schizo-sphere 断腸亭「非」日常

この空間は、10パーセントの即物的客観的リアリティーと、90パーセントの「孤独な散歩者(ストーカー)の夢想」によって構成されています。 まちづくりウォッチャー。最近は珈琲に救われることが多くなりました。センスなし、ペーソスなし、ほぼ愚痴あり… 最近の課題は、学生に「昭和枯れすすき」についてどうやったら理解してもらえるだろうかと、そればっかり考えています…。

2016年12月

2016-12-31-11-36-45
 私は、音楽の人でも、サウンドの人でもないし、正直、何か音楽を聴くっていうことが趣味とか生活にほとんどない人間なんですが、「ジャニスの祈り」って曲は好きだし、ジャニス・ジョップリンの曲はちょいちょいCMやらなにやらで聞いたり、私にしては珍しくCD借りたりもした方です。
 ということで彼女のドキュメンタリー映画がるというので見てまいりました。
映画『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』公式サイト
 
 まあ映画が好きと公言してる割に、ほとんどがDVD、劇場で見る機会もなかなかないのですが、この映画は何とか高松市のソレイユで見ることができました(しかも後で知ったんですが、秀作の音楽ドキュメンタリー祭りの一作品だったみたいで他のも見たかった...)。

 一言で申し上げると、「ヒドイ映画」でございました。「ヒドイ」というのは、文字通りの悪い意味ではなく、もう、語られてくるジャニスの生き様が、そしてそれがスター独特でしょうが、証拠物件の様な様々な映像になった過去の姿と相まってみごとに再構成されて、本当に「心を揺さぶろう」とされているのかもという、作り手に対する見る側の私の緊張感の防波堤が一挙に決壊するのではと、そう思わせる先品でした。そのくらい「ヤヴァい」し「ヒドイ」作品です。

2016-12-31-11-37-10 そんなに音楽詳しくないとはいえ、彼女が「全米不細工チャンピョンシップ」的な大会に無理やり大学時代エントリーさせられた話だとか、生き急ぐ生き方をしたのは知っていましたが、改めて、そう、いま生きていれば74歳の彼女が歩んできた時代と合わせて彼女の足跡をたどりつつ、彼女が時代の中で独自の抱えていた「闇」のような部分も見すえて映画いて見せてくれて、みてよかったと主ながらも、帰りに、この「重い想い」を聞いてもらえなければ、、、、という意味で半空さんで少し気を楽にしなければ帰路につけなかったです。

 彼女は南部生まれで、公民権活動への関心と、利発に振舞う性格から、とてつもないくらい高校生活を送ったようですが、20歳になったときに友人の誘いで音楽活動でサンフランシスコに拠点を移します。現在だと、IT的な意味でいわれる西海岸思想ですが、1960年代のサンフランシスコが、ビートニク、同性愛コミニティ、ヒッピー、COMMUNEなど、様々な点で自由を模索する実験的な場所であり、当時全米各所で盛り上がりつつあった公民権運動がさらに独自の触媒となった点も垣間見ることができました。ベビーブーマーにとっての60年代のサンフランシスコというのは、特別な意味があったんだろうなと。そういった意味では、いわゆるスティーブ・ジョブスなどもその「洗礼」を受けていたのではないかとかね(最近にわかファンも減りましたね)。

 ジャニスのドキュメンタリーは過去にもあったようなんですが、私は今まで見ていないので、本作と既存の作品との比較の仕様もないのですけれど、今回の監督は、エイミー・バーグ。「フロム・イービル」という作品では、教会内部の児童虐待の真実に迫る、ひりひりするような秀作を手掛けていた人だっただけに、今回の作品でも、そういった場面がいくつもあります。



 特にジャニスとかかわりのある音楽仲間や元交際相手などは、言い方は悪いですが、メディアの中で消費されていくジャニスのアクセルを踏んだ一人であることは間違いない人たちであり、そういった人たちが複数名出て生前の彼女を証言しています。それが肉薄すればするほど、彼女の生き方のリスクが大きく、感じるものは多いけれど、とても「ヒドイ」生き方をあえて選択している切なさというものがその分とても振り子のように寄せてきて、本当に決壊しそうでした。一番私にとって、「ヒドイ」と思わせられたのは、おそらく人気の絶頂にありながら、でも孤立感を感じていた傷心の彼女がテレビ番組でふと「高校の同窓会に招待されたので参加する」と宣言する、その後のシーンです。いじめられ、かつ友だちも誰もいないであろう同窓会に、彼女はメディアを引き連れて急きょパーティー会場で記者会見を開きます。それを遠巻きに見つめる同窓生がまた彼女の存在に向ける眼差しの冷たさは、何とも言えない過去の同級生と彼女の関係や黒歴史を瞬時に垣間見せました。まさに百聞は一見にしかず、という、映像ならではの見せ方でした。
 さらに、ウッドストックでは、薬物のためにフラフラでステージに立つのもやっとなくせに、サポートされながら、観客に向かって歌う前のスピーチで「音楽は、楽しくなくちゃ。体調に気を付けながら楽しんでよ。」というようなことを発っします。もう、どう突っ込んでいいんだというようなことを言いながら呂律が回らない彼女の姿がこれまた鮮明に突き刺さります。

