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カテゴリ: 陰謀論全般

一神教 - W 

一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、ただひとつの的存在者のみを認めてこれを信仰する宗教[1]

通常、ユダヤ教キリスト教イスラム教の3つがその典型だとされる[2]

歴史上は、次に挙げる3種が区別できる[2]

  1. 単一神教または交替神教
  2. 拝一神教
  3. 絶対的一神教 - すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場。[2]

一神教の成立の歴史に関する説としては、次の2種がある[2]

  • アニミズム的多神観から単一神教をへて一神教へと発展する、とする説(進化説)[2]
  • 原始的な至上者信仰から多神観へ退化する、とする説(原始一神観説 urmonotheism)[2]

一神教における神のことを「唯一神」(ゆいいつしん)または「唯一絶対神」(ゆいいつぜったいしん)と呼ぶこともある。唯一神教を信仰する地域の言語によっては、同一の語が「唯一神そのもの」と「唯一神の名」の両方の意味を含意しうる。クルアーンでは神を称える賛辞として「唯一なる」という語を用いることがある[3]

脚注

  1. ^ 広辞苑第六版【一神教】
  2. ^ a b c d e f ブリタニカ百科事典【一神教】
  3. ^ アッラーの99の美名”. 2013年9月23日閲覧。

関連項目


虎馬:MKウルトラ計画 - W 
CIA本部(バージニア州マクレーン)

MKウルトラ計画Project MK-ULTRAMKウルトラ作戦とも)とは、アメリカ中央情報局(CIA)科学技術本部が極秘裏に実施していた洗脳実験コードネーム両国の国民を被験者として、1950年代初頭から少なくとも1960年代末まで行われていたとされる[1][2]1973年に時のCIA長官リチャード・ヘルムズが関連文書の破棄を命じたものの、辛うじて残されていた数枚の文書が1975年アメリカ連邦議会において初公開された[3]



計画名の由来

MKウルトラ計画の「MK」とはCIA科学技術部が主導することを示すコードで(MKナオミ計画及びMKデルタ計画も同様)、「ウルトラ」とは第二次世界大戦中に用いられていた符丁で「最重要機密」。

概要

MKウルトラの前身は、統合諜報対象局1945年設立)によるペーパークリップ作戦である。ペーパークリップ作戦とは、かつてナチ政権に関与した科学者を募集する目的で展開され、拷問、洗脳を研究していた研究者もいれば、ニュルンベルク裁判にて戦犯とされた者も存在した[4][5]

アメリカ政府が極秘裏に行った計画の中には、チャーター計画1947年実施)やブルーバード計画(1950年実施、翌年アーティチョーク計画と改名)をはじめ、ペーパークリップ作戦から生まれた内容も多かった。

こうした中、朝鮮戦争での洗脳が注目されていた1953年4月13日アレン・ダレスの命を受け、シドニー・ゴッドリーブを先頭にMKウルトラ計画が始まった[6]。実験は、しばしば被験者の同意無く行われ[7]、実験に関わった研究者でさえ、「計画の最終目的を知らされて無い事もあった」と言う[8]

冷戦下の1964年には「MKサーチ」と改名。自白剤を用いてソ連スパイ容疑者を尋問したり、海軍では超音波を利用して記憶を消去する実験を行う[9]など54のサブ計画が存在した。しかし前述の通り、1973年にヘルムズ長官が計画の記録を殆ど破棄した為に、実験の全貌を解明することは、現在においても困難である[10]

実験

CIAの文書によると、「マインドコントロールの効果を立証するための実験」と称して、化学的、生物的な手段を用いた事に留まらず、放射性物質にも着手した事が明らかと成っている[11]

薬物

LSD[12]をCIA職員や軍人医師妊婦精神病患者らに投与する実験を行っていた。LSDや、他の薬物が、常に被験者から事前の同意無く投与されていた。そうした行為は、第二次世界大戦後にアメリカが調印したニュルンベルク綱領に違反している。

被験者の「募集」も、しばしば非合法の手段が用いられ、更に「被験者の合意(認識)なく、薬物の投与を受ける」と言う事実を隠蔽して行われた(ただし実験への参加は任意であった)。大掛かりな実験を行うことが多く、77日間連続でLSDを投与したこともある[13]。 LSDを投与して自白を引き出す理論が確立されたころ、敵側の人間に使用する事前予行に、ギャングのリーダーを売春婦を用いて誘き寄せ、飲み物にLSDを混入させる実験までも行われた。その実験で、隣室の売春婦と会話する内容を盗聴したところ、「自分や自身の組織が犯した殺人や詐欺など、重大な犯罪について話をした」らしい。[14] しかし、「余りに予想だにしない結果を生む」と言うことで、結局LSDを使った実験は打ち切りとなった[15]

カナダでの実験

カナダでも、スコットランド人心理学ドナルド・キャメロンを中心に、1957年から1964年まで、マギル大学アラン記念研究所にて実験が行われた。LSDを含む各種薬物を用いて被験者を昏睡状態にしたり、通常の3~40倍の強さの電気ショック療法などを用いていた。

被験者は、不安障害出産抗鬱において精神上の問題を抱えていたが、実験により終生障害に苦しむ事となった[16]ほか、失禁記憶喪失なども引き起こした[17]。なお、キャメロンが米加両国の精神医学会の会長のみならず、世界精神医学会の初代議長として世界に名が知られたのも、この時期である。

