2010年04月13日

    

「信頼」と「自立」を促すもの 前編

見守られて

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。
・・・・・
人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることがだいじなのです。

そして、できるだけ条件のない状態で、自分を認めてくれる人をもつということは、その人をそれだけ大きく信頼することであり、ついでその人を基準にして、そのほかのいろんな人を信頼していけることになるわけです。


・・・・・・・・・・・・・
過保護とはどういうことかといいますと、理屈っぽくいえば、子どもが望んだことを望んだとおりやってあげて、やりすぎるということです。・・・・・
けれども、子どもが望んでいることを、やりすぎるほどやってやれるということは、それはたいへんなことで、めったにできることではないと思います。

ですから本当は、過保護というほど、子どもの要求にこたえることができる育児というのは、現実にはないかもしれない。
たいていは、子どもの希望や要求を拒否したり、無視していることが多いと思います。


・・・・・・・・・・・・・
子どもというのは、自分の望みがまずかなえられなければ、本質的には周囲のいうことは聞けないのです。
自分の望んだことを望んだとおりに、十分してもらえている子どもが、相手のいうことを心から聞きはじめるのです。


佐々木正美 著『子どもへのまなざし』より

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

ひょんなことからこの本のことを知ったのですが、いやぁ どうして今まで知るきっかけがなかったのだろう?と、不思議に思うくらいでした。
それほど野口整体の世界が育児について提言していることとダブるのです。

整体の世界でも、育児についてはとても重要視されます。
その育ち方・育てられ方が、やはりどうしてもその人の基礎になるということがあるからなんですね。
身体の発達、潜在意識的な問題、人間関係といった諸方面が視野に入っている野口先生の育児への視線は、非常に細やかなものがあると思います。

「野口先生は決して“仏”なんかじゃない。“鬼”だ、観察の“鬼”だ」とどなたかが言ったそうですが、育児の関連のその緻密さをみても、確かに野口先生は“仏”ではなく“鬼”だったんだろうなぁというような、「観察の細やかさ」を痛感します。

その野口先生が提言してることと、この佐々木氏が提言してることが、とてもよく似てるんですね。
へぇ〜♪っと思いました。
野口先生ばかりじゃないんだな、と。

大人の人を観ていて痛感するんですが、心身の状況の経過に乗っかるというときに、結局 何が一番ネックになるかというと、やっぱり「不安」と「依存」なんですね。
拭いがたくそれがあるから、そこからパニックを起こしたり、あるいは妄信的な依存が生まれたりする。
拭いがたくそれがあるから、自分の「生きている」という働き・力強さに対して信頼がおけない。

それを信頼して息静かに「待つ」ためには、この「不安」と「依存」を抜け出して、「意欲」と「覚悟」をもって各々が主体の座をとり戻すしかないわけですが、それがなかなか大変なんですよね。
で、野口先生は「古い人はしょうがない」と仰って、「新しい人」に期待をするわけです。 (^_^;)
それでどうしたって育児論が出てくる。

その育児のことを考えると、どうしても妊娠中や出産の問題をないがしろにできない、その妊娠のことを考えると、どうしたって妊娠をする前の体の問題をないがしろにできない、
その妊娠前の体のことを考えると、どうしたって思春期や育児の問題をないがしろにできない、その思春期や育児のことを考えると、どうしてもまわりを取り巻く「古い人」の問題をないがしろにできない・・と、グルグル循環する話になっちゃうんですけどね。

野口先生の育児論は、「人間が人間として素直に育つ」「その子がその子らしく育つ」といったことだけを見つめている、と言っていいと思います。
それが結局、自分の「生きている」という働き・力強さに対しての信頼を育み、自立を促していく。
もうこのへんは、佐々木氏の著作とほとんどダブると言ってもいいかと思います。

その意味で、この『子どもへのまなざし』は名著だなぁ、なんで今まで眼や耳に入らなかったんだろうなぁ・・と思った次第。

お薦めの1冊です♪
次回も、もう少しこの関連で。


中編」・「後編



野口整体に関する記事は「光るナス@らくらく塾」に、だんだんとりまとめ中。

*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

大きいのと小さいのと

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この記事へのコメント
うーむ
この歳になってなお「生きていること」にひっかかるのは、生育歴に問題があるのか? それとも股関節か? うん、やっぱ自分でも歪んでると思う。身体も性格も、、硬いし、、爆!!
Posted by 毒多 at 2010年04月13日 16:25
・毒多さん

毒多さんが引っかかるのは「生きること」の方じゃないですか。
(^o^)
「生きていること」には信頼を持てているでしょう?
毒多さんの仰る「生きること」ってのは、何となく「生きる目的(意味)」みたいなニュアンスなのかな?と思ってます。

僕自身は「生きるということに意味などない」派なんですけど、「生きる目的(意味)」を考えてしまう・探してしまうというのは、生きている現状に飽き足らないか、あるいは不満や絶望を感じるからですよね。
それを考えると、「生きるということに意味などない」で済ませられる自分は、とても幸せなんだと思ったりします。

ま、でも、毒多さんは頸椎三番に問題があると思われますね。(意味不明) o(^-^)o
毒多さん、歪みは個性!(爆)
Posted by アキラ@毒多さん at 2010年04月13日 21:53
>それを信頼して息静かに「待つ」ためには、この「不安」と「依存」を抜け出して、「意欲」と「覚悟」をもって各々が主体の座をとり戻すしかないわけですが、それがなかなか大変なんですよね。

これ、ニーチェじゃん、と思ってしまいました(笑)

“「不安」と「依存」”はルサンチマンで、それに突き動かされて「(権)力への意志」が生まれる、と。

“主体の座をとり戻す”ことが出来た人が「超人」ですね。愚樵流に言うと「生命力を‘ただ’費消する人」。

もう少し言いますと、「生命力の費消」が'ただ'であることから進化(?)して目的化された形をとると「贈与」になります。

子育て論に沿って言いますと、要するに“たくさん与えられて育まれた子どもは、たくさん与える大人に育つ”ということでしょうか。
Posted by 愚樵 at 2010年04月14日 05:19
あ、そうだ、「生きること」だった、笑。
うーん、目的っていうのかなぁ? 存在そのものって言いたいんだけど、結局目的ってことになるのかなぁ、、いずれにしても、肝心なとこで「生きていること」と言い間違えるようじゃ、ひっかかり具合もちっぽけなものかもしれないなぁ、爆!! 
ひっかかっている自分が好き、、、とかさ、そんなレベルだったりして??

ところで、引用の「過保護」ってのはちょっと違う気がしていて、おそらく世間で捉えられている「過保護」ってのは「子どもの要求に応える」ってのではなく、「親の欲求を子どもに押し付ける」ってのだと思うのね。
これを、そのまま身体に当てはめると、子ども=身体なのかな?
とすると、親ってのは精神?
身体の欲求に精神が応える、、、とか
精神の欲求を身体に押し付ける、、、とか、
ふと思ったんだけど、これ以上は思索できない素人でした。

Posted by 毒多 at 2010年04月14日 08:25
・愚樵さん

はい、僕もニーチェちっくだと思います。♪(* ̄ー ̄)v
野口晴哉ワールドを体現しようとすると、かなり厳しい世界なんだなぁと実感しますし、おまけに僕は宮台チルドレンなので、どうしたってニーチェちっくになりますね。

「生命力を‘ただ’費消する人」、いいですね♪
『目的化された形をとると「贈与」になる』というのも、なるほどです。
「無条件に与えられている」実感、「何だかんだ言われながらも認められている」実感、そういうものをデフォルトで持っている人は、本当に強い(本人はそうは思っていなくても)と思います。

子どもって、ただ生活しているだけで、周りの人たちにいろいろなものを「贈与」していると思いません?
そういうことを考えると、目的化されなくても「贈与」になっているのかもしれませんね。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月14日 21:35
・毒多さん

例えば僕のように、「生きるということに意味などない」ってことが自明の前提だというところで、ちょっと想像してみてくださいな。
毒多さんの仰る「生きること」は、それでも「存在そのもの」というような感じで実感できるでしょうか?

『「生きること」には意味があるはずだ』(この場合は「生きていること」でもいいような気がします)ということが自明の前提になっているからこそ、「生きること」≒「存在そのもの」といった感覚になるんじゃないでしょうかね。

「過保護」のこと、仰るとおりです。
いわゆる「過保護」は、毒多さんの仰るように「親の欲求を子どもに押し付ける」って話だと思います。
けれど、それをやってる親自身は、きっとそうは思ってないと思うんですよね。
「子どものため」だと思ってやってるんでしょう。
でもそれは「子どものため」にはなってないですよね。
佐々木氏はそこのところを言っているんですね。
本当に「過保護」ということがあるとするならば、それはどういうことかというと・・・みたいな話でした。
Posted by アキラ@毒多さん at 2010年04月14日 22:00
>身体の欲求に精神が応える、、、とか
精神の欲求を身体に押し付ける、、、とか、
<
これ、僕の持ってる実感にかなり近いです。
精神ってのを、顕在意識、意識としての意識、自我みたいなものだとすると、わりとピッタリする感じがします。
「生きている」の主体は「身体(いのち)」ですから、自我(精神)はその欲求に応えたり拒否したりしています。
そうして自我(精神)は、そのエゴ(欲求)を「身体(いのち)」に押しつける。
『「生きている」という働き・力強さ』が十二分に発揚するかどうか・・というときに、このへんの関わり合いが、ネックになったり 手助けになったりしていると思うんですね。

自我(精神)からすると、自分の外にも当然「他者」がいますが、我が裡(うち)にも「身体(いのち)」という「他者」がいるのです。
Posted by アキラ@毒多さん2 at 2010年04月14日 22:00
「信頼」と「自立」を促すもの。
うんうん、これは最近よく考えていることです。
それが、無い状態が、「不安」と「依存」を引き起こしている。
うんうん、これも、よくわかります。

同時に、子育てをしている大人の方にこうした不安と依存が存在する場合も多々あるでしょう。

残念ながら、そうとう恵まれた環境で育った場合を除いて、一般的にはそうした不安や依存が生じるのがごく普通という気がします。

大人にとっても子どもにとっても、信頼・自立へと向かう心と、不安・依存に苦しむ心がないまぜになって、両方抱えて生きている。
それが、狄有瓩な、という気がします。
Posted by naoko at 2010年04月15日 02:26
アキラさん

>子どもって、ただ生活しているだけで、周りの人たちにいろいろなものを「贈与」していると思いません?

