INSPLATRとぅし~レーダーⅠ

禁断直近世界歴史激変地震警報注意テロ氾濫?先遣2015米国極東京炎上ペルシャ湾地震残強予知夢注二秒!警戒宣下PICUP2PINE

2014年08月23日

虎馬:アレクサンドロス3世 - W  アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希: Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア王、コリント同盟(英語版)(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。 ハンニバル[1]、カエサル[2]、ナポレオン[3]などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 若年期 1.2 ギリシア出兵・即位 1.3 東方遠征 1.3.1 小アジアの征服 1.3.2 エジプトの征服 1.3.3 ペルシア王国の滅亡 1.3.4 ソグディアナ方面の占領 1.3.5 インド遠征とスーサ帰還 1.4 バビロン帰還と大王急逝 2 死後のマケドニア帝国の行方 3 融合政策 4 ヘレニズム文化 5 マケドニア軍の強さ 6 アレクサンドロス暗殺計画 7 死後の伝承 8 逸話、エピソード 9 伝説 10 アレクサンドロスと関わった人々 10.1 一族 10.2 部下たち(50音順) 10.3 敵対者 10.4 その他 11 脚注 12 史料 12.1 一次史料 12.2 現存する史料 13 主な日本語文献 14 創作上におけるアレクサンドロス3世 14.1 書籍 14.2 映画 14.3 アニメ 14.4 ゲーム 15 関連項目 15.1 「アレクサンドロス」の異名を与えられた人物 生涯[編集] 若年期[編集] アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス アレクサンドロス3世はマケドニア王ピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。こうして、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。 東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。 ギリシア出兵・即位[編集] 詳細は「:en:Alexander's Balkan campaign」、「ペリウム包囲戦(英語版)」、および「テーバイの戦い(英語版)」を参照 紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシア地方に出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにコリント同盟(英語版)(ヘラス同盟)を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシア東征を計画したが、紀元前336年に護衛のパウサニアス(英語版)に暗殺された。 20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。 東方遠征[編集] 詳細は「アレキサンダー大王の戦争(英語版)」を参照 小アジアの征服[編集] 前334年 イッソスの戦い, 左がアレクサンドロス, 右がダレイオス3世 前333年 「グラニコス川の戦い」、「ミレトス包囲戦(英語版)」、「ハリカルナッソス包囲戦(英語版)」、および「イッソスの戦い」も参照 紀元前334年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投げ槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。 紀元前333年、ついにアレクサンドロスはアンティオキアの北西イッソス(英語版)において ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇する(イッソスの戦い)。アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。 エジプトの征服[編集] 前332年 - 前331年 「ティール包囲戦(英語版)」および「ガザ包囲戦(英語版)」も参照 アレクサンドロスは、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、唯一頑強に抵抗したフェニキアのティール(Tyre、現ティルス)を屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。 エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。 エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。 ペルシア王国の滅亡[編集] 詳細は「ガウガメラの戦い」、「:en:Battle of the Uxian Defile」、および「ペルシス門の戦い(英語版)」を参照 紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。 翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻め、スピタメネスとオクシュアルテスにベッソスは捕えられた後、アレクサンドロスに引き渡されエクバタナで公開処刑された。 ソグディアナ方面の占領[編集] 前331年 - 前323年 詳細は「キュロポリス包囲戦(英語版)」、「ヤクサルテス川の戦い」、「ガバイの戦い(英語版)」、および「:en:Sogdian Rock」を参照 中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年までソグディアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦(Siege of the Sogdian Rock)を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めるのもこの頃である。