2008年10月09日

    

私信のような 余計なお節介です (^_^;)

秋の空

ある方の思索のちょっとした補助線にでもなれば、と思ったので紹介します。
余計なお節介です。 (^_^;)
(TB送りますよ〜♪)

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

このように、抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明したらいいのか。
誰もが子どもの頃からよく知っている状況を思い出してみよう。

ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。
古風で権威主義的な父親が子どもに与えるメッセージは、こうだろう。
「お前がどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子が置かれた状況は最悪ではない。
したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力を取っておくことができるのだから。

「ポストモダン」の非権威主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。
「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろ? でも無理に行けとはいわないよ。本当に行きたいのでなければ、行かなくてもいいぞ」。
馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子どもは)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。

自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。

このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。
それは子どもから内的な自由をも奪い、何をすべきかだけでなく、何を欲するべきかをも指示する。


スラヴォイ・ジジェク著 『ラカンはこう読め!』より

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆




*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪


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この記事へのコメント
アキラさん、こんにちは。
TBありがとうございます。
と、ここに書いてしまうと、「ある人」ってのが誰なのかバレバレですね(笑)
あれ、バレバレって書いたことでバレバレになるのかな(爆)
まあ、いいか。
お節介なんてことは全くありません。感謝です。ただ補助線になるかといえば、ますます混沌としていくのですけど……、ま、それが思索の醍醐味か。

それにしても、これは困った。
状況にもよりますが、ワタシ自身はポストモダン的非権威オヤジに近い気がしてる。
実際に「行きたくない」ってのが見える子どもに「いきたくなかったら、行かなくてもいいよ」ということはよく言います。子どもがワタシの顔色をみて「行く」と言うと、「自分の意志に嘘ついてこなくていいよ」と言います。(最近では顔色をみることもなく、ついて来ないんですが…爆)

これが、
>猥雑な超自我の命令である。それは子どもから内的な自由をも奪い、何をすべきかだけでなく、何を欲するべきかをも指示する。

かぁ、まいったな。

ところで
このジジックさんの話を、TB頂いたエントリーと照らし合わせると、

水伝導入=古風な権威主義的オヤジ=道徳
水伝拒否=ポストモダン的非権威オヤジ=倫理

ってことになるのかな。

決めつつけられた(強制、思い込み)に反抗することで本質をみつける
自由に自発的にみつけろ、と命令されることで、内的自由が奪われ本質をみつけられなくする。

(つづく)
Posted by dr.stonefly at 2008年10月09日 13:11
たしかに、ワタシ自身は前者の体験者なんですよね。つまり嘘を見抜くことで本質を考えようとして来たし、している。
かといって教える立場として考えて、嘘と解っていて「反抗的思索」を期待して、嘘のまま教えるってのもねぇ〜。そうかなぁ!?と思っちゃうしね。
あ、やっぱり教育論になっちゃった。

ってこのTBの意味のこういう捉え方事態がおかしいのかな?
その辺がわからないので、とりあえずここまでにします。(笑)


Posted by dr.stonefly at 2008年10月09日 13:11
・dr.stoneflyさん

こんにちは。
あ、いや いいんです、バレバレで。 (^o^)
すみません、何かちょっとこういう要素も考慮に入ってた方がいいんじゃないかと思って。
とはいえ、具体的な何かを示唆したくてこれを紹介したのではありません。
物事の実際的な機能は、それほど単純なものではないということを、教育のことを考えるにあたっては 特に忘れずにいた方がいいのではないかと思ったものですから。
どうぞ、より混沌としてください。(爆)

現在、多くの親が、この「ポストモダン」的な振る舞いをしているのではないかと思うんです。
僕は、その振る舞い自体はアカンとは思っていません。
問題は、その振る舞いの背後にジジェクの言うような「抑圧」が隠れていないか?、あるいはそのように振る舞ってる大人が そのようなことに本当に自覚的か?ということだと思います。
そのような大人の振る舞いの背後にあるのが、dr.stoneflyさんのように 本当に「好きにしていいんだよ」という願いであれば、あまり問題はないのだろうと思うのですが、はたして皆そうなのか。
もしも、「こうなって欲しい」というその人自身の内に秘めたる倫理観(道徳でもいいです)を持ちつつ「ポストモダン」的に振る舞えば、ジジェクの言うように、確かにそれは権威主義的なものよりも さらに抑圧的な要求として機能するでしょうね。

dr.stoneflyさんの記事の事例に直接割り振ってしまうのは、ちょっと危険かと思います。
先生たちの心情がどのようなところにあって、水伝に惹き寄せられたり反発したりしているのかを、このような「複雑さ」を踏まえながら 考えるべきなんじゃないかと思ったのが、僕がこの一文を紹介させていただいた心のうちです。
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん at 2008年10月09日 15:10
(つづき)

例えば、より「進歩的」な先生は「自由に思った通りのことをすればいい」「自分のやりたいことをおやりなさい」なんて思ってるかもしれませんよね。
それが本心そのまんまならいいんです。
ところが、場としては、そこは学校なわけです。
本当に生徒一人一人が、自分の好きなように、やりたいようにしていいものだろうか?
それは「集団教育」ということと、矛盾するものになるんではないでしょうか?