その他

  • 2009年アメリカで制作された映画「実験室KR-13」は、21世紀に入っても極秘裏にMKウルトラ計画の研究を続けている架空の組織が、治験アルバイトとして募集した一般人を対象に人体実験を行うというストーリー。史実のMKウルトラ計画の内容について言及するシーンがあり、カウンターテロリズムとの関連性が示唆されている。ただし作中行われる実験の内容は史実とは大きく異なっており、ある条件を満たす適合者の選抜を目的としている。
  • アトラスから発売されたゲーム「真・女神転生 STRANGE JOURNEY」に、MKウルトラ計画をモチーフにしたアイテム「MK型治療器」が登場する。
  • 映画「陰謀のセオリー」の中で、登場人物の1人がかつてMKウルトラ計画に関与していたことを告白するシーンがある。
  • アメリカのグラフィック・ノベル、及びその映画化作品『RED/レッド』の副主人公の1人であるマーヴィンは、「政府機関の極秘プログラム」の過酷な実験に耐え抜いた数少ない人物の1人という設定。その結果超人的に研ぎ澄まされた感覚と記憶力を得たが、その代償として人格が破綻し、いかなる些細なリスクも排除しようとする危険人物になってしまった。娯楽性を重視した作品であるためコミカルに誇張されているが、劇中の台詞やDVDの映像特典などでMKウルトラ計画をモチーフにしていることが判る。

脚注

  1. ^ Richelson, JT (ed.) (2001年9月10日). “Science, Technology and the CIA: A National Security Archive Electronic Briefing Book”. George Washington University. 2009年6月12日閲覧。
  2. ^ Chapter 3, part 4: Supreme Court Dissents Invoke the Nuremberg Code: CIA and DOD Human Subjects Research Scandals”. Advisory Committee on Human Radiation Experiments Final Report. 2005年8月24日閲覧。
  3. ^ “An Interview with Richard Helms”. Central Intelligence Agency. (2007年5月8日). https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/kent-csi/docs/v44i4a07p_0021.htm 2008年3月16日閲覧。 
  4. ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/4443934.stm
  5. ^ http://www.jlaw.com/Articles/NaziMedEx.html
  6. ^ Church Committee; p. 390 "MKULTRA was approved by the DCI [Director of Central Intelligence] on April 13, 1953"
  7. ^ Church Committee; "The congressional committee investigating the CIA research, chaired by Senator Frank Church, concluded that '[p]rior consent was obviously not obtained from any of the subjects.'"
  8. ^ Price, David (June 2007). "Buying a Piece of Anthropology: Human Ecology and unwitting anthropological research for the CIA" (PDF). Anthropology Today 23 (3): 3–13. doi:10.1111/j.1467-8322.2007.00510.x. Retrieved 2008-04-13. 
  9. ^ http://www.druglibrary.org/schaffer/History/e1950/mkultra/Hearing05.htm, retrieved 25 April 2008
  10. ^ Chapter 3, part 4: Supreme Court Dissents Invoke the Nuremberg Code: CIA and DOD Human Subjects Research Scandals”. Advisory Committee on Human Radiation Experiments Final Report. 2005年8月24日閲覧。 (identical sentence) "Because most of the MK-ULTRA records were deliberately destroyed in 1973 ... MK-ULTRA and the related CIA programs."
  11. ^ Declassified
  12. ^ アメリカ国内では1966年10月6日にLSDが合法化
  13. ^ NPR Fresh Air. June 28, 2007 and Tim Weiner, The Legacy of Ashes: The History of the CIA.
  14. ^ ナショナルジオグラフィック 葬られた歴史の真相2 CIA極秘実験
  15. ^ [1]
  16. ^ Marks 1979: pp 140–150.
  17. ^ Turbide, Diane (1997年4月21日). “Dr. Cameron’s Casualties”. 2007年9月9日閲覧。

関連項目

外部リンク

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虎馬:釈迦 - W 
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釈迦
釈迦立像
釈迦立像
生地コーサラ国カピラヴァストゥ
没地マッラ国クシーナガラ
弟子舎利弗摩訶目犍連摩訶迦葉
須菩提富楼那弥多羅尼子
摩訶迦旃延阿那律優波離
羅睺羅阿難

釈迦(釋迦、しゃか、 : शाक्य [zaakya](Śākya)、シャーキャ)は、仏教の開祖である。

本名(俗名)は、パーリ語ゴータマ・シッダッタGotama Siddhattha)またはサンスクリット語ガウタマ・シッダールタ(गौतम सिद्धार्थ [Gautama Siddhārtha])、漢訳では瞿曇 悉達多(クドン・シッダッタ)と伝えられる。



呼称

「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに、: शाक्यमुनि [zaakya-muni](Śākyamuni)、シャーキャ・ムニ)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。

称号を加え、釈迦牟尼世尊釈迦牟尼仏陀釈迦牟尼仏釈迦牟尼如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊釈迦仏釈迦如来と呼ぶことが多い。

称号だけを残し、世尊仏陀ブッダ如来とも略す。

日本語では、一般にお釈迦様(おしゃかさま)と呼ばれることが多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して仏「十号」と呼ぶ。

呼称表

  • 釈迦牟尼世尊
    • 釈迦尊
    • 釈尊(しゃくそん)
  • 釈迦牟尼仏陀
    • 釈迦牟尼仏
    • 釈迦仏
  • 釈迦牟尼如来
    • 釈迦如来(しきゃじらい)
  • 多陀阿伽度(たたあかど)
  • 阿羅訶(応供)(あらか)
  • 三藐三仏陀(正遍智)(さんみゃくさんぶっだ)

