August 12, 2005

「SWAN SONG」評。

 初出:ErogameScape「SWAN SONG」2005年08月12日05時12分34秒



 この作品には二つのエンドが存在する。一つはいわゆる破滅まで描いたバットルートであり、後一つは、そのクリア後に現れるハッピーエンド。・・・「そんなに私を馬鹿にするのなら、私も、もうやりたいようにやってやるんだ。」・・・劇中の柚香の台詞だが、それは果たして、登場人物の言葉か。“Le.Chocolat meets FlyingShine”と言う長いブランド名に込められたアレコレに思いを馳せると、この作品も“やりたいように”作って見せたのだろう。

 全てが崩壊する震災の中で、人は正気を保てず狂っていく。この物語が描いたのは、その破滅までの過程だが、結局、何が怖いって、流される大衆だよなぁ・・・と再認識する。罪の自覚のない“モブキャラ”ほど最強である存在はいない。何しろ、こちら(=プレイヤー)から見えないのだから何も出来ない。ハッピーエンドで全てに目を背け、鍬形に罪を押しつけた人々。座敷牢とされた部屋での鍬形の独白は、そんな自分勝手な世情への皮肉で満ちる。彼はあくまで罪を認めないし、謝らなかった。自分がやったことは正しいと、少なくとも、あの時点では皆、自分を支持したのではないか?・・・と。・・・・・何となく、そんな偏執的な悪意と、そう描く制作者の心理状態の方が興味が出てきた。一個人の個なんかより、よっぽど集団の方が暴走しやすい。この作品では、彼らと全く群れずに生きていた二人、笑いまくるサラリーマンと人間嫌いの人を提示していたが、多分、あれがもっとも安全かつ長く生きれるコツなんだろうと思う。

 人は人によって評価されることで、自己を認識する。だから、全く群れずに生きていた二人は、人であったがこの物語は人としての姿を描かない。人を排他する存在を人には描けないからだ。鍬形は他を排他し、大智の会を滅ぼしてもなお、敵の存在を狙い、最早、敵意のない田能村を襲う。鍬形は、気の弱いときも常に人の心を気にしていた。結局、彼こそ、人に依存しないと生きられない人間。今回の破滅までの過程を見れば、その上に立つ人間の特性が大きく影響したことが分かる。最初に上に立っていた院長は、感情に廃して生命を優先し人に依存しなかった。協調を呼びかけ、常にパワーバランスを考えた飛騨は、それに故に弱腰と見られて殺されたが、彼は人を適所に割り振り、その能力を相反させないことで最後まで自己の権力を自制し続けた。それは田能村も同じ。ただ、田能村の失敗は、鍬形に自警団の指揮をさせてしまったこと。「君なら、そんなに殺伐としないかな」・・・最初になぜ田能村を飛騨が自警団のリーダーとして選んだのか?・・・その理由に田能村が頓着していれば、鍬形に任せることはしなかっただろう。独善は人間社会の毒だ。正義ほど人を殺した主義主張はないのであって、それを安易に権限割譲に至ったことが、結果的に自分の首を絞めている。そして、最後のリーダー、鍬形の弱さは、人を害することを強さと錯覚したこと。人を害する人間は、実はもっとも人に依存している。害する対象がいなければ、自己の精神を保っていられないからだ。特に鍬形は、最後に彼がやっていることに対する“言い訳”は、当初の警官たちと全く同じであることに気付いていない。

 割り振られた配役は何だろう?・・・と考えてみる。

 一番分かりやすい配役は、鍬形。・・・偽善。・・・自己の立場を人の上に立つという虚飾でしか飾れない男。自ら定義した正義しか信じ得ず、協調を望んだ人々を追いやり、自分勝手に破滅的な状況に追い込んでいく。彼は自分で行動すると言ったことを当初することができずに鬱屈し、それが、柚香への思いと希美への責任感、さらに田能村・司への軽い嫉妬、幾つか背景があったにせよ、自分の無力をさらけ出された瞬間、絶対的な力の信奉者に変わる。彼が見せる弱さの特性は、独裁者に共通した猜疑心そのものなのかもしれない。「健全な精神は健康な肉体に宿る」なんて言いたくはないが、コンプレックスを持つ人間・・・自分の力を自制できない人間に刃物であれ、技術であれ、持たせるものではないらしい。

