2010年08月13日

愉氣(ゆき)のこと

夏空

このブログの記事の中にも、いろんなところに「愉氣」ということが出てきます。
野口整体の、まぁ基本っちゃぁ基本です。
何かにつけて出てきますし、一度誰にでも分かるような形で説明しておく方が、何かとこれからも便利かな〜と思いまして (^o^)、独立してとり上げてみました。

愉氣(ゆき)というのは、言ってみれば、まぁ「手当て」です。
お腹が痛いときには、思わずお腹に手をやりますよね?
歯が痛いときには、痛いところに手を当てるでしょ?
お腹が痛いときに、頭に手を当てる人はあんまりいませんよね。 (^_^;)

自分で思わずやっているそれとおんなじように、人のおかしなところに手を当てるわけです。
おかしなところに手を当てて、澄んだ気持ちでそこにこちらの注意を集注する。
な〜んにも考えない。
ただ 感じる。
それが愉氣。
例えば、後頭部なら後頭部の、お腹ならお腹の感じを、一心に感じるわけです。

自分で思わずやっているそれとおんなじように・・・ってとこが ミソなんですね。
無心にやる、ということ。
そういう意味では、くしゃみとかまばたきとかあくびとかと、同じような働きだってことなんです。

気になる、気が引かれる、思わずやっている。
そうして、何かしら快感がある。
「気になる」ことを「気にする」、「気が引かれる」ところに「気を集める」。

人というのは、勝手に人に影響されるものでして、こちらが手を当てて澄んだ心で一心に注意を集注していると、ほかに何にもしなくても、それだけで相手はジワッと変化してきます。
人と人は感応するからですね。

人の嬉しさや悲しさや怒りが、自ずとこちらに感じられてしまうってこと、ありますでしょ?
もらい泣きや、もらい笑いや、もらいクシャミやもらいアクビ、しちゃいますでしょ?
人と人は感応するからです。
愉氣というのは、そういう生理的な原理を使っているわけですね。

以前にも紹介しましたが、頭部第二への愉氣などは、わりと誰でも心地よいものです。
あるいは、お腹(おヘソ)への愉氣などもいいかもしれません。
そういうところで、とりあえずやってみるといいでしょう。

例えば、頭部第二の大体のところを探して、手を当ててジッと愉氣をしてみましょう。
耳の穴をまっすぐに上に上がった線と、眼の中央をまっすぐに上がった線の交差したところが、大体のところです。
(詳しくはリンクを参照してね)

左右両方に各々手のひらを当ててもいいですし、拇指を各々の処に当ててもいいです。
そのままあんまり何も考えず、こちらの心を澄ませてジィッと集注します。
ノーマルな状態か異常な感じなのか、分からないかもしれません。
慣れないとそのへんの区別はむずかしいかもしれませんから、それはそれ。
とにかく一心に集注してみましょう。

人によって、何かしらの感応が起こって、何となく相手の内の感じを実感してしまう・・というようなこともあるかもしれません。
もちろん、それはこちらの思い込みだった・・ってこともありますから、あんまりそのへんはミョーに勝手に決めつけないで、とにかく無心に愉氣をします。
・・・・・・・・・・
そのうちに、相手の呼吸が深くなってきたり、何となく、最初の感触と違ってこちらとあちらがツーカーになった感じがするな、とかいう感じになってきます。
そういう感じがしてきたら おしまいにしましょう。

たったこれだけのことなんですね。
これだけのことなんですけれど、それで体は変わってくる。
不思議な感じはしますけれど、考えてみれば生きているんですから、当たり前のことです。
年をとらない人もいなければ、擦りむいた傷がまったく治らないという人もいない。
体はどうしたって変わっていく。

愉氣をするということがやっているのは、相手の生きている力をちょっと手助けする・・みたいなことなんです。
相手の体の中の動きの停滞がほどけて、自然に体を調える働きが素直に発揮されるようになることで、その状況が変わっていくわけですし、そうやって変わっていったものだけが体をしっかりとさせていきます。
その人の底力になっていく。