まったくそう思います。そしてそう感じるのは、他にもたくさんありますよね。

毎日毎日世話の焼ける犬どもとか(笑)。

今の季節だと満開の桜だとか。木々の芽吹きだとか。
昨日山で見かけたカタクリの可憐な花だとか。

好きな女性の笑顔とか。その身体とか(笑)

ブログのエントリーやコメントからも「贈与」が感じられることもあります。

こうした「贈与の受け取り感」(って変な言葉ですが)を“Sence of Wonder”っていうのでしょう、きっと。

>目的化されなくても「贈与」になっているのかもしれませんね。

はい。「目的化」というのは本当はちょっと違っているんですね。内田樹が言っていますが、そもそも「贈与」っていうのは、それが贈られ受け取られた時点では意味不明なんです。受け取った側が解釈してはじめて意味が生じる。解釈の「結果」が「目的」になる。つまり「目的」は後付なんですね。

それはちょうど、「生きること」の目的というのと同じです。「生きること」の目的を見つけるには、自分なりの自分の人生を生きてみて、その人生を自分で振り返って解釈した「結果」でなければ見つけられない。ここでも「目的」は、「結果」の結果としてしか出てこない。

あと、そう、「言葉」も同じですね。これも(毒多さん経由の)内田樹ですが

“「言いたいこと」は言葉のあとに存在しはじめる、「私」は「私が発した言葉」の事後的効果として存在し始める。

ってね。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2010年04月15日 07:53
naokoさん

>残念ながら、そうとう恵まれた環境で育った場合を除いて、一般的にはそうした不安や依存が生じるのがごく普通という気がします。

う〜ん、ここで言われる“そうとう恵まれた環境”とは、どういうことでしょう? 経済的に恵まれているという意味でしょうか?

「不安」や「依存」は多かれ少なかれだれにでもあります。そういう意味では“一般的”“普通”はその通りでしょうが、しかし、時代とともに“一般的”“普通”の在り方が変化してきている、具体的にいうと「不安」や「依存」の割合が一般的に高くなってきている、私はnaokoさんにはそうした問題意識をお持ちだと思うのですが。
Posted by 愚樵@naokoさん at 2010年04月15日 08:03
・naokoさん

>大人にとっても子どもにとっても、信頼・自立へと向かう心と、不安・依存に苦しむ心がないまぜになって、両方抱えて生きている。
<
はい、僕もそう思います。
ですから、「信頼」と「自立」が無い状態が「不安」と「依存」を引き起こしている、とは思いません。
人に想像する力がある限り、その力の敏感さでもって、どうしたって「不安はあるもの」だと思う。
それが当たり前のことだと思うし、素直な状態だと思うんですね。

「不安」や「依存」をなくそうという話はしてないんです。
そういう何か一辺倒に「塗りつぶそう」という話じゃない。
僕には「塗りつぶし」の感覚は薄いんですよ。
ある程度の「信頼」や「自立」もある、ある程度の「不安」や「依存」もある。
敢えてこれらを二項対立的に置いて考えれば、「信頼」や「自立」の方へ出来る限りの重心を置こうよ、そういう話です。
信仰の話だって、そちらへ重心が乗っかってないものは「不健全な信仰」だと思います。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月15日 20:23
愚樵さんが仰るように、naokoさんがどういう意味合いで「そうとう恵まれた環境で」と仰ってるのかよく分かりませんが、僕はいくら「そうとう恵まれた環境で」育っても「不安」や「依存」は当然生じると思うんです。
人間なんですから。
ただ、『「信頼」や「自立」の方へ出来る限りの重心を置こうよ』ということが自明の前提となっているところで育つことが出来るのであれば、それこそが「恵まれた環境」だと思います。

そういう前提、そういう環境が、ちょっとづつでも増えていって欲しい、それが僕の願いです。
そしてそのために、自分の暮らしの中で(出来ることを)具体的に行動する、それに尽きると思います。
野口先生や佐々木氏の育児への提言は、そのいい補助線になっていると感じるんですね。
育児とは、それを通してまさに親(大人)の方が育てられる、大事な機会でしょう。
子どもは育つ、そして親(大人)は育てられる、そういう関係なのかな?とか思うんですね。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月15日 20:24
・愚樵さん

愚樵さんへのコメントを載せた後、子どもは別に「贈与」しているわけではなくて、受けとるこちらが勝手に「ギフト」だと思ったりしてるんだよな・・と思いました。
で、愚樵さんのそれへのコメントで、またまた非常に納得です♪
そうなんですよね、どっちかというと「贈与の受け取り感」なんですよね。

>そもそも「贈与」っていうのは、それが贈られ受け取られた時点では意味不明なんです。
 受け取った側が解釈してはじめて意味が生じる。解釈の「結果」が「目的」になる。
<
そうでした、そうでした。
贈られ、受け取られた時点では「意味不明」なんでした。
子は育つ、それによって親は育てられる、育児ってそういうもんなんだろうな・・と思いました。
毒多さんの出された「身体(いのち)」「自我(精神)」も、「身体(いのち)」は生きる・育つ、それによって「自我(精神)」は生かされる・育てられる、これも似たようなものかな・・と。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月15日 20:24
自分はどう育てられたかなー、と考えてみても他の育てられ方を知らないのでよく分かりません。
こどもの時の気持ちの中には、お父さんお母さんの悲しい顔は見たくないとか、自分もうれしくてお父さんお母さんも一緒にうれしいと、更にうれしいみたいな心もあったので、反対にお母さんが歯が痛いとか言ってほっぺたがハレてるとオロオロしました。自分が病気したとき親がオロオロしてたのを見習ったのでしょうか。
親から見習ったものの影響から離れられないものだと思います。
「その子がその子らしく育つ」自分が自分らしく育ったかどうか、自分は知りませんが、親から大事にされるのは当たり前に決まりきったこと、という安心感を与えてくれてたって、失くすとすごーく分かりました。それまで当たり前すぎて気がついてなかったですね。

赤ちゃんはみんなそうだと思うけど、生まれたときから親のことが大好きですよね。育児大変でしょうが、親ってやりがいありそうですね。(^o^)
Posted by 青グリン at 2010年04月15日 23:18
>人に想像力がある限り、どうしたって猊坩足瓩論犬犬

また、その不安から「依存」も生じる。

その通りだなあ、と思います。

そして、もし、アキラさんの仰る「恵まれた環境」に育っていない者が、その状態から、「信頼・自立」へと心を向けるために、必要なものってなんなのだろう?と思うのです。

その辺が、「後編」のテーマになるのかな?
Posted by naoko at 2010年04月16日 01:41
・青グリンさん

>赤ちゃんはみんなそうだと思うけど、生まれたときから親のことが大好きですよね。
<
そうなんですよね。
好かれているし、頼られている。
だから関係性を築きやすいとも思いますし、逃げられない分 大変だったりするとも思います。
「覚悟」するっきゃない、と思うんですよね。
「覚悟」しさえすれば、そこにいくらでも豊かな「何ごとか」が湧いて出てくるような気がします。

>親から大事にされるのは当たり前に決まりきったこと、という安心感を与えてくれてた
<
本当にそうだったかどうかは別にして、「そう心から思える」ということが何よりも大事だと思うんです。
そうイメージできるか、そう実感できるか。
実際はそうじゃなかったかもしれない、でも子どもが「心からそう思える」、そのことがキモなんじゃないのかなぁ。

僕はまだ両親ともに健在ですし、いろんな話ができるし、それはとてもありがたいことですね。
Posted by アキラ@青グリンさん at 2010年04月16日 10:35
・naokoさん

あ、いや、後編も基本的にはおんなじようなトーンのつもりでいるんですけど〜。
まだ書いてはいないんですけどね。 (^_^;)

僕はね、「不安」から「依存」が生じるとも思ってないんですよ。
「依存」っていうとかなりネガティブな感じですけど、もうちょっと肯定的に言うと「甘え」ですよね。
これだって僕は、人間が当たり前に持っているものだと思うし、素直な状態だと思うんですね。

人間は「全依存」の状態からスタートしますよね。
そうして育って行く中で「独立(自立)」していくわけです。
体の生育と相まって、大体20代でとりあえずの「独立(自立)」を果たすんだろうと思うんですが、それまでの間に、「依存の時期」と「独立要求の時期」とを繰り返しながら、大きくなっていくんです。
いきなりは独立できませんから、当然「独立の練習をする時期」「独立を希求する時期」が出てくるんですよね。
簡単に言えば「自分でやりたがる時期」、トライアウトの時期。

トライアウトして、失敗したり成功したり、うちひしがれたり得意になったりして、そうしてちょっとくたびれて、また「甘え」に戻ってくるわけです。
言わば 赤ちゃん帰り。
そこでホッとして、緊張をほどいて安心して、そうしてそのうちまた気持ち(要求)が盛り上がってくると トライアウトに出る。
「甘え(依存)」と「独立要求(トライアウト)」を繰り返しながら、「独立(自立)」に近づいていくわけです。