 これに相対する配役は、田能村。・・・理性。・・・感情のままに生きる人に見えて、彼こそが理性の象徴だった。彼がいなくなったことで、“自警団”は自制を失い、正義と秩序の名の元に、生命は軽んじられていく。周囲が狂気に犯される中で理性を保たざるを得なかった彼の悲劇は、最後は雲雀以外に味方がいなかったことが端的に示すが、本人は最後の最後で一人の少女の愛を得ただけでも、満足し得ていたのかもしれない。ただ、この物語のバットEDとハッピーEDの分岐が、彼の選択に拠るものであることは重要だろう。理性の象徴である彼がこの街を見捨てれば、破滅は確定する。彼は逃げることでも待つことでもなく、積極的に打って出ることによって、その死を避けられるのであり、彼の死は、街の死と同義でもある。

 女性的心理の側面である“母性”と“女性”の対立は、雲雀と柚香に割り振られた。

 やはり分かりやすいのは、雲雀。・・・母性。・・・柚香に対する妹的スタンスだと思われた彼女は、あろえと子供の世話の仕事を通して、母性的な側面を開花させる。信用できない“集団”より、信頼できる“個人”を取る彼女のスタイルは、見ている側としては気持ちが良い。一見、我が儘のように見える彼女でも、自分を大切にする視点というのは間違えない。そして、だからこそ、他人に対しても自我を認め大切にする。彼女は自己の正義を持つが、その精神が他人の犠牲を良しとしないから、ハッピーEDではひまわりの種を渡す。彼女自身は自分がやりたいからとか、人に押しつけておいて、自分は忘れること確定とか言っているのだけど、精神的には田能村と同じく、もっとも健康な女性だったのだろう。彼女が田能村に惹かれ、バットEDでその死を知りながら、破滅の瞬間まで子供達を助けようとする様は、母親的な強さ、優しさを示しているだろうと思う。それは、希美の母親が希美に対して押しつけた愛情とは明らかに違う。

 難しいのは、柚香。・・・女性。劇中の鬱屈した心理を一人で象徴する彼女のテーマは、この物語では完全には描かれなかった。彼女が本質的に隠し持っている情念を描くには、この物語の舞台はあまりに異常であり、非日常でありすぎたと言える。彼女だけがバットEDでもハッピーEDでも、ギリギリまで自ら行動起こすことなく、まるで、プレイヤーの視点を代表するかのような日常を語っていた。だが、結果的にはそれがフェイク。“非日常”で狂っていく鍬形と運営部に対して、彼女こそ、静かに“日常的に”狂っていた。彼女に何があったのか、それを描くには、この舞台は相応しくない。司は、彼女のために危険を承知で学校へ帰還するが、司はともかく彼女は彼のためにそこまでできたのかどうか。もしかすると、哀しむだけで・・・ただ、何もしなかったのかもしれない。しかし、バットEDでは、司の左腕切断というショック、ハッピーEDでは雪崩というパニックでの対処を見ると、彼女は自分の命に対する等価を誰かに認めて欲しかったのだと思う。助ける行為があるのではなく、自分の命を賭けた結果として、誰か生きて欲しい・・・自分のために生きて欲しい。その結果を見てみたい。・・・随分なエゴだろうと思う。そして、物語は、その彼女の内面を告白させた時点で終わり、その経緯については語っていないし、これはバットでもハッピーでもそうだが、彼女は、この物語で何一つ自分で岐路を決めきれなかった。

 バットEDとハッピー絵EDの区分。これは推測だけど、この物語において、本質的な意味でのハッピーEDは存在しない。どちらのルートに行こうが罪もない人々は残酷に殺されていき、鍬形の狂気は確実に起こる。鍬形は自分で認識せずに、加速度的に学校と寺という限定されたコミュニティを崩壊させていくから、この二つのエンドは、結果的に全滅するバットEDと、残存し共存するハッピーEDと違いがあっても、その経過に違いはない。つまり、この物語が描く、絶望的な状況下における人間不信に差はなく、であれば、この二つのエンドの差は、“全滅する”と“生き残ること”で差を付けているのではなく、最終的な場面において、その人間不信が“極まったのか?”“解消されたのか?”で差を付けていると言える。