ですから、こちらが何かをしてあげる・・みたいな、恩着せがましいものではないんです。
いつ何どきも。
また、こちらの不安や心配を愉氣してもしょうがないんで (^_^;)、愉氣をするこちらの氣も澄んでいることが大切です。

面白いもので、体の流れの停滞していた状態が自然に戻って、余分なエネルギーの分散がはかれるようになると、氣というものは澄んできます。
つまり、こちらも愉気をしてもらって氣が通ったような状態になっている、のが一番いいんですね。
その状態が、「全力を出せる状態」なんだと言われます。

そのために、僕らは普段から、自働運動(活元)やお互いに愉氣をし合うことによって、体の弾力を取り戻しておこうと、そう思っちゃうわけです。
澄んだ氣で、いつでも全力を発揮できるように。
そうなってくると、その人のいのちの勢いをスッと感じとることができる・・・んだそうです。
ま、確かにそれが、愉氣の一番大事なところかもしれません。

野口先生の「愉氣の心得」も参照しておいてくださいね。



野口整体に関する記事は「光るナス@らくらく塾」に、だんだんとりまとめ中。

*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

道端

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この記事へのコメント
なんだか、「愉氣」の説明はほとんどそのまま「共感」への説明になっているような感じを受けてしまいますね。

共感も十分「手当て」になり得ますし、

>相手の生きている力をちょっと手助けする・・みたいなことなんです

とも言えますよね。

そんでもって、共感で心が柔らかになれば、それにつれて身体も柔らかくなる...、ということもあると思うんです。
Posted by 愚樵@また来てしまいましたf(^o^; at 2010年08月14日 15:08
・愚樵さん

>共感で心が柔らかになれば、それにつれて身体も柔らかくなる...、ということもあると思うんです。
<
そのベクトルでのアプローチも、もちろん「あり」ですよね。
野口整体に潜在意識教育という側面(分野?)があるのも、それがためですし、野口先生は元々そちらの方が得意だったようです。

僕らの理想としても、会って話をしているだけで、相手が「なんか元気になっちゃった」というようなことが、一番いいとされているんです。
あの人から何かをしてもらったから元気になった・・・という感触なしで、元気になれるのが一番いい。

僕らの世界では、具体的に相手に手を触れることによって「愉氣をする」ことから学びに入るわけですけど、そのうちに手で相手に触れていないでも愉氣をしている状態になりたい。
つまり、具体性としては「言葉で愉氣する」「目で愉氣する」。

そのうちに、自分がそこにいるだけで愉氣になってしまうような、そういうところまでいきたいわけですね。
もちろんそれは、やわらかさやあたたかさという「弛む」方向ばかりではなく、厳しさや背筋がピシッと伸びるような「緊(ひきし)まる」方向も、また当然「あり」で。

「愉氣をする」から「愉氣になる」になり、そのうちに「愉氣である」ようなことになっていきたい。
そういう意味では、自動運動や愉氣というのは、余剰財の“与え合い”の一つの具体的な形だと思うんですね。
こういうことが、もっともっと拡がっていくといいなぁと思っているわけです。 (^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2010年08月15日 09:13
「愉氣」ってなんやろ。
と実はずーっと前から思っていたのでこの記事はありがたかったです。

でも「な〜んにも考えない。ただ感じる」のは私にはまだ難しいです。「どうしたらウケるか」、とか邪念だらけの私は濁りきっています。
ところで自分で自分を愉氣するマイ愉氣もありなんですか?(基本的な質問でごめんなさい)
Posted by ひより at 2010年08月18日 00:34
・ひよりさん

こんにちは。
あ、疑問にヒットできて よかったです。

ダメですね〜、邪念ばかりでは。 (^o^)
「どうしたらウケるか」・・・ですか。
でも、ある意味、愉気・・かなぁ。

うん、「どうしたらウケるか」については、愉氣認定いたしましょう!!

えっと、自分で自分を愉氣するマイ愉氣はですね、「行氣」と呼ばれています。
例えば、月経の終わりにやるといいよと言われている「卵巣行氣」とか。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50599142.html
Posted by アキラ@ひよりさん at 2010年08月18日 10:05