そのへんはうさんくさいところだと、僕は思っているんです。
集団での義務教育というのは、子どもの奔放な性質を「社会化」するためにそもそもなされるわけでしょう?
当然、先生の教育的振る舞いが自由を推奨するようなものであったとしても、その背後に「こういうようになって欲しい」という、その先生なりの秘められた倫理観みたいなものがあるのではないかと思います。
それが「ポストモダン」的に機能するのだったら、子どもにとっては目も当てられない事態です。

それからもう一点は、「象徴的権威」、例えば道徳などはそうですよね、そのようなものなくして「倫理観」というものが育まれ得るのだろうか?ということです。
これについては僕もまだまったく思索がこなれてないんですが、しかし「水伝」ごときがミョーに教育の現場でもてはやされてしまう現実は、「象徴的権威」なくしてはやはり道徳観や倫理観は育めないということの明証になっているのではないか?、とも思わされます。
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん2 at 2008年10月09日 15:11
アキラさん
>何かちょっとこういう要素も考慮に入ってた方がいい
ありがとうございます。
ほんとうに勉強になります。欠落していた部分で教えてもらわなければ辿りつけなかったと思います。

どうも、何かを考えてエントリーにするとき(上のコメントでも)、二項対立みたいな形にすると、解りやすいというか「表現しやすい」のでやっちまうのですが、事象はそれほど単純じゃありませんよね。
解っちゃいるけど辞められない♪、ってのは、一程、白黒的に結論めいたものがないとエントリーしちゃいけない、というか、エントリーには結論めいたものが必要なんだという強迫観念があるのかもしれません。あと、エイヤッ!! って勢いで公開してしまう部分もあります(爆)。
実際は白と黒ではなく、ほとんどがグレーだってのは解っているんですが(笑)
前のエントリーの「構造上の必然なのね」ってのも面白く読みました。1日考えてましたけど……

>「象徴的権威」なくしてはやはり道徳観や倫理観は育めないということの明証になっているのではないか?

これはワタシもよく解りません。どこかでそうじゃなくて、倫理は倫理だけで独立してある、と言いたい感覚がありますが、まだ感覚の域です。

Posted by dr.stonefly at 2008年10月09日 18:06
・dr.stoneflyさん

>「構造上の必然なのね」ってのも面白く読みました。
<
ありがとうございます。
すみません、あれ以上ブレイクダウンできなくて。。。 (^_^;)

「水伝」に関しては「くだらん!」が先行してしまったので、な〜んにも考えてないんですけど、ちょっと思考実験してみます。
僕は、「行い」の強制はいたしかたない面があるが、「心」の強制はあってはならないと思っています。
ジジェクが言っているのも、大体似たようなことでしょう。
「心」はおのずから育つものであって、押しつけるものではないと思う。
「水伝」が教育の現場に採り入れられてしまうことには、いろいろな問題点があるかと思いますが、一つにはこの「心」の強制につながる問題があるんではないかと思ったりします。

エセ科学うんぬんは置いとくとして、「水伝」に教育者が飛びついてしまう背景の一つに、「“ありがとう”の心って素敵だよね♪」という心情があるんじゃないでしょうかね。
普通に考えれば、「挨拶はちゃんとしよう」「ありがとう、ごめんなさいは、ちゃんと言おう」でいいはずです。
「ちゃんと言う」という「行い」さえ、きちんと出来ればいい。
「心」はそのうち、あとからついてくるでしょう。
「心」があとからでもついてくるように、大人が環境を整えてあげればいいだけの話です。
「水伝」なんか、わざわざ持ってくる必要は初めからないはず。
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん at 2008年10月09日 23:43
(つづき)

「象徴的権威」を没落させて、「行い(=振る舞い)」を「自由でいいよ」にしてしまったがために、「心」をどうやって育んだらいいのか、現場的には相当の迷いが出てきてしまったんではないかと思うのです。
学校でも家庭でも。
ところが現場での状況は待ったなしですから、結果的に「心」の強制を短絡的に選択してしまう。
「心のノート」なんかと、似たり寄ったりなのではないでしょうか。

「象徴的権威」を復活させたい人たちなら、道徳を復活させればいいことで、わざわざ回りくどい「水伝」なんかを導入する必要はないんじゃないかな、とも思います。
むしろ逆に、「行い(=振る舞い)」を「自由でいいよ」にしてしまった「ポストモダン」な人たちこそが、実は困った末に「水伝」に飛びついちゃってるんじゃないかとも、うたぐったりしますね、僕としては。 (^_^;)
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん2 at 2008年10月09日 23:44
アキラさん、お久しぶりです!
(dr.stoneflyさん、その節はお世話になりましたm(_ _)m)

今回のエントリなんですが、大きくうなずいてしまうものでした。
私も、行い(形式)を規定する(される)というのは、必ずしも不幸なことではないと思っています。

たとえば、悪いことをした子どもにしても
「謝るべきかどうか、自分で考えなさい」としか言われないよりも、
ズバッと「謝れ!」と言われて、しぶしぶでも「ごめんなさい」と頭を下げるほうが、子ども自身も後々「消化」しやすいのではないかという気がします。
(・・・すみません、「騒動」のことをちょっと思い浮かべました^^;)