これはでも、一応の独立を果たしたあと、さらなる内的な成長・成熟を遂げていくときにも、基本的には同じだと思うんですよね。
ですから、「甘え(依存)」は「不安」から生じるものではないし、人間の当たり前で素直な状態だと思うんです。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月16日 11:13
>もし、アキラさんの仰る「恵まれた環境」に育っていない者が、その状態から、「信頼・自立」へと心を向けるために、必要なものってなんなのだろう?と思うのです。
<
いや、だから、特別なことは何もないですよ。
こういうことを「そうだよなぁ〜」と思えるのだったら、自分の暮らしの中で(出来ることを)具体的に行動する、それに尽きる。
必要なことは、ちょっとしたことからでも、1つづつでも、「やること」です。

「風邪をひこう♪」とかいうときでも、似たような事態になるんですけどね。
多くの人が「熱は出た方がいいんだよね、免疫系統が働いてるんだから」とか、頭では理解するし、そうだよねって思ってるんです。
でも実際に自分が発熱すると、その熱を出すだけ出してみる・・ってことが出来ないことが多いんですよね。
「そうだよね」って思ってるんだったら、やりゃぁいいのに。
アタマだけ、口だけなんです。
それじゃぁ何も変わらない。
僕の師匠が「知ってるか知らないかは大違い、でも やるかやらないかはもっと大違い」なんて言ってましたが、まさにそうだと感じます。
必要なことは「やること」なんです。
その「覚悟」。それだけ。

中国の黄土高原の緑化協力を行っている「緑の地球ネットワーク」のある方が、「できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかが大事だ」と仰ってたそうです。
ある記事でそれを読んだのですが、本当にその通りだなぁと思いました。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月16日 11:14
話が盛り上がっている時に水をさすようで申し訳ないが、
話の種になっている元々の話がインチキ臭いですよ。
大人で、自分の子供だった時代に『何を考えていたか』を正確に覚えている人はほぼゼロですよ。
この著者も根本的な美しい誤解をしているか、それとも誤解では無く、無意識的な記憶の書き換えを行っているのです。
少し前のnaokoさんへのコメントで指摘した様に、生まれた時から愛に恵まれ現在も愛に恵まれいれば、『愛の大切さ』に気がつく方が可笑しいのです。もの心付いた昔からあって、現在もあるものは、これからも『ある筈だ』と誰でもが考える。其れが得がたい幸運であっても長い間続いていれば今後も無条件で期待して当然でしょう。
佐々木正美氏の主張は自分が子供だった頃の記憶を完全に忘れ果てた結果であり、今の大人としての論理でしかない。

>人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。・・・・・人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることがだいじなのです。<

これなんかは典型で、事実はこの話の正反対ですよ。安心感が絶対なら自立する必要が全く無いのです。
Posted by 逝きし世の面影 at 2010年04月17日 15:50
・アキラさん

>「依存」っていうとかなりネガティブな感じですけど、もうちょっと肯定的に言うと「甘え」ですよね。

私はこの見解には真っ向から反対です(^_^;

“肯定的に捉えることができる”ということ、そこが「信頼」です。ですので、この文章は、「依存」と「信頼」を混同してしまっているように私は思います。

>人間は「全依存」の状態からスタートしますよね。

これもおかしい。というのは、「不安」「信頼」というのは、精神的内面的な状態を指すはずですが、ここでいう「全依存」は外面的機能的なことを指していっているからです。

ヒトの子どもが未成熟な状態で生まれてくるのは事実ですから、個体としての生存機能においては「全依存」になる。が、そのことと、精神的内面的な状態とは一致しません。それが人間という生き物でしょう。

>トライアウトして、失敗したり成功したり、うちひしがれたり得意になったりして、そうしてちょっとくたびれて、また「甘え」に戻ってくるわけです。

これは「信頼と自立の回路」を経ての人間としての“正常な”成長過程を言っていますね。皆がそうなればよいのですが、残念なことにそうならないことが多い。だから、『子どもへのまなざし』などという著作が記されることにもなるのではないのでしょうか?
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2010年04月18日 07:49
事実、ヒトの子どもは「信頼」なしでは「自立」しません。機能的に「全依存」の赤ん坊は親からの支援を獲得するために感情を表現する。泣いたり笑ったりというのは、個体の生存という側面からみると「手段」ともいえます。ところが、「不安」のなかにいる赤ん坊――育児放棄などに遭って周囲を「信頼」できなくなった――は、感情の表現を放棄してしまいます。それは赤ん坊にとっては「自立」どころではなく、「生存」の放棄とほぼ同じことになるはずなのですが、それでも放棄してしまうんです。

今の日本には、感情表現を放棄した“笑わない赤ちゃん”がたくさんいるみたいです。なぜそんなことになってしまったのでしょうね?
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2010年04月18日 07:51
逝きし世の面影さん

面影さんの

>大人で、自分の子供だった時代に『何を考えていたか』を正確に覚えている人はほぼゼロ

という見解に従えば、

>この著者も根本的な美しい誤解をしているか、それとも誤解では無く、無意識的な記憶の書き換えを行っているのです。

は、佐々木氏ではなく面影さんのほうである可能性もあるはずです。
(面影さんの場合は“美しくない誤解”ですが(^o^))

もちろん、両者とも「書き換え」を行なっている可能性もありますね。

が、ここで問題になっているのはそういう話ではないと私は思います。“美しい”“美しくない”は、上のコメントでも述べたとおり、人間の内面的精神的な要素ですが、それら内面的要素がどのように人のこどもの発育に影響するか、『子どもへのまなざし』は(私は未読ですが)、そういった視点で書かれた本であろうと推測します。

>生まれた時から愛に恵まれ現在も愛に恵まれいれば、『愛の大切さ』に気がつく方が可笑しいのです

これはおかしいとはいえません。

>現在もあるものは、これからも『ある筈だ』と誰でもが考える

のは、外面的物質的な側面についてはいえるでしょうが、そのことがそのまま内面的精神的側面に言えるとは限らないからです。

もし、“美しく誤解”している両親(あるいはそういった環境)に育てられた子どもは、“美しく誤解”するような大人に生育するという法則がみられるのなら――これは統計的に把握することは出来るはずです――、『愛の大切さ』への気づきは潤沢な『愛』によってもたらされると言えるはずです。
Posted by 愚樵@逝きし世の面影さん at 2010年04月18日 08:07
・逝きし世の面影さん

いえ、別に水は差してませんよ。(^o^)
佐々木氏は、別に自分の幼少の記憶を話してるわけでもないですし、それをベースに物事を提言してるわけでもありません。
臨床医としての長年の経験から提言をしているんです。

このことについては、ハッキリと言うことができます。
これが分からないなら、人間というものについて(僕ほどには)お分かりになっていない。
もちろん、僕が分かってるとは言いませんけれど。
大人の論理という意味では、逝きし世の面影さんの仰ってること自体が、残念ながら大人の「抽象論」でしょう。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2010年04月18日 08:11
・愚樵さん

確かに「依存」が完全にイコール「甘え」ではないと思います。
しかし僕は、これらは同一線上のものだと思っています。
また、naokoさんに申し上げたとおり、僕は「依存」と「信頼」が対立するものではないと思ってもいます。

それから、僕は野口整体的にものごとを観ますから、身体的(機能的?)なものと精神的なものとをひとつのものの裏表といったようなところで観ます。
違うものとしては分けられません。
表現上、言い分けることはしますが。
僕は愚樵さんがどのような意味合いのことを「精神的内面的な状態」と仰っているのか、逆にちょっとよく分かりません。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月18日 09:44
>>トライアウトして、失敗したり成功したり、うちひしがれたり得意になったりして、そうしてちょっとくたびれて、また「甘え」に戻ってくるわけです。
 ・・・・・・・・・・・
 残念なことにそうならないことが多い。
<
はい、そうなっていないことも多いと思います。
そうしてそれでも条件が整ってくると、止まってしまっているところから、またそれを再開するようだ・・・。
僕にはそういう(現場的な)実感があります。
佐々木氏も似たようなことを言っていますので、その僕の現場感覚もあながち間違っちゃいないようにも思っています。
それで、本来は5歳でやるようなことを15歳でやり直し始めちゃったりすることも多いわけで(あるいは25歳とか?)、そうすると話が非常にややこしくなる・・わけです。
まぁそれも人間ですよね・・って話ではあるんですけど。 (^_^;)

>今の日本には、感情表現を放棄した“笑わない赤ちゃん”がたくさんいるみたいです。なぜそんなことになってしまったのでしょうね?
<
感情表現によって伝える・伝わる・・ということが不可能だ、と感じてしまっているからでしょうね。
その部分を「あきらめている」んだと思いますね。
それでも「親(あるいは外部)の欲求の押しつけ」はあるんでしょう。

