2011年07月23日

僕ら自身の体に対しての、まっとうなイメージを持とう 前編

夏の朝


よく「野口整体での盲腸の操法(愉氣)をやると、放射性物質は排毒されるんですか?」と、訊かれることがあります。

答えは「分からない」なんですけどね。 (^_^;)

僕らが操法(愉氣)しながら観ているのは、別に放射性物質の流れではないですから、それがちゃんと排泄されているのかどうかは分かりません。
というか、そもそも それってどうやったら分かるんでしょうかね?
ホールボディカウンターとかを使って、厳密に前後の値の比較をしていくような実験を積み重ねなければ、ちゃんと排泄されているかどうかは分からないんじゃないでしょうか。

そういう、どっちにしたって分からないことを心配している、これは何なんだろう?と思うわけです。
そんなことを心配しているより、やるべきことがあるのに。
それで、ふと気がついたのは、僕ら自身の「体」とか「いのちの働き」というものに対するイメージや実感が、そもそもちょっとヘンテコになってるんじゃなのかな?ということです。

人間の体というものが、何か「しっかりとあるもの」と思い込んではいないでしょうか。
そこに何かが「取り込まれる」と、そこから出て行かなくなってしまうのでは?と心配してるんじゃないでしょうか。
人間の体というのは、残念ながら、実はそんなにしっかりしたものではないんです。

昔から遊びにきてくださっている方々には周知の事実でしょうけれど、以前に福岡伸一氏の「動的平衡」のお話を話題にしたことがあります。
僕にとっても目からウロコで、へぇ〜、人間の体ってスゴい!!と感動したものです。
この人間の体についての科学的な事実、そのイメージがあるかないかで、僕ら自身の「体」や「いのちの働き」についての実感が、ずいぶん違うんではないでしょうかね。

詳しくは、この「壊せ、さらば築かれん」シリーズを読んでいただくとして、ここでは福岡先生ご自身の文章を、長くなりますが引用しておきましょう。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくなまく通り過ぎていったのである。
しかも、通り過ぎたという表現は正確ではない。
なぜなら、そこには物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物
(身体)と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。
つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。

私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。
しかし、置き換わっているものは何も表層だけではないのである。
身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけでなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらも、その内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。

入れ替わっているのはタンパク質だけではない。貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえもダイナミックな「流れ」の中にあった。

・・・・・・・・・・・・・
それまでは、脂肪組織は余分のエネルギーを貯蔵する倉庫であると見なされていた。大量の仕入れがあったときはそこに蓄え、不足すれば搬出する、と。
同位体実験の結果はまったく違っていた。

貯蔵庫の外で、需要と供給のバランスがとれているときでも、内部の在庫品は運び出され、一方で新しい品物を運び入れる。
脂肪組織は驚くべき速さで、その中身を入れ替えながら、見かけ上、ためている風をよそおっているのだ。
すべての原子は生命体の中を流れ、通り抜けているのである。

・・・・・・・・・・・・・

よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。
かつてあなたの一部であった原子や分子は、もうすでにあなたの内部には存在しない。

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。
しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。
私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。
しかも、それは高速で入れ替わっている。

この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。


福岡伸一 著『生物と無生物とのあいだ』より

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

後編へ続きます



野口整体に関する記事は「光るナス@らくらく塾」に、だんだんとりまとめ中。

*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

昼下がり

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この記事へのコメント
恒常性の背後に流動性が支えている。
生命の働きの二重性、複層性なのかなー

数ヶ月で体内の物質が入れ替わるのなら
大抵の病気も数ヶ月以内で治ってしまうのが
本来普通なのではないかと
素人考えで思えてしまうのです。
病気を長く続けられる方が
むしろ不思議なのかもしれない?
どうして長患いが出来るのかが
解き明かされたらこりゃスゴイこと
だろうと妄想するのですけど。(笑)
Posted by 風 at 2011年07月23日 22:56
・アキラさん