なおアレクサンドロスは紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。 インド遠征とスーサ帰還[編集] アレクサンドロスのインド行軍路(赤線) 詳細は「コフェン戦争(英語版)」、「アオルノス包囲戦(英語版)」、「ヒュダスペス河畔の戦い」、および「:en:Mallian Campaign」を参照 ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指した。スワート渓谷(英語版)でコフェン戦争(英語版)(紀元前327年 - 紀元前326年)。アオルノス包囲戦(英語版)(古代ギリシア語: Άορνος、英語: Pir-Sal、現ピール・サル峰、紀元前327年 - 紀元前326年)。紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族(英語版)の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。 11月からアレクサンドロスはHydraotes川(現ラーヴィー川(英語版))を南下し、全軍を3つに分割してクラテロスと共に残存する敵対勢力(en:Jat people系族のen:Malhi)を駆逐(en:Mallian Campaign)し、さらにインダス川を南下してPatala(現タッター)に出た。ゲドロシア(英語版)砂漠(現パキスタンバローチスターン州)を通ってカルマニア(英語版)(現イランケルマーン州)に向かい、紀元前324年にスーサに帰還した。この際、部下のネアルコスに命じてインダスからペルシア湾を通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。紀元前324年にはスーサの合同結婚式(英語版)が行なわれた。 バビロン帰還と大王急逝[編集] 帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。 バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日に死去した。 死後のマケドニア帝国の行方[編集] 「アレクサンドロス帝国」の最大領域。遠征・征服した領域は東西4500kmに及ぶ。 詳細は「ディアドコイ戦争」を参照 残された大帝国では、彼の遺将たちがバビロン会議、トリパラディソスの軍会という2度の協定によって安定化を目指したものの、大王の遺言に忠実に「最強の者が帝国を継承」しようとして覇を争うことになり、アンティゴノス、セレウコス、プトレマイオス他の諸将によるディアドコイ戦争を経て分裂した。紀元前3世紀にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム三王国が出現し、それらは互いに相争っていたもののひとまずはこの三国鼎立の形に落ち着いた。 その後、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされた。東方はパルティアが勃興してセレウコス朝の領土の大部分を奪い、東方領はマケドニア人の手を離れた。以後東地中海から中央アジアに至る地域はイスラーム帝国の出現までふたたび大統一を見なかった。アレクサンドロスの遺体はペルディッカスがバビロンから王都ペラへ移送途中にプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたとされる。墓は未だに発見されていない。 アレクサンドロスの一族はディアドコイ戦争中に殺害され、アレクサンドロスの血統は断絶した。 王の母オリュンピアス(自ら兵を率いたもののカッサンドロスに敗れ殺される) 王妃ロクサネと王子アレクサンドロス4世(共にカッサンドロスにより処刑) 庶子のヘラクレス(英語版)(カッサンドロスに買収されたポリュペルコンに暗殺される) 異母兄ピリッポス3世(王妃エウリュディケがマケドニアの実権を握ろうとして、オリュンピアスに兵を挙げられ、共に殺される) 妹クレオパトラ(プトレマイオスの求婚を受け、敵対していたアンティゴノスにより暗殺) 異母姉キュナネ(ペルディッカスの弟アルケタスにより暗殺。娘のエウリュディケはピリッポス3世の王妃) 異母妹テッサロニカ(カッサンドロスの妻となるものの、彼の死後に息子たちの後継者争いに巻き込まれ暗殺) 融合政策[編集] アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。帝国の公用語に古代ギリシア語を採用した。さらにペルシャ文化への融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。 ヘレニズム文化[編集] アレクサンドロスとダレイオス3世の家族 詳細は「ヘレニズム」を参照 ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの学者も輩出、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、サーサーン朝などにも影響を与えた。 マケドニア軍の強さ[編集] 純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア世界で伝統的であったファランクスの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。また、アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった(古代ギリシアにおいて司令官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら剣戟に身をさらして戦う習慣があったため、これは取り立てて特別なこととは言えない)。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。 このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。 