 その例として挙げられる柚香の独白。バットED・教会で示される彼女の言葉は、最期まで司と咬み合わない。

 司は、あろえが死した教会において、彼女の遺作となった継ぎ接ぎの像を「あろえが一つ一つ手で貼り付けたから」・・・すごくいいと言う。柚香はそれを分からないとして理解しようとしない。確かにそれでは説明不足なのだ。司が言いたかったのは、その前でモノローグで語られたオーケストラの公演が下敷きになっている。あの「オーケストラが死ぬ」というくだり。

 「オーケストラを構成する演奏者。彼らはそれぞれ別の場所に行くだけで、誰一人いなくなるわけではない。彼らに会おうと思えばその機会はあるだろうし、それは何でもないことなのだ。どう考えても、形ある何かが減ったわけでも、失われたわけでもない。」

 オーケストラが人の集団であるならば、人が存在する限り、オーケストラは再生できる。だが、この地において結成された“絆”としての“集団”は、一度に各演奏者が“個”に戻れば二度と再生できない。司が凄いと感じたのは、その輝き。人が集団で動き、その個に別れる瞬間を輝かせる人間の一体感そのものこと。

 だが、それを戻すのは簡単。あろえのように一つ一つ見つけて元の形に戻せばいい。だが、それを前と同じと言えるのか?・・・形だけ同じでも、作った人間が違うのであれば、別なものになりはしないだろうか?・・・この破滅の後、生き残って世界が再生したとして、あんな殺しあいをした人々が“同じになれるだろうか?”・・・もし、それをやるとすれば、あろえのように一人一人が、自分で社会を形成し直そうと一定の形を形作られければ、見た目が綺麗でもすくに崩壊していしまうのではないか?・・・司はそれにようやく気付く。だが、それを伝えるには、彼には時間が無さ過ぎた。彼に出来るのは、その希望を与えるように、像を立てて眺めるだけ。最低でも、柚香にそれを伝えることだけなのである。

 また、バットEDの独白を見ていれば、ハッピーEDで柚香が言及する“雪”とは何か?・・・以下の問いで何を彼女が悩んでいるのかも分かるだろう。

 「本当のことならば、全てが白日のもとに晒されてしまうのが、絶対正しいことなんでしょうか。全てを美しく覆い隠してしまうのは、そんなに悪いことなんでしょうか?」

 司も柚香も、結局、分かり合えない。でも、実際、我々の生活はどうだろうか?・・・何かを隠して生きているのはむしろ多くの人に覚えがあるのではないか?

 最初から、制作者達は、この物語で司と柚香を理解させる気はなかったのだろう。鍬形と希美が最後まで心が重ならないように。相互理解させるペアは、田能村と雲雀だけで十分。その証拠に、バットEDでは、鍬形は自己に、田能村は仲間に、雲雀は母性に、司は柚香に、あろえは自分の創造性に殉じたのに対して、柚香は何も選ばず取り残される。ハッピーEDでも、鍬形は自分自身を嘲りながら生き残り、田能村はコミュニティの維持に奔走し、雲雀は未来を考えてひまわりの種を拾うのに対して、彼女は迷ったままだ。

 “迷い”というのは明日を生きれる者の特権。迷わなかった鍬形が行き着くところまで行ってしまった・・・非日常に比べれば、ここでは、彼女の“迷い”は“生きていること”と同義、日常の象徴としてある。物語は、人の“集団”における人間不信の残酷さと、その解消の芽が現れたところで閉じた。柚香の“迷い”は、この物語の主題ではないし、もし、あるとすれば、別な物語として描かれるべき話になる。

 最後に、なぜ、あろえというキャラクターが必要だったかについて書く。


 今まで論じたように、物語の主題たる部分は、最初の五人の仲間達で全て描かれる。ならば、どうして、自閉症とされる少女をわざわざ配置する必要があったのだろうか?・・・よくある“泣きゲー”だったら、途中で病状回復あたり描きそうだったが、この作品ではそんなことはしない。彼女は生きようが死のうが、あのままなのだ。