史実

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学仏教学の権威であった中村元はパーリ語聖典『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[1]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲しているが、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多い。よって歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。

しかし、1868年、イギリスの考古学者A・フェラーがネパール南部のバダリア(現在のルンビニー)で遺跡を発見。そこで出土した石柱には、インド古代文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていた。この碑文の存在で、釈迦の実在が史上初めて証明された[要高次出典]。 釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族・小国シャーキャの出身であるのは確実で、釈迦自身が、パセーナディ王とのやりとりの中で釈迦族をコーサラ国の住民であると語っている。シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、ブッダ入滅後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教がとってかわり、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家ではブッダのことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった[2]

考古学調査から、ネパール中南部のティロリコートや北インドのネパール国境近くウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になってるが、最近では舎利容器銘文などの発掘により、ピプラーワーが有力視されている。

1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、この地から、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘し、また近代に至って、「カピラヴァストゥ」という文字が刻まれた印章などが出土していることから、ほぼこの地ではないかと推察されている[※ 1]

生没年

まず釈迦の没年、すなわち仏滅年代の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない[3]。釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい[4]。日本の宇井伯寿中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。

なお、『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば、自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、

等があるが、他にも様々な説がある。

生涯

概略

釈迦は紀元前7世紀-紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、現在のネパールルンビニにあたる場所で誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で菩提樹の下で降魔成道を遂げ、悟りを開いたとされる。まもなく梵天の勧め(梵天勧請)に応じて初転法輪を巡らすなどして、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月[※ 2]の満月の日[※ 3]に80歳で入滅(死去)したと言われている。

誕生

十六大国時代のインド(紀元前600年

釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族・小国シャーキャの出身である。シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、所在不明だが、現在のネパールのタライ(tarai)地方のティロリコート(Tilaurakot)と、インドのピプラーワー(Piprahwa)が有力である。シャーキャは専制王を持たず、サンガと呼ばれる一種の共和制をとっており、当時の二大強国マガタコーサラの間にはさまれた小国であった。釈迦の家柄はrājaラージャ(王)とよばれる名門であった。このカピラヴァストゥの城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤ[要出典]執政アヌシャーキャの娘[要出典]マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた、とされている。

ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、現在のネパール、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティー(パーリ語:マハーパジャパティー)によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性がある。


伝説では「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]

釈迦族は、のちにコーサラ族に滅ぼされが。仏典では釈迦族はクシャトリア階級とされるが、バラモン教の経典では釈迦族はシュードラ階級とされている。そもそも釈迦族の居住地は中央からかなり離れた辺境であり。非アーリア系民族であったと推測される。 こうした事を考慮すれば、釈迦族と釈迦の実在はともかく、その生涯に関しては脚色があるものと考えるしかなく。そのことは留意する必要がある

出家

サールナート -(鹿野苑)五比丘最初に弟子となった五人の修行者

当時のインドでは、ヴェーダ経典の権威を認めない六人の思想家達(「ナースティカ」、「六師外道」)、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国および多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増す最中にあった。シャーキャもコーサラに服属することになった。 釈迦出家の動機を説明する伝説として四門出遊の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老も病ももある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったという。 私生活において一子ラーフラをもうけたことで、29歳の時、12月8日夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年(一説には7年[要出典])の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生のを根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去ったという。

成道

そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け悟りを開く。これを「降魔成道」という。降魔成道の日については、4月8日2月8日2月15日など諸説ある[8]。(日本では一般に12月8日に降魔成道したとする伝承がある。[5])釈迦の降魔成道を記念して、以後仏教では、この日に「降魔成道会(じょうどうえ)」を勤修するようになった。また、ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。

 7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論、四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タター(ア)ガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者(タターアガタ)」「真理のままに歩む者(タターガタ)」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhant)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

教団

その後、ヤシャスやプルナなどを次々と教化したが、初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディー・カッサパ (nadii kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。

ついでラージャグリハ(raajagRha、王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人はシャーリプトラ(舎利弗)であり、もう一人はマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)であった。この二人は後に釈迦の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈迦の弟子で、最初に教化された五比丘の一人であるアッサジ比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、シャーリプトラは叔父の摩訶・倶絺羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。この頃にマハーカーシャパ(摩訶迦葉、マハー・カッサパ)が釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハ(王舎城)を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

伝道の範囲

これより後、最後の一年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラアーナンダアニルッダデーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

入滅

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、ヴィルーダカとなった。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトル(ajaatazatru、阿闍世王)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

Nirvana buddha peshawar.jpg

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んだと記録されている。釈迦はカピラヴァストゥから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(パ:paaTaligaama)に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ(paataliputra、華子城)であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。[6]

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように[7]

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[8]
阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである[9]

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[10]

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マッラ (malla) 族(マッラ国)のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。[※ 4]。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。 仏陀入滅の後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、

  1. クシナーラーマッラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーリッチャビ族
  4. カビラヴァストフシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマ村のコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマッラ族

である[※ 5]