後編がどのように展開するのかはわかりませんが。

>すべての原子は生命体の中を流れ、通り抜けているのである。

これは文学的な表現だと私は受け止めます。実際は全てではない。生体濃縮という現象だってあるわけですし。

さらに。ご存知だろうと思いますが、天然放射性核種と人口放射線核種の生体内での振る舞いの違いについて説明した動画を。

http://www.youtube.com/watch?v=IV4N63urYjQ&feature=player_embedded

Posted by 愚樵 at 2011年07月24日 04:44
・風さん

恒常性と流動性、本当に不思議ですし、面白いですよね。

>数ヶ月で体内の物質が入れ替わるのなら
大抵の病気も数ヶ月以内で治ってしまうのが
本来普通なのではないかと
素人考えで思えてしまうのです。
<
僕もそれが面白いと思います。
僕らが「病気」と読んでいるような諸症状は、ですから原子レベルの話で決まっているわけではないということですよね。
この関係性にとても興味があります。

変わり続けているのに、変わらない側面がある。
野口先生が観てらしたのは、その側面だったと思うんですね。
それをそうさせている「何か」ですね。
Posted by アキラ@風さん at 2011年07月24日 09:08
・愚樵さん

動画の紹介、ありがとうございました。

そうですか、僕は事実なんだろうと思いますよ。
福岡先生も著作の中で述べていますが、「再利用」ということも体はやっているようなので、その意味で体内に留まっているものはあると思いますけれど。

生体濃縮、例えば濃縮されて卵や乳に移行する、という話がありますね。
あれは「排泄」ですよね。
だからこそ逆に、母体は気をつけたいわけですし。
また、脂肪細胞の例もあるように、蓄積されているものも入れ替わり続けるわけです。
こういうことを知ると、例えば原爆の被曝のあと、海藻をよく食べている人たちは障害を起こしにくかったみたいな話なども、さもありなんと思うんですね。

このへんを抜きにして考えると、常なる確率論的な話の「大丈夫だった側」の理由に迫れない。
今 必要なのは、そちらでしょう。
100人が100人ともガンになるなら、それはしょうがない話ですよ。
でも、(まだ)なぜだか分からないけど、そういう話にはなってない。

僕は「再利用」率が高くなることが、まずは問題になるんだろうと思っています。
それは、その原子を使い続けなければならない、何らかの「変わらなさ」とセットになってるんだろうと思うんですね。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年07月24日 09:33
・アキラさん

何らかの「変わらなさ」。はい、そのことはよく分かります。後編の

>「流れ」が滞りなく流れ続けている状態、それが「生きている」ということです。

というのもよくわかります。そこは、私自身も、自然のなかで生きるなかで実感していることですし。

身体はどんどん入れ替わってゆく。メンタルな部分も含めて、調子を上げてやるほどに順調に入れ替わってゆく。仰ることはよくわかります。

ですが紹介した動画の話は、そういった身体の調子とは別の規準で「変わらなさ」が決定されているという話です。すなわち、人工放射線核種を人間の身体は濁りとは認識しない。だから排泄しない。それは長い年月をかけての適応の結果、そうなったという話ですよね。

ここは、分けて考えなければならないと私は思います。「大丈夫だった側」の理由も同じでしょう。

私たちが現在直面している事態は、身体が識っている排泄規準では計れない危険物を蔓延させてしまったということであり、これこそが利便性を追求するなかで犯してしまった我々の「罪」です。頭脳の身体に対する「罪」といっていいかもしれない。

だから、なおのこと、私たちは私たち自身の身体と真摯に向き合わなければならない。「罪」を背負って、です。

本当に「すべて」が事実なら、私もその方が嬉しい。自分たちの犯した「罪」を軽減する方法があるということですから。でも、本当にそうなのか。私たちの身体が培ってきた知恵をひっくり返してしまうような大罪を私たちは犯してしまったのではないだろうか。そんな心配をしているわけです。

