2011年01月11日

    

『大往生なんか、せんでもええやん!』

_SS400_夏の頃でしたか、こちらの記事のコメント欄で、ニケさんが「人生の終わり方」のことをコメントしてくださいました。

こういうことというのは「ダマ」になってやってくるもので、まぁ去年の秋は亡くなる人が多かった(みたいだった)ということもあって、
その後続けて「死ぬのは自宅がいいんだけどね」話をリアルでもけっこうしていたのでした。

「最後は自宅で死にたいけど、いつもかかってるお医者さんとかがいないと、警察が検視に入ることになってすっごい面倒くさいんですよねぇ」
なんて話をあちこちで耳にしているうちに、
仕事としてやってることの性質上、お医者さんにはほとんどお世話にならない暮らしなのですが、やっぱり最後の最後のために、ここはひとつ近くの「街のお医者さん」と仲良くなっておくべきかな・・・
などと思っていた矢先。

何のついでに目にしたのかは忘れてしまったのですが、ネット上でこの本にたまたま目が止まり、題名に惹かれて思わず買って読んでみたのでした。

大往生なんか、せんでもええやん!
桜井 隆 講談社

尼崎市で訪問診療もやってらっしゃる街の家庭医・桜井氏の、現場からの声。
この中にも、やっぱりそのことは書かれていました。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

救急車で病院などへ運ばれてしまうと、これまで一度も診察したことのない医師では原則として死亡診断書を書くことができない。その場合は「死体検案書」となり、警察の検視が必要になることもある。
同様に、医師の訪問診療が全くなされずに在宅で死亡した場合も警察が介入することになり、そうなると悲しみがさらに深まることになってしまう。

したがって、医療的な処置を何もしてほしくないという意思があったとしても、たとえば一切の医療行為を拒否して、民間療法や健康食品だけにすがるような場合でも、その希望を医師に話して訪問診療を受けておいたほうがよい。


☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

むむむ、はい、ごもっとも。

なんですが、この本、素晴らしい本です。
これを読んでいると、どのようにしたら「人生の最後は自宅で」の準備をすることができるのかが、大体分かります。

なおかつ、これまたちょっと目からウロコ!だったのですが。。。
桜井氏の話を読んでいると、「あぁ、だったら僕は、ガンで死にたいなぁ」なんて、マジメに思ってしまうのですよ。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

いろいろ聞いてみると、自宅でぽっくりと心疾患で・・・、という最後がいちばん望ましく、それを「大往生」と思っている人が多い。
・・・・・・・・・・・・・・
ごくまれにそういった突然死、朝起きてこないので見に行ったら冷たくなっていた、というようなことがあるかもしれない。が、それは大往生ではなく、急死、突然死というもの。
意識を失って倒れている現場を発見された時点で救急搬送され、延命治療、点滴、挿管、気管切開、経管栄養と、ほとんどの人が嫌う「スパゲッティ状態」になってしまうというシナリオのほうが、ずっと現実に即している。
運よく(?)その場で死んでしまったとしても、ふだん医者にかかっていないで突然死した場合は警察の検視が必要になる。


・・・・・・・・・・・・・・
生まれてくるときと場所は自分で選べないけど、残された時間を過ごす場所を自分で決めることはできる。慣れ親しんだ家で自分らしく気ままに、ゆったりと生きて、そしてふわっと死んでいく。
こんな終わり方のほうが、ある日突然ぽっくり死ぬよりもいいのではないだろうか。実はこんな条件を満たしてくれるのが、がんによる最後なのだ。
意外に思われるかもしれないが、がん末期は在宅ケアに向いている。


☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

むむむ、確かに。 (^o^)
引用した部分は集約されたエッセンスのような文章なので、ぜひぜひ1冊まるごと読んでいただきたいな と思います。
お薦めです♪
こうやって死ねるのならば、ガンも悪くないな・・と思っていただけるのではないかと思います。

この本の文章には、桜井氏の人柄がきっとよく表れているんでしょう。
お医者さんがみんなこういうお医者さんだったらいいのに・・とも思います。
桜井氏のような「街のお医者さん」が近所にいたらいいなぁ・・。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

