2009年08月07日

    

イサムちゃんのキャベツ とか 後編

謳歌する

何年かして、また面白いことがありました。
整体の仲間で、僕と同じようなやり方で野菜を育ててるYSさんって人がいたんですが、同じ仲間で、僕の野菜とYSさんの野菜を両方とってる人がいたんですね。
その人いわく、
「アキラさんの野菜は猛々しい味がする、YSさんの野菜はやさしい味がする」
だっつ〜んですよ。 (^_^;)
正直、ちょっとヤだったというか、失礼な!(^o^) と思いました。

で、たまたま、その人のうちで集まりがあったときに、そこで両方の野菜が出されたので 味見をしたんですが・・・
確かに・・・仰る通り!・・でした。 (^_^;)
ホントに、うちのは猛々しく、YSさんのはやさしい。
うちのは草に埋没しながら「育ち上がるものだけ育つがよい!」みたいな育て方でしたから、猛々しくなるのもムリはないかな・・・とも。(^o^)
まぁ、「生命力がすごい旺盛だ」くらいに言ってほしいわけですけどね♪

イサムちゃんのキャベツも、きっとそういうことなんだな・・・
そのとき、そう思いました。
それがすごく面白くって、その後、いろんな人の野菜をそんなつもりで味見するんですが、やっぱり育ててる人によって味が違う。
育ててる人の育て方というか、個性みたいなものが、そのまま野菜に出ている感じは否めません。
そういうものが、如実に出てくるものなんだな、と。

それから、ほかのことについても そういうことを気をつけるようになったんですが、例えば整体の愉氣の感じなどにも、その人の個性や気持ちみたいなものがすごく出るんですよね。
愉氣の場合は もうモロですけれど、結局、野菜なら野菜を育てる人の、野菜に対する「想い」、気の集注みたいなものが如実にあらわれてしまうんだな、
僕はそう感じるわけです。

それは「関わり」のしかたとも言えるでしょう。
どのように関わるのか、どのように「想う」のか、その集注の方向や(あるいは角度)密度、深さ、澄み具合などの影響を受けながら、一つの結果が湧き起こってくる。
美味いもの、素晴らしいものが出来てくる。

今はお遊びになっちゃいましたけど、以前なりわいとして野菜を育てていた頃には、例えば僕の中での小松菜の「美味さ」というものがあったわけです。
これをクリアするかどうかは、我が畑の野菜たちへの自分の中での納得の基準で、他の人がどんなに「美味しいね」と誉めてくれても、これをクリアしていなければ自分としてはペケなんですね。
けど、じゃぁそのOKな味はどんな感じ? と訊かれてもうまく表現ができないわけで・・・ (^_^;)

おいしいとは「美味しい」と書きます。
美しい味。
周知の事実ではあると思いますが、それは何といったらいいか、ハーモニーのようなある種の共振感覚でしょう。
これは、素材を育てる人や料理を作る人の「気の集注」のしかたや度合いから生み出されるものだ、と思うわけです。
それがきっとこの「美味さ」を醸し出す。

このあたりに至るものとなると、どちらが美味いという比較ができなくなりますよね。
もちろん上には上があるという厳然たる事実はあるのですが、それとはちょっとまた別のこととして、どれもがそれぞれに美味い「味わい」の世界です。

イサムちゃんのキャベツにはイサムちゃんの「想い」が醸し出す味わいがある、
僕の小松菜には僕の味わいがある、YSさんの野菜にはYSさんの味わいがある。
こちらの気の感じ、あちらの気の感じ、それぞれに味わい深く、それぞれに美味い。
こうなってくると、気がこもったものはすべて、それぞれに味わい深くて愉しいものだと分かります。

幸せは 意外とそこここにあるものです。


前編はこちら



*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

朝の光

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この記事へのコメント
お久しぶり、愚樵です。

前編からどんなふうに話が発展するのかなと思ってましたが、そうなりましたか。

アキラさんちで

「ひきよせてむすべは柴の庵にてとくればもとの野原なりけり」

を教わって以来、空っぽな愚樵ですが、こちらのエントリーの結論も空っぽいですね。

>美しい味。
>周知の事実ではあると思いますが、それは何といったらいいか、ハーモニーのようなある種の共振感覚でしょう。

そうです、そうです。この「共振感覚」こそが幸せですよね。
愚樵流で言えば、「共振」は〔信じる−信じる〕からくる「身体性(脳の拡張性)」となりますが、脳という器官のない野菜にだって「拡張性」はあるんですよね、きっと。

(そういうと水にも「拡張性」があるという話になりそうですが...(笑))
Posted by 愚樵 at 2009年08月07日 18:45
・愚樵さん

TBだけさせていただいちゃって、すみません。
つながる話かな?と思いまして。

はい、結論がそうなっちゃいました。
愚樵さんの方の「空」論は、結ばれてはほどけ、結ばれてはほどけ・・している感じで、どのような結ばれ方の庵として成り立ち得るのか、(はたまた成り立つ必要がないのか)、興味を持ちつつ静観してるところです。 (^o^)

