May 01, 2006

更新停止時における閲覧者のエントリ使用許諾条件。

You only live twice. Once when you are born, and once when you look death in the face.
(---"You Only Live Twice" 007 James Bond, by Ian Fleming.)

 

 このエントリが表示されたということは、このBLOG「ASTATINE」は更新停止状態が続いているものと思われます。これは、私こと、9791が長期に更新できない状態、たとえば、急病による長期入院、もしくは何らかの事故等で死亡した可能性を指し示すものであり、その場合、このBLOGのエントリの扱いについて、以下のように定めておき、私の文章の閲覧者、利用者が、私の許可無く活用できるようにしておきます。

 [使用許諾条件]

  帰属
 ASTATINE(http://blog.livedoor.jp/april_29/)の著作権は、私こと9791にあります。したがって、このBLOGにおける全てのテキストを第三者が複製、頒布、展示、実演、二次活用する場合、著作者のクレジットを表示してください。著作者ハンドルネームは「9791」、著作元のBLOGは「ASTATINE」、これで統一します。これはErogameScapeに投稿したものも含みますが、引用している箇所については、その著作権は引用元(の著作者および著作元)にあります。

 ただし、ErogameScape投稿分のテキストに関しては、管理人であるひろいん氏に委託している状態であるため、ErogameScape側の意向がある場合はそれを優先します。

  営利
 ,両魴錣魑諾している場合、その使用に関しては営利・非営利を問いません。

  複製
 現在このBLOGは、livdoor BLOGにありますが、更新が長期に渡って停止した場合、管理者より削除される可能性があります。このため、,両魴錣鯔たした上で、閲覧者がエントリの一部を複製、もしくはBLOG全体をサルベージしてのHTML化、他のBLOGへの移転などをすることを認めます。

  実施
 以上の項目は、このエントリが表示されてより、一ヶ月後(現在の設定では2006年6月2日午前0時)より有効とするものとし、私、9791は、この一ヶ月以内であれば上記の条件を撤回できるものとします。



 2006年4月1日 ASTATINE管理人 9791
 URL:http://blog.livedoor.jp/april_29



 ―――遺言みたいですが、まぁ、備えあれば憂いなしとも言いますし、このように書いておきます。つか、適当に皆さんに使ってもらえば嬉しいわけですし、もし死んじゃっているならば、少しは報われるでしょうし(苦笑。

  
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April 23, 2006

四月黄昏。

 復活した「ドラえもん」を見て。「これって何のための復活なのだろう?」……と少し考えてしまった。


 確か、大山のぶ代女史を始めとした旧声優陣が番組を降りたのはキャストの高年齢化と、スタッフの一新を図るためだったと聞く。それは同様の長期アニメ作品である「サザエさん」のように徐々に声優を切り替えるよりも、一気に作品のイメージを変えてしまうことで再び長期シリーズとして、安定した作品を供給するための方策だと思っていた。ぶっちゃけ、ドラえもんが本質的に視聴対象とする児童たちにとっては、声優の良し悪し、声優の変更なんぞ、大きな意味を持っていない。彼らにとっては、大山のぶ代女史の声=ドラえもんの声ではなく、ドラえもん“が”テレビの前で喋っているに過ぎない。つまり、仮面ライダーになりたいと目を輝かせる少年がいるように、彼らにとっては“ドラえもんは生きている”し、現実に存在する。だから、彼らにとって必要なのはドラえもんの存在であり、別に声ではないはず。つまり、ドラえもんの声に違和感を感じると言い続けるのは、それを見分けられる大人や、ドラえもんで育ってきた青少年たち。27年という歳月が生み出した、言わば「ドラチルドレン」とも言うべき、私たちでしかない。ならば、この復活は誰のためのものか……それは言うまでも無いだろう。


 この27年の歳月で生まれた私たちの中で、ドラえもんを知らないという人は、まずもっていまい。最初にこれを知った世代はもはや30〜40代、現在の社会の中核を為し、子供が存在する人もいる。20代の私たちですら、そのドラえもんの声に拘ってしまうのに、彼らのためのドラえもん―――それを楽しむ彼らに、懐古的な気風を感じてしまうのは当然だろうと思う。そして、それはこのドラえもんの復活を“好ましい”と思った人、老若男女を問わずあるのではないだろうか。ドラえもんは“こうでなければならない”……それには現実に疲れた苦味がある。


 「皆さんの四十歳はどうですか? あなたたちはいま、幸せですか?」
―――トワイライト,P80


 重松清は「トワイライト(2002,2005,文春文庫)」で、その現実を生きる登場人物たちにこう問う。「トワイライト」のモチーフは、そのドラえもんである。小学生時代、ドラえもんのキャラクターたちと同じあだ名で呼ばれていた同級生たちが、40歳を間近に再び集まり、かつて自分たちが埋めたタイムカプセルを掘り起こし思い出を語る。上記の言葉は、その時“四十歳”だった先生の手紙の終わりで投げかけられた言葉。書いた先生は、不倫の果てに殺され既にこの世の人ではなく、その手紙には女性としての我侭さと苦しみが綴られていた。

 正直言っておくと「トワイライト」という作品自体はそこまで面白い作品ではない。もちろん、まだ若造に過ぎない私では、登場人物たちの年齢に追いついていない、ということもあるだろう。だが、良い年した大人たちが今に至っても「のび太」「ジャイアン」「スネ夫」……ドラえもんのあだ名で呼び合い、そのキャラクターのイメージとかけ離れた彼らの“その後”を見ると、切ないほどの喪失感が漂ってくる。かつて、夢の街とも言われ、若き家族たちが集う場でもあった日本各地のニュータウンは、その殆どが20年を経て老朽化、団塊の世代とも言われる彼らは多くは老年の道を進み始めている。そこからの逃避……では無いだろう。むしろ、ここにあるのはそんな思い出にすら浸れない“大人”という世代の現実であり、自己と他者を相対化するということ、それが行き着いた果てにある“夢を失った大人”の群像劇となっている感がある。


 ドラえもんは永遠に歳を取らず、のび太は小学生のまま。それは否応無く、視聴者と劇中のキャラクターを乖離していく。その後に残るのは思い出の残滓であり、夢と現実が合わない故の苦しみから、懐古的な気風が生まれていく。ドラえもんは夢なんだろうと思う。“すべての人に共通した”。「のび太のようなメガネ少年」「ジャイアンのようなイジメっ子」……それは皆の中に刷り込まれ、そのヒーローとしてドラえもんがいる。

 
 「ドラえもんってさ、未来のいろんな道具をのび太に貸してやるだろ。でも、その中に勇気の出てくる道具は無いんだよ。」
―――トワイライト,P415

 

 現実を生きるというのは夢を捨てることなのかも知れない。無論、夢を現実に変えることはできる。しかし、その夢は大きくなれば大きくなるほど茨の道となり、その夢に辿り着けずに路頭に迷う。また、その夢が故に孤独になることも。

