January 18, 2006

囃と楽、威と感。

 囃。


 古典芸能略式演奏形式の一。舞が身体的表現活動(武との共通性)を指し、謡は言語的(歌唱含む)表現活動を指すとすれば、囃とは拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽を指す。これは、歌舞の調子をとる意を持つ「囃す」が転じたものである。意味する奏楽は主に打楽器と管楽器(芸能によっては三味線なども)により演じられるが、本来の意味においては、奏楽は従たる意味に過ぎず、舞の拍子に合わせ謡の調子に合わせる、つまり“本筋を「引き立てる」”“本筋に「付き合う」”に、重きが置かれる。これは「囃す」が「栄やす(映やす)」と同語源より来ているためであり、これがために、能楽において(謡に対して)「囃子」と称され、謡にあわせるためにあえて拍子を合わせずに奏でることを「あしらい」と称している。

 この意で言うなれば、囃とは「とある対象を引き立てる行為」そのものを指しているといって良い。面白いのは、舞や謡とは違い、この対象が善悪構わず、好悪問わずという点であって、例えば「言い囃す」「囃し立てる」「打ち囃す」とは、各々「噂する」「嘲る」「煽てる」という意味が付随し、必ずしも対象に対して好意的な意味を持つ言葉ではない。同語源である「栄やす」が好意的な意味で捉えられている事から考えると、囃が口語として扱われるうちに、やや貶められた経緯もここでは伺える。それは能楽、狂言、歌舞伎といった芸能が、明治期までは被差別的な扱いを受けてきたことから考えても構わないのであるが、ここではもうひとつ別な視点を提示したい。

 技の差違という見方である。囃のみが、大衆的な言葉として溶け込んでいったのは、舞・謡と違い、特殊技能に依らなかったためではないだろうか。本来、人々による精神的教義または法規として存在した祭儀は、国が制度を整えていく中で儀礼化し、大衆から遠ざけられた。外来より取り入られた仏教、公界より生まれた芸能が権力に認められ、次第に世襲化、権威化していく世情で、民に許されたのは、音(声)を出すことだけ。奏でる囃、打たす囃、発する囃、音のみで表現できるゆえに、それのみが何もない民が可能とし、それが楽しみの一つとなり、表現の一つとなる。だから、貶められた。正確には、民の言葉として“降りて来た”。その過程で本義にない悪意を取り込んでいくのは、この言葉が“人の行動を示す”言葉にまでなったためである。

 言葉は常に両面の顔を持ち、人の基本的な行動を示す言葉ほど、“好悪どららでも意味する”言葉として使われる。よって、先に述べた「言い囃す」「囃し立てる」「打ち囃す」は、好意的な意味においては、「褒める」「称える」「調子をとる」ともなる。皮肉な話だ。人に対して純である言葉ほど、その言葉は二面性を持つ。それが日本語の曖昧さの根源の一つ。明治に口語文語が統一された結果、言語表現が急速狭められ、しかも、表音のみで取り入られた外来語を“後付で”意味を与えるという、特有の親和性の高さは、今に至っても同義の言葉が氾濫するのが当然、という(現代日本語の)特殊な言語形態を誕生させた。それは、上記のように歴史を持つ、囃だけではなく、新語としての「萌え」もまた、同じなのである。

 萌えが“行為を伴う”行動と“心意的な快楽”の動静二面を持つように、囃とは、それひとつが行為を指すと同時に、人のとしての楽しみも意味した。言うなれば、人間、囃し立てる“場”が楽しいのであって、囃し立てた“対象そのもの”を楽しんでいるのではないということである。


 故に、祭囃し。


 人は、祭る(祀る)ことを楽しむのではなく、その行為を楽しむ。行為に酔い、その好意を引き立てるために“囃子”を入れる。囃とは集団的な快楽であり、孤独を癒すと同時に、時には、集団的な暴力を意味していく。ただ、それは過程であり、結果は何ら関与しない。結果が出ればそれは空しさしか残らないのである。快の逆として、祭りの後(跡)が空しさ、寂しさの象徴とされるのは、このためとも考えられる。祭られる対象は、道端の石でも構わない。祭が終わったとき、祭られた対象は神性を失い、それが敬意の対象とならなければ打ち捨てられる。


 舞は瞬間、謡は余韻、囃は行為までが、その楽しみ。


 真物は、その“後(跡)”に威を与える。だから、楽しみを“感じられる”。娯楽の真価はそこにある。これは芸能ではなくとも、書籍でも遊戯でも変わらない。そして、その威は好意だけとは限らない。悪意もまた威である。好き好きならば尚更。よって、その“後(跡)”の忘却と無視こそ、囃の楽しみにおける行為の比重を大きくし、その対象の威の無さを浮かび上がらせると言える。(即ち、後に感じえない、残らない作品は、囃し立てるのが楽しいのであって、作品そのものは楽しんでいないということ。)


 囃は楽、好悪二面、動静二面。


 それ無きは、哀を意味して楽を為さない。娯楽とならないのである。









 蛇足。



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 ・・・実はこのエントリは、この両記事についての私流の答えだったり。「ひぐらしのなく頃に」をプレイしていないと、まったく意味がわからないと言うより、内容が明後日の方向を向きすぎている気が。