もっとも、心配したからといってどうなるわけでもなく、アキラさんが提示なさっているような方法を実践していく以外にはないのですけれども。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年07月24日 16:48
・愚樵さん

僕からすると、捉え方がちょっと違うように思いますね。
一応 人間の体だけに限定してしまいますが、別に体は原子レベルでのものを「濁り」として認識するから排泄する、というわけではないと思いますよ、元々。
必要がないから出ていくだけでしょう。
「物理学的半減期」とは別に、「生物学的半減期」なるものがあるのはなぜでしょう。
排泄しないのであれば、「物理学的半減期」だけでいいんじゃないでしょうかね。

人工放射性核種というのは「出ない」ものなんでしょうか?
ではなぜ、乳に混ざったりしているのでしょう。
なぜ、髪の毛を保存しておいた方がいい・・とか、言われるのでしょう。
なぜ、「生物学的半減期」なるものがあるのでしょう。

「濁り」だから排泄する・・と聞こえてしまうようなその捉え方が、僕はちょっと何か違うんじゃないかなという気がします。
皆さんがパニくる原因の一因にも、そういう面があるようにも思うんですけどね。

また、必要があって排泄する・・というのは、このようなこととは少し別のこととして(もうちょっと大きな次元というか)、行われているように思います。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年07月24日 18:21
(つづき)

愚樵さんが「罪」という言葉を使って仰りたいことは分かるつもりです。
だけど、それとこれとはちょっと別だろうとも思います。
というか、重なる部分の話はもちろんあるわけですが、イコールの話ではないだろう。
そんなニュアンスでしょうか。

そもそも僕は「大人は全員 加害者だ」派ですから (^_^;)、愚樵さんの仰りたいことは分かります。
何をどの程度被曝しているのかも、何がどの程度出ていっているのかも、実際のところ、個々人のレベルで言えば分からないわけです。
こののち何十年か経てば、多少は分かるようになるのかもしれませんが、「今」に間に合う話ではありません。
自分の体から出ていくとしても、その物質の「威力」がなくなるわけでもなく、また巡り巡って入ってくる可能性は非常に大・・なのですから、どっちにしたって「罪」は軽減しません。

その意味で、僕は「現在直面している事態が起こり得ることを容認してきたのは、ほかの誰でもない、私(たち)自身なのだ」という認識を持てるかどうかは、大事なことだと思っています。
そこから始めて考えていかないと、結局また同じようなことを繰り返すだけでしょうから。

けれど、この認識、とってもキリスト教的なんですよ。 (^o^)
愚樵さんが『「罪」を背負いつつ、私たち自身の身体と真摯に向き合わなければならない」と仰るのが、僕はとても興味深いです。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年07月24日 18:22
・アキラさん、さっそくのお返事、ありがとうございます。

えっと。具体的にいいますと、私の念頭にあるのはストロンチウム90なんです。これは、物理的半減期は29年ですが、生物学的半減期は50年と言われている。生物学的の方が長いんです。なぜ、こんなことになるかというと、身体がそのように適応したからでしょう、と。

ストロンチウム90は、身体から出ないことはないだろうけれども、セシウムのようには出ないでしょう。セシウムは生物学的半減期は100日ですから。このストロンチウムとセシウムの違いを乗り越えることはできるのか? 希望は失いたくないが、事実は見詰めないわけにはいきません...。

>そもそも僕は「大人は全員 加害者だ」派ですから (^_^;)、

私だって基本的には同じですよ。ただ、日本人の場合、全員加害者論は安易な総懺悔になった過去がありますから。キリスト教基盤の哲学がやったようにキチンと整理できるならいいんですが。

