April 22, 2018

グアムのダイビングショップ物語2303―今日のグアムと、大人でも理解してくれない人がいるわけだから

guam422intro1頑張ってタンクは自分で背負って歩いて行ったんだが・・・。
やはり耳抜きの理解と言えるのだろうか・・・。

予約はかなり前から受けていたのだが参加者の詳細が直前までわからなかった。
普通にスケジュールを組んでいた日の予約が混み合っていた。
そのような状況で参加者の中に9歳の子供がいることがわかったの
guam422intro2guam422intro3だ。
10歳に満たない子供がいる場合は水深2mまでに限定したスクーバ体験というツアーに参加してもらうことになっているのだが、このツアーは午後のみの開催にしてある。
guam422intro4しかし今更午後に空きはない。
その旨を連絡してみると、現場でできるかどうか判断して欲しいということとなり、そのまま他の一般のお客さんと一緒の参加になる。

説明は聞いていてくれていたかのようには見えるが、やはり説明は長い。
guam422intro5どこまで理解してくれているかだが、やはり泳ぐ姿勢と耳抜きは伝わり切っていないのだった。

それこそ子供用のスクーバ体験には説明時間はない。
聞いていられない子供もいるし、理解してると期待する方が間違っていると思う。
それより早く水中で遊びたい。
guam422intro6そのために来てるのにって思うはずだ。
だから現場で判断して成り行きで進めて行く。
かなりダイビングっぽくなるツアーもあるし、スノーケリングのような内容になることもあるが、スクーバ体験として参加している以上はダイビングを最初から求めていないのだからいいのだ。
だからツアー名にダイビングという言葉が使われてはいない。

guam422intro7しかし今日はダイビングツアーとして進めて行くことになる。
そのペースを極端に遅くすることは他の人もいるので難しい。

水底に落ちつくことはできた。
魚もちゃんと見てくれてる。
泳ぎ始めが問題だ。
水底から離れるのは練習が終わってからだ。最初はちゃんとまっすぐ泳ぐことを練習するという段階なのだが、上体を起こして一生懸命にフィンを下に向けて泳ぎ出す。
当然水底からどんどん離れて行くことになって行き、それは水底に戻してやらなければならないことになる。

guam422intro8そして次の問題が耳が痛いだ。
そりゃあそうだ水底から1mも離れて泳いでいたのを戻せば耳抜きが必要になる。
耳抜きという言葉もやり方もわかっているとは思うのだが、どうして何回も耳抜きをやらなくてはいけないのかはわからないのだと思う。
今耳抜きしたばかりでもまた上に上がれば下がるときには耳抜きがいることが理解できていないのだ。
耳が痛くなりたくなければ上に上がるなということが理解できない。
泳ぐのに水底を這いつくばっていてはおかしいのだと思ってしまうのだろう。
大人でもそんな人が多くいて、それが耳抜きできずに辛そうになる原因である。

何歳だろうとタンクを背負える体力があればダイビングしてもいいとは思っている。
ただし、この耳抜きと泳ぐ姿勢について頭で理解することも欠かせないのだ。
二人にもきれいなグアムの海で楽しく遊んでもらいたかったが残念だった。
やはり年齢に合ったツアーがいいのだが、最低でもそのグループだけで他の人が混ざらないツアーであればそのペースを守ることができるので楽しめる可能性はあると思うのだが。

  

April 19, 2018

グアムのダイビングショップ物語2302―今日のグアムと、透明度の良いレック・スコーシア

guam419scotia1今日もなぜかレックダイビングになった。

156年前にイギリスで造られた船であり大西洋最後の外輪船だったが、1896年に大型化されると共に外輪船からスクリュー動力に改造された。
1902年海底ケーブル会社に買い取られ1904年3月11日、グアムにケーブルを運んで来るとき、アプラハーバーへ入るコースを誤り、サ
guam419scotia2ンゴ礁の浅瀬に座礁。
2つに折れた状態で沈没した。
というスコーシアだ。
グアムで唯一の透明度のよいレックダイビングができる。

