2011年10月20日

    

野口先生の時代背景 その1 〜 人々の中にある傾向の違い 〜

物思い


これからシリーズとしてアップしてみる文章は、もう5年も前に書いたものです。
岡島先生を偲び 懐かしみながら、僕ら整体を学び続けている者たちが、今のこの状況の中を明日へ向けてどうしていったらいいのかを、少し考えてみようと思います。

この文章のそもそもの終わり方というものがあったわけですが、放射性物質がこれだけまき散らされてしまった今となっては、状況がずいぶんと違うものとなってしまっています。
そこを含めて、最後の部分をもう一度考えていかなければならないのですが、自分の中では全然まとまってません。 (^_^;)

というわけで、もしかしたらどこにも着地しないかもしれないのですが、まぁお時間のあるときにお付き合いください。


うちの師匠が、以前こういう感じのことを仰って、嘆かれていたことがあります。
健康法を教えているつもりは毛頭ないのに、気がついてみると、いつのまにか健康オタクの集まりみたいになっている
人の体を観るときの一つの切り口としてセオリーを教えていたつもりなのに、それをマニュアルとしてしか受けとってくれないし、マニュアルとして使っている人がほとんどだ

“ああすればこうなるんですか?”といった質問ばかりで困る。
 “こういう場合は、どこをどうすればいいんですか?”と聞くけれども、どうしたものかを感じるのが整体であって、“こうすればああなる”といったハウツーなどないんだ


野口整体は、確かに「治すためのマニュアル」ではなく、人を観ていくときの「切り口」を提供しているものだと思います。
うちの師匠も「切り口」のつもりで講義をしてらっしゃいましたけれども、それがいつの間にやら受けとる側の方で「マニュアル」になっていってしまう。

それでも岡島先生は、それが教わった人にとってとりあえずマニュアルであってもいいと、思ってらっしゃったのではないかと思うんです。
実際の「今」というときにそのマニュアル通りにやってみて、「マニュアルには当てはまらないなぁ」と分かってくれればそれでいい、と思ってらっしゃったのではないか。

ところが学ぶ側の少なからぬ人たちが、現実はマニュアルになんか当てはまらないということを感じとることもなく、とにもかくにもマニュアル通りにやっていたりするので、先生はヤんなっちゃってんだと思うんですね。
あるいは、「教わった通りにやったんですが、変化しませんでした。どうしてでしょう?」というような質問を僕らが気楽にしてしまうから、やれやれと思ってらしたんだろうと感じます。

どうしてか?は自分自身でよくよく感じ考えることだと、僕などは思うからです。
なぜ、こんなすれ違いが起こってしまうのでしょう。
人々の中にある傾向の違いがそうさせるんじゃないのかな?、当時 僕はそう感じました。

普通、自分の人生を考えるとき、人は「幸せになるにはどうしたらいいのかしら?」と考えるんじゃないでしょうか。
そして幸せになるために、「こうしたらいいよ」をいろいろと探します。

そうやって、自分のやっている仕事が認められることだったり、糧に困らず暮らしていけることだったり、
家族や友だちと仲よく暮らしていけること、明るく楽しく健康に暮らしていけること、
そういう人生の幸せを追い求めます。
そのためにつらいこともいろいろとあるけれども、頑張るし、苦労もする。
そういうものですよね。

ところが面白いことに、それでは全然幸せになれない人たちが一部にはいるわけですよね。
その人たちは、「そもそもここはどこ? わたしは誰? わたしが生きてることにどんな意味があるの?」とか考えてしまいます。
「幸せになるには・・」どころじゃない、「そう思ってるわたしはそもそも・・」なんて考えちゃうのですから、もうその時点でかなり「不幸な」人たちです。

仕事が認められ、糧に困らず、家族や友だちと仲よく暮らせても、明るく楽しく健康に暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかにもだえ苦しんでしまう。
幸せになれるわけないですね、そんなんじゃ。
でも、そういう人たちもいる。

世の中には、大雑把に仕分けると、こういう2つの傾向の人間がいると思うわけです。
僕の敬愛する社会学者の宮台真司氏は、これを「内在系」と「超越系」と呼んでいます。
そういうレイヤー(積層)もある。

「内在系」の人は、世の中にこういうふうに位置しているとわたしは幸せだと、自足できる人です。
一方「超越系」の人は、世の中にどう位置どりしても自足できません。
そういう世の中やわたし自身を成り立たせている「背景」を、求めないではいられない。

 〜 つづく 〜


*シリーズの前後はこちらからどうぞ



*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

虫の声

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この記事へのコメント
こんにちは。

>僕の敬愛する社会学者の宮台真司氏は、これを「内在系」と「超越系」と呼んでいます。

う〜ん、そこいらが私が宮台氏に違和感を持つところでして。

「内在系」vs「超越系」という分類はいいんです。でも、その区分は所与ではない。先天的なものではないと思うんです。もちろん、各々の人に「傾向」はあるでしょうが。

それともうひとつ。これは「内在」「超越」という言葉の使い方にも現れていますが、

 「超越系」→超越神が背景

という前提がある。そして

 「超越系」>「内在系」

なんですね。すくなくとも宮台氏にとっては。言説の端々からそうした「序列」が滲み出る。でも、超越神を背景にしない「超越系」もあるんです。もともと日本人は、そうした「超越系」が多い土地柄なんです。西行や芭蕉はどう見ても「超越系」ですが、超越神なんて背景にしていません。

宮台氏にはどうもそこいらが見えていないように感じる。だから、欧州発の「超越系超越」から派生した「超越系内在」が――俗にいうグローバリズムですが、世界をどのように蚕食していったのかが見えていないように思うんですね。今頃になって、資本主義と民主主義は共存できないかもなんて言い出している。
Posted by 愚樵 at 2011年10月20日 12:41
(続き)

...というような不満を書き出せばきりがないので止めておきます。自分のところでやるか、アキラさんの続きを見てから、コメントすることにします(笑)