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典律典として維持されてきたのである。

虎馬:カルト - W 

カルト: cult)は、「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 cultus[1]から派生した言葉で、元来は「儀礼祭祀」などの宗教的活動を意味しており否定的・批判的なニュアンスは無かった。しかし現在では、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し[2]、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使われ[3][4]、よい意味には使われない[5]
目次 1 概要

2 定義・特徴



概要

1990年代アメリカにおいて、反社会的な宗教団体を指す言葉として使われるようになった(この場合、一般の宗教と区別する意味で「破壊的カルト」とも呼ぶ([6]、p131))。フランス語においては「カルト[7]」は宗教の宗旨別を意味し、ヨーロッパにおいては一般的な宗教から派生した団体を「セクト」と呼ぶが[8]セクトはカルトとは異なる概念である[9]中国語では、邪教と書かれるが、日本で言う邪教とカルトも異なる概念である。

それに対して、日本では、1995年のオウム真理教事件以後、反社会的行為を行う詐欺暴力的な宗教団体等の集団を呼んでいる [10] [9]。 とりわけ、絶対的服従やマインドコントロール、犯罪行為を行う反社会的な集団を「破壊的カルト」と呼ぶとされる[10]

派生的な用法(カルト・ムービーなどの肯定的な用法)は#派生的な意味でのカルトの節を参照

定義・特徴

カルトの特徴

マイクル・シャーマーによれば、一般的に以下のように性格づけられる。

指導者に対する崇拝
聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。
指導者の無謬むびゅう
指導者は絶対に間違いを犯さないという確信。
指導者の知識の広さ
哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者は広い知識がある。
説得のテクニック
新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
秘密の計画
信仰の真の目的と計画が曖昧としている、あるいは新規入信者や一般大衆にはそれらが明確に提示されていない。
欺瞞
入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。
金融面および性的な利用
入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。
絶対的な真理
さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。
絶対的な道徳観
指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

社会学上におけるカルトの定義

19世紀から20世紀の変わり目の頃、ドイツマックス・ヴェーバーエルンスト・トレルチなどの社会学者、神学者による説では、キリスト教団体を「教会」(各国の主要な教団)と「セクト」に分ける類型法があった。セクトは既存の教会を批判し、宗教的により正しい生き方を目指して分派した小規模団体であると定義した。このような教会とセクトの分類は、キリスト教世界内の団体間の緊張関係に着目している。 また、20世紀後半、「教会[11]→教派[12]→分派[13]」に次ぐ下部概念とする学術的試みがあったが、定着はしなかった[14]

なお、1950年にアメリカの社会学者のハワード・P・ベッカーは、非キリスト教的なスタイルを持つ新興団体を新たな類型として含め、これを「カルト」と定義した。ベッカーの言うカルトは、心霊術占星術などの信者集団で、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つものである。

フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」によるセクト(カルト)の定義

ヨーロッパにおいては「カルト」という言葉は用いられず、社会的に警戒を要する団体を、「セクト」と呼ぶ[15]

1995年12月、フランス下院で採択された報告書『フランスにおけるセクト』は「通常の宗教か、セクト(カルト)か」を判定する国際的な指針の一つとされている。この報告書は、調査委員会の委員長の名前を取って『アラン・ジュスト報告書』ともよばれている。

この中で、セクトの本質を「新しい形の全体主義」と定義した上で、以下のように「セクト構成要件の10項目」を列挙している。

  1. 精神の不安定化
  2. 法外な金銭的要求
  3. 住み慣れた生活環境からの断絶
  4. 肉体的保全の損傷
  5. 子供の囲い込み
  6. 反社会的な言説
  7. 公秩序の攪乱
  8. 裁判沙汰の多さ
  9. 従来の経済回路からの逸脱
  10. 公権力への浸透の試み

以上の項目のいずれかにあてはまる団体をセクトとみなしている[16]

フランスのセクト対策の特徴

  • 教祖が女性信者と性関係を持ったり、信者の結婚相手を指名することがある。また、性的儀式が信者勧誘の際の売り物となっている団体もある[6]
  • フランスのセクト対策で重要視されたのは、セクトが西欧的人権の侵害をし犯罪誘因性の温床となっていないかである。
  • その団体が西欧と異質な価値観を持つ異文化にすぎないのか、逆に適度な国家の介入が必要なカルトであるかの線引きが特に重要視された。
  • 2004年頃には、フランスはセクトに対する有効なネットワークを有することとなり、その対策も本格化した。
  • 具体的な対策内容は、各省庁における専門部署の設置、警察の捜査、司法における判例の蓄積、人権侵害や犯罪がなされていないのかの追跡調査、民間団体からの情報収集等である。

世界のカルト問題

米国

1978年、米国からガイアナに移動した人民寺院信者の900人に及ぶ集団自殺は、米国で社会問題化し、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して「カルト」と呼ぶようになる。これを機に 1979年、連邦議会を初め、各州が公聴会を開催した[15]

市民の間でも反カルト運動が高まり、同年 AFF[17] が設立され、カルト問題を社会に訴えると共にカウンセリングを確立・普及させた。

臨床心理学社会心理学、社会学、神学者達が、新たなカルトの理論的な定義付けを試みている。カルトを社会的問題とする陣営の統一見解としては1985年にまとめられた「Cultism:A conference for scholars and policy makers」という文書がある。