 あー本当に、「ヒドイ」映画でした。内容ではなく、その内容に肉薄することで、メディアと、時代、そしてアイデンティティー・ポリティクスってことがもう60年から人を犠牲にしながら、そういったものと引き換えながら「自由」を手にしてきたことが、確認できました。

 それにしても、私の好きなジョン・べルーシーも死因が薬物の過剰摂取だったと思うんですが、もう一日何とかならなかったのかと、もうそればっかり思ってる人にインタビューするのは本当に「ヒドイ」なあと。
 それにしてもあのポスターはずるい。あの笑顔。。。。。見るチャンスあったら皆さんも見て下さい。そして私の感じた「ヒドさ」を悶々と共有しましょう。



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2016-12-30-16-00-212016-12-30-16-00-53 10月から何故か怒涛のデスマーチ進行で、瀬戸内芸術祭の秋会期もチケットをほぼ使うことなく終了した師走の入りからさらにひと月程過ぎ、クリスマス、年の瀬を皆様いかがお過ごしでしょうか。

 クリスマス前に、若手の同僚の方が行ってくれた名言を忘れないうちに書いておきます。
「自分の仕事ができるっていうのがクリスマスにおける最大のプレゼントです」。この尊敬すべき学畜、いや含蓄のある言葉こそ、私にとっての最良のクリスマスプレゼントでした。

 さて、それはさておき、私がお手伝いをしている(といっても名ばかりですが)社会文化学会の全国研究大会も12月初旬に終わり、通常用務に取りかかって追ったところ、昼休みにうとうとしたようで、こんな夢を見ました。そう、夢です。

 そう、どんな夢かと申しますと、梅棹忠夫さんに関しての夢でございます。まさに夢のような話でございました。

 梅棹忠夫さんというと、生態学者で民族学・民俗学者でありながら、様々なフィールドワークの情報を収集しデータベースなんて言葉が無い時代に人力でそうやって区分したり、今でいえばタグ付けをしたりと、もう人力グーグルだよなと思うしかない方ですよね(と思っていたら暦本先生曰く「一人グーグル」と評してましたか)。ちょうど20年くらい前に著作集か全集か何か出版され、また私が学生の時も岩波新書の『知的生産の技術』を授業で紹介され、ものすごく刺激は受けたけれどもそのまんまになった論客のお一人でした。そのころは対談などの紹介があったかもしれませんが、結局、それきりになっていましたが、何かの機会があればひも解いてみたいなと思い続けていたのです。そしてまたまったく別の絡みで知り合いになった、古地図とアプリを組み合わせたりウィキペディアやオープンデータなどにも精通されている方が、二年程前に現代の視点から梅棹さんの仕事から再びなにか応答を試みようというそういう魅力的な企画「梅棹忠夫と21世紀の「知的生産の技術」シンポジウム」を開催されていたのですが、、、、、色々と調整つかず、参加できずじまいでした。そういうものがどこか、無意識といいますか、潜在的な欲求にあったんでしょうね、同じ年に、半世紀以上前の梅棹さんの著作、『日本探検』が講談社学術文庫で再版されてその本に登場する地域を行けるときに訪問するみたいなことをしておりました。もちろん最初は、阿部正弘公ゆかりの福山市の広島県立福山誠之館高等学校です。

