2014年01月08日

「世界」は振動という「空(くう)」に満ち満ちている

反転


僕の好きなブログ『雑念する「からだ」』の新年最初のエントリーに、クラドニ・プレートを用いて音(周波数)によって幾何学模様が描き出される動画が紹介されていた。

自然の幾何学とアーカイブ』(雑念する「からだ」)


そして、これがその動画。




スゴいと思いませんか?
高周波になると、もうこれは曼荼羅ですよね。
ヴァイオリンの弓などでアナログに振動させて模様が出てくるのは、以前から知っていましたが、この、ヘルツを自在に、しかも連続的に変化させられる機械は初めて見ました。
すごく面白い。

この動画を観ていて、以前からずっと想っていた あることを思い出しました。
それは、こんなことです。
僕らが「姿」や「形」として認識しているもの、僕ら自身、動物、植物、鉱物、山、川、海・・・などなど、
それらは実は、こういう振動の「隙き間」に吹き寄せられたものの集まりなのではないか?

「世界」には、こういうありとあらゆる振動が満ち満ちていて、その振動と振動との狭間に、粗いものが吹き寄せられていく。
その「集まり」を、僕らは「姿」や「形」や「状態」として認識しているのではないか?

つまり、ゲシュタルト心理学で言う「図と地」の関係が、実は逆なんじゃないか?ということです。
「ゲシュタルト」というのは、ドイツ語で形、形態、状態」といった意味で、「図と地」の関係というのは、それを如実に示すものとして「ルビンの壷」という有名なだまし絵があります。

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ウィキペディアから、
勝手に絵をもらって
きてしまいました。 (^_^;)






こちらも面白い。

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この「ルビンの壷」、何が見えるでしょうか?
「人が向かい合っているところ」か「壷」、ですよね。
その両方が同時に見えることはありません。

この「人が向かい合っているところ」か「壷」のように、1つのまとまりのある形として認識される部分を「図」、図の周囲にある背景を「地」と呼ぶんだそうです。
そうやって「図」と「地」を分けて認識することで、僕らは初めて形を知覚するんですね。

「ルビンの壷」で言えば、壷が見えるときは、壷が「図」になり、そのまわりは「地」になります。
人が見えちゃうときは、向かい合った人の顔が「図」で、そのほかのところが「地」。
ということですね。

こうやって「図」と「地」が両方存在するので、ある形が見えるわけです。
けれど、例えば壷を「図」として見ているときには、人の顔に見える「地」の側は、面白いことに見えません。
その逆も同じ。
「図」と「地」が両方同時に見えるということはないんですね。
注意を向けている「図」の方は感じられるんですが、それを浮き上がらせる「地」の方は感じなくなっちゃう。
こういう現象を「図と地の分化(分離)」と言うらしいです。

言いたいことが分かってもらえるでしょうか? (^_^;)
要するに、
僕らが実体として存在していると思っている「形」や「状態」は、実は「実体」なのではなくて、空間だと思っているところに「実体としての振動」が満ち満ちているんじゃないのかな?
・・・なんてことを想ってるんです。

「図」と「地」が、実は逆になっているんじゃないか。
このクラドニ・プレートに描き出される幾何学模様のように。

僕のいとこ違いに絵描きがいるんですが、「ここ10年くらいはこういう作風だよ」という彼の絵を見たときにも、「そう、これだよ、これ♪」と思ったんですよね。
例えば、こんなの。
『小春日』  『緑の路のあとさき』
(リンク先の絵は、クリックして拡大できるようになってます)

彼は、例えば樹木を描くときに、木自体を描きません。
僕らの認識では「地」の方になっている、隙き間から木漏れる 木漏れ陽の方に筆を入れる。
そうして描かれる彼の絵の世界は、まさに世界が反転して見えるんです。
それはちょうど、立ちくらみを起こして 視界のポジがネガに反転するようにして落ちる瞬間の、あの雰囲気に似ている。

視界の光が強いハレーションを起こして、時間が止まる。
時間の流れの中に 永遠が滑り込む感じ。

そんなように、「世界」の実体は、実は空間の方に満ち満ちている「振動」なのではないのか?
僕らはその「隙き間」に、佇んでいるだけなのではないのか?

そのように、「なにか」によって位置や形を決定されているのではないか?
「生きている」ということは、そういうことなのではないか?