往生際こそまさに「終わりよければすべてよし」が理想とはいえ、現実はそううまくはいかない。それぞれの人生の終わり方は、それぞれが生きてきたようにさまざまな経過をたどる。
私たちは死に方にも美しさ、立派さ、いさぎよさを求めがちだが、運命がとんでもない死にざまを用意していることだってある。苦痛のない、安らかな最後であれば、「みんなちがってみんないい」のではないだろうか。

ありのままを受け入れることが大事で、「終わりあかんでも、まあええか、ようがんばったもんな」といった発想も必要だ。・・・・・
そんなおおらかな看取りを、地域でふわっと支援できればいい。


☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆


*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

午後遅く

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この記事へのコメント
アキラさん、こんばんは。思ったことを2つ。

まず、ひとつめ。『願望実現法』を思い起こしました。「言葉にして潜在意識へ入れ込んで、忘れる」というやつですね。

「大往生なんて、せんでもええやん」というのは、大往生という願望を忘れるためのテクニック、ではないでしょうけど、大往生への(心の)準備といった感じがしました。


ふたつめ。こちらはちょっとヒネクレてます(^_^;

>いろいろ聞いてみると、自宅でぽっくりと心疾患で・・・、という最後がいちばん望ましく、それを「大往生」と思っている人が多い。

これ、不思議です。腑に落ちない。私の感じからしますと「大往生」には2つ条件があって、それは

 1.苦痛を感じないこと
 2.死をゆったりと意識していること

この2つとも外せない条件のように思うんですけど、「ぽっくり」では2.が外れてしまうんですね。

私のイメージは、著者の医師のイメージに近いですよね。アキラさんもたぶん近い。が、著書によると広く共有されてはいないらしい。“ピンピン、コロリ”が「大往生」というか、「理想」とらしい。それに異議を唱えてもしかたがないことですが、私のイメージがスタンダードだと仮に考えると、。“ピンピン、コロリ”になってしまう理由を探ることになる。そうすると思い当たるのが医療の存在の「大きさ」です。

医療は、基本的には生き長らえるためのものです。しかし、今の医療はその範囲を超えているイメージがある。“死を支配している”というと語弊があるでしょうが、それに近いイメージはあると思うんです。ならば、死に際して医療を遠ざけたいという思いがあっても不自然ではない。それが「ぽっくり」へ行くのではないか。“ピンピン、コロリ”は、「医療不要」を象徴しているような気がします。
Posted by 愚樵 at 2011年01月11日 19:56
しかし、現実は「医療不要」とはいきませんよ――、これが医師である著者の仰っていることでしょうし、それは正しいことでもあるでしょう。そして、その現実を受け容れれば、つまり死に医療が介在するということを容認すれば、

>「あぁ、だったら僕は、ガンで死にたいなぁ」

ということになるのではないか。ということは、意地の悪い見方をすれば、この著書は「医療プロパガンダの書」ということになる。もちろん、読んでいませんから私の勝手な想像ですけど。

医療は必要です。医者要らずのアキラさんだって、医療を否定はされないでしょう。でも、必要だからといって、社会の隅々にまで医療が浸透してしまうのもどうかと私は思います。

「ガンで死ぬの“も”大往生」にしてくれる医療は、素晴らしいと思います。しかし「ガンで死ぬの“が”大往生」は、やはり変な感じがします。
Posted by 愚樵 at 2011年01月11日 20:13
母が発見時すでに末期のがんで逝きましたが、がんは悪くないですよw心の準備もできるし、会いたい人にも会っておけるし、70代だったせいか痛みは腰痛くらいで寝込んでからはもんどりうつようなこともなかった。
↓葬儀の経過はこんな様子
http://www.facebook.com/topic.php?uid=124253150961949&topic=72
(そのうち尊厳死なども扱っていきたいと思っているので、このファンページにもぜひ「いいね!」をヨロシクw)

だけど医療の側も、管理一辺倒の時代から、少しずつ、自宅で死ねるような方向へ動いているのも事実。
高度救命医療の現場で「救ったのに(結局長年の植物状態で意識戻らず)親族からは恨まれる」事例に遭遇した医師が、「救えればいい」「1秒でも長ければいい」という医療の常識のまちがいに気づき、24時間体制で患者の自宅を密に連動しながら「畳で死ねるための手伝い」をしているという話もありました。