深度が浅いのと流れが激しいこともある海域なのでレックは広範囲に散らばっているため、進入できる部屋はない。
guam419scotia3船首部分はグラスブレークウォーターの石積みの中に埋もれてしまっていて見ることはできない。
そこから沖に向かって進んで行くとスコーシアの船体に沿って船尾まで確実に辿り着くことができるので、おおよその船の位置関係はわかる。

例えば船首近くにはロープの固まりがサンゴ化しているのをいくつ
guam419scotia4か見ることができる。

元々アッパーデッキより上にはマストしかなく、部屋は全てがアッパーデッキより下の階層にあったようだが、そんな丸みを帯びた曲線の船底の一部は今も確認できる。
大きなクジラの肋骨のように見えるスコーシアの背骨、キールもちゃんと残っている。

guam419scotia5さらに船尾に向かって進んで行けば蒸気エンジンを搭載していたので蒸気を溜めておくための釜状のものが、さすがに丈夫な造りだけあって一番原型をとどめて残っている。

船尾が近付いて来ると、2本のシャフトが見えて来るが、これはおそらくエンジンから出てプロペラに続いていたシャフトだろうと思われるがプロペラは一切残っていない。
しかし船尾は辛うじて現在もこれが船尾であるとわかるだけの形で残っている。


  
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April 18, 2018

グアムのダイビングショップ物語2301―今日のグアムと、バルボンバーを見る目がちょっと変った

guam418val4何も言ってはいない。
ボート上を見回してもレックをリクエストしそうなダイバーはいないと思うが、かなりボートに乗って来るダイバーがでっかいカニみたいなカメラを持っている。
彼はレックが好きかどうか別にして東海丸には最もよく行くダイバーの一人だ。
ということは彼のリクエストか。

何と帰国早々バルボンバーだ。
九九式艦上爆撃機22型。
愛南町で見て来た紫電改は紫電21型。
つまり初代の紫電が11型ということになってエンジンそのままに機体に変更があるということだ。
水上機を得意とする川西航空機の元々水上戦闘機を局地戦闘機に改造しているので都合のよくない部分があったため、その部分を改造したのが21型の紫電改ということになり、最大の改良点は主翼が胴体の中間部分から出ていたものを胴体の一番下に合わせて付けたところだが、このお蔭で諸々改善点を修正することができたのだった。

バルボンバーのキャノピーは最初から開いていたのだろうか。
最初に沈んでいる状態を引き揚げ失敗により変えられてしまっていることが恨めしい。
キャノピーが開いていたとすれば搭乗員たちは脱出できた可能性が高い。
しかし機体が水底に向かって沈むときには恐らく重たいエンジンが付いている前方から落ちて行くと思われる。
そのまま着底したとすればキャノピーは前方に押されて閉じてしまっているのではないだろうか。

紫電改のキャノピーは5僂世嘘いてる隙間があったと聞いた。
不時着水したときの目撃談から誰も水面では脱出していないらしい。
それなのに水中のコックピットには何の痕跡も残されていなかった。
それは沈んで行ってるときにキャノピーを開けて脱出したが、水深が深過ぎたのか負傷していたのか水面に戻るだけの力が足りずに行方不明になってしまった。
guam418val5その後紫電改はエンジンから沈んで行き着底したときの反動でキャノピーが閉じてしまった。

実は紫電改を引き揚げた対岸の浜に上半身だけの遺体が流れ着いたという記録が残っているのだが、今となってはそれが搭乗員のものであったのかはわからないのだ。

guam418val1guam418val2バルボンバーを後にしたらもちろんセメントバージにも足を伸ばしてみる。
エントリーしたのはハーレーリーフ寄りだったので戻って来るつもりでいたのだが、バルボンバーの声が他のダイバーからも出て来て、ドリフトしていいのかと聞かれたキャプテンがいいと言ってくれたので、今日の流れはないけどドリフトは大歓迎なのだ。

それとカメも見た。
しかも絶滅危惧種のタイマイだ!

guam418val3以前から気になっているパーツが落ちている。
バルボンバーよりも30mほど東寄りの水深10m辺りにある。
確実に航空機のパーツと思うが、バルボンバー以外にこの近くに航空機のレックは知らない。
(あるのかもしれないが)
直径を考えればかなり小さいのだが、この曲面を考えるとエンジンカウル部分しか思い当たらない。
バルボンバーの金星エンジンと比べると絶対に合わないサイズであることはわかるのだが、ではいったいこれは何なのだ?となるのである。  
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April 17, 2018