 

「その昔、売れない詩人がこう言っていたらしい。自由とは孤独と添い遂げる事だと。嫌いではなかったよ。わたしにはもうひとつの自由などなかったから、ひとり気ままに生き続けてきた。しかしお前と出会ってからだな。自分でも解る。わたしは間違いなく心変わりをしている。」
―――あえかなる世界の終わりに,2005 Caramelbox/Hobibox


 「トワイライト」で結婚生活がしがらみとして描かれているように、この台詞の裏側には、恋とか愛というものは、基本的に“自由を束縛する”とされていることが分かる。好意は、萌えであれ、燃えであれ、小数点以下でも値が存在すれば、それは現実として存在できる。だが、その現実は、常に相対的であり、対象が変化すれば、それを想う人も変わらざるを得ない。そこには完全な自由は存在しないのである。逆に対象がドラえもんのように“不変的なキャラクター”であれば、それは自由を束縛しない。変わる自由、飽きる自由、選ぶ自由があるから、人は娯楽にのめり込めるし、彼らは“変化する現実”に疲れたとき、“変わらぬ空想”に戻ってくることで自分を慰め、もう一度現実に立ち向かっていく。


 でも、そこには自身が“本当に欲しかった夢”はあるのかどうか。

 

「人は悩みがある時、こだわりを脱ぎ捨てたい時、大きな存在の中に自分を置きたくなる。自分を無意味にしたくなる。不思議なものだ。果たして、今の恵もそうなのか。絹糸のように細い恵の髪が風に舞い散る。かき上げる手つき。胸の鼓動が一拍リズムを外す。『楽しかった』恵は眩しがるような微笑みで、遙かな過去を思い返すようについ先ほどのことを口にする。」
―――鎖−クサリ−,2005 Leaf/AQUAPLUS

 

 誰しもが、たった今の現実を“遙かな過去を思い返すように”語りたくはないだろう。しかし、精神の安定のためにはそうせざるを得ない、一種の疎外感、厭世観、懐古に苛まれるのもまた………不変的な“キャラクターを語る”私たちに巣食う病理。……ドラえもんという“キャラクター”に対する異様なこだわりは、それが私たちの世代だけではなく、その“上”の世代にも、少なからず存在することを教えてくれているのである。



■ 関連:「『鎖』評。」「『あえかなる世界の終わりに』評。」「ドラえもんの声。

  
Posted by april_29 at 08:15Comments(7)TrackBack(0)Subculture

April 22, 2006

乙女心の軌跡、空の軌跡雑感。

 「英雄伝説 空の軌跡SC(2006,Falcom)」クリア、と。―――まぁ、世界観考察やストーリーダイジェスト、ゲームシステムについては、私なんかより遥かに優れたまとめ方をしている方々がいますので、それは任すとして―――ちょっと話を。


 言うまでもなく、ドラゴンスレイヤーから分化した作品群(嵯蓮Ε灰泪鵐描択式)の一つである英雄伝説は、ゲームシステム的には「ターン制」RPGの部分をドラスレから受け継いでいます。これは「アクション性」を受け継ぐザナドゥ(況蓮Ε肇奪廛咼紂次砲函▲宗璽汽螢▲ (昂蓮Ε汽ぅ疋咼紂次寝スクロール)とは、また別な流れとなり、A-RPG系がメディアミックスの成功と、RPGを普遍的なモノにした功によって、ほぼイース一色になった90年代後期、シナリオ重視派RPGとして生き残った流れ。ガガーブトリロジー(掘銑后砲砲弔い討呂發Ω譴蠅泙垢泙ぁ

 空の軌跡ではWin版ガガーブシリーズでの批判の一つともなったオート戦闘とリアルタイムバトルを排除。“時間制限のあるターン制”と解釈されていたAT(Action Time)を、ATブレイク(即行動)はSクラフトに引き継ぎながら、ATバーによる行動順管理(パラメータ:SPD)による“明示された完全なターン制”と、マス目表示のSLG(パラメータ:MOV)を汲んだ“タクティカル型バトルシステム”を両輪にAT(Action Time)バトルとして解釈し直しています。この結果、DQ系やFF系とは違って、戦闘に立体的な戦略要素と、ATバーによるパズル的要素が混じり、これがパラメータに大きな影響を与えるオーブメントとあいまって、プレイヤーの戦術に幅を与えた訳です。それは(空の軌跡SCをプレイした人であれば、回復系クラフトの使い手が二人も抜けた挙句)アーツ使用が制限される第8章、または対執行者戦で、その真価を嫌と言うほど味わっているでしょうね。

 空の軌跡(FC&SC)は、マンネリの批判を浴びていた英雄伝説六番目の物語。ガガーブシリーズ以降、特に顕著に見られる傾向として、英雄伝説は、その名に反して、究極的な英雄という役回りを主役に据えず、むしろ、身近な……どちらかと言えば日常的なキャラクターを掘り起こし、その“旅”を通した人間的な成長、仲間たちとの邂逅、そしてその“旅”の終わりと次の“旅”の始まりといった流れを描写します。これは白き魔女(掘飽聞漾▲侫ールドが“道”の形態を取り、基本的に街から街へ渡り歩いていく展開、今回の空の軌跡でも、詳細に作り上げられた五大都市を、FCでは順々に、SCでは事件ごとに“旅していく”ようになっています。

 これは(イースシリーズにも言える事ですが)この作品群の特徴的な部分として、物語の中に“戦闘を置く”という考え方をしているため。よって、既存の主流RPG、たとえばDQやFFのように(経験値稼ぎといった)無駄な戦闘が必要ありません。これはLV上げに必要な経験値が、そのLVによって変動するためで、敵は消費される存在ではなく、物語を進めるにおいての障害として立ちはだかるように配置されています。実際、サブクエストを一通りこなしていけば(展開上必要な戦闘のみをプレイしていても)ある程度の強さには至る。ただ、終章まで至るとさすがに甘くはないので、力押しでいくには、それなりの経験値稼ぎをしないといけないでしょうが。

 さて、登場人物の配置としても、空の軌跡(此砲任蓮▲轡蝓璽砂蕕瓩討僚性主人公が登場しました。エステル・ブライトです。空の軌跡全体の物語性からすれば、これは大成功だったと言えるのではないでしょうか。物語の中核となるヨシュアを筆頭に、主要登場人物、仲間たちがそれぞれにしがらみがあるのに対して、彼女のみは非常に精神的にも立場的にも“健康”で“天然”で“乙女”だからこそ、皆の“太陽みたいな”少女と位置づけられました。FCでそのダメっぷりをコミカルに描いたのも、SCで一人前の遊撃士として描くための伏線。人間的にも、恋への自覚から両想いの恋人になるまで、物語はきちんと彼女の心の動きを追っています。


