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禁断直近世界歴史激変地震警報注意テロ氾濫?先遣2015米国極東京炎上ペルシャ湾地震残強予知夢注二秒!警戒宣下PICUP2PINE

カテゴリ: 歴史関連

虎馬:超古代文明は存在したのか 06:20

1: 土木施工”管理”技師(神奈川県):2012/01/04(水) 16:44:11.05 ID:eiLL7B7x0
クフ王の墓として知られるギザの大ピラミッド。
その真実に迫るドキュメンタリー映画『ピラミッド 5000年の嘘』の
パネルディスカッションが昨年末に行われた。

菊川匡古代エジプト美術館館長、考古学ジャーナリストの倉橋日出夫、

グラハム・ハンコック「神々の指紋」翻訳者・大地舜、古代オリエント博物館学芸部長の宮下佐江子、サ
イエンスエンターテイナーの飛鳥昭雄、実家がピラミッドのすぐそばという
エジプト専門旅行代理店ARG
トラベル代表取締役のアミール・ゴネイムが出席し、
U-STREAMでも中継されたディスカッションの模様をお伝えする。


映画では、現在「常識」となっているピラミッドに関する学説の真偽を徹底的に検証しているが、「ギザのピ
ラミッドは本当にクフ王の墓なのか?」という疑問に「ノー」と答えた大地。「実際にピラミッドを見て、
覆わ
れていた結晶石の年代を調べると、クフ王の時代よりももっと古いことが判明している」と解説した。

同じく「ノー」と答えた飛鳥も「見つかった資料によると、
自由人が4000人で作ったと記されていて、建設期間な
どを考えると
現実的にクフ王の墓である訳がない」と語ったが、「クフ王の墓」と考える宮下は
「その4000人は1日4
000人なのかもしれない。
今もそうですが、当たり前のことは文献に残さないので資料がないのは当然。
碑文の読み方と
いうのはいろんな風にとれてしまう」と様々な角度からの検討を促した。
http://news.ameba.jp/20120104-105/
800px-All_Gizah_Pyramids
6: ガラス工芸家(東京都):2012/01/04(水) 16:45:30.95 ID:3So+Dkss0
そういう風に考えたほうが人生楽しい



10:
県議(SB-iPhone):2012/01/04(水) 16:46:30.01 ID:l5wKPJYBi
今の科学を遥かにしのぐロストテクノロジーとかあったとか想像するとワクワクするよ



24:
留学生(関東・甲信越):2012/01/04(水) 16:48:53.71 ID:NsZXm5R5O
物凄い科学力の古代文明はとっくに地球から出ていったよ



27:
党首(熊本県):2012/01/04(水) 16:49:10.31 ID:mJ4AGPoV0
地球ができて40億年も経ってるのに
たかが2000年程度の文明が全部わかったつもりでいるとか笑えるわ



29:
うぐいす嬢(栃木県):2012/01/04(水) 16:49:36.82 ID:U07AvB500
500年前に来た津波のこと忘れて沿岸に家立ててるのを考えると
忘れ去られた超古代文明はあるだろ。



35:
か・い・か・ん(広島県):2012/01/04(水) 16:52:14.70 ID:ONWB0FI40
メソポタミア文明作ったシュメールが
どこから来て誰にそんな高度な技能教わったのか全くわかってないとか
有名な歴史物でも分かってないことが多いってのはロマンを感じる



42:
組立工(dion軍):2012/01/04(水) 16:56:29.48 ID:qBMT+Wsy0
まあ、無いだろうな。
あったら痕跡が絶対残る




45:
山伏(千葉県):2012/01/04(水) 17:00:07.06 ID:QrA101om0
ケニアのエンゲディみたいな場所もあるから
ほとんど情報を残さずに消えた古代文明は絶対あるはず
エンゲ
今でも多くの謎を残す失われた神秘の都市「ケニア・エンゲディ遺跡」ケニア
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52056029.html



47:
養豚業(兵庫県):2012/01/04(水) 17:01:18.24 ID:RSaHJ3IT0
アトランティスって持ち上げられまくってるけど
ギリシャに負けたって設定だからな。
Athanasius_Kircher's_Atlantis
アトランティス
古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』(Тίμαιος, Timaios)
及び『クリティアス』(Κριτίας, Kritias)の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、
そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、
ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アトランティス



241:
調理師見習い(チベット自治区):2012/01/05(木) 00:29:15.79 ID:nWJnbmZC0
>>47
ていうか12000年前の設定ですでにギリシャがあるってなあ



48:
22歳OL(チベット自治区):2012/01/04(水) 17:04:24.10 ID:V+wS1dWP0
始皇帝の墓に眠ってたクロム鍍金の剣とかすごく興味深い
少し時代が下った前漢時代には既にロストテクノロジー化しているんだよな
クロム
クロム1
2000年の時空を超えて 秦の始皇帝兵馬俑
http://japanese1.china.org.cn/travel/txt/2007-07/04/content_9481063.htm



55:
か・い・か・ん(広島県):2012/01/04(水) 17:14:31.85 ID:ONWB0FI40
>>48
戦国時代終わったら鉄は専売化して技術水準下がったからな
赤眉の乱の頃には地方で密造された鉄のほうが良かったくらい


徳川家康 - W(保存)【前半】  徳川家康 - W(保存)【中半】 

その他

居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳の頃、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう。」と言った。家臣は「何をおかしなことを言われるのですか。」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか。」と笑ったという。
肖像画
2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画紙形(下絵)が公開された[46][47]。家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり[48]、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
妖刀村正伝説
祖父の清康と父の広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、嫡男の信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将織田長孝戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に家臣が取り落とし家康は指を傷付けた。聞くと、この槍も村正であったため家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになり、民間に残った村正は隠され時には銘をすりつぶして隠滅したという伝説がある。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。徳川家康の影武者説も参照。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、実際の得川氏の末裔がおり、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた[49][要ページ番号]

評価

その戦上手は「海道一の弓取」と称され[50]、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって、ほぼ自由な家康批評が行われるようになった。

江戸幕府の支配に関して

徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日1609年8月24日)付

家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は大坂など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており[51]、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。

幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。 大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。[52]全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。

このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ世界史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は今なお高く評価されている。

後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、的を外している、またが海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。

家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。さらに家康はこの自らの主導による天皇即位をきっかけに、秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。

一族・譜代の取り扱いに関して

息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。

長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。

関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。

忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。

しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の役で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。

初期幕政を牛耳った本多正信により、徳川四天王である本多忠勝榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から隔離し、この2人に次ぐ武功派であった大久保忠隣大久保長安事件で改易・失脚されているのを家康は黙認している。大久保長安事件の折には、すでに大久保長安は死去して埋葬されていたが、正信は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしている。しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。

家康は吏僚の不正や造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣大賀弥四郎鋸引きという極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前、彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。

また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。

家康と同時代の人々

家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ[53]。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された『吾妻鏡』を愛読していた[54]。 その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった(とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女のを迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える)。家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。

そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もある。

家康の渾名として「狸親父」というものがある。江戸時代の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。

家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原合戦では開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番が方向感覚を失い幕府に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓に侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期に今川家の人質だった頃自分に辛く当たった今川方の孕石元泰を後年探しだし切腹させたのは例外的処置である[55]

情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。例えば三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後真田信之本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。

家康と宗教

戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。

現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。[56]

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。

また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受ける事を容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視した。その為、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬ事を理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。

これら新興の宗教以外の古い天台宗真言宗法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗知恩院を門跡に加え、更に天台宗の関東における最高権威として輪王寺に門跡を設けた。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。

一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件や岡本大八事件を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。

家康の死後、幕府は寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。

近現代における評価

江戸期を通じて神格化され、否定的評価は禁じられていた。明治維新後に家康の自由な評価が解禁されたが、倒幕を経て明治時代へ移行した経緯もあって家康の批判的評価が高まった。また家康が尊敬していたといわれる平将門足利尊氏も朝廷に刃向かった逆賊として批判的に評価されることが多くなった(尊氏に対しては家康も批判的だったとする説もある)。

山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説をきっかけに家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もあるが山岡の家康は美化し過ぎであるという評価がある。

司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。初陣を15歳で経験し、大阪夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかった事を、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。

天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。

一族縁者

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

偏諱を与えた人物

功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字(太字)を与えた。


墓所・霊廟・神社

日光東照宮 奥社 墓所

家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光東照社に改葬された。神号は側近の天海崇伝梵舜の間で、権現明神の何れとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。東照社は正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮[63]となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。

現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏菩提寺である愛知県岡崎市大樹寺高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。また、臨済宗の寺院としては、東福寺の塔頭である南明院が徳川家牌所である。。なお、徳川将軍15人中寛永寺増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光徳川慶喜がいる。

なお、徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。

脚注

  1. ^ 家康の名は、源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
  2. ^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄細川政元期の赤松政則足利義稙細川高国期の大内義興足利義晴細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
  3. ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
  4. ^ 元亀年間の武田氏による織田・徳川領国侵攻の経緯については西上作戦を参照。なお、これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年の出来事であったことが指摘されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』)。
  5. ^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している。
  6. ^ 穴山信君は武田親族衆で、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して投降し信長から河内・江尻領を安堵されているが、本能寺の変に際して上方で死去している。信君には遺児勝千代がおり、本能寺後に甲斐を確保した家康は河内・江尻領を安堵しているが勝千代も天正15年6月に死去し、勝千代生母の見性院は家康五男の万千代(武田信吉)を養子に迎えて穴山氏(武田氏)の存続が図られている。
  7. ^ 合戦の詳細な経緯については小牧・長久手の戦いを参照。なお、小牧・長久手合戦に関する総論は藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』岩田書院、2006)
  8. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、七月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません」と書いている。フロイス『日本史』第63章。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。
  9. ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年、198-274頁(喜連川家の誕生)では、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の関東府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと推測している。なお、阿部は笠谷和比古の天正16年(1588年)に家康が源氏姓を公称した説に関連して、同年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたのを秀吉は認識しつつそれを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測する。
  10. ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった。(『国史大辞典』吉川弘文館。平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」(所収:佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書院、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3))
  11. ^ 常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている
  12. ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと
  13. ^ なお、近年の研究(笠谷和比古煎本増夫ら)によると、家康が本姓源氏だと称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。家康が今川支配を離れ三河に帰還した際の所領安堵状にも「源家康」と署名されており、少なくとも父・広忠か祖父・清康の時代にはすでに源氏を名乗っていた可能性が高い。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際に、「三河守の任官には藤原氏を称する必要がある」との近衛前久の勧めにより本姓を藤原氏と公称していた。また、清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
  14. ^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[24]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[25]
  15. ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[24][26]
  16. ^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日頃の節制を忘れて大食いに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
  17. ^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[27]

虎馬:キングダム (漫画) - W 

キングダム (漫画)

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キングダム
ジャンル伝奇武侠
戦国時代 (中国)中国史
青年漫画
漫画
作者原泰久
出版社集英社
掲載誌週刊ヤングジャンプ
レーベルヤングジャンプ・コミックス
発表期間2006年9号 - 連載中
巻数既刊35巻(2014年7月現在)
ゲーム:キングダム 一騎闘千の剣
ゲームジャンル3Dバトルアクションゲーム
対応機種PlayStation Portable
開発元コナミデジタルエンタテインメント
メディアUMD
プレイ人数1 - 3人
発売日2010年11月25日
レイティングCEROB(12才以上対象)
アニメ:キングダム
原作原泰久
監督神谷純(第1期)
岩永彰(第2期)
シリーズ構成荒川稔久
脚本荒川稔久、白石雅彦、村山桂
玉井豪、和智正喜
キャラクターデザイン戸部敦夫、大竹紀子、波間田正俊(第1期)
竹田逸子、徳永久美子、下島誠(第2期)
音楽関美奈子
アニメーション制作ぴえろ
製作NHK総合ビジョン、ぴえろ
放送局NHK BSプレミアム
放送期間第1期:2012年6月4日 - 2013年2月25日
第2期:2013年6月8日 - 2014年3月1日
話数第1期:全38話 / 第2期:全39話
テンプレート - ノート
ウィキプロジェクト漫画ゲームアニメ
ポータル漫画ゲームアニメ

キングダム』は、原泰久による日本漫画作品。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて、2006年9号より連載中。第17回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作。



概要[編集]

中国春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年・と後の始皇帝となる王・政の活躍を中心に、戦乱の世を描く。

単行本の累計発行部数は1100万部以上。

2008年に集英社が運営するインターネットラジオサイト『VOMIC』にて、全8回のラジオドラマが放送された。また、2010年11月にコナミデジタルエンタテインメントからPSP用ゲームが発売された。

2010年7月、8月に総集編1、2が発売された。詳細は後述

『週刊ヤングジャンプ』2011年51号にてテレビアニメ化が発表され、2012年6月から2013年2月にかけて第1シリーズが、2013年6月から2014年3月にかけて第2シリーズがNHK BSプレミアムにて放送された。それぞれ、BSプレミアムでの放送後にNHK総合で地上波放送されている。

あらすじ[編集]