グアムのダイビングショップ物語2300―今日のグアムと、目がうまく見えないぞ

guam417bh4グアムに戻って最初のダイビングがブルーホール。
何が心配かって言うと自分の器材だったりするんだなあ。
10日ほど使っていない器材。
毎日使っているときは特に手入れなんかしてなくたって何も心配していないのだが、しばらく使ってないとなると、どこかが海水でくっ付いてんじゃないのかとか、黴びていないかなどが気になって来るのだ。
だったら行く前にきちんと手入れしておけよってことではあるのだが・・・。(笑)

そんなこと考えてたらサイパンに置いて来てる器材が心配になって
guam417bh3きちゃったよ。

流れはなさそうなんだけど入る前から西にドリフトっていう指示有り。
ドリフトではないダイビングを何年もやっていない気がする。
流れてたらドリフトで頼みますって言いたくなるが、流れがないのであれば本来のブルーホールを楽しみたい。
西に行けって言われると後半戦が辛いのだ。
水底がどんどん深くなっていくために最後の最後は水底から離れて中層を移動することになる。
バラクーダの群れでも出て来てくれたら嬉しいんだけど。
だから自分は指示とは逆にまずは泳ぐ。
そしてブイに帰って来る。
これなら文句ないだろう。
逆に流れて行ってボートに迎えに来てもらうわけではない。
ボートが最後までロープに繋がっていてくれるならそのままボートに上がることができて、こんな手の焼けないダイバーはいないことになる。

guam417bh2確かにギャブギャブ2はブイに帰って来ることは慣れていなければ難しいかもしれない。
しかしインストラクターでさえ明後日の方向で浮上しているのをよく見かける。
安全面から言えば最高なのかもしれないが、シグナルフロートまで揚げるダイバーもいる。しかもボートの結構すぐ脇で。
我々の感覚だと、その行為は恥ずかしい。
「お前ナビゲーションもできないのかよ。」ってことになる。
それもこれも普段ボートでドリフトダイビングしかやらないからじゃないのか?
帰巣本能が完全に育成されていない。

guam417bh1まあいいのだ。
自分は自分のやり方で潜る。
迷惑懸けるやり方は言語道断であるが、迷惑はかけないように楽しむのだ。
ところが目が慣れない。
一匹もウミウシを見つけることができなかった・・・。

自分の興味の奥底の方には別の興味があるのだと思ったりもする。  

April 16, 2018

グアムのダイビングショップ物語2299―今日のグアムと、サクラビール門司工場

guam416sakura201912年(大正元年)九州最古のビール会社、帝国麦酒株式会社が門司に誕生した。
作るビールはサクラビール。
日本国内だけではなく門司港からは世界に向けてサクラビールを広めることができる。
特に第一次世界大戦勃発により欧州が戦場となればサクラビールは世界に向けて売ることができたのだ。
そして国内では第3位のビール会社としてシェアは10%を占めてい
guam416sakura1た。

1929年社名をビールブランドのままである桜麦酒株式会社に変更。
ところが戦争の影響でビールの原材料の暢達が難しくなる中、1943年にはとうとう大日本麦酒株式会社に吸収されていくのだった。
終戦後には二つに分割された大日本麦酒株式会社。
門司のビール工場は日本麦酒株式会社側に分割され、その後サッポ
guam416sakura2ロビール門司工場として稼働。
1987年まで美味しいビールを作り続けて来たが、現在は資料館となっている。

現在も残されているレンガ造りのビルは帝国麦酒株式会社の事務所として1913年4月に竣工。
隣には同じく1913年に麦酒醸造棟も建てられ、現在も門司のシンボ
guam416sakura4guamu416sakura3ル的存在として内部を公開しており、階段の手摺には桜がデザインされていたり、暖炉には一番星が飾られている。

それでは歴代の懐かしいサッポロビールのラベルたちを紹
guam416sakura23介する、広島の原爆資料館にも熱風で溶けかかったサクラビールの瓶が展示されていたのだった。
サクラビールどんな味だったんだろう?