 全てに対して(思春期特有の恥じらいから、初恋の自覚、初恋を実らせるまで)王道的であるという考え方。


 極端に言えば、制作陣は男性主人公の場合、その王道的展開が固定してしまいがちであるのを嫌ったのでしょうね。やっぱり男性主人公だと、少年誌的なノリが王道です。単騎決戦が展開されるジンVSヴァルターやヨシュアVSレーヴェが良い例。最終的には“拳でしか語り合えない”“剣でしか語り合えない”……強敵と書いて“とも”と読む。それが少年の憧れ、王道です。男の王道には“言葉は要らない”。カシウス、リシャール、シードの三人の関係にしても、ヨシュアとキールの会話にしても、男性描写に言葉は少なくなり、思わせぶりになりがち。

 だから、終章でのレンを抱きしめるエステルや、ジョゼットに嫉妬するエステル&鈍感ぶりに呆れるクローゼ、舞台の思い出を二人で語りあい想いを告白しあうエステル&クローゼなんて描写は、男性主人公ではなかなかやり難いわけで……それを、今回は女性主人公とすることで、今までの英雄伝説には無かった、人間的な女々しさをコミカルに、かつ、丁寧に描けたのではないか……と思います。

 これは海の檻歌(后砲妊劵蹈ぅ鵝ΕΑ璽覆物語冒頭で主人公・フォルトを「好き」だと他キャラクターには告白しているのに、主人公本人はそれに気づかない展開。しかもゲームは主人公視点で進むため、物語中主人公とプレイヤーの間で、ヒロインに対する認識が乖離してしまったのに比べれば、今回は、エステルの心の動き=物語の展開であるため、最後の最後まで余計なストレスが溜まることなくエステルとヨシュアの動きを見守ることができました。


 どうにも展開としても設定としても(登場人物まで含めて)、ラピュタが頭にちらついたりしたんですが、それはまぁ……言わない方向で。実質、全ての伏線を消化しきっておらず、同じ世界観で続編が作られることを示唆していますが―――そうなると、エステル&ヨシュアは、海の檻歌(后砲如∧語に介入してくる朱紅い雫(検砲離▲凜ン&マイルと同じスタンスになるのかもしれません。しかし、第三期は、一作目にして二年近く待った事を考えると、このシリーズはどのくらいかかるのか、妙に不安を感じますねぇ。

  
Posted by april_29 at 10:44Comments(4)TrackBack(1)Game Impression

April 20, 2006

ヒトゲノムマップ。

「平成18年度(第47回)科学技術週間にあたり、一家に1枚ヒトゲノムマップ『ここまでわかった!! ヒトゲノム』を作製いたしましたのでお知らせいたします。WEBからPDF版のダウンロードができますので、ご自由にプリントアウトしてご使用ください。なお、ダウンロードデータにはA3判対応版のほか、A2判対応版も用意しましたので、A3用紙2枚に印刷のうえ、貼り合せてご使用ください。」
(--- Apr.14,2006 文部科学省)

■ 参照:文部科学省「一家に1枚ヒトゲノムマップについて」
(via:pcnom「ヒトゲノムマップ」

 これを見ると、人間って動物の一種なんだよな……と当たり前のことを感じてしまうのはどうしたものか。

 あとついでに。
 
 A全判(A1)は、A半裁(A2)×2/A4裁(A3)×4……と裁断されますので、あっていますよ? これはB全判でも同じこと―――規格に基づいて加工される限り、紙は常に1:√2の相似関係にあります。ただし、JIS規格寸法と実際の洋紙寸法は“大体同じ”であって、精密さで言えば少々違うのですけど―――コメント付けられないらしいので、私信。

  
Posted by april_29 at 02:02Comments(0)TrackBack(0)Current Affairs

April 18, 2006

乖離するキャラ萌えとゲーム性、やるドラの恋愛観を例にして。

 久しぶりにやるドラの話が出ていて、妙に懐かしくなったのでちょっと思ったことを書いてみようと思います。(■ 関連:止まり木に羽根を休めて)ちなみにこれから書くのは、「ダブルキャスト」「季節を抱きしめて」「サンパギータ」「雪割りの花」(1998,SCE)の初期四部作のこと。この四部作、シチュエーションが全て、主人公=大学生/ヒロイン=記憶喪失と同一。その状況が四季に対応しており、本来、一本の作品(『フォーシーズンメモリー』だったかな? 購入時特典の台本にそうあったような気がする。) を四分割したことはよく知られていますね。

 やるドラってのは(インタラクティブアニメと呼ばれた「DANCING BLADEかってに桃天使!(1998,KONAMI)」も同様に)、インタラクティブアニメーションの応用であることは言うまでもなく。90年代後半、恋愛系SLGの失速と、コンシューマー系ADVが追い詰められていく過程で、ある意味、大容量を生かした最後の切り札ぽかったところはあると思う。結論として言えば、やるドラは確かに当時のプレイヤー層の掘り起こしには役立ったかもしれない。でも、ADVの代替、ゲームエンターテインメントのメインストリームとはなれませんでした。


 なぜか?


 まずはユーザビリティの問題。やるドラはアニメーションの合間に選択肢を配置して、次の展開に進める。このため、構造的にはアニメーションが連続するのではなく、細切れのシーンが多角的に積み重なっているような仕組みになります。だから、選択肢は物語を進めるために必要であり、その数が増える分だけ、物語は分岐するしていくことになる。物語の分岐をどう表現するかはいろいろありますが、例えば、サウンドノベルにしろ、ToHeart(1997,Leaf)から始まるビジュアルノベルにしろ、選択肢によって分岐した先には、物語を複数用意しているのに対して、やるドラの場合は容量的な問題のためか、物語を別枠に展開するのではなく、シーンの差分にこだわってしまった様なところがありますね。

 「ダブルキャスト」「季節を抱きしめて」「サンパギータ」「雪割りの花」四作には、一応ストーリー的に大きく分かれることもありますが、基本的に似たような場面の使いまわしになり、ストーリーとしては、ヒロインの記憶喪失に中核を置かざるを得ないため、大量のバットエンドが生まれることになっています。要するに“物語は作者の意図どおりに進まなければ断絶してしまう”。挙句、これらの作品はその差分を埋めていくことで、達成率100%を目指すことにゲーム性を見出しているため、プレイヤーに過度の作業感を与えてしまっている。