他方、自宅で輸気・活元はするけど師匠が亡くなってから会とは無縁のワタクシ。
過度の処置は嫌だけれど、子どもの予防接種などは、特殊な家族と思われない程度にはやる(全部拒否ではなく)etc.と、“適度に”必要最低限でやってきました。
入れてしまった薬害はあとで自浄すればよいし、まぁ、老年になって持病あったら、サボリながら言われた期間の倍くらいあけて、死亡診断書書いてもらえる程度に通っておこうかな、と思ったりしてます。

こんなカンジで、整体協会員でなくなってしまってから(資格とる前、家計が苦しく年間5千円が払えなかった;;)どっちつかずな中庸を歩んでおりますw
Posted by Okei at 2011年01月11日 20:38
・愚樵さん

はい、潜在意識的な角度が変わる、それ、ありますよね。
「あぁ、死ぬならガンがいいなぁ」と言うのも、多分にそういうところがあります。
少なくとも僕自身については。
例えば、整体を学んでいる人たちの中には、いや、通常多くの人たちは「ガンで死にたくない」と どこかで思ってると感じるんです。
その「とらわれ」が、自分自身を含めて「イヤだなぁ」と思ってたんですね。

「大往生」、一般的なイメージとしては「ジタバタせずに(スゥッと)死ねること」くらいなんじゃないでしょうかね?
愚樵さんの仰るとおり、病院要らずで一生の最後までを送れたら一番いい、とたいがいの人が思っていると思います。
けれど、これまた仰るとおり、その裏側には「でも それってあり得ないよね」と素直に感じられてしまうくらい、病院要らずで生活していくのは難しいという実際問題がある。

医療自体が不要だという感覚ではなくて、「医療不要なわたし」でいられたらいいな・・という願望の現れのように感じます。
でもこれは、医療の存在が「大きい」からなのではなくて、生きている現実からすると「しょうがない」からなんじゃないでしょうか。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年01月12日 10:51
(つづき)

それから、「ガンで死ぬの“が”大往生」だとは、だぁれも言ってないのではないでしょうかね? (^o^)
桜井氏が「ガンになりましょう♪」と推奨してるわけでもないですし。
っていうか、大往生を推奨してるわけでもないですしね。 (^o^)×2
僕はこの本を「息静かに・・」の推奨だと感じました。

社会の隅々にまで医療が浸透することにしても、僕はよいのではないかと思います。
問題は、それを選択する権利が個々人にあるかどうか・・だと思う。
これは、医療の問題というよりは 政治(?)の問題ですよね?

ただ、なかなか難しいなぁと思うのは、その選択をしない人たちをも拾うという考慮も当然しなくてはならないわけですから、話がどんどんややこしく面倒くさくなってくるというところです。 (^_^;)

「医療による支配」については、政治の問題・・というよりは、僕自身はやはり「僕らの感性」の問題のように感じてますね。
ハシカやおたふく風邪、インフルエンザの予防接種などにも、同じ「におい」を感じます。

僕ら(今の日本人?)にはかなり潔癖性的な嗜好があって、自らを不安にさせるようなものを遠ざけるにあたっても、その潔癖性的な嗜好が機能して、けっこう徹底的に排除(差別を含む)してしまうように感じるからです。
除菌・抗菌なんかも、似た感性じゃないかなぁ。。。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年01月12日 10:52
・Okeiさん

こんにちは、初めまして。 ですよね?
でも、よく知ってる人ですね、どう考えても。 (^o^)

やっぱり、それなりの知識というか、情報がちゃんとあるかどうかというのは、大きいですね。
お世話になる・ならないは別にしても、そういうことを把握しておくことは大事だなと思いました。
リンク先のOkeiさんの葬儀の話も、その類いですよね。

在宅医療って、ホント、多くの人たちが24時間体制で密に連動しながら・・という話なんだな、と分かりました。
「効率」という観点から見ると、これは確かに効率が悪い。 (^_^;)
でも、病気だって死だって生活の一部なんですから、「効率」の問題ではないですよね。
元気なうちは、そこに気がつけない、気がつけないのかもしれない。

整体的ないき方(生き方ではない)についても、盲信・狂信は僕も反対です。
整体的には不必要な処置は、やらないで済むんだったら、そりゃそれにこしたことはないですけれど、生活というのはいろんな「兼ね合い」で動いてますから、そういう按配はあっていいと思います。