アレクサンドロス暗殺計画[編集] 東方遠征中、酒に毒が盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手将校らによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。首謀者の1人として司令官の1人フィロタスの名前が挙がった。フィロタスは無実(パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂により近衛兵を率いるフィロタスの粛清劇を招いたという説が有力)を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。 死後の伝承[編集] 詳細は「アレクサンドロス・ロマンス」を参照 アラビア語やペルシア語ではアレクサンドロスはイスカンダルの名前で知られる。アレクサンドロス3世の勇猛はイスラーム世界に一種の英雄伝説となって語り伝えられた。中東における伝承ではアレクサンドロスには2つの角があるとされ、イスカンダル双角王(イスカンダル・ズルカルナイン)の名で知られた。また、東南アジアにイスカンダルという男性名があるのは、イスラーム教の東進によってこの英雄伝説が広まった結果である。アレクサンドロス・ロマンスの広まった範囲は、ギリシア文化を受け継いだヨーロッパやイスラーム世界のみならず、断片的に中国やエチオピアにまで広がっている。 逸話、エピソード[編集] Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年6月) 愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス (拡大図)ブケパロス王子時代にブケパロスという馬がペラの王宮に連れてこられた。気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという。決して負けない人アレクサンドロスはアジアへの遠征に先立って神の神託を求めに行った。そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った。ディオゲネスコリントスにシノペのディオゲネスという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らしていたが、本人は人生に至極満足していた。ある日、ひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスを訪ねたアレクサンドロスは彼に「望むものがあるならば全て叶える」と問うたが、答えは「日陰になるからそこをどいてくれ」というものだった。アレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという。毒殺を恐れないアレクサンドロスが病臥していたとき、侍医のフィリッポスが敵(ダレイオス3世)に買収されて王の毒殺を企てているという報せが届いた。王はその手紙を読んだが、平然として薬を飲み干し、フィリッポスに手紙を見せた。フィリッポスは「今後も、医者としての私の指示に従うようにしてください。そうすれば助かります。」と言ったといわれる。その後、王は激しい高熱に苦しんだが、やがて回復した。貴婦人への礼遇ダレイオス3世の母と妃がイッソスの戦いの後で捕えられたが、アレクサンドロスは彼女らに非常に敬意を払って接した。のちにそれを伝え聞いたダレイオス3世はアレクサンドロスの度量を賞賛し、もし自分が不幸にして王国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったという。「勝利を盗まない」ガウガメラの戦いの前夜に宿将パルメニオンが夜襲を進言したが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と言って退けた。ペルシア軍は劣勢のマケドニア軍が確実に夜襲を仕掛けてくるものと予想して一晩中厳重に警戒していたが、アレクサンドロスは翌朝遅くまで悠々と寝続けた。ペルシア軍は無駄に体力を消耗し、マケドニア軍は気力充実して戦闘に臨むことができた。クレイトスの殺害アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。ある夜の酒宴でアレクサンドロスは武将クレイトスと東方政策をめぐって激しく口論し、衝動的にクレイトスを刺し殺してしまう。まもなく酔いが醒めた王は深く嘆いたという。砂漠の水インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛なゲドロシア(英語版)の砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、1人の兵士が王のために1杯の水を見つけてきた。しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。部下への感情アイリアノスは『ギリシア奇談集』において「アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスを憎んでいた。アンティゴノスの気前のよさ、アッタロスの品行、プトレマイオスの幸運さは彼の癪に障るものであった」(アイリアノス, XII, 16.なお、引用は[1]より)と述べており、アレクサンドロスの優秀な部下に対する思いは複雑なものであったともされる。逆にアレクサンドロスがヘファイスティオンを寵愛していたのは、彼がとりたてて将軍として抜きん出たところのない人物だったからだともいう。 伝説[編集] Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年6月) ゴルディアスの結び目 詳細は「ゴルディアスの結び目」を参照 アレクサンドロスがペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンを占領した時(紀元前333年)、町の中心にあるゼウス神殿に一台の古い戦車が祀られていた。その戦車は“ゴルディオスの結び目”と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられており、「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という伝説が伝えられていた。