「生きている」の世界は、有機的なネットワークの複雑なつらなりが、予測不可能な按配でうごめいている世界だと想っていたけれど。
有機的なネットワークの関係性の中でのうごめきによって、「今の自分」とその立ち位置が在るのではないか?と想っていたけれど。
torsionanimated

そのネットワークの総体自体が、「隙き間」の佇まいなのではないか?
その有機的なネットワーク全体の 複雑なつらなりと蠢(うごめ)き自体が、空間に満ち満ちているヴァイブレーションによって創り出されているのではないか?

まさに「色即是空 空即是色」ですね。
色(物質的現象、森羅万象)は空(くう)であり、すべての色(しき)は空から生ずる。
「空(くう)」の論理を参照してね♪)


「世界」は振動という「空(くう)」に満ち満ちている。




*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪

図と地

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コミュニケーションの失敗から必然的に生まれるもの、責任と秩序と権力。 とはいうものの、コミュニケーション失敗から即、それらが生まれるわけではない。 コミュニケーションの失敗は、それらが生まれる土壌のようなもの。 責任や秩序や権力が土壌から発芽するのは
「触媒」【愚樵空論】at 2014年05月03日 09:25
この記事へのコメント
アキラさん

いいですね。とてもいいです。
本当にその通りだと思います。


ここからいろいろと話が飛躍していきますが...、たとえば

振動に満ちた「空」なる世界 → 現実界
振動が立ち上がってくる構造 → 象徴界

という連想はどうでしょう?
Posted by 愚樵 at 2014年01月09日 09:14
いわゆる仏教の「空」だと何か
静謐な印象を持ちがちですけど
振動に充ちた世界だとすると
途方もなく動的な世界に
思えてきますね。

空間に時間が織り合わさることで
はじめて波が生起するのだとすると
正に波、振動こそが私たちの居る
時空間に充ちているものなのでしょう。

波の「形」と認識しているものも
何かと何かの「境界」にあって
現出するもののように思えます。
刻々と生成変化消滅を繰り返す
境界こそが「色」なのだろうか。
Posted by 風 at 2014年01月10日 02:57
こんにちは
愚樵さんのコメントがハードルを上げてますが、感じたままに(笑)
まずはお知り合いの絵描きさんの絵、いやいやいや素敵ですね。
このセンス羨ましい限りです。

壷と顔、図と地を読み(眺め)、第三者として観ていることを認識します。じっとみつめて、でもやはり人間は壷なんだろうな、と感じます。壷に向かい合った顔をみることはできない。第三者として壷と顔を実感することはできない。思索することはできても実感はできない。壷そのものは相対的な壷の認識ができない。
でも想像することはできる。思索することはできる。
感じることもできる、、はず。
>佇んでいるだけではないのか
う〜ん、詩的だなぁ。この詩的認識を実感(体得?)しようとするか否かがまず分かれ目のような気もします。
光と影によって映しだされた木々のように、「世界」によって佇む人間ねぇ、、、う〜ん、ちょっといい気持ち。
Posted by 毒多 at 2014年01月10日 16:49
・風さん

クラドニ・プレートの模様を見ていると、「色即是空 空即是色」をすごく実感できる気がします。
すべての色(しき)は、まさに満ち満ちた空(くう)から生じて、周波数の複合のしかたが変化すると、また別の色(しき)に変化し、あるいは形が消えて また空(くう)に満ちる。

若い頃、「虚」と「無」と「空」の違いをよく考えていました。
「虚」や「無」と違って、「空」はカラではない、満ち満ちているんだ。
・・・とは、その頃からの実感です。 (^o^)
Posted by アキラ@風さん at 2014年01月10日 18:24
・毒多さん

こんにちは。
絵、いいでしょう。 (^o^)
現物を実際に見ると、もっといいですよ♪

僕らは「隙き間に佇んでいる」存在か、あるいは「隙き間に吹き溜まった」存在か。
どっちかというと、吹き溜まりとか「世界」のカスの部分のような気もするんですけどね。 (^o^)

「いのち」自体はもしかしたら「燃料」で、主体性を持たないのかもしれません。
あくまでも「受信機」で。
Posted by アキラ@毒多さん at 2014年01月10日 18:33
・愚樵さん

ありがとうございます。 (^o^)