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April 15, 2018

グアムのダイビングショップ物語2298―今日のグアムと、原爆資料館で思った

guam415genbaku10戦闘407に所属する本田稔少尉は1944年に343空に編入されたエースパイロットの一人だ。
広島に投下された時は空から目撃し長崎の投下は音で聞いている。
もし3度目の原爆投下があるとしたらそれは体当たりしてでも阻止するという命令が下っており、343空の源田司令は自分が体当たりするので、そのときは俺の2番機を務めてくれと本田少尉に言っていた。
guam415genbaku6この場合の2番機は源田の援護ではなく、源田が失敗したときには2番手として体当たりするという意味だった。
終戦を迎えたとき無事であった本田少尉は皇統護持作戦にも参加した。

実は本田少尉は唯一日本人の空から原爆を目撃した人である。
姫路まで紫電改を受領に行った帰り道、広島上空で広島城が見えた
guam415genbaku5guam415genbaku7辺りで突然舵を取られて500mほど落下したと言う。
機体を立て直して前を見てみると中が赤黒いでっかい入道雲が見えた。
そしてその雲が消えるとさっきまで綺麗に見えていた広島
guam415genbaku8の街の景色が消えていた。
火の手も煙も一切見えないで一瞬にして広島の街が消えていたと言う。

アメリカはいくつかの候補地から広島を選んだ。
原爆投下の目標地点は相生橋。
広島にはいくつも川が流れているが相生橋は川の両岸を結ぶだけで
guam415genbaku9なく橋の中間から中州にもう一本橋を伸ばしているため上空からはTの字に見えているのだ。
川を辿りTの字型の橋に投下する。
とてもわかりやすい目標地点である。

しかし攻撃目標を少し外れ実際の爆心地は原爆ドームから西へ約200mの島病院とされている。
一面焼け野原になった広島の当時の写真を見てみるといくつかのコンクリート製のビルが残って立っているが、実際にはビルの中は全て破壊されてビルという殻だけが残っているだけの壊滅状態だったのだ。
残っていたビルは銀行などであり、原爆ドームと呼ばれるようになったあの有名な建物も広島県産業奨励館であったものだ。

guam415genbaku1本田少尉の証言の通り、一瞬にして高温の爆風が吹き飛ばして広島の街を破壊した原爆であることがわかるものが、ガスタンクに残ったハンドルだ。
表面に塗ってあったコールタールが熱風で溶けたのだが、ハンドルの陰になった部分のコールタールは溶けずに残り黒い色のままだったのだ。

guam415genbaku2三輪車で遊んでいた幼い子供が亡くなり、お父さんは三輪車と一緒に埋めた。
後にそれを掘り返して資料館に飾ってあるというが、よくみればこの三輪車からもどちらから熱風が当たったのかがわかるような気がする。

その他子供たちが着ていた服を展示してあったりして資料館を訪れる内外の人々の涙を誘っているのだが、正直何か違和感のようなものが感じられてならない。
自分がそこから目を背けたいと思っているからなのか、見てみない振りをしているというのだろうか。
鹿児島の知覧特攻平和会館で見た大量の遺書を見たときと同じ気持ちになるのだ。
特攻も原爆投下もあってはならないが、それ以前に戦争を始めたところに原因があるのだと思う。
そうしてしまった浅はかな考えや、止めようと言えない弱い気持ち、などのことをよく考え直すべきだと思うのだが涙を流すだけで先へ進もうとしないで立ち止まっているように思う。

特に戦艦「陸奥」や「大和」。そして紫電改や潜水艦に海軍兵学校。
これらを見て来た自分にとって思ってもいなかったが全てのことが原爆ドームで一つに繋がったように思う。
誰があんな巨大な船を造ろうって言ったんだ。
莫大な金を使って造っておいて実際には使ってないじゃないか。
何で誰も止めなかったんだ。
開戦当初こそ勢いに乗っていた日本だが、時間が経つにつれて劣勢になり、最後は紫電改21機が500機もの敵に向かって行かなくてはならない。
大勢の人間を乗せて航空機の援護もなく沖縄に向けて特攻する大和に意味があったのか。
何故それを止める者が出て来ないんだ。
一方343空では上からの特攻命令を拒絶している。
佐久間大尉は後のために役立ててもらえると思って最期の最後まで報告書を書いている。