あいや、もうすでにフライングかな。でも、上のコメントは書き込んでしまったし。そうだったらすみません m(_ _)m

Posted by 愚樵 at 2011年10月20日 12:56
・愚樵さん

すみません、愚樵さんのところ、全然読み進めなくて。。。
ようやく昨日「女と男のガラパゴス」まで読んだところです。

「超越系」については、あとで少し出てくることではあるんですが。 (^_^;)

宮台氏も、愚樵さんが仰るように、超越神を背景にしない「超越系」もあるということを前提にしているんですよ。
「超越系」という自らの括りについて、2つの様態が考えられるようなことを言っています。
一つは、〈世界〉の外に唯一絶対神的な超越神を設定せざるを得ない人たち。
「世界はその“神”の意志によって動かされている」ということで、自分が生きている意味を納得する。
宮台氏的に言うと、「世界はこうなる運命にあり、その中で君はこういう宿命や使命がある」というあたりで納得できる人たち。

もう一つは、そのような「超越神」など持ち出さずに「ありとあらゆることの全体」に開かれる人たち。
宮台氏的に言うと、「世界がそう見えるのは、君がこういう体験枠組みを持つからで、枠組みを変えれば世界は別様に現れる」というあたりで納得できる人たち。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月20日 22:12
(つづき)

ですから僕は、「超越」系というときに、〈社会〉の外(背景)を想ってしまうという「超越」もあれば、〈世界〉の外(背景)を想ってしまう「超越」もあるんだと理解しているんです。
だから、多分おんなじものを読んでいても、愚樵さんのような違和感や「序列」は全然感じないんですよね。 (^_^;)

確かに愚樵さんが仰るように、こうハッキリと区分けはできませんよね、そもそも。
一人の人間の中に「内在系」「超越系」がある割合をもって、ないまぜになってることがほどんどでしょうから。
あるいは、「なんちゃって超越系」みたいな「もどき」も多いように僕には感じられますから、あまり簡単に切り分けできる話ではないと思っています。

ちなみに宮台さん自身は、後者の「ありとあらゆることの全体」に開かれる超越系ですね。
また、「超越系」的な方向性に想像力の働かない内在系の人たちを、よしとしていないところはあるでしょうね。
それは僕も同じです。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年10月20日 22:13
おはようございます。やっぱりこちらで反論(?)させてもらうことにします(^_^;

>一つは、〈世界〉の外に唯一絶対神的な超越神を設定せざるを得ない人たち

>もう一つは、そのような「超越神」など持ち出さずに「ありとあらゆることの全体」に開かれる人たち。

う〜ん、どちらも「超越系超越」ではないのでしょうか?

(この回答は私の最初の問いかけである「超越神を背景」だったことへの回答としては十分ですが)

「超越系超越」があるなら「内在系超越」もあります。そういった人は、日常の(社会ではありません)のごく狭い範囲のなかから「超越」を見出す人々です。

私自身はこういった人を実際に多く知っているわけです。そしてこの「内在系超越」は、

>「超越系」的な方向性に想像力の働かない内在系の人たち

というふうに見ていたのでは見えないことなんですね。ナイーブにしか見えない。

「世界はこうなる運命にあり、その中で君はこういう宿命や使命がある」

には当然納得しないし、かといって

、「世界がそう見えるのは、君がこういう体験枠組みを持つからで、枠組みを変えれば世界は別様に現れる」

に納得するほど「脳力」は高くない。けど、キチンと自分の「分」を弁えていて、そこに根を生やして動かない。

こういった人々は「想像力」ではないんです。広がらない。けれども掘り下げる。自己探求ですね。その結果、個人主義的になる。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年10月21日 06:17
>ちなみに宮台さん自身は、後者の「ありとあらゆることの全体」に開かれる超越系ですね

それは認めます。でも、本当に「ありとあらゆる」であるならば「内在系超越」も「超越系超越」と同等に評価出来ていなければならないはずです。

確かに、現実としては、「内在系超越」はグローバル資本主義とも西欧的民主主義とも適合しない。「超越」とはいっても弱い超越ではある。

でも、「強い/弱い」また、枠組みが変われば変わるはず。現実も、現実を現実たらしめている「枠組み」の問題です。そこいらについては宮台氏の議論は十分に納得いくものです。そえゆえにかえって、「内在系超越」への視点のなさが特オチのように私には感じられて、違和感が生じるんです。

まあ、でも、私は宮台氏の論説の隅々まで目を通しているわけではないので、「内在系超越」についての議論もあるのかもしれませんが、もともと「内在系超越」についての言説は非常にマイナーなんですよね。内山節氏がその筆頭と私は思っていますけど。
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年10月21日 06:29
もうひとり。ジブリの宮崎駿氏。
Posted by 愚樵@アキラさん3 at 2011年10月21日 06:33
・愚樵さん

う〜ん、形容詞ってむずかしいです。 (^_^;)
すみません、こちらの表記の問題がありました。
申し訳ないです。
〜「超越系」的な方向性に想像力の働かない内在系の人たち 〜と書いたのは、
正しくは「“超越系”的な方向性に想像力の働かない」内在系の人たちとでも表現すべき言葉でした。
つまり僕の中には、内在系の人たちの中にも「超越系」的な方向性に想像力の働く人たちと、そういう想像力が働かない人たちがいるという認識があります。

愚樵さんが仰っている「内在系超越」というのは、僕が言うところでは「“超越系”的な方向性に想像力の働く」内在系の人たちに当たるのかな?と思います。

どうなんでしょうね?
「超越」と言う場合には、その問題にしていることと自分との関係性について、その間に決定的な断絶、徹底的な不連続、越えられない深いミゾのようなものがあるという話ですよね。
それをどのようにして受け入れていくか・・という作法について、付随して出てくる言葉だと僕は思っています。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月21日 11:24
(つづき)

愚樵さんの仰る「内在系超越」ということがどういうことを指しているのか僕はよく理解できないのですが、「内在系超越」の人たちには、どのような「決定的な断絶」があるのでしょうか?
というか、どのような人たちのことを「内在系超越」と呼んでいるのでしょうか。
そしてそれは、「ありとあらゆることの全体」に開かれるタイプの超越系と、どのように違うんでしょうか?
ちょっと問題意識を僕自身が共有できてない気がするので、お時間があるときによろしくお願いします。

