2006年12月01日

    

愚樵さんとの「絆」 その2

アラビアの青グリン?

個体としてのヒトを「自己」たらしめているものは、なんなのか。
野口晴哉師は、それは「生きる」といういのちの「要求」だ、と仰っています。
「裡なる要求」あるいはその「要求の実現」。

息をし続けている、はたまた有機的な統合を保ち続けようとする「何ごとか」である「裡なる要求」。
これが、個体としてのヒトを成り立たせ、一人の人間の「生きている」を成り立たせている。
自己を自己たらしめているのは、この「裡なる要求」だというわけです。
これによって、たった1コの受精した生殖細胞から殖えて形を成してきている。

その「要求」と「要求の実現・働き」にチョコンと乗っかっているのが、自意識(自我?)。
「“オレ”とか思っている自意識」は、「生きている」の主体ではないわけですね。
ヒトという自然」あたりが、そのへんを書いたものでしょうかね。

ですから、この「いのち」に「裡なる要求」がある限り、生きようとする限り、それはそうするのが自然であるし、そうするべきなんです。
それを、野口先生は「生命に対する礼」だと仰り、野口整体ではそれが最大の大事とされています。
「“オレ”とか思ってる自意識」がそこに邪魔をする形で介入することは、「生きている」いのちに対する「非礼」です。

よく「どうして死んじゃいけないんですか」とか「どうして人を殺してはいけないんですか」とかいうことを言う人がいますが、
そんなのは僕から言わせるとちゃんちゃらおかしい。
「生きている」のはお前の「いのち」であって、お前が「“オレ”とか思ってる自意識」ではない。

「いのち」が生きようとしている限り、それは生かすのが当たり前のことであって、それをお前の自意識でもって、殺すのは「いのちに対しての非礼」である。
他人のいのちを殺すのも、自分のいのちを殺すのも、同じことです。
同じ意味合いで「死刑制度」や「脳死という死の基準」なども、非常に問題があると思う。

そうしてこの「裡なる要求」は、「自己保存の要求」と「種族保存の要求」とに大きく分かれます。
すごく分かりやすく言うと、「自己保存の要求」は「生の要求」、「種族保存の要求(=性)」は「死の要求」とも言えましょう。
「青年」という思春期〜ニ〜』を参照してみてください。

とまぁ、今まではこんなところだったんです。
それが・・・・
最近、小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)を読んでから、以前のアフォーダンスなんかのことと絡んで、いわゆる「“オレ”とか思ってる自意識」といった捉え方を、よくよく考え直さないといけないなと思っちゃったんです。

この本は、いろんな意味で非常に衝撃的な本です。
興味があったら、是非読んでみてください。

この本を読んでいただければ、「生きている」と僕が表現したいところのものが分かってもらえると思います。
だから脳死=「脳不全」状態の人は、当たり前ですが「生きている」。
脳が死んでるだけですから。

んで、僕は今まで大脳の余剰活動が「自意識」=「“オレ”とか思ってるヤツ」になってるんじゃないか、と思っていたわけです。
養老センセーの影響が大きいですね (^o^)。
考えるヒト」あたりのエントリーが、参考になるかな。

でも、ジェームズ・ギブソンのアフォーダンスを知ってから、以前から疑問に思っていた
「でも実際に起こっていることは、中枢による“解析・統御”を経ているような、そんなのんびりしたもんじゃないだろう?」
ということの謎が少し解けたというか、なるほど!!と思った。
それでも、脳は「解析・統御」するものだと思っていたんです。

小松さんは、アメリカの小児神経学者のアラン・シューモンを紹介して、
脳の統合機能の大半は実は身体を統御していない
「(脳は)身体の統合性そのものを創り出しているのではなく、既存の統合性を維持し改良しているにすぎない
身体の統合機能には、脳が介在しないものや一部の脳死者にも存在するものが多数ある
と指摘します。

「危険に対する反応」が典型例だ。
 この場合、運動感覚系の情報処理を脳が行っているという意味で、たしかに脳は「危険に対する反応」に関与している。
 だが、脳はもともと存在していた「危険に対する反応」を維持し改良しているだけで、脳が「危険に対する反応」自体を生み出しているわけではない。