米国での統一教会の元信者2名が教団の宗教であることを隠した詐欺的勧誘によって、精神的苦痛を受けたことなどを理由として統一教会に損害賠償を求めた裁判で1988年カリフォルニア州最高裁判所は原告の訴えを却下した1、2審判決を破棄し、「(「聖なる詐欺」と称して「聖なる目的のためには人をだましてもよい」とする教団の)詐欺的勧誘が宗教的信念に基くものであっても、社会の保護のための規制に服する」として裁判のやり直しを命じた(結果的には和解となった)。宗教的教義に基く行為が公共の秩序や法規範と対立する場合、どちらを優先させるかは時代と共に変遷しているが、この判例のように公共の秩序や法規範を優先させた判例も1800年代からこれまでいくつか出ている[15]

フランス

1984年5月22日、欧州評議会(EC議会)において宗教団体による法の侵害に対する共同の対応についての決議が採択された。ECの各組織が情報交換することを促し、各組織の調査・評価のための13の基準を定めた[18]

フランスではセクト対策が盛んであり、各国で話題となった。フランスでは1995年にカルト対策の引き金となる議会報告書「フランスにおけるセクト」(「フランスのセクト」、「フランスにおけるセクト教団」、「1995年度報告書」とも)が提出された。この報告書はフランス国内で活動中のセクト的傾向の見られる団体の紹介と、それによって引き起こされる社会問題への対処を提案したものだった。フランスではこの報告書等に基づきセクト対策室が設置され、継続的なセクト対策が行われることとなる。セクト対策の課程で提案され実行に移されたのは、脱税対策、人権侵害調査、子供への洗脳的教育が行われていないかの監視、人権の侵害を行う団体への対処、異文化とカルトの線引きをどうするか、異文化の受け入れ、裁判実績の積み重ね、各県(海外県を含む)における専門部署の設置などである。

特にフランス政府のセクト対策で問題となったのは西欧的人権だけが人類の価値観でない以上カルトと多文化の線引きをどうするかと、旧来の世俗主義との調和であった。この問題は根幹的なものであり、政府のみならずフランス国内でも話題となり膨大な議論が行われた。またフランスのセクト対策は、宗教に対し踏み込んだものであったため、ヨーロッパ各国から注目された。

2002年からはセクトによる反社会的な行動に対する予防、抑止、対処のために「MIVILUDES」(「セクト的逸脱対策関係省庁本部」、朝日新聞の記事や一般の翻訳では「省庁間セクト対策室」)というフランス首相所轄の機関を中心に大々的にセクト対策を行って来た。

フランス政府はセクトと宗教の線引きという極めて難しい問題に挑戦した。何が宗教で何がセクトか、社会現象や団体の行動も異文化と見るべきか、それとも問題とすべき事体なのかなど極めて難しい問題である。フランスはこの種の宗教問題を避けるために犯罪や洗脳、社会問題を引き起こしている団体に対処するというスタンスで、問題点の多い団体を洗い出した。選択されたのは人権や法は宗教に優先するという価値基準である。その結果として宗教で無い団体などもセクトに含まれている。セクト対策も単なる分類やリストアップではなく行政レベルでの具体的な政策であった、その内容は「実際の問題行動に対する情報収集や行政指導、各地域への専門部署の設置」、「洗脳などを含めて教育方法に問題のあると見られる団体の子供へのモニタリング」、各種法整備や制度の整備、不法医療行為の取り締まり、「被害者救済のための判例の積み重ね」などの具体的な活動である。

ヨーロッパ全体でもカルト問題は難しく微妙な問題を含んでおり、信教の自由との兼ね合いをとることが重視されている。宗教問題に関しヨーロッパでは国内での裁判に不服がある場合欧州人権裁判所に持ち込むことが出来る。そこでの判決は国内の裁判所より上位にあるとされ、判決は欧州各国内で参考とされるべき判例となる。1990年代のフランス司法は人権裁判所の判断に添った形での判決を出す方向へシフトした。特に成人の信教の自由を保護することを重視し、国家や司法が宗教に介入するにはそれ相応の根拠がある場合に限るとされている。介入の根拠とできるのは、社会治安上の問題や犯罪、育児に関する責任や教育上の問題などである。

ヨーロッパのカルト対策の共通点は、「セクト」の明らかな問題行動や犯罪が、信教の自由の名の元に見過ごされている点を改善することである[18]。ヨーロッパでは「セクト」を宗教として見るのではなく、実際にどのような活動をし、どのような問題がおきているのかが重視されている。国の関係機関や警察、司法、民間団体が広範に連携して情報収集をし、個々の団体の問題行動に対処するという方針を取っている。国家機関や非政府組織の活動は国家の枠を超えた広範な活動を呈している。実際に、労働法や脱税、完全な営利目的の団体や詐欺、子供への教育等の観点からの対策が提起され実行に移された。またヨーロッパにおいては信者の社会復帰や、教育から隔離された「セクト」の子供たちの教育問題に力が注がれている。対して日本ではカルト団体の信者が、教団を離れても支援がないために社会復帰できず教団に戻ったり、子供が教団内で軟禁状態になり、教育から隔離させられているのに放置されている等の問題がある[18]

セクト対策については法律も整備されており、ウェブサイト「Legifrance」で調べることができる。

出典 新聞記事一覧[19]

中国

中国の法輪功が中国当局によって「カルト」に指定されている。

韓国

この国では後述の世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)が大きな勢力を保持している。

日本

日本では、1995年のオウム真理教事件以後、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される[3][10]

