2010年03月02日

    

寄生と共生と

午後

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

腸内細菌は私たちが生まれた後、外界からやってきて消化管の壁に棲み着きます。そして私たちが食べた食物のうわまえをはねて、あたたかな環境でぬくぬくと生育しています。
しかし、無限に増えたり毒素を出すことはなく、自らの分をわきまえて一定の安定したコロニーを維持して存在しつづけます。

では、彼らはそこで栄養素をかすめ取っているだけのパラサイトなのか。否です。
パラサイトとは一方的な寄生です。もしみなさんが、親の家に住んで安寧と食物を片務的に享受しているならそれは立派なパラサイトです。
でも腸内細菌はパラサイトではなく、人間と「共生」しているのです。

寄生と共生の違いはなんでしょうか。それは、一方的な搾取か相互応酬的かということです。


福岡 伸一 著『世界は分けてもわからない』より

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆


福岡伸一氏の上の文章を読んで、以前 愚樵さんが書いていた記事のことを思い出しました。

贈与とハラスメント」(愚樵空論)

この記事内の「図1」、愚樵さん仰るところの創発的コミュニケーション、
これは「共生」ですよね。

一方、愚樵さんがハラスメントの図示として挙げてらっしゃる「図2」、
これは「寄生」だと言える、と思ったんです。
この図2の関係性を「寄生」と言ってみると、なんか「あ なるほどね♪」という感じがするんです。 (^o^)
表向きは「贈与」に似たコミュニケーションに見えて、実のところは「寄生」という搾取構造なんですね。
だから 気分のいいもんじゃないんだな、と。


*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

夕暮れどき


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この記事へのコメント
初めまして。
寄生を悪として捉えることについての、異なる私見を少し…。

寄生とハラスメントとの共通項の多さはその通りだと思います。しかし、
>親の家に住んで安寧と食物を片務的に享受しているならそれは立派なパラサイトです。
そして寄生が「一方的な搾取」であることが気分のいいものでない…との視点に対して、私は

『寄生される側が悪であるべき』

との視点を提出させていただければと考えます。


その要諦は、「寄生される側」には「寄生する側」に対する一方的な生殺与奪の権があることです。
「寄生する側」は、自己増殖より高度な活動はできません。彼は、「寄生する側」から搾取する栄養・あるいはサービスの枠内でしか生存できません。
しかし「寄生される側」には、単なる消費以上の生産が可能です。自分に必要な量以上の生産することができる。(そしてそれを交換に出すことも)
「寄生する側」と「寄生される側」は、どうやっても対等なわけがない。これが人間対人間の関係において成り立つならば、前者は知的にも精神的にも未熟な半端者、後者は一人前の大人ということになります。

そして、強者は弱者の生殺与奪を握る。
Posted by 【地獄への】人生アウト【善意】 at 2010年03月03日 08:03
「寄生される側が悪」というのは、もちろんレトリックですが、「寄生する側」の目に映る「寄生される側」とは、どうしても巨人なのです。「寄生される側」が、「寄生する側」を対等とみなすことは、実態に即していない。
なぜって、「寄生する側」には何もできないのだから。自分でもそのことに気づいている。
にも拘らず、これを対等な一人前として扱うとどうなるか。――「寄生する側」は何も生み出せないまま、無限に要求を続けることが“一人前の資格”だと勘違いしてしまう。
何も生み出さずに、ただ自分にとっての都合のいい事を言い続けることが、一人前の者としてむしろ果たすべき義務だと勘違いしてしまう。それもその筈、彼らにとっては、半人前の自分の目の前に「大人」が立ってくれているのだから、全力でそれに向き合うのが礼儀だと考えます。「もっと寄こせ」以外のいかなる言葉も知らないまま。
これは、「寄生を許した側」の失敗だと考えます。


寄生をされるのが不快…というのは、まだ「不快でない範囲の寄生」を許す善意と言えます。
けれど、一切の寄生をシャットアウトする、ハラッサーを根こそぎ否定する「悪」のほうが、脱・寄生へとつながるのではないでしょうか。
Posted by 【共感】人生アウト【無用】 at 2010年03月03日 08:10
・人生アウトさん

って、HNをまとめちゃっていいですよね。 (^o^)
こちらでは、初めまして。
よろしくお願いいたします。
あちらこちらでの人生アウトさんのコメント、いつも興味深く読んでます。
たまに感動してます。(^^)

僕は「物差し」の数だけ、あるいは物事をみる角度の数だけ善・悪、正・誤があるだろう、という立ち位置です。
人生アウトさんもそのことは重々承知だと思ってますので、それはそれ。

で、
>「寄生する側」と「寄生される側」は、どうやっても対等なわけがない。
 ・・・・・・・・・・
 何も生み出さずに、ただ自分にとっての都合のいい事を言い続けることが、一人前の者としてむしろ果たすべき義務だと勘違いしてしまう。
 ・・・・・・・・・・
「もっと寄こせ」以外のいかなる言葉も知らないまま。
<
仰るとおりだと思います。
人間関係として、この寄生うんぬんを考えた場合、確かに対等ということはなく、しかし僕は「前者は知的にも精神的にも未熟な半端者、後者は一人前の大人」までの開きもないんじゃないかとも思うんです。
しかし、「寄生する側」の方がより未熟度が高いと思います。
Posted by アキラ@人生アウトさん at 2010年03月03日 20:38
(つづき)

また、「寄生される側」が自分に必要な量以上の生産することができるということもその通りだと感じますが、しかし余裕ある状態から搾取が行われるかというと、そういうわけでもないと思う。
かつかつのところに寄生されてることも多いんじゃないか、と思うんです。
ただ、「寄生される側」が寄生を許したからこそ、そのような事態は起きていると考えられる、とはその通りだと思います。

僕自身は、そもそも人間は成熟していくものだと思っているので、寄生自体は途中経過として「あってよし」なんだろうと思ってます。
もちろん だからこそ、いい年こいて未熟なまま この寄生を「当たり前」とするような輩は、アホンダラでしかないとも思ってるので、それがハッキリした時点でのシャットアウトがなければ、それは脱・寄生には傾いていかないでしょうね。

仰るとおり、そういう振る舞いは ある種の「善意」なのでしょう。
その意味では、確かに一切の寄生をシャットアウトする、ハラッサーを根こそぎ否定するほうが、脱・寄生へとつながるとも思います。
しかし、いい年こかないときにこの「寄生」というステップがないという状態は、それはそれでさみしい世界のような気も・・・。 (^_^;)
Posted by アキラ@人生アウトさん2 at 2010年03月03日 20:39
アキラさん、人生アウトさん、こんにちは。