嬴政との邂逅 - 王弟反乱(1巻 - 4巻)
時代は、紀元前。500年の争乱が続く春秋戦国時代、中国西方の国・秦の片田舎に「(しん)」と「(ひょう)」と言う名の2人の戦災孤児がいた。2人は、下僕の身分ながら、「武功により天下の大将軍になる」という夢を抱き、日々、剣の修行に明け暮れていた。
やがて、大臣である昌文君に見出されて1人仕官した漂だったが、ある夜、残された信の元へ深手を負って戻って来る。息絶えた漂から託された信が辿り着いた目的地には、漂と瓜二つの少年がいた。その少年こそ秦国・第31代目の王である(せい)であった。漂が命を落とす原因となった政に怒りをぶつける信だったが、自らに託された漂の思いと自らの夢のために、「王弟の反乱」そして乱世の天下に身を投じるのだった。
初陣(5巻 - 7巻)
反乱鎮圧の功績により平民の身分を得た信は三ヶ月後、兵卒として対魏攻防戦で初陣を迎える。劣勢の秦軍の中で信らのは奮闘し、千人将・縛虎申と共に魏軍副将・宮元を斃して戦場の要地を奪る。
そこに突如現れた秦の怪鳥・王騎。信は図らずも天下の大将軍と会話する機会を得る。
戦は秦・魏両軍の総大将同士の一騎打ちで決着し、勝利した秦軍は帰国の途についた。
暗殺者襲来(8巻 - 10巻)
秦王・政を弑すべく、王宮に暗殺者の集団が放たれた。百将に昇進した信はこれを迎え撃つが、暗殺団の中に戦場を共にした羌瘣の姿を見つける。彼、否彼女こそは伝説の刺客「蚩尤」に名を連ねる者だった。舞を思わせる剣技に圧倒されるが、他の暗殺団の到着に図らずも共闘することになる。
辛くも暗殺団を撃退、生き残りの口から出た首謀者の名は現丞相・呂不韋であった。今は手を出せぬ巨大な敵に、政・信らは忍耐を余儀なくされる。
秦趙攻防戦 - 王騎の死(11巻 - 16巻)
韓を攻める秦国の隙をつき、積年の恨みを抱く趙軍が侵攻してきた。急報に防衛軍を編成する秦、率いるは最後の六将王騎。
信の率いる百人隊は緒戦で王騎の特命を受け、趙将馮忌を討つ。飛信隊の名をもらった信は、将軍への道を垣間見た。
蒙武軍の覚醒もあって敵軍師・趙荘の采配を悉く上回る王騎であったが、総大将の三大天・龐煖との決着をつけるべく、罠を承知で本陣を進める。龐煖とは、妻になるはずだった六将・摎を討たれていた王騎にとって因縁深き間柄だった。
本軍同士が激突し、総大将同士が一騎打ちを戦う最高潮の中、突如秦軍の背後に未知の新手が姿を見せる。率いるのはもう一人の三大天・李牧であった。一転して死地に追い込まれた秦軍、一瞬の隙を突かれて王騎も致命傷を負う。
信に背負われ激戦の末脱出に成功した王騎は、信に自らの鉾を託し、蒙武他将兵に多くのものを残して逝った。
秦趙同盟 - 山陽攻略戦(17巻 - 23巻)
王騎亡き後、諸国に国境を侵され始める中、三百人隊に増強された飛信隊は各地を転戦していた。そんな中、丞相・呂不韋の画策により趙国宰相が秦を訪れることが伝わる。その宰相こそ誰あろう李牧その人であり、秦趙同盟というとてつもない土産を携えていた。同盟成立後の宴席で李牧と直接話す機会を得た信は、李牧を戦場で斃すことを宣言した。
秦趙同盟の効果は早くも現れ、要衝の地・山陽の奪取を目的とした、対魏侵攻戦が開始される。総指揮官は白老・蒙驁。遠征軍に加わった飛信隊は同じく三百人隊の玉鳳隊(隊長・王賁)、楽華隊(隊長・蒙恬)と競い合いながら功を挙げていく。
進撃する秦軍の前に立ちはだかった魏軍は、想像だにしなかった大物・元趙軍三大天の廉頗に率いられていた。廉頗の登場で全中華が注目する中、秦・魏両軍は決戦の火ぶたを切る。かつての六将に伍すると評される王翦・桓騎の両名を副将に擁する秦軍と、廉頗四天王が率いる魏軍の間で交わされる激戦の中、信は四天王の輪虎を死闘の末討ち取り、戦功第三位の大手柄を挙げる。
ついに相対した総大将同士の一騎打ちの中、蒙驁は六将と三大天の時代の終わりを廉頗に告げる。自らの存命を理由にそれを否定する廉頗であったが輪虎を討ち取った信から王騎の最期を聴き時代の流れを悟る。敗北を認めた廉頗は信に六将と三大天の伝説を塗り替える唯一の方法を教え、堂々と去って行った。
幕間(23巻 - 24巻)
先の戦功により正式に千人隊に昇格した飛信隊であったが戦術の要であった羌瘣が去り、連戦連敗を重ねていた。隊解散の危機に陥るが、立派な軍師に成長した河了貂の加入により救われる。
他方、秦の山陽奪取により生まれた新たな情勢に対し、李牧はある決意を固め動き出す。
合従軍侵攻 - 函谷関攻防戦(25巻 - 30巻)
南の大国・楚に侵攻されただけでなく、同時に北や東からも攻め寄せて来た敵の大軍勢によって、大小様々な城塞を易々と失陥するという凶報が秦の国都・咸陽へ続々ともたらされた。秦の本営に立て直す間も与えぬ破壊力を示し、かつ進撃を止めぬ侵攻軍。これこそ、李牧が画策し、発動させた多国籍連合『合従軍』であった。
たった一国で他国全部を迎え撃つために、秦国の本営はそれまでの防衛線を一切放棄し、国門・函谷関での集中防衛に国運を賭けた。
合従軍侵攻 - 蕞防衛戦(31巻 - 33巻)
北門の函谷関では秦軍諸将の奮戦もあって最大の窮地を凌ぎきったものの、南門の武関から咸陽に至る道沿いの城が次々と陥落するという不測の事態が発生する。李牧が自ら別働軍を率い、国都咸陽を陥落させるべく電撃戦を開始したのであった。この動きを察知した麃公や飛信隊の猛追が間に合うものの、龐煖との一騎打ちの末に麃公を討たれてしまい、飛信隊も敗走を余儀なくされる。
この頃、呂不韋が不穏な画策をするなど内外から危機の迫る咸陽を、国を守る最後の拠点・蕞を防衛すべく、政は自ら出陣する。
幕間(34巻)
合従軍を辛くも撃退し、亡国の危機を脱した秦国では戦災復興と国境防備の再編に追われていた。一方、列国でも李牧や春申君ら合従軍を主導した要人らが遠征に失敗した責により左遷され、国体の変化を遂げつつあった。
その頃、飛信隊を離脱して久しい羌瘣は、同族の羌明からの情報によって仇敵・幽連の居所を突き止め、決戦の地へ乗り込んだ。しかしその情報も策謀に富む幽連の仕組んだ罠で、待ち伏せていた幽族の手練れ30人余に襲われる羌瘣。それでも絶え間なく迫る白刃を掻い潜り、手練れを幾人も斬り伏せ、幽連に一太刀浴びせんとしたところ、簡単に跳ね返される。巫舞すら要らぬ幽連は、羌瘣の想像を遥かに超える怪物と成っていた。
王弟謀反(35巻)
合従軍以来、久しく無かった趙軍の襲来を退けた屯留から、突如『王弟謀反』の一報が咸陽にもたらされた。2度目の造反とはいうものの、屯留の危機に自ら立ち上がった成蟜の人間的成長を認める政としては、にわかに信じがたい。そこで新将軍の壁に討伐軍を託すとともに、密命を課した。