 つまり、やるドラはゲーム性がユーザビリティを圧迫する。


 反面、同じインタラクティブアニメの系列でも、京都アニメーションが共同制作として関わった「DANCING BLADE かってに桃天使!(1998,KONAMI)」「DANCING BLADE かってに桃天使II〜Tears of Eden〜(1999,KONAMI)」は、ゲーム性と言うのは、さすがにアニメ屋だけに全くもって考えていない。(ちなみに、キャラクターデザイン:武本康弘、監督:石原立也。今は神格化されている部分があるけど、意外と乳描写が得意なんだよね、この人たち。)先に言っておくと、桃天使二作はストーリー的な“重み”は、やるドラに比べて格段に落ちる。この作品は『萌え』が一般的ではなかった時期に、むしろ、時代を先取りし過ぎた感があって、選択肢がなければ、単なる30分-1時間のベタな萌えアニメと言って良い出来になってしまっている。(でも、設定自体は意外と深いらしく、桃姫含めた仲間たちの素性、Tears of EdenのOPに登場する美少女軍団、謎の爺さんなど、いまだ未消化の伏線があって、八年経った現在でも実は未完。)またこの作品は、バッドエンドが意識されていない。基本的に選択肢は好感度判定。物語はどの選択肢を選ぼうが結末に集約されていき、途絶することは無い。よって、ストーリーも第一作・第二作とも二本分あって、やるドラのような達成率の概念、シーンの差分という考え自体が存在しません。

 ここで見えてくるのは、98年当時、やるドラを企画したProduction I.Gと、アニメ屋に徹した京都アニメーションの、いわゆるゲームに対するスタンスの差異。(もちろん、どこまで企画から携わったかでかなり結果が違ってくるため、この場合は販売した側であるSCEとKONAMIの差異と言った方が良いのかも知れないが……)それからすれば、購買層が共通するエンターテインメントでも、プレイヤーが能動的であるゲームと、読者&視聴者が受動的なコミック&アニメは、基本的に楽しみ方が異なる……ということをキチンと理解していた作品が、桃天使であり、それを打破しようとしたのが、やるドラだったとは言えると思います。

 先に述べたように、結論からすれば両者ともゲームエンターテイメントの主流になりませんでした。DVDメディアが一般的になるにつれて、2Dアニメーションはゲーム的表現の主流から外れていき、以後の3D表現の隆盛、またその3Dアニメーションですら、それ自体を“商品”とするのではなく、ACTやRPGのシネマ的表現の一つとして使われることが多くなる。それはテイルズシリーズ(ナムコ)等で継続された2Dアニメーションも同じこと。あえて言うのであれば、これら2D・3Dインタラクティブアニメーション技術が、単独のゲーム派生“商品”としてプレイヤーの“共通認識”になるのは、「FINAL FANTASY ADVENT CHILDREN(2005,SQUARE WNIX)」の成功まで待たねばならなかった訳です。


 それは、ゲーム性排除の結末。


 基本的にゲームにおいて、2D・3Dインタラクティブアニメーションは、ゲーム中のキャラクター描写として取り入れられ、それはゲームプレイヤーのキャラクターイメージの(脳内)補完を助けるためのものとして使われました。やるドラはそれをキャラクター描写の補助ではなく、むしろゲーム性をアニメに取り込むことで、新たな購買層を作り出そうとした。それはゲームプレイヤーの能動性をアニメ視聴者に取り込むことと同義。……ですが、ADVENT CHILDRENの大好評がハッキリと見せたのは、ゲームの“キャラクターを好きになる”ことと、ゲームを“楽しむ”は別観点であるという事実なんです。


 即ち、“キャラ萌え”と“ゲームエンターテインメント”は乖離している。


 その点で、やるドラはキャラゲーにも萌えゲーにもなり得ず、ゲームとしてのユーザビリティすら、既存のADVに劣る。評価すべき点は、アニメーション表現以上にそのシナリオであり、それを活用した演出になっていきます。

 アニメーションと選択肢による物語分岐、シーンの差分、これを最も活用したのは第一作「ダブルキャスト」。ヒロインの二面性、ジェノサイドシナリオの殺害描写や、推理の思考過程など、ゲーム特有の“何度もやり直せる”ことを上手く使っている。また、以後の「季節を抱きしめて」「サンパギータ」「雪割りの花」三作にも言えることだが、やるドラは初期四部作において、主人公視点・主人公語りを崩さなかったため、逆に言えば、ヒロインの描写は写実に徹している。これが「ダブルキャスト」では推理の基礎となり、「季節を抱きしめて」では麻由の正体を隠す一つのテクニックになる。「サンパギータ」ではマリアと主人公を言語的な差で隔離し、「雪割りの花」では、花織を救うために周囲が虚構と真実を織り交ぜる。しかし、だからこそ、これらに共通するのは―――


 “主人公はヒロインの気持ちが解らない”。


 やるドラは、全四作の男女関係において、これを貫き通している。四作を通してプレイした人は分かるように、この四作の記憶喪失のヒロイン、本質的な意味におけるヒロイン“本来の人格”は、物語中における“主人格”より、はるかに出番が少ない。これは徹底していて、「ダブルキャスト」においては全ての真実を明らかにしない限り、ヒロインの本人格に主人公は出会えない。「季節を抱きしめて」では、麻由が記憶を取り戻すことは同時に、麻由の存在消失を意味する。唯一明確な人格として出てくる「サンパギータ」のマリアでさえ日本を去ってしまい、「雪割りの花」の花織はその記憶に生死が左右される。


 記憶喪失“後”の虚。

 記憶喪失“前”の実。
 

 やるドラ四部作はそれを嫌になるぐらい真っ当に描く。ヒロインの可愛らしさってのは、この作品群においては、一種のフェイク(特に「ダブルキャスト」)。「雪割りの花」の場合は、考えてすらいない。もっともキャラクター的な萌えがあるだろう「季節を抱きしめて」は、ヒロインの喪失がクリアの前提とされている物語。……あくまで物語を主人公視点として、描写が第三者視点に逃げなかったこと。それはやるドラのシナリオを考える上で重要です。この物語では常にヒロインの感情を考えていかねばならない。そして、最後に彼女たちがもっとも納得する選択を主人公はしていかねばならない…………たとえ、それが主人公にとって別離であろうとも。


 ………それはキャラ萌えとは遠い考えであり、恋愛観ですよね。


 こうして、インタラクティブアニメーションとキャラクタービジネスは、ゲーム性以外のアプローチへ移り、インタラクティブアニメーションはゲーム表現として残すが、キャラクタービジネスは他媒体での展開に主軸を置くことになる。このシリーズの最新作「BLOOD THE LAST VAMPIRE,BLOOD+(2000-2005,SCE)が、やるドラ四部作とは違い、メディアミックス路線に奔ったのは、このため。しかし、結局キャラクタービジネスの規模として考えれば、恋愛AVG+SLGの源流、“合間にアニメを挿入する”という原則を守り通し、ADVとSLGを完全に分けた「サクラ大戦(1996-2005,SEGA)」ほどにならなかったのは、物語性に重きを置き、アクが強いキャラクターを配置したことによる弊害と言うならば、フルアニメーションによるゲーム性を目指した、やるドラにとって、これほど皮肉なことは無いと言えるでしょう。そして、当時、やるドラではなく、桃天使のような“キャラクターだけ”の作品の方が注目されれば、コンシューマー系ADVもインタラクティブアニメで息を吹き返していたかもしれません。