え〜っと、申し訳ないんですが、私はやっぱり「寄生」と「ハラスメント」は本質的に異なるんではないかと思うんですね。

“ハラスメントがコミュニケーションの重要な要素である規則・制度・概念・言語・記号などの存在によってはじめて可能になり、しかもそれらは、本質的にハラスメント的側面を常に帯びている点である。”
(『生きるための経済学』より)

「規則・制度・概念・言語・記号」を駆使するのは人間だけと考えてよいでしょうから、ハラスメントは人間特有の現象と考えて良かろうと思います。

たとえばパラサイトですが、これは物質的側面だけを考えれば「寄生」でしょうが、与える側(寄生される側)にとって、それが寄生か共生か(贈与かハラスメントか)は、精神的な部分に拠るわけです。

>しかし、いい年こかないときにこの「寄生」というステップがないという状態は、それはそれでさみしい世界のような気も・・・。

とアキラさんが感じられるのは、このとき想定されている「寄生」が「贈与」だからだと思うのですね。

そしてまた「ハラスメント」と「寄生」とが大きく異なるのは、「寄生」の場合、人生アウトさんが指摘されたように

>その要諦は、「寄生される側」には「寄生する側」に対する一方的な生殺与奪の権があることです。

つまり力関係において[寄生される側>寄生する側]ですが、「ハラスメント」はその逆、[寄生する側>寄生される側]もあり得るし、そちらの方が多いということ。
Posted by 愚樵 at 2010年03月04日 04:36
また話が経済の方へ行ってしまって恐縮ですが、私は資本主義経済というのも本質的に「ハラスメント」、しかも[寄生する側>寄生される側]の「ハラスメント」だと思っています。

寄生する、寄生されるでいえば、本来、労働者が寄生される側、資本家は寄生する側ですが、社会をみれば誰しもが知っているとおり、生殺与奪の権を握っているのは寄生する側・資本家の方ですよね。

これは本来の自然の法則からすれば天地が転倒したような事態ですが、こうした「転倒」がおこるのも、人間が“規則・制度・概念・言語・記号などを駆使してコミュニケーションする”からなんだと思うんですね。
Posted by 愚樵2 at 2010年03月04日 04:44
以前、愚樵さんと「携帯電話を水に沈めて人間関係をリセットする」という戯画行為について、論になったことがありました。愚樵さんは否定的、私は肯定的。
もっと突きつめて、目の前で話をしている相手を、突然糸でも切るようにプツッと興味をなくすことは、私は「アリ」だと思うのです。ネットで言えば、相手の文言そのものを一切読まなくすること。

そのように、人のリセットボタンを押すことは可能だと私は考えているので、「ハラスメントされる側」は「ハラスメントする側」より強いと考えがちなのかも知れません。学生の怠学を教師に対するハラスメントとして捉えたことがありますが、もし教師が「この生徒は存在しない」として考えるようになれば、それはどんな成績評価より以上に学生にとって残酷な結果です。
あるいは親の食物を片務的にパラサイトする子に対し、「食物は与えるが言葉を与えない」とすれば、子は生きていく術がない。

これは一片の善意も残らない態度です。
Posted by 人生アウト at 2010年03月04日 11:42
そして、これが人間の初期状態だと私は考えているのです。
一片の情緒も共感性ももたない、論理性で考えるだけの。それでいい。

だから、辻褄が合わないのです。
そのような初期状態にある人間に、なぜ無数の他者は贈与したのか。
親や教師は贈与の塊ですが、何の意味があって子に共感を示し、自らに寄生をさせて、言葉まで与えたのか。
論理的に考えれば、これは不適当な「贈られ物」です。受け取る理由がない。なのに受け取ってしまった。
論理的に考えて、だから私達は自分達が贈与されたものを、今度は次の代に贈ろうとするのです。だって自分に贈与した張本人たる親や教師は、もういないのですから。
Posted by 人生アウト at 2010年03月04日 12:00
私達はしばしば、「人間」とか「社会」といった言葉を口にします。
>しかもそれらは、本質的にハラスメント的側面を常に帯びている点である。
その通りです。私達が行動の基準にしているところのさまざまな概念は、私達は「普遍」的だと考えがちですが、それは違う。

「普遍」的な諸概念がまずゴロンとあって、私達の「知」がそれにアクセスするのではない。
まず具体的な形で存在してしまっていた人間や社会が、さまざまな偏りを織り込みながら初期状態の論理ロボットに贈与した。
ロボットはそこから、帰納的に「普遍」的な概念を「仮」に組み上げる。その背景には、具体的な彼の経験が強く反映されている。
だから重要な事は、私達の普遍的な概念が偏っているということを、強く自覚することでしょう。

偏った「普遍」と、異なる「普遍」が遭遇するから、そこに交換が生まれ共有が生じる。
子どもを育てるのは偏った普遍、異性愛は偏った普遍、興味のない相手をリセットするのも偏った普遍、寄生する資本家が強いのも偏った普遍。

だから、その中からどの「普遍」を選びとるかは、すべて私達の願い。私の「普遍」を真に普遍たらしむという願いこそが、歴史を作る。
Posted by 人生アウト at 2010年03月04日 12:25
・愚樵さん

こんにちは。
またちょっと言葉が足らなかったというか、余計だったというか、そんな文章のようでした。 (^_^;)
僕が今回思い浮かべていたもの、また当時 愚樵さんの記事を読んだときに面白いな♪と思っていたもの、それは図1と図2だったんです。
人と人とのやりとりをイメージするとき、図1や図2の状況って あるよな〜、と。
こうやってイメージにすると把握しやすいな、安冨さんって方 うまいな、と。

で、僕としては図1・2のコミュニケーション・イメージが、それぞれ図1=創発的コミュニケーション、図2=ハラスメントと、イコールで結べるかどうかについては、保留だったんですね。
特に図2が、=ハラスメントかどうなのか。
ハラスメントかどうかを決めるのって、難しいですよね。
まったく同じ状況でも、ある人からやられればハラスメントと感じ、別の人だったらそうは思わなかったりしますし、また当事者はハラスメントだと感じていなくても、端から見てた人が「それはハラスメントだよ」と言う場合もある。

愚樵さんや安冨氏が仰るように、ハラスメントは人間特有の現象でしょうし、コミュニケーションの重要な諸要素は本質的にハラスメント的側面を常に帯びていると、僕も思います。
ですから、図2がハラスメントになるかどうかは、Aの「精神的な部分に拠る」と言えると思います。
AとBの大小(力の強弱?)の兼ね合いでも決まりませんし、ある一つの「物差し」でも決まらない。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年03月04日 22:23
(つづき)

