2011年10月30日

    

野口先生の時代背景 最終章 〜「眩しい光」と「懐かしい闇」〜


夕闇


その6」はこちらから。

第二のモダニズムは、高度経済成長期の60年代に興ってきて、70年代後半に終わりを告げます。
野口先生は、この第二のモダニズムの終焉のころお亡くなりになっているんですね。
ある意味、ラッキーだったのかもしれません。
僕はそう思うんです。

野口先生の活動を全体に俯瞰して見ると、面白いことが分かります。
その活動の大きな波が、この2つの「〈世界〉を欲求する」モダニズムの時代に大体当てはまるような感じになるんですね。

そして、その波と波との間にちょうど、疎開の頃からの育児や潜在意識に関する考察と、体癖論の確立という、深遠な考察の熟成の時期が挟まれる。
つまり、この「背景」への回帰を希求してしまうような時代の風潮によって、野口先生とその思想は切実に求められたとも言えるんじゃないか。
僕はそう思っちゃったりするわけです。

80年代以降の世の中の不安が要求していたことは、モダニズムの時代とは当然に違います。
ですから、残された野口先生の幻影と言葉だけを主に頼るしかなかったその後の整体の世界は、「どうしたらいいの?」に何とか応えながらも、いろいろと苦労してきていると思うんですね。

モダニズムの時期における「闇(何ごとか)」への執着・希求というのは、ある意味「眩しさへの不安」からのものだったと言っていいのかもしれません。
けれど、80年代以降はその「眩しき光」が失われた。
僕らのまわりにあるのは「闇」ばかり・・という風情になっている。

ムラもなくなり、地域共同体もズタズタにされ、家族幻想も崩れ去って、今 本当に個人個人にまで人間関係がバラけてきている。
ある一定の価値観もなくなって、何かに頼っていればいいといういき方があり得なくなった。
「眩しき光」への目眩もなくなり、それに対する不安・不信からの子宮(闇)への回帰という嗜好もなくなってしまった。

今ある「闇」は、「あたたかい闇」「懐かしい闇」ではないわけです。
底知れない空虚、不安と恐怖ばかりが惹起される「闇」。
おまけに具体的な脅威をもたらす「見えないヤツ」までまき散らされ、その「感覚に引っかからない放射性物質」による恐怖まで引き起こされるようになってしまった。
今 世の中でさんざん言われている「どうすればいいの?誰か教えて!」は、まさにこの状況の中で、周囲を照らす「光」を求める欲求なんですよね。

目も眩むような「眩しき光」に照らされていたモダニズムの時期に、野口晴哉先生は、そして野口整体は、「あたたかい闇」「懐かしい“何ごとか”」として求められました。
今は「底知れぬ闇」と「底知れぬ“何ごとか”」が、世の中を覆い尽くしている状況です。
こういう状況の中で、「あたたかい闇」「懐かしい闇」ということがあり得るのか。
あるいは、野口整体の世界は「周囲を照らす光」たり得るのか。

80年代以降の世の中の不安が、「どうすればいいの?誰か教えて!」と要求し続けていた中で、野口整体はある意味 だんだん衰退してきていた事実があると思います。
それはそうでしょう、整体の世界は「あたたかい闇」「懐かしい“何ごとか”」であって、「周囲を照らす光」でも「分かりやすいハウツー」でもないのですから。
もてはやされるわけがない。

僕が思うに、野口整体の世界は、これからも、おそらく「周囲を照らす光」にはなり得ない。
そもそもそういうものではないのですから。
けれど、「闇」の中を歩くしかないときに「身近に感じる人肌のあたたかさ・懐かしさ」にはなり得るかもしれない。
あるいは、「“闇”といっても あたたかいものもあるんだ」とフと思い出す、そういう手づるにはなり得るかもしれない。

野口整体は、「人間社会」に根ざす僕らが、「人間社会」から〈社会〉へと、そして〈世界〉へと開かれていく道すじだと、僕は思っています。
「分からない」ということに、「分からない」ままに開かれていく作法です。
「照らし出す光」として物事を明らかにしていく道ではなく、照らされる前の「闇」にこそ、僕らの本質的な力の源泉があることを実感していく道なのだと思います。

ですから、「どうすればいいの?誰か教えて!」という安易な、しかし切実な問いへの答えには、おそらくどうしたってならない。
伝える側も受けとる側も、そこのところをきちんと分かっておいた方がいいでしょうね。

でないと、何かがまたおかしくなってしまう気がします。

 〜 おしまい 〜


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夕闇2

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アキラさんがあげられている「野口先生の時代背景」シリーズ、その中でも特に  『野口先生の時代背景 その6 〜〈世界〉を求める欲求 〜』  野口先生の時代背景 最終章 〜「眩しい光」と「懐かしい...
再掲載:知識【愚樵空論】at 2011年10月31日 05:06
この記事へのコメント
社会的な背景の関連まで私には解りませんが、
超能力・カルト・新興宗教・気功・ヨガなどのブームは、
野口整体が求められた理由と似たような事か?または違う分類での関連などがあるのでしょうか?…。