カルトとは多義的な意味があるが、宗教や宗教団体に対して使用する場合は、個人の自由や尊厳を侵害し社会的(一般他者との人間関係)に重大な弊害を生じさせている集団、つまりは、反社会的な団体であるとする意味に用いられる。個人的な自らの考えや価値観と異なる思想をもつ団体を排他したり蔑む目的で使用され、教義や儀礼(儀式)が奇異に思えるなどの評価を指す用語ではない[14]

歴史的には、日本では、1995 - 1996年に、マスコミがオウム真理教事件を連日報道する際に、「カルト」教団に関するセンセーショナルな記事や単行本が相次いで出版され[20]、修行に薬物が用いられる・公共性を持つはずの宗教が毒ガスによる無差別大量殺人を計画し実施する・大量の武器を所有製作する[21]といった犯罪行為を犯すような反社会的な宗教集団を指す用語として[3]、急速に広まった[14]。よって、現代では、個人や社会に対して破壊的な行為をする集団を指す通俗用語となっている[14]。また、公安調査庁は旧オウム真理教以外で反社会的活動を行う宗教団体を「特異集団」として、情報収集を行っている[22][23]

キリスト教学者の芦名定道は『一般的に日本人は、「特定の既成宗教を主体的に信仰している」とも言えず、むしろ何らかの宗教儀式(例えば、冠婚葬祭など)に参加しても「自分は、無宗教である!」と思っている人が多い。そのため直接的な体験よりも、主に『マスコミを介した間接的な情報によって構成された印象(刷り込み現象による影響)』で判断をする傾向にある[24]と自著で述べている。マスコミの提供する情報は、それが「視聴率を獲得するため」という特性から、当然に該当する宗教団体側から見て「報道内容は、不適切だ!」と思われる事も多く、日本の宗教像全般に多大なマイナス・イメージを生じさせている。日本では『カルト』の用法が、『マスコミのセンセーショナルなイメージ』と共に広まったが、メディアは事件報道が主体でありいいニュースはあまり流さないため、反社会的な団体ではない新宗教や新興宗教へのマイナスイメージが形成されたという指摘もある[25]

脱カルト側の問題として、脱会カウンセリングへの批判(拉致監禁を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発[26])、ディプロプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPSTDを発症[20])、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とするパワハラアカハラ[27])が報告されている。統一教会の主張としては、カルトの危険性を煽って脱カルトを迫ることで利益を得るなど、脱会組織を偽装し自らが関与する別の団体に所属させる行為について、脱カルトを名乗る組織にも抵触・違法行為が後を立たないとしている。(詳細は統一教会信徒の拉致監禁問題参照)

また、めだった犯罪を繰り返してきたわけでもない集団なのに「カルト」と名指しするなど、特定集団に「まっとうではない自己利益追求の宗教集団」というレッテルを貼るために、この用語が用いられる傾向がある[28][要ページ番号]

なお、カルト問題に長年関わってきた旧約聖書学者の浅見定雄東北学院大学名誉教授)は、「カルト問題は、宗教的問題と異なる社会問題だ」としている。

本来の意味でのカルト

少数の熱烈な信奉者を持つ映画文学音楽などの作品について、本来の意味において、カルトという言葉が用いられることがしばしばある。カルト映画カルト・ミュージックなどがその例である。

こういった用法は英語にも見られる。ただし、日本では本来の意味での「カルト」が余り知られていなかったため、かつてはこちらの派生的用法の意味で使われていた。その一例として、特定分野のマニアックな内容を設問にしたクイズ番組『カルトQ』やウッチャンナンチャン主演の映画作品『七人のおたく cult seven』などがある。