僕は、図2=ハラスメントだとは思ってないんですね。
「そういうコミュニケーション・イメージってあるよね」とは思ってます。
で、そこからすると、おなじ図2的なコミュニケーションでも、ハラスメントとしては成立してない場合も多々ある。
僕が言った、いい年こいてないBに 成熟したAが相(あい)対している場合など、僕がAの立場だったら、それはハラスメントにはなりません。
もちろん その場合は、A>Bなわけですけれど。
けど僕は、「ハラスメント」にはなっていないけど、やっぱり「寄生」の一種だと思うわけです。

例えば同じ図2が、いい年こいたアホンダラのBだった場合には、Aは同じA>Bであっても、そのBの行為をハラスメントだと感じるかもしれません。
Bはどちらも同じくらい「未熟」かもしれませんが、しかしAの受けとり方は違ってくる可能性があるわけで。
これとは逆の、愚樵さんが仰るA<Bの場合でも、ハラスメントだと受けとる場合もあれば、そうは受けとらない場合もある。

ダラダラと書いてしまいましたが、ですから僕が思ってたのは、というか、ここへきてハッキリしてきたのは、僕は『図2は「寄生」だと言えると思うけど、「ハラスメント」とイコールでは結べないのでは?』みたいなことを思ってる、ってことですね。 (^_^;)
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2010年03月04日 22:23
・人生アウトさん

愚樵さんへのコメントなのかもしれませんが。。。

一片の情緒も共感性ももたない、論理性で考えるだけの状態が人間の初期状態だ、という途中経過は???ですが、
「重要な事は、私達の普遍的な概念が偏っているということを、強く自覚することでしょう。」
という結論には同感です。
僕の言葉で言えば、『わたしたちの中の「普遍」は、みなそれぞれにローカルである』。
だから、それに再帰的に向き合う姿勢が大事だと考えます。
その再帰的な姿勢が「願い」であるというのは、またまた「なるほどね♪」ですね。
Posted by アキラ@人生アウトさん at 2010年03月04日 22:35
なるほど、仰りたいことわかったような気がします。

>僕は、図2=ハラスメントだとは思ってないんですね。
>「そういうコミュニケーション・イメージってあるよね」とは思ってます。

「なるほどね♪」ですね(^o^) 

ただ思うのは、“図2は必ずしもハラスメントではない、そういうコミュニケーションもあり”というのは、誰にでもそう思えるものではないだろう、ということです。成熟していなければこれは無理でしょう。

「重要な事は、私達の普遍的な概念が偏っているということを、強く自覚することでしょう。」

これは要するに「成熟している」ということですよね。

人の成熟度を表わすのに禅では「十牛図」を使うというのは有名な話ですが、それでいうと、6番目の「騎牛帰家(きぎゅうきか) 」にでも相当するでしょうか。

Posted by 愚樵@アキラさん at 2010年03月05日 05:08
私もアキラさん同様、人生アウトさんの結論には賛成です。が、やっぱり“人間の初期状態”の話は...、???です。

なかでも私がよくわからないのは、

>だから、辻褄が合わないのです。

の一文。これをどう読めばよいのかがわからない。いえ、正確に言うと、私にはこの一文は人生アウトさん自身に向けてのもののように読めて仕方がないのですが、その読解に自信が持てない、というところですね。

>そのように、人のリセットボタンを押すことは可能だと私は考えている

この「リセット」が「自由」ということなら私はやはり否定的です。というのも「ハラスメント」は実は「絆」でもあるわけだから。規則・制度・概念・言語・記号など媒介として人は「絆」を結ぶ。その結び方は恣意的であるということで、

>『わたしたちの中の「普遍」は、みなそれぞれにローカルである

になるわけですが、それにしても「絆」から自由になれない。自由にリセットできる「絆」は、もはや「絆」ではありません。

ただ、人は、成熟度を高めることで「絆」から「自在」にはなれると思います。“自身の心の有り様”を少し変えるだけで、「ハラスメント」を“それもコミュニケーションの一種”と捉えることが出来たりします。それを指して「リセット」というなら肯定です。
Posted by 愚樵@人生アウトさん at 2010年03月05日 05:44
はい、逆算式に考えてみますね。
末部では、願いや意思を重視すると書きました。
ある人が「そうしたい」と思うのであれば、内容の成否は二の次だということでもあります。

それは、私達を動かしているものは成否や判断に基づいてのものでなく、動機や感情であろうという考えです。憎いなら、人を憎めばいい。差別したいならすればいい。
不純なのは、自分が感情的になっているのを「いや、僕は感情的になどなってない!」と誤魔化すことですし、「これは差別じゃないよ。全部あいつが悪いんだ」と言う偽善です。
意思があるなら、そこにどのようなリスクが伴おうとも引き受けるものですが、こうした不純な動機は、自分が本来手を汚すべきところを「正義」や「真実」に仮託して逃げる。(そういう例はたくさん見た)

「普遍がローカルである」ことが強調されるべきだと考えるのは、普遍なるものが本来ローカルであればこそ、ローカルそのものである私達一個人が、責任をもってこのローカルをより「誰かに届く」ようにしてやらなくちゃいけないからです。
Posted by 人生アウト at 2010年03月05日 08:39
このローカルさを決定づけたのは、私達の具体的な環境―時代・国境・文化・性別・家族・病気・収入―です。
リベラリストは、この具体的な環境の壁を取っ払おうと願います。まさしく、年齢や性別や文化の壁というものは煩わしく、一挙に取り除いてしまえればどれだけ楽かわかりません。
そしてこの、ローカルなものを取り除きたいと思うことさえまた「願い」なのです。ローカルな私がもつ願いが、私のローカルの排除を志向する。
左派ならこの矛盾を、止揚と呼んで肯定するかも知れません。この矛盾する志向を突き進めることが必然、善だと。しかしながらこの“止揚”でさえ、私達の意思に基づくものであり、美辞麗句に仮託するべきものではないと考えます。

『辻褄が合わない』
私達がローカルから出発したにも関わらず、そのローカルを否定せずにはいられないのは。
私達が辻褄なんてものの無い環境で、辻褄の合わない生育を受けてきたからだと思うのです。必然的なものは何もなく、偶然そこにあったものから仮組みの「普遍」を生み出してきた。私達の行動は、たまたま普遍に見えるものを原理としているのであって、正しいから行動しているのではない。(そのような条件だからこそ、リスクを引き受ける意思のある感情や動機は、理屈以上の説得力を持つ)
Posted by 人生アウト at 2010年03月05日 08:41
そして、偶然によってローカルな私達が形作られたのであれば、偶然目の前にいる相手に、必然的な意味合いは何もないということだと思います。教師が怠学生徒に不快を感じ、それでも見捨てず教師であり続けるのは、彼が「教師でいたい」という意思があるからです。この意思がなければ、教師はさっさと生徒を切り捨てるでしょう。親が不肖の子をかばい続けるのも、「親でいたい」から。
親子や師弟の絆は、意思の産物です。辻褄も何もない偶然の出会いを、意思によって「絆」へと変えている。だから強い。同時に苦しむ。
リセットすれば「楽」なのですよ。親であること、教師であることを「リセット」すれば、何者にも苦しめられずに済む。何者かであるところの私を失うことと引き換えに。