登場人物[編集]

の項はテレビアニメ版 / VOMIC版 / ゲーム版の順。1人しか記載されていない場合はアニメ版のキャストとし、それ以外のものは別途記載する。

主要人物[編集]

(しん)
声 - 森田成一(幼少期:福井美樹) / 鈴木千尋 / 阿部敦 / 吉村和紘(VOMIC++)
戦争孤児の少年。低い身分から自らの腕で「天下の大将軍」となることを目指す。1話冒頭で「李信」と呼ばれている。豪気且つ直情径行で、自分の意志を貫く頑強な心を持つ。ただ礼儀作法は知らず、秦王である嬴政も堂々と呼び捨てている。
相手が格上であってもそれに比例して自分の実力を底上げする武の天稟の持ち主。漂によると「自分が勝てない相手に信は勝つことができる」と言う。当初は自分の武力で全てを片付けようとする猪突猛進型であったが、王騎からの修行や助言、幾多の経験を経て「将軍」としての実力を身につけていく。
王都奪還編後、昌文君から恩賞として土地と家(小屋)を与えられ下僕から平民となる。更に対魏国戦争における武勲により、まだ少年ながら百人将へ取り立てられる。軍侵攻編では王騎に「飛信隊」の名を貰い、趙将の馮忌を討ち取ると言う大功を上げる。その後、煖の夜襲によって大半の隊員を失うものの、生き残った仲間たちと王騎の最期に立ち会い、王騎から矛を譲り受けた[注 1]
趙との戦争の後は三百人将へ格上げされ、廉頗率いる魏軍との決戦直前に蒙恬や王賁とともに臨時千人将となった。その戦いの終盤、廉頗四天王の一人である輪虎を激戦の末に討ち果たし、正式に千人将へと昇進する。昇進直後は羌瘣が離脱したことと千人隊の規模の大きさが災いして連戦連敗を喫したが、貂が軍師として参入したことで持ち直した。
対合従軍戦では公軍へと組み込まれ、趙将の万極を討ち取った。この際、公に本能型の才気があると評され、公の軍から隊員を補充され実質的に三千人将となる。その後、麃公の最期にも立ち合い、麃公から盾を託された。そして、叢の戦いの終盤では龐煖と一騎打ちを行い、龐煖を撃退する。
対合従軍戦終結後、論功行賞で三つの特別準功の一つとして正式に三千人将に昇進し、飛信隊を率いて国境の防衛と復興に向かった。屯留の反乱が起こった頃には四千人将に昇進しており、王騎の矛を使う準備の為に矛を使用している。謀略に嵌められた成蟜を救出する為に飛信隊を率いて屯留へ向かうが、成矯の救出には間に合わなかった。
著雍争奪戦では、魏軍本陣を陥落させる為の三つの主攻の一つを任される。
漂(ひょう)
声 - 福山潤(幼少期:金田アキ) / 斎賀みつき / なし
信の幼馴染の親友。信と共に大将軍になることを夢見て武芸の稽古に明け暮れた。対戦成績は1253戦334勝332敗587引き分け+2戦分(勝敗不明)。
政と瓜二つの容姿により、昌文君に身請けされ王宮に仕官する(その役割は政の影武者であり、宮殿に着くまで召し抱えられた理由を聞かされなかったが、最終的に納得した)。王弟反乱の際、刺客の徐完に深手を負わされながら村へと戻り、信に全てを託して力尽き死亡した。恐らく初陣ながらも政の影武者としての役割を全うし、窮地に陥りながらも兵を鼓舞し、戦う姿は既に将であったと壁が語っている。
葬儀の際には、隣村から弔問する者が居るほど様々な人に慕われていた。
嬴政(えい せい)
声 - 福山潤 (幼少期:金田アキ) / 朴璐美 / 同左
秦国の若き王。後の始皇帝。漂と瓜二つの容姿をしている。
出生の関係から幼少時代を趙国で育ち、その際、趙の人々に憎しみの対象として虐げられていたため、味覚・痛覚・嗅覚が全く無く、他人を一切信じようとしない荒んだ性格であった。昭王の崩御後、秦国への帰路で紫夏との出会いを通じて失っていた五感や人を信じる気持ちを取り戻した。
現在の性格は冷静でポーカーフェイスを崩さないが、昌文君や信たちのことを信頼している。武芸にも長けており、信の胸倉を掴んで片手で持ち上げるなど腕力も高い。
王都奪還の際、中華を統一する最初の王になると公言し、成人して正式に王となるために呂不韋陣営と政争を繰り広げる。
対合従軍戦終盤、南道から進軍してきた趙軍に対抗するため、自ら最後の戦場となる蕞へ向けて出陣する。蕞の戦いの中盤で士気を極限まで高める為に自ら前線に出て戦うが、その際に重傷を負った。しかし、翌日には重傷を隠して兵たちを鼓舞し続け、7日目に勝利を得た。
河了貂(かりょう てん)
声 - 釘宮理恵 / 小林由美子 / 同左
黒卑村に住んでいた、梟鳴(きゅうめい)という山民族の末裔。鳥の頭を模した蓑を被っており、初めて見る者は謎の生き物と思う事が多い模様。
当初は金のために政と信に協力していたが、共に行動するうちに懐いていき、やがて仲間となる。やや幼い容姿と着ている蓑のために、登場時はどちらの性別か不明であった。王都奪還編のときに女性と明らかになるが、貂がそのことを明かさなかったために、信は長い間気づいていなかった。
得物の吹き矢は、王都奪還編でムタから貰ったものである。非力な彼女はこれを気に入っている。
幼くして天涯孤独になって以降、一人で生き抜いていくために様々な知識や技能を身につけており、字を読むこともでき、史についても学んでいる。特に料理の腕前は、冷徹な羌が我を忘れるほど一級品。
王都奪還後は信と共に暮らしていたが、段を飛ばして力をつけていく信や同じ女性でありながら凄まじい強さを持つ羌の姿を見て自分も同じ場所に立ちたいと思うようになり、軍師になることを決める。羌瘣の紹介により昌平君の下で蒙毅と共に兵法を学び、千人隊の長となった信のもとへ軍師として戻る。また、この際に自分が女性であることを信に明かした。当初はその容姿や性別から飛信隊の面々に侮られ、信用されなかったが、的確に状況を判断して策を指示し、隊の窮地を救ったことで受け入れられた。
その後も軍師として活躍し、対合従軍戦の終盤の蕞の戦いでは軍師の一人として参戦するが、蕞の城壁から落下しそうになったカイネを思わず助けたりするなど、非情に徹しきれない一面を見せた。
(きょう かい)
声 - 日笠陽子 / なし / 沢城みゆき
伝説の刺客一族「蚩尤」の後継候補として育てられた羌族の少女。年齢は信の一つ下。緑穂(りょくすい)という剣を武器に戦う。
蚩尤を決める“祭”で姉のように慕っていた羌象を謀殺された事から、復讐のためだけに生きる道を選び、里を出奔。しかし一族からは、“祭”で勝ち残ってもいないのに外界へ出ているため、裏切り者と呼ばれている。
対魏国戦争編で澤圭の伍の一人として登場し、初陣の信と出会う。その後の刺客襲来編を経て、趙軍襲来編で百人隊として結成された飛信隊の副長となる。山陽攻略編で飛信隊が三百人に増強されてからは、その剣技に加え、戦術立案でも隊を支えていく。登場時は他人との慣れ合いを嫌っていたが、徐々に周囲に心を開くようになり、飛信隊を自分の居場所だと思うようになる。しかし自分の道はあくまで仇討ちの先にあり、このままでは先に進めないという思いから、山陽戦決着の後、再び戻ってくることを約束し、飛信隊と別れて仇討ちの旅へと出発した。
合従軍と戦い終えた飛信隊が秦国国境の戦災村落で防衛と復興に務めている頃に、同族の羌明からの情報で趙国の老山山中で遂に仇の幽連と遭遇する。だが策を巡らす幽連によって幽族の巫舞使いたちに包囲され、斬り掛かられる。幽族の巫舞使いたちは自身の巫舞で撃退したが、“祭”をくぐった幽連に苦戦する。しかし、重傷を負って意識が混濁したことで飛信隊との絆を思い出し、禁忌である“魄領の禁”に入り込んでも飛信隊との絆が一条の光となって戻ることが可能となり、遂に幽連を討ち果たした。そして、羌象を思いながらも外の世界で精いっぱい生きる事を誓って、飛信隊を離れて362日目に帰途に付いた。そして飛信隊に帰還し、帰還前に立てた二つの目標の一つ目である、戦いの道に身を置く者たちの頂点である大将軍になるという願いを叶える為に、戦功を重ねる。屯留の反乱が起こった頃には、千人将に昇進していた。
作中、徐々に信に対して信頼を寄せてきたり(現在はほぼ信頼している)、気遣ったりしている場面がよく見られるようになる。特に、秦趙同盟の席にて舞妓に鼻の下をのばす信を蹴ったり、河了貂と二人きり(実際には政もいたが)になろうとする信に疎外感を覚えたりと、恋愛感情のようなものを持っているようにも見える。後に飛信隊への帰還前に立てた二つの目標の二つ目である、信の子を産むという願いにその想いが反映していたが、河了貂から子作りについての詳細を聞かされたことで、しばらく信を避けていた。