その「兼ね合い」含めて、変わっていくように動けたとしたら、それが一番の理想だとは思いますけどね。 (^o^)
たまに そういうことを実現する人があるんで、「スゴいなぁ」と感心してしまいます。
Posted by アキラ@Okeiさん at 2011年01月12日 11:12
ちょっと、遠くに住む祖母は、93まで病気らしい病気は何一つしてませんでした。

それでも、3回目の脳梗塞で、さすがに、寝たきり状態に。
でも、栄養が体に入っていくる限りは、死ぬに死ねない。
親戚一同、どうしてあげるのが、祖母に良いのか???
って、感じです。

かかりつけの町のお医者さんがいたので、唯一の栄養補給の管は、今月中に外すことが出来そうです。
自宅で、みんなに見守られながら、、、。
の最期を迎えさせてあげたいものです。
Posted by ロケットバナナ at 2011年01月12日 15:16
そうなんです。私は政治の問題として捉えたんです。

その捉え方は読み過ぎ、あるいは誤読かもしれません。少なくと桜井氏はそんな意図はなかったでしょうし、アキラさんもそうは読まなかったでしょう。それはわかっています。

でも、私は敢えてそう読んだ。なぜなら医師は権力者だからです。私たちの身体にメスをいれ、投薬することを許された者たちですから。そして権力者と捉えれば、政治の話と捉えても的外れではないはずです。

フーコーの「生権力」という言葉を思い出したりもしていました。

医師は常に権力者です。が、医師が常に善意の人とは限らない。桜井氏は善意の人だと思います。だから、善意による権力行使の仕方としてこの著作を記したのでしょう。そして善意から「ピンピンコロリ」に疑問を投げかけた。それはいいんです。

ただ、その善意の浸透は必然的に権力の浸透も伴う。そして権力者が常に善意の者とは限らないんです。だから

>問題は、それを選択する権利が個々人にあるかどうか・・だと思う。

ということになる。これ、政治の話ですよね?
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2011年01月13日 05:44
日本人の性癖ということでいいますと、私は日本人は、基本的には“権力嫌い”だと思っています。だから政治も嫌い。「ぽっくり」はその表れでしょう。(バラツキは大きいでしょうが)

「気がついたら(?)死んでいた」がいいなんて“権力好き”の欧米人からしたら信じられないかもしれません。



Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年01月13日 05:56
・ロケットバナナさん

おそらくおおかたの人が、「最後は自宅で・・」と思っているのではないかと思うのですが、その気持ちと裏腹に、おおかたの人が病院のベッドで亡くなっている。
これって、おかしなことだと思うんですよね。
どうにかなりそうなものなのに・・って。

確かに人力が相当かかる体制にならざるを得ないので、社会的なコストはどうしてもかかるわけですが、誰だってその「最後」を迎えるわけだから、もっとちゃんと考えてった方がいいと思いました。
その意味で、在宅医や訪問看護師、ホームヘルパーの方々の働きは、もっと見直されるべきなんじゃないかなぁ?とも。

お祖母さまは、自宅にいらっしゃるのですか?
安心できる場所で、親しいみんなに見守られながら、最後を迎えられるのなら、きっとそれが一番いいですよね。
Posted by アキラ@ロケットバナナさん at 2011年01月13日 10:00
・愚樵さん

はい、いわゆる政治の問題だと思うので、医療や医者に対して言ってもしょうがないんじゃないのかな?と思ってるんです、僕は。 (^_^;)

でも、「権力者と捉えれば、政治の話と捉えても的外れではないはずです」という意味での「権力」「政治」という使い方なのであれば、僕はそれは「政治」の話ではなくて「人間」の話だと思います。
もちろんカン違いしてる医者もたくさんいるのは事実だと思いますが、それを言ったら何も医者だけじゃない。
どの分野にだって、同じようにたくさんいるでしょう。
その最たるものが「親」だったりするでしょう?
医者や医療にだけ言ってもしょうがない話だと思います。
僕ら自身の話ですよね。

この意味での「権力」と仰りつつ、医者や医療に対してもの申すのであれば、では逆に、医者にはそういう「権力」を発揮しないようにしつつ仕事をしてもらいたい・・的な話になりますよね?
これがどのようにしたら実現可能かを考えなくちゃならない。

これが成り立つ唯一の道は、受ける側の「自ら決断することのできる 完全なる自立」しかないんじゃないか?と思うんですが、いかがでしょう。
僕は、これは理想だとは思います。
でも、理想でしかないと思います。
実際には、出来る人と出来ない人がいる。
出来ない人にそれを強いるのは、その人らしさを潰すことになると僕は感じてるんです。

