2009年01月22日
コミュニケ外伝 その7 〜「決断」による自立、主体性 〜
「愛する息子を生け贄にせよ!」
この神の言葉の意味を推し量れるような判断枠組みを、アブラハムは持っていません。
その言葉の意味を彼はただ一人で、おのれの全責任において解釈するほかない。
そして 結局、アブラハムはそれを字義通りに解釈することを「決断」するのです。
この決断に対して、アブラハムには絶対的な責任があります。
この決断の責任を、彼に代わって引き受ける人が誰もいないからです。
神さえもアブラハムの行為の責任を引き受けることはできません。
なぜなら、神の告げた「謎」の言葉を解釈し、決断したのはアブラハム自身なのですから。
誰のせいにすることもできない。
アブラハムはその「選び」を受け入れます。
〜このとき まさに、我が子イサクを生け贄として捧げるという「決断」によって、彼はある種の「主体性」を獲得することになる〜
レヴィナスは、そう言うのです。
それは「自主性によって」といったような生やさしいものではなく、「未知なるものからの呼びかけ」に応えることで 初めて成立する主体性なんだそうです。
代わりに引き受けてくれる人が誰もいないという絶対的な孤独の中での、全責任を自ら負っての「決断」、それがこの主体性を基礎づけるんだそう。
神という絶対的な「他者」、絶対的な「未知なるもの」との対面を通じて、アブラハムは理解を絶した神の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し「決断」します。
その一本道を歩んで生きようと覚悟を決めた。
そのときに「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」として、彼は「立ち上がった」わけです。
このようにして自立した者を、レヴィナスは「成人」、あるいは「成熟した人間」と呼ぶのです。
このアブラハムの主体性は、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、「何ものも彼の判断・行動を根拠づけてくれない」という絶対的な無根拠と、それによる孤独に耐えたことによって獲得されたのです。
野口先生おっしゃるところの「決断」や「自立」もまた、まさにこのようなものなのではないかと思います。
自らの内の「いのちの働き」「裡なる要求」を絶対的に信頼して・・という野口先生の「素朴な信念」は、このような非常に孤独で、非常に厳しい、まるで無根拠の「信念」なのだと僕は感じるんです。
愉氣とかいうと、誰に対してもあたたかい手を差しのべているような感じもしないではありませんが、その核心においては、決してやさしくあたたかいものではない。
考えてみれば、何かに根拠づけられているということは、何かを杖にして立っているということですよね。
それは確かに「自らの足で立っている」と言えるようなものではないでしょう。
絶対的な無根拠に孤独に耐えること、そういう徹底的に法外な要求を突きつけるもの、それが野口先生の仰る「決断」と「自立」なんじゃないかと、僕は想っているのです。
まさに、千尋の谷に我が子を突き落とす獅子のような、九種的な感覚です。
しかし、これこそ「神なきあとの 究極の信念」でもありましょう。
ちなみにアブラハムとイサクがその後どうなったかというと、旧約聖書では次のようになっています。
神の命じられたとおりにするために、何日かかけて指定された所に行って、祭壇を築いて薪を並べ、イサクをその上に載せて屠ろうとしたそのとき、主の御使(みつか)いがあらわれて、
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
と、言ったのです。
そうしてアブラハムが目を凝らして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を絡ませて動けなくなっていたので、彼はその雄羊を捕まえて 息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのでした。(ホッ)
主の御使いは再び呼びかけて、
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。
あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。
あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
と、言ったそうです。
いやはや結果オーライですが、アブラハムの苦悩はいかほどのものだったかと思わされます。
また、こちらのコメント欄で逝きし世の面影さんが仰っていたように、イサクにとってはすごいショッキングな体験ですよね。 (>_<)
*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪
このアブラハムの主体性は、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、「何ものも彼の判断・行動を根拠づけてくれない」という絶対的な無根拠と、それによる孤独に耐えたことによって獲得されたのです。
野口先生おっしゃるところの「決断」や「自立」もまた、まさにこのようなものなのではないかと思います。
自らの内の「いのちの働き」「裡なる要求」を絶対的に信頼して・・という野口先生の「素朴な信念」は、このような非常に孤独で、非常に厳しい、まるで無根拠の「信念」なのだと僕は感じるんです。
愉氣とかいうと、誰に対してもあたたかい手を差しのべているような感じもしないではありませんが、その核心においては、決してやさしくあたたかいものではない。
考えてみれば、何かに根拠づけられているということは、何かを杖にして立っているということですよね。
それは確かに「自らの足で立っている」と言えるようなものではないでしょう。
絶対的な無根拠に孤独に耐えること、そういう徹底的に法外な要求を突きつけるもの、それが野口先生の仰る「決断」と「自立」なんじゃないかと、僕は想っているのです。
まさに、千尋の谷に我が子を突き落とす獅子のような、九種的な感覚です。
しかし、これこそ「神なきあとの 究極の信念」でもありましょう。
ちなみにアブラハムとイサクがその後どうなったかというと、旧約聖書では次のようになっています。
神の命じられたとおりにするために、何日かかけて指定された所に行って、祭壇を築いて薪を並べ、イサクをその上に載せて屠ろうとしたそのとき、主の御使(みつか)いがあらわれて、
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
と、言ったのです。
そうしてアブラハムが目を凝らして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を絡ませて動けなくなっていたので、彼はその雄羊を捕まえて 息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのでした。(ホッ)
主の御使いは再び呼びかけて、
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。
あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。
あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
と、言ったそうです。
いやはや結果オーライですが、アブラハムの苦悩はいかほどのものだったかと思わされます。
また、こちらのコメント欄で逝きし世の面影さんが仰っていたように、イサクにとってはすごいショッキングな体験ですよね。 (>_<)
*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪
Posted by appie_happie at 09:54│Comments(4)│TrackBack(0)
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この記事へのコメント
う〜ん、これはよくわからないです、アキラさん。
レヴィナスはさておいて、野口先生です。私も旧約の核心部分である「アブラハムの選択」のことは知っていますが、ここはいつも奇異に感じます。少し思い当たることもあって、それは私の方でエントリーにしてみようと思いますが、とにかくここにあるのはとんでもない隔絶感ですよね。それを“分からないけど受け入れるんだ”はいいのですけど、それはまったく頭脳的ではないですか? そういうところと、整体とのつながりがよくつかめないのです。
これは整体を知らない私の勝手な想像ですけれども、その決断はやはり身体的な決断であるような気がします。それは、やはり分からないことを受け入れることに変わりはないのですけれど、アブラハムの宗教にあるような絶対的な隔絶感ではなくて、その決断を通じてわかるようになる、というところがある。それを〔識る〕と私は言っているわけですけども、その〔識る〕の果てにあるのが「悟り」であり、「決断」とは、悟りへいたる「道」を選び取るといった感覚になってしまうのですね。
それからちょっと余談ですが、私はキリスト教には少し違った感じを受け取っています。「アブラアムの決断」は旧約ですが、ナザレのイエスが示した新約に基づくのがキリスト教ですよね。この新約の方は、旧に比べて隔絶感がグッと緩和しているように感じられます。福音書のイエスの言葉などを見ていますと、これは多神教的に解釈した方がしっくりくるのでは? なんて思うことすらあります。またそうでなければ、民族の宗教が世界宗教に脱皮することはできなかったのかと思ったりもするのです。