秦国[編集]

王族[編集]

(せいきょう)
声 - 宮田幸季 / 阿部敦 / なし
政の異母弟で王弟。公主(王族の娘)の子であり、王族は崇高な存在であると言う考えから、自らの血筋に誇りを持っていた。
しかし、それまで存在すら知らされていなかった異母兄・政へ王位継承権が移ったことを知り、また平民の血を引くと言う理由から政を憎み、王位を奪うため竭氏と組んでクーデターを起こすも失敗。反乱を鎮圧された後は永らく軟禁されていたが、呂不韋との権力争いで劣勢だった政によって解放され、見返りに協力を行う。その過程で兄の存在を認め、人間的にも成長する。
始皇8年に有力支持基盤である屯留を侵攻されるも、自ら出征して趙軍を一時的に撃退する。ところが屯留の城主代行・蒲鶮によって拘束された上に、反乱軍の首謀者に仕立て上げられてしまう。中央からの鎮圧軍との戦闘の最中に、見張り兵たちを買収して幽閉先から脱出。妻・瑠衣の救出に向かうも、遭遇した蒲鶮兵との交戦で重傷を負う。何とか瑠衣を救出するが、途中で追っ手の気配に気づいて瑠衣に救援を呼びに行かせる。そして追ってきた蒲鶮たちを斬り殺すが、信たちが駆け付けた時には手の施しようのない状態になっていた。瑠衣には自身の亡き後の一派の取りまとめと政一派への一本化を頼んだ。また信のことは詳細に調べ上げて現状を把握しており、信に政の剣であり盾として中華統一の為に、長平の戦い以上の怨念を背負う覚悟を問いて信の覚悟を聞いた。そして、瑠衣の腕の中で息を引き取った。
瑠衣(るい)
の妻(第一夫人)で、秦国の公女。趙国系住民の多い街・屯留の出身で、幼い頃から「王の后」となる名目で成に近侍する。深い愛情を寄せる成が王位簒奪に失敗して失墜した後も、その元を離れることはなかった。嬴政との関係は疎遠ではないものの、当初はよく思っていなかった模様。
屯留へ里帰りしていた始皇8年、趙軍を撃退した成蟜軍が反乱軍に仕立て上げられる頃には首謀者の蒲鶮に拘束され、屯留の一番奥の牢に幽閉されていた。同様に別の牢に幽閉されていた成蟜に助け出されると、重傷の成蟜の指示で先に救援を呼びに向かった。そして信たちを連れて戻るも、成蟜は既に手の施しようのない状態だった。末期の夫から、亡き後の成蟜一派の取りまとめを託されると、夫の最期を見届けて号泣した。咸陽への生還後には政を兄王様と呼んで、成蟜の予想に反して一割程度しか去らなかった成蟜一派を率いて呂不韋の打倒を誓った。
麗(れい)
始皇7年に、嬴政と向の間に生まれた娘。
昭王(しょうおう)
声 - 金尾哲夫
政の曽祖父の秦王。故人。
在位55年のほとんどを戦に明け暮れ、戦神と呼ばれた。王騎を始めとして秦国中の武人に慕われた王であり、王騎曰く中華統一に夢憧れる少年のような瞳を持った奇特な王。晩年には、目元を隠す仮面の様なものを付けていた。
荘襄王(そうじょうおう)
前秦王で、政と成の父。
元は王位継承者としての順位も低く、趙国の人質となっていたが呂不韋の力で秦王となった。既に亡くなっており、回想シーンでのみ登場する。
王となったものの、実際には呂不韋の操り人形同然であった。
穆公(ぼくこう)
秦の第九代君主。政の先祖。
回想シーンと作者の読み切り作品『馬酒兵三百』に登場。

重臣・高官[編集]

