、ヤンキー論から外すことができるのかと。つまり、反知性主義とでも言いましょうか、一方で「知性におけるメディア論」といってもいいんですが、そのあたりの地の伝搬にかかわる大衆化論の問題。これは、遡ると、大学院生のころやっていたフランクフルト学派のある方々が取り上げていた文化産業論になりますはな。
 このあたりの文献を読んでいて気づいたんですが、例えばさっき取り上げた米合集国の大衆社会論は、1920年代の好景気と、その後の大好況でリセットされ更に戦後にもう一度という形で、二度ピークがあったんじゃないかと。日本も似ているとは思うんですが、1920年代はまだまだ階級社会で大学に言っている層もたぶん国民の1%以下で、文化大衆社会といっても都市部とそれ以外の圧倒的多数の地方とでは全く条件が違うし都市部内でもかなり格差があって「文化産業」というにはアメリカに比べればはるかに小さいサークルだったんじゃないかと。だから、例えば悪口になりますが、チャンドラーの「長いさよなら」をさる公共放送が力を入れてドラマ化するんですが、もともとアメリカ社会の反映の闇の部分を映し出しているんだけど(たぶん原作の舞台は1930年代ですか?出版は53年だけど)舞台が日本の戦後直後なんで、どうもこういっては悪いんですがそのドラマは「ドグラ・マグラ」みたいな感じになってしまって、大衆化社会の歴史の歩みの違いを実感したんですよね。
  

 さて、長々だらだら書いてきましたが、既に優秀な方がヤンキー論や若者論は展開しているのでそれはそれとして眺めつつも、要は、海外の大衆化社会論、文化産業論の動向をおさえるっていうことを今後はしようと思っているのと、あとは実は丸山真男氏が東大紛争のころに学生運動に幻滅して知識人論、大学人論を自己内省札という形でノートにと荒れているので、そのあたりもフォローしたいと。結局何をしたいかといえば、ヤンキー論でも若者論でもいいんですが、いまの時代の大学人として何かの論を出せないか、教育論を出せないか、そういった落としどころで進めていきたいと思っております。そうなると、ご本人はどう思われてるか知りませんが、中西新太郎さんの仕事や乾先生の仕事もフォローしてっていうことも意識したいところですが…いやーそうなると竹内常一先生というのはいろんな意味で勉強せんといかんですね…そしてもちろん竹内洋先生も…。

ってことで、そろそろ授業の準備を。「二時間目には早すぎる…」でも準備があるので失礼します。


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 いやーすっかりご無沙汰しておりました。もうかれこれ一ヶ月真っ白け。その間にコメントをいただいていたエントリーもあったのにすっかり気づかづ、大変失礼しました。

 どうも新年度というやつのバタバタと、その最中に原稿書きが重なって、ずるずると一ヶ月間書くタイミングを失しておりました。

 で、その間に何もしていなかったのかというと、やはりそれなりに本を読ませていただいたり、あるいは泥縄原稿のために突貫作業で急きょ今まで以上の膨大な資料に目を通してみたり、あるいはその大量さに絶望してまったく分野の関係のない作品の読書に逃亡してみたり…(いまだから許してください)。
 
 はたまた授業のためと称して、今更某テレビドラマ「半沢直樹」全10話を通してみたり…(さすがに「オイオイ」)あるいはまったく関係ないけど、土曜ドラマの「ファースト・クラス」という、エリカ様主演の「ちょっとありえない」展開のファッション誌編集者内の女番長ものとでも言いましょうか(「プラダを着た悪魔」でしたっけ?それのあか抜けないやつ)、そういったものにはまったり…。

 おかげさまで少しペースを取り戻しブログを書いたわけです。
 で、DVDレンタルといえばおなじみの、とあるカードでおなじみの、某所T社でレンタルセール中「準新作まで一本80円」という甘い声に誘われて14本も、借りてきて、それいつみるのというツッコミの中、ちょっと映画の紹介をしてみようかと…。
 「悪の法則」やら「セデックバレ2巻」やら「エリジウム」やら…はては壇蜜ものいろいろあるんですが、今回は、つい最近、角川さんとの合併でにぎわしたドワンゴの川上さんのプロデュース、監督は砂田麻美さんという女性によりとられたドキュメンタリー『夢と狂気の王国』です。

 映画『夢と狂気の王国』公式サイト

 この映画は、映画『風立ちぬ』が作成されるまでのスタジオジブリで主に宮崎駿さんと社長の鈴木さんが奔走し、絵コンテ作成から各スタッフがそれを実現化し、ひいては声優で庵野秀明氏が採用され、最後はクランクアップの打ち上げや宮崎さんの引退会見までの、そういった期間を圧縮して垣間見せてくれます。

 もちろんジブリ通の方にはもうご存知の情報ばかりなのかもしれませんが、『風立ちぬ』を作るまでの期間、宮崎駿さんや鈴木敏夫さんがどういった日常を過ごしているのか(いささか軽快すぎる感もあるんですけどそれはそれとして)、わかりやすく切り取って描いてくれています。

 私が感心したのは、知っている方も多いと思いますが、ジブリ内の高畑勲さんと宮崎駿さんの確執の歴史をさらっとながらおさえていたり、そして『風立ちぬ』クランクアップの時に高畑さんが宮崎さんの仕事場に駆け付けて鈴木さんとジブリの屋上で三人一緒にいたシーンを(たぶんあえて)無音で収録したり、なかなか見ていてよかったです。

 正直言うと、私もインタビューをして取材をする側の人間なので、そういう視点から見ると、もうちょっと突っ込んでもらいたいところもあるんですが、それよりも何よりも、宮崎さんの自然体のようでいてある意味、「いい意味で形になっている」言葉がいくつも収録されていて、それだけでも価値があったかなと思いました。
 
「人類の夢っていうのはみんな呪われてますよどっかで…(中略)…映画が素晴らしい…映画が本当に素晴らしいのかどうかはわからないじゃない…(中略)…かつてはそういう映画がつくられたことがあったかもしれないけれど今も映画の価値があるわけじゃない。多くはくだらないんですよ、僕らのこの世界は」

「ううん 俺見捨ててるよ 監督としては。 もう映画は作れませんよって。」

「僕は21世紀とあんまり付き合いたくない と思うけど21世紀の子どもがいっぱいいるんだよなぁ あそこに」

「映画そのものだからね サンキチは」

「(昔のインテリは言葉が少ないのは無口なんじゃなくて)頭よすぎてあんまり余計なこと言わないだけなんですよ」

 この作品を見ると、そうそう高畑作品の『かぐや姫』も似たような時期の公開だったんだよなとか、11月にまにあったなとか、柳川物語の話は出てこないよなとか、いろんな意味でほとんど映っていない高畑さんの存在の大きさが逆に伝わるような仕掛けかなと。

 宮崎さんもインタビューうけながら話しているのかどこまで自然なのか、そう思われる方もいるでしょうが、インタビューする側とすれば「みられてる」意識の上でもどこか無意識といいますか、その人の発する、あるいは迸るとでも言いますか、内面を現している言葉をどれだけ引きだせるか、そういった「命がけの飛躍」がありまして、その苦労も感じ取れたかなと。

 途中サングラスをかけていた宮崎さんがタモさんに見えたり、宮崎さんを造形したものをかぶったコスプレ宮崎さんについて宮崎さんがコメントしたりと、それはそれとしてたのしめましたしね。
 
てなところで皆さんも良ければぜひ。
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