通常であるならば、このようなリセットは肯定できません。しかしながら、リセットを否定し絆を肯定するのもまた、私達の意思です。何者かでありたい、絆を持ちたい意思があるからこそ、行動している。
されど、偶然から紡ぐ絆に、必然も辻褄もない。あるのは私達の意思だけ。意思によって絆を紡いでいるのであって、「絆は紡ぐべき」という普遍があるわけではない。
何者かでありたいが為に絆を結び、そこでハラスメントによる破壊を被るのであれば、その出会いの偶然を「リセットすべきでない」か「リセットしたい」かは、ただ本人の意思に委ねられて良いのではないかと考えるのです。

重ねての長文、大変失礼致しました。
Posted by 人生アウト at 2010年03月05日 08:43
・愚樵さん

>ただ思うのは、“図2は必ずしもハラスメントではない、そういうコミュニケーションもあり”というのは、誰にでもそう思えるものではないだろう、ということです。成熟していなければこれは無理でしょう。
<
あ〜、確か尼僧かもしれません。
いえ、確かにそうかもしれません。(面白かったんで残しました♪ 尼僧じゃねーよ!)
僕が上記コメントのあれこれを考えてるときってのは、図2で言えば必ずAの立ち位置で考えてますね。
図2のBのところにいれば、よっぽどそれを故意に「攻撃」としてやっていない限り、B自身は図2のイメージ自体をそもそも想像することはできないでしょうし。

>人の成熟度を表わすのに禅では「十牛図」を使うというのは有名な話ですが、それでいうと、6番目の「騎牛帰家(きぎゅうきか) 」にでも相当するでしょうか。
<
そう考えると十牛図も面白いですね。
5番目の「牧牛」か、6番目の「騎牛帰家」かってところでしょうか。
それでもまだ折り返し地点にすぎない・・ってのが、イカしてます。
(^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年03月05日 14:47
・人生アウトさん

人生アウトさん、再解説、ありがとうございました。
逆算式の説明だと、かなり分かった気になれました。
やはり、というか人生アウトさんからすれば「当然だろう」でしょうけれど、その意思は責任を伴うってことですね。

>そしてこの、ローカルなものを取り除きたいと思うことさえまた「願い」なのです。ローカルな私がもつ願いが、私のローカルの排除を志向する。
 ・・・・・・・・・・・
 私達がローカルから出発したにも関わらず、そのローカルを否定せずにはいられないのは。
<
このへんを、前のコメントのときには理解できてなかった気がします。
僕には左派的な感性が多分あまりないようなので、それで「論理ロボット」的な説明が分かりにくかったんだろうと思いました。

確かに、偶然の積み重ねによって「偏った普遍」、ローカルな僕らが形作られている、と言えると思います。
しかし、その「ローカルさ」を失ってなおかつ「わたし」でいられるのかどうかということを考えると、果たして実際 本当に自分のいろいろな「ローカルさ」を捨てられるのだろうか、とも思う。
僕らは、いわばタコ足的にいろいろな「ローカルさ」を身にくっつけているでしょうから、そのある一部を切り捨てる、あるいはある一部を残してあとをすべて切り捨てる、これはあり得るでしょうね。
Posted by アキラ@人生アウトさん at 2010年03月05日 14:50
(つづき)

近代民主主義的な世の中ということで考えれば、確かに人生アウトさんの仰るとおりのような気がします。
自分の身にタコ足的にくっついているいろいろな「ローカルさ」すべてを切り捨てることは不可能、あるいは非常に難しいことのように感じますが、それのどれを切り捨て、どれを残すのか、どれに依存(仮託)するのかの取捨選択は可能だと思います。
そうしてそれを行うのは、その人の「意思」だというのも納得です。

僕はこの「意思」には、積極的なものと受動的なものとがあるように思えます。
また、この「意思」が意識的なものばかりでなく、その人の無意識的なものをも含めるというのであれば、その無意識的取捨選択を含めて、すべての人は再帰的に自らの「意思」で取捨選択をしているとも言えますね。

>何者かであるところの私を失うことと引き換えに。
<
ここがけっこうポイントなんでしょう。
これに加えて、自分がその切り捨てをやるのであれば、自分と「偶然の関係を結ぶことになった」相手もまた、いつでもそのような「切り捨て」を行うであろう・・ということを自明としなければなりません。
この2点に耐えられるのであれば、確かに「リセット」の意思を働かせることができますね。

人生アウトさんの再解説のコメントを読んでいて、スラヴォイ・ジジェクのある文章を思い出しました。
次の記事として、アップしておきますね。
Posted by アキラ@人生アウトさん2 at 2010年03月05日 14:51
アキラさん、人生アウトさん、よ〜くわかりました(^_^)v  終わり

...としたいところですが、せっかくですので、続きを(といっても、自己宣伝ですが...(^^; )

いつだったか私は、アキラさんのところで(だったと思いますが)“この社会をダメにしているのは貨幣・科学・人権だ”とした記憶があります。

この3つを最近の私の言葉で表現すると「他律性外部基準(=同一性)」です。この3つに〈私の意思〉とは関係がないところで「正義」なり「真実」なりが成立してしまう。

貨幣は財の価値を〈私の意思〉と関わりなく決定しますし、科学は〈私の意思〉と関わりなく「世界の法則」を導き出す。人権も〈私の意思〉とは無関係に“誰にだって生きる権利はある”と決定してしまう。いくら

>「普遍がローカルである」ことが強調されるべき

と言葉で訴えたところで、私たちの日々の行動――特に、貨幣が価値測定を行なう経済社会に即した振る舞い――は、その言葉を否定するものになってしまっているし、その現実は否定しようがありません。

私たちは〈私の意思〉を持つローカルな存在ですが、しかし、それ以上に無意識に環境に適応してゆく身体と不可分な〈無私〉な存在でもあります。〈無私〉な私は、〈私の意思〉とは無関係の外部基準によって、知らず知らずのうちに(他律的に)行動を規定づけられてしまっていて、その「規定付け」は大きな意味でハラスメントとなっています(その状態を「隷属」と呼んでいます)。

いまの私の問題意識の中心にあるのは、

・なぜ、このような「ハラスメント」「隷属」状態が生じ、

・どのようにすれば、この状態から抜け出せるのか

ということです。

元来ローカルな存在(差異ある存在)である私たちが、他律的外部基準(同一性)に偏らず、ローカルなままで社会を構築(差異共振)することはできるのかどうか? 
Posted by 愚樵 at 2010年03月06日 05:46
(つづきです)