〈現実界〉や〈象徴界〉などの用語の意味合いに沿うかどうかは、ちょっとよく分かりませんが、ニュアンスはすごく分かる気がします。

愚樵さんのところでの「ひとつ」と「ばらばら」の話と、この模様のことが、僕の中ではシンクロしてたんです。
別のエントリーで書き出すかもしれませんが、「(人間)社会」から見える「隙き間」は詰められないんじゃないか?と思うんですよ。
実はこの「ルビンの壷」問題があったりして。

僕らが「隙き間」だと認識しているところに実は「実体」があるとすると、その「隙き間」を詰めようとすると当然「形」が歪むと思うんですよね。
あるいは別の形になっちゃう。
・・という現象が起こるんで、【 形 】にして変わらないように頑張るしかない。

でもそうやって【 形 】にして頑張って「隙き間」をつぶそうとしても、それはそもそも自分を形づくっている「実体」をつぶしていく(あるいは変化を要求する)ことになりますから、それに成功した途端、自分自身の「形」がなくなる。
そこに「生」はもうないわけです。
そうなると、ひたすら【 形 】を保とうとする以外に、存在の可能性がなくなりますよね。

「ばら」と「ばら」の間に橋を渡し「ひとつ」にするのは「ペンディング」なのかな?というのは、「実体」を「実体」のままに留めておくということなのかもしれません。

また、「ばら」と「ばら」とが響き合えば、つまりそもそもの「実体」たる振動と振動が響き合って複合すれば、そこには当然新しい形が生まれます。
「ばら」と「ばら」とは別の「何ごとか」が生まれるかもしれないし、「ばら」と「ばら」も当然元々の「形」のままでいられるはずもないわけで、「さっきとは違うばら」になっている。
ここには「生」の営みがありますよね。

何かそういう話なのかなぁ〜?と思ってみたり。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2014年01月10日 18:54
ちょっと間が開いたけど、連想を重ねてみます。
何かそういう話の続きとして。

宮台さんが使う用語で、「内発性」「自発性」というのがありますよね。ここの話の流れでいうと、内発性というのは、「受信機」が感応した結果「何ごとか」が生まれることを指すんだと思うんです。対して主体性というのは、「何ごとか」を生みだそうとすることを指す。

ところがです。主体的に生み出そうとすると、「何ごとか」はすでにその人の中で言語的に想像されてしまっている。それはもう、吹き溜まりなんだ、と。

(そういえば『光るナス』のエントリーに願いごとを実現させるには願いごとを忘れなければならない、というのがありましたよね?)


で。

「振動」から自生的に立ち上がる構造を「散逸構造」といいます。(物理的)エネルギーが最も効率よく散逸するように、トライ&エラー(振動)を繰り返しながら、ベストポジションを探していく。そうやって出来上がるポジションの連なり、つまり構造。動画のマンダラ模様はまさにそれですね。

〈象徴界〉という術語を持ち出してみたのは、言語も散逸構造の一種ではないか? という連想から。多数の人間の精神波動(?)が効率よく散逸(伝達)されるところで言語が自生的に形成される。精神波動が可聴化されたもの(可視化されると「文字」)。

けれど、可聴化or可視化されたものは「実体」ではないんですね。「実体」はあくまで精神波動の方のはず。


ちょっと飛躍しすぎかな...? ^^;
Posted by 愚樵 at 2014年01月13日 20:08
・愚樵さん

よく分かる気がします。

僕は「主体性」というのは、「意志」に関連するような話なのだと思っています。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52153792.html

例えば上記にURLをあげた原発問題ですね。
これは「どうにかするんだ」という「意志」の側面がないと、どうにもなっていかない。
そういう事柄に関連する話なんだろうと思いますj。

そのときに〈意志〉なのか、【意志】なのか。
この間ある先輩から面白いフレーズを聞いたのですが、それは「開かれた閉鎖性」。 (^o^)
いい表現だなと思いました。
「主体性」や「意志」といったものは、愚樵さんの仰るようにすでに「吹き溜まり」からの出発です。
それが〈意志〉であるためには、「開かれた閉鎖性」といったようなことが前提として必要なんだろうなぁと思います。

言語についても「吹き溜まり」の部分ですよね。
で、愚樵さんが仰っていることは、例の「蠱惑的」「判断的」という違いの話に通じるように思います。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51612502.html

言葉を「その都度その都度指し示す」ような「語」的・「蠱惑」的に用いるやり方は、「実体」の方に開かれ続けようとする「開かれた閉鎖性」的なものに思えたりします。
Posted by アキラ@愚樵さん at 2014年01月15日 11:10