時々に読む占い師さんのブログに、
御船千津子や高橋貞子などの千里眼のブームについて書かれていていました。

これも時代的な関連なのか?単なる娯楽性のブームなのか?なんて思ってしまいまして(笑)。
Posted by AKIRA at 2011年11月02日 00:14
・AKIRAさん

この文章を最初に書いたのは、06年の春なんですね。
実は、当時僕は、三度目の「背景」への回帰の希求が起こっているのかもしれない・・と思ってたんです。
共同体的なものが失われてしまっているがために起こってきた、いわゆる右翼的な発言がすごく世の中では多くなっていましたし、江原啓之さんと美輪明宏さんの『オーラの泉』などがすごい人気の時期でした。

ですから、ひとつひとつ拾ってジックリ調べてみると、意外と関連性があるかも分かりませんね。

「闇」というのは、当然のことですが、元々ダークなフォースな面があるわけでして (^o^)、だからこそ「宗教」のような形で囲い込んだり、安全化を図ったりしているわけです。
当時これを書いたときの最後の締めくくりは以下のような感じです。

『今また世の中は、このかつてないほどの潜在的な不安に揺れ動いています。
 だからこそ「何ごとか」という闇、「背景」への回帰の希求もまた三度高まってきているわけです。
 プチナショナリストなんかがいい例ですね。不安で不安で金切り声を上げている。
 心理学の隆盛も、比較的安定した江原さん人気なんかも、そんなところでしょう。

 その強い希求の中、そして価値観の複雑なまだら模様の中、時に人を破壊しさえもする「何ごとか」という闇をどう囲い込んでいけるのか、
 その力をどうやったら害のない形で生かしていけるのか、「これだ」と示せるのか。
 かなり悩ましい問題です。』

と。 (^o^)
自分で読み返して、状況は変わってしまったな〜と改めて思うと同時に、そもそも「これだ」と示すべき話ではないのだと気がついたのが今回で。
自分自身もこのときより成長したなと思いましたし、今回これをとり上げてよかったと思った次第です。
Posted by アキラ@AKIRAさん at 2011年11月02日 09:48
アキラさん。

不安感が強くなると、
不安定な心を安定させるモノ…、
固定させる枠組み、
寄って立つ中心、
のようなモノを欲しがるのでしょうか。
そういうモノを求める事は一概には悪くないとは思うのですが、
歪んだ形になったり度を超えたりするして、
他への暴力になってしまうのは悲しい所ですよね。

前にも書きましたが、
私は今からちょうど8年にカルトとは知らずに体調の回復の為に、
気功とヨガを足したようなオ○ムのような団体に入り3年強ほど居ました。

私自身はその団体の思想にはあまり染まらず、ただ気功の訓練に集中してましたが、他の入会者は心理的な部分で来ている人が大半でした。

私は肉体的・生理的な部分の問題解決が先行していたので、カルトの信者になって行く人達の心境が解りませんでした。

明らかに偏った有り得ない異常な思想に何で騙されるのだろうか?と疑問に思いましたが、
あの人達にとっては内容が異常であろが反社会的であろうが、どうでも良かったのかな?と最近になって考えるようになりました。

『宗教は麻薬である』なんて感じの事を誰かが言ってましたよね。

思想や教義、幻想的な霊や神仏の世界、興奮状態やトランス状態にしたり、
不安や苦痛を解消してくれるドラッグなら何でも良いのかな?なんて思われてしまいます。


Posted by AKIRA at 2011年11月02日 22:46
・AKIRAさん

そういう感じの人たちが、おそらく僕の言うところの「思考(戸惑い)停止」タイプの人だと思うんですよね。
「盲信」の類かと。
自分自身がやっていること、依存していることに、やっぱりどこか常にちょっとは批判的な目を持っておく必要はあると思います。

戸惑う(思考する)ことによって、安心感はどうしたってその分減ります。
でも、そこはやらずに済まそうとすると、AKIRAさんが仰るように「閉じてしまう」んですよね。
閉じてしまったらジ・エンド、だと僕は思っているので、少々苦しく悩ましくとも戸惑い(思考し)続けることが大事かな、と。
Posted by アキラ@AKIRAさん at 2011年11月03日 10:12
Dialog in the darkの世界が浮かんできました。
その闇の中は、日常では感じることがないあたたかさがあって、ずっとずっと「そこにいたい」って思っちゃいまして。「光なんかいらない」とも思っちゃいまして。

>照らされる前の「闇」にこそ、僕らの本質的な力の源泉があることを実感していく道なのだと思います。

これ、ストンと落ちました。
様々な流れのままに始まった月一回の愉氣の会ですが、震災以降、愉氣(野口整体)は私の「希望」になってしまっています。

闇こそ光。



Posted by ゆめ at 2011年11月05日 02:20
・ゆめさん

「闇」にはやっぱり、とてつもないダークなフォースの面もあるので、そのへんがなかなかむずかしいところです。
都合のいいところだけを取り出すわけにいかないし。

おそらく「開かれる」ということが、ミソなのかな?と思ってます。
「闇」を信頼してもいいかな?と何となく思えるようになれたら、それが一番いいんじゃないかな、と。(^o^)
Posted by アキラ@ゆめさん at 2011年11月05日 09:41
うん。
Posted by ゆめ at 2011年11月05日 11:30