あと、この「自立」は「つながっている」を含んでいる・・ということであれば、その「つながり」から贈られる示唆なりアドバイスなりが、決して「権力」の行使にはなっていない・・、というか、そこが微妙にいつでも「権力」にすり替わるという面を、きちんと削ぎ分けしていく必要が出てくると思います。
このことが、現実の瞬間瞬間の場面で出来るでしょうか?
僕は自分自身について、出来てない・出来ないと感じます。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年01月13日 10:20
祖母がもともと住んでいた家では、介護が難しいとのことで、親戚の家で過ごすことになりました。
病院ではないです。
親戚一同大変ではありますが、ちょっと、自分の事も家族の事もこれを機に考えよう。
と、思いましたねぇ。
Posted by ロケットバナナ at 2011年01月13日 13:18
・ロケットバナナさん

日々のお世話をする人たちは、大変になっちゃいますよね。
残る日々を、穏やかに平らかに過ごせることを祈っています。
Posted by アキラ@ロケットバナナさん at 2011年01月14日 09:11
がんで死ぬのは悪くないと、がんで亡くなった叔母も言ってました。独身で商売してたので、ちゃんと自分で片付けができて良かったワ、とのことでした。
父もがんでしたが、最後まで伴走しようという気持ちで付き添えました。がん末期の緩和ケアに優れた病院につながったのも良かったんですが。

私自身は自宅で最後を迎えたいと、そう強く思わないのですが(自宅がイヤとも思いませんが)、道で死んでもいいくらいに思ってるのですが、こうゆうのは少数派なんでしょうか。
看取りには手間ひまだけじゃない、ものすごい心を使わせるところがあるので、される立場になったら、有難いような済まないような気になりそうです。
父もあべこべに私の方を心配していました。

Posted by 青グリン at 2011年01月14日 12:40
こんにちは〜^^

名前が出ていてびっくり!(笑)
過去に何を書いたのだろうか?と、自分のところを読みに行きました。で、あの頃結論出せなかったことに今も出せていない。あー、むずかしい。w

「大往生」って皆がなんとなく良いイメージを持っているのでしょうね。私にもあるような気がする。「死に様」という言葉もありますが「変な死に方はしたくない」とか思ったりしませんか?
だけど変な死に方とはなんだろう?と考えると犯罪に巻き込まれての惨めな死体をさらすこととか。かな?

だけど死に方なんて選べないんだよね。天災に遭って発見に日時が掛かった場合とかは無残だが、本人の所為ではないし。。。
雪崩の遭難って腐敗は無かろうけど骨折はしてるかな?

結局私の場合は成り行き任せというかなるようにしかならないと思ってます。

知人で、奥さんに十数年前に先立たれ、それがきっかけかどうかは分からないがその後は鬱病に苦しんでいる。その彼は会うたびに「早く死にたいよ」というのだが、検診などは何故か人一倍根気に行なっている。
「矛盾してるように感じるが」と言ったら、「うん、自分でも分からないが、要はヘタレってことかも」と笑っていた。
ま、人間とは矛盾を抱えて生きているわけだから、そんなもんですよね、(お互い?)笑
Posted by ニケ at 2011年01月14日 13:45
追記

叔母は20年ほど前のことで、見込みのない状態である場合の告知が、今ほどされていない頃だったので、主治医がまだ若い先生だったこともあり、告知第一号だったそうで、先生のほうが緊張されてました。
叔母がこぼしていたのが、知人に死んだ時のためにこうしたいという話をすると、「そんな縁起でもない」とか「まだ死なないわよ」などと、話題を避ける&変に泣かれたりする、ちう事でした。
最近はそうでもなくなってきてると思うのですが、もしも自分ががんで末期になったら、病院であれ家であれ、死が近いことを見ないふりしたり、死ぬ前から泣いたりする人がそばにいたら困ると思います。
こうゆうのも性格でそれぞれだから、その人に合うようにする、してもらえる、って大きいですね。簡単じゃなさそうですけどね。
Posted by 青グリン at 2011年01月14日 15:23
・青グリンさん

叔母さまは、サバサバした方だったんでしょうかね。 (^o^)
父ちゃんは、やっぱ優しいシトですね。

>こうゆうのも性格でそれぞれだから、その人に合うようにする、してもらえる、って大きいですね。
<
そうそう、結局そういうところがミソだったりしますよね。
そういう意味では、やっぱり体癖の話などが役立ってくるんですよね。