その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言した。海賊と帝王海賊が捕えられて縛り首になったが、彼はアレクサンドロスに向かって「俺もお前のように多くの国を攻め滅ぼしていれば、英雄と呼ばれたことだろう」と皮肉った。海中探検オリエントの伝説によると、アレクサンドロスは海の中の世界に興味をおぼえ、ガラスの樽の中に入って海中を探検したという。サンドロコットスとの出会いプルタルコスなどによれば、アレクサンドロスがインドに侵入した時、マケドニアの陣営に1人の若者が訪れてインド東部への道案内を申し出た。この若者の名はサンドロコットスといい、彼こそがのちのチャンドラグプタであるという。インドの賢者アレクサンドロスはインドで裸の賢者たちと世界の神秘についての対話を交わした。賢者たちはアレクサンドロスの問いに次々と答えたが、王は必ずしも納得しなかった。賢者の1人はなめした皮の上に乗り、皮の端に立つと他方の端が捲れるが中心に立つと安定することを示して、栄光を求めて世界をさまよう王を諷した。トランプの4人の王の1人フランスでは、トランプのクラブのキングのモデルとされている。「古代イスラエル」(ダビデ=スペード)、「フランク王国」(カール大帝=ハート)、「ローマ帝国」(ガイウス・ユリウス・カエサル=ダイヤ)、「マケドニア王国」(アレクサンドロス)と、当時の「世界」を征服した4人をモデルとしているらしい(但しダビデ王は「世界」を征服していない)。死因アレクサンドロスの死因は毒殺説、熱病(マラリア)説などあるが、比較的知られているのは、祝宴中に癲癇発作により突然倒れたというものである。その他アレクサンドロス3世は虹彩異色症だった[4][5]。また、当時のギリシア男性の常として両性愛者としても知られている(実際には男色をより好んだ)。 アレクサンドロスと関わった人々[編集] 一族[編集] ピリッポス2世(父) オリュンピアス(母) アリダイオス(異母兄) スタテイラ(妃、別名: バルシネ) ロクサネ(妃) パリュサティス(英語版)(妃) アレクサンドロス4世(息子) ヘラクレス(英語版)(息子・庶子) 部下たち(50音順)[編集] アサンドロス アリストブロス アリダイオス アルケタス アルコン アンティゲネス アンティゴノス アンティパトロス エウダモス エウメネス エリギュイオス カッサンドロス カラス カラノス (ヘタイロス) カリステネス クラテロス クレイトス 白のクレイトス クレオメネス コイノス シビュルティオス スタサノル セレウコス テウタモス トレポレモス ニカノル (パルメニオンの子) スタゲイロスのニカノル ネアルコス ネオプトレモス ハルパロス パルメニオン ピリッポス (マカタスの子) ピリッポス (太守) フィロクセノス フィロタス(パルメニオンの子) フィロタス (太守) プトレマイオス ペイトン ペイトン (アゲノルの子) ペウケスタス ヘファイスティオン ペルディッカス ポリュペルコン メナンドロス メノン メレアグロス ラオメドン リュシマコス レオンナトス 敵対者[編集] ダレイオス3世 メムノン ベッソス スピタメネス オクシュアルテス ポロス(インドの王) アギス3世(スパルタ王) その他[編集] アリストテレス カラノス フィロン[要曖昧さ回避] ディオゲネス チャンドラグプタ 脚注[編集] [ヘルプ] 1.^ プルタルコス「英雄伝」によると、史上最も優れた指揮官としてアレクサンドロス大王を挙げている 2.^ プルタルコス「英雄伝」によると、アレクサンドロスの銅像をみたカエサルは、自分の業績は、彼に比べればとるにたらないと言って泣いたという逸話がある 3.^ Mémoires de Napoléon Bonaparte, Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne 1821 年は、ナポレオンに同行した秘書の回想録であるが、「アレクサンドロスはナポレオンが最も尊敬する偉人であり、同列に並べられることを常に願っていた。」「エジプト遠征時も、自分とアレクサンドロスを重ねていた」という趣旨の内容が度々登場する。 4.^ Ashrafian H. "The death of Alexander the Great--a spinal twist of fate." J Hist Neurosci. 2004 Jun;13(2):138-42. PMID 15370319. 5.^ Pearce, John M. S., "Fragments of Neurological History". Imperial College Press: 2003, p. 248. ISBN 1860943381 史料[編集] 一次史料[編集] カリステネスの従軍記 ネアルコスの従軍記 ネオシクリトスの従軍記 アリストブロスの従軍記 プトレマイオスの従軍記 クレイタルコスの大王伝 バビロン王宮日誌(実在を疑う研究者も多い) バビロン天文日誌 これらの同時代史料は全て散逸している(バビロン天文日誌は、サマリー版の粘土板が発掘されており、アレクサンドロスと思われる王の記録の記載が若干残っている)。 現存する史料[編集] 評伝アリアノス『アレクサンドロス大王東征記・インド誌』 大牟田章訳 東海大学出版会、新版.岩波文庫上下 クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎・上村健二共訳 西洋古典叢書:京都大学学術出版会 『プルタルコス英雄伝 「アレクサンドロス」』 ちくま学芸文庫中巻、井上一訳、解説村川堅太郎 伝カリステネス 『アレクサンドロス大王物語』 橋本隆夫訳、国文社〈アレクサンドリア図書館叢書7〉 通史シケリアのディオドロス 『歴史叢書(英語版)』(全40巻。2012年9月現在全訳はない) 『神代地誌』神代を扱った最初の6巻が龍溪書舎から出ている。 『帝京史学』においてアレクサンドロスの東征を扱った17巻の訳注が帝京大学教授森谷公俊によって連載されており、2012年9月現在三回目で、全118章のうち83章まで連載されている。