 姉に「殺して下さい」と言われたあろえ。「生きれるはずがない」と言われたあろえ。答えの鍵となるテキストは、実は本編には無く、体験版として配布され、OHPで「プレ・スワンソング」と題されてUPされている、あの震災以前のあろえを描いた物語の方にある。

 「この子は、一人で生きることが出来ないくせに、他人が常に傍にいなければ駄目なくせに、自分を孤独から守る方法をまるで知らない。そもそも他人というものがわからないんだ。すぐ傍にいる私さえ自分と同じ人間だと理解することが出来ていない。自分を守るものを何一つ持たずに、生まれ持った柔らかい皮膚の体一つで、生きている。心がどうかなんて知らないけれど、生きているのは本当だ。」

 ・・・姉があろえを評した箇所だが、“一人で生きることが出来ない”“他人が常に傍にいなければ駄目”“自分を孤独から守る方法をまるで知らない”“他人というものがわからない”“自分と同じ人間だと理解することが出来ていない”・・・以上のセンテンスは、今、“ここまでの文章で何度か使っていなかった”か?

 そう、“一人で生きることが出来ない”から、人は社会を形作り、田能村はこれに命を賭けた。“他人が常に傍にいなければ駄目”だから、雲雀は母性を保持し、排他的な集団より、親密な個人を選ぶ。“自分を孤独から守る方法をまるで知らない”から、鍬形は虚飾に走って偽善を掲げ、“他人というものがわからない”から、司は他人と付き合うのに疲れ自己の努力に没頭した。最後に、“自分と同じ人間だと理解することが出来ていない”から、司を理想に高めた柚香は、司も自分同様悩み抜いて生きてきたと言うことを理解しない。あろえは、五人の問題を映し出す鏡であり、同時に、コミュニケーションが不足したことによって破滅していく物語において、我々、人の業を集約した存在として、彼女はここにいる。彼女が返事を繰り返すように、壊れたものを作り直すように、アプローチが積極的であれば、最初から大智の会と学校のコミュニティも共存できた。それを覆したのは、鍬形と希美の人間不信と、大智の会の閉鎖性・・・つまり、内面も確かめようとせずお互いに不信を募らせていった過程であり、あろえへアプローチするキャラクター達が“あろえの考えとは何か?”と類推する、それと同じことをすれば良かった。

 どれだけの人が、あろえのような人たちと話したことがあるのかは知らない。ただ、彼らへ話しかけるような真剣さと真摯さを普通に生活している人々へも振り向ければ、多くの誤解は無くなるに違いない。あろえの存在が、すれ違うキャラクター達を皮肉り、柚香が生き残るという結果が、人が自分の弱さを隠すということの滑稽さを浮かび上がらせる。柚香の内面性を重ね合わせれば、制作者には平和な世界に生きているのであれば「迷えばいい」という意図があるかもしれない。迷って迷って、平和な世界を苦しんで生きてみれば良い・・・その“迷える”という余裕が如何に、私たちの平和を肯定し、幸福なことであるのか?・・・あろえと柚香の存在は、それを教えてくれている。


 ラストで白鳥は空を飛び、地にはひまわりが咲く。それが願わくば、最後に残された柚香の“雪解け”の心象であることを、私は願って止まない。



 参照:「プレ・スワンソング



この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/april_29/50003963
この記事へのトラックバック
12月3日コンプリート。
雑記「SWAN SONG??神話の鏡像??」【HOTEL OF HILBERT】at December 05, 2008 01:43
この記事へのコメント
swan song
一度でいいからやってみたいと思わせる論評でした
エロゲやってまだ1年ちょっとですが、この世界もなかなか面白そうで…

しかしこのゲーム、もう売ってないな…
中古でもプレミアついてるみたいだし
Posted by 目玉 at June 10, 2007 06:23
『よくある“泣きゲー”だったら』

 とは…良く聴く言葉だが、つまらん言葉だなぁ


このゲームで印象に残ってるのは‥文字が8行ぐらい一気に表示される事。
 (実際どうなの?あれでいいのか、スタッフ?)
Posted by あ at September 29, 2007 19:36
ここまで作品を読み込めてるのに評価は高くないのが不思議ですね。
あろえの考察には驚きです…そういうことだったのか
Posted by h.t at April 14, 2009 03:31