もしその可能性が開けてくるとするならば、それは〈無私〉というところが軸ではなかろうか? そんなふうに考えているわけです。
(おそらく、ここのところが人生アウトさんとの大きな相違点なのでしょう)
Posted by 愚樵2 at 2010年03月06日 06:06
>愚樵さん
そうですね、では私は逆に<極私>という軸を出してみたいと思います。(そんな言葉はありません)

貨幣・科学・人権は私の意思と関係ないところで成立してしまう。YESです。
それをハラスメントと捉え、そこから抜け出すことを考えられるのが愚樵さんなのだと思います。

私は、それらが<私の意思>と関係ないところで成り立っていることを同じく前提とした上で。
貨幣・科学・人権を――システムそのものを――私の意思で呑み込もうとする方向で模索したいと考えています。

アキラさんは、意思には受動的なものもあると書かれました。愚樵さんは、絆はリセットできないと書かれました。
その通りだと思います。私達を決定づけているローカルなものは、私達を束縛し、定義づけ、安心と限界を作り出しています。そして、システムなるものは外側にあって隷属を作り出している――と。
個人的な事を書けば、私を決定し動機付けたのは、「子供の上に鉄と火が降って来る」「子供が食べられる飯が無い」という事実でした。
もし、自己が子供とのローカルな一対一対応の世界で生きていれば、外部システムからくる暴力から守れない。
ならば、私を位置づけるローカルな人間環境――そこからの1の入力を百倍にして、システムに手を届かせてやろうと。1の受動的な絆に対して1の(リセットできない)絆で答えていたのでは、外部からやって来る<貨幣・科学…なんでもいい>隷属に、押しつぶされてしまう。すり潰されてしまう。

だったら<私>を徹底的に肥大化させて、そのシステムさえを<私の意思>で征服してやれば、受動的ローカルさを保持しながらも他律的外部基準に従わずに済むのではないか――と。
X100という式で。
Posted by 人生アウト at 2010年03月06日 18:41
・愚樵さん

じゃあ僕も、もう少し。
(と思ったら、すごく長くなっちゃいました)(^_^;)
次の記事にジジェクの文章を載せましたが、僕は愚樵さん同様、この「いろいろと身にくっついているローカルさ」は、悩ましい問題だと思ってるんです。

確かに仰るとおり、僕らは「無意識に環境に適応してゆく身体と不可分な〈無私〉な存在」だと思います。
しかし、社会的な意味合いのところへいくと、そういう端的な具体性・実体性だけでは、人は社会的には存在しない(に等しい)。
象徴的ネットワークに絡めとられないと、社会的には存在できないわけです。

だからこそ、自分なりの社会的なローカルさで着飾ることになるわけですが、実は問題は、ラカンが示すように、「主体」自体はちょっとミョーなシミのついた空虚だ(社会的には)、ということです。
 ≒愚樵さんや人生アウトさんの仰る「そもそもが〈無私〉な存在」・・ですかね。

つまり、人は誰かからある認められ方をすることで、初めて社会的に存在する。
人はそうやって認められ合いながら、お互いを(社会的に)存在させ合っている、ということ。
いくら自分で「マイ・ローカル」を着飾っても、誰かがそれを認めない限り、そのようには存在できないわけですよね。
自分一人だけでは、社会的には存在できない。

逆に言えば、人は、自分が「そう認めてもらいたい」ように 他人が認めてくれるよう振る舞う(努力する)・・、存在するために どうしたって僕らはそのように振る舞うわけです。

そしてこれに絡んで、もう一点。
自分の「意思」とは何の関係もなく、他人から勝手に「そのように認められる」ということがあるわけですよね。
他人から「そのように」認知されてしまえば、そのように存在せざるを得なくなってしまう。
レッテルを貼られる・・なんていうやつですね。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年03月06日 22:59
僕は、伴うもろもろをすべて引き受ける覚悟があるなら、人間関係を「リセット」するのは その人の自由だと思っていますが、
それとは一切関わりなく、他人からその位置へ「ロックオン」されてしまうことも、実際には多い。
愚樵さんの仰る(他律的な)「規定付け」も、この延長線上にありますね。

結局、自ら求めようが求めまいが、人は「外部基準」によってしか 社会的に存在できないわけです。

愚樵さんの仰ること、よく分かるんです。
「外部基準」は、社会的にはどっちにしたって必要な構成物です。
『なぜ、このような「ハラスメント」「隷属」状態が生じたのか』といえば、人は元々そういうふうに社会的に存在するからだ、と僕は思います。

普通に考えると、問題は、自分の「意思」と一切関わりなく、他人からその位置へ「ロックオン」されてしまうこと・・のように思えますが、
実は、(社会)環境に適応しようと無意識的に「外部基準」に自ら適合しようとしにいくところ、そこにもっと深刻な問題がある、と僕は思ってます。
知らず知らずのうちに、行動を他律的な基準に自ら規定づけているんです。
されてるんじゃない、してるんです。
本性的にそうしてしまう・・、僕はそう思います。

より多くの人と共有しようと思ったら、なるだけ「ローカルさ」を払拭して抽象化しないと、概念は共有できません。
これも避けられない。
その究極が、「偏った」が取れてしまった「普遍」、近代の「他律性外部基準」ですよね。
「偏った」が取れてしまって、ただ一つの「真実」とか「普遍」「正しさ」「善」「正義」・・・
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2010年03月06日 23:01
社会的に存在することを前提にすれば、上記の理由から、〈無私〉というところは軸にはなり得ないような気がします。
無意識に環境に適応してゆく身体と不可分な〈無私〉な存在だからこそ、自ら無意識的に適応しにいっていまうんですから。
「社会的なこと」にさえも。

ですから 単純に考えると、近代的な「普遍」を もう一度「偏った普遍(ローカルさ)」に引きずりおろすか、
無自覚に「外部基準」に自ら適合しようとしにいっていること、自分の行動を他律的な基準に自ら規定づけてしまっていることに自覚的になるようアタマを使うか、
そのへんになりそうではあります。

その意味合いにおいて、「だったら<私>を徹底的に肥大化させて、そのシステムさえを<私の意思>で征服してやれば、受動的ローカルさを保持しながらも他律的外部基準に従わずに済むのではないか」と仰る人生アウトさんには、方向性としては僕は同意です。

けれど、愚樵さんはそれではやはり難しいとお考えなんですよね?
Posted by アキラ@愚樵さん3 at 2010年03月06日 23:02
私の「脱線」に付き合っていただいて、ありがとうございます。願わくは、もうしばしのお付合いを。