 ならば、コンシューマー系ADVを追い込んだのは、キャラクタービジネスがこれほど盛り上がるとは思わなかった、当時のゲーム性重視の制作姿勢ということになります。物語性はゲームそのものの娯楽性を奪うのかもしれません。物語が優れていること=キャラクターへの好感とならないのであれば、キャラ萌えにはゲーム自体は何の関係も無いのでは?……という答えが導き出されてくる。

 やるドラの悲劇は、そんなキャラクター消費が始まる前夜に生まれてしまったことであり、同時にそれに耐えらないほど、真面目に、現実的な物語を、四作にも渡って作ってしまったことにあるのでしょう。個人的には、この中でも「ダブルキャスト」「雪割りの花」は、好きな作品なんですけどね。


■ 追記:
 ただし、インタラクティブアニメーションによるゲーム性の追求は、韓国にまで広がり、こんな作品も出ています。(■ 参照:
무타쥬스(2006,씨네픽스/스튜디오 나인) Movie見れますが、かなり突っ込みどころがある作品みたいです。 

  
Posted by april_29 at 00:03Comments(5)TrackBack(0)Game Impression

April 15, 2006

トラックバックスパム。

 相変わらず、トラックバックスパムは無くなりませんね。と言うか、この頃は明らかにアダルト系と思われるものは少なくなって、ぱっと見、個人BLOGを装ったり、企業BLOGのように見せたりするものが多くなりましたね。例えばこんなの。


URL  : http: //XXXX.XXXX.com/honne/?XXXXX
title:新たなスタート
Blog : 奈保美
IP   : XXX.XXX.180.4

さて、授業を始めます。卒業生を送ってからずっと寂い思いをしていた。学校に行っても、「奈保美ちゃーん」って声をかけてくれる子もいない・・・・


 また、トラックバック拒否が広まったためでしょうけど、コメントスパムも多くなってきて、こちらは一見真面目な文面も見られます。


Posted by サポ−トセンタ−
email:
URL  :http: //XXXXXX.server.ne.jp/
IP   :XXX.XX.220.72

posted by あなたのブログの価値 2006年04月07日 20:54 ブログの価値を計算させてもらいました。 デザイン、質感、スタイルが価値のあるブログ として、当社としては一度お話をしてみたいと 思いました。 よければ一緒にブログを盛り上げて みませんか?あなたが所有者で、当社が運営者 です。 当社概要をご覧ください。




Posted by 共感しました
email:XXXXXXXX@ hotmail.co.jp
URL  :http: //tatatatata.XXXXXX.com/?bi=200000
IP   :XXX.XXX.41.7

貴方のブログを見て共感しました。
ブログを続けるのは大変ですよね。
私は更新時間が無く、続けるか続けないか?
迷っています。
私のブログを見て貴方の感想を聞かせて下さい
宜しくお願いします。


 クリックした被害者の皆さんは分かるかもしれませんが、大概、文面がどうであろうとアダルト系サイトに飛ばされます。実際問題としては、これの方がマシなぐらいで英語サイトに飛ばされて何かインストール画面が出てくるような箇所もあります。ブラウザが何にしろ、あんまりActiveXに詳しくない、対処法が分からない人は、クリックしないのが無難。一応、禁止ワードとかで制限はしているのですが、無料版なので結構限定的なんですよね。

  
Posted by april_29 at 22:19Comments(4)TrackBack(0)Trouble

強さ、忌々しさの先に。

 他球団ファンにとって忌々しいことだが、今年のジャイアンツは強い。昨日の今季最長の5時間11分……上原を打ち崩し、中継ぎ陣があれほどの仕事をしながら、ベイスターズはジャイアンツを破れなかった。今のジャイアンツの怖さは、勝ち続けることではなく、このような“負けない”雰囲気が満ちていることにある。それはWBC余波でマリーンズやホークスが苦しんでいるように、唯一、WBCに参加した上原がいまだ結果を出せないにも関わらず、チーム自体は11勝2敗1分という結果が何よりも物語る。はや優勝確定などという報道もチラホラ出て来た。個人的に、原辰徳・読売監督が、監督としてそこまでの人だとは思っていないが、現有戦力を使い回すことが上手い……つまり優秀な策士の素質があることは、もう認めざるを得ないところまで来ていると思う。

 元々、ジャイアンツの選手層は厚い。昨シーズン、投手陣だけで考えても、野間口、内海、真田、鴨志田といった1.5軍とも言うべき輩が二軍にいた。これらは、チームが新陳代謝を行い、チャンスを与え、良い指導者さえいれば、いつでも一軍に来れそうだった連中。野手でも、元木という重石が取れたことにより川中に出番が回り始め、清原・ローズが去り、その代換として李が加入したことにより、ようやく基本的な流線型の打線が組めるようになった。垂涎の小坂−二岡の二三(二遊でもあるけど)番、他球団だったら四番打ってもおかしくない李−高橋由−小久保−阿部の四五六七番は、もはや卑怯の領域にあり、ノッっている矢野は、セ・リーグでは特に嫌がられる"打てる八番"。その上、李・高橋由・小久保は何時でも四番ができる打者が揃う。

 阿部の結果次第、星の成長次第と言うのはあると思うが、将来的な流れとして、星が捕手としての地位を確立し、阿部の一塁手コンバート→李を放出とは考えていそう。つうか、これに小関が入ったらどうするのよ? 小坂を(守備要員などにせず)腐らせずに使うとすれば、それでなくとも、二遊三は小坂・仁志・小久保とゴールデングラブが三人いて、毎年その最右翼になっている二岡とオールマイティ川中で、備えも万全、外野は、右・小関、中・高橋由で後は左翼をどうするかという話か……。打撃の清水の使い分けをやっていくのであれば、右翼を将来性の矢野・スピードの鈴木で使い分けていくことも考えられる。怪我したけれど、中翼では亀井を当てて、そういや山田は左翼なんだし、あぶれたのは一塁で使っても良いんだから……うわぁ……自分で考えてて嫌になってきた。

 調べもせずにだらだら愚痴っているんで、間違っているところもありそうだけど、現有戦力で考えればどうも大きな穴が無いのが、今のジャイアンツではあると思う。問題の投手陣は尾花コーチ加入でおそらく再生する。第一、彼はそれをホークスで、当の昔に実践している人。広岡、野村、王という監督として名を成した三者に仕えた経験がモノを言う筈で、選手側に意識改革さえできれば、投手王国復活はそう難しくないだろう。

