虎馬元:ジョージ・W・ブッシュ - W

ジョージ・ウォーカー・ブッシュEn-us-George Walker Bush.ogg George Walker Bush[ヘルプ/ファイル], 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国政治家。第46代テキサス州知事、第43代アメリカ合衆国大統領を歴任。

第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュは父。またフロリダ州知事を務めたジェブ・ブッシュは次弟。ジョージ・P・ブッシュは甥(ジェブ・ブッシュの長男)。

目次


概要[編集]

ブッシュは、最初に2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選した。1995年から2000年まで第46代テキサス州知事を務めた。また、第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男である。父親が22歳の時に生まれたために、父親が生きている間に大統領になった珍しい世襲政治家である。身長は182cm[1]体重93kg。右利き

ブッシュは父と同じイェール大学に進学したが、ラグビー部で活躍した父とは対照的に、在学中は飲酒運転で逮捕されるなど大学生活はトラブルが多かったと噂されている[要出典]。また、ベトナム戦争州兵に志願したために「徴兵逃れ」をしたという疑惑が持たれることとなった。[要出典]

イェール大学卒業後、彼の家族の石油会社で勤務した後、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、テキサス・レンジャーズを共同所有するなど実業家として活躍した後、テキサス知事選挙のために政治運動に戻った。1994年にはアン・リチャーズを破ってテキサス知事に当選した。

ブッシュは2000年の大統領選挙において、一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。大統領としてブッシュは、2001年に1兆3500億ドルの減税プログラムを[2]、2002年に「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:落ちこぼれゼロ法(No Child Left Behind Act[3]」に署名した。

2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、ブッシュは世界的な「テロとの戦い」を発表して、アフガン侵攻ターリバーン政権を倒し、アルカーイダを壊滅させてオサマ・ビン・ラディンデッド・オア・アライブ[4]として逮捕あるいは殺害することを命じた。2003年3月にブッシュはイラク侵攻を命じ、「イラクが国際連合安全保障理事会決議1441に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と主張した[5][6]

イラク戦争の中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して[7]再選を狙い出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、ジョン・ケリー上院議員に大きな差をつけて2004年11月2日に再選された[8][9][10]

しかし再選後にブッシュはますます激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は、2001年同時多発テロ直後の[11]90%(The Gallup Organizationによってこれまでに記録される最高のもの)[12]から、記録に残る中で最も低いアメリカの現職大統領の支持率である[13]2008年2月20日に19%にまで低下した。ブッシュの不支持率は76%まで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した[14]。それは、2009年1月20日に後継のバラク・オバマに政権をバトンタッチするその日まで続いた[15]

父との呼称による区別[編集]

アメリカ合衆国では、父のH・W・ブッシュと区別するため、第43代大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはテキサス州周辺地域での W の発音から「Dubbya(ダビャ)」と呼ばれることもある。

また、歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので、父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。父を「ブッシュ・シニア」と呼び、息子の方を「ブッシュ・ジュニア」と呼ぶ例もある。

上述のように、次弟・ジェブ・ブッシュの長男でもある、W・ブッシュの甥もジョージ・ブッシュだが、ミドルネームがPとなっている(ジョージ・P・ブッシュ)。

来歴[編集]

若年期と軍歴[編集]

小ブッシュが1歳の頃。父と母と。
ジョージ・W・ブッシュ(後列、左から2番目)と家族。
空軍州兵時代のブッシュ

小ブッシュは1946年7月6日に、コネチカット州ニューヘイブンでジョージ・H・W・ブッシュとバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。ブッシュは四人の兄弟、ジェブニールマーヴィンドロシーと、テキサス州のミッドランドヒューストンで育てられた。もう一人の妹・ロビンは、1953年白血病によって3歳で死亡した[16]。ブッシュの祖父・プレスコット・ブッシュはコネチカット州選出の上院議員で、ブッシュの父・ジョージ・H・W・ブッシュは1989年から1993年まで米国大統領を務めた。

ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーフィリップス・アカデミーに通った。そこで彼は野球をして、最終学年まで男子校のヘッド・チアリーダーだった[17][18]。 父の先例にならって、ブッシュはイェール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した[19]。大学の専門課程に、ブッシュは秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーになった[20][21]。大学時代は当初野球部で投手だったが、才能に限界を感じて3年からラグビー部へ写り、4年でレギュラーになった[22]

1968年5月に進行していたベトナム戦争のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにもかかわらず[23][24]、合格の最低点だったが[25]テキサス空軍州兵に認められた[26]。これは、一度に一万人以上の空軍州兵人員(多くの戦闘機パイロット)がベトナムの作戦を支援するために招集されていた時期だった[27]。訓練の後、彼はヒューストンで任務を任せられ、エリントン空軍基地からコンベアF-102を飛ばした[28]。批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために、軍務で有利に扱われ、正常な兵役ではなかったと主張した。合衆国国防総省は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録の全てを公開した[29]。1970年に、ブッシュはテキサス法科大学に出願したが、不合格にされた[30]。ブッシュは共和党の議会選挙活動に取り組むために、1972年アラバマ空軍州兵へ転任し、1973年10月にハーバード・ビジネス・スクールに通うために、約8か月早くテキサス空軍州兵を退役して、不十分に6年間の兵役義務を終了した[31]