宮台さんがどうなのかは、ちょっと横に置いときます。
親しく訊ける間柄でもないですし、彼の研究者でもないので、引用を引っ張ってきて説明することもできませんので。

ただ、面白い観点だという気もします。
というのも、宮台さんはアニメオタク、ゲームオタクですから、そのへんをどう思ってらっしゃるのか、興味があるっちゃぁ興味があります。 (^o^)
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年10月21日 11:24
この論考の行方が
楽しみです。
小生も少しかじった
野口整体について
知識の羅列かマニュアル
としてしか扱えてないなと
恥ずかしながら思います。
野口先生にとっては
元よりそんなものでは
なかったのでしょう
それと宮台氏には
不案内なもので
「内在系=ムラビト」
「超越系=マレビト」
みたいな理解で
いいのでしょうか?
雑な類推ですけど
Posted by 風 at 2011年10月21日 17:38
・風さん

ありがとうございます。
最後のところを今 考え中なのですが、自分自身にもすごくヒントになるような思考にまとまりつつあります。 (^o^)

野口整体という分野が「幻の・・」みたいな扱いになっているようですが、マニュアル的なものとして捉えてほしくなくて、このブログでは「野口先生語録」というカテゴリーを作ったんです。
あまりウェブ上では野口先生の資料の引用というのは見かけないので、どこかから怒られるかな?と思ったのですが、大丈夫なようです。 (^_^;)
まぁ どう考えたって、真っ当なことを伝えているという自負はありますから。

超越系・内在系については、宮台氏のことは考えなくてけっこうですよ。 (^o^)
ここに記事として載せる説明から(今後もう少々)、何となくイメージしてもらえれば、それで十分です。
ムラビト・マレビトというよりは、もっと一般的な誰にでもあるような傾向を大きく2つに仕分けしてる感じです。
Posted by アキラ@風さん at 2011年10月21日 22:37
野口先生の立処は

十代の頃から殆ど

ブレていないでしょう

人間を制度の奴隷に

してきた近代にとって

根源的な批判者は

結局いいように

世の裏側に押しやられたと

思うのですが…

それにこれからどう

反撃できるのでしょうか
Posted by 風 at 2011年10月22日 00:21
・アキラさん

最近、アニオタになりつつある愚樵ですが...σ(^o^; まあ、それはいいとして。

では、とりあえず宮台氏のことは脇に置いて、ゼロベースから対話を仕切り直すということでよろしいでしょうか?

そうなると、まず、そもそも「超越」とはなんぞや? というところからはじめることになると考えます。

私が「超越」を定義するとすれば、そうですね、

>自己が「端的なもの」に対峙したときに交換可能であることを自覚すること<

でしょうか。「端的なもの」とは(脇に置くといいましたが)宮台氏が『サイファ!』で使用していた言い方ですね。交換可能とは、要するに「死んでしまう」ということですが、「端的なもの」と対峙できれば、絶対的であるはずの「死」が相対的に認識することが可能になる。絶対的絶対が相対的絶対に転移すること。これが「超越」だと。

まずは、このあたりでいかがでしょうか?

Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年10月22日 08:08
・風さん

う〜ん、風さん、いいとこ突いてますねぇ。 (^o^)
そうそう、そうとも見えるその状況を、ちょっとよく観てみようと思ったのが、この文章を過去に書いたきっかけだったんです。
すごい盛り上がりはないかもしれませんが、ちょっと楽しみにしていてください。

ちなみに、僕は反撃する必要はない、というか、必要もないという理解になりました。
野口整体の時代での立ち位置を、自分なりに少し理解することができたように思ったので、そこを一つちゃんとこれからもわきまえておこうと感じた次第です。
Posted by アキラ@風さん at 2011年10月22日 08:29
・愚樵さん

なるほど。
そうなると、(僕とは)そもそも「超越」の意味自体が違いますね。
僕は、先のコメントに書いた「他者」(理解不能なもの、端的なもの)との間に決定的な断絶、越えられない深いミゾのようなものがあるという感覚に絡んでくるものが「超越」だと理解しています。

言ってみれば、自分自身を超越するわけではない、この「関係性の断絶」と感覚できる「超越」を受け入れる、というような意味合いでしょうか。

ですから、「内在」はあくまで内在であり連続性があり、内在の中での超越はあり得ないわけです。
内在の中での話なんですから。

確かに「交換可能」であることを自覚すること(相対性を獲得すること)であれば、「内在」の中でも可能だと思います。
けれど、それは僕の使い方ではないんです。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月22日 08:40
・アキラさん

ああ、いえ、私としては「断絶」を踏まえた上での定義だったつもりなんですが。

決定的な断絶、超えられない深いミゾというのは、端的にいえば「死」――では、いけないんでしょうか?

それでいいとなれば、「断絶」を受容することというのは、「死」を「端的なもの」を背景に受容するということになるわけですが。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年10月22日 09:21
・愚樵さん

>決定的な断絶、超えられない深いミゾというのは、端的にいえば「死」――では、いけないんでしょうか?
<
う〜ん、これは違うんじゃないでしょうか。
「死」は誰にだって訪れるものですし、その意味ではすべからく平等です。
そういう意味では、そもそも理解可能じゃないですか。

誰にでも分かる「理(ことわり)」であって、「端的なもの」とは言えないですよね。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月22日 09:32
このエントリーを読んだ限りでですが、
わたしゃ もろ超越系にあてはまっちゃいます。
でも、不幸だとは思ってないんだけれども。。
とにかく、このシリーズ、どう続くのかがかなり楽しみです!