 さて、夢の話に戻りましょう。そんなこともあってなのか、夢を見ました。どういう夢かというと、東京大学大学院情報学環教授の暦本先生と、梅棹さんの著作も多いモンゴル史研究の第一人者である小長谷有紀先生が、梅棹さんの後姿と申しますか群像について、「梅棹アーカイブズ〜知的生産の技術は秩序と静けさのために」と題する対談をするという、非常に興味深い場面、そしてその場に私が聴講者として居合わせるという、そういった嬉しい「夢」でございました。
 まず夢の中での薄らいだ私の記憶では、暦本先生が、四つほど梅棹さんについての論点を出されてそれに応える形で小長谷先生がこたえつつアプライをし続けながら梅棹さんの記した道と思われる足跡をたどるという、とても興味深いものだった気がします。
 暦本先生が出された論点は、夢なんでうろ(うる)覚えですが、1、どこまで読まれるものを前提として梅棹さんは記録を取ってきたのか、とか、2、現代のSNSにおけるコミュニケーションが、炎上も含めある種の「感覚」ベースでの反応応酬の様な状況は、オフラインな環境の中で既に自身の著作についてのコメント的なものをも含め反応を「引詔批言」としてデータベース化した梅棹さんの想定していたコミュニケーションとでは、一見基盤としているところが似ていながらも、現代のコミュニケーションの課題に対してはむしろ梅棹さんは距離を取るのではないか(むしろその点で梅棹さんの情報発信、反応の収集、データベース化からさらに論理化するまでの過程は現代でもっと知られるべきではないか)とか、3、梅棹さんの視点の冷酷さ、とか、4、情報収集の装置化と一方で認識における身体化(技法化)との応答関係について、とか、とても興味深い課題提供だったと思います。夢の中の記憶によれば。

 さらに、会場には、岩波新書の『知的生産の技術』に書かれている、梅棹版の「京大型カード」が配られたりして(そう、表だけうすい罫線が入ってちょっと厚めのやつです)、あるいは、梅棹アーカイブの見学などがあったりして、非常に充実した「夢」でした。

2016.12.06-12.18 展覧会とシンポジウム「梅棹忠夫と未来を語る」

 私としては、暦本先生が二つ目にあげていた課題、現代のSNSのコミュニケーションと、梅棹さんの「秩序と静けさ」とされる情報の精緻化のお話には非常に印象に残っております、夢だけど。なんでかといいますと、これは、梅棹さんと鶴見さんとの関係とか、あの時聞いておけばよかったと思ったりしますが、私の場合、生涯学習や社会教育、地域社会を対象にして調査などしていると、お話を伺う市民活動や行政の関係者の方々、今風に言えば当事者の方々自身が、ある種の非常にポリティカルなコミュニティーとのやり取りをされており、その中でのコミュニケーションのやり取りは、ある意味「炎上」的なものも含んだいたりしながらのコミニケーションのように私には思えていて、そういった世界と隔絶してばかりでもまた調査といいますか、世界観を共有できないと思うこともあり、アツいコミュニケーションの世界との距離を取るのは当然としても、何かそことの間合いの取り方と申しますか完全否定はできないよなと感じていて、そういったことを梅棹さんがもう少しこちらの世界にいらしたらどう思われたのかは非常に気になるところでした。そして、例えば私がお手伝いをしている社会文化学会でシンポジウムをした際に立教大学の平野泉さんから報告いただいた、市民活動アーカイブのような、アツいコミニケーションの世界の人々がアーカイブズをつくっていくような活動などどう思われるだろうか、しかもその際には、「知的生産の技術」で行われたようなある種の情報のデータべス化なども意識的に図られたりもしていて、スマートな認識のスタイルと、プロセスにおけるカームダウンと、一方でアツいコミニティの世界と、その関連の仕方が、多様になっている現在、人工知能の「情報の仕分け」が一つの解決点としてしかも実現可能な選択肢として挙げられているような気がしていますが、梅棹さんはもう少し違う点を、人間の認識力の底上げを注目されるのではないか、などなど、勝手なことを後から夢のことを思い出して反芻した次第。

 さらにありがたいことに、夢の中では、小長谷先生から、2011年に出版された、梅棹さんの言葉を幾つかのジャンルでまとめなおした、『梅棹忠夫の言葉(河出書房新社)』を教えていただきました。この本は非常に興味深く、なんで、何十年も前にいろいろなことが言い当てられたように思えるのか、本当にさらに梅棹さんへの関心といいますか不思議さといいますかそれが増す、しかも何かの「梅棹論の字引」のようにも読める、面白い本でした。こちらは夢から覚めた後購入いたしました。

 梅棹さんの本は、古く感じられないので、つい最近もある人に岩波新書の『知的生産の技術』をすすめたわけですが、奥付を見るともう100刷近いんですよね。買い取りの岩波書店ですが、今だと、他社の新書だと、初刷りはともかく2刷り以降は2000〜5000弱とかお話を聞きましたが、もう50年近く読まれているので、時代的にたくさん吸っていた時代もあると思いますそうすると、ひょっとすると、100万部以上刷ってるかも知れませんね。それだけ多くの人々に、何かの「知的創造」的な生き方の示唆を与え続けてきたとうことになるでしょうか。