「形式的」で良しとする
というのは、実は「行いと心は別でよい」という自由を産んでいる部分があったのではないか。
そんなことを考えてしまうのです。

「教育に水伝」の一件には、私も驚きあきれてしまいましたが、
その背後に「先生」という権威の失墜が透けて見えて、何やらうら悲しくもあります。・・・
Posted by Light at 2008年10月10日 01:54
アキラさん、おはようございます。
Lightさん、お久しぶり(笑)

「水伝」は今回はじめて考えてみたのですが、ワタシもやはり似非科学ってのには怒りの矛先が向かいませんでした。でも、世間は科学を標榜することに対する怒りが強いんですよね。で、考えたのが、水伝が科学を標榜せずにファンタジーを公言していたら、ということ。それでもワタシには違和感がある。訓話的な昔話と水伝と何が違うんだろう。とも考えました。おかげで訓話的な昔話にも用い方によっては違和感を持ちました(笑)。

アキラ先生のご教授でだいぶすっきりしてきました。ありがとうございます。

>「ポストモダン」な人たちこそが、実は困った末に「水伝」に飛びついちゃってる

ワタシの場合、何故、こうなっちゃったの? とすぐ考えてしまうのですが、結局、子どもの心の成長を信用してないのかな、と思えてしまいます。皆迄導かなければ、謝った心に育ってしまう。または、皆迄完全に教えることが教育だ、という勘違い。「あいさつはちゃんとしようね」だけで、子どもが何故挨拶が必要なのかが知らず知らずうちに育っていく、ってことに自信がない、のかな。

 それで、思ったのですが、1-10迄全部いうのが「道徳」、「1」言うことで、自然に芽生え育っていくのが「倫理」とは言えないだろうか?ってことです。お花畑なワタシは人間はもとより「真」とか「善」とかが芽生え、育つ心をもっていると、思ってます。
Posted by dr.stonefly at 2008年10月10日 09:05
・Lightさん

おおぉ! お久しぶりです♪

>しぶしぶでも「ごめんなさい」と頭を下げるほうが、
<
これは意外と大事なんじゃないかと思うんです。
それに対して心の中でその子がどう思おうが、それについては自由なんですから。
その自由を担保することは、とても重要だと思います。
そうして「どう感じようかは別にして、ルールはルールなんだ」ということも学べる。

>「形式的」で良しとする
というのは、実は「行いと心は別でよい」という自由を産んでいる部分があったのではないか。
<
その通りだと思います。
僕などは、何年か前まではけっこう「進歩的」(この言葉が的確かどうか疑問ですが (^_^;))なつもりだったのですが、ここ数年はすっかり保守的な立ち位置にいます。
こういうの、バカバカしいようで、実はかなり単純に考えられないように機能してるんだなぁと思うからなんですね。

しかし、個々人に入ってくる情報量が以前に比べて圧倒的に増えましたし、価値観も人単位で多様化してきていますから、確かに昔ながらの「象徴的権威」を引き続き維持していくのは、少々無理がある気がします。
けれども、そのような多様化が許されるような最低限のルールはありましょうから、それを「行い」の規制として身につけさせていけばいいんじゃないかな、なんて思ったりするんです。
Posted by アキラ@Lightさん at 2008年10月10日 13:22
・dr.stoneflyさん

>訓話的な昔話と水伝と何が違うんだろう。とも考えました。
<
確かに。。。
う〜ん、やっぱり「水伝」は単純すぎるんじゃないでしょうかね。
含蓄や重層性がないですもの。 (^o^)

>ワタシの場合、何故、こうなっちゃったの? とすぐ考えてしまうのですが、
<
子どもの心の成長を信頼できない、ってのは あり得るでしょうね。
特に先生の場合は、指導する時間が限られちゃうじゃないですか、1年とか2年とかに。
長期的なスパンでその子をみていくということが出来ないがため、ということも一因にあるように思います。

あとはやっぱり、子どもを自分の価値観に引きつけたいという意識的・無意識的な願望が、僕らの心の内に(もちろん先生の心の内に)あるからじゃないでしょうか。
自分が大事に思っていることと正反対になったってかまわない、なってほしい・・なんては思ってないわけじゃないですか、実際には。
そこのところが、「自由」の仮面をかぶったサイレントプレッシャーになっちゃうんだろうと思うんです。
だったら そもそものところで、分かりやすくそういう「顔」をしていた方が、子どもにとってはずっと振る舞いやすいでしょう。

>お花畑なワタシは人間はもとより「真」とか「善」とかが芽生え、育つ心をもっていると、思ってます。
<
結局、こういうようなところには行き着きますよね。
つまり、性善説とか性悪説とか。
僕は、安易に性善説を唱えるのは ビミョーだと思っています。
「真」とか「善」とかはヒトの本能ではないような気もしているので、やはり周りに染まっていくような気がします。
人殺しだって、戦時中なら英雄なんですから。
僕はやはり、その社会の要求する ある「(行いの)枠」は必要だと考えています。
『「真」とか「善」とかが芽生え、育つ心をもっている』と願う気持ちは、よく分かるつもりでいます。
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん at 2008年10月10日 14:11
こんにちは〜^^