 挙句、原監督自身は幾つかあるジャイアンツカラーの中でも、一番やっかいな堅守の野球・藤田野球の後継者。藤田氏とは違って投手出身ではないとはいえ、技術面を尾花コーチ他、その脇が固めるのであれば、「人使いの藤田」とも言われた流れは復活する。藤田氏は選手に対する温情采配、信頼性の高さがよく話題になるが、本質的にはコーチ陣への信頼性が高い人だったと私は見ている。各コーチの指導力、観察力、自らの方針の浸透を信頼していたからこそ、選手への信頼性も高まる道理。これは藤田野球が、理論的な管理野球であったからであって、長嶋氏(現・名誉監督)や堀内氏(前監督)のように采配に奇をてらったり、我が強いとこうはいかない。

 だから、ジャイアンツが崩れるとすれば、怪我。亀井や桑田のように故障してしまうとどうにもならない。ポイントは、クローザーとして確立しそうな豊田、精神的支柱になりつつある小久保、生え抜きで引っ張ってきている二岡の三人。これが離脱するとちょっと危険。他にムードメーカーの象徴的存在の矢野は“どのポジションでも良いから”とにかく使っているのが良いような気がする。代打だろうが交代要員だろうが。アレは将来的なことを考えても、試合感覚を抜けさせない方が良い。

 そして、高橋由が早速登録抹消の今日、小関加入が決まった。金銭トレードで小坂、無償トレードで小久保、落穂拾いで小関ねぇ……。

 この三者の場合、その移籍加入は必ずしも本人だけのせいとは言えず、前所属チームのフロントが責められるべきではあるんだが、あんまし欲しがり病を見せ付けられても。小久保の時は、さすがに他チームファンからも同情されたけれど、マリーンズはまだ分からないとして、ホークスにしてもライオンズにしても、主力が不調だったらすぐに次が出てくるのが近年常態化している。ジャイアンツも矢野みたいにようやくその傾向が出てきているんだから、補強しないでもいい気がする。チーム構成的に長嶋野球を引き継いだ前政権。それが原監督の頭にあるとすれば……ならば、ジャイアンツの怖さは一時的なモノに過ぎないと言えるのだが。


 とりあえず何が言いたいのかというと、小久保返してくれないかなぁ……という話。


 ただし、現在のホークス事情からすれば、これも痛し痒しなところがジャイアンツとは違ってくる。年齢的にも、能力的にも、小久保は“衰えていない”と言うのが実はネック。現状、ジャイアンツの主軸、キャプテンまで付ける選手が、ホークスに戻ればどうなるか。確実に主軸を打てるし、レギュラーにも当然なる。ところが、小久保、井口、城島と去られたホークスの方は、補強したはずのバティスタ切ったし、大村を入れているとはいえ、鳥越・柴原といった小久保当時の一軍メンバー・30台前半の彼らですら、いまや20代の若手に取って代わられつつある。パ・リーグは全般的に若手の台頭が著しい。今後10年を考えると、小久保自身や城島がそれで成功したように、多少の害悪は目をつぶって若手を使い続けた方が良いという論理があって、特にホークスはそれが強い。

 無論、そのためにはベテランの牽引が欠かせないから、小久保の復帰に望まれるのは、おそらく秋山(現・二軍監督)の再現であることは間違いないし、小久保もそれは分かっているだろうが……“若手はどう思うか”が問題。90年代後半、小久保らが表立って出てきた頃のホークスは、発展途上で勝利に餓えまくっていた時期。対して、若手とベテランのバランスが良い現在は、選手育成と、常勝チームという二つの課題を無難にこなしている。長年の懸案だったダメフロントは、SBへの身売りでようやく決着した。よって、今では資金面としても、王監督がGMとなったフロントも、現場陣もキッチリ回っていて、チーム内の意識改革から始めなければならなかった秋山らの加入時期とは、大きな差がある。そこに小久保が戻ってしまうと、不協和音とはいかないだろうが、若手育成が鈍化する可能性は否定できない。

 だが、同時に城島無しの松中一人では不安なのも事実で、二年連続プレーオフ敗退は、やはり頼れる打者、強力なチームリーダーの必要性を感じさせる。ほぼ同世代の城島⇒的場のバトンタッチが上手くいったように、小久保が表立っても、四、五年後にスムーズな世代交代さえできれば問題はないのだけど。

 ……(西日本スポーツあたりは大々的に煽っているが)大部分のホークスファンからしてみれば、小久保復帰はほぼ既定路線。上記のように、復帰に対して危惧があるとしても、その選手としての能力、そして外様に冷淡なジャイアンツですら支持を得たリーダーシップと指導能力にケチを付ける者はいない。……だから、それを抑えるとすれば今季の成績。原監督次第と言えるため、一ホークスファンとしては、今年の強いジャイアンツは忌々しいワケだ。



■ 関連:The Road To 勝峅金時代を築いた男」  
Posted by april_29 at 21:31Comments(2)TrackBack(0)Sports

April 12, 2006

微妙な距離感。

 猫も杓子も蒟蒻々々となっていますES界隈ですが、私は暫くプレイしませんので悪しからず。

 つか、なんで“こんにゃく”って言われているんですか、この作品?
(↑ネタバレ嫌う場合はOHPすら見ない人)

 ―――という訳で、全くこんにゃくの話題についていけないし、ついていく気もないのですが、どんなモンなんでしょうね。ショコラの時とは違って、この作品の場合“作品そのもの”や“キャラクター萌え”より“丸戸氏(with 企画屋)というライター”が妙に賞賛されていることに、微妙な距離感を感じています。このあたりは、似たような名前でも丸谷氏とは違うところだよなー……とか。業界屈指の“主人公萌え”ゲーであったはずの「ショコラ」から考えると、この方は主人公を一キャラとして捉え、かつ、その行動に共感というか賛同できないと駄目な気がするんですけどね。どちらかと言うと“青臭い大人”を書くのが巧い人であって“青臭い少年少女”を書くとそうでもないと思っています。「Ripple」と「ショコラ」しかやっていないで言うのもなんですが。(対して、丸谷氏は、少年少女の物語にゾクリとした“大人な色気”を含ませられる人。オールマイティなエロゲーライターだからこそできることなんでしょうけど。って言うか、あのOHPのキャラ紹介で、ほなにーが一番エロくなるなんて想像した人どのくらいいますよ?)