参考文献

脚注

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  1. ^ カルト・セクト問題カルト問題研究プロジェクト
  2. ^ 島田裕巳 『日本の10大新宗教』(幻冬舎、2007年11月30日) ISBN 978-4344980600
  3. ^ a b c 岩井洋「知恵蔵2007」、朝日新聞出版、2007年
  4. ^ 「大辞林 第三版」、三省堂、2007年
  5. ^ 「現代社会用語集」、山川出版社、2009年
  6. ^ a b 山口広・滝本太郎・紀藤正樹 『Q&A 宗教トラブル110番』(民事法研究会 2004年2月13日) ISBN 978-4896281866
  7. ^ : culte
  8. ^ 竹内節子 『カルトか宗教か』(文藝春秋 1999年11月20日) ISBN 978-4166600731
  9. ^ a b 石井研士「プレステップ宗教学」、弘文堂、2010年
  10. ^ a b c 「倫理用語集」、山川出版社、2009年
  11. ^ : Church
  12. ^ : denomination
  13. ^ : sect
  14. ^ a b c d 大貫隆; 名取四郎; 宮本久雄; 百瀬文晃 『岩波キリスト教辞典』 岩波書店2002年6月10日ISBN 978-4000802024 
  15. ^ a b c 第二東京弁護士会 消費者問題対策委員会(編)『論争 宗教法人法改正』(緑風出版、1995年9月30日) ISBN 978-4846195977
  16. ^ 古川利明『カルトとしての創価学会=池田大作』(第三書館 2000年11月) ISBN 978-4807400171
  17. ^ America family Foundation、アメリカ家族財団(現:ICSA、international Cultic Studies Association、国際カルト研究会
  18. ^ a b c 山口広中村周而平田広志紀藤正樹 『カルト宗教のトラブル対策』(教育史料出版会 2000年5月20日) ISBN 978-4876523818
  19. ^ 出典一覧その1 (普通に新聞社の公式サイトで検索すると新聞記事を検索できないため、新聞記事データベースG-Seaechを使用した)
    • 「新世界事情 地球規模で広がるカルト」中日新聞社 1997年6月5日,夕刊第3頁
    • 「カルト対策 日本も急げ 岡山で欧州調査報告(岡山県)」中国新聞社 1997年5月1日,中国朝刊第不明頁
    • 「破壊的カルト、官民で対策 山口広弁護士の欧州調査報告(こころ)」朝日新聞社 1997年3月25日,東京夕刊第11頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/3止 対策に「立法」はとらず」毎日新聞社 1997年3月23日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/2 き然と全団体名を公表」毎日新聞社 1997年3月22日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/2 米との差は「宗教を問う」かだ」毎日新聞社 1997年3月21日,東京朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/1 集金活動に詐欺罪の判決」毎日新聞社 1997年3月20日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/1 詐欺罪適用「リヨン判決」の衝撃」毎日新聞社 1997年3月20日,東京朝刊第3頁
    • 「「カルトは国土なき国家」」朝日新聞 2001年10月22日,東京夕刊第8頁
    • 「なんだっけ/カルト」しんぶん赤旗 2003年5月10日,日刊紙第6頁
    • 「国際協力(宗教と人権 ヨーロッパの模索:9)」朝日新聞社 1999年4月20日,東京夕刊第7頁
    • 「規制立法(宗教と人権 ヨーロッパの模索:6)」朝日新聞社 1999年3月16日,東京夕刊第7頁
    • 「対決姿勢(宗教と人権 ヨーロッパの模索:5)」朝日新聞社 1999年3月9日,東京夕刊第11頁
    • 「心理操作(宗教と人権 ヨーロッパの模索:4)」朝日新聞社 1999年3月2日,東京夕刊第7頁
    • 「引き離す(宗教と人権 ヨーロッパの模索:3)」朝日新聞社 1999年2月23日,東京夕刊第7頁
    出典一覧その2 Miviludes、Mils、宗教セクト委員会のだした資料一覧。 省略 フランスのセクト対策について報じた日本の新聞記事一覧。 *「日本の状況に関心(カルト対策はいま シアトル国際会議から:上)」朝日新聞社 2000年5月24日,東京朝刊第33頁
    • 「国際シンポ(宗教と人権 ヨーロッパの模索:11)」朝日新聞社 1999年5月11日,東京夕刊第7頁
    • 「宗教放送(宗教と人権 ヨーロッパの模索:14)」朝日新聞社 1999年6月1日,東京夕刊第9頁
    • 「戦う神父(宗教と人権 ヨーロッパの模索:12)」朝日新聞社 1999年5月18日,東京夕刊第9頁
    • 記事
    • 「「カルトは国土なき国家」」朝日新聞 2001年10月22日,東京夕刊第8頁
    • 「神かたり、人格破壊 国際手配、海外から教義 カルト「摂理」」朝日新聞 2006年7月28日,大阪朝刊第31頁
    • 「【談話室】カルト指定、事実でない」産経新聞 2003年11月17日,東京朝刊第15頁
    • 「なんだっけ/カルト」しんぶん赤旗 2003年5月10日,日刊紙第6頁
    • 「カルト教団、本気で規制 仏国民議会、裁判所に解散命令権付与」朝日新聞社 2001年6月1日,東京朝刊第7頁
    • 「評論・オウム真理教 自己愛触媒にカルト化 判定機関や刑法整備も 熊日論説委員・春木進 松本被告死刑判決」熊本新聞 2004年2月28日,朝刊第5頁
    • 「[宗教を考える]カルト問題 活動、活発化する気配 既成教団の奮起期待」読売新聞社 2002年7月17日,東京朝刊第25頁
    • 「〈解〉カルト」読売新聞社 2002年7月17日,東京朝刊第25頁
    • 「日米欧のカルト対策(ひろば)」朝日新聞社 2000年7月10日,東京夕刊第6頁
    • 「カウンセラーが洗脳?医療現場にカルト フランス(世界のくらし)」朝日新聞 2002年2月23日,東京朝刊第8頁