こちらも面白いので一言。(^^)

私は競馬が好きなので、時々騎手が思ったとおりに馬が動かず苦労してるのをボーとながめているのだけど、「あ〜、人馬一体なんてウソかもしれないな」と思うことがあります。
結局、馬具が無ければ人間の言うことなど聞きたくない!w

人間社会で子供に対して行う教育とはなんだろう?ってことですが、当たり前のことだけどその子が大人に成長したとき、社会生活に適応できるようにですよね。
で、社会のリーダー的な立場の人たちはその思いが一般よりも強いのも当たり前。つまり権力者達に代表される人たち。

この社会(現在の)に適応してくれないと色々不都合が起きる。自分達に敵対する、あるいは自分達の存在を否定する大人になってもらっては困ります。w(反乱軍の養成所では絶対に駄目!)爆
だから必然的に道徳教育をしたくなる。
「目上を敬う=お上に逆らうな」「ありがとう=感謝しろ」などなど、一見誰にも文句の付けられないような目上の人を敬うとかありがとうなどの道徳を教えたい。(笑)

Posted by ニケ at 2008年10月10日 14:58
つづき

でも道徳を子供は生活の中で学ぶものだと思うのです。大人が子供に対して口では「ありがとうといいなさい」といいながら、自分達はお礼も言わないではその欺瞞を見抜いて逆にそれ(欺瞞)を身につける。

私は「ありがとう」といわせるのは口先だけの道徳教育ではなく、いろんな行動規則とともに教えるのがいいと思っています。「学校内では挨拶をしましょう」「スポーツとともに礼に始まり礼に終わるを学ぶ」他にもあるだろうけど行動と一緒に教える。
何故そういうことが必要かは自分で覚えていくような規則や仕組みを作る。(やっているのだろうが・・・)

学校とは集団社会生活に適応するための行動の仕方を学ぶ場であり、新しい社会に必要な知識を習得する場であると思っていて、次世代を担う大人の道徳は自分達で掴み取っていかなければ社会に出てから「不適応」な大人になると気付かせる。

ある意味、学校とは馬具のような存在ともいえるのではないでしょうか?

水伝が科学を騙る不快さは理解できますが、科学を騙っているという一点で鬼の首でも取ったかのようなニセ科学批判という存在も私には不快な存在なのです。w

Posted by ニケ at 2008年10月10日 14:59
・ニケさん

>ある意味、学校とは馬具のような存在ともいえるのではないでしょうか?
<
面白い例えだと思いました。 (^o^)

>大人が子供に対して口では「ありがとうといいなさい」といいながら、自分達はお礼も言わないではその欺瞞を見抜いて逆にそれ(欺瞞)を身につける。
<
そうそう、また、「自由にしていいんだよ」と言いつつ「廊下は走るな!」とかいうのもヘンですし。。。

>私は「ありがとう」といわせるのは口先だけの道徳教育ではなく、いろんな行動規則とともに教えるのがいいと思っています。「学校内では挨拶をしましょう」「スポーツとともに礼に始まり礼に終わるを学ぶ」他にもあるだろうけど行動と一緒に教える。
<
こういうの、いいですね。
そういうやり方が、僕もいいと思うんです。

>科学を騙っているという一点で鬼の首でも取ったかのようなニセ科学批判という存在も私には不快な存在なのです。w
<
いろんな視点から考えることができるでしょうから、そのようないい機会になっているという意味では、「水伝」も役には立っているような気もします。 (^o^)
僕としては、「水伝」の授業?をされた後に、「世の中、きれいなものばっかじゃバランスとれないから」と言って、「バ〜カ! ア〜ホ! コンチキショー!」などとワザと言って回る大胆不敵な子どもがいたりしてくれると、世の中まだまだ捨てたもんじゃないな♪と 嬉しいんですけどね。(爆)
Posted by アキラ@ニケさん at 2008年10月10日 22:16
アキラさん
またアキラさんに気付かせていただきました。


>いろんな視点から考えることができるでしょうから、そのようないい機会になっているという意味では、「水伝」も役には立っているような気もします。 (^o^)
僕としては、「水伝」の授業?をされた後に、「世の中、きれいなものばっかじゃバランスとれないから」と言って、「バ〜カ! ア〜ホ! コンチキショー!」などとワザと言って回る大胆不敵な子どもがいたりしてくれると、世の中まだまだ捨てたもんじゃないな♪と 嬉しいんですけどね。(爆)


私は過去に考えたことがあったのです。「水伝は呪術である。」ってね。(^^)
2008-04-27 に書いた記事だった。長すぎるし余分なことが書いてあるのでURLは貼らないけど
まさにアキラさんの言うところの、

>「バ〜カ! ア〜ホ! コンチキショー!」などとワザと言って回る大胆不敵な子どもがいたりしてくれると、世の中まだまだ捨てたもんじゃないな♪と 嬉しいんですけどね。(爆)」