ネットでも公開されており、無料で読める(帝京史学)。 ポンペイウス・トログス/ユスティヌス 『地中海世界史』第11-12巻 合阪学訳、西洋古典叢書:京都大学学術出版会 その他アレクサンドロスを中心に扱ったものではないが、ある程度まとまった記述があるもの ストラボン 『ギリシア・ローマ世界地誌』 全2巻  飯尾都人訳  龍渓書舎 ポリュアイノス 『戦術論』 戸部順一訳 国文社 主な日本語文献[編集] 森谷公俊 『興亡の世界史1.アレクサンドロスの征服と神話』  講談社 2007年  巻末に詳細な文献案内。以下は関連著書 森谷公俊 『アレクサンドロス大王―世界征服者の虚像と実像』 講談社選書メチエ、2000年 森谷公俊 『王宮炎上―アレクサンドロス大王とペルセポリス』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2000年 森谷公俊 『王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母』 筑摩書房〈ちくま新書〉、1998年 ピエール・ブリアン、福田素子訳 『アレクサンダー大王―未完の世界帝国』 創元社〈「知の再発見」双書11〉、1991年 ピエール・ブリアン、田村孝訳 『アレクサンドロス大王』 白水社〈文庫クセジュ〉、2003年 大牟田章 『アレクサンドロス大王―世界をめざした巨大な情念』 清水書院〈清水新書〉、1984年  アリアノス『東征記』の訳者でもある、以上3冊とも入門書。 『アレクサンダーの戦争 青年王とユーロ・アジア大帝国』 世界の戦争1巻:講談社、長澤和俊編、1985年 ニック・マッカーティ 『アレクサンドロス大王の野望』 シリーズ絵解き世界史1:原書房、日本語版総監修本村凌二、2007年    ロビン・レイン・フォックス 『アレクサンドロス大王 (上下)』 森夏樹訳、青土社、2001年-詳細な伝記 エドヴァルド・ルトヴェラゼ 『アレクサンドロス大王東征を掘る』 帯谷知可訳、日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2006年 『NHKスペシャル文明の道.1 アレクサンドロスの時代』  日本放送協会出版 2003年 『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』 東京国立博物館・NHK共同編集、展覧会図録 安彦良和 『アレクサンドロス 世界帝国への夢』 日本放送出版協会 2003年、増補完全版 2008年  以上の3冊とも「文明の道」放送に併せた出版。  オーレル・スタイン 『アレクサンドロス古道』 前田龍彦訳、同朋舎 1985年、アリアーノスの原典も所収(絶版)。   別訳 『アレクサンダーの道 ガンダーラ・スワート』 谷口陸男・澤田和夫訳、長澤和俊注・解説、白水社 1984年(品切中)。 創作上におけるアレクサンドロス3世[編集] 書籍[編集] 獅子王アレクサンドロス - 阿刀田高著 アレクサンドロスと少年バゴアス - メアリ・ルノー著 アレキサンドロス大王 陽炎の世界帝国 - ニコラス・ニカストロ著 幻想皇帝 アレクサンドロス戦記 - 荒俣宏の歴史小説。戦国末期、日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが戦国大名の織田信長にアレクサンドロス3世の生涯を語りながら物語が進んでいく。 ヒストリエ - 岩明均の漫画。アレクサンドロス3世に仕えた書記官、エウメネスの物語。 アレクサンダー大王 -天上の王国- - 赤石路代の漫画 『アレクサンドロス 世界帝国への夢』 - 安彦良和の漫画 映画[編集] アレキサンダー大王 - アレクサンドロス3世の生涯を描いたロバート・ロッセン監督による映画。 アレキサンダー - アレクサンドロス3世の生涯を描いたオリバー・ストーン監督による映画。 アニメ[編集] アレクサンダー戦記 - 上記の荒俣宏の小説を原作としたTVアニメ。だが設定が原作と大きく異なる。 ゲーム[編集] アルシャードガイアRPG - 井上純一・菊池たけしデザインのテーブルトークRPG。リプレイやシナリオ、読者参加企画を包含するプロジェクト「アルシャードトライデント」に重要キーパーソンとして登場する。 関連項目[編集] ウィキクォートにアレクサンドロス3世に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、アレクサンドロス3世に関連するメディアがあります。 イスカンダル マケドニア王国 ブケパロス(アレクサンドロス3世の愛馬) アレクサンドロス アレクサンドリア アレクサンダル アレクサンデル アレクサンドル アレクサンダー 個人崇拝 アイアン・メイデン アレクサンドロス3世をテーマにした"ALEXANDER THE GREAT"という曲がある(1986年、アルバム"SOMEWHERE IN TIME"収録) 鉄床戦術 「アレクサンドロス」の異名を与えられた人物[編集] カール12世 - スウェーデン国王。「北方のアレクサンドロス」。 ナーディル・シャー - アフシャール朝初代シャー。「第2のアレクサンドロス」、「ペルシアのナポレオン」とも。 スカンデルベク - オスマン帝国に抵抗したアルバニアの民族的英雄。「スカンデル」はイスカンダル(アレクサンドロス)に由来する。 アラーウッディーン・ハルジー - ハルジー朝のスルタン。「第2のアレクサンドロス」。 先代:ピリッポス2世 マケドニア王紀元前336年 - 紀元前323年 次代:ピリッポス3世 アレクサンドロス4世 先代:- アジア王紀元前331年 - 紀元前323年 次代:ピリッポス3世 アレクサンドロス4世 [表示] 表・話・編・歴 プトレマイオス朝ファラオ [表示] 表・話・編・歴 ヴェルギナの太陽マケドニア王 アレクサンドロス3世の東方遠征グラニコス - ミレトス - ハリカルナッソス - イッソス - ゴルディオン - ティルス - ガザ - ガウガメラ - ペルシス門 - ヒュダスペス河畔 カテゴリ: アレクサンドロス3世 マケドニア王国の君主 ファラオ 都市の建設者 ギリシャ・ドラクマ紙幣の人物 LGBTの王族 両性愛の人物 紀元前356年生 紀元前323年没