Posted by ゆめ at 2011年10月23日 03:43
・アキラさん

「死」は誰にでも訪れるという理解は、内在系の理解でしょう。超越系ならば、そのような理解で満足できないはず。超越系の人間には、そうした「客観的」理解は、「死」と対峙することから目を背けているようにしか思えないはずです。

この「死」への理解の深さの違いこそ、超越系と内在系の間に横たわる「深いミゾ」の典型では?
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年10月23日 04:03
・ゆめさん

うん、ゆめさんは超越系っぽいですね。 (^o^)
超越系・内在系の話は、直接話のゴールには関係しません。
けれど、いろいろな立場から「それ」を見てるんだということがあるから、たまにもどかしさややりきれなさを感じる瞬間があるんだというところを、前提として踏まえておいてほしかったので、出してみました。(当時ね)
Posted by アキラ@ゆめさん at 2011年10月23日 08:01
・愚樵さん

そういう理解って、頭脳的なものなんじゃないですかね。
あるいは、〈世界〉の外を想ってしまうタイプの「超越系」の話なのでは?

「死」のどのへんが、理解不能な理不尽さなのですか?
〈世界〉的には当たり前の話でしょう?
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月23日 08:02
・愚樵さん

今、あちらのコメント欄も見てきましたが、なんかやっぱり僕の使ってる「超越」「内在」と、愚樵さんの使ってるそれとは違うものを指してる気がしますねぇ。

「死は誰にでも訪れる“理(ことわり)”である」ということが腑に落ちない人が、僕は「内在系」だと思うんです。
〈世界〉に開かれないから。
あるいはさっき言ったように、〈世界〉の外を想ってしまうタイプの「超越系」か。
〈世界〉では満足できないから。
うん、両方にあり得ますね。

例えば、キリスト教的な「永遠に生きる」、仏教的な「永遠に死ぬ(解脱)」など、これは〈世界〉の外を嗜好しますね。
そのへんのところでは、愚樵さんの仰る「納得のいかなさ」は分かります。

その〈世界〉的には当たり前の「死」の中に、どうにもこうにも腑に落ちない(誰かの)死ってことが起こっちゃう・・という理解不能の理不尽さってのは、ありますよね。
あるいは、「この状況で死ななきゃならない自分の死」ってのも“あり”ですか。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月23日 08:28
・愚樵さん

連投、すみません。 (^_^;)
わー、なんかこうやって対話から気づきが起こってくるこの感じって、久々の気がします。

考えていて、「折り合い」のつけ方の差のような気がしてきました。
〈世界〉の全体がどうなっているかをキチッと把握できないわけですから、そこから起こってくるような「理解不能な理不尽さ」というのは誰にもおなじくありますよね。

その「理解不能な理不尽さ」に対して、
「人間社会」の内で「折り合い」をつけようとする人、
(頭脳的にではなく、腑に落とすときに)
〈社会〉の内で「折り合い」をつけようとする人、
〈世界〉の内で「折り合い」をつけようとする人、
それでも腑に落ちなくて、〈世界〉の外を想う人。

そういう差のような気がしてきましたよ。
Posted by アキラ@愚樵さん・三たび at 2011年10月23日 09:00
・アキラさん

う〜ん、私にはアキラさんが頭脳的に思えてならないんですが(^_^;

まず、〈世界〉の外ってなんですか? そこがよくわかりません。言葉ではいえますが、想像がつきません。

〈世界〉というのは、「超越」も含めて〈世界〉なのではないのですか? 「超越」を含めた〈世界〉の外ということは、超「超越」ということになって、無限退行するだけとしか思えません。

>「死は誰にでも訪れる“理(ことわり)”である」ということが腑に落ちない人が、僕は「内在系」だと思うんです。

はい。その通りです。ですから「客観的」理解とは異なると申し上げています。「死」は誰にでも訪れるということは、超越系・内在系もふくめて、ある程度の年齢以上の者ならば誰でも知っています。ですから単に「死は平等」では超越/内在を線引きするラインにはならないと申し上げているのです。
Posted by 愚樵@アキラさん at 2011年10月23日 10:59
・アキラさん

もう少し考えたのですが、アキラさんは、〈社会〉を超えることを「超越」と考えておられるのかな? それが「〈世界〉に開かれる」ということの意味ですか?

「〈世界〉に開かれる」というのは、私の理解では、「〈世界〉は超えられない」です。でも、「私」は死ぬ。だから、交換可能という最初の話にもどるわけですが。
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年10月23日 11:13
・愚樵さん

えっと、まずは前提を確認がてら出しておきます。
〈世界〉とはありとあらゆることの全体、そしてその中の一部として〈社会〉がある。
〈社会〉とはコミュニケーションが可能なものの全体、です。
その中の そのまた一部として「人間社会」がある。
ですからこの把握においては、「人間社会」<〈社会〉<〈世界〉 としています。

そもそも「超越」なる設定をするというのは、〈世界〉の外を想定せざるを得ない人たちがいるからでしょう?
本来は、ですから〈世界〉を超越するから「超越」なんです。
〈世界〉を創造した存在があると認識することは、〈世界〉に外があるという認識でしょう。

これを実感できる人がいるということが僕にはスゴいことだと思えるのですけれど、例えば 唯一絶対神を信仰できるということは、この感性があるということです。

唯一絶対神は〈世界〉外存在です。
愚樵さんが「〈世界〉は超えられない」としか思えなくても(僕もそうですが)、そこを超えられる想像・実感をする人たちがいるってことで。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月23日 11:47
言ってみれば、「超越系」の中に、〈社会〉を超える超越系と、〈世界〉を超える超越系とあるということです。
ですから僕からすると、そもそも「死」と一般に括ってしまうような出し方?が、超越/内在を線引きするラインにはならないという話になりますね。
個々の死に「理」と感じるもの、「理不尽」と感じるものがあるわけでしょう?