海軍次官を務めていた山本五十六ら海軍には日独伊三国同盟に反対する者が多く、もし締結されればアメリカと対等に戦う装備が不足していると訴えていたのに対して陸軍は推進派が多かった。
締結後にはとうとう開戦。
それなら奇襲作戦でとにかく最初の一撃で相手の戦意を消失させる作戦を立てたのに対して、現場では二次攻撃を必要としてそれを押す司令官に対してこのまま帰る決断をするその上の司令官。
どこかに余計なことを言う大物が隠れているのだろう。
どこかの国会中継を見ているように思えてならない。

guam415genbaku4初めて広島を訪れて初めて原爆ドームを見て来たが、読んだり聞いたりして来たこととは全く違うものを感じることができた。
そしてそこを熱心に見て回る外国人の多さは浅草にも勝る数なこともわかった。
日本人として是非とも見に行って肌で感じてもらいたいところだと思った。


  
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April 14, 2018

グアムのダイビングショップ物語2297―今日のグアムと、日本海軍最初の潜水艦

guam414sub1日本初の潜水艦。
第六潜水艇。
5つ目まではアメリカ製のものを日本国内で組み立てたものに対し、アメリカ製の設計図を基本に日本で詳細な設計をして建造されたものが第六と第七潜水艇だが、アメリカ製が106トンだったのに対して第六は57トンという排水量で通常の航海でさえ果たしてできたものなのか。
guam414sub3この第六潜水艇は1906年川崎造船所神戸工場で竣工された。

そして1910年4月15日にガソリン潜航実験のため岩国から広島湾へ出航。
通常日本の潜水艦が潜水航行をするときには電気を動力に使うが、スノーケルを水面に出して給排気を行いながら水中航行を行う実験中にスノーケルから海水が逆流。
guam414sub4スノーケルの長さ以上に深度が下がったのが原因だ。
さらに逆流防止弁を閉じるためのチェーンが外れ手動による作業となり海水の逆流が増してしまう中、停電のため真っ暗闇。配電盤冠水による一酸化炭素の発生。浮力回復のための空気圧を使ってガソリンを排出の際のパイプ破損により揮発ガスの充満。メインタンク排水に使った高圧空気の艇内逆流により異常な高圧になったことなどで乗組員たちは全員死亡する。
guam414sub7
しかし最後まで乗組員たちは持ち場を離れることなく回復させる努力をしたままの状態で亡くなっていた。
艦長の佐久間勉大尉はこの事故を後の潜水艦建造に活かすべく、事故経過の報告書や乗組員遺族のための遺書などをしたためていたまま亡くなっていた。





guam414sub9真珠湾攻撃に参加した特殊潜艇・甲標的。
真珠湾入口で待機していた伊号潜水艦5隻(伊号16,18,20,22,24)から各1隻の5隻の甲標的が発進する。
しかし駆逐艦からの攻撃により真珠湾に侵入できたのは2隻のみ。魚雷は発射したとされているが戦果はなしと思われ、全ての甲標的は撃沈された。
10名の乗組員の内9名が戦死し日本国内では米艦船を撃沈させたということになっていたため軍神と讃えられ九神と呼ばれた。

guam414sub5酒巻和男少尉が乗り込んだ甲標的はジャイロの故障から真珠湾突入に失敗。
座礁を繰り返す内に魚雷発射管が故障する。
アメリカに発見されるのを防ぐために自爆装置に点火して脱出。
泳いで岸を目指すが共に脱出した稲垣清二二等兵曹は力尽き、酒巻少尉も意識を失い砂浜に漂着。
そこを発見され日本軍最初の捕虜となった。
その発覚を恐れた海軍は九神を讃える一方、酒巻少尉のことはひた隠したのである。

guam414sub6酒巻少尉は捕虜収容所では戦時国際法に違反する拷問を受けたり、自決を願い出るも拒否される中、自分のやるべきことは何かを悟り、その後同じく自決しようとした捕虜たちを救ったり、通訳として働くなどして1946年に復員するが、実情を知らない日本人からよく思われることもなく苦労するが、捕虜時代を知る中日新聞記者が酒巻の談話を発表。
それを契機にトヨタ自動車に入社。
輸出部次長などを務めた後1969年トヨタ自動車のブラジルの現地法人の社長に就任している。
海軍兵学校68期卒業生である。

guam414sub8この特殊潜航艇「甲標的」は真珠湾攻撃に実際に参加した5隻の内の1隻であり、1960年に真珠湾港外で発見され引き揚げられたものを揚陸艦しれとこに搭載されて帰ってきたものである。
その後呉造船所により復元され1962年から海軍兵学校に置かれている。