カナダ - W【前半】

国民

人種

人種(2011年 カナダ国勢調査)
     
ヨーロッパ系白人
  
76.7%
東アジア系
  
4.8%
南アジア系
  
4.8%
先住民族
  
4.3%
黒人
  
2.9%
東南アジア系
  
2.8%
西アジアアラブ系
  
1.8%
ラテンアメリカ系
  
1.2%
混血
  
0.5%
その他の有色人種
  
0.3%

2011年国勢調査によると、ヨーロッパ系白人が76.7%、黒人2.9%、先住民4.3%、中南米系やアジア系などを含むその他が16.2%となっている。その他の内訳は東アジア系(4.8%)、南アジア系(4.8%)、東南アジア系(2.8%)、西アジア・アラブ系(1.8%)、ラテンアメリカ系(1.2%)、混血(0.5%)、その他(0.3%)となっている。カナダの人種統計では、白人、先住民族以外を有色人種と分類し、全人口の19.1%を占めている。先住民族はさらに北アメリカインディアン系をまとめた呼称であるファースト・ネーションズ (First Nations) (2.6%) 、インディアンとヨーロッパ白人の混血のメティ(1.4%)、エスキモー民族のイヌイットの3つに分類されている。

カナダとアメリカの人種構成の違いは、もともと黒人奴隷がほとんど存在しなかったために黒人(2.5%)が非常に少なく、イギリス系、フランス系が人口の半数を占めていることである。アメリカと同じくアイルランド系とドイツ系とイタリア系も多いが、カナダはウクライナ系が非常に多いのが特徴で、ウクライナロシア以外では最大規模である。またアメリカで非常に多いスペイン語圏出身者が少ない。このように、白人が多かったカナダであるが、近年の移民は大きくアジア出身に偏っており、大都市を中心にアジア系の割合が急増している。2006年の統計では530万人の非白人系住民が、2031年にはカナダ総人口の約3分の1、1440万人にまで増加するとみられている。アジア系が多いといってもカナダは大英帝国の植民地だった影響で大多数は南アジア系、中国系(特に香港など広東語圏)であり、逆にアメリカに多いアジア系の日系韓国系、ベトナム系は比較的少ない。特にバンクーバーとトロントは巨大なアジア系人口を抱え、この2都市では白人は人口の半数弱を占めるに過ぎない。一方、アフリカ系は主に、トロント、モントリオールに集中している。1999年に中国系のエイドリアン・クラークソン、続いて2005年にハイチ系ミカエル・ジャンが総督に就任するなど、リベラルな国民性も合わせて人種には寛容な姿勢を示している。

中国系カナダ人は、1850年代、ゴールドラッシュや鉄道建設の労働者としてカナダに流入したのが始まりである。カナダは中国系の排斥を意図して、人頭税を課したり、中国系排斥を狙った中国人移民法を1920年台に成立させている。これについて、カナダ政府は2006年に謝罪した。カナダには、政府関連事業に80万カナダドル(約7500万)を5年間、無利子で融資した場合、永住権を獲得できるプログラムが有り、このプログラムに申し込む半数は中国系とされる。カナダでは、この投資額を引き上げる動きがあり、中国系を排斥する意図があるのではと一部で指摘されている[23]