誰もがサバサバしてるわけじゃないし、誰もがウジウジしてるわけでもなし。
普段サバサバしてる人でも、体力がなくなってくるとウジウジになって、サバサバふうがかえってこたえる・・みたいなこともありますしね。
むずかしいけど、大事なことだと思います。

僕も別に死ぬのは自宅じゃなくていいんですけど、やっぱり何となくでもいいから「そろそろだな」と分かって最後を迎えたいですねぇ。
身辺整理や最後のお別れの挨拶とか、したいですしね。 (^o^)
最近は でも、死ぬことを想像すると「まだ死にたくない!」って思います。
理由は分からんですが。。。

ね・・ばっかだな。 (^_^;)
Posted by アキラ@青グリンさん at 2011年01月14日 21:23
・ニケさん

こんにちは。
いずれ目に触れるであろうと思って、お知らせもせず放置しておりました。
失礼しました。 (^o^)
むずかしい問題ですよねぇ。。。

確かに「変な死に方はしたくない」って思いますが、やっぱりこればっかりはどうなるか分かりませんもんね。
どんな死に方をしても「アキラらしいよね」って言ってもらえるように、日頃からヘンなこととかミョーなこととかも、しっかりやっておく必要があると認識するに至りました!
(・・って そっち方向かよ! みたいな) (^o^)

その知人の方は、正直な方ですねぇ♪
その素直な「ヘタレ具合」がいいなぁ・・と思いました。 (^o^)
お互い「しょーもない」程度がいいですね。
Posted by アキラ@ニケさん at 2011年01月14日 21:36
他の方々のコメントとその応答を見ていると、なんだが話を続けづらい感じがしますが...

>医者や医療にだけ言ってもしょうがない話だと思います。
>僕ら自身の話ですよね。

そうです。私たち自身の話です。「人間」たちの話、社会の話です。


話はちょっと変わりますが、アキラさんはおいしい料理は好きですか? まあ、好きですよね、誰だって。食べ物のおいしさにはいろいろな種類がありますが、ご馳走といえば肉でしょうか(古い?)。高級な肉ほど脂が美味しい。ただ動物の脂は食べ過ぎには注意が必要ですよね。身体の「サビ」を増やしやすい。

「生きていく」ことは「変化していく」こと。私は、それは個々人の身体でも人間の社会でも同じだと思ってます。そして、だんだんと「サビ」が溜まっていくことも。

『大往生なんか、せんでもええやん!』は、脂たっぷりの美味しいお肉料理」なんです。美味だがヘルシーとは言いがたい。個々人にとっては美味しいが、社会のレベルでみると「サビ」を増進させかねない。

しかし、だからとって「サビ」を悪だとするつもりはありませんよ。「サビ」るのもまた自然なことですから。また美味しい料理を作るコックさんを非難するつもりもない。コックさんは誠実に仕事をしているのですし、それは立派な仕事です。

でも、やっぱり「サビ」はいろいろな不都合を生み出す。“歳をとれば「サビ」るんだから、仕方がない”というのもひとつの態度です。が、それは私の生き方ではないし、アキラさんの生き方でもないと思います。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年01月15日 05:48
・愚樵さん

個々人の体でも人間の社会でも「変化していく」ものならば、「サビ」が生じるのもまた必然ですね。
その「サビ」に対してどうするのか?の差なんでしょうね。

愚樵さんの話を聞いていると、やはり「サビ」を排除したいニュアンスを感じます。
必然的に生じるものなのに。

僕自身は、その「サビ」とどう付き合うか?という問題意識なんですよね。
「避ける」「排除する」などは、その中の選択肢の1つだという認識ですが、それにこだわるわけでもない。
いい加減なところがあるんです。(^_^;)

「美味いのかどうか」「美味いと思えるかどうか」を問題にしてる、と言ってもいいのかもしれません。
「何を食べるか」は、さほど問題ではない。
「不味いもの」の中にどう美味さを見つけるか・・という面もありますかね。(^o^)

ただ、そういう中で、「食べたいものを食べる」は基本ですから、それが選べるというところはこだわりたいところです。
ですから、そうなると「政治マター」。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年01月15日 10:42
いや〜、面白い(^o^)