の効用もあると思いました。(笑)
Posted by ニケ at 2008年10月11日 05:28
・ニケさん

お? そうなんですか?
じゃあ、見に行かなきゃ♪
Posted by アキラ@ニケさん at 2008年10月11日 11:28
ちょっと失礼。

アキラさんの記事とdr.stoneflyさんとのやりとりを見ていて想起したのは、昔の日本、特に地方の子どもたちの習俗のことなんです。

古風で権威主義的な父親、あるいは「ポストモダン」の非権威主義的な父親、どちらにしても、子ども対大人なんですよね。で、大人には“本当に「好きにしていいんだよ」”というようなことは大変に難しい。次の記事〈対象a〉ではないですが、大人は結局“「歪められ」た視線”でしか見ることが出来ないわけで。そうなると、大人の持ち出すものは、道徳であれ倫理であれ、どこか歪んでしまっているということになる。

最近ではすっかり言われなくなりましたが、昔の日本では子どものケンカに親が出てくると笑われたものですよね。これ、もしかしたら大人の「歪められ」た視線を大人自身がきっちり自覚していたからかもしれない、なんて思うのですよ。今は、子どものケンカに大人が出ずっぱりですよね。アキラさんとdr.stoneflyさんのやりとりを見ていても、そう思います。欧米流といってもいいかもしれません。

アチラでは、子どもは半人前の存在でケモノと人間の中間といった認識ですよね。だもので、子どもは一人前の人間になるべくトレーニングを受けされるべきだし、それが親の責務という意識がはっきりしている。これは礼儀・作法だけでなく心の問題においても同じだと思います。つまりdr.stoneflyさんのいうところの道徳が、疑念を抱かれず機能している。

Posted by 愚樵 at 2008年10月11日 17:02
(つづきです)

ところが日本はそうじゃなかったわけです。子どもは、大人とは違う別の存在として認識されていた。半人前の大人ではなくて、いずれ大人に脱皮するにしても、子どもは子どもなりに一人前の存在として認識されていた。だから、子どもだけの世界が大人たちに認められていて、それが子どもの習俗となって表れていた。大人が参加しない子どもたちだけの行事などがあった。子どもはそういう場でもって相互に教育し合っていたのかもしれません。

こう考えていくと、日本の親や教師たちが「ポストモダン」非権威主義的に退行してしまうのは、子どもたちの世界を認めていたときの風習の名残みたいなものではないかと思えなくもない。現在は、欧米流の半人前人間に対する道徳教育へ移行していく過程にあるのではないか、と思うのですね。

Posted by 愚樵 at 2008年10月11日 17:04
・ニケさん

ありゃ? 示してくださった記事にコメントが入らないみたいなんで、感想をこちらに書いておきますね。

読んでいるテキストの中に「念」を感じること、ありますよね。
あなたと仲良くしたい♪、ウザいんだよ ボケ!、あなたのバカさ加減にはあきれます、だよね だよね ギャハハハー♪、etc.
問題は、それがテキストを書いた人の「念」なのか、テキストを読んでいるこちらの「念」なのかが、なかなか分かりづらいということでしょうね。
僕ら人間は、自分を投影して読みたがる困った存在ですから。(^_^;)
しかし、その「念」が僕らの態度に強い影響を与えてしまうことだけは 確かだと思います。
Posted by アキラ@ニケさん@こちらに at 2008年10月12日 09:03
・愚樵さん

ん〜、
>昔の日本、特に地方の子どもたちの習俗のことなんです。
<
これはどうなんでしょうねぇ?
僕はあまり詳しいことは分からないのですが、どのくらい昔の時代のことかにもよりそうですし、身分での差や地域差もありそうです。

愚樵さんの仰るような「子どもの世界」が以前存在していたのは、ある程度は知っています。
しかし愚樵さんの仰ってることは、その「子どもの世界」の中でのことで、その「子どもの世界」はやはりある枠の範囲内で存在したのではないかと思うんです。
単純に考えると、つまり、もう一回り大きな枠に「大人の世界」対「子どもの世界」とが当然あるわけで、そこでの道徳的な縛りは個々の(大人対子どもの)関係の中でも利いていたのでないかと思うのですけど。。。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2008年10月12日 09:17
アキラさん、はじめまして。
いつも体癖関連を含めて興味深く読んでいるのですが、アキラさんには色々見透かされそうな気がして、コメントは控えていました。(笑)
私の母親が丁度、ポストモダンで抑圧的なタイプでした。ジジェクって人は名前も知らないけど、前にジェンダー系の本を読んだ時にこういう状態をダブルバインドとか呼んでいたのを思い出しました。これって、子供としては余計に親の顔色を敏感に伺うようになっちゃうような気がします。それで自分の本当の意思がどこにあるのかも分からなくなってきちゃうんですよね。素直に疑問を持たなければ良いけど、子供の内面が引き裂かれて苦しむケースが多いのかも。なんか教育って難しいですね。
Posted by akiko at 2008年10月14日 23:21
・akikoさん

ようこそ、初めまして♪
お名前はあちらこちらで、お見受けしていました。
(どこらへんだったかは忘れちゃいました) (^_^;)