 ま、作家さんのカラーは色々考えていくと面白いとは思いますが、エロゲーの場合、それだけが魅力とは言えないからなぁ……。「姉、ちゃんとしようよ!」「つよきす」のライターさんであるタカヒロ氏は、キャラクターの魅力を最大限に引き出すのが巧い人であって、あれをテキストだけで読んでもさほど面白くなさそうだし………「腐り姫」「CANNONBALL」「Forest」の星空めてお氏は、ライターさんと言うより、ゲームシステムとシナリオ構成含めた演出、キャラクターの配置まで考えながら解していかないと、作品自体が誤解されてしまいがち。

 ただ、ゲームテキストで評価されるライターさんには、共通して“台詞回しが巧い”という傾向はあるでしょうね。それがプレイ中におけるテンポ良さを生み出して、プレイヤーを飽きさせない。これはフルボイスが一般的になって特に顕著です。だから、このボイス含みの掛け合い(会話)を自然なモノに仕上げられないライターさんは、人気が出ないと思いますね。もしくは、小説家的なライターである奈須きのこ氏みたいに、ハナからフルボイスなんて考えない……といった手もあるでしょう。今度コンシューマー化するFateも、ボイスが入った場合、PC同様のテンポで読めるかどうかは分からない。単純に考えて、PhantomやデモンベインのPS2版と同じくテンポの悪さが指摘されそうな気がしています。プレイヤーにとって、脳内補完に勝る“エフェクト”はありませんからねぇ……。

 それは、プレイヤーに“読まれる”テキストと“聴かれる”ボイスが同時並行する弊害。人間、読む速度と聴く速度が違いますからね。星空めてお氏のレベルまで来ると、これを利用して演出に活用したりしていますが、読むと聴くをキチンと考えてゲームテキストを仕上げるとなれば、それはもうライターさんだけの力ではなく、制作チーム全体の功績。ならば、普通は全体的な“作品”を評価しても、ライターさんだけを褒めるのはナンセンス。

 ………だから、微妙な距離感、ですね。



■ 関連:Marginal,4/20

  
Posted by april_29 at 02:34Comments(21)TrackBack(0)Personal

April 10, 2006

沙耶の唄が診せる写実と心意、男性主導/女性主導、下。

■ 前記事:「男性主導/女性主導、中。」 



 「腐女子の気持ちがヲタに判るわけがない」


―――とまで言われてしまったのがちょうど昨日のこと。前エントリ「エロゲーが本質的に男性主導の性的文化であるにも関わらず、その作品の多くが女性主導の展開になっている、現状の歪み」と私が書いたことによる女性読者さんからのメール上でのやり取りで、彼女が最終的な結論としたことです。勿論、ご本人は、こう書いたわけではありません。この方は『男性主導/女性主導、上。』『男性主導/女性主導、中。』を通して、メールで意見をもらっていましたが、今回、“(自分の書いたメールの)テキストを直接使わないこと”、“ハンドルネーム含めて性別以外のプロフィールを出さないこと”、以上を条件に内容を使わせて貰っています。


>凌辱系以外の作品は、男性主導/女性主導を区分していくと、主流は女性主導です。これは、比較的主人公が主導的な意味を持つ作品でも、物語のキーポイントとなるキャラクターを挙げると女性であることが多い。
(注:記事引用)

「男性主導/女性主導と言っても、それは9791さんだけの好みではないのですか? ボブゲ(BL系)でしたら女性が購買層でも男性主導ですし、乙女ゲーでしたら女性が購買層でも女性主導と言えませんか? その場合、男女の関係は、エロゲーとは逆ですよね? 女性が性的な意味でボブゲ(BL系)や乙女ゲー、エロゲーをやっていると思っておられるのであれば、少し違うと思います。」
(---『男性主導/女性主導、上。』後メール、内容は筆者再構成)

>女性がエロゲーを買う目的は性的な意味だけではないと言うのは分かります。
>では、ご不快になるのを覚悟でお聞きしますが、何を楽しんでいらっしゃるのです?
>男にとって、エロゲーは性的な快楽を引き出すモノであることは否定しません。
>もし、○○さんがボブゲ(BL系)や乙女ゲー、
>エロゲーをやっている理由がそうしたものとは違うのであれば、
>どこに面白みがあるというのでしょうか?

(注:私の返事メール,茲螳用)

「男性が女性に対して『萌え』といい、それを楽しむということと同じです。キャラクターを楽しんで、シナリオに面白みを感じているんだと思います。男性のおたくが、可愛い女の子を愛でるように、女性は、可愛いキャラを愛でる。ただ、男性が大概女性キャラに『萌え』が集約されてしまうのに対して、女性の好みは広いです。ショタだけではなく、同じ女性にも、親父にも、萌えられます。」
(---,悗諒峪/『男性主導/女性主導、中。』後メール、内容は筆者再構成)

>それがボブゲ(BL系)や乙女ゲー、エロゲーをやっている理由ってことでしょうか?
>ぶっちゃければ、男性よりプレイ意欲に性的な意味がないから、純粋に楽しめると?

(注:私の返事メール△茲螳用)

「わたしはそうです。だから、女性は男性のように一つの作品、一つのキャラに皆が集中してしまうことはそんなに多くないです。その代わり、自分のひいきのジャンルには偏執的なこだわりがあるとおもいます。わたしの感覚からすると、男性は皆でお祭りのようにエロゲーをプレイしますが飽きっぽい。女性はジャンルにこだわらず、自分の好きなゲームをマイペースで長くやってる感じがします。」
(---△悗諒峪/『男性主導/女性主導、中。』後メール、内容は筆者再構成)

>エロゲーが本質的に男性主導の性的文化であるにも関わらず、
>その作品の多くが女性主導の展開になっている、
>現状の歪みが垣間見えると思うのです。

(注:記事引用)

「男性はエロゲーを一種の使い捨ての悦楽にしているのではないでしょうか。そして、男性は女性キャラの綺麗な部分しか見ない。9791さんはずいぶんと、キャラクターへの好悪、特に男性キャラについて書いてくれますが、たぶんそれは全体から見れば少数派。わたしはそれを男性側が改めない限り、腐女子の気持ちがおたくに判るわけがないと思います。」
(---△悗諒峪/『男性主導/女性主導、中。』後メール、内容は筆者再構成)

(注:上記内容、質問者への女性の文章については、大意的に筆者がまとめた上でご本人に許可を得た。また、腐女子・おたくというメール中で使われた言葉についても、ここでは最後を除いて、男性・女性に置き換えている。これは、筆者と質問者の間でこの用語の意味の捉え方に違いがあったため。)


 この時、質問者の女性の方と私とで共通認識となったのが「沙耶の唄」。いや、同じ作品をプレイしていると理解が早くて助かりますが……要するに、あれが男性のエロゲー認識の象徴ではないか?……と。


 ―――沙耶を抱けますか、貴方は?