昌文君(しょうぶんくん)
声 - 仲野裕 / 秋元羊介 / 玄田哲章
政に忠誠を誓う秦国の文官で、後に左丞相へ昇進。
かつては昭王の時代から最前線で戦って来た生粋の武人であり、自国で知られていなかった摎の死因を秘匿していたなど、豊富な実戦の経験を持つ。
王都奪還後に文官として(王弟反乱の前に武官から文官に転向していた)、自らの派閥を秦王派として立ち上げる。このとき王都奪還の際に無力であった自分を恥じ、文官の極みである丞相を目指すことを誓っていた。
末席文官の頃、発言力はさほど無くとも、前線での経験の多い軍事に関しては、国軍司令官の昌平君に助言を求められる程である。かつては王騎からも武骨な賢人として高く評価され、摎の素性に関する重大な秘密を打ち明けられている。
呂不韋の相国昇格に伴い、その昇格を逆手に取った政陣営によって左丞相となった。
対合従軍戦の終盤の蕞の戦いでは、政に同行して参戦した。
竭(けつ)氏
声 - 辻親八 / 遠藤大輔 / なし
秦国の元左丞相。
呂氏を蹴落とし大臣の頂点を狙う野心家であり、王位を奪った後の国政委任を約束してくれた成と共にクーデターを起こした。
その後、山の民の協力を得て王都を奪還に来た政一派との戦闘により、命を落とした。
肆(し)氏
声 - 高瀬右光
元竭氏の参謀。
王弟派の反乱鎮圧後、反乱は不問とされ竭氏勢力の残党を任される。後に政の陣営に加わり、側近の一人として信任を得ている。
呂不韋(りょ ふい)
声 - 玄田哲章
元商人の立場から前秦王「荘襄王」を秦王にした功績で秦の右丞相となった男。秦の王宮内を竭氏と二分し、権力争いを繰り広げる。
王弟反乱鎮圧後は秦国における最大の勢力となり、政に代わって政治を執り行っている。その裏では政の暗殺を企む(蔡沢曰く遊び心によるもの)など、様々な思惑がある模様。
太后と密通してまで後宮勢力を味方に付けたために、政権争いが大きく動くこととなる。現在は丞相の上の相国という地位に就いている。
昌平君(しょうへいくん)
声 - 諏訪部順一
の公子で、呂不韋四柱の一人。呂不韋の相国昇格に伴い、秦国の右丞相と成った。蒙武とは幼馴染であり、親友。国軍の司令官であり、軍師育成機関を運営する等、事実上秦国の軍事の責任者。
知略を重んじる軍略家だが、李牧の纏う武の空気を感じ取るなど、武人としての一面も持つ。実戦の指揮をとる場面はないが、同じく四柱の一人である蔡沢から「蒙武より強い男」と評されている。
優秀な若者を調査し、食客として招くなど人材収集には余念がない。特に現在は王弟反乱や魏国との戦争、さらには刺客襲来の際に政を守った信を最も手に入れたい若者と発言した。
李斯(り し)
声 - 青木強
呂不韋四柱の一人。法の番人の異名を持つ。呂不韋の相国昇格に伴って、左丞相への抜擢を有力視されていたが、成蟜を加えて勢力を増した政陣営の昌文君に左丞相の座を奪われた。
確実さを重視する生真面目な性格の為、商人の視点から物事を見る呂不韋の考えを理解できず振り回される事が多い。
蔡沢(さい たく)
声 - 千田光男
呂不韋四柱の一人。昭王時代の丞相であり、現在は外交を司る最高官として、出身国の国との交渉を担当している。王を軽んずるような人物ではないが、「強き者にのみ仕える」という考え方を持っている。
合従軍の襲来時には、ちょうど他国に居たことが幸いし、斉国王に謁見。斉国の合従軍離脱を説得し、成功させた。

その他の廷臣[編集]

道剣(どう けん)
声 - 星野充昭
昭王の時代の家臣。政がまだ趙国の首都・邯鄲にいた際、その脱出の手引きをするため、商人・紫夏に協力を要請した。脱出戦の際に全身に矢を受けて死亡した。
単元(たん げん) / 田慈(でん じ)
声 - 林和良(単元) / 森田成一(田慈)
昭王の時代の家臣。道剣に従って政の脱出を手引きする。脱出戦の際に、いずれも戦死した。
寿白(じゅ はく)
の元教育係を務めた老臣で、瑠衣とともに失脚後の成を見捨てなかった数少ない忠臣。嬴政によって復権された後の成の成長を頼もしく思っている。始皇8年に成蟜に同行して従軍するが、屯留城内で蒲鶮によって成蟜と共に拘束され、成蟜と同じ牢に幽閉される。その後、成蟜と共に脱獄するが、瑠衣を救出に向かう途中で蒲鶮兵に発見されて、成蟜をかばって死亡した。
蒲鶮(ほ かく)
趙国に近い屯留で城主代行を務める男。一年前に屯留に現れた新参者のようで成はおろか瑠衣ですらその存在を知らなかったが、治政能力はあったようで城主である瑠衣の曾祖母からは信任を得ていた。しかし裏で呂不韋と通じており、始皇8年に成蟜軍が趙軍を撃退した前後に瑠衣を拘束した上に、屯留城内で成蟜たちを拘束した。そして成蟜を反乱の首謀者に仕立て上げて、屯留の反乱を引き起こした。本来の計画では、鎮圧軍が屯留城内に侵入した時点で成蟜の首を刎ねて差し出すことで反乱の真の首謀者である事実を隠蔽して、褒美として瑠衣と屯留を手中に収める予定だったが、成蟜が脱獄した事で計画が狂い、兵を率いて成蟜を追うが、待ち構えていた成蟜に斬り殺された。

将軍たち[編集]