>愚樵さんが『「罪」を背負いつつ、

どう見たって、私たちは「罪」を犯したと言わざるをえないじゃないですか。民族的、いや、人類的トラウマですよ。自身の存立基盤を穢した。でもそれは、残念ながら見えない者には見えない。この構図は、旧約と新約の対立構図と似通って見えてしまうんです。

私たちは、せめて、自らの「罪」の大きさを見定めるくらいのことはしなければならない。大きすぎても、小さすぎてもダメです。それが出来ないと、身体に対する頭脳の「罪」は贖えない。出来たからといって贖えるとは限りませんが、曲がりなりにも頭脳を持つ存在としての責務でしょう。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年07月24日 20:36
・愚樵さん

うむむ、愚樵さんは「術」が使えませんね。 (^_^;)
まぁ、いいんですが。

ストロンチウム(90)の「事実」という意味では、僕は以下の記事を参考にしています。
もうご存じかもしれませんが。
http://nayaminosoudan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-802d.html

このへんもなかなか科学的な知見がないようなので、確実に言えるようなことも少ないかと思うのですが、野口整体的に言えば、まさに胸椎七番左一側の系統の問題にダイレクトなので(すみません、共有できない話で)、そのへんを追っかけていくしかないのかな・・と思っています。


>どう見たって、私たちは「罪」を犯したと言わざるをえないじゃないですか。
<
そうですね、まったく同感です。本当に。
そんな僕らは、子どもたちに何をしてあげられるのでしょう。
それを考えます。
福島の状況を見ていると、やっぱり移住できる人は移住した方がいいようにも思いますし、それが出来ない人たちは、では何をしてあげられるのか。
あっけらかんと呑気に構えることができなくなったことだけは、まごうことなき事実ですね。

そうして、核のゴミ、これを今以上に増やさないこと、その努力は何としてもやっておかなければなりません。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年07月24日 21:46
・アキラさん

申し訳ありません、しつこくて。でも、上のコメント、誤魔化されたようで納得いきません。

確かに私は「術」は使えません。でも、それは私だけではないんですよね。多くの人がそうだろうし、子どもは尚更でしょう。だからこそ、「術」を振りかざす振る舞いには警戒感を持ちます。

ご紹介の記事は読みました。知りませんでした。なるほど、ストロンチウムはカルシウムに比べて吸収率は低いという話。ここは納得です。

ですが、ここから導かれるのは予防の方法でしかないような気がします。体内に吸収されたストロンチウム90をうまく排出する方法を、あの記事の記述から導くことができるとは私には思えません。そして、今回の一連の記事におけるアキラさんの出発点はどのように予防しても、もはや内部
被曝は防げないというところだったはずです。そこから、被害者意識の弊害、「流れる」身体のイメージというところへ繋がる。ならば、ストロンチウムは予防で、では話のスジが通らない。

共有できない「胸椎七番左一側の系統」あたりの「術」というのは、骨に蓄積されたストロンチウムの排出を促すような「術」なのでしょうか?

こんなふうに論理を組み立ててしまうのは、私の「術」のなさなのかもしれません。そうならそれに越したことはありません。「術」を体得するのは容易でないにせよ、何ができるのか知っておきたいものです。

Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年07月25日 04:45
・愚樵さん

僕が「術」と言っているのは、ここでの振る舞いのことです。 (^_^;)
内部被曝うんぬんについて行う、何らかの技術とかノウハウのことではありません。
・・・ということは置いといて。

愚樵さんは何かカン違いをされているようでしょうがないのですが、大前提に戻りましょう。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
よく「野口整体での盲腸の操法(愉氣)をやると、放射性物質は排毒されるんですか?」と、訊かれることがあります。
答えは「分からない」なんですけどね。 (^_^;)
僕らが操法(愉氣)しながら観ているのは、別に放射性物質の流れではないですから、それがちゃんと排泄されているのかどうかは分かりません。
というか、そもそも それってどうやったら分かるんでしょうかね?
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
です。