>色々見透かされそうな気がして、
<
そんなことないですよ。 (^o^)
テキトーなこと言ってるだけですから、気楽に遊びに来てください。

>それで自分の本当の意思がどこにあるのかも分からなくなってきちゃうんですよね。
<
子どもって、誰でも親の顔色はうかがいながら生きてると思うんですよ。
何てったって、自分の生命線なんですから。
そこでマズい意味合いでポストモダン的な対応をされちゃうと、akikoさんが仰るように自分自身が分からなくなってっちゃうと思います。
そもそも自分自身ってのは分かりにくいっていうのに、こういう環境にさらされていると、心理的に問題が起きやすいようだと言われるのも分からないではありません。

教育・・・難しいですよね。
でも、自分の子どもということで言えば、僕はその親その親で、自分たちがよいと思っている価値観できちんと育てられればいいのだと思っています。
ヘンにブレずに「うちはこういう方針なんだ」というところでやれれば、あとは子どもが外の世界にも触れだしたときに、それを基準に(よくも悪くも)いろいろ考えたり悩んだりしていけると思うんです。
Posted by アキラ@akikoさん at 2008年10月15日 00:18
こんにちは!
お久しぶりです。こちらで、こんな対話がされていたのですね。

ところで、アキラさんは、「象徴的権威」なしで、道徳観・倫理観は育めないとおっしゃる。そして、水伝とかに頼らず、道徳でいいんじゃないか、とも。

そのとおりだとは思うのですが、この象徴的権威を身にまとった存在であること、たとえば「親」「先生」がそうなることを可能にするものは、むき出しの‘生’に寄り添うタフさややさしさ、同時に自分自身の価値観を相手や状況に応じて、Lightさんがおっしゃるように、打ち出していける、何らかの確信(信仰?)など、さまざまなものを内に必要とする気がします。
現代においてそれらを身に付けるには、大変な手間と人生経験を要します。

かつての大家族制のもとで、おじい・おばあが担っていた役割ですよね。もしくは社会・共同体自体の教育力。

ある意味、今の個人主義的自由主義の蔓延は、そうした教育力を根こそぎ奪ってきた。このあたり、愚樵さんに大いに同意。

では、stoneflyさんが言う様に、ファンタジーを倫理観・道徳観として通用させたいと思っても、それも
ごく一部の‘判る’人たちにしか通じないのが、悲しいかな現実。スピリチュアルな世界観は、一部の人々から強い反発を受けます。脳内の妄想は個人の責任で飼っていろ、と言う風に…。

そういうどうしょうもない現実の狭間から沸いて出たのが、疑似科学的装いを帯びた「‘水伝’による教育」という発想なのかもしれません。
Posted by naoko at 2008年10月16日 12:07
そう考えると、「水伝」は呪術であるというニケさんの言が、大変な重みを持ってきます。
現代の社会全体の動向に対する反科学的で多少ヒステリックな‘呪詛’としての水伝という視点です。

呪詛をするほうには大いに問題があるが、呪詛されるほうにも問題がないわけじゃない。

その辺、21世紀初頭のこの国の精神的状況というのは、その深部において、かなり追い詰められた状況にあるのではないか、と感じています。

19世紀末に、15歳のピカソが描いた「科学と慈愛」という絵画に象徴される、ある種の文明と文化の衝突が、100年遅れて、この国の精神を根底から蝕んでいるのかもしれません。

ちょっとアキラさんの問題意識とは、かなりずれていそうな気はしますが(笑)。

妙なことを書いてごめんなさい!
Posted by naoko at 2008年10月16日 12:36
>naokoさん

水伝と呪術の関係については、黒猫亭さんも書いています。(自分もコメントしておきながら、最近すっかり忘却のかなたでした。まずいまずい。
(--;)

http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/09/pot-healer.html

エントリの内容からは、どんどん離れているかも…
Posted by alice at 2008年10月16日 21:35
・naokoさん

あー、お久しぶりです♪
もう遊びには来てくれないのかと、淋しく思ってましたよ。 (^o^)

>ところで、アキラさんは・・・道徳でいいんじゃないか、とも。
<
まぁ そうですね。
極論を言えば、それも「あり」です。
ただ、昔のまんまは無理でしょう。

>この象徴的権威を身にまとった存在であること、たとえば「親」「先生」がそうなることを可能にするもの・・・
<
僕は逆だと思うんですよね。
共同体的ルールというのは、ある種のタテマエだと思います。
あ、ですから僕が言っている「象徴的権威」というのは、共同体的なルールのことです。
そうして、そういうタテマエの便利なところは、誰もがそれを身にまとえば何となくそれなりになる、ってところです。
坊さんの袈裟みたいなもの。

それさえ身にまとえば、中味がどうであろうとも、とりあえず「それなり」に見える。
もちろん、それがための弊害も大いにあるわけですが、naokoさんが仰るように、すべての大人がすべて立派なわけではないのですから、むしろ「袈裟のご威光」効果の方が効率的でしょう。
Posted by アキラ@naokoさん at 2008年10月17日 00:22
(つづき)