 きじるしさんへは、オルタだから良いとして、Judgeさんの「蝿の王」への話については、(なぜか、尻切れトンボな言及になっているけど)bmp69さんが指摘していることをJudgeさんが分かっていなかったのであれば、こんな言い方は(ノーベル賞云々以前に)仕方がないと思います。ただし、批難している方々は、Judgeさんが“読後感としては”と条件をつけていることを忘れないほうがいいでしょうね。

 どんな良い賞を貰っていたって、楽しくない作品は楽しくないし、面白くない作家は面白くない。

 これが基本。・・・作家の名前で面白さが決まるわけでもないのであれば。

 私はライトノベルとゲームテキストを同列に比較すること自体、嫌がる人なんで、むしろ、同列に並べるべきではない作品同士を比較したことの方が問題だと思うんですがね。また、その作家(作品)のバックボーンについて無視して(いるように見える)評をしたことも問題ですが、個人の知識とか嗜好は批難すべき箇所ではないですよ。

 「蝿の王」に話を戻すと、Judgeさんが読後感云々でゲームの方が良い・・・って結論を出したのは、わりかし間違いではないんです。正直言って、「蝿の王」って名前は有名ですけど、日本人がゴールディングの背景知らずにこれの批評書くと、大概、哲学論になることが多いんですよね。「悪を寓話的に描き出した」とか「子供の無垢の裏に邪気がある」だとか。イノセントの否定、善悪を区分して哲学論に逃げてしまうんですよね。

 なぜかと言うと、(ほとんどの)日本人に神がいないからです。

 正確に言えば、宗教が無いんですよ。宗教による“善悪の物差し”が無いから、人間の哲学で作品を見ていく。大人が争うのは当然だ、子供は無垢だから争いがない・・・と言う感じで、「蝿の王」は混乱を描いているんだから、悪と罪が描かれ、そこから助けられることが神性の善意なんだ・・・とか言っちゃう人がいる。何で、物語中に原始宗教の芽生えみたいな描写があるのか、何で彼らの世界が“戦争中”の世界であるのか気にも留めない。ゲームとは逆で、キャラクターに囚われて、“物語を読もう”としないのですよね。物語中に割り振られた“配役”の意味について考えようとしない。

 宗教から言えば、神と人間は差違があり、人は本質的に罪がある。なのに、もっとも無力な赤ん坊として神は地に降り、祝福を与えるべき人の世界において、罪人として死ぬ。・・・・・・ゴールディングが言う「人間というものが侵されている根源的な疾病」は、すべての始まりから明示されているわけです。

 物語中の少年は、人間本来の姿。悪を描いたから人間本来だと言うんじゃない。たまたま、原始の状況に戻されたから、原始的な混乱に陥った・・・・・・そして、それは彼らの“現実”たる世界の戦争もさほど変わりが無い。ただ、手段と大人が主導しているだけの違いがあるだけ・・・・・・だから、その世界で、自分の獣性に気づくことがどんなに凄いのか、そして、それを認めないのにも関わらず、現実に戻っても同じ世界しかないことがなんと滑稽なことなのか・・・・・・まぁ、私はそう考えているんです。

 以上の点からすれば、bmp69さんが指摘しているように、「SWAN SONG」は、あろえの存在自体が甘い。ゲームの演出上、シナリオ構成的には仕方が無いのですがね。あろえは人間関係を表す象徴。各々のキャラクターの悪意を映えさせる為には、比較対象として一人無垢的存在を置かないと、訳が分からなくなる。「SWAN SONG」の良い所は集団的な悪意を鍬形一人に集中させているように、メインキャラクターに各々配役を与えて、その思想における代表的存在に仕立てていることです。それは「蝿の王」よりは分かりやすくて、面白いですよ。立場がみんなハッキリとしているんですから。したがって、エンターテインメント性について言えば、Judgeさんの言は正しい。文学的な思想性なんか、興味ない人にとって、ゲームエンターテインメントの前には無意味ですからね。

 ・・・んで、じゃあ、何で手前ェは、祭囃しなんか答えにしたんだ?・・・って言うと、宗教的な感覚では分からなくても、祭りのときの、あの恍惚感あたりで考えると集団的暴力、集団的好感は表裏一体、日本でも理に適った論としてあるって、納得してもらえるかと思いまして。

 芸能を見るとき、背景は知っていれば深みを持って楽しめますが、別に知らなくても楽しめる部分がある。綺麗だな、カッコいいな・・・でも、構わないんです。ここでは、何でオルタがスルーされてしまったのか?・・・という理由とともに、私たちは「何を楽しんでいるのか」ということを書いてみました。相変わらず、迂遠な話ですが。



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この記事へのコメント
宗教が善悪の物差しなのは一神教に限った話です。
と、塩野七生さんは言うでしょうね。
Posted by 儀狄 at January 18, 2006 17:44
善悪の物差しは一つの方が判りやすく、
神という物差しがないから、日本人はこの手の害悪論が、
自分自身をも指していることに気付かない。

ひぐらしもKOOLなんて茶化されていますが、あの手の主観の混乱が
「自分たちには関係ない」とか思っている時点で、
良くないのでしょうな。
Posted by 6727 at January 18, 2006 17:55
だからと言って、神様に祈ろうとは思えないのですがね(苦笑。
Posted by 9791 at January 20, 2006 03:06