で、「〈世界〉に開かれる」というのは、僕の理解でも「〈世界〉は超えられない」です。
だから当然「私」は死ぬ、また 生きる・・になります。 (^_^;)

もう少し言うと、「〈世界〉に開かれる」というのは、「受け入れる」という範囲が〈社会〉は超える、でも〈世界〉は超えられない(〈世界〉を超える想像はできない)、です。

こうなると、愚樵さんが想っている〈世界〉が何を示しているのかが、逆に僕には分からなくなりました。 (^_^;)
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年10月23日 11:47
・アキラさん

私が聞きたかったのは、「ありとあらゆるもの」の中に「〈世界〉の外」という想定・実感も入るのか? ということです。「ありとあらゆるもの」なのですから、入ってもおかしくはないですよね? そして、具体的に「〈世界〉の外」を想像してしまうと、それは実感としては、もはや「〈世界〉の内」ではないですか。

そこいらをはっきりさせておかないと、「世界の〈外〉を想う」の意味が確定しないのです。

で、「〈世界〉の外」に居るのは超越神か、あるいは無だとすると、「世界の〈外〉を想う」ということは、絶対的な信仰か、もしくは絶対的な絶望ということになる。まあ、こうした推論も、どうにも“頭脳的”な感は否めないわけですがね。

「超越」が単に頭脳的なものではなく、何らかの実感を伴うものになるには、頭脳的なところから(宮台氏のいう)「再帰」をしてこなければならない。そこで初めて「〈世界〉は超えられない」ということになるわけです。

この理解はよろしいですか?
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2011年10月23日 16:19
さらに。

>言ってみれば、「超越系」の中に、〈社会〉を超える超越系と、〈世界〉を超える超越系とあるということです。

なるほど。ということは、コミュニケーションが可能な相対である〈社会〉は超えるが〈世界〉は超えない、〈世界〉内在系の「超越」がある、ということですよね? 

(ちなみに「死」というのは、それが理不尽であろうがなかろうが、個人にとってはあらゆるコミュニケーションの終了を意味しますから〈社会〉の終わりを意味することになります。)

これこそが私が言いたかった「内在系超越」ですが、とはいっても、必ずしも「ありとあらゆることの全体」に開かれるタイプとは限らない。全体ではなくて、〈世界〉のごく一部を「端的なもの」と想定することによって、「超越」していくというタイプもありうる、ということ。自然崇拝、日本の八百万の神というのはこの形態です
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年10月23日 16:52
ここから一気にいきます。

そしてです。ここが重要なところですが、私たちが“自然崇拝”や“八百万の神”といったような呼称でまとめてしまえるのは、「全体性への志向」を予め備えてしまっているからです。これは私たちが、学校教育等の近代教育を施されたことによって刷り込まれたものなんです。もともと西欧やアラブの知識体系は絶対神へ収斂するように組み上げられていますが、西欧は近代に入って、神は抜け落ちた。しかし一点へ収斂しようとする「全体性」は保持された。神の脱落と「全体性」保持が相まって普遍性が高まったわけですよね。

この「近代」からの刷り込みに気がつかないと、暗黙のうちに「超越」もまた「全体性」を前提としてしまう。しかし、「超越」にとって全体性は必須条件ではない。全体性がなくても「超越」可能なんですね。

私が宮台氏の「特オチ」というのは、そのことなんです。つまり、最上位に「ありとあらゆる」系があるのはいいとしても、そこへ至る経路としては、絶対神を前提とした(あるいはしていた)全体性からの「再帰」のルートと、〈世界〉個別内在系が知識の体系化によって積み上がっていくルートの2つが想定されるはずなんです。
Posted by 愚樵@アキラさん3 at 2011年10月23日 16:53
・愚樵さん

>「ありとあらゆるもの」の中に「〈世界〉の外」という想定・実感も入るのか?
<
入ると思います。

>そして、具体的に「〈世界〉の外」を想像してしまうと、それは実感としては、もはや「〈世界〉の内」ではないですか。
<
もちろんそうでしょうね。
実感している本人は〈世界〉内存在ですから。

>コミュニケーションが可能な相対である〈社会〉は超えるが〈世界〉は超えない、〈世界〉内在系の「超越」がある、ということですよね?
<
そういうことになります。
〈世界〉自体が、どっちにしても把握不可能ですから。

>(ちなみに「死」というのは、それが理不尽であろうがなかろうが、個人にとってはあらゆるコミュニケーションの終了を意味しますから〈社会〉の終わりを意味することになります。)
<
僕はこれの意味が分からないんです。
〈世界〉的には終了しているのかどうか、分からないですよね?
もしかしたら〈社会〉的にも終了しているのかどうか、分からないと僕は思います。
自我レベルでは確かに「終了」でしょうけれど。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月23日 17:34
それから僕は、〈世界〉を「端的なもの」とは思ってないんです。
「どうにもこうにも理解不能な事柄」、そういうものが「端的なもの」と呼ばれるものだと認識していて、それは でも〈社会〉にも含まれないところの〈世界〉に属するものなんだろうという認識です。
多少のコミュニケーション可能そうなものはこれには入ってません。
それは〈社会〉にも属する何かだと認識していて、自然崇拝、日本の八百万の神などは、この〈社会〉的認識なのだろうと僕自身は想ってます。


>全体性がなくても「超越」可能なんですね。
<
これはそう思います。
全体性と言っても、全体性を把握することは不可能ですから。

で、絶対神を前提とした全体性の感性がある以上、そこを考慮から外すことは出来ないと思いますから、僕自身はあまり問題を感じてないんですけどね。
なんか紛糾するのがおかしいですね、僕の把握のしかたの何が問題なんだろう?