この佐々木氏の著作の中にも、泣いている赤ちゃんを(夜泣きだったか?)ほっぽりっ放しにして「躾ける」とどうなるか?、といった実験のことなどが出てきますよ。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2010年04月18日 09:54
アキラさん、
教育関係者の殆どには、ある一定の思い込みと言うか、断定と言うか、不思議な前提があるのです。
例えば『子供は純粋で素直』『子供は常に純真で正しい』
ので、『子供は全員勉強が大好きだ』(嫌いなのは教えるやり方が間違っているのだ)
この前提に立って、話が進められているのですが、・・・
何事も疑り深い私は、この話の最初の『前提』に疑問を感じているのですよ。
アフガンなどで子供が『学校に行きたい』と語る姿が映されているが、
あれは児童労働をしたくないの意味ですよ。どれ程勉強が好きな子供でも台風などで学校が休みになって喜ばない子供は一人もいません。
大体子供くらい我侭で自分勝手な、残酷な存在はありません。自分が子供だった記憶では、
あのころ、自分にとってい一番嫌だった存在は、
理性で自分を抑える事が出来る大人とは大きく違い、この自分勝手で我侭で残酷で理不尽な子供だった。
自分の周りにいる我侭極まる子供達が大嫌いなのは、誰でもかと思っていたら誰一人いないのですね。
当時は、何とか早く大人になることが一番だったのです。
ところが今は正反対で、何時までも大人になれない人が多すぎる様に感じられるが、あれは多分自分自身を含めて基本的に子供の存在が好きなのです。
そう思って見渡すと教育関係者とは基本的に『子供がすき』が先ず最初にあるように思いますね。子供が大嫌いだった綿いとこの辺の出発点で考え方が違ってきてしまったのでしょう。
Posted by 逝きし世の面影 at 2010年04月18日 15:03
>『臨床医としての長年の経験から提言をしている』<

だから其れが一番胡散臭いのですよ。
我々素人は『専門家だから』とつい信用しがちですが、ここにこそ思考の落とし穴があるのです。
素人より悪い専門家が一番多い分野が、この分野ですよ。
専門家だからこそ陥る盲点も多くあるのですが、これはいわゆる事業仕分けで小沢一郎が一年生議員の参加を『予算書を見て分かる人はベテランでも少ない』としては反対したが、
今まで一般社会人だった新人議員のほうが、
政界の常識に染まっているベテラン議員よりも事業仕分けには適している。
この人物がどうかは判断できませんが、長い間同じ業界に籍を置くと良いことも悪いことも、同じように感じ出して来るし、一定の価値観に染まってくるし進歩も止まってしますのが常です。
ベテランよりも新人が優れているのは、何もIT関連に限らないのです。
Posted by 逝きし世の面影 at 2010年04月18日 15:21
アキラさん

>身体的(機能的?)なものと精神的なものとをひとつのものの裏表といったようなところで観ます

私の観点は整体的というわけではありませんが、身体的と精神的なものをひとつに観る、という意見には賛成です。なにより身体は嘘をつかない。それは私も日々実感していることです。

>どのような意味合いのことを「精神的内面的な状態」と仰っているのか、逆にちょっとよく分かりません。

いえ、それはアキラさんが提出された概念からくるんですよ。「不安」と「依存」、「信頼」と「自立」、これら4つの概念はいずれも内面的精神的と言うことはできます。ですが、私はこのうち「依存」「自立」を機能的側面を含むものだと想定した。そしてその想定を強化したのが「全依存」という用語です。

「全」という言葉は対立構図を想起させるものです。「全依存」であるならば「完全無自立」でなければならず、また「(完)全自立」が対立する状態として想起されることになります。そしてそのように想起がなされると、「不安」「信頼」の概念は「依存」「自立」とは異なったレイヤーのものだと考えられることになる。

そこで私は「不安」「信頼」を内面的、「依存」「自立」を機能的と分けたのですが(依存は身体機能の依存だろうということで)、そこでさらに機能的「全依存」に対応する内面的状態はと考えると、それは「全信頼」だろうということになる。

そしてまた、この二層レイヤ対立構図と身体機能表裏一体という観念は、整合的なのですね。表裏一体だからこそ、「信頼」と「自立」は素直に対応するだろうと考えられます。
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2010年04月19日 06:29
こうした構図は“文章的”あるいは“塗りつぶし”です。不安・信頼・依存・自立の4概念で“塗りつぶされる”ことが前提になっています。私はそうした概念の提出のされ方をしたと捉えているわけです。ですので、整合的ということは、一般に言われる意味で論理的だと理解しています。

そしてそう理解すると、“依存と信頼が一直線”というのは、論理的には整合しないと言わざるをえないんです。
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2010年04月19日 06:30
時間がありませんが、少し追加。

上の私のモデルは、あくまでひとりの人間の中で完結する“塗りつぶし”的、言い換えれば静的なモデルです。そこへ他者が加わると(子どもの場合だと親ということになります)が、静的モデルは動的モデルとなる。その動的モデルでは、“依存と信頼が一直線”ということは言い得えます。

アキラさんは他者が加わった動的モデルでのことを仰っているのかもしれないですね。私は“「信頼」と「自立」の回路”という言い回しで少しこそにも触れたつもりなんでが。

静的モデルと動的モデルは並立しますし、そこで成立する論理は異なります。ただ、静的モデルに立ち返ることができない動的モデルはあり得ません。それは「言葉」というものの性質からくるものですから、「言葉」を使っての表現の宿命のようなものですね。
Posted by 愚樵@アキラさん3 at 2010年04月19日 06:52
・逝きし世の面影さん

逝きし世の面影さんが「理不尽な世界」についてはかなり苦手であるということは、これまでのやりとりでよく理解しています。

であれば、そういう世界については そっとしておけばよいではありませんか。(^_^;)
無理矢理に、それをご自分の世界観の中に引き込む必要はないと思いますよ。

>例えば『子供は純粋で素直』『子供は常に純真で正しい』
ので、『子供は全員勉強が大好きだ』(嫌いなのは教えるやり方が間違っているのだ)
<
こんなウソくさい (^_^;) 前提に立った論があるならば、僕もそれには大いに疑問を感じますし、おそらく相手にはしませんね。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2010年04月19日 10:03
・愚樵さん

ん〜、なるほど。
なるほどというか、どうしてそう理解しなければならないのか分からない、というか。
ほかの方が仰るなら分からないでもありませんが、愚樵さんがそれを仰るのはよく分かりません。(^_^;)

「不安」「依存」「信頼」「自立」・・これらのキーワードは、僕の中ではすべて身体的・精神的な表裏一体のものです。
対立構図にもなっていませんし、「塗りつぶし」的でもないんです。

ですから これらのことが関わる現象を、単純なモデルに落とし込むことが可能なのかどうなのか、ちょっとよく分かりません。
感覚的には、不可能なんじゃないか?と感じます。
だから、どうして愚樵さんがそのように受けとるのかが分からない。。。

全体像は別にしても、例えば「甘え」という見え方が「信頼」前提なのかどうか、僕には疑問です。
「甘え」と見ているのは他人(ここでは僕)ですよね。
不安でもって何かにすがり切ってしまっている(依存)状態だって、「甘えてんなぁ」と見えるわけですよね。
話が現実とどんどん乖離していく感じがします。

また、
>「全依存」であるならば「完全無自立」でなければならず
<
なども、リクツとしては分からないではないですが、
生という現象を考えたときに「完全無自立」状態、あるいは「完全無依存」状態というものがあり得るんでしょうか。
僕には想像不可能です。(^_^;)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月19日 12:21
アキラさん

これ以上続けると、私の理解を押しつけることになってしまいそうですね...。

>「不安」「依存」「信頼」「自立」・・これらのキーワードは、僕の中ではすべて身体的・精神的な表裏一体のものです。

そうですね、そういう捉え方がアキラさんの方法でしたね。

今回の行き違いは、たぶん頭の“ニーチェ”からでしょう。私が“ニーチェじゃん”と感じ、アキラさんが“ニーチェちっく”と応じたときに、私が描いた構図は共有されていると思い込んだのでしょう。

依存したんですね(苦笑)

>これらのことが関わる現象を、単純なモデルに落とし込むことが可能なのかどうなのか

上のアキラさんの方法からすると、

>感覚的には、不可能なんじゃないか?

と感じるのはわかります。

私は“塗りつぶし”と言いましたけれども、ということは暗黙のうちに「枠・フレーム」を想定しているわけですね。その「枠」を「不安」「依存」「信頼」「自立」という4つの領域で区切る。この操作においては、「個々の人間」という要素が入っていない。リクツだけなんです。だから実にカンタンです。

そうした「枠」を作り上げてから、その「枠」に「個々の人間」を落とし込む。この「落とし込み」はいわば「レッテル貼り」です。

まあ、私は常々こうした「レッテル貼り」手法を批判しているわけなんですけどね(苦笑)。とはいえ、別に使っちゃダメということではなくて、限界を弁えて使えよ、という批判ですが。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2010年04月20日 05:28
目に見えないものへの「信頼」って、どうやって生まれるものなのだろう?と最近、考えることが多いのです。

というのも、それがなければ、人の心を信じることもできないし、人の思いを感じたり、自分の思いを伝えることもできなくなる気がするからです。
そういう人は、いつも自分の内面に抱える「不安」で、いつもいっぱいいっぱいに見えます。
だから、それ以上、こちらも踏み込めない…。

そして、そういう人、つまり猝もそっけもない人瓩箸、狢任辰討癲覆海舛蕕慮斥佞)ぜんぜん響かない人瓩箸、爐覆鵑世、(相手の言葉が)こちらの心に飛び込んできてくれなくて、何考えてるのか、ぜんぜんつかめない人瓩箸が、自分の周囲に満ちてくるのは、さみしいし、実際、きついです。

だって、「共感」が、ないのだもの。

「目の前に見えているもの」しかわからないんだね、信じられないんだね、と言っても、それでは通じない。いったい、どうしたら、気づいてもらえるのだろう?
Posted by naoko at 2010年04月20日 05:55
・愚樵さん

>とはいえ、別に使っちゃダメということではなくて、限界を弁えて使えよ、という批判ですが。
<
これもよく理解しています。 (^o^)
愚樵さんの知的好奇心なのかな? モデル化してみたい気持ちもそれはそれで理解できるんです。
でもまぁ このテーマに関しては、「文章的把握」とか「モデルに落とし込む」とかいうこと自体が、危険きわまりないと僕は思ってます。
ですので、やらない。