そう言えば、最近も、『知的生産の技術』ぱらぱら見ていて、「それ(技術)は、客観的かつ普遍的で、公開可能なものである。」(梅棹忠夫『知的生産の技術』8頁)というところを発見しました。さらっと言っちゃってるけれども、特に最後の点を50年も前にすでにさらりと言うところが梅棹さんの凄いところだなと。結局、技術というものが資本主義の中では、完全にオープンにはならず、かつもちろん国家権力関係をはじめとする行政の集約している「知的生産の技術」も(ガラス張りの透明性という課題はまだまだにしても)やっと少しづつ「オープン化」されつつある、そういう点で見てみると、現在を既に50年前に先取りをしているという意味で梅棹さんを評価できるとして、一方で、youtubeの「大衆化」した個人広告も含めて完全なオープンな技法として「知的生産の技術」が無しえていないという意味では、50年前の梅棹さんと現代のわれわれと、共通して少し先の未来を見ている、つまり梅棹さんの役割として過去から未来に何かのアスペクトを投げかけている人と思えてなりません。それにしても、日本の場合、梅棹さんとか室さんとか、コンピューティングとか情報社会に対して、いわゆるサンフランシスコ西海岸思想と別の根を持つ社会・人文科学系からのアプローチがあるって非常に興味深いんじゃないかしらなどと。

 あ、でも昭和研究会と梅棹さんの関係とか、香川県といえば小山修三先生も梅棹さんの本書かれてますよねとか、いろいろもっと質問しておけばよかったと思いますが、まあそれは夢なんでしょうがない。そういえば、小長谷先生の「アーカイブズに探る梅棹忠夫(仮題)」(ミネルヴァ書房)という非常に魅力的な本が出されるというようなことだけが明確に記憶されてますが、これは予約したいと思います。いずれにしてもいい夢を見た報告を2016年内にできてうれしいです。

知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹 忠夫
岩波書店
1969-07-21

日本探検 (講談社学術文庫)
梅棹 忠夫
講談社
2014-09-11

梅棹忠夫のことば
梅棹 忠夫
河出書房新社
2011-03-16




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20151225メディアアート祭

 2016年もあとわずか。今年草々に企画した、新年会は流れに流れ、昨日12月28日に「暫定日本一おそい2016年新年会」を行いましたが、残念ながら、2016年の抱負を出し合ったのに、忘れてしまいました。。。もう一回できるかな。

 さて、昨年の今頃は何をしていたかといいますと、ちょうど、高松メディアアート祭という、DOMMUNEの宇川直宏さんが、総合プロデュースした、「日本三大奇祭(立命館大学飯田先生の評)」のクロージングが行われておりました。このお祭り、かかわった方々に様々なトラウマと申しますか爪痕を残し、かつ世界中のありとあらゆるメディアアートが、高松の、しかも、旧高松城敷地内につくられたほぼ100年前大正時代に復元された大きな木造御殿、披雲閣と、高松各処のサテライト会場に展開するというものでした。宇川さんの深くかつ幅広い視野に基づくキュレーションなくしてはできない、とてもスケール感のある事業でした。
 また、メインの作品展示会場であった披雲閣も、特に高松市民にとっては誇りでもある松平家以降の江戸時代由来の権威と、更にそれを土台に明治以降の近代化が進められたこれまた近代高松市の権力構造の象徴のような、そういった御殿に、現代アート、メディアアートの「時間城」の様な世界が、忽然と年末に現れ、とんでもない磁場をある者には感じさせたと思います(ちなみにサムネの写真は、高松メディアアート祭中に登壇させてもらったDOMMUNEの場面を撮影してくれたビットコミニケーションの川西さんから頂きました)。

 私もその磁場に引き寄せられたものではあるのですが、ある意味、「発症」といってもいいかもしれません。私は現在、「なんちゃって丸亀市民(見習い中)」となっているのですが、その丸亀市で少年時代を過ごした猪熊弦一郎さんの言葉に「美術館はこころの病院」という名言があります。「病院」である以上、「院内感染」の危険性もあるのですが、まさに、高松メディアアート祭では、私も祭の「生き証人」の一人として言えますが、何かの「感染」とも「憑依」ともつかない「磁場」が発生したと確信できるわけです。つまり、「キャリア=感染者」であるわけです。いつ「発症」するともわからない、そういったものをかかえつつ。おりしも、つい最近の宇川さんの対談か何かのコメントで、アーティストを何かの「病人」に例えた芸術論の話を耳にしましたが、そういったものは見る側にも「伝染している」のであろうと、僭越ながら申し上げると体験をもって感じれたわけです。