呼吸を例に考えてみよう。
 もし、呼吸が肺による喚気という外呼吸を意味するのなら、そもそも外呼吸は身体の統合機能ではないし、生存に必須の機能でもない。
 なぜなら、胎児や人工心肺によって体外循環を受けている患者は、外呼吸がなくとも身体の統合性を維持して生きているからである。

 つまり、外呼吸という意味での呼吸は、身体の統合機能そのものではなく、その条件に他ならない。
 他方、呼吸が細胞内のミトコンドリアでの酸素と二酸化炭素とのガス交換という内呼吸を意味するのなら、呼吸は脳を介さぬまま、外呼吸以上に身体の統合性を創り出しているのである。


そうして、
脊髄には損傷に対する可塑性があるため、知覚運動性の障害は治る。
 また、全脳髄梗塞患者や頸髄損傷患者に手術を行うと心臓血管系の反応が見られる。
 さらに、脳死者に発汗・顔面紅潮・頻脈・急性血圧上昇が生じる。これらの事実は脊髄にも統合機能があることを示している。

 また、脳死者のラザロ徴候や呼吸様運動、脳死者に刺激を加えた場合に起こる四肢や胴体の複雑な動き、これらの運動自体は身体の統合性には数えられないとしても、脊髄の統合機能に関係していると考えられる。

と指摘します。

要するに、脳が統御するとされてきたカラダの統合性の多くが、実際は脳が生み出しているのではなくて、脳自体はすでに存在している統合性を調節しているに過ぎない、というわけです。

有機体における脳の役割は、統制的というよりも調整的であって、有機体の質や生存能力を高めることである。
 脳とは身体の有機的統合性の統御者ではなく、調節者に他ならない。

 ・・・・・
 有機的統合性の本質とは、どこかに局在することでも機械によって代替可能なことでもなく、(哺乳類の場合は血液を介した)全細胞や全組織の相互関係なのである。

おぉ〜! なるほど、調節者ね!
妙に納得、というか。

さらに、
意識は大脳皮質だけで感じているという証拠はない。
 しかも、正常状態では高次の中枢が機能していれば下位の中枢は抑制されているが、高次の中枢が傷害されれば下位の中枢がはたらくことはよく知られた事実である。

 したがって、大脳皮質がはたらかなくなれば、皮質下中枢が、さらには脳幹が、そして脊髄が、中枢として機能する可能性がある以上、脳死状態に陥ったからといって意識がないという保証はない。
 さらには、意識がないとされる患者でも、医師が話しかけるときと、家族のうちの特に母親が話しかけるときとでは、表情に違いが感じられる場合がある。

ということらしい。

そうなると、有機的統合性のみならず「意識」だって、実は脳とは関係のないところに「場」を持っているかもしれないわけです。
臨床的に「意識がない」とされるのは、あくまでも「覚醒」と「認知機能」との両方がなくなった状態を指すそうです。

「覚醒」というのは、外界に対して注意が向けられて刺激を受容し、反応が可能な状態にあることを言うのだそうだ。
「認知機能」というのは、外界からの情報をもとに外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力だそう。

そうして、一応これを脳の各部位に還元させるとすれば、「覚醒」は主として脳幹に、「認知機能」は大脳皮質に対応していると言われています。
リング上で、最初に食らった一撃でもって「いわゆる意識」がとんでしまったボクサーが、でもその後もそのまま戦い続けて、結局相手をKOして勝ってしまった場合、「覚醒」はしてるけど「認知機能」がなかった状態だった、ということでしょうかね。
臨床的には「意識がある」状態。

そうして、外界との交流という意味での認知機能はないですけれども、「内界」における認知機能がどうなのかは、測ることも知ることもできないわけです。

3ヶ月以上植物状態が続いている場合、俗に言う「植物人間」の状態ですが、彼らも基本的にはこれと同じく、「覚醒」はしていて「認知機能」がない状態だそうです。
「覚醒」と「睡眠」とを繰り返しているらしい。

また、頭皮上で測る いわゆる「脳波」が平坦となっても、深部脳波は必ずしも平坦ではないそうで、つまりは活動をしている可能性がないとは言えないそうです。
この深部脳波の発生源として、脳幹と基底核、海馬などの可能性が挙げられています。
もし、記憶や夢に関わるとされている海馬が機能しているならば、意識や感覚がないとはマジで言い切れなくなります。
内界においては、「認知機能」が働いている可能性だってある。

