2005年10月04日

山本七平氏の『「空気」の研究』 その1

「空気」の研究え〜、小室直樹センセー絡みで、izumiさんから「日本教」を紹介してもらって、なんだ、そんなことだったら、もっと早くに丸山眞男氏とか山本七平氏とか、読んどきゃよかった!
と思ってたんですが、大分経ってしまいました。
最近、ようやく、とりあえずとっかかりとして、山本七平氏の『「空気」の研究』を読みました。

う〜む、深いっす。
アフォーダンス同様、相当の検討を必要とするように感じました。
たまごの距離の「戦死した人を慰霊するということ」のエントリーを読んだ後から、これを読み始めたのですが、なんかすごく響き合う感じがしました。

まきこさんの言いたいこと、つい想像してしまったことは、何となくよく分かる気がします。
そして、その問題の背景に、きっとこの日本的「空気」の問題が大きくあるし、むしろこちらの方を検討すべきかなとも、個人的には感じています。
というのも、この「空気」の醸成には、「カラダにくっついたもの」が、いやおうなく大いに利用されるからです。

さてさて、「空気」というのは、
「いまの空気では、いかんともしがたい」
の「空気」ですね。
「オマエ、空気読めよナー」
の「空気」でもあります。
またまた、本の一部を抜粋してみます。
並べた状態で意味が通るように、若干、手を加えました。ご容赦ください(>特に山本氏 m(_ _)m )。
その部分は黒字にしてありますので。

「空気」とは、・・非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。・・
諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだ。
従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。


一体「空気」とは何か。これを調べるための最もよい方法は、単純な「空気発生状態」を調べ、まずその基本的図式を描いてみることであろう。・・
大畠清教授が、ある宗教学専門雑誌に、面白い随想を書いておられる。イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。
それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。
この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。実をいうと二人ともクリスチャンであったのだがーーまたユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。

骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。

といえば不思議に思われる向きもあるかもしれないが、われわれが俗にいう「空気」とこの「空気の基本型」との差は、後述するように、その醸成の過程の単純さ複雑さの違いにすぎないのである。
従って、この状態をごく普通の形で記すと、「二人は墓地発掘の『現場の空気』に耐えられず、ついに半病人になって、休まざるを得なくなった」という形になっても不思議ではない。


つまり、この日本人の二人は、髑髏の背後に「何か」を感じていたわけである。
それは、「思い込み」かもしれません。
でもその人が「確かにそう感じている」のなら、それによって影響を受けるわけです。
ある対象の背後に、何かが臨在していると感じ、そう受け取る。
そういう、強い傾向があるというようです。
その臨在する「何か」は、いろんな言い方をされたりしますね。
気、精、霊、鬼、息、風・・・・

そこに本当にそういうものが臨在しようが、単なる主観的な「思い込み」であろうが、です。
いづれにしても、何かが臨在すると感じ、それに心理的影響を受けて、それに支配されてしまうということがある。
ぜんぜん影響を受けない人もいるわけですから、外的な強制的な刺激によるとは考えられない。
つまり、その「臨在すると思われる何か」に、こちらがつい「感情移入」をしてしまうと、まるで暗示にかかったように、心理的な影響を強く受けてしまう、ということなんですね。
山本氏はこれを、「対象の臨在感的把握」と呼んでいますが、この「感情移入」が重要なキィとなっているわけです。


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この記事へのコメント
山本七平氏の15年周期説が気になり、下記のブログで考察しました。少年→青年→中年→老年ときて今の15年は何でしょうか?
 私は十二支の極である「子」の時代だと考えます。この字は終わりを表す「了」と始まりを表す「一」で出来ています。
 HPには哲学史の新解釈と新しい社会システムを提示しています。 

http://blogs.yahoo.co.jp/k_kibino/61221145.html
Posted by キビノ at 2010年04月16日 01:14
・キビノさん

こんにちは、初めまして。よろしくお願いいたします。

すみません、僕は山本七平氏の15年周期説を知りません。 (^_^;)
ですので、それが適切な時代考証なのかもよく分かりません。

時代の変遷の考証としては、宮台真司氏の『サブカルチャー神話解体』が秀逸だと思っています。
Posted by アキラ@キビノさん at 2010年04月16日 10:42