虎馬:

その他

曹操は武芸にも優れており、揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが、曹操は剣を手に数十人を殺し、残りのものは皆恐れをなしたといわれるほど、人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりしたともいう[37]。また曹操は張譲の邸宅に忍び込んで発見された際、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ、その人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかったという[38]

裴松之が引用する張華の『博物志』では、草書・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことが伺える[39]。なお、陝西省漢中博物館には、曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。

曹操が発明した酒の醸造法「九蒕春酒法」は、現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」の元であると言われている。曹操が後漢の献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は現存している。

『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。

西晋の文学者陸機の「弔魏武帝文」によると、298年、陸機は宮中の書庫から曹操が息子たちに与えた遺言を目にする機会を得た。遺言には「生前自分に仕えていた女官たちは、みな銅雀台に置き、8尺の寝台と帳を設け、そこに毎日朝晩供物を捧げよ。月の1日と15日には、かならず帳に向かって歌と舞を捧げよ。息子たちは折にふれて銅雀台に登り、西にある私の陵墓を望め。残っている香は夫人たちに分け与えよ。仕事がない側室たちは履の組み紐の作り方を習い、それを売って生計を立てよ。私が歴任した官の印綬はすべて蔵にしまっておくように。私の残した衣服はまた別の蔵にしまうように。それができない場合は兄弟でそれぞれ分け合えよ」などと細々した指示が書き残されていたという。これを見た陸機は「愾然歎息」し、「徽清絃而獨奏進脯糒而誰嘗(死んだ後に歌や飯を供して誰が喜ぼうか)」「貽塵謗於後王(後の王に醜聞を伝える)」と批評している。

文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(類稀なる才の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。

独裁者・虐殺者としての曹操と三国志演義での悪役化

『三国志演義』で挿絵で描かれる、一般的な曹操の肖像画
京劇の曹操
京劇の曹操の面(代)

曹操没後百年近くたった五胡十六国時代、既に曹操は批判の対象にされていた。曹操の後継政権である西晋を滅ぼした後趙石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」(晋書石勒載記)と痛烈に非難している。しかし、魏の後継政権を称した北魏では、曹操は先代の名君として、魏書劉聡伝では「曹武削平寇難、魏文奄有中原、於是偽孫假命於江吳,僭劉盜名於岷蜀。」(曹操は天下を平定し曹丕は中原を支配したが、ニセの孫氏である呉や、ニセ劉氏である蜀が反旗を翻し三国時代になってしまった)とされていた。逆に南朝で編纂された後漢書では、曹操を悪人に描こうと史料を改変しており、前述の徐州虐殺のみならず、荀彧を暗殺し、漢王朝を乗っ取った極悪非道の人物として描くことになった。この後漢書の曹操悪人説は清の趙翼が高く評価したことから有名になった。趙翼は「実は後漢書の記述こそ真実であり、陳寿『三国志』は晋をはばかり嘘を書いた」と『二十二史箚記』で述べた。現代では後漢書の史料改変に逆に疑問の声が投げかけられており、曹操の評価も逆転している。[40]

『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、北宋説話があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、蘇軾『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。

南宋からの頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。

その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理への訴求と儒教的脚色がなされている。

また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が完成されてからは長く官学としての主流となると、三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝に征服されていたこともあり、中原回復を唱えた諸葛亮を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も非難を受け、曹操は多くの論者によって悪とされたと、四庫全書総目提要は論じている。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。三国志演義があまりにも読まれすぎた為に、前述の趙翼のような清朝考証学者も演義の影響を受け、劉備を善玉として曹操を悪人にするような解釈をすることが多く、時には正史三国志の本文を改ざんして無理な読みにしている例すらあるという。[41]

京劇でも曹操は悪役として扱われ、瞼譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。

近・現代の再評価

『三国志演義』の影響によって悪役としての評価が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し、再評価が進んでいる。

近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの知識人によって再評価された。

特に曹操再評価を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。

批林批孔運動では、儒法闘争史観が主張された。これは中国思想を儒教の系譜(孔子、孟子などが中心)と、道家法家兵家(老荘・韓非子孫子等)の2つに分け、儒家を悪の権化として法家を善玉とする史観である。共産主義の観点からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている。[42]身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては否定的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。その中で、曹操は法家の重要人物として高い評価を与えられた。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようになり、京劇の隈取りも善玉のものに変えるよう政府から指示されたという。(前述竹内論考)[43]

日本では吉川英治が小説『三国志』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を提示した。1962年吉川幸次郎が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。またそれまで日本語訳の無かった『正史三国志』に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。長年かけ弟子の井波律子らが完訳した。

陳舜臣作『秘本三国志』は、『三国志演義』に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。のちに作者は『曹操』とその続編『曹操残夢』を著した[44]。この他曹操を主役格に据えた作品として、北方謙三作『三国志』がある。漫画作品では吉川英治『三国志』を漫画化した横山光輝作『三国志』や、李學仁原案(原作)・王欣太作画『蒼天航路』が登場するなど、若年層への影響力も大きい。これら作品を中心とした中での曹操の人気は非常に高く、劉備に勝るとも劣らない支持を得ている。

歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、京都大学谷川道雄川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。曹操の政策として知られる九品官人法は魏晋南北朝時代の貴族制度の前史として言及されることが多い[45]。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、越智重明矢野主税などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があった[要出典]。また後漢が建国の経緯から豪族のと知識人を糾合した政権であり、統治機能が失われた黄巾の乱以降に、いち早く豪族と知識人を糾合することに成功したのが曹操であり袁紹であった。曹操が袁紹に勝利した要因には上述の九品官人法のような現実的な人材登用制度を採用がある。また屯田制は豪族が土地と農民を所有する制度に対抗するために導入したが、結果として全ての土地が曹氏のものとなり、すべての農民が曹氏の奴隷のような状態となった。これはのちの西晋占田・課田制とそれに続く均田制をかんがみると公地公民制度の端緒といえる。1990年代以降、行き過ぎた曹操の再評価に対して抑制する動きが多く、また併せて川勝の理解に対しても修正する動きが見えている。

逸話

漢の献帝の初平年間(190-193年)のこと、長沙(湖南省)の桓という男が死んだ。ところが棺に収めてから一ヶ月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえったのであった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである。[46]

ことわざ

曹操の話をすると曹操が現れる(説着曹操、曹操就到)。
講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本語での「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用される。

血縁

  1. 曹嵩

  1. 曹徳[47]
  2. 曹彬(薊恭公)
  3. 曹玉(朗陵哀侯)

男子

  1. 曹丕 (文皇帝)母は卞氏[48]
  2. 曹彰 (任城威王)母は卞氏
  3. 曹植 (陳思王)母は卞氏
  4. 曹熊 (蕭懐王)母は卞氏
  5. 曹昂(豊愍王)母は劉夫人
  6. 曹鑠(相殤王)母は劉夫人
  7. 曹沖 (鄧哀王)母は環夫人
  8. 曹據(彭城王)母は環夫人
  9. 曹宇(燕王)母は環夫人
  10. 曹林(沛穆王)母は杜夫人
  11. 曹袞(中山恭王)母は杜夫人
  12. 曹玹(済陽懐王)母は秦夫人
  13. 曹峻(陳留恭王)母は秦夫人
  14. 曹矩(范陽閔王)母は尹夫人
  15. 曹幹(趙王)母は王昭儀[49]
  16. 曹上(臨邑殤公子)母は孫姫
  17. 曹彪(楚王)母は孫姫
  18. 曹勤(剛殤公子)母は孫姫
  19. 曹乗(穀城殤公子)母は李姫
  20. 曹整(郿戴公子)母は李姫
  21. 曹京(霊殤公子)母は李姫
  22. 曹均(樊安公)母は周姫
  23. 曹棘(廣宗殤公子)母は劉姫
  24. 曹徽(東平霊王)母は宋姫
  25. 曹茂(楽陵王)母は趙姫