《「ありとあらゆる」系へ至る経路としては、絶対神を前提とした(あるいはしていた)全体性からの「再帰」のルート》
これが〈世界〉を超える超越系で、

《〈世界〉個別内在系が知識の体系化によって積み上がっていくルート》
これが〈社会〉を超える超越系だというように思えるのですが、違うんですか?
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年10月23日 17:34
はじめまして島高というものです(._.)いつも面白く覗かせてもらってます。

私は宮台信司というひとを知らないのですが、

<「幸せになるには・・」じゃない、「そう思ってるわたしはそもそも・・」

のあたりで、メタな思考に向かってしまう人は超越系なのかなと、思いました。
内在系とか超越系とか、そういうことを考える人がいるんだなあと感慨しました。
なんか、ずれたレスですいません。
このシリーズの行方を楽しみにしています。
Posted by 島高 at 2011年10月23日 19:19
・島高さん

こんにちは、初めまして。
遊びにきてくださっているとのこと、ありがとうございます。

コメント欄で愚樵さんとやりとりしながら、僕は宮台氏の言ってることを正しく把握してないかも?と思ったりしてます。 (^_^;)
けれど、こうやって類別して見せてくれる人がいると、混沌としたものが少し分かりやすくなったりしていいですよね。

以前書いたものに加筆していっているので、だんだん昔のものとは違うものになってきてる気がしますが、ともかく楽しみにしていてください。
よろしくお願いします。
Posted by アキラ@島高さん at 2011年10月23日 21:32
・アキラさん、おはようございます。昨日から引き続き(^o^)

どうも、〈社会〉と〈世界〉の区切りが明確でないような感じがします。それと、問題にしているのは、個人が超越系なのか内在系なのかということですよね。ここも曖昧になっているような気がします。

まず、〈社会〉というのはコミュニケーション可能なものの総体と定義されています。で、コミュニケーションが成立するには、「私」と「他者」が必要不可欠です。「死」は「私」が消滅することですから、ここでコミュニケーションは終了でゆえに〈社会〉も終了。ここで、

>もしかしたら〈社会〉的にも終了しているのかどうか、分からないと僕は思います。

という疑問を差し挟むのは、問題を個人のレベルから別のところへ移してしまうことになります。そりゃ、「私」に死とは関わりなく他者同士のコミュニケーションは存在しているでしょう。でも、死後の私はそれらとコミュニケーションできないんです。できるかもと「想定」することは可能ですが、可能性までをコミュニケーションにいれてしまうと妙なことになる。その例が

>自然崇拝、日本の八百万の神などは、この〈社会〉的認識なのだろう

で、自然崇拝や八百万の神が〈社会〉的だとするならば、コミュニケーション可能だということになる。でも、これは「想定」に過ぎません。

というのも、これらのコミュニケーションが可能だとするならば、〈世界〉の外に居るはずの超越神とも可能だとしなければおかしいからです。このふたつの区別は付けようがない。そして、超越神とコミュニケーション可能とするならば、超越神も〈社会〉的存在ということになってしまって、もう議論はめちゃくちゃ。ですよね?
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2011年10月24日 04:57
(続き)

ですから、ここでいうコミュニケーションは近代的な常識でもって可能とするものに限定していなければ話は混乱するばかりです。だってそもそもこの〈社会〉〈世界〉の定義は、近代的知識体系の枠組みのなかでなされたものでしょう。

でも、自然や八百万の神を〈社会〉に入れてしまう感性は、実は面白いんです。その感性は、私も共有しています。私の宮台氏へ違和感は、そこを土台にしているといってもいい。

つまりです。もともとの私たちの感性には〈社会〉とか〈世界〉とかいった区別はないんです。それは〈自然〉という枠の中で解け合ってしまっている。しかももともと私たちは「自然」という概念すら持ち合わせていなかったのです。これは、全体性を志向する西洋からの輸入です。

ですから、私のいう〈世界〉内在系というのは、正しくは〈自然〉内在系なんです。それを、宮台氏が導入した〈社会〉〈世界〉という概念に合わせている。

「山川草木悉皆成仏」などと感じてしまう日本人には、コミュニケーション不可能という「想定」すらなかった。いえ、これは日本人だけではない。プリミティブな者たちは、みんなそうのなずです。もちろん、これは近代以前のコミュニケーション概念に基づいてのことですが。
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年10月24日 05:09
さらに。

>全体性と言っても、全体性を把握することは不可能ですから。

いえ、私がいっているのは、こうした謂いそのものが全体性を前提にしているということなんです。

自然という全体概念が存在しなかった時代には、たとえばある古木を理解したとすると、それで自然を理解したことなってしまう。「全体性を把握することなど不可能」というような考えは思い浮かばないのです。

別の例で言いますと、子どもがいう「みんな」です。お母さんに欲しいものをおねだりするときに、「みんなもってるから」という。○○ちゃん、××ちゃん、△△ちゃんがもってる。お母さんが□□ちゃんは、と聞くと持っていない。でも、子どもは嘘をついたわけではない。○○、××、△△で「みんな」なんです。□□を入れると別の「みんな」になる。大人は「みんな」をひとつだと前提しているからこどもの「みんな」を否定してしまいますが、子どもの前提に立つことだって可能ななず。

もちろん、「大人の前提」とは「近代性」です。

要するにです。宮台氏は、近代性を前提として近代性を超越している。だから「近代」という枠組みについて卓越して話すことができる。その点は私も評価しています。

が、一方で、近代性を前提としない「超越」については抜けてしまっている。ゆえに、近代性を前提としないところに対しても卓越した視点から近代性を適用しようとしてしまう。

>《〈世界〉個別内在系が知識の体系化によって積み上がっていくルート》
これが〈社会〉を超える超越系だというように思える

ええ、そう申し上げています。でも、その点についての評価および言及を宮台氏がしているのか、ということです。
Posted by 愚樵@アキラさん3 at 2011年10月24日 05:48
(長くなりました...)

これは単に私が見落としているだけかもしれませんが、今まで私はこの点について氏に言及に接したことがありません。もし、氏が全体性が前提の「再帰ルート」と同様に「積み上げルート」も評価しているのなら、日本社会の在り方を提言する際に、「積み上げルート」についての言及もなけばおかしいはずなんです。私は再三、氏の「提言」には触れますが、「積み上げルート」について聞き及ばない。となれば「積み上げルート」は落としているとみるのが正しいだろうということになります。

でも、これは大きな問題を孕んでいます。なぜなら、その「積み上げルート」こそが日本人の「超越ルート」だったからです。

このルートの特徴は、「子ども」ほど「超越」に近いということなんです。大人が身につけてしまう下手な知恵は、むしろ「超越」を遠ざける。でも、宮台氏をはじめとする西欧型の「超越人」が求めるのは、大人型の「再帰ルート」です。ここにミスマッチが生じてしまう。