2006年の調査では住民の祖先は、イングランド系21%、フランス系15.8%、スコットランド系15.2%、アイルランド系13.9%、ドイツ系10.2%、イタリア系5%、中国系4%、ウクライナ系3.6%、オランダ系3.3%、ポーランド系3.1%、インド系3%である。また、3.8%のカナダ人が先住民族の血を引くと回答している。3分の1の国民が自らの民族をカナダ人であると主張しているが、これは、移民である祖先の出身国の民族意識よりも、民族的アイデンティティそのものはもはやカナダ人であると主張する人たちであり、大多数はイギリス系とフランス系であると思われる。

言語[編集]

母語話者(カナダ)2011
     
英語
  
56.9%
フランス語
  
21.3%
その他
  
21.8%
カナダにおける英語と仏語使用地域。黄色は英語、茶色は仏語、薄茶色が両言語使用地域、白色は人口希薄地域を表す。

英語カナダ英語を参照)とフランス語Canadian Frenchを参照)が1969年に制定された公用語法によって認められている公用語である。この公用語法では、連邦政府における英語フランス語が平等な地位にあることが定められた。連邦裁判所、連邦議会カナダ国会)や連邦政府機関のすべてで英仏二カ国語が平等に扱われる。カナダ国民は、十分に需要がある場合には連邦政府の行政サービスを英語またはフランス語にて受ける権利があり、公用語の少数派側であっても、すべての・準州にて教育を受ける権利が保障されている。

2006年国勢調査[24]によると、国民の約58%が英語、約22%がフランス語を第一言語としている。約98%が英語かフランス語のどちらかを話し(57.8%が英語のみを、13.3%がフランス語のみを、17.7%が両言語を話すことができる) フランス語が主に使われている地域はケベック州オンタリオ州オタワなどの東部地域と北オンタリオ地方ニューブランズウィック州アカディア人の多い地域、およびマニトバ州の南部である。このうち、ケベック州フランス語ケベック・フランス語を参照)のみを、ニューブランズウィック州英語フランス語を州の公用語とし、他州は英語のみを州の公用語としている。

なお、ユーコン準州では英語フランス語が、ヌナブト準州では英語フランス語イヌクティトゥット語、イヌイナクトゥン語が、ノースウエスト準州では英語フランス語イヌクティトゥット語、イヌイナクトゥン語、クリー語、ドグリブ語、チペワイアン語、サウススレイビー語、ノーススレイビー語、グウィッチン語、イヌビアルクトゥン語も公用語となっている。

公用語以外の言語を使う住民も600万人ほどおり、中国語広東語が多い)の話者が103万人、イタリア語が45万人、ドイツ語が44万人、などである。また先住民の中には個々の部族の言語を使うものもいるが、多くの言語はだんだんと使われなくなっていく傾向にある。

カナダでは移民社会を構成しているので、200語以上の言語が国勢調査で母語として回答されている。中国語を母語とする人口は全体の3.3%であり、英語、フランス語に続く第三位の母語となっている。第四位はパンジャブ語であり増加中である。その他に母語として多いのはスペイン語アラビア語タガログ語ウルドゥ語である。

カナダでは二カ国語主義の国家ではあるものの、英語とフランス語の両方で会話が出来るのは人口の17.4%である。ケベック州在住の英語話者の69%はフランス語も話せ、ケベック州以外に在住のフランス語話者の83.6%が英語も話せる。

宗教[編集]

宗教構成(カナダ)
     
特になし
  
16.5%
カトリック
  
43.2%
プロテスタント
  
29.2%
その他のキリスト教
  
4.3%
その他の宗教
  
6.4%

2001年の国勢調査によると、キリスト教徒が多数(77%)を占める。内訳はアングロアメリカ圏でありながら、カトリックが43.2%と最も多い。次にプロテスタントが29.2%、正教会東方諸教会が1.6%となっている。

ムスリムが2%、ユダヤ教徒が1.1%、仏教徒が1.0%、ヒンドゥー教徒が1.0%、シーク教徒が0.9%。無宗教は16.5%である。

プロテスタントの力が政治的にも文化的にも強い影響力を持っているアメリカ合衆国と比べるとカナダはより世俗的である。これは教会出席率にも表している。アメリカ合衆国では 毎週教会に通う人の割合が43%で、全く通わない、もしくはほとんど行かないという人の割合はわずか8%である。一方、カナダでは毎週教会に通う人の割合が20%にとどまり、全く通わない、もしくはほとんど行かないという人の割合は38%と逆転している。

