2005年03月21日

キリスト教的「愛」、と大体3つの西洋的「愛」(愛 その3)

c8834d06.datさて、この古典ギリシャ世界に拡がってきたのが、キリスト教でした。
「愛」といえば、このキリスト教的な「愛」でしょうね、フツー。
明治以降の日本における「愛」という訳語は、キリスト教文化的「愛」ですから。
んで、このキリスト教的「愛」の代表がアガペーですね。

前回の、古典ギリシャ世界で使われていた「アガペー」が、転用されたわけです。
ですので、古典ギリシャ的「アガペー」とキリスト教的「アガペー」は、意味合いが全く違ってくるということです。
んで、問題の、キリスト教的「アガペー」。

・キリスト教的アガペーの愛
アガペーの愛は、新約聖書に固有の愛であり、神より出ずる愛、というのが大前提。
「○○の故に」愛する愛ではなく、全く自発的な、無条件の愛。
理由も利害もともなわない愛であり、根拠さえ持たない愛。
相手に価値があるとかないとか、そういうことには無関係な愛。

ある人が、誰か他の人をそのまま受け入れ、その人のために自分自身を差し出すこと。放棄にほかならない愛。
相手をそのまま受け入れ、認め、それによって相手の中に新しい価値を創造する愛。
自己愛を倍加するのではなく、自己愛を埋め合わせ溶かす愛であり、自我を強化するのではなく自我から解き放つ愛。

ラテン語のカリタス(caritas)は、このギリシア語・アガペーの訳語とされて、キリスト教的「愛」を指すようになり、さらに、「愛」にもとづく「慈善」の意をもつようになりました。
英語の「charity」の語源ですね。これが「隣人愛」なわけです。
クリスマスを浮かれ騒ごう!」にも書きましたが、当時、イエスによって、「でもあんた、隣人隣人って言うけど、その“となりの人”ってのは誰のことだい?」という疑問が発せられたわけです。
「親? 兄弟? 同志のユダヤ人? その人たちを愛する? そんなの当たり前ですからぁっ! 残念っ!」って話です。
当たり前のこと、わざわざ言ってどうする。「隣人 斬りっ!(ザンッ)」
「誰が隣人か」という「認識」ではなく、「隣人になったのは誰か」という「行動」。
「われわれ」の内へ向けて、ではなく、「われわれ」の外へ向かって、それが隣人愛の本義。

あ、もとい、
前回書いたように、このアガペーという言葉は、当時のギリシア世界ではあまり使われていない、特に特別な意味は持っていない言葉だったんです。
エロースの愛は、特別な意味を持っていましたが、もっとも普通の地味な言葉としての「愛一般」が、アガペーだったんですね。
初代教会の人々は、その地味さをいいことに、「アガペー」を、最上の愛・「神が人を愛する愛」であるとしたわけです。

イエスの説いた、これほどの純粋で力強くゆるがない愛、これほど過激で斬新な愛を、当時のユダヤ教世界に生きていた初代教会の人々は、今まで経験したことがなかっただけでなく、想像したこともなかったんですね、多分。
そこで、イエスの説いた「愛」を表現するのに、ギリシア語で「愛」を意味する言葉の中で、もっとも個性がなく、かつ使い古されていない「アガペー」という言葉を、この愛に充てたわけです。

アガペーは、それが愛する対象の持つ「価値」には、何の関係もありません。
例えば、自分に欠けているもの(エロース)や、自分を喜ばせるもの(フィリア)といった「価値」に規定されることはなく、むしろ逆に、愛することでその「価値」を決定するようなもの。
それは、「神に愛される人間は、それ自身ではいかなる価値も持たない。人間に価値を与えるのは、神が人間を愛するという事実(アガペー)である。だから、アガペーは価値の創造原理なのだ」、というようなもの。

とまぁ、古典ギリシャ、キリスト教とみてきたわけですが、ひっくるめて「西洋的」としてしまうと、ストルゲーはあまり使われないようなので、エロース、フィリア、アガペーが、西洋的な3つの「愛」だと言っていいでしょう。