    • 「仏でカルト防止法成立/人権侵害取締まり/創価学会、統一協会も対象」しんぶん赤旗 2001年6月2日,日刊紙第1頁
    • 「「カルト」に厳しいフランス/国会の報告書でも創価学会批判」しんぶん赤旗 2001年6月2日,日刊紙第6頁
    • 「宗教に名を借りたカルト/仏下院で禁止法案可決 第一読会全会一致」しんぶん赤旗 2000年6月23日,日刊紙第1頁
    • 「フランス国営テレビ/創価学会をルポ/えせ仏教組織の活動と政教一体の危険性を告発」しんぶん赤旗 2000年6月23日,日刊紙第4頁
    • 「宗教に名を借りた反社会的な集団/創価学会は政府の監視対象/フランスの反セクト活動家が語る」しんぶん赤旗 2000年6月19日,日刊紙第7頁
    • 「日本の状況に関心(カルト対策はいま シアトル国際会議から:上)」朝日新聞社 2000年5月24日,東京朝刊第33頁
    • 「「カルト」に厳しいフランス/国会の報告書でも創価学会批判」しんぶん赤旗 2001年6月2日,日刊紙第6頁
    • 「〈解〉カルト」読売新聞社 2000年3月21日,東京朝刊第13頁
    • 「欧米のカルト対策 欧州、議会が積極対応 米は市民団体が中心/日弁連調査」読売新聞社 1999年11月30日,東京朝刊第31頁
    • 「オウム新法*期待と懸念」北海道新聞 1999年11月3日,朝刊全道第30頁
    • 「宗教放送(宗教と人権 ヨーロッパの模索:14)」朝日新聞社 1999年6月1日,東京夕刊第9頁
    • 「戦う神父(宗教と人権 ヨーロッパの模索:12)」朝日新聞社 1999年5月18日,東京夕刊第5頁
    • 「国際シンポ(宗教と人権 ヨーロッパの模索:11)」朝日新聞社 1999年5月11日,東京夕刊第7頁
    • 「補助金(宗教と人権 ヨーロッパの模索:10)」朝日新聞社 1999年4月27日,東京夕刊第7頁
    • 「国際協力(宗教と人権 ヨーロッパの模索:9)」朝日新聞社 1999年4月20日,東京夕刊第7頁
    • 「規制立法(宗教と人権 ヨーロッパの模索:6)」朝日新聞社 1999年3月16日,東京夕刊第7頁
    • 「対決姿勢(宗教と人権 ヨーロッパの模索:5)」朝日新聞社 1999年3月9日,東京夕刊第11頁
    • 「心理操作(宗教と人権 ヨーロッパの模索:4)」朝日新聞社 1999年3月2日,東京夕刊第7頁
    • 「引き離す(宗教と人権 ヨーロッパの模索:3)」朝日新聞社 1999年2月23日,東京夕刊第7頁
    • 「閉鎖性 そびえ立つ巨像(宗教と人権 ヨーロッパの模索:2)」朝日新聞社 1999年2月16日,東京夕刊第7頁
    • 「「偽りの看板に注意を」(宗教と人権 ヨーロッパの模索:0)」朝日新聞社 1999年2月9日,東京夕刊第9頁
    • 「連携作戦 政府自身が冊子つくる(宗教と教育 独仏露の場合:56)」朝日新聞社 1998年2月17日,東京夕刊第10頁
    • 「マダム・セクト 民間組織と協力(宗教と教育 独仏露の場合:55)」朝日新聞社 1998年2月10日,東京夕刊第11頁
    • 「安全教育 研修や映像で予備知識(宗教と教育 独仏露の場合:54)」朝日新聞社 1998年1月27日,東京夕刊第7頁
    • 「サイエントロジー教会は「宗教」、高裁判断に戸惑う世論--フランスの信者自殺事件」毎日新聞社 1997年8月28日,東京夕刊第5頁
    • 「仏高裁、布教認める 信者自殺めぐる詐欺罪で裁判の米新興宗教」朝日新聞社 1997年7月30日,東京夕刊第2頁
    • 「新世界事情 地球規模で広がるカルト(4/4) 独 「規制」で外交問題にも」中日新聞社 1997年6月6日,朝刊第7頁
    • 「新世界事情 地球規模で広がるカルト」中日新聞社 1997年6月5日,夕刊第3頁
    • 「カルト対策 日本も急げ 岡山で欧州調査報告(岡山県)」中国新聞社 1997年5月1日,中国朝刊第不明頁
    • 「破壊的カルト、官民で対策 山口広弁護士の欧州調査報告(こころ)」朝日新聞社 1997年3月25日,東京夕刊第11頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/3止 対策に「立法」はとらず」毎日新聞社 1997年3月23日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/2 き然と全団体名を公表」毎日新聞社 1997年3月22日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/2 米との差は「宗教を問う」かだ」毎日新聞社 1997年3月21日,東京朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/1 集金活動に詐欺罪の判決」毎日新聞社 1997年3月20日,大阪朝刊第3頁
    • 「[セクト宗教事情]ヨーロッパ報告/1 詐欺罪適用「リヨン判決」の衝撃」毎日新聞社 1997年3月20日,東京朝刊第3頁
    • 「オウム」「人質」…日仏の違い 国家観映す危機管理 /パリ支局長 山口昌子」産経新聞社 1997年2月5日,東京夕刊第5頁
    • 「「反社会」教団の対策強化 仏国会委が報告書 常設監視機関など提言」読売新聞社 1996年1月11日,東京朝刊第4頁
    • 「【宗教・こころ】宗教法人法見直しを考える(4)欧米は厳しい基準や対応」 1995年5月11日,東京夕刊第9
  20. ^ a b 櫻井義秀 『「カルト」を問い直す』 中央公論新社2006年1月30日ISBN 9784121502018 
  21. ^ 『新宗教 教団・人物事典』 弘文堂2006年1月30日 
  22. ^ 内外情勢の回顧と展望(平成17年1月)
  23. ^ 内外情勢の回顧と展望(平成18年1月)
  24. ^ 参照 芦名定道『宗教学のエッセンス』北樹出版 1993年10月15日 ISBN 978-4893843241
  25. ^ 石井研士、2001、「日本人の宗教行動」、『宗教と人間の未来』、白馬社 pp. 34-37
  26. ^ 米本和広、2003、「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」、『現代』、講談社
  27. ^ 室生忠 『大学の宗教迫害』 日新報道、2012年1月31日 
  28. ^ 島薗進葛西賢太福嶋信吉藤原聖子「宗教学キーワード」、有斐閣2006年9月30日

関連項目

外部リンク

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