この時期に、ブッシュにはコカインなどの薬物乱用治安紊乱行為の報告があった。[要出典]ブッシュはその時期に「あまりにも多く」飲んでいたことを認め、彼の人生のこの期間を「無責任な青春期」の「放浪」の期間だったと言った[32]1976年9月4日、ブッシュは30歳で、家族の夏の別荘付近で、飲酒運転容疑で逮捕された。彼は罪を認めて150$の罰金を科され、運転免許証1978年までメイン州で停止された[33][34]

1990年、妻ローラと娘のジェンナ、バーバラと。

ハーバード大学MBAを取得した後[35]、ブッシュはテキサスの石油工業会社に入社した。1977年に、彼は友人に学校教師・司書のローラ・ウェルチを紹介された。彼らは結婚して、テキサス州ミッドランドに居住した。ブッシュは妻の合同メソジスト教会に入会するために、米国聖公会を脱会し宗旨替えを行った[36]

1978年にブッシュはテキサス州の19下院議員選挙区から立候補した。ブッシュは、ブッシュが地元と接触していなかったと描写した相手ケント・ハンスに、6000票の差で負けた[37]。 ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー[38]スペクタン・7ハーケン・エネルギーなどの会社の社長、最高責任者となった[39]。これらの事業は、1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした、石油価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれないインサイダー取引の疑惑が起こったが、証券取引委員会(SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた[40]

1981年にブッシュは、妻ローラとの間に双子の娘、ジェンナバーバラを儲ける。

1988年にブッシュは、ワシントンD.C.で家族と父の大統領選挙活動に取り組んだ[41][42]。選挙運動の後、1989年4月にブッシュは、テキサス・レンジャーズの株を購入し、5年間無限責任組合員を務めた[43]。ブッシュは活発にチームの企画を指導して、定期的に試合に出席し、しばしばファンと売店に座ることを選んだ[44]1998年、ブッシュは最初に80万ドル投資したレンジャーズの株式を売却し、1500万ドルの利益を得た[45]

テキサス州知事[編集]

テキサス州知事時代、父ジョージ・H・W・ブッシュ、妻ローラ・ブッシュと

ブッシュは1994年のテキサス州知事選挙に出馬を表明したが、これは弟のジェブ・ブッシュのフロリダ州知事選出馬と同時である。共和党の予備選挙で大勝し、人気のあった現職のアン・リチャーズ(民主党)との一騎打ちとなる。

ブッシュにはKaren Hughes、John Allbaugh、カール・ローヴといった選挙参謀がついた。ブッシュの選挙運動に対して、リチャーズへのアンフェアな中傷であるとする批判も上がった。しかし公開討論での効果的な弁舌により、ブッシュの人気は上昇した。結果、11月8日の選挙において、52%対47%の得票率で当選した[46]

知事としてブッシュは、首尾良く不法行為改革のための法律を支援し、教育資金の支出を増やして学校の教育水準を上げ、刑事制度改革を行った。ブッシュは152人の死刑を執行させたが、これはアメリカにおいて一人の州知事が執行させた死刑数としては最高記録である[47]。ブッシュは20億ドルの歳入超過を減税に回したが、これはテキサス州における減税額の最高記録である。この減税により、ブッシュは企業活動を擁護する経済右派としての評価を確立した[46]

ブッシュはまた教会などの宗教組織による教育、アルコール・薬物依存症対策、家庭内暴力対策活動への政府支出を行った。ブッシュは6月10日をテキサス州の「イエス(・キリスト)の日」と定め、この日には「支援を必要とする人々への奉仕をテキサス州民に要請する」とした[48]

1998年11月3日には69%の得票で再選を果たす[49]。同年、共和党大統領候補予備選挙への出馬を表明する。大統領選挙当選に伴い、知事職は2期目途中で辞任(知事就任期間:1995年1月17日-2000年12月21日)。

大統領職[編集]

1期目[編集]

同時多発テロ発生から三日後、グラウンド・ゼロで演説を行うブッシュ

[50]

「愛国者法」にサインするブッシュ
「大規模戦闘の終結宣言」を行うため空母に降り立ったブッシュ

大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し、2001年1月20日に大統領に就任。民主党候補アルバート・ゴアが、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟ジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の、一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし、選挙終盤のフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。

任期9か月目の9月11日ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い[50]、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。18日にはテロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る(これはグアンタナモ湾収容キャンプでの無期限の拘留の根拠となる)。

直後に報復攻撃の準備に取り掛かり、ブッシュ自身はテロとの戦い第三次世界大戦と呼んだこの戦争は、概ね世界各国の同情と賛同を受け、10月7日アフガニスタン侵攻によって開始され、世界各地で不朽の自由作戦が実行された。また国内では、テロ対策に不可欠だとして「パトリオット法」愛国者法)を制定する。しかし、炭疽菌小包による無差別殺人が一時横行し、同時テロとともに国内はパニック状態になった。一方、アフガニスタン作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権は壊滅、同月に新政権を樹立させた。

2002年1月、一般教書演説において悪の枢軸発言。これはイラクイラン北朝鮮大量破壊兵器を開発保有するならず者国家と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の全面査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。翌2003年に入ると、いよいよイラクに対し強硬姿勢を採るようになる。しかし、フランスドイツロシア中国などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁攻撃に反対した。

3月17日にブッシュはサッダーム・フセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し開戦(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。イラクはアメリカ・イギリス・ポーランドによる分割占領と、連合国暫定当局による統一した国家運営を行い、徐々に民主化することとした。

7月11日には、アメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59%に急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの逮捕に成功し、裁判の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際はアメリカ軍を狙った攻撃や自爆テロが絶えず、死者は湾岸戦争の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。

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