小松さんが紹介されているアラン・シューモンは、80年代には「大脳皮質が死ねばそれは人の死である」という皮質死論者だったのですが、アンドリューという6歳の水頭無脳児(頭蓋内に脳脊髄液が異常に溜まった無脳児)との出会いによって、その見解を改めます。

「彼は水頭無脳児でありながら、音楽に嬉しそうに反応し、鏡に映る自分の顔をみて嬉しそうに笑うのである。
 さらには、背臥位の状態でも足をぴょこぴょこさせながら、家具にぶつかることもなくベランダに出ることができた」


このアンドリュー君の紹介は、僕にとってはショッキングでした。
中枢機能が順次下位へとバトンタッチしていくことや、「覚醒」や「認知機能」の話から考えれば、このアンドリュー君には「自意識」があるでしょう、どう見たって。

そうなると、アフォーダンスのところで紹介した、ギブソンとほぼ同じ時代に生きたグレゴリー・ベイトソンの物言いを、よくよく検討しなければなりません。
きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木につけた切り目によって制御されている。
 このプロセスの自己修正性(精神性)は、木ー目ー脳ー筋ー斧ー打ー木のシステム全体によってもたらされる。
 このトータルなシステムが内在的な精神の特性をもつのである


「意識」はどこからやってくるのか。
それはまだ分かりません。
これからも模索は続けられるでしょう。
でも、「何ごとにもならない」でいようとするのは「アタマ」の働きであるというシリーズを以前書きましたが、
この「ある同一性を保とうとする働き」、「何ごとにもならない」働きを、「アタマ」に還元させようというのは、これではどうやっても無理というものでしょう。

そんなこんなで、最近は「何ごとにもならない」でいようとしているのは、実は個体の根源である「裡なる要求」なんじゃないだろうか? とか思っているんです。
そうして、「自意識」的なものはそこにすでにある、と。

つまり、「“オレ”とか思ってるヤツ」は「自意識」というよりも、やっぱり「自我」というべきものだろうということです。
「自意識」と「自我」とは別のもの。
「自意識」に乗っかる形で「自我」というヤツがあるのかな?と。

気づくか気づかないかに関わらず、「裡なる要求」に端を発して、峻別し、学び、寛容になったり頑なになったりし、育ち、共生し、棲み分けするような、そういう「営み」自体がそもそも「自意識」たり得ている。
その営みに、自ら「あれ?」と後から気がついたというヤツが「自我」かな?と。

そうして、この「自意識」と「自我」とが渾然一体となっている人もいれば、完全に分離した状態になっている人もいる。
僕などは、この「自意識」から「自我」がかなり乖離した状態にあるように感じるんです。
常に自分を見ている「オレ」がいる。
ビョーキですよね。 (^_^;)

半年ほど前、愚樵さんのブログに触れるきっかけとなった「驚き」に出会うまで、それが皆さんにもごく当たり前のことだと思ってたので、「“オレ”とか思ってる自意識」と捉えて表現していたんです。

ところが「“オレ”とか思ってるヤツ」がそんなには乖離していない人が多いんだ!!ってことに気がついた。
それからこのあたりのことがとても悩ましく思ってたんですが、この小松さんの本を読んで、少し納得できたように感じて考えていたところに、再びなんかすっごいタイムリーに愚樵さんのエントリーに触れたものですから、少し想いが形になった気がしています。

これはまさに、愚樵さんとの「関わり」、愚樵さんとの「絆」ではありませんか。 (^o^)
でも、愚樵さんの方をかき回してしまったような感じなので、大変申し訳なく思っております。

共感能力うんぬんは、僕からすれば「裡なる要求」の実現や挫折の歴史としての「カラダ」にくっついている、「同調」の能力だと思います。
何にでもなれる体」ってわけですね。

そうなると 結局、「何ごとにもならない“裡なる要求”」と「何にでもなれる“体”」と「それらの上で踊ってる“オレとかいうヤツ”」ってことになりましょうかね。

今まで「アタマ」だと思ってた「自意識」は、「自我」とはまた別のものとして、「裡なる要求の実現や挫折」にくっついているもの、ですね。
そうして、その「裡なる要求の実現や挫折」の「歴史」が「カラダ」だってわけです。
また同時に、それは今現在の「営み」でもある。