「ポストモダン」な存在になってしまうと、「袈裟のご威光」にすがれないわけですから、naokoさんの仰るような立派な人間になるまで何も言えないか、あるいはとりあえず自分で何とか取り繕ったりするわけです。
ほとんどの人間が「大したことないワタシ」ですから、当然 取り繕うわけですよ。
そうしていつの間にか、「自分の倫理観=普遍的なもの」みたいになっちゃうんじゃないでしょうかね。

もちろん地域共同体的なまとまりは死滅しましたから、昔と同様のことを望むのはナンセンスですし、昔のことが必ずしも100%よかったとも 僕は思っていません。
一つの価値観ですべてをシバるのは、もう不可能でしょう?
それは道徳だろうが、ファンタジーだろうが、おんなじことだと思います。

>21世紀初頭のこの国の精神的状況というのは、その深部において、かなり追い詰められた状況にあるのではないか、と感じています。
<
僕はあまりそのようには思っていません。
水伝にクラッときてしまう人口が、過半数を超えるほど多いとも思えないからです。
追い詰められた状況にある人たちは、大地から足が離れてしまった人たちだけでしょう。
まぁ、多いっちゃぁ多いでしょうけど。 (^_^;)
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2008年10月17日 00:22
やはりちょっと関心の対象がずれているようですね。
たぶん、そうなのではないか、と思ってはいましたが。
思考順序がちょうど正反対・逆方向というような、何か不思議な感じがします。(←あっ、これは文句ではありません!単なる感想。)

「追い詰められた人たちは、大地から足が離れてしまっている。」
その比喩表現の受け取り方も、もしかしたら、わたしとアキラさんでは異なるかもしれません。
わたしには、今日、自分自身を含めて過半数の人が、大地から足が離れてしまっているように思えるからです。

そして、「大した事ないわたし」は、象徴的権威の助けもなく、日々、親として、先生として、ある意味、立ち竦んでいる…。あるいは、出たとこ勝負か、はったりで、その場その場を切り抜けるしかない。
正直、自分達が良いと思っている価値観なんて、とうてい子どもたちに伝えきれません。
考えてみれば、自分が云十年かかっておぼろげに得た価値観を、若い子に伝えようというのが、そもそもおこがましく、無理があるのかもしれません。

水伝にくらっとくるこないは、あまり重要ではない気がします。他にもくらっとくるものはたくさんありますし(笑)。

いや、この辺にしておきましょう。

ごめんなさい!
何か文句ばかり書いているみたいですね。そういうつもりはないのですが、気がつくとそんな書き方をしてしまっている気がする。(←これも自分的には興味深い)
酒飲みおやじがくだをまいている感じ(爆)。
だめだなあ〜。

また、よい折に、おじゃまさせていただきます。
Posted by naoko at 2008年10月17日 04:15
・naokoさん

> 何か文句ばかり書いているみたいですね。そういうつもりはないのですが、気がつくとそんな書き方をしてしまっている気がする。(←これも自分的には興味深い)
<
あ、いや 僕はあんまり気にしてませんよ。(^_-
そういうの、言ってみないと分かんないものですし、やりとりしていく中でお互いが分かっていけばいいものじゃないかと思ってますから。
僕もnaokoさんも似たようなことを言っていると、自分では感じてるんですけど。
どこに焦点が当たってるかは、確かに違うのかもしれません。
でも だからこそ、話が拡がっていく可能性があるんじゃないでしょうかね。 (^o^)

んじゃぁ、とりあえず過半数を超えた相当多くの人が「追いつめられている」、ということでいいですよ♪

>そして、「大した事ないわたし」は、象徴的権威の助けもなく、日々、親として、先生として、ある意味、立ち竦んでいる…。あるいは、出たとこ勝負か、はったりで、その場その場を切り抜けるしかない。
<
ここは共有してますよね。
んで、僕はdr.stoneflyさんに、
「むしろ逆に、「行い(=振る舞い)」を「自由でいいよ」にしてしまった「ポストモダン」な人たちこそが、実は困った末に「水伝」に飛びついちゃってるんじゃないかとも、うたぐったりしますね、僕としては。 (^_^;)」
と書いたのですから、ここもおそらくnaokoさんの考えてることと似たようなもんだと思うのですけど。
Posted by アキラ@naokoさん at 2008年10月17日 11:36
(つづき)

僕が水伝的なことに関して思っているもう一つのことは、宗教的なこと・呪術的なことへの耐性のなさ、です。
これは、科学への盲信とセットになっている気もします。
科学が万能である、というところから、必然的に宗教的・呪術的なことを自分の周りから排除してきてしまったがために、それについてよく分からない。
安全なものと危険なもの、穏やかなものといかがわしいもの、そういうものの削ぎ分けができない。
できないから、全部ひっくるめて「そんなもの・・」となっちゃう。

なっちゃってるんだけど、知らないがために引っかかっちゃうんですよ、容易に。 (^o^)
近頃の若い子が恋愛の恋愛らしさとか、人を本当に好きになるということがどんな感じのことなのかがよく分からないがために、かえって「真実の愛」「本当の恋愛」を演出するやや年輩ナンパ師にコロッとひっかかっちゃうのと、僕はよく似ていると思います。
科学っぽい皮をかぶせると、アヤしげなものにも簡単に引っかかっちゃう。
耐性のなさゆえだとも思うんです。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2008年10月17日 11:37
naokoさん、ごめんなさい、追伸です。
ちょっと不思議に思ったんですけど、
> 正直、自分達が良いと思っている価値観なんて、とうてい子どもたちに伝えきれません。
<
これって、誰かがそういう努力をしてるってことですか?
そうして、naokoさん的にはそれをしなきゃいけないって話?