用語があいまいに使われているのは、仰るとおりなんです。 (^o^)
その意味でも「文章的」ではありません。
けれど、そうしないと「掴まえられない」と思うんですね。

例えば僕は「自身のいのちの力・働き」に依り頼むことを「いのちへの信頼」と言っていますが、これは確かに外部依存ではないけれど、内部「依存」と言えるではないのか?、「自立」と本当に言えるのか?みたいな話だってあるでしょう?
そっちか・こっちかというような感じでは、切り取れないと思うんですね。
というか、それをやってしまうと見誤るような気がしているんです。

ですから、あいまいなまま放り出すことで、相手のキャッチングに期待してる・・というわけで。
期待じゃなくて、依存かな? (^_^;)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月20日 16:35
・naokoさん

今日アップした「中編」は、多少はヒントになるでしょうか。
おそらく逆に、まずは人の心や思いを無意識的に信頼するということが育つからこそ、目に見えないものへの「信頼」も類比的に出てくるんじゃないでしょうかね。

>とかが、自分の周囲に満ちてくるのは、さみしいし、実際、きついです。
<
本当にそうですね。さびしいし、つまらないです。

>どうしたら、気づいてもらえるのだろう?
<
「その人」に気づいてほしいと思っているのであれば、2つほど方法があり得るんじゃないか?と思ったりします。
そのうちの1つ、それは「とき(タイミング)を待つ」ということかな・・と。
気づきをもたらすようなタイミングは、必ずやってくると思うんです。
いえ、やってきます。
それを「その人」のことを想いながら、気長に注意深く待てるかどうか。
当然、こちらに息の深さや長さが必要になってきますけれど。

まったく質の違う話で少々申し訳ないんですが、ちょっと前にこんなことがあったんです。
いろんなことを共有できてるAくんの話なので、そういう意味で「質が違う」と思ってるんですけどね。
Aくんと酒を飲んで話してたんですけど、学級崩壊を起こす子どもやモンスター・ペアレントたちの話になって、彼は「人は集団で社会的生活を送っているのだから、そういう度を超しておかしな行動をするヤツは排除すべきなんじゃないか?(社会の存続のために)」と主張するのです。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月20日 17:22
僕は分からないではないけれど、ではその「度を超してる・超してない」は誰が判断するのか?、結局そのライン引きが恣意的になってしまう以上、それはやってはいけないのではないか?
ナチスの優生学や全体主義みたいなことになる発想だろう?と言ったんですね。
だから、最低限みんなで共有できるルールを設定して、それを守れなければ罰することにしましょうという、現行のような仕組みがギリギリなんじゃないだろうか?と。

けれどAくんは譲らない。理不尽だと思ってるからなんですね。
彼の気持ちは分かるんです。
僕と彼との差は、その問題を考える立ち位置の差です。
彼は「排除する側」に自分を入れて考えている、「排除される側」には自分はならないという前提で考えている。
僕は「排除される側」に自分を入れて考えている。
それはAくんにもその場で言ったんですけど、彼はそれが全然ピンとこないみたいだったんですね。
「こりゃ、ここではムリだな」と思いました。
そうして、それについてはまた考えてみよう、ということになった。

後日、別の集まりでまた酒を飲んでいるときに、僕とAくんとの共通の友だち・Bくんの話になったんです。
カラオケの話になって、Cさんがカラオケに行ったことがないという話になり、Bくんが話題に出た。
Bくんはすごいオンチなんですね。
でも彼はそれを全然気にしてないし、歌うことが好きだし、とても愉しそうに気持ちよさそうに歌うんです、いつも。
僕はそうやって歌う彼が大好きで、だから「いや〜、確かにオンチなんだけど、Bくんはいい味だしてんだよねぇ♪」ってしみじみ言ったら、Cさんが「え〜、わたしは可哀想だと思うな」って言ったんです。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月20日 17:23
それをAくんも聞いていて、「なんかヤな感じ!」って言った。
「それだよ、その感じなんだよ」って、僕は思わず言いました。
(^o^)
僕もAくんも、Bくんサイドに身を置いて、その話を聞いてたんですね。
だからCさんが、Bくんがオンチだということを「可哀想」と評した その「上から目線」的な感じに、2人ともカチンときた。
『こないだ「排除する・しない」の話をしてたときに僕が感じてたのは、まさにその「なんかヤな感じ!」だったんだよ』
ってAくんに伝えたら、「あ〜 なるほど、そういうことかぁ」とすぐさま分かってくれました。

このときは、たまたま2ヶ月くらい後での話でしたけど、そういう瞬間的にでも体験を共有できるような「タイミング」を、2年でも3年でも10年でも待ってられるかどうか。
「気づいてほしい」と思っているのであれば、まずはそれは1つの手かな・・と。
Posted by アキラ@naokoさん3 at 2010年04月20日 17:23
そうですね。すべてに時あり、って言いますものね。

ただ、その犹瓩療来を妨げ続ける心の働きが、世の中にのさばってきている気がするのです。

それは、犲分の知恵への過信瓩もしれないし、あるいは天から授かった犲分の分(自分に用意されている生きる道)瓩鮹里蕕覆い箸海蹐らくる爐覆い發里佑世雖瓩竜臆邊兇簍澣疉塰かもしれない。

人はどれほど努力しようと、どれほど己を磨こうと、どれほどの功績をうち立てようと、だれもが、やがては年老い、愛する者と別れ、独りで死んでいく。

そのことを覆い隠そうとする、各々の我欲から生じた犹彷悪疇瓜里、見えないところでぶつかり合い、潰しあい、殺しあって、世に混乱を生み出しているような気がします。

そうした世の中に巣くう犹彷阿留沖瓩、個々人の大切な「気づき」を邪魔しているように思えてなりません。
Posted by naoko at 2010年04月21日 04:00
・アキラさん

>このテーマに関しては、「文章的把握」とか「モデルに落とし込む」とかいうこと自体が、危険きわまりない

ふふふ、頭に戻ってきましたね(^-^)

そう、ニーチェもそう言ったんです。

「モデルに落とし込む」というのは、どうあったって“上から目線”にならざるを得ませんよね。“落とし込む”ときには自分は入っていないのだから。また自分を入れようとすると、今度は逆に“下から目線”になる。

この“下から目線”(すなわち「神への信仰」)をニーチェは批判した。ルサンチマンであり弱者だと言った。
(送らせていただいた新たなTBも参考にしてくださいね。)

私がこのコメント欄の頭で言ったのは、“下から目線=信仰”あるいは“上から目線=(権)力への意志”は「不安」から生じる、ということなんです。では、なぜ「不安」なのかは(これは前のTBで示したことですが)主客が分離してしまうから。

で、なぜ主客が分離してしまうのか、という問いに対しての答えが、このアキラさんのエントリーなんだ、ということ。そう私は捉えたんです。

まあ、しかし、この捉え方も“上から目線”ではありますよね。それでアキラさんもカチンときたのかな...(^o^;
Posted by 愚樵@アキラさん at 2010年04月21日 04:42
・naokoさん

はい、「とき(タイミング)」は誰にだって訪れてますよね。
仰るとおり、「気づき」がなかなか難しいだけで。
でもそれは、そもそもそういうものは自分自身ではなかなか気づけないから、ですよね。

だからこそ そのことを想いながら、じ〜っと ず〜っと待ってる人が必要なんです。
何かによく似てると思いません? o(^-^)o
そうして「今!」というときに、ちょこっと手を貸す。
そのときに気づいてもらえるように「どう手を貸すか」という話も、一方で当然出てきます。
言やぁいいって話でもないですからね。 (^_^;)

それからもう一つ、例えば『「目の前に見えているもの」しかわからない』人はその典型でしょうけれど、具体的に目の前にそれがある・・ってのも大事なんです。
ここでの話題であれば、『目に見えないものへの「信頼」』を体現している人が。
それも特別なこととしてではなく、ごくごく当たり前のこととして。
例えば「風邪を引こう♪」であれば、ごくごく当たり前のこととして風邪を素直に引いて経過させている人が「目の前にいる」ってことが必要だったりするんです。
じゃなきゃ 信じられないからです。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月21日 12:20
じゃなきゃ 信じられない・・ってのもさみしいことですが、でもそれはしょうがないでしょう。
だから、こういうことを「そうだよなぁ〜」と思えるのだったら、自分の暮らしの中で(出来ることを)具体的に行動する、それに尽きるわけです。
『世の中に巣くう「思念の渦」』のせいかも?って思ってたって、しょうがないでしょ。
望んでいるのなら。

naokoさんはイエス・キリストへの信仰をお持ちのようですから、話が早いはずです。
喜びと祈りとをもってその道を進んでいけばよいのですから。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ 25:40)
その道のりの中には苦難や困難も多いことでしょう。
けれども、祈りが力を与えてくれる。
苦難の中でイエスが祈っておられたように。
それはnaokoさんもよくお分かりのはず。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月21日 12:20
・愚樵さん

>そう、ニーチェもそう言ったんです。
<
お、そうだったんですか♪

なるほど〜、そういうことだったんですね。
それで僕の「まんまの感覚」とはちょっとズレるんですね、きっと。
僕は、ヒトにはヒト独特のアタマがくっついてるから、どうしたって「不安」は起こると思ってます。
で、主客が分離するのもヒトであれば当たり前だと思ってます。

ご存じだと思いますが、僕は「アタマとカラダ」「抑制と同調」といったことはヒトの自然だと思ってるからなんですね。
(ほかの方々のために、一応挙げておきます。
 『ヒトのヒトたるキモ・シリーズ』
 http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/1970-09.html
 特に、「ヒトのヒトになったキモ その3」
 「何ごとにもならないアタマ その1・2」
 「カラダとアタマの独特な絡み その1・2」あたりでしょうか。)