こうなると、「“オレ”とかいうヤツ」=「自我」は、ますます「生きている」の主体ではなくなってしまいますね〜。
何なんだ、コイツは。 (^o^)
脳の余剰運動か。
レジャーみたいなものか、所詮。




*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

天晴

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この記事へのコメント
アキラさん、おはようございます。

ありがとうございます。怒涛のエントリーを2連荘。

以前のエントリーも是非とも拝見させていただきたいと思います。少し時間をくださいね。

私は日本教徒です。自分でもそう意識しています。ただそのように意識するに至ったのは、純日本教徒だからではないからなんですね、きっと。

アキラさんと私とはとても共通点が多いような気がします。それを踏まえたうえで、二人の間の「差異」を探って見るのが面白いかと思います。

よろしくお願いします。
Posted by 愚樵 at 2006年12月01日 05:12
ようこそ。おこしいただけて光栄です。
すみません、バババッと自分の中でまとまっちゃったし、なおかついろんなところを参照しちゃったものですから、トビトビ&長々になってしまいました。
お時間のあるときに、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。

>ただそのように意識するに至ったのは、純日本教徒だからではないからなんですね、きっと。
<
なるほど、興味ありますねぇ (^o^)。

>アキラさんと私とはとても共通点が多いような気がします。それを踏まえたうえで、二人の間の「差異」を探って見るのが面白いかと思います。
<
僕もそのように感じています。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
Posted by アキラ at 2006年12月01日 13:08
わ!カッパ!
わ!奥のふすまがヘコんでいるようです!
師匠が運動したとき蹴ったのやと想像します。
(それか夫婦でタンゴを踊った?)
その1から、後でゆっくり読みます。
とりあえず、カッパにムラムラっと反応してしまいました〜。
Posted by 青グリン at 2006年12月01日 21:58
ゆっくり読みはじめましたが、わたすにはかなり難しいもよう。
ゆっくりゆっくり分からないなりに読んでみます。
Posted by 青グリン at 2006年12月01日 22:29
青グリンさん、
かわいいっしょ、うちのサンペイ (^o^)。
「奥のふすま」はですね〜、お土産のTシャツを取り合いっこしてたら、相方がパッと手を放しやがったので、思わず肘が後ろのふすまにズボボッと・・・
っていうのはウソピョンで、
実は僕のibookの背中です♪
穴ぼこに見えるのは、光るリンゴマークです。

いや〜、突然「降臨」したので、一気にガバガバッと書いちゃったのですが、自分でもあんまりよく分かってないような気がしてきました (^_^;)。
参照記事が多いですからね〜。
ゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり読んでみてください。
めまいがしてきたら、とりあえずやめてください (^o^)。
Posted by アキラ at 2006年12月01日 22:51
あ。ほんまや。わたすったらカン違いを。ぺち!
そー、よーく見たらリンゴちゃんですねー。
(ふすまをけって怒られてる師匠を想像したら、ちょっとオモロかったんですが)
はい。くらくらしたら休みます。(^o^)
サンペイというのですか、カワイイです。
Posted by 青グリン at 2006年12月01日 23:06
自分で読み直してみたんですけどね、僕は形にしたいモヤモヤを自分の中に抱えて読むから、何となく分かるような気にもなるんですが、そうでない方々には何のこっちゃ・・・みたいな感じかも (^_^;)、と思って。
まぁ自分のブログだからいいんだけど (^o^)。
Posted by アキラ at 2006年12月02日 09:01
師匠のブログやけん、そりでいいんでしゅ。
(なにか、対話できる人同士でちゃんとした交流をしてるんだなー、っちゅーのは分かります。ええでしゅね!)
Posted by 青グリン at 2006年12月02日 09:07
サンペイさんが被っているのは風呂敷ですか? バンダナですか? 柄は外ですね。
画面左の棚に立っているのは木工用ボンドと液状のりですか?
すんません、適当なこと書いてます‥(^^;
Posted by カブ子 at 2006年12月02日 09:53
え〜、これはハンカチサイズのスカーフ、だそうです (^o^)。
左の棚にあるのは、スティック状ののりと液状ののりです。
っていうか、本文から逃避すな〜〜〜。
Posted by アキラ at 2006年12月02日 12:52