 沙耶は主人公の認識上では儚げな美少女ですが、現実では異形の存在。それを知った上で貴方は沙耶を抱き、沙耶と添い遂げられるのか。“男性は女性キャラの綺麗な部分しか見ない”……それを超えて、明らかに異形といえるもの、“見た目だけ貴方は殉じれるのか”。既にネット上では繰り返された論ですが、郁紀は男性ヲタのメタファーなんですね。私的にまとめると―――


 郁紀=男性ヲタ(認識狂い)

 沙耶=エロゲヒロイン(男性ヲタの理想的女性像)

 耕司=一般人男性(価値観の相違を認められない)

 青海=一般人女性(好奇心は猫をも殺す)

 瑶=腐女子・ファン&追っかけ型(いつの間にか深みに嵌る)

 凉子=腐女子・創作型(自分が主導しないと気が済まない)


 郁紀であるヲタは、ヒロインである沙耶に理想を求め続ける。それが最終的に破滅をもたらそうとも。エロゲーは性的描写が不可欠であるならば、沙耶は本質的にはどんな姿であろうとも、郁紀の前だけは“理想の少女”になり続けられる。これは性的な意欲が郁紀にはあったから。そして、沙耶は郁紀に対しては無私であったから。

 つまり、男性の性的意欲は、ヒロインの外面から入って内面に向かう。外面=理想で、内面=無私。そのため、男性主導の物語であれば、これを男性視点で、女性主導の物語であれば、これを女性視点で描かれなければならない。それは男性主導の物語では、男性が主導するがゆえに、男性(主人公含む)の女性に惹かれる理由がヒロインへの理想像を形作り、女性主導の物語では、女性が主導するがゆえに、女性の男性(主人公含む)に惹かれる理由がヒロインの内面をより強く伝えるからです。

 即ち、男性主導の物語とは“ヒロイン外面の理想を強化する(=写実性を高める)”作品像であり、女性主導の物語とは“ヒロイン内面の心意描写を密にする”作品像にならなければ、プレイヤーが求めるキャラクター像と、現実のキャラクター像は乖離する。

 これが外面的にすれ違うと陵辱であり、または(理不尽な)グロ描写に繋がる。さらに内面ですれ違うと恐ろしいまでのプレイヤーの反感を買う。よって、前者が「マブラヴ オルタネイティヴ」における作品批判であり、後者を最大規模で体現してしまったのが「下級生2」。そして、“どちらもしなかった”ために“エロゲーとしてどうにもならかったのが”「Piaキャロットへようこそ!!G.O.」。

 エロゲーが本質的に男性主導の性的文化であるにも関わらず、その作品の多くが女性主導の展開になっている、現状の歪みとは、結局、「腐女子の気持ちがヲタに判るわけがない」と言われたのと同じこと。……所詮、男性に女性の気持ちは分からない。だから説明が欲しいのが男性側の主張。それを“理想像に沿って”と男性は望む。

 ところが、エロゲーライターの多くは男性。「所詮、男性に女性の気持ちは分からない」のであれば、ライターにとってキャラクター的には“理想”を形にするのは楽でも、内面の“無私”を浮き彫りにしていくのは難しい。人間的な“無私”を描くためには、そこまでの物語と心の動きを追っていかねばならない。女性ライターがいたとしても、女性の趣味の広さが災いして、自分が書く女性像が必ずしも男性の“理想”に合うとは限らない。つまり、エロゲーが本質的に男性主導の性的文化であるための歪みとは、詰まるところ、単純に物語として(ゲームとして)楽しめるだけではなく、性的嗜好が入り混じり、そこに男女のエゴが混じらざるを得ないところにあります。さらにそれを普遍的に共感を求めなければならないという販促上の問題も絡んでくる。

 このため、エロゲーテキストは“キャラクターの写実描写”と“キャラクターの心意描写”は、漫画やライトノベルよりはるかに密になる傾向があります。また、陵辱系・純愛系に関わらず、物語性が無くても作品としては成立することもありえます。最近ではキャラクターの魅力とその日常描写オンリーでアニメ化まで至った「つよきす」が良い例。それは、いわゆる人間描写に特化したエンターテインメント。ならば、エロゲーにおける男性主導/女性主導とは、その作品の“売り”であるヒロインを描写するにおいて、その手法の写実描写重視/心意描写重視の差異とも言える訳です。そう考えれば、ALICESOFTやLeaf、Caramel-Boxは、主人公視点(客観視点)からのヒロインの写実に心がけ、その内面をプレイヤーに推し量らせる作りを基調にしている。逆に、minoriやage、Liar-Soft、Nitro+は物語中に女性視点を加え、その内面を描写することで物語全体におけるキャラクターの行動に整合性を与えて、その魅力を強化している。

 現在、女性主導が主流であることを考えると、男性は女性心理を推し量るような作品はあまり好まないのでしょうね。外面の“理想”を萌え絵で覆って、内面の“無私”を男性好みに描写すれば、作品に不評は出ない。男性主導でもヒロインの内面を一々読み込んでいかないと駄目なのであれば、それは現実と変わりがありませんから。したがって、ヒロインの内面描写が密な作品ほど、それは男性好みにデフォルトされている可能性があることを、私たちは忘れてはいけません。(逆に女性が写実的に描かれているほど、実は描写としては現実の女性に近くなる。)

 そして、エロゲーがエロゲーたる所以。それは“ヒロインの存在にある”ということ。萌えゲー、燃えゲー、ジャンルを問わず、これが基本。これを満たさないとエロゲーにならず、BL系の方向に行ってしまう。だからエロゲーにおいては、物語の男性主導/女性主導という話ではなく、ヒロインを写実描写重視/心意描写重視どちらを重視して描くか……その違いが生まれていく。

 かつて、Liar-Softはその双方を満たすために、物語中の写実と心意の場面をバラバラにして読者に再構成させるという手段を取ったこともあります。「Forest」という作品がそうです。(この作品は色んな意味で異質ですが、こんなところも異質な作品。)……だから、この作品と同じように、私も皆さんに問いかけましょう。

 
 ―――沙耶を抱けますか、貴方は?


 ………そのとき、貴方は郁紀(男性視点からの写実)に共感しているのか、沙耶(女性視点からの心意)を思いを寄せているのか………それとも、物語自体を否定するのか。沙耶は、エロゲーの写実描写と心意描写の結合により生まれた存在。それをどう認めているかどうかに、エロゲープレイヤー間の認識差異が出てくると思いますね。


■ 参考:
0号線「ボーイズラブとガールズラブ」

■ 関連:
bmp_69雑記「『萌え』られる女の絶望について」
Judgeの華麗なるエロゲ生活「非異性愛論2」
The Road To 勝屐愃嗣蹐留粥戮ら見る主人公論『萌えゲーの主人公はなぜ無個性なのか?』 
止まり木に羽根を休めて「思ったこと徒然」
0号線「性の視点」

  
Posted by april_29 at 06:15Comments(312)TrackBack(0)Subculture

April 08, 2006

ユダの福音書。

「13枚のパピルスに古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの福音書は、『過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示』で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、『お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる』と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。」
(---Apr.7,2006 読売新聞)

■ 参照:アンカテ(Uncategorizable Blog)「幻の「ユダの福音書」スレ」
(via:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「日々雑感060407」

 パピルスにコプト語、おそらく出処は北アフリカ。真偽はともかく、神格され人間として直視することがタブーになっている、「人間キリスト」を語るには面白い素材なのかも。つか、「ちょ、これなんてゲルモニーク聖典@FFT?」なんて言われたら、こちらも本気でそうとしか見れなくなっちまった気が。

  
Posted by april_29 at 03:04Comments(0)TrackBack(0)Current Affairs