こうやって「対話」をしていると互いの立ち位置がよく見えてくるような気がします。

>愚樵さんの話を聞いていると、やはり「サビ」を排除したいニュアンスを感じます。

ええ、ええ、そうです。私は「サビ」を排除したい(苦笑)。そこが私のスタートラインです。

いえ、スタートラインは違うな。最初は「サビ」を「病」だと見ていてそれを「治療」しなきゃならんと思っていた。

でも、今は同じ対象を「サビ」だと見るようになっています。だから

>その「サビ」とどう付き合うか?という問題意識

も当然ながら持ち始めています。と同時に、私自身が今の社会のなかで「サビ」に他ならない、という意識も持つようになっている。まあ、それは半分は自ら望んでそうなったんですけどね。望んで「サビ」になったという部分と、やっぱり“「サビ」は「サビ」”というところとがせめぎ合っている。それが今の私のポジションでしょうね。


念頭のエントリーで、私は「静」ではいられないとコメントしました。それもやっぱり自身を「サビ」と位置づけるところから来ているんだと思います。「サビ」が広がりすぎた社会のなかで、自らを「サビ」と任じつつ「静」になってしまったら「変化していく」ことができなくなっていってしまう。

とはいうものの、「サビ」に対して過敏になっているきらいはあるようです。そういうことも「対話」を通じてみえてくるように思います。

ありがたいことです。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年01月15日 13:20
念頭のエントリー ×

年頭のエントリー ○

です(汗)
Posted by 愚樵@訂正 at 2011年01月15日 13:21
難しいっぽいお話をはさんですんません。

>叔母さまは、サバサバした方だったんでしょうかね。 (^o^)

いや、のん気な人でした。他の叔母たちからは、行き当たりばったりの困り者扱いなところがありました。姪の私が見ても子供っぽい、可愛いとこある叔母でした。
最後で意外としゃきっとして見えたのは、独り者だったからっていうのが大きかったかも。
私もそうだけど、最近独り者の友人の家で、私たちもっとトシとったら協力しあおうね、などと話してたところだったのです。
おだやかな自宅での最後というより、腐乱して発見されるなど、はた迷惑なことにもなりかねませんからね。(^o^)自分はそれでもいいですが、片付ける誰かのことを思うとイヤだろうなと思いますね。(^o^)

>でも、死ぬことを想像すると「まだ死にたくない!」って思います。
理由は分からんですが。。。

あはは、理由は、まだ死にたくないからやと思いますた。私は死ぬときのことは想像つかないのですが、弱ってから他人の世話を受けることは少し想像してしまいます。想像しただけでしんどいです。


Posted by 青グリン at 2011年01月16日 00:08
・愚樵さん

はい、似たような意見を持っているので、どこがどう違って、それはどうしてか?が見えてきやすいですよね。
それに、何よりも自分で気がつかなかった面が浮き上がってくる感じがあるので、僕も「対話」は楽しいです。
どう転がっていくか分からない楽しさもありますし。(^o^)


>私自身が今の社会のなかで「サビ」に他ならない、という意識
<
これは僕も持ってるので、分かる気がします。
同じニュアンスかどうかは分かりませんが。

僕自身は、「自分自身がサビにほかならない」ということを、充分にしっかりと見つめられることが「静」なんだろうと思ってます。

「静」というのは、「動」の一瞬手前だと思うんですね。
いつでも 次の瞬間動き出せる状態。
そのような「静」であるためには、全感覚を開いて なおかつ力みが抜けた状態でないと、多分成り立たない。

だから、僕の持ってる「静」のイメージは、凪いでしまう、停止してしまうイメージとは ちょっと違うんです。(^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年01月16日 09:54
・青グリンさん

>行き当たりばったりの困り者扱いなところがありました。
<
なはは、いさぎのよい方ですね。(^_^;)

映画『おくりびと』の中で、そういうふうに死んでいる人のシーンがありましたよね。
確かに、そういうのはちょっと申し訳ないです。

僕は、弱ってから他人の世話を受けることは、想像してみても、それほどいたたまれなくはならないですね。
やがて元気になる人のことしか、見たことがないからかなぁ。
下の世話とか、したことないですしね。

長いこと看病や介護をしてらっしゃる方々には、本当に頭が下がります。
Posted by アキラ@青グリンさん at 2011年01月16日 09:55