かつて日本は内在的に「子どもの国」でした。このことは多くの異邦人が指摘するところです。そして人々は子どもの型で「超越」していたんです。すなわちマッチしていた。今の日本は内在的にはどう見ても「大人の国」です。が、超越的にはいまだ「こども」です。ミスマッチなんです。

Posted by 愚樵@アキラさん4 at 2011年10月24日 05:58
・愚樵さん

ちょっと脱力してしまいました。 (^_^;)
僕がここで提示しようとしてることを理解するために、いろいろツッコんでくれているものだとばかり思ってました。
ずっと宮台氏の方を向いてたんですね。

宮台氏自身がこの区切りについて、あるいはそれに付随するいろいろなことについて、どのように考え(あるいはすでに発言し)ているのかは、僕には分かりません。
「で、宮台さん、どうなんですか、そのへんのところは?」と訊くしかなさそうに思えるからです。
だから、愚樵さんの宮台さん批判はその通りなのだろうと思います。

僕自身は、彼の「超越系」「内在系」話を「分かる!」と思って読んでしまっているし、おそらくそれを僕なりに捉えてしまったものをここで紹介しようとしてる恰好になってしまっているんでしょう。
ですから、それが近代的知識体系の枠組み的にどうなのか?とか、実際 彼がほかにどのようなことを言っているのかとか、そういう分析をしたいわけではないので、それについては「ふぅ〜ん」としか応えられません。
ごめんなさい。

ただ彼の出したキーワードを、僕が我田引水的に使っちゃってるだけなんですね、多分。
そこを自分でちゃんと認識しておくべきでした。
「宮台さんはそういうことを思ってるんだろう」と、勝手に思っちゃってました。

以下、そのへんのこととは一切関係なくお答えしますけど、それは宮台氏がどのように分析しているのかを答えているのではなくて、僕自身が想っていることを説明するための答えです。
ですから、言葉の定義とかは近代的知識体系の枠組み的にはメチャクチャだと思いますけど、すみません、そこは一つよろしくお願いして読み流してください。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月24日 09:35
>どうも、〈社会〉と〈世界〉の区切りが明確でないような感じがします。
<
はい、そうだと僕も感じます。
元々の現実の状況がそのようなものだと思いますし、実際のところでこの区切りをつけるのは、おそらく常に個人目線になってしまうだろうからです。

また、問題にしているのは、個人が超越系なのか内在系なのかですけれど、愚樵さんの仰るような話には僕の中ではどうしてもならないので、やっぱり仰ることがよく分かりません。
個人が死んだら、では超越系・内在系も消滅して終了ってことですか?
だとすると、すべての論が全部それと同じ理由で終了、ですよね。

コミュニケーションが成立するには「私」と「他者」が必要不可欠ですが、「私」が死んでも、その相方だった「他者」はほかの存在を見つけてコミュニケーションするんじゃないかと思うので、〈社会〉が終了するというのがよく分からない。
その個人としては終わるかもしれませんが(終わらないかもしれない)。

このへんも、実存レベルを含めてすべて「想定」ですよね?
「想定」をするべきでない?という話ですか?
僕がここでやってるのは、すべて「想定」ですよ。 (^_^;)


>これらのコミュニケーションが可能だとするならば、〈世界〉の外に居るはずの超越神とも可能だとしなければおかしいからです。このふたつの区別は付けようがない。
<
そうなんです、旧約聖書内では実際にコミュニケーションしてますしね。 (^_^;)
でも〈世界〉を創造した唯一絶対神だということですから、〈世界〉の外に在るんだなという「想定」になってるわけです。
Posted by アキラ@愚樵さん2 at 2011年10月24日 09:36
実際にコミュニケーションできたのかどうか、僕には疑問です。
でも、したとしましょう。
そのコミュニケーションは、はたして本当に唯一絶対神とのコミュニケーションだったのかも、これまたはなはだ疑問です。
これは、巷で言うところの霊と話をするとか何とかいう話もすべて同様ですね。
そもそも区切りがつけようがないんです。
ホントに世界を創造したかどうかだって、分かんないんですよ。 (^_^;)
コミュニケーションできたとしても、ウソつかれてるかもしれないし。

そうなると、その人が「そのように区切った」というところを「ふぅ〜ん」と言うしかない。
けれど、区切り(名前)の方は共有できますよね。
実際にそれが何を名指すのかは、実は非常にあいまいなんです、そもそも。
〈世界〉〈社会〉うんぬんは、そこをすべてそういう「想定」だとして話すしかない問題だと思うんですけど。
そう、思い出した!、蠱惑的なんです。 (^o^)

そもそも伝えたかった現実自体が、最初っから混沌としているわけでしょう。
そこへ「想定」を持ち込んで、少しでもイメージしやすいようにしてみようという話なんです。
宮台氏がそういうつもりで論じているかどうかは、僕には分かりません。


>もともとの私たちの感性には〈社会〉とか〈世界〉とかいった区別はないんです。
 ・・・・・・・・・
 しかももともと私たちは「自然」という概念すら持ち合わせていなかったのです。これは、全体性を志向する西洋からの輸入です。
<
はい、僕もそう思います。
近代以前のコミュニケーション概念に基づいちゃいかんのですか?
概念というか・・・やっぱり「想定」かなぁ。
Posted by アキラ@愚樵さん3 at 2011年10月24日 09:38
>たとえばある古木を理解したとすると、それで自然を理解したことなってしまう。
<
これだけだと「内在系」なんです。(ここでは)
ここに「理解することによる連続性」があるとすると、これは「内在系」なんです。
少なくとも僕にとっては。
超越じゃない。

「全体性を把握することなど不可能」というような考えは、超越系的指向だとも思います。
何らかの理解によって自分と連続性が生まれることで、その連続性の感覚をもってすべてが納得できる感じの人たちを「内在系」とここでは呼んでいるつもりです。
基本的に、人は皆そのような理解の努力をすると思うんです。
つまり、「分かる」を得る努力です。