レヴィナスはさておいて、野口先生です。私も旧約の核心部分である「アブラハムの選択」のことは知っていますが、ここはいつも奇異に感じます。少し思い当たることもあって、それは私の方でエントリーにしてみようと思いますが、とにかくここにあるのはとんでもない隔絶感ですよね。それを“分からないけど受け入れるんだ”はいいのですけど、それはまったく頭脳的ではないですか? そういうところと、整体とのつながりがよくつかめないのです。
これは整体を知らない私の勝手な想像ですけれども、その決断はやはり身体的な決断であるような気がします。それは、やはり分からないことを受け入れることに変わりはないのですけれど、アブラハムの宗教にあるような絶対的な隔絶感ではなくて、その決断を通じてわかるようになる、というところがある。それを〔識る〕と私は言っているわけですけども、その〔識る〕の果てにあるのが「悟り」であり、「決断」とは、悟りへいたる「道」を選び取るといった感覚になってしまうのですね。
それからちょっと余談ですが、私はキリスト教には少し違った感じを受け取っています。「アブラアムの決断」は旧約ですが、ナザレのイエスが示した新約に基づくのがキリスト教ですよね。この新約の方は、旧に比べて隔絶感がグッと緩和しているように感じられます。福音書のイエスの言葉などを見ていますと、これは多神教的に解釈した方がしっくりくるのでは? なんて思うことすらあります。またそうでなければ、民族の宗教が世界宗教に脱皮することはできなかったのかと思ったりもするのです。
Posted by 愚樵 at 2009年01月22日 19:46
・愚樵さん
とんでもなく隔絶した現実に呑み込まれてしまったとき、仰るとおり頭脳的判断は何の役にも立ちませんよね。
ところが身体感覚だって、大して役には立たないんです。
身体感覚も、鈍りがあれば当然誤ります。直勘も鈍る。
むしろ、誤らない身体感覚を保持している人の方が 圧倒的に少ないとも思います。
これがまず一つでしょうか。
そうして、頭脳的判断も身体感覚も役に立たないほどの状況だからこそ、「決断」するわけです。
あとはやるっきゃない。
やるっきゃなくて、それをやって、そうして分かってくることもあれば、依然ずっと分からないまま、ということもある。
そういうことだと思います。
経験的に今持っている 頭脳的判断や身体感覚が役に立つステージの場合は、それに依って立って「選択」すればいい。
しかしそれはあくまで「選択」だというわけです。
野口整体の目指すところは「全生」、全力を発揮してそのときそのときを生きる、生き切る、ということなんですね。
そうなれたら それが「悟り」なのかもしれませんが、だからといって、とんでもなく隔絶した現実に呑み込まれなくなるわけではないと思います。
可能性は常にあって、だからこそ「決断」という振るまいも常に残される。
>この新約の方は、旧に比べて隔絶感がグッと緩和しているように感じられます。
<
そうですね。 (^o^)
神さまのことを「お父ちゃん(アッバ)」と呼びなさい、とか言ってますしね。
ただ、そのイエスが自分の人生について苦悩するくらいですから、やっぱり「神の摂理は人知を超える」ことには変わりはないと思います。
とんでもなく隔絶した現実に呑み込まれてしまったとき、仰るとおり頭脳的判断は何の役にも立ちませんよね。
ところが身体感覚だって、大して役には立たないんです。
身体感覚も、鈍りがあれば当然誤ります。直勘も鈍る。
むしろ、誤らない身体感覚を保持している人の方が 圧倒的に少ないとも思います。
これがまず一つでしょうか。
そうして、頭脳的判断も身体感覚も役に立たないほどの状況だからこそ、「決断」するわけです。
あとはやるっきゃない。
やるっきゃなくて、それをやって、そうして分かってくることもあれば、依然ずっと分からないまま、ということもある。
そういうことだと思います。
経験的に今持っている 頭脳的判断や身体感覚が役に立つステージの場合は、それに依って立って「選択」すればいい。
しかしそれはあくまで「選択」だというわけです。
野口整体の目指すところは「全生」、全力を発揮してそのときそのときを生きる、生き切る、ということなんですね。
そうなれたら それが「悟り」なのかもしれませんが、だからといって、とんでもなく隔絶した現実に呑み込まれなくなるわけではないと思います。
可能性は常にあって、だからこそ「決断」という振るまいも常に残される。
>この新約の方は、旧に比べて隔絶感がグッと緩和しているように感じられます。
<
そうですね。 (^o^)
神さまのことを「お父ちゃん(アッバ)」と呼びなさい、とか言ってますしね。
ただ、そのイエスが自分の人生について苦悩するくらいですから、やっぱり「神の摂理は人知を超える」ことには変わりはないと思います。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2009年01月23日 00:48
野口氏が旧約聖書の神(ヤハウェイ )に似ているならヤバイのではありませんか。?