王騎(おう き)
声 - 小山力也 / なし / 中田譲治
秦国六大将軍の一人。そしてかつて昌文君と共に昭王に仕え、中華全土に名を馳せた武人。
かつてありとあらゆる戦場にどこからともなく参戦し、その武で猛威を振るったことからついたあだ名が「秦の怪鳥」。個人的武勇と戦場全体を見渡せる知略の双方を兼ね備える、最強の六大将軍。その首を取れば50の城をとるよりも価値がある、生きる伝説等敵味方問わずその評価は高い。また六将・の出生の秘密を知る一人であり、同時に、摎の想われ人でもあった。
昭王に心酔し、その亡き後は仕えるべき主あらずと一線を退いていたが、趙軍侵攻編にて突如として復帰し蒙武を退けて秦軍総大将となる。復帰する前にも政の動きに介入、手助けするなど、昭王の後継者として政を推し量っていた場面が見られる。また、直属軍の調練や後進の育成として信の成長を促すなど、軍事力維持に余念がなかった。
趙軍との戦における序盤は趙軍を圧倒するが、深追いし過ぎた秦軍先鋒・蒙武の救援に向かったところを趙本軍とその伏兵との挟み撃ちに遭い乱戦の最中煖に討たれる。煖との一騎打ちではほぼ互角ながらも止めの一撃を加えようとしたまさにその時、趙の魏加の狙撃によって不意をつかれ逆に煖の矛に打ち抜かれた。その後、重傷を負いながらも戦場を離脱し、騰や蒙武や信に言葉を残し、最後に信に矛を託して力尽き死亡した。出陣直前に政を仕えるべき主と認め、昭王に託されていた遺言を伝えていた。
なお時折、男色を好むような発言をするため、信との初対面時には「オカマ」呼ばわりされた。
(とう)
声 - 加藤亮夫
王騎軍の副官。将軍に進む。常に王騎の傍に控えており、普段は飄々としてポーカーフェイスを崩さない。また王騎へ答える時は「ハ。○○です」と答えることが多い。
趙軍との戦では、終盤で趙荘軍本陣に突撃して大将代理・趙荘を討ち取り、その後に王騎が致命傷を負うと、戦場から離脱させるために撹乱目的で敵本陣に突撃をかける等、その実力は(王騎本人から)王騎に見劣りしないと評される程である。王騎が離脱すると部下の進言で自分も離脱し、王騎から王騎軍の全てを託された。対合従軍戦で蒙武軍との連合軍となって楚軍と当たり、第一陣将軍の臨武君を一騎打ちの末に討ち取った。著雍争奪戦では、大将として著雍に侵攻する。
戦闘時は片手に持った剣を芝刈り機のように高速回転させ、敵兵をこともなげに撫で斬りにしていく。その際、「ファルファルファル」という独特の擬音が出る。
7巻巻末データによると特技は受け流し。飄々とした表情や、王騎亡き後にその笑い方を真似して蒙武を呆れさせたり、臨武君を破った際に、死んでいない録嗚未の名をわざわざ挙げたりと、お茶目な所も見せる。
蒙武(もう ぶ)
声 - 楠大典
呂不韋四柱の一人で蒙恬、蒙毅の父。絶対の自信を持つ自身の武力を、中華最強と証明するため政に六大将軍制度の復活を上奏する。
戦闘スタイルは、己の武力を筆頭に士気を高めた兵たちで一気に押し潰す力押し。その戦い方は昌平君や王騎から見ても、「策も何もあったものでは無い」と言わしめるほどである。
趙軍襲来編では、秦軍の副将となる。列国からは猪突猛進という評価を受けているが、兵の士気を上げるために戦を使って練兵をする等、軍への理解は深い。序盤こそ武力で勢いに乗るが、終盤では趙荘の策によって壊滅寸前の窮地に陥る。その後、王騎を戦場から離脱させる為に突破口を開き、王騎から秦国軍の顔になるべき一人とこれからのことを託される。
対合従軍戦では、騰軍との連合軍となり楚軍に当たる。昌平君の助言による「斜陣がけ」という戦術を使って汗明軍本隊への道を作り出し、汗明との一騎打ちの末に討ち取って汗明軍に再起不能の打撃を与えた。
(ひょうこう)
声 - 斎藤志郎
鋸の歯の様なギザギザの歯が特徴的な大将軍。得物は長刀のような武器。敵軍に突撃する際は棘をあしらった仮面と盾を装備する。
個人的武力は(王騎と)互角、軍を率いた際の武力は王騎軍よりも上と王騎に言わせる程であり、昭王による咸陽への召還を何度も無視していたために、六大将軍と並ぶ実力を持ちながら数えられておらず、また長年前線を拠点としていたことから、中央での知名度は低かった。
戦を「燃え盛る大炎」という独特の感性で表し、勝利のためならば歩兵の犠牲を省みず敵軍の急所を突き戦果を挙げるという冷酷な一面も持つ。戦の局面が動く時と判断した際の決断は非常に速く、戦が大いに盛り上がったとき(本人は「燃え盛る炎が最大となった時」と表現する)は、自ら戦場に出陣して敵総大将の首を狙うといった独特な戦い方をする。言わば知略・軍略よりも本能で戦う武将。そのため、戦の動きを見せない相手には、その強さを十分に発揮することができなかった。
対合従軍戦の序盤では趙軍に当たり、三倍もの兵力差を物ともせず互角に渡り合う。終盤には趙の別働軍を察知して猛追、李牧の策略をかいくぐって本陣まで辿り着く。自軍の本能型の将である慶舎でさえ破れなかった策略を破られたため、李牧は麃公のことを「本能型の極致」と称した。そこへ現れた龐煖との一騎打ちでは、片腕を折るも敗北して戦死した。死の間際、加勢に来ようとする信へ盾を投げ渡して(自分に構わず)咸陽へ行くよう命じ、「火を絶やすでない」と言い残した。
(もう ごう)
声 - 伊藤和晃
蒙武の父にして蒙恬・蒙毅の祖父。元々は斉国の人。伍長から昇進を重ねてきた歴戦の将であったが、斉において廉頗によって幾度も敗北させられたことから故郷での出世の道を諦め、息子の蒙武と共に秦へとやってきた。「白老」の名で列国に知れ渡る秦国筆頭の大将軍。
自ら前線で武勇を示すのではなく本陣で全体の指揮を執り、不利な戦況でも柔和な笑みを崩さずどっしりと構えている。攻城戦を得意とし、戦闘で負傷した部隊を見舞うよう指示したり、兵卒たちに対しても親愛のこもった檄を飛ばすなど、末端への配慮も欠かさない。常に定石を外さない戦い方から、昌文君には「極めて凡庸な将軍で、強き敵に勝つことは難しいが、弱き相手には絶対に失敗がない」と評された。
一方で人材を見極める眼力は確かで、危険視される副将二人さえ使いこなし、また身分に拘らず人材を抜擢するなど、人を用いるという点においては優れた器量を持つ。それゆえ蒙驁本人が凡庸と評されながらも、その軍は結果を残している。考えに行き詰まると一兵卒に身をやつし自軍の陣営内を徘徊する癖を持ち、その際に夜食のための狩りをしていた信と知り合った。
魏攻略戦において、因縁の相手である廉頗と40年ぶりに対決。廉頗のためだけに40年間練り上げた策で迎え撃ち、廉頗本人からも「よくできている」と評されるが突破され本陣に迫られる。そこで廉頗と一騎打ちを繰り広げ、廉頗とその乗馬をも吹き飛ばす怪力で善戦、左腕を失うものの桓騎が魏軍本陣を落としたことで、当初の目的であった山陽を得ることに成功する。戦争終結後、この時の負傷から事実上は引退状態にあるとされたが、対合従軍戦において国門函谷関を守護する将軍として抜擢され、張唐と共に歴史に名を残すことを誓った。
始皇7年に危篤状態となり、信と蒙恬が駆け付けた際に意識が戻り、王賁を含む三人で一緒に高みへ登れと信と蒙恬に言い残して息を引き取った。