で、この先は「中編」のコメント欄の方へ続きそうですね。 (^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年04月21日 12:21
・愚樵さん

追伸です。
愚樵さんは、「(わたしたちには)主客の分離は必要ない」と考えてらっしゃるってことですかね?
僕はそうなると、「主客を調和すべき。また、主=主・客=従とすべき」と考えてることになりますかね。

>なぜ主客が分離してしまうのか、という問いに対しての答えが、このアキラさんのエントリーなんだ、ということ。そう私は捉えたんです。
<
ここまで聞いて、その愚樵さん的な視点でいくならば、愚樵さんの捉え方になって不思議でないと感じます。
でも僕は、そんなつもりは毛頭なくて書いているものですから、わざわざ「主客分離」的に捉えることがよく分からない・・と思ったんです。
(^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん・追伸です at 2010年04月21日 15:47
いや、そういう体現者が目の前にいても気づかない。
思い込みなのか、頭の中に蜘蛛の巣が張っているのかしらないけど。
そういう個々の人の頭の中に蜘蛛の巣を生じさせるものを、わたしは実感として犹彷阿留沖瓩抜兇犬襪世韻任后

でも、アキラさんの言わんとすることもわかりますよ。
「時が至った!」そういう経験よくありますから。

イエスさまへの信仰も、お経や仏法への信仰も、いろいろ持ってますけどね。
古神道にも興味があります。沖縄の土着信仰のルーツでもありますし。
いずれも犁疇鮫瓩箸いΠ嫐において、ですね。
Posted by naoko at 2010年04月22日 00:54
・naokoさん

まぁ内田樹氏に言わせると、naokoさんのような人は「輪郭がぼやけてる人」なんだそうですよ♪
輪郭がシャキッとクリアカットな人もいて、当然ディフェンスがガッチリしてる。
特に都市部などに棲息していると、どうしても身体に触れる刺激がトゲトゲしいものばかりなので、身体感度を下げて、プロテクションを固めて、不快な感覚情報の入力を遮ってる・・ような印象を受けるんだそうです。


>イエスさまへの信仰も、お経や仏法への信仰も、いろいろ持ってますけどね。
<
ははは、それでは僕の中では「信仰」とは言えないですね。 (^o^)
信心? 信頼? くらいでしょうか。そういや信頼って仰ってましたね。
「求道」ではあると思いますけどね。
あれもこれも「信仰」と表現できるってことは、メインストリームがないってことですか?
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月22日 19:00
仏教か、キリスト教か、と言われると、う〜んと悩んでしまいますね。自分にとってはどっちも必要です。
聖書を読んでいても、般若心経を唱えていても、どちらも、それぞれにしっくりくるものがあります。
また、経典を持たない古神道の信仰の爐たち瓩砲癲何かしっくりくるものを感じるときがあるんです。
メインストリームはと尋ねられると、う〜んと悩んでしまうところがありますね。

おっしゃるように、おそらく「信頼」と「求道」というあたりが、わたしの現状なのでしょう。

確かに輪郭はぼやけていますね(笑)。

とは言っても、わたしの生息している場所自体どちらかと言うと都市部なのですが…。確かに刺激は刺刺しいかも。
しかし、その刺激に対して自分のプロテクションを固めるということは、自分自身、その刺刺しい環境の一部を担うことになる感じがして、それが嫌なのですね。
Posted by naoko at 2010年04月23日 05:20
・naokoさん

>メインストリームはと尋ねられると、う〜んと悩んでしまうところがありますね。
<
なるほど、なるほど。

低刺激環境にいると、輪郭がうっすらにじんできて、まわりの背景に溶け込んじゃうみたいな感じがする・・、って内田氏は言うんですよ
四季折々の草花の香りや、鳥のさえずり、寄せては返す波の音、川のせせらぎ、木々のざわめき、星々のまたたき・・、そういう低刺激環境にいると、身体感度をかなり上げても、それによって不快な入力を浴びるリスクが少ないんで、いつの間にか感覚の回路が全開してしまう・・とも。

naokoさんもきっとそのように育ち、そうしてそれを固められないまま、固めたくないまま、固めないまま、とげとげしい刺激の中に身を置いているから、それでおそらくきつくなっちゃうのかもしれませんね。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月23日 11:09
プロテクト固めないまま、とげとげしい刺激の中に身を置いているから、それでおそらくきつくなっちゃうんでしょうねえ、確かに。

でも、これが、育った環境によって変わるのか、それとも、育った環境に関わらず生まれつきそういう狎質(たち)瓩凌佑、世の中に一定数存在するのかは、よくわかりません。
難しいところです。

Posted by naoko at 2010年04月24日 03:45
・naokoさん

それって検討が必要なもの? (^o^)
まぁ、元々知覚の周波数帯が少し広かったり、少し高めや低めにズレてるような人たちもいますからね。
そういうの あるかもしれませんね。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月24日 18:16
何事によらず、それが、生まれつきの気質的なものなのか、それとも環境要因なのか、を考えるのは、狎蠅せ姚瓩箸靴討寮(さが)でしょう。

ましてや、自分の狎犬難さ瓩髻⊆分自身がどう受け止めるか、というのは、それなりに切実な問題です。

まあ、「それが、僕に何の関係が?」とアキラさんに言われれば、ま、関係ないかもしれないし、あるかもしれない。

わたしからみると、アキラさんは、時々妙にプロテクションが固い感じがしますから。
その辺が、いつもちょっと違和感あるんですよね。
Posted by naoko at 2010年04月25日 04:57
・naokoさん

>何事によらず、それが、生まれつきの気質的なものなのか、それとも環境要因なのか、を考えるのは、「占い師」としての性(さが)でしょう。
<
なるほど、そうなんですね。
naokoさんがそこを考えちゃうのは分かりました。
僕が 聴く側としてこれを考えなければならない場合があるとすれば、変化のプロセスを予想していく必要があるとき、ですかね。

ちなみに、naokoさんの状況について、それが「生まれつきの気質的なもの」の場合と「環境要因」の場合とでは、何がどう違ってくるのですか?
単純に考えると、環境を変えてみれば分かることなのではないかな?と思うんですね。
考えることではなくて。
で、その「環境」すら変えられない(例えば江戸時代に生きることはできない、みたいな)場合には、そこを考えてもしょうがないだろうと個人的には思うわけです。
結局どっちに転んでも「マッチしない」というだけなんですから。
その場合の、「それがどちらなんだろう?」と考えなければならない理由が知りたいです。
「だってしょうがないじゃん、考えちゃうんだもん」って話?
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月25日 18:02
僕は、場や状況に応じてプロテクションの硬度を上げたり下げたり、開いたり閉じたりしますよ。
元々「鈍い」人間ですし。
相手の「依存」には、基本的には乗っかりませんし。
だから僕は、「生き難く」はないんです。

naokoさんとのやりとりについては、僕の投げかけに対してnaokoさんが応えずに(ほとんど)スルーされることが多いので、naokoさんが僕の投げかけについてどう考えたり感じたりしてらっしゃるかが、分からないんです。
naokoさん自身はモニターの前で、首を縦に振ったり横に振ったりしてらっしゃるかもしれませんが、テキストのみのやりとりですからそこは僕には伝わりません。

ですから、次に投げかけをするときに、何をどのように投げかけてよいか分からないことが大半なんですね、これまで。
テキスト(文章)によってご自分を説明しない、出さない、立ち位置を明らかにしないという意味では、naokoさんは輪郭はぼやけてるのかもしれませんが、僕とキャッチボールが成り立っているのか、僕には実は疑問なんです。

僕はそれはいけないとは思いません。
また、単純に僕の力不足なのだろうとも思います。
けれどその姿勢は、とてもプロテクトがなされているものだと、一方では感じるんですよ。
ですから、naokoさんがプロテクトしたくないと仰るのはウソだと思うんです。
十分されている。
「プロテクトしたくない、してない」と思ってるだけで。
それとも、かなり下げてのここでの振る舞い・・なのかな?

そんなこんなで、僕からあまり何かが引き出されることが少ないんじゃないのかな? と感じたりしています。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月25日 18:03
例えば、わたしは実際に占いをやるのですが(一時は生業としていた面もあります)。すると、そのわたしの狎蠅き瓩任蓮△修凌佑寮固月日と氏名だけから、その人の人柄や人生の傾向・特性など、かなり詳しく、深くわかってきます。

そのうち、生年月日からわかるのは先天的な傾向ですよね。
そして、氏名については、それをつけるのは親・親族ですから、そこから周囲の環境から、本人の運命への関与が伺えるわけです。

その二つが、どのように織り成しながら、当人の性格・運気・人生を方向付けているか、を考えるのです。

そして、いつも思うのは、かりにこの人に別の氏名が与えられていたら?ということです。
しかし、一般に名前を変えると言うのは、なかなか踏み切れない人も多いし、変えたからってどうなるんだ、という疑いもあるでしょう。
ま、実際、それで運気が変わっていくことは確かなのですが…。
なんでそうなるの?と言われても、わからない。

だから、物事が先天的なものなのか、環境要因によるものなのか、と考えてしまうのは、狎蠅せ佞寮瓩噺世辰燭里任后

だから、爐世辰討靴腓Δないじゃない、考えちゃうんだもん瓩辰董∀辰任后幣弌法

そうか、アキラさんも、わたしのプロテクトを感じていたのなら、おあいこですね。

それから、アキラさんがスルーされている、と感じるときには、わたしはぜんぜん異論がないので、異論がある部分や、よくわからない部分に書くことを集中しているせいでしょうかね。