エロースは、欠如に端を発し、我がものにしようとする愛で、享受することか苦しむことしか知らず、手に入れるか失うかしか知らない愛。
フィリアは、喜び分かちあう愛で、自分によくしてくれる相手に、よかれと望む愛。
アガペーは受け容れ与える愛で、与え自分を放棄する愛であり、愛されようと思うことさえしなくなる愛。
この3つの愛は、互いに排除しあう3つの本質ではなく、むしろ愛するという同じ領野に属する3つの極であり、生きるという道のりに含まれる3つの契機にほかならない、んだそうです。

この並び、僕のブログに馴染んでいる方々は、何となくピンときませんか?
そうなんです。
「われ」「われわれ」「われわれのその先」、僕にはそういうお話にみえてしまうんですねぇ。
というわけで、次回はその辺を中心に。

  〜 続々 続く 〜

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 SilverRainとは雨つながりです。夜の街の雨の風景というのは同じだけど、ずいぶん印象が違う。”半身”という言葉を使う事があるけど、自分とは違う他人のことを自分の半分と思えるというのは不思議だよね。 違うくせに似てる 違うから探してる  相手の中にある、似て
1/2の永遠/PSY・S【Non-Fiction】at 2005年03月22日 21:38
  わたしが自分に付けたHNとして 「ふぃりあ」という名前はまさに名前負け。 何も考えずに即興で付けたんだけど、 今となっては重過ぎました^^; ギリシャ語で「友愛」を意味する、 「φιλια」という語は、「お友達と仲良くね」 という自分へのいましめであり、
「ふぃりあ」という名は重い【あかねいろ臨床講堂B棟】at 2005年05月08日 13:32
先に、キリスト教の愛は自我愛ではないかと言ったが、ふと、神の愛に基づく隣人愛ならば、それは、自我愛ではないと思ったので、気になり、検索したら、そのようなことを述べているページがあった。 ★引用開始 《キリスト教は博愛、とくに「隣人愛」を説いている。
アガペーと隣人愛:神の愛とは、イデア界の差異共振性のことだろう。【JAPONESIAN APOCALYPSE ヤポネシアン・アポカリプス : TRANS-MODERN PLATONIC RENAISSANCE】at 2007年03月07日 16:20
この記事へのコメント
難しいので後でもう一回読みます。ギター侍ってまだ見たこと無いんですよ。ネットのニュース等で読んだので、認識は出来るんですがね。
Posted by スシファイ at 2005年03月21日 21:06
 PSY・Sネタでトラックバックつないでしまっていいでしょうか?
 このエントリーを読んだら、思い浮かんだ曲があったもので。明日あたりアップしようかと。(ずれてる可能性も結構あるが(^^;)
Posted by うちゃ at 2005年03月21日 22:28
スシファイさん、
はい、もう何回でも読んで下さい!

うちゃさん、
もちろん、僕の方は大歓迎です。
う〜ん、やっぱベスト買うしかないですかね (^o^)。
買うぞ〜〜!!
Posted by アキラ at 2005年03月21日 23:32
「われわれのその先の愛」まで達しようと思ったら、私の場合、300年ぐらい生きなきゃいけない気がします(泣)
Posted by gegenga at 2005年03月22日 22:02
だいじょぶですよ。
カメ好きは、長生きだと聞いたことがあります(どこで?)。
ギネスを更新してください!
Posted by アキラ at 2005年03月22日 23:21
アキラ 様

どうもコメントありがとうございました。
キリスト教の隣人愛に関する、これまでの私の不明による誤解が解けました。
アガペーと隣人愛が一体なのですね。

Posted by Japonesian at 2007年03月08日 15:25
Japonesianさん、
こんにちは。こちらこそ、ありがとうございました。
アガペー=隣人愛ってことになりましょうね。
それが人間に可能なのか?という問題がありますが・・・。 (^_^;)
Posted by アキラ at 2007年03月08日 18:02