蒙毅が予定していた韓侵攻への従軍を却下したり、蒙恬が千人将に昇格しそうになった際に時期尚早として三百人将に据え置くなど、身内にはかなり厳しかった。
桓騎(かん き)
声 - 伊藤健太郎
軍の副将。元は秦南方の野盗団の首領。生まれが一世代早ければ六大将軍に名を連ねたとされる軍才は、かつて秦の討伐軍を相手に無敗を誇ったほどで、王騎や蒙恬などからも化物と評される。
野盗時代に城邑を攻め落とした際、住人全員の首を自ら刎ねたことから「首斬り桓騎」の異名を持ち、将軍となっても投降兵諸々を殺してしまう残忍な性格。傲岸でもある一方、蒙に対しては目の届かない場所に居ても敬語を使うなど、敬服しているような面も見られる。野盗であった彼が蒙驁の副将となった経緯は不明。
自身で編み出した独自の兵法を駆使し、自ら変装して敵本陣に潜入するなど元盗賊らしい奇策を用いた戦法を得意とする。
対合従軍戦で函谷関を守護する役割を与えられ、魏軍の巨大井闌車を焼き払った。その後、二台目の巨大井闌車を逆に利用して地上へ降り、張唐と共に韓軍へ奇襲をかけて成恢を討ち取ることに成功する。
王翦(おう せん)
声 - 堀内賢雄
軍の副将。王賁の父親で王一族の現頭首。桓騎と同じく化物と評される。
恐ろしい形相を模した鎧に身を包み、目元を隠す仮面を付け、部下すらも味方に向けるものではない目で見る。秦国一の危険人物とされ、昭王の時代からずっと日陰に送られている。その理由として自らが王になりたいという野望を抱えているという噂があり、実際自分の領地を国と表現し、敵将である姜燕を執拗に勧誘した。
対魏攻略戦において、第二軍を動かすこともなく、第一軍の攻めだけで最も多くの城を陥落させるなど、その軍は味方から見ても異常と言えるほどの強さ。六将筆頭・白起に匹敵するやもしれぬと、廉頗からその軍才を認められつつも、軍全体の戦略やその中における自らの役割を弁えず、副将でありながら総大将・蒙の戦略に反した行動の面で「(人から信用されないために)英雄とは認められない男」として、見切られた。
対合従軍戦では燕軍に当たり、山岳族から見ても感心する程の山砦で渡り合う。燕軍に山砦の心臓部を突かれるも、撤退をしたように見せかけ燕軍の主力八千を誘い出して全滅させ、そのまま山中に姿を晦ました。その後、函谷関の裏手に現れた楚軍を一掃して陥落の危機を救った。
張唐(ちょう とう)
楚との国境守護に当たっていた秦軍の大将軍。15歳の時に初陣し、以後50年間秦の軍人として戦歴を重ねた古参将軍。
性格は頑固そのもので、秦国の軍人であることを誇りに思っている。その性格のため、最初は桓騎とは折り合いが悪かったものの、才能を認めてからは激励の言葉を送っている。
合従軍迎撃戦を前に咸陽に招集された7人の将軍の一人で、昌平君には大将軍級と評された。しかし昭王時代には六大将軍の影に隠れており、それ故に彼らを大嫌いと語っていた。
函谷関の守護に当たっていたが、韓軍の毒兵器によって自らの命が長くないことを悟り、戦場へと降り立った。その後、桓騎軍と共に韓軍を襲撃して成恢を討ち取り、桓騎に「秦国一の武将となれ」と言い残して力尽き死亡した。
羅元(ら げん)
声 - 竹内栄治
蒙驁軍の副官を務める将軍。顔に一閃の傷跡がある。山陽前哨戦にて暗躍する輪虎に翻弄され、数多くの千人将を失い自らも討たれて死亡した。
栄備(えい び)
声 - 竹内栄治
蒙驁軍に属する将軍。山陽戦では本隊の正面軍を率いる。最終局面では輪虎の巧みな戦術を目の当たりにして敗北を悟り、果敢に突撃をするも輪虎に斬られ死亡した。
土門(ど もん)
声 - 玉木雅士
蒙驁軍に属する将軍。栄備と比肩し、山陽戦では本隊の正面軍を率いる。
袁夏(えん か)
知己の将軍。屯留救援戦において成軍の副将として参陣する。しかし蒲鶮の裏切りに対処しきれず、龍羽によって半ば騙し討ちにされる形で死亡した。
龍羽(りゅう う)
屯留救援戦において成軍の副将として参陣した将軍。しかし裏で蒲鶮と通じており、屯留城内で袁夏を斬り殺して成蟜たちを拘束する。そして屯留の反乱では、反乱軍の指揮官として討伐軍と交戦する。本来の計画では、裏で内通していた趙軍と共に討伐軍を殲滅して、総大将である大王派の武将である壁の首を手土産に趙へ亡命する予定だったが、飛信隊の参戦によって戦況が不利となり屯留城へ撤退する。反乱の終盤で、なおも壁の首を狙って奇襲をかけるが、それを察知していた壁が伏せていた弓隊によって射殺された。
(きょう)
声 - 高梁碧
六将の中で最も謎に包まれている人物。六将の中では最も若かったが、その戦いの苛烈さは六将一と言われた。
昭王の実の娘で、母親の身分が低く、このままでは母子ともに暗殺されると悟った母親によって王騎の屋敷に引き取られた。政と成蟜にとっては大叔母にあたる。
母親はその後、かけがえのない命であり、不変の愛を注ぐべき娘であると十二分に理解しているがゆえに、是が非でも娘の将来を繋ぐため、周囲に「当然生存者はいないであろう」と思わせるがため(死者の詳細も分からぬ惨状になるように仕組み)、自身の部屋に火を放ち、あたかも娘と共に心中あるいは権力争いによって殺害されたかのように見せかけ、自らが完全に犠牲となり焼死しつつも、娘の将来を固く保護した[注 2]
本人はその事実を一切知らされず、召使いとして育てられ、同時に王騎を間近で見てきたことにより武芸の達人へと成長する。戦場へ出るより前の幼い頃に王騎と「将軍になって城を百個とったら妻にしてください」という約束をしており、そのために召使いという身分であったが、王騎の側近として幾度も戦場へ出て戦果を挙げていた。
その後、昭王との対面でお互いに親子であることを感じ取るが、公式に認める事ができなかったため、暗黙の了解となる。この頃より、素性を探られることを防ぐため仮面(コリュス式兜と目元を隠す仮面が一体化したもの)を付けるようになった。
それから戦果を上げ続け、将軍となり更に戦の才能を開花させ、数年後には6人目の大将軍に任命された。
その後、馬陽を攻略中、突如現れた煖との戦闘で命を落とした。皮肉にも馬陽が、王騎との約束である100個目の城であった。この事実が戦時に与える影響が大きいと判断した王騎と昌文君によって、病により没した事になっている。
回想シーンのみの登場。
白起(はく き)
六大将軍筆頭。せり出した両目が常に血走っている特異な容貌で描かれる。
危険を冒さず、相手がムキになるほど力を抜いて勢いをかわす戦い方をし、廉頗たちから「六大将軍の中でも最もやりづらい」「正真正銘の怪物」と評される。
長平の戦いにおいて秦軍の総大将を務め、投降した趙兵40万人を、兵糧の問題と反乱の危険を理由に全員生き埋めにするという決断を下した[注 3]
すでに自害して亡くなっており、回想シーンのみの登場。
(おう こつ)
長く伸ばした鬚髯と顔を斜めに走る傷が特徴の六将の一人。六将一の怪力豪将と呼ばれ、武器は大斧を使う。
かつて楚へ侵攻した際、汗明との一騎打ちに敗れて撤退していると汗明は語ったが、真相は定かではない。
すでに亡くなっており、回想シーンのみの登場。

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