>「だったら<私>を徹底的に肥大化させて、そのシステムさえを<私の意思>で征服してやれば

行き着く先としては、やはりそこしかないということは私も同意なんです。ただ、私が難しいと考えているのは、そこへ至る「道程」なんです。この「道程」を〈私の意思〉で歩いていくのか、〈無私〉のうちに歩くのか、ということなんです。

おふたりに言うまでもないことでしょうが、「〈私〉の肥大化」とは決して「わがまま」のことではありません。むしろその逆で、「〈私〉を〈私〉たらしめているローカル」を削ぎ落とすことで純然たる〈私〉を見出していこうとする、古くさい言葉で言えば「修行」でしょう。

「修行」には、当然のことながら苦痛が伴います。成熟度が低い人間(という書き方は尊大で嫌ですが)にとっては「ローカル」こそが〈私〉だと認識されていますから、アキラさんのいう「〈私〉の肥大化」、人生アウトさんの〈極私〉へ向かうには、まず、どうしたって“〈私〉を削ぎ落とす”という過程を経なければならない。これが「修行」であり大半の人間にとっては苦痛に感じられることです。

では、なぜ人は苦痛を伴う「道程」を歩み出すのか? 私はその理由には2つあると思うんです。1は“不幸”な理由、2は“幸福”な理由。
(なかには3として、“先天的”な理由で始める人もいるかもしれませんが。)
Posted by 愚樵 at 2010年03月07日 04:50
1は、人生アウトさんが少し触れられたことであり、また私自身にも思い当たるフシのあること。とどのつまり“そちらへ歩み出すしかなかった”(あ、人生アウトさんがそうだったとは私には断言できませんね)。周囲が〈私の意思〉とは関係なく〈私〉を削ぎ落としていってしまうために、〈極私〉へ向かう理由をどうしても〈私〉の中に見つけるしかなかった、というケースです。

2は、“レッテルを貼られる”というケース。周囲から〈極私〉へ向かう理由を与えられるということですね。〈極私〉へ向かうべく教育されるといってもよい。

1にせよ2にせよ苦痛を伴うことは間違なく、人は逃げ出したいという衝動に駆られるはずです。にもかかわらず逃げ出さない理由、1の場合は“〈私の意思〉に関係なく〈私〉を削ぎ落とされる”という不幸から逃れるためであり、2は“〈私〉を削ぎ落とすと賞賛が与えられる”という幸福のため。

1も2も、〈極私〉へ歩み始める最初の理由は〈私の意思〉ではありません。〈無私〉です。しかし、つぎの段階になると1では、不幸に対抗する理由を〈私の意思〉として見出すわけですから“私的”といえるでしょうし、2はその理由が周囲からの賞賛ですから“無私的”。

私が「〈無私〉が軸」といったのは以上のようなことが念頭にあってのことだったわけです。
Posted by 愚樵2 at 2010年03月07日 05:07
ここで〈極私〉に対抗する概念として〈凡私〉という言葉を持ち出します。〈極私〉が“〈私〉を削ぎ落とした純然たる〈私〉”だとすれば、〈凡私〉は“ローカルまみれの雑然とした〈私〉”と定義できましょう。

その上で今の社会の在り方を鑑みてみますと、私たちに掛かる圧力は、〈極私〉の方向か、それとも〈凡私〉の方向か? いうまでもなく〈凡私〉の方向、〈凡私〉であるべくレッテルを貼られる、教育されるのが今の社会といってもいいでしょう。〈極私〉へ向かう2のケースは、社会的に排除されてしまっています。

ですので、今の社会では、〈極私〉へ向かうには必然的に1のケースということになってしまうのです。これは人が成熟していくには、必然的に不幸であらねばならないということでもある。そんな社会が果たして幸福な社会と言えるのか? 答えは明らかに“NO”でしょう。

今の社会は、個々人のレベルでみれば幸福追求社会であるとはいえます。成熟度の低い人にとっては、ローカルを纏うこと(=自己実現)は幸福と感じられますし、そのことを推奨する社会ですから。しかし、その幸福追求はローカルを普遍化させようとする方向にどうしてもいく。グローバル化です。そして、すべてのローカルがグローバルにはなれませんから、どうしても勝つか負けるかの競争が生じ、勝者のローカルがグローバルと見なされて「総取り」してしまう社会になる。

ミクロのレベルでの幸福追求がマクロでは不幸になる、悪循環な社会です。

この悪循環を断ち切るには“〈無私〉が軸”となることが大切だと私は考えているのですが、ただ、この〈無私〉を恣意的に強要するととんでもないことになります。“〈無私〉の恣意的強要”の行き着く先はファシズムですので。
Posted by 愚樵3 at 2010年03月07日 05:41
>愚樵さん
「2はその理由が周囲からの賞賛ですから“無私的”」というのと、「“〈無私〉が軸”となる」ということの繋がりがよく分からなかったです。他律的ということの無私なのか。
同様に、「2は、〈極私〉へ向かうべく教育される」と「〈極私〉へ向かう2のケースは、社会的に排除されてしまっています」との繋がりが。


ただ、教育課程において例えば「優等生」のレッテルを貼るのは、「あなたはこんなローカルな所から、もっとグローバルな世界に出るべきだ」という賞賛であると同時に、生徒にとっては優等生でない自分・挫折する自分を禁止される呪縛でもありますね。
そういう時には、「勝ちをやめる」必要があるのではないでしょうか。

教育課程の本来の嬉しさは、人がわかるようになることです。「これがわからない」と言う隣の子と話して、相手がわかるようになる。その時、自分は問いの深い構造を教えてもらえる。「なぜわからないか」を考えれば、分かると分からないの区分、「自分は何をわかっているか」「まだ何がわかっていないか」がつかめる。
それは、「わかっている」教師から知れることよりも大きい時ある。

私は、それが教育の賞賛であり祝福である(あった)と思います。ローカルで、凡で、勝者やグローバルなどどうでもいい、幸せ。
だってその時、旧いローカルとしてあった「周囲から貼られた優等生」は一旦分解され、机を並べる者同士で新しいローカルが作られるから。それが新しい基盤になる。基盤の新陳代謝は、普遍化やグローバル化とは違う方向で、広い場所につながると思う。
Posted by 人生アウト at 2010年03月07日 08:51
・愚樵さん & 人生アウトさん

なんかずっとこの話が 続いてほしい気がしています。(^-^*)

僕も少し愚樵さんに質問を。

「純然たる〈私〉」というのが、どのようなことを指すのかが、ちょっとよく分かりません。
僕が言った『身体と不可分な、端的に「生きている」という具体性・実体性』というようなことでしょうか?