女子

従子・族子

甥もしくは曹操より一世代下の親族

従兄弟

いとこもしくは同世代の親族

脚注

  1. ^ 三国志』一 魏書巻一 武帝紀第一にある裴松之の註で引用された孫盛の『異同雜語』逸文による。
  2. ^ 後漢書』卷98 郭符許列傳第五十八
  3. ^ 『三国志』一 魏書巻一 武帝紀第一裴松之の註『曹瞞伝』逸文
  4. ^ 王沈『魏書』
  5. ^ 王沈の『魏書』による。
  6. ^ 『三国志』
  7. ^ 数に関しては異説が有り、高島俊男の『三国志 きらめく群像』頁370によれば曹操は兵士5000人強で、少なくとも黄巾軍の兵・民総勢150万人余りを破ったと言う。
  8. ^ 曹嵩殺害の経緯については諸説ある(陶謙#脚注
  9. ^ 後世『三国志』の注釈を編んだ裴松之の注によれば、歴史家の孫盛もこの虐殺を非難している。ただし陳寿の本文では「陶謙伝」には住民の虐殺については書かれておらず、「陶謙軍の死体で泗水がせき止められた」とのみある。『後漢書』が曹操を貶めるために史料を操作した疑いが現代の史家から指摘されていることは後述。
  10. ^ この一連の徐州侵攻には袁紹も関与しており、193年か194年かは不明だが朱霊らの三陣営が曹操に加勢している。
  11. ^ 魏書
  12. ^ 『後漢書』卷9 孝献帝紀第九。『三国志』董卓伝では、197年に裴茂らは李傕を滅ぼしたとしている。
  13. ^ 大岡氏系図
  14. ^ 遺骨のDNA鑑定を計画 曹操の陵墓真偽解明で”. 47NEWS (2010年1月27日). 2011年1月9日閲覧。
  15. ^ 自称「曹操」の子孫現れる IB-TIMES 2010年1月6日
  16. ^ 明報主張喪葬從簡 墓穴發掘不易」2009年12月28日
  17. ^ 中国河南省文物局「曹操高陵在河南得到考古确认」2009年12月27日
  18. ^ 共同通信「三国志」曹操の陵墓発見 中国河南省、遺骨も出土」2009年12月27日
  19. ^ AFPBB News「「三国志」曹操の陵墓を発見、中国河南省 「魏武王」の文字」2009年12月28日
  20. ^ 光明日報中國社會科學院等方面專家基本認定:西高穴大墓是曹操的陵墓」2009年12月28日
  21. ^ 世説新語』容止篇
  22. ^ 劉孝標が注に引用する『魏氏春秋』
  23. ^ 通典
  24. ^ 川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫) 名士については諸説ある(「党錮の禁#党錮の禁に関する研究」「貴族 (中国)#研究」を参照)
  25. ^ 宋書』礼志
  26. ^ 李衛公問対』では、『新書』と呼ばれる曹操の書いた兵法書と孫子の注を別の書物として扱っている。『三国志演義』では、『孫子』に倣って13篇に編纂した『孟徳新書』という兵法書を著しているが、張松に盗作だと笑われたことに怒り焼き捨てている。
  27. ^ 『孫子』を曹操の偽作とする説もあったが、前漢時代の墓から『孫子』が出土したことにより、現在では否定されている。
  28. ^ 北宋蘇軾「前赤壁の賦」
  29. ^ 王沈の『魏書』による
  30. ^ Wikisource reference 蕭統. [[wikisource:zh:昭明文選/卷27#.E6.A8.82.E5.BA.9C.E4.BA.8C.E9.A6.96|昭明文選/卷27#.E6.A8.82.E5.BA.9C.E4.BA.8C.E9.A6.96]]. - ウィキソース. 
  31. ^ Wikisource reference 曹操. 短歌行_(曹操). - ウィキソース. 
  32. ^ 用例として、李陵が旧友の蘇武に告げた言葉「人生は朝露の如し」『三国志実録』
  33. ^ 杜康とは酒の異名である『三国志実録』
  34. ^ Wikisource reference 蕭統. 昭明文選/卷27#.E7.9F.AD.E6.AD.8C.E8.A1.8C. - ウィキソース. 
  35. ^ Wikisource reference 鍾嶸. 卷下#.E9.AD.8F.E6.AD.A6.E5.B8.9D.E9.AD.8F.E6.98.8E.E5.B8.9D. - ウィキソース. 
  36. ^ Wikisource reference 曹操. 步出夏門行_(曹操)#.E9.BE.9C.E9.9B.96.E5.A3.BD. - ウィキソース. 
  37. ^ 『魏書』による
  38. ^ 東晋の孫盛の『異同雑語』による逸話
  39. ^ 『四時食制』と言う食に関しての著作の現存する部分から
  40. ^ 中村愿『三国志曹操伝』、増井経夫などがこの説を述べている。
  41. ^ 前述中村に加え、高島俊男『三国志きらめく群像』による。
  42. ^ 『中国の古典名著 総解説』(自由国民社)所収の竹内実の論考による。
  43. ^ 中国中央電視台のドラマ『三国演義』でも父親の惨死に憤ったり、赤壁で大敗を喫した際に郭嘉の死を激しく嘆く等、人間的情感・味わいのある人物として描かれてはいる。また、テレビドラマ『三国志 Three Kingdoms』では主人公格の一人として扱われ、天下統一のために非情に徹する一方、家来や領民に対する情をも見せる清濁併せ持った人物として描かれている。
  44. ^ いずれも中公文庫で再刊された
  45. ^ 曹操は「中正」と呼ばれる役人によって人材を能力ののみで選抜するようにしたが、のちに司馬懿が中正を統括する「大中正」という官職を置いたために、中正の公正さは失われ、権力者の情実主義による人材登用が行われ、それが常態化したものが貴族制度となる。
  46. ^ 搜神記 卷六 死者が蘇生すれば(その二) 平凡社ライブラリー
  47. ^ 『後漢書』曹騰伝は「曹疾」と作る。また夏侯衡は曹操の弟である海陽哀侯の娘を娶っているが、海陽哀侯が誰を指しているかは不明。
  48. ^ 兄弟の長幼は不明な部分が多いため、ここでは『三国志』武文世王公伝の兄弟順に従う。裴松之はこれが生母の貴賤に拠った順序であると指摘している。
  49. ^ 『三国志』趙王幹伝が引く『魏略』は陳氏が生母であるとしている。
  50. ^ 『文選』陸機「弔魏武文」の李善注が引く『魏略』に見られる。

関連書籍

関連作品

小説
  • 陳舜臣『曹操 魏の曹一族』(1998年、中央公論社)
漫画
映画
テレビドラマ

関連項目

外部リンク