勝手にコンピューターの前で「うん、うん」と頷いていても、伝わらないというのは、そうだなあ、と思いました。

あと、どう答えていいかわからないような質問だなあ、と感じることもあります。そこは、お互い様(なのかな?)。
そういう場合、とりあえず反応できる部分に反応しているということも、あるのかな…。
Posted by naoko at 2010年04月26日 01:23
・naokoさん

なるほど、なるほど。面白い話ですね♪
そういうnaokoさんの発言の背景となるようなことまで説明してもらえると、途端にいろいろとアタリがつくことが出てくるわけです、こちらも。

上のコメントを読んだ後に、
『何事によらず、それが、生まれつきの気質的なものなのか、それとも環境要因なのか、を考えるのは、「占い師」としての性(さが)でしょう。』
と言われれば、「なるほど、それは興味深い話だ♪」と思うんですが、背景の説明なくポンとそれだけ書かれると、naokoさんがまさに仰るとおり、「どう応えていいか分かんない」んですね。
naokoさんとリアルで親しいわけじゃないし。
「あ、そう」としか言いようがない。 (^_^;)

これ絡みでちょっと興味があるんですけど、生年月日が先天的な傾向ってのは分かります。
で、氏名ってのが周囲の環境からの関与だというのも分かるんですが、でもそれはごく初期においての関与ですよね。
その後の後天的な生育環境などは、特にその人に決定的な影響を及ぼさない・・という見方なんですか?
それとも、その氏名を与えるような感受性が、その後もその人を取り巻き続けるというニュアンスで、そのへんのことをひっくるめて氏名に代表させて、そこを伺う・・という感じなんでしょうか?
それとも、あるいはその「氏名」が言霊的な影響を及ぼし続ける・・・みたいなことなのかな?
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月26日 16:27
>アキラさんがスルーされている、と感じるときには、わたしはぜんぜん異論がないので、異論がある部分や、よくわからない部分に書くことを集中しているせいでしょうかね。
<
これ、多分そうだとは想像はできるんです。
でも確証はない。
確証がないから、常にそこにはある種の不安・不安定さを感じながら、やりとりせざるを得ない。
なんかね、
「いい天気ですねぇ」「ほんと、いいお天気ですねぇ」
みたなとこがないんですよね。
だから安心できない感じがあるんです。 (^_^;)

ある種の安心がないままにやりとりしなきゃならないのって、常に確証のなさを差し引きしながら言うことを考えなくちゃならないのって、けっこうストレスですよね。
それを敢えて「手法」としてやってるなら、それはそれで「あり」だとは思うんですけど、もし無自覚にやってるとなると、それはあまり相手に対して心地いいことではないんではないかな〜?と。

僕の知り合いにも何人かいるんですよ。
ケータイのメールとかで、「明後日の会合は、10時からでいいんでしたよね?」って送ると、全然返事が返ってこない・・みたいな。
受けとった本人は、そのメールを読んで、その場で「うん」とうなずいて終わりなんです。 (^_^;)
で、返事しないってことは「そうだ」と言ってるってこと・・と、自分勝手に思ってる。
そういう「ルール」が世間的におおかたあるんだったら、それはそうなのかもしれませんが、そういうわけでもないですよね。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月26日 16:28
僕は、こういう態度は「開かれてる」とは思えないんですね。
「相手のことを想ってる」って思えないんです。
自分勝手に振る舞ってるだけ・・でしょう?
もしくは、自分の感覚が「世界の定説」だと思ってる。
そこでもって「ただひとつの普遍」とか探されたりすると、コワいんですよ。

僕の勝手な想いなんですけど、naokoさんにはそういうの やってほしくないんですよね。 (^_^;)
これこそ僕の自分勝手な願望なんですけど、、、。
Posted by アキラ@naokoさん3 at 2010年04月26日 16:34
相手に確証を与えず、不安にさせる。それは、よくないですね。ある種の相手への「依存」でもありますよね。
そういう態度は、可能な限りとらないように気をつけます。

ところで、子どもに与えられる犹疚将瓩琉嫐するものについてですが、ある人の名前に、ある種の爐気錣雖瓩あるとします。(←本人にとって生きにくくなる要因のようなもの)
そうした場合に、その親御さんの名前にも似たような爐気錣雖瓩あるということが多いのです。
そして、わたしはそこに親から子へとおろされる牋縁瓩魎兇犬襪海箸あります。
沖縄ではそうした現象を爐舛造Δぁ米下り)瓩噺討咾泙后
親の世代で解決すべきだった人生の課題が、解決されずに次の世代に下りてくる現象ですね。
そうした現象が、なぜ犹疚将瓩ら読み取れるのか、あるいは犹疚将瓩修里發里豊犖昔遶瓩箸靴討瞭伴の呪力があるのか、そのへんはわかりません。
しかし、わたしは基本的には呪力とは考えていません。
むしろ、その人の運命と氏名との間に、なんらかの密接な相関関係があるのだろうと推測するだけです。

アキラさんの問いかけに対する答えになっているかどうか、心もとないのですが、わたしに言えるのは、そのぐらいですね。
Posted by naoko at 2010年04月27日 02:14
あと、そうした相関関係を生み出しているもとを、わたしは人が外・他者へ向かって吐き出す狒枅悪瓩噺ています。嫉妬や恨みや憎しみ、我欲や執念、不安や恐怖など、さまざまな負の想念ですね。
人は、三次元の現実の世界で生きる一方、それぞれの狒枅悪瓩寮こΔ任眄犬ています。
その互いの想念がぶつかり合って、人の世の運命をねじ曲げる狒枅阿留沖瓩生まれ、人は好むと好まざるとに関わらずその渦の中で生きていかざるを得ない。
犹疚将瓩蓮△修凌佑どのように想念の渦に翻弄されるかという傾向性を表象していると、わたしは考えています。

逆に、心底幸せな人はそうした狒枅悪瓩鬚曚箸鵑瓢たない。
三次元の現実が自分の内なる世界と感覚的にぴったり一致しているからです。
それが、おそらくアキラさんの言う「開かれている」人。「相手のことを想える」人ですね。

そうした人には、犹疚将瓩了つ凶兆など、ほとんど影響しないのかもしれません。
Posted by naoko at 2010年04月27日 04:04
・naokoさん

僕の勝手な想いです。 (^_^;)
耳に入れてくださるだけでけっこうです。
聴いてくれてありがとう♪

いや この話、面白いですよ♪
「さわり」がある・・ってのは、「名前」自体にそれが観られるわけですよね?
で、それを取り除くようなこと(名前を変えるとか)をすると、運気も変わってくる、と。

そうすると、そもそも「さわり」となるような条件ってのが、氏名の中にあるってことですよね?
逆に考えれば、最初からそれを考慮して、避けて名前をつけることもできる、やる、ってことですか?
よく「名前を決めてもらう」みたいなの、ありますよね。

それ絡みになると思うんですけど、「凶兆」があるってことは「吉兆」もまたある、ってことですよね?
その「吉兆」を含んだ命名・・とかをする、ってのもありってことですか?
また、naokoさんの仰る「想念」は、「正の想念」ってのもありなんですか?
よろこび、慈しみ、愉快・・みたいな。

なんか質問ばっかだな。 (^_^;)
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月27日 17:33
これ、やっぱりすごく言霊的な世界だと、今のところ僕は感じています。
そうして、愚樵さんと今やりとりしてるような内容とも、すごく関連が深いと思います。
そのへんのことは、向こうでのnaokoさんのお返事を待って考えたいと思ってるんですが。。。

naokoさんの仰ってることは、「想念の渦」との相関関係の結果、あるいはそのプロセスの中で「その名前がつけられる」という順序のようですけれど、
言霊信仰って、「そのように口に出して言うと(あるいは書くと?)本当にそのようになってしまう」という世界ですから、似たようなことを逆のベクトルから辿るような感じに思えるんですね。

だから、実際にはその人は病気でも、「○○さんは大変お元気で・・」みたいな祝詞をあげて、その人が元気になるように「気」が変わっていくことを願ったりするわけで。
「名前を変える」というようなことと、似てるように思いません?
ちょっと違うのかな?
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月27日 17:33
名前を変えることで、運気が目立って変わってくるまでに、早くて五年ぐらいかかりますね。
大体は、そのころまでに、元の名前にもどしちゃうんです。本人が「変わらない」と感じて。
さらに、生まれてきた子どもに何万円ものお金を払って名前を決めてもらっても、姓名学にも流派がいろいろあって、わたしが見ると「なんでわざわざこんなに爐気錣雖瓩里△詭樵阿髻」とため息が出るような名前になっていることもあります。
さらに氏名の持つ吉凶は、生年月日からくる本人の特性と相まって表出します。したがって、生年月日に現れている吉兆を強め、凶兆を弱めるように名付けることが大切です。
また姓名全体としては、姓と名のバランスがもっとも大切で、なので、女性の場合、結婚で姓が変わることで大きく運命が変動することが見て取れます。