 さて、いつ発症するともわかりませんが、宇川さんによって蒔かれた種、アートのウイルスは、その後、ほぼ一年を経過して、いくつかの方の手を借りて、また高松の苗床に着床しました。私も丸亀市民なのに、身の程を知らず期せずして関わってしまいましたが、丸亀市民は寛大なのか、その点を問いただす方は今のところおりません。

 さて、その種は何かと申しますと、まずこの高松市メディアアート祭で、お知り合いになった、スポーツタイムマシンの開発者、デザイナーの安藤さん、ゲーム開発や映像クリエーターを手掛ける犬飼さん、がこのメディアアート祭でスポーツタイムマシンを正直現在では閑散としつつある商店街に展示してくれたのを切っ掛けに、その後も、香川にかかわってくださいました。安藤さんは、瀬戸内国際芸術祭2016で夏期小豆島で出展された方々の一員としていらしていただき、犬飼さんは、e-とぴあかがわでの「e-スポーツ」展示で出展と監修をしていただけました。

 そしてさらにその数か月後、お二人から更なるアートの種がまかれました。
 
 2016-12-29-17-00-422016-12-29-17-00-522016-12-29-17-00-242016-12-29-17-00-20まず安藤さんからは、本業はアートブックや写真首を手掛ける出版業とグラフィックアートのお仕事をしながら、世界各国でお仕事で回られる際にシャッターに顔をイメージした作品を残している、フランス人アーティストのダミアンさんを紹介いただき、高松市内の音楽スタジオ経営者の方が名乗りを上げ、木太町に作品が結実しました。その模様は、唯一取材下さった、読売新聞社の12月1日付の香川版の記事で見ることができます。

image それと、犬飼さんからは、東京で哲学と人工知能を結びつけて、実装化と開発の今後を見すえた人工知能論勉強会ワークショップを開発者なども含めて取り組んでおられる、三宅陽一郎さんを紹介いただき、e-とぴあで講演をしてくださる機会に恵まれました。三宅さんの人工知能論の勉強会にも参加して思ったのは、「身体論」と「現象学」的な知見をかなり重視した人工知能論だというところで、私が大学時代に少しブームになった、認知論的な人工知能論から、さらなる議論の深まりを感じる論客であるだけに、非常に興味深かったですし会場もかなりの方がいらしてました。
人工知能のための哲学塾
三宅 陽一郎
ビー・エヌ・エヌ新社
2016-08-11



 これら、お二人の蒔いてくれた種に、「メディアアート祭」ウイルスのキャリアである私も、たぶん少しだけ発症して、何かのタネをまき続ける(なんだかゾンビのような話になってますが)、そうしたことが12月に集中してありました。思えば、香川県というか、高松市といいますか、不思議な県、不思議な都市で、住んでる方々のほぼ八割以上は、温和で、良くも悪くも保守的な方々が多く、正直そんな人々ばっかりだったら移住してきて失敗だった次の住むところを探すかと切り替えもできるのですが、その人垣の間あいだに、それこそ幽霊のように、目を凝らすと、なんかの「発症者」のような方がゆらゆらと現れて、そしていつの間にかそこの私も吸い寄せられるのですが、時折、月の廻りなのか、太陽の黒点の循環なのか、昨年の高松メディアアート祭の様な、大きな磁場が形成されて、おかしな磁場を発するようです。そうすると、また、私も「発症者」の一人としては、移動するのも面倒だし、免疫対抗をまた一からなんて手間を考えると面倒になるのです。

 とにもかくにも、こんな種をまくオオモトを生み出し(膿出し)、かつおそらくは物的にも精神的にも精根尽き果てたくらいの労力を投入されたであろう、宇川さんには軽々しく、『またやってください』とは言えませんが、また何かあれば「感染者」、「発症者」の一人としてゾンビになります。それと、この祭りで、様々な方々、キュレーターの田中さんや真鍋さんとか、色々なアーティストの方が世界中からも参加されたりすることにもなり、まさにトラウマと痕跡を高松市の歴史の一頁に記したはずでしょう。


ひっそりと30回をもってこの冬で閉幕した「高松冬まつり」の年の年末に。

追伸:飯田さん、年賀状書いてもいいですか?



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