そういう連続性を生む理解をしようとしても、それでもどうにもこうにも理解できない理不尽な出来事は、でも起こりますし、それはやっぱりどうにもこうにも理解できない。
この「理解不能な理不尽さ」を、何かのせいにしてしまわないで、「分からない」という分かり方で受け入れる感じの人たちを「超越系」と呼んでるんです。
決定的な断絶を、その不連続性の感覚を持ちつつ納得できる、と言ってもいいかもしれません。

やっぱり「超越」の意味が違いますね。
(僕的に)内在・超越を分けるのは、この連続感・不連続感(断絶)です。

ですからですね、内在系の「キリスト教徒」だって当然たくさんいると思うんですよ。 (^o^)
自分がそう思ってないだけで。
真っ当なキリスト者にとっては、神が一番理解不能な存在なんですから。 (^_^;)
そういう神を信じられるって、スゴいことだと思います。
僕にはムリです。。。
Posted by アキラ@愚樵さん4 at 2011年10月24日 09:38
・アキラさん

あいや、こちらこそすみません。

でも、話の波長がやっと揃う方向へ向かいそうですね。

>ずっと宮台氏の方を向いてたんですね。

いやいや、そうじゃないんですよ。最後は勢い余って宮台批判になってしまいましたけど、はじめからではないんです。

今、ここの議論はすっごく抽象的な話じゃないですか。で、話をしているうちにだんだんと互いに「想定」していることが食い違ってきていることが明らかになってきた。で、そのベースラインを揃えるために、宮台氏の方へ向かざるを得なくなった。超越/内在は、宮台氏の述語だしアキラさんもそう明言しているわけですから、そこへ向かうのが自然じゃないですか。

その宮台氏ですが、氏は明らかに近代主義者です。マル激のどこでだったかは忘れましたが、「〈社会〉が上手く回らないのは近代が徹底していない所為だ」といったような発言をしていた。その理はそれでスジは通っているんですけど、アンチ近代主義者の私からすれば、そこはどうしても違和感なんですよね。

実は私は不思議に思っていたんです。なぜ、アキラさんが宮台氏にシンパシーを感じるのか。駄目なわけではないが、アキラさんが師事している野口晴哉というお方は、どう見ても近代主義者ではなさそう。となると、アキラさんのなかで近代主義と非近代的(であろう)野口整体とがどのように折り合っているのか、疑問だったわけです。

私の見立てに反して、実は野口整体と近代主義とは親和性が高いのか?
あるいは、アキラさんは野口整体を近代主義に沿って再構築しようと野望を持っているのか? 

(^o^;  ...まあ、いろいろと想像したものです。
Posted by 愚樵@アキラさん1 at 2011年10月24日 17:32
あと、一点だけ、上手く伝わらなかった点を訂正というか、補正させてください。

>>たとえばある古木を理解したとすると、それで自然を理解したことなってしまう。

>これだけだと「内在系」なんです。

「理解」だと連続性を想起して当然です。言葉が適切ではありませんでした。とはいえ、なんとすればいいのか? ボキャブラリーが貧困で (^o^;
(こんなとき、内田氏なら相応しい言葉を繰り出すのでしょうが...)

「理解」の結果、得られるのは無常感だ、といえば「理解」の意味するところを感じていただけるでしょうか? 

「私」が子どもの頃から古木はそこにあり、年老いた今も同じようにある。私が死んでもあるだろう...

「理解」を少し具体的にいうと、こんな感じですね。

これでもやはり「連続」でしょうか? 

古木と「私」とを引き比べて、「私」が先に居なくなると理解するのは、理不尽といってもいいのではないでしょうか?

また、私より長生きするはずの古木が、何らかの理由で(伐採されたりして)先に居なくなる。これもまた理不尽ですよね?

またまた、しばしばニュース等で伝えられますが、樹齢ウン百年の木が勢い衰えて枯れようとしている。あるいは枯れてしまった。これだって、理不尽といえば理不尽でしょう。

そういう理不尽とは違うのかな?


まあ、いずれにせよ、ここいらで一旦、切り上げたといたしましょう。後は、エントリーの続きを楽しみにしております (^o^)
Posted by 愚樵@アキラさん2 at 2011年10月24日 17:50
・愚樵さん

そうでしたか。なら、よかったです。 (^o^)

僕が宮台氏にシンパシーを感じているのは、彼が「感染してしまう」人間だということと、この「決定的な断絶」感を持っているというところが大きいでしょうかね。
僕は近代とかアンチ近代とか、あんまり関係ないので。 (^_^;)


>「私」が子どもの頃から古木はそこにあり、年老いた今も同じようにある。私が死んでもあるだろう...
<
僕からすると「それって当たり前だよね」というところなので、まったくの「連続」なのですが、これは難しいところですね。

この「私」が、この体験から「私は死んで、古木は生き続ける」ということを、まったくの理解不能な身を引き裂かれるような理不尽さと感じ、それがどうにもこうにも理解不能で、どうにもこうにも分からないけど、分からないそのままに、その現実を受け止めよう・・というところへ行ってしまう傾向の人ならば、この「私」さんは「超越系」だと思います。

この体験をどう消化するか、というところに差が出てくると言ってもいいかと思います。
「樹木の方が人間より寿命が長いんだから、まぁ当たり前だよね」と僕などは思ってしまいますから、そういうのは「内在系」的消化です。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2011年10月24日 21:37
例えばですね、ある10歳の子どもが難病で、あと半年の命で、その子が「お母さんやお父さん、おばあちゃんやおじいちゃんはまだ元気でこれからも生きていて、わたしがもうすぐ死んじゃうっていうのって、どういうこと!!」と苦しむとしましょう。

この理解不能な理不尽さを、そのまま受け入れることができなければ、この子は「内在系」です。
さんざん泣き苦しみ、あるいはそもそもそのことに苦しまない可能性もあるわけですが、「そういうものだよ、またすぐ生まれてくるから」とか「神さまが呼んでるから」みたいな感じで、受け入れていけちゃうとすれば、この子は「超越系」です。

そんな感じでしょうか。
抽象的な話というか、個別的な話になっちゃうんですよね。
Posted by アキラ@愚樵さん@追伸です at 2011年10月24日 21:56