アブラハムの「決断」は、近頃頻発する突然街中で刃物を振り回すアブナイ人と紙一重ですよ。
『宗教』に対する私の結論は、現実に対する一種の「卓袱台がえし」(巨人の星の星一徹の)ではないかと思っています。
「卓袱台がえし」こそ男のロマン、男の夢ですよ。
一度もやった事は有りませんが『卓袱台がえし』が決まれば最高に爽快な気分(快感)ではないでしょうか。?
死ぬまでに妻の前で大見得をきって『卓袱台がえし』を一度はやりたいが、情けない事に未だやれずにいます。
理由は、実行する段になるとその後の光景が見えてしまう。残飯を片付けている自分自身の姿が見えてしまうんですよ。だから出来ない。
アブラハムの「決断」は、近頃頻発する突然街中で刃物を振り回すアブナイ人と紙一重ですよ。
『宗教』に対する私の結論は、現実に対する一種の「卓袱台がえし」(巨人の星の星一徹の)ではないかと思っています。
「卓袱台がえし」こそ男のロマン、男の夢ですよ。
一度もやった事は有りませんが『卓袱台がえし』が決まれば最高に爽快な気分(快感)ではないでしょうか。?
死ぬまでに妻の前で大見得をきって『卓袱台がえし』を一度はやりたいが、情けない事に未だやれずにいます。
理由は、実行する段になるとその後の光景が見えてしまう。残飯を片付けている自分自身の姿が見えてしまうんですよ。だから出来ない。
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年01月23日 14:29
・逝きし世の面影さん
いえいえ、野口先生が旧約聖書の神に似ているというのではなくて、自らの内の「いのちの働き」「裡なる要求」を絶対的に信頼する、野口先生の「素朴な信念」のその無根拠さと屹立した感じが、どちらかというと一神教的な感触に似ているなと思うって話です。
野口晴哉師は非常に禅的な感性の方ですから、確かに日本教的感性が強いと思います。
けれど、「引き受ける覚悟」と「平穏な暮らし」という傾向の違いということで言えば、野口先生の発想は「引き受ける覚悟」の最右翼です。
宮台真司氏が、宗教とは「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置の総体」と定義していますが、僕もそれに賛成です。
結局のところ、「社会」的なリクツや身体的に受容可能な感受性に還元不能な、端的な〈現実界〉的な出来事に対して、そのパニックを馴致するために、宗教も信仰も信念もあるのだと 僕は思うのです。
ただし、まともな信仰装置の体(てい)をなしていないカルト「宗教もどき」、あるいはそのような教義理解であれば、ハルマゲドン待望的な「卓袱台がえし」系か、江戸時代の心学的、徳治主義的な現状肯定的な「体制追従」系か に分かれるかと思います。
いえいえ、野口先生が旧約聖書の神に似ているというのではなくて、自らの内の「いのちの働き」「裡なる要求」を絶対的に信頼する、野口先生の「素朴な信念」のその無根拠さと屹立した感じが、どちらかというと一神教的な感触に似ているなと思うって話です。
野口晴哉師は非常に禅的な感性の方ですから、確かに日本教的感性が強いと思います。
けれど、「引き受ける覚悟」と「平穏な暮らし」という傾向の違いということで言えば、野口先生の発想は「引き受ける覚悟」の最右翼です。
宮台真司氏が、宗教とは「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置の総体」と定義していますが、僕もそれに賛成です。
結局のところ、「社会」的なリクツや身体的に受容可能な感受性に還元不能な、端的な〈現実界〉的な出来事に対して、そのパニックを馴致するために、宗教も信仰も信念もあるのだと 僕は思うのです。
ただし、まともな信仰装置の体(てい)をなしていないカルト「宗教もどき」、あるいはそのような教義理解であれば、ハルマゲドン待望的な「卓袱台がえし」系か、江戸時代の心学的、徳治主義的な現状肯定的な「体制追従」系か に分かれるかと思います。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2009年01月23日 20:42