狒枅悪瓩箸いΔ里蓮基本的には犲拉悪瓩鬚△蕕錣靴泙后
狎気料曚ぁ柄把召柄曚ぁ豊瓩箸いΔ里蓮∨寨菽にでもある猜性瓩糧現ですが、その想いに、塵ほどにでも犲拉悪瓩混じると、とたんに運命に爐罎み瓩鮴犬犬覘倏悪瓩発動するとわたしは感じます。
ですから、倏悪瓩鮖たないということ、それが、まず大切で、そうすれば、おのずと当人の猜性瓩表出してくる。
逆に、当人自身が狒枅悪瓩鯤射し続けるなら、どのような吉兆に満ちた姓名をつけようと、運命の激しい爐罎み瓩鯡箸譴襪海箸呂任ません。
姓名の力でかろうじて破滅を免れるとしても。
Posted by naoko at 2010年04月28日 03:26
あれ、ここでわたしは狎名の力瓩噺世辰討靴泙辰討い泙垢諭
う〜ん。
わたしとしても、アキラさんの言うような逆のベクトルで考えることもあるんですよね(笑)。
言葉そのものの呪力(言霊)を信じないわけでもないんですよね。ただ、それだけとも言い切れないところもあります。
たとえば当人の狄仰心瓩筺△覆鵑蕕の犁い鼎瓩砲茲辰董↓倏悪瓩鯒咾垢訖瓦里△衒を目指すようになった場合、とたんに運気が変わってきます。
そこにわたしは、犖斥佞亮力を超えるもの瓩魎兇犬討い襪鵑任后
Posted by naoko at 2010年04月28日 03:41
さらに、当人が邪念を放射しなくとも、周囲の想念に翻弄されるということも多いので、そこがまた難しいところです。
いかにしてこの世の狒枅阿留沖瓩ら解脱できるか?
そのためには、(人の知恵を超えた?)猜の智慧瓩鯢要とするように思えてなりません。
あるいは深い牋Ν瓩必要ということかもしれません。

わたしがキリスト教や仏教に惹かれるのは、そうした想いからなのです。
Posted by naoko at 2010年04月28日 05:16
・naokoさん

なるほど、なるほど、です。

基本的には「邪念」だというのも了解ですが、それは「嫉妬や恨みや憎しみ、我欲や執念、不安や恐怖など」なわけですよね?
あるいはそういうものを含むもの。
「嫉妬や恨みや憎しみ、我欲や執念、不安や恐怖など」というのは、そもそも体にくっついたものですし、こういう情動の凝りが起こらない、こういうものを持たないということ自体が、生きている以上あり得ないと僕などは思うんですけど、そのへんはどうなんでしょう?
それこそ、「本当に悟った人」くらいなもんじゃないのかな?って気がするんですけど。
いや、それも違うな。
「本当に悟った人」はそれにちっともこだわらないだけ、だ。


僕が自分の知覚で確認している範囲での、整体的な所見を述べておきますね。
「嫉妬や恨みや憎しみ、我欲や執念、不安や恐怖など」といった情動の発出、あるいはそのような情動の「凝り(凝固)」は体の生理的な状況と表裏一体、同じものの裏表のようなところのものです。
ですから、体の状況が変化しなければ それは解消しない、と言ってもいいわけです、僕ら的には。

で、たま〜に、この生理的な状況と表裏一体となったものとはちょっと違う「気の滞り」みたいなものが、あるときがあるんですね、確かに。
生理的な状況とセットになっていないというか、生理的な状況を変化させなくさせているようなもの。
僕の師匠は「邪気」と呼んでいましたけど、そのようなものは仰るとおり確かにある。
でも、「生理的な状況と表裏一体のもの」と「気の滞り」とは、基本的には別物です。
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月28日 17:45
この「気の滞り」が抜けていかないと、いろんな生理的な状況が変化していかない、転がっていってくれないわけです。
そうなると、いくら体に働きかけても変わっていってくれない、ということが起こる。
僕はこれを、神経的なネットワークの滞り、神経的なネットワークがあちこちでショートしてパチパチしちゃってる状態だと思ってるんです。

naokoさんの仰るように、自分の念でもってこれを起こしている場合もあれば、他人の念によって影響を被ってしまっている場合もあれば、はたまた「場の気」や「霊」のようなものによって起こっている場合もあるようです。
これが起こってる場合には、少し特殊な働きかけが必要になるんです。
「名前を変える」とか「お祓いをする」とかいうのも、そういう働きかけの一種だと思うんですね。

こういうものを観ていて思うのは、これがないとか、ないようにするとかいうことはあり得ないし、こういったものの影響を一切受けないようにしようってのも不可能だろう、ということなんですね。
生きてる以上は。
生きてる限りは、自然なことだと思うんです。
だから僕は、それを「何かをゆがませるもの」だと解釈するのが、そもそも何かちょっと違うような気がするんです、個人的には。

それを排除した世界などあり得るのか?、成り立つのか?、
それは〈世界〉なのか?、単なる絵空事なんじゃないのか?、それが疑問です。
僕は、そのようなことも「当たり前のこととしてそこにある」ものだと思います。
そうして、それらに影響を受けてしまうことも「当たり前のこと」だと思う。
問題は「受け続けてしまう」という膠着なんだと思うんですね。
そこでポイントは「転換」。
そういう意味で、naokoさんの仰ることは何となく分かる気がします。
Posted by アキラ@naokoさん2 at 2010年04月28日 17:45
すごくわかる気がします。
「嫉妬や恨みや…」といった感情がストレートに表出するならそれは、邪念・邪気にはなりません。
相手にぶつけるにせよ、自分で受け止めて苦しむにしろ、です。
問題は、そうしたこころの猊臭瓩任靴辰り反応したり、受け止めたりできずに、こころの猯↓瓩任Δ瓦瓩もの、それが、邪念、「気の滞り(邪気)」になります。
わたしが、「邪念を持たないように」、というのは、ある意味、ストレートにこころの猊臭瓩如△修Δ靴辛蕕両霪阿鮗け止められるように、という意味です。
そのための狄瓦里△衒瓩魑瓩瓩襪海箸、わたしのもっとも関心のある事柄なのです。

アキラさん、すごく正確に、わたしが表現できなかった部分まで、しっかり受け止めていただいて、ありがとうございます。
Posted by naoko at 2010年04月29日 00:06
・naokoさん

お〜、じゃぁ僕が観てるものと似てますね、きっと。
よかった。 (^o^)

>わたしが、「邪念を持たないように」、というのは、ある意味、ストレートにこころの「表」で、そうした負の情動を受け止められるように、という意味です。
 そのための「心のあり方」を求めることが、わたしのもっとも関心のある事柄なのです。
<
なるほど、分かりました。
いや〜、しかしそれはなかなか至難の業ですよねぇ。
「同調」する面がある限り、無理な気がするんですよねぇ。。。
こころの「表」で一応受けとめられてたりしていても、どうしてもやっぱり知らない間に澱が溜まっていったりしますからねぇ。。。
僕も知りたいな、そういうことが可能なのならば♪
Posted by アキラ@naokoさん at 2010年04月29日 09:48
あ、あの、まったりいい対話されてるところすんません。
ここで姓名の吉凶のことが出てたので、なにげな〜くネットの無料姓名判断やってみますと・・・。ガーン!
ワタシの名前、どれをやってみても、もう最低最悪、中にはできれば改名をすすめますとまで書かれていました。
好きな名前なので、ちょっと凹みますた。
最低最悪な名前のうえに邪念だらけ、ワタシの人生はイバラの道ケッテーイ。
( ̄Д ̄;) ガーン
Posted by 青グリン at 2010年04月30日 22:08
・青グリンさん

ありゃ〜、そりは何と申しましょうか・・・ご愁傷さまです。 (^_^;)
でもほら、あれですよ奥さん、あれ、あの例のその・・・あ〜 そうそう、
当人のなんらかの「気づき」とかで、とたんに運気が変わってきたりしますから、奥さん。
お気を確かにもって、うんうん。

っていうかさ、カッパの場合はだいじょぶなんじゃない? (^o^)
オレ、青グリンさんの名前、好きだな。
Posted by アキラ@青グリンさん at 2010年04月30日 23:42
青グリンさんのコメントを見て、わたしもネット上の無料姓名判断を、アクセスの多い順に上から七つほど試しましたが、きちんと運勢を出してくれるものはひとつもありませんでした。
つまり、わたしが爐海譴論騎里世吻瓩塙佑┐詢派ではないということです。
気休めかもしれませんが(苦笑)。

また、名前を変えるとしても、なかなか上手い具合にいかない場合も多いです。
ですから、お好きな名前なら、無理に変えることは勧めません。

実は、ある人の例ですが、最高の名前だったときには、何をやってもうまくいかなくて、逆に最低最悪の名前に変えたとき、やっと成功したという人もいるんですよ(爆)。
最高の名前だったときには、どんなに追い詰められても、本人に危機感と言うものが生まれなかったんだそうです。事実、何度も同じ失敗を繰り返して、離婚も三回ほど、破産もしたそうです。
それで、四度目の奥さんの姓に変えて、再再再再出発した時、たまたまひどい姓名になってしまったのですが、なぜか、生まれて初めて強烈な危機意識を感じ、必死になったのだそうです。それで、成功したということです。
世の中、いろいろです。
Posted by naoko at 2010年05月01日 03:26
師匠、あい、気をしっかりもって頑張りますッ。
あんまりにも悪い書かれようだったので、ためしに青グリンでやってみたところ、そっちのほうがまだマシなようでした。キッ!

naokoさんはじめまして、naokoさんと師匠のここでのやりとりが興味深かったので、つい何気なくやってみたんですよ。
>ある人の例ですが、最高の名前だったときには 〜 世の中、いろいろです。

例をあげて教えてくださって、ありがとうございます。<(_ _)>
はい、自分ではいい名前をもらったと思っているので、大事にしていこうと思います。
おみくじで凶を引くとかえって縁起いいと言う人もいるので(凶は少ないくじだから)、そう思うことにしますね。 (^o^)

その例の人、何度ころんでも再起するところがエライですね。苦境に立っても、またやり直そうすることが大事ですよね。
Posted by 青グリン at 2010年05月01日 10:09
・青グリンさん

>ためしに青グリンでやってみたところ、そっちのほうがまだマシなようでした。
<
「青グリン」って名前、どこまでが姓で、どこの部分が名になるのかな?
(^o^)
「青・グリン」、いやいや「ア・オグリン」、いやいや「青グ・リン」?
Posted by アキラ@青グリンさん at 2010年05月03日 10:02