市民結婚法[編集]

カナダでは、結婚を「すべての他人を除外した2人の人物の合法的な連合」と定義している、つまり異性間の結婚と同性間の結婚に区別がなく、同性婚が可能である。

文化[編集]

ビル・リードの1980年の作品「ワタリガラスと最初の人類」。ワタリガラスは先住民に共通した伝説に伝わる動物である

カナダの文化はしばしば「進歩的、多様で、多文化主義的」[25]とされる。先住民の文化から、移住してきたヨーロッパ系の文化、さらに近年の様々な国からの移民の持ち込む幅広いものが含まれ、混じり、重なり、形成されている。その中で政治的にも多文化主義が憲法で守られ、政策的にも推進されてきた[26]ケベックでは文化アイデンティティーは強く、仏語話者の評論家はケベック文化は英語圏と違った独自性を持つと強調する[27]。しかしながらカナダは全体として、「文化のモザイク」(様々な人種民族・地域文化が共存する)を形成しているとされる[28]。国の政策でもユニバーサルヘルスケア富の再分配のための高い税金死刑廃止、貧困撲滅への努力、多文化主義推進、厳しい銃規制同性結婚合法化などが挙げられ、カナダの政策や文化上の社会的価値観を反映している [29]

食文化[編集]

カナダは国土も広く、また様々な文化を持った人々が住んでいるため、カナダの料理は多様であることが特徴となっている。

文学[編集]

赤毛のアン』の作者L・M・モンゴメリはカナダの文学者である。またサイバーパンクSF作家であるウィリアム・ギブソンはアメリカ合衆国出身だが、徴兵拒否のためにカナダに移住したため、「カナダの作家」として扱われることがある。また、マーガレット・アトウッドもカナダの作家である。

音楽[編集]

カナダの音楽先住民族ヨーロッパからの移民をはじめとし、様々な人々によって創造・継承されてきた。1600年代以降より、カナダでは国際的に著名な作曲家、演奏家などの音楽家を輩出してきた[30]。17世紀以降では教会や集会所、邸宅の大広間、学校、コンサートホールレコード会社ラジオテレビ局など様々な音楽のインフラが形成されてきた[31][32]。これらの音楽はアメリカ合衆国からの影響を大きく受け[33][34][35]ながらも、「カナディアン・ロック」と言うジャンルを生み出した[36]

ポピュラー音楽・ロックの分野ではニール・ヤングジョニ・ミッチェルザ・バンドらの優れたミュージシャンを輩出した。また、ゴードン・ライトフット、ゲス・フー、BTO、レナード・コーエン、アン・マレー、ラッシュ、ポール・アンカ、セリーヌ・ディオンアヴリル・ラヴィーンらもカナダ出身である。ジャズでは、オスカー・ピーターソンが国際的に成功した。

カナダ記録芸術科学アカデミー(Canadian Academy of Recording Arts and Sciences)がカナダの音楽産業を代表し1970年よりジュノー賞の授与を行なっている。またカナダにおける音楽の放送はカナダ・ラジオテレビ通信委員会によって規制されている。

クラシック音楽の分野では、20世紀半ばに活躍したマレイ・アダスキンジョン・ワインツワイグなども著名であり、また独創的なバッハ解釈で名高いグレン・グールドなどはトロント生まれである。また、モントリオール交響楽団シャルル・デュトワが指揮者を務めている間に実力を高め、北米大陸屈指のオーケストラとして知られるようになった。作曲家のマリー・シェーファーサウンドスケープの提唱者であり「魔法の歌(マジック・ソングズ)」「ガメラン」等の作品がある。

その他、カナディアン・カントリーミュージック賞、ケベック音楽に授与されるフェリックス賞など、様々なジャンルの音楽に授与される音楽賞が設けられている。

芸術[編集]

映画[編集]

カナダは公用語として英語とフランス語の両方を採用しており、両言語の映画が制作されている。なお、カナダにおける映画制作の主な拠点となっているのは、トロントモントリオールバンクーバーである。このうち、モントリオールではモントリオール世界映画祭という、比較的名の知られた映画祭が開催される。

世界遺産[編集]

カナダ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が6件存在する。さらにアメリカ合衆国にまたがって2件の自然遺産が登録されている。

続きを読む

↑このページのトップヘ