僕の側のニュアンスは、例えば親が親としてフツーに振る舞えば、その振る舞いや言動自体に すでにその人の価値観が如実に表れる、ということです。
子どもは当然それを受けとることになる。
お互いに無自覚でも、です。
ですから、伝えようと思って伝えてるわけでもないし、受けとらなきゃと思って受けとってるわけでもないですよね。
Posted by アキラ@naokoさん@また追伸 at 2008年10月17日 11:52
うわあ、丁寧な返信、ありがとうございます!

1と2に関しては、ぜんぜん異議なしです。

追伸でのアキラさんのニュアンス、『親が親としてフツーに振る舞えば』というところのフツーというのが、わたしからすると、「すごい!」と感じるところです。

自分の振る舞いがフツーな自然体である人は、やはり‘大地に足がついている’感じがしますね。

互いに無自覚でフツーのつもりで振る舞っていて、親子が断絶する場合もあります(苦笑)。
そうすると、やはり自分自身の欠如を感じるようになりまする。そして、その欠如を埋めようといろいろ彷徨うのですね。
ですから、わたし的には、価値観というのは、幾分自覚的なものにならざるを得ないのです。
ところが、おっしゃるように、その自覚している部分が伝わるとは限らず、往々にして半ば無自覚の、自分の最もいやな部分が伝わったりするのが、親子の悲しいところ(爆)。

そんな、わたしみたいな地に足のついていない人間は、実社会で少数派であって欲しいものです。
Posted by naoko at 2008年10月18日 03:19
・naokoさん

分かりましたよ、多分。
どこで話がすれ違っているのか。 (^o^)
naokoさんは、僕の使っている「価値観・倫理観」といった言葉を、何か「よきもの」として捉えてらっしゃいませんか?
僕はそのような意味では使っていないんです。
その人の自覚的・無自覚的にもっている先入観念といった意味合いです。
とりあえず、いいも悪いもない。
もちろん、例えば「道徳」と言えば「よきもの」の範疇に入ってきますが、時代や状況によってはそれが害悪にだってなりますよね?
善悪とは、そのように状況に限定されてしまう相対的なものだと、僕は思っているんです。
ですから その意味では、「価値観・倫理観」とは その人の持っている自覚的・無自覚的な先入観念にすぎないでしょう?

僕が『親が親としてフツーに振る舞えば』と書いたのは、フツーに振る舞っていれば何か「よきもの」が自ずと伝わる、という話をしているんじゃないんです。
「フツーに振る舞えば」というのは、その人がな〜んにも考えていなかろうが、しっかりいろいろ考えていようが、ともかくその人が喋り 動けば・・といった意味です。
例えば親が親として(あるいは自分自身として)喋り 動けば、その振る舞いや言動自体に すでにその人の「自覚的・無自覚的な先入観念」が如実に表れてしまう、という意味でした。
何か「よきもの」とかいうようなニュアンスじゃないんです。

あと、無自覚なものほど相手には伝わるように、僕は思いますね。
Posted by アキラ@naokoさん at 2008年10月18日 13:31
先入観念(自覚・無自覚含む)としての、個人の価値観・倫理観が、その振る舞い・言動から如実にあらわれてしまうということ、了解です。

わたしとしては、そうした業(ごう)・因縁の重さを痛感しているということです。
「よきもの」というより、自分の無意識(無明)がもたらすものへのおそれですね。

それが信仰の出発点かな、とも思います。
Posted by naoko at 2008年10月19日 03:11
もっと言えば、アキラさんのおっしゃるように、無明は自分の意識にも当然あるはずですね。
瞬間、瞬間の判断を、ダイモーンにお伺いをたて、振る舞い・言動を行ったソクラテスに、少しは習いたいものです。
Posted by naoko at 2008年10月19日 03:17
・naokoさん

>わたしとしては、そうした業(ごう)・因縁の重さを痛感しているということです。
<
それが人間ってもんじゃないんでしょうかね。

自分の振る舞い・言動の責任をどこに置くか、それがけっこう問題だったりするように思います。

このへんのことに関しては、また別のエントリー立てるかもしれません。
そのときは、また読んで下さいね♪
Posted by アキラ@naokoさん at 2008年10月19日 09:35
>それが人間ってもんじゃないでしょうかね

そう言っていただくと、救われます。ありがとう。


>自分の振る舞い・言動の責任をどこにおくか

「お上に任せて」とある神道家の方がおっしゃっていたことがありますが、やはりその辺に最後はたどり着くのかなという気がしています。
でもアキラさんの切り口で立てられたエントリー、読んでみたいです。

今回は、お相手していただいてありがとう。
ではまた。
Posted by naoko at 2008年10月20日 03:04