>周囲が〈私の意思〉とは関係なく〈私〉を削ぎ落としていってしまう
<
これも、どのようなことか、ちょっとよく分かりません。


>“〈私〉を削ぎ落とした純然たる〈私〉”
<
これも。(^_^;)
Posted by アキラ@愚樵さん&人生アウトさん at 2010年03月07日 12:32
前回の一連のコメントは、まったくヘタクソな文章でした。お詫びしたうえで、もう一度、仕切り直しをさせてください。

今回は前回とは逆に、社会の在り様から話を始めます。

まずは現在私たちが暮らしている社会ですが、この社会の在り様は「大きいが単層」です。これに対して、昔の日本の地域社会などは「小さいが複層」だった。「小さいが複層」から「大きいが単層」に社会の在り様がいつの間にか変化し、それに応じて人の在り様も〈極私〉から〈凡私〉へ変化していった。この変化は、意識的に行なわれたのではなくて、無意識的なままに推移していった。

と、以上が基本構図。

単層社会においては、個人のローカル性は、その個人の社会でのポジションを表わすものになります。たとえば性別、国籍、学歴、所属する組織、所持する貨幣の多寡、表明された思想信条、ローカル性はいろいろありますが、これら多様なローカル性も、単層社会では淘汰されていって、誰もが認める「グローバル性のあるローカル性」しか認められなくなってしまいます。ですから、単層社会で生きる個人は、自己のローカル性のグローバル化を競うようになる。

単層社会では、競争の勝者であろうが敗者であろうが、個人は社会のパーツとしてしか存在が認められなくなります。勝者は大きな部分を部分を占め、敗者は小さな部分しか与えられない。要するに「パイの奪い合い」です。
(それを是正しようとするから、「公平な分配」が議論されます。が、その議論も単層社会という枠の中から出るものではありません)
Posted by 愚樵1 at 2010年03月08日 06:54
次に複層社会です。

複層社会での個人の在り方は、単層社会のそれとは大きく異なります。複層社会での個人は、多様に存在する社会の仲介点なんです。

たとえば家族という社会、集落という社会、集落よりも少し大きな地域という社会、または職場という社会、個人はそれら別個で複数の社会に属しつつ、自分が所属する複数の社会の仲介役としての役割を果たします。

そうした複層社会で生きる個人の目的は、単層社会でのそれとは大きく異なります。単層社会では「パイを大きく奪い取る」のが個人の自己実現になりますが、複層社会では「複数の社会を上手く仲介する」することが個人の自己実現となる。

私は「複層社会での自己実現」を人生アウトさんの〈極私〉だと捉えたのです.
(「単層社会の自己実現」が〈凡私〉です。)

申し訳ありません、時間切れ。続きは夜に書き込みます。m(_ _)m
Posted by 愚樵2 at 2010年03月08日 07:17
すみません。昨晩はコメントできませんでした。

>私は「複層社会での自己実現」を人生アウトさんの〈極私〉だと捉えたのです

この続きから。

ただし、この私の捉えた〈極私〉と人生アウトさんがイメージした(であろう)〈極私〉にはおそらく隔たりがあります。それは「大きさ」です。

人生アウトさんの〈極私〉は、「大きな単層社会」を超克することで得られる〈極私〉ですから、必然的にその〈極私〉は大きい。逆に私がイメージした〈極私〉は小さいのです。「小さな複層社会」での〈極私〉ですから。しかし、小さくても大きくても、

「受動的ローカルさを保持しながらも他律的外部基準に従わずに済む」

という点では同じ。ただ、小さい方には、大きい方に求められる「<私の意思>で征服」というところが必要ない。複層社会では、個人はもともとから社会の内部に取り込まれた存在ではありませんから(取り込まれていては「仲介」は不可能です)、はじめから「征服」といった過程は不必要なのです。

「征服」というのは、極めて〈私的〉な行為です。「征服」によって〈極私〉に至るというのは、〈私的〉な行為の果てに〈私の意思〉をも相対化してしまうということで、私はその「道程」を「不幸な修行」と捉えた。対して「征服」を必要としない複層社会での〈極私〉への「道程」は、それは単に“大人になる”、社会の仲介者へ成長するということ。子どもが大人へと成長していくということは、喜ばしいことですから、それを私は「幸福な修行」と捉えているわけなのです。
Posted by 愚樵3 at 2010年03月09日 06:42
>複数の社会を上手く仲介する

例えば中学生の友人同士で街を歩いている時、はめを外して見知らぬおじさんに怒られた。そんな時、うちの一人が大人の謝り方をすれば場は収まる。
この時彼は、「少年グループ」という社会と「大人の通行人」という社会を仲介したことになりますね。
もし、グループの全員が「少年グループ」単層の中に留まっておれば、大人社会はこれを潰すでしょう。「少年」と「大人」はそれぞれ違う理屈で動いているから、その妥協点を見い出せる人間が必要になる。

あるいは親戚・家族の中においても、それぞれの構成員の言い分を把握して上手に調整できる、「どっちつかず」の存在がいるといないとで、大きく変わる。
もし、個別の単層人間だけで社会ができてしまったら、「強いものが勝つ」だけのシンプルなゲームになってしまう。
Posted by 人生アウト at 2010年03月09日 08:07
もっとも、
>それぞれの構成員の言い分を把握して上手に調整

サイズ、「大きさ」の点で考えると、これは出来ることと出来ないことがある。
大きさと同時に速さの問題もある。ある集団を時間をかけてまとめる時と、感情高ぶって丁々発止やっている集団をどうにかするのでは、限度が違う。
人間は論理ロボットと書きました。それは、サイズや力の限界に制限されるということでもあります。気持ち一つで無制限に何かができることはない。

だから時には、切り捨てることが必要になる。目の前の人間がグジャグジャになっている時、「無理なものは無理」として黙殺することは合理的。
計算が終了していないのに「俺にまかせろー」と突っ込んでいっても、よほどの辣腕がなければ破壊だけで終了する。

「征服」というのは、だから、この無理をこじ開けるための修業・道程だと考えます。論理ロボットのサイズがでかくなれば、切り捨ての数を減らすことができる。できるといいな。
Posted by 人生アウト at 2010年03月09日 08:32
・愚樵さん & 人生アウトさん

なるほど。ありがとうございました。
僕はやはり人生アウトさんに近いですかね。
そうして「征服」ではなく、やはり「再帰的・自覚的」がキーワードです。

僕は、今現在もそんなに「大きな単層社会」になっているとは思えませんし、いろいろなローカルさの種類もそれほど減っているとは思えません。
むしろ「ローカルさ」が多様になりすぎて、「共通ルール」として共有できなくなってしまっている状況だと思います。