前編のdr.stoneflyさんのコメントに、「ありがとうって声かけするんです♪」とフザケようかと思ったんですが、また水絡みでめんどくさくなるのもヤだな・・と思ったのでやめました。 (^o^)

>脳という器官のない野菜にだって「拡張性」はあるんですよね、きっと。
<
はい、そう感じます。
そうして、その植物の「オリジナルな動き」をキチンと持ちつつも、植物の「拡張性」は非常に柔軟度が高いとも感じます。
僕らの身近なほかの生物より、まわりからの影響を受けやすいというか、適応力が強いというか、そんな感じを強く受けるんです。
まぁ どっちかというと「そなたの色に染まろうぞ」という大きな包容力・・ですかね。感覚としては。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2009年08月07日 23:53
いや、やはり、それでしたか。
実は、前のコメントで書こうと思ったんです。
やめといてよかった。

ワタシの場合は、畑をやっているMさん。
遊びに行くと、手入れのしていない雑草だらけの畝。
サボってるな、というと、いくつかの草を毟りはじめた。それが15cmぐらいしかないほうれん草。
ひと掴みほど貰って、家で食ったら、これが美味い。いままで味わった事のない濃さ。いまだに忘れられずにいます。


Posted by dr.stonefly at 2009年08月08日 18:10
・dr.stoneflyさん

分かりやすい話ですみません。 (^o^)
そのMさんも、きっと「出さないでいい手は出さない」「しないでいいことはしない」という主義なんでしょうね。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/16406759.html
その味、忘れないで下さい♪

諸般の事情から、僕が畑をなりわいとしなくなったその年、時間がなくて手が回らなくて、ほっぽらかしに近い状態で草ボウボウだったんです。
そういう中で穫れたものは、それまでの(やっぱりそれなりに)草ボウボウの中で育ったものと、味わいが全然違ったんです。
ミョーに突っけんどんな味と言いましょうか、独立独歩な味わいと言いましょうか・・・。 (^_^;)
お、まったく「自然に・・」という状態で育つと、人の方を向かない、人に媚びない野菜になるんだな・・と、なんかかなり面白かったことを覚えています。

おんなじような「草ボウボウ」の状態でも、やっぱり違うんですよね。
その体験も、こういう想いを強めるきっかけとなりました。
Mさんの「草ボウボウ」の畑も、きっとジッと見つめながらの「草ボウボウ」なんでしょうね。
Posted by アキラ@dr.stoneflyさん at 2009年08月08日 22:08
この気の広がりの世界は、世の中の‘政治’的思考の渦とは別次元の安らぎがありますね。

勝つとか負けるとか、どうでもよくなる世界。

気持ちいいです。
Posted by naoko at 2009年08月09日 04:55
・naokoさん

わ、お久しぶりです♪

そうそう、勝つとか負けるとか、あっちがいい、こっちが悪いとかいう話じゃないんですよね。
どうせ生きてるんなら、こういう「振動」にたくさん出会って幸せを感じたいですし、それが生きてるってことのようにも思います。

その「振動」は、何も心地よいものばかりではなくて、
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51286540.html

そういう「振動」に出会うことも、また幸せだと思います。
Posted by アキラ@naokoさん at 2009年08月09日 10:02
こういっちゃあなんですが、整体的にフツーの結論かなあとか思ったり(^_^;)

原因→結果というか、因果応報っつうか、育てたようにしか育たないっつうか。まあ、そのまんまですね。

自分としては、そこまで味覚を知覚してないってのが話しに乗り切れない原因なんでしょうねえ。

美味いと不味いしか判断してない気がする・・・
Posted by スシファイ at 2009年08月09日 18:43
やはり舌の日光浴しなきゃ駄目ですかね?
Posted by スシファイ at 2009年08月09日 18:44
・スシファイさん

こういうことがね、ありありとした実感で分かる・・ってのが、僕は整体的感性だと思ってるんです。
それは、頭で「そうだよなぁ」と理解していることとは、まったく別のことなんですよね。

>育てたようにしか育たないっつうか。
<
僕はそうは思わないんです。
それだと、結局は「オリジナルな動き」は関係ない・・ってことになりますから。
そうではなくて、「オリジナルな動き」と環境とが相まって「ひとつの姿」が出てくる・・ってとこが、最大のミソだと思うんですね。
野菜は、環境の影響を非常に大らかに受け入れてくれる感じが、僕の中にはあるんです。
だからこそ、育ててる人の個性が乗り移りやすい・・みたいな。
ほかのものとは、またちょっと違う・・とも思うわけです。

味覚を育てるのは、味覚ではないと僕は思っています。
そういうつもりがあるかどうか、その気概がまずは何より必要なんだろうと思う。
「エロ」と「エロス」と「整体的“性”」との差を感得するのだって、そういう気概あってこそ育ってくる話だと思いますよ。 (^o^)
僕が某先輩を殊の外尊敬してるのも、そういう気概に満ち満ちているからです。
Posted by アキラ@スシファイさん at 2009年08月09日 20:52