記事内でも言及していますが、予防することは大事なことだと思っています。
けれど、完全にシャットアウトすることも不可能だろう、とも思っています。
ですから「内部被曝は絶対にする」という前提に立ってしまって、そこからの話を考えた方がよいだろうというのが、僕の立ち位置です。

そうして、入ってしまっているかもしれない放射性物質をどうやったら排出できるのかというような目的を、僕は一切持っていません。
つまり、「排出できる」方にも「排出できない」方にも立たない、ということです。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年07月25日 09:44
例えば内部被曝をしているとして、それによって体がジワジワと疲弊してくれば、必ず肝臓を中心とする系統にはくたびれた状態が続くはずです。
そうして、その状況がうまく解消されれば、またしっかり対応していける活力がキープできるということでしょう。

また、放射性物質がその疲弊を起こさせているとすれば、胸椎七番左一側には必ず異常が出てくるはずです。
そうして、その状況がうまく解消されれば、放射性物質が排出されたかされてないかは分かりませんが、またしっかり対応していける活力がキープできるということです。

ですから、そこだけでいいから、体自体に起こってくるそのような変化に留意しつつ、変化を感じるのであれば、やるべきことをやっていきましょう、という話です。
そもそも実際の生活の中では、内部被曝をしているのか・していないのか、放射性物質が排出されたのか・されてないのか、いずれにしたって分からないわけですから、体の状態をもって、自分の体がちゃんと働けているかどうかの手がかりとしましょう、という話です。
実際にやってみても初めてづくしではピンと来ないことも多いので、それについては「出来ること」会をやりますよ、と。

僕が提示しているのは、「排出できますよ、その方法がありますよ」ということではなくて、被曝してるかしてないか分からないので、してるという前提に立ってしまって、それに対応し続ける活力がちゃんと働けるようにしておきましょう、その活力をキープしましょう、その活力をできることなら増やしていきましょう、というためのものです。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年07月25日 09:45
・アキラさん

なるほど、わかりました。私はどこかで「排出できる・できない」と誤読してしまったというわけですね。その理由もわかりますよ。簡単です。「排出したいから」です。ここに立ってアキラさんのこの記事を読むと「排出できますよ」と言っているように読めてしまいます。私の他にもたぶん、そのように読む者は多いと思いますよ。

私が食い下がった理由は、「排出できますよ」と読めてしまったことへの違和感です。そこで「全てではないでしょう」という問い方をしてしまったのですが、この問いの立て方がおかしかったのでしょう。アキラさんの立ち位置からなら「全て」と答えるでしょうね。でも、私の立ち位置からだと「全て」はウソに見えてしまう。

まあ、なんていうか、〈術〉っていうのは難しいです。〈術〉を使えるようになるにはキチンと〈術〉の「前提」に立たなきゃいかんわけですが、そこが難しい。アタマではわかっても腑に落ちるところまでは簡単にはいきません。

このやりとりで、改めて実感しました。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年07月26日 04:58
・愚樵さん

愚樵さんの仰っていることは分かります。
僕なりにイメージしてることはあるんですが、それも単なる個人的なイメージなんで、裏がとれるわけでもないですし。

事実としてはまだ分からないわけです。
もっともっと時間が経てば分かることなのかもしれませんが、いずれにしてもちゃんと分かっていない時点で、テキトーなことを言うのは、「排出できる」にしても「排出できない」にしても、僕は好かんのです。

これについては専門分野の人たちが努力をするしかないわけで、一般の僕らがいくらそれを「どうだろう?」と考えたり、いろいろやってみたって、結局ハッキリはしません。
そこへ時間とエネルギーを使っても徒労に終わるだけで、不安や心配がどうかなるわけでもない。
ましてや子どもたちの「今」が、どうかなるわけでもない。
それよりは、今がきちんとしていくようなことへ、労力を使っていくべきなんじゃないかと僕は思うんですね。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年07月26日 08:54