で、大枠で共有できる「共通ルール」が少なくなりすぎて、あるいは共有しなきゃならない人数が増えすぎて、今はギリギリ「貨幣・科学・人権」あたりになっている・・みたいな感じに思えます。
でもこれは、「ローカルさ」が多様・複雑になっているのに、なおかつ大枠で成り立つような括りが必要なら、逆にしょうがないかな?とも思う。

愚樵さんの仰ってる「大きな単層社会」というのは、「共通ルール」の単層的な状況のことだと理解していいですよね?
僕の問題意識は、要するに、このギリギリ最低限の「共通ルール」に無自覚にしがみついちゃってる人が多いんじゃないの? ってことですね。
無自覚に『誰もが認める「グローバル性のあるローカル性」』でだけ認められようとするから、問題が起こっちゃうんじゃないでしょうか。

確かに「パイの分配」問題はあると思います。
そこは(有能な)アタマの使いどころ(仲介者として)だと思いますし、生活者としての声の挙げどころだとも思う。
Posted by アキラ@愚樵さん&人生アウトさん at 2010年03月09日 11:42
愚樵さん・人生アウトさんの仰る、環境の「サイズ・大きさ」という面を、僕はこのように受けとっています。
で、僕はやっぱり、これは単に「生きている」の環境の違いだというだけの話にも思えます。
僕らは、無意識に環境に適応してゆく身体と不可分な具体性として存在していて、「無意識に環境に適応してゆく」わけですし、環境の状況だって 古今東西それは千差万別でしょう。
サイズが小さければ、小さいなりに適応し、大きければ大きいなりに適応する。
素晴らしいことだと思います。

また、人が成熟していくには、苦難も歓びもどちらも必要ですよね。
そうして、苦難の方がより人を成熟させるきっかけになりやすい、とも言えるのではないかと思います。
そのような意味合いで、「人が成熟していくには、(必然的に)不幸であらねばならないというのは、幸福な社会と言えるのか?」と問われれば、僕の場合は「Yes」です。
もちろん、苦難だけではいけません。
今の状況には、では歓びはないのか?といえば、いえいえ たくさんあるでしょう。
気がつかないだけです。

「苦難」にも「歓び」にも「ローカルさ」にも、それがどういうことか気がつけるかどうか。
生育環境・生活環境が小さかろうが大きかろうが、僕はそこに尽きると感じています。
「ローカルまみれの雑然とした〈私〉」でいいと思うんです。
というか、環境のサイズに関係なく、やはり人は「ローカルまみれの雑然とした〈私〉」なんだと僕は思う。
自分の身にいろいろとくっついている その「ローカルさ」をちゃんと自覚できさえすれば、ローカルまみれの雑然としたそのままで、それほど問題ないでしょう。
Posted by アキラ@愚樵さん&人生アウトさん2 at 2010年03月09日 15:16
自覚するということは「ある程度の距離がとれる」ということでしょうから、もしかしたら人生アウトさんの仰った「どっちつかず」状態になろうとする・・ってことなのかもしれません。
そうして、それを前提になおかつある特定の「ローカルさ」に再帰的に没頭する、ということでもいいと思う。

「このローカルさが自分にとっては とても大事だ」と想うその気持ち、その心情こそが、各自が育てるべきものだし、各自が大切にするべきものだと思います。
自分の中に「それ(気持ち)」があれば、他人の中の「それ(気持ち)」だって大事にできるんじゃないでしょうか。

今 起こりがちな問題は、「このローカルさが自分にとっては とても大事だ」と想うその気持ちを持っているときに、その「気持ち」の方を大事に思わずに、「このローカルさ」の方を大事に思ってしまう。
そうしてその「このローカルさ」を周囲にも拡げよう、認めさせようとしていってしまう。

そうではなくて、お互いに認め合い、大事にするべきは、「(ある)ローカルさ」ではなくて「大事に想っている気持ち」の方でしょう。
そこのところのボタンの掛け違いが、いつもあるように感じます。

また、『ギリギリ最低限の「共通ルール」』も しょせんは「(ある)ローカルさ」でしかないのに、そこに気がつけない。
それを「至上ルール」のように思い込んでしまっている。
あとは以下同文・・ですね。 (^o^)

今、そうしてこれから必要なのは、そのようなことを伝える、また支える「教育」だと僕は思ってるんですが。
そしてこのような「教育」の端的は、そのように生きている姿を見せる・・ということなんじゃないかとも思ってます。
Posted by アキラ@愚樵さん&人生アウトさん3 at 2010年03月09日 15:17
アキラさんのおっしゃる「そこのところのボタンの掛け違い」は、現代人が「大事に思っている自分の気持ち」をこれまで家族とか他者から大切にされたことがないという経験のなさに起因する問題という気がします。
だからこそ、「自然にあたりまえに自分の気持ちを大切にする」ということを学んできていない。
そのような親が、子を育てるとき、やはり子どもの「何かを大切に思う子どもの心情」を慈しむことが、やはりできない、という連鎖が生じている気がします。
そうした連鎖を断ち切るためには、確かに「あるローカルさ」の中で、大人も子どもも教育していくしかない。
そのような「ローカルな」場を今多くの人が求めています。
ところが、そのような目的で作られた場においても、下手をすると、いつの間にか、そこの場の「あるローカルさ」を大事に思うようになる、というボタンの掛け違いが起こってくる(苦笑)。

そういう実感があります。
Posted by naoko at 2010年03月13日 09:34
・naokoさん

naokoさんの仰るとおりかもしれません。
今 ちょうどあるきっかけで、『子どもへのまなざし』という本を読んでるんですが(これは名著!)、naokoさんが仰ってるようなことが示唆されている内容だなぁ・・と思うんですね。
児童精神科医のお医者さんが書いてる本なんですが、野口整体的な見方ともろにかぶってる感じです。
子どもの要求を、どう満たしていくか・・という問題。

確かに、そう育てられてこなかったというハンディは大きいですよね。
だけど、そこはもう変えられれない。
でも、そういうことがホントに大事だなぁ・・と気がついたら、ちょっとづつやるしかないと思うんです。

>そうした連鎖を断ち切るためには、確かに「あるローカルさ」の中で、大人も子どもも教育していくしかない。
<
ですねぇ。。。

>下手をすると、いつの間にか、そこの場の「あるローカルさ」を大事に思うようになる、というボタンの掛け違いが起こってくる(苦笑)。
<
これこれ! まさにそうなんですよね。 (^_^;)
野口整体なんかいい例ですよ。
一番大事なことは「その人を見つめる」「自分が、そして相手が全力発揮できるように育っていく」ということなのに、いつの間にか「野口整体」こそが大事なんだ、一番なんだ・・みたいなことになっちゃいがちなんですよねぇ。。。
やれやれ、です。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年03月13日 10:11