  
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April 13, 2018

グアムのダイビングショップ物語2296―今日のグアムと、愛南町の紫電改

guam413sidenkai11今回の旅の第一目的地である。
遠かった・・・。
愛媛県南宇和郡愛南町。
愛という文字が入るかわいらしい名前が付いているのかと思えば愛媛県の南端であった。
そこで海底で見つかった紫電改が展示されているのだ。
日本では唯一現存する機体であり、不時着する目撃情報から343空
guam413sidenkai1が7月24日に豊後水道上空で行った迎撃作戦中に未帰還となった6機の内の1機であると限定されている。
日本とアメリカの資料を組み合わせて考えていくとかなりの所まで特定できると思われるが、ご遺族の気持ちも配慮すると敢えて特定はしない方がいいのかもしれないという意見もあるようだ。
なかなか写真でさえも見る機会が少ない紫電改の姿、その機体を運用して戦った343空のことを知ってもらえたらと思う。

guam413sisenkai21944年7月までにサイパンとグアムの日本軍が相次いで玉砕。
絶対国防圏が破られた以上、日本本土空襲を避けることができないと判断した日本海軍が本土周辺空域の制空権を回復しようと、軍令部作戦課の源田実大佐の意見で1944年12月に創設されたのが第三四三海軍航空隊(343空)だ。
初代343空は通称隼部隊と呼ばれ、これから語る343空、通称剣部隊とは異なる。

guam413idenkai3制空権獲得には優秀な戦闘機隊の確立が必要。
それには優秀な操縦員、頑丈な戦闘機、そして優秀な無線電話が絶対不可欠という考えから動いた源田大佐は、指揮通信網の整備と高速偵察機・彩雲を装備する偵察第4飛行隊(偵4)を編成。
戦闘機には日本海軍最強の局地戦闘機・紫電改(紫電21型)を優先的に集め、世界各地に配属されていた優秀な操縦員たちも集められた。
1944年12月25日横須賀基地で343空を編成
1945年1月15日源田大佐自ら司令に就任し1月19日には松山基地に着任する。

guam413sisenkai4戦闘機隊には菅野直大尉率いる戦闘301、鴛淵孝大尉率いる戦闘701、林喜重大尉率いる戦闘407、定数各48機の3個戦闘飛行隊が選ばれた。
そして編成と同時に松山、大分、出水各基地で錬成に入り1945年1月末までに3飛行隊全てが松山基地に集結した。

1945年3月13日初めての出撃命令が出たが敵の来襲はなかった。
3月18日偵4が敵機動部隊を発見、出撃するが敵が九州方面に向かったため遭遇なし。
3月19日米機動部隊による九州沖航空戦での迎撃した松山上空戦が初陣となるが、源田司令は敵爆撃機には構わず徹底的に戦闘機を狙わせた。
F6Fヘルキャット、F4Uコルセア、SB2Cヘルダイバーから編成される米艦上機160機に対して、紫電7機、紫電改56機が迎撃し米軍機58機を撃墜し日本最後の大戦果となったのだ。

guam413sidenkai51945年4月1日343空は第5航空艦隊に編入。
沖縄に上陸する米軍を迎撃する菊水作戦のため基地を鹿屋に移す。
任務は特攻隊の護衛であり制空権確保にあたる。

松山基地で親しかった今井琴子さんが隊員たちに送った紫色のマフラー。
そのマフラーに「ニッコリ笑えば必ず墜す」と刺繍されたいた杉田庄一少尉。
1943年4月18日前線視察に訪れていた海軍連合艦隊司令長官・山本五十六が機上する一式陸上攻撃機が、ブーゲンビル島上空で米軍のP-38に撃墜されたとき護衛していた6機の内、第一小隊3番機として杉田少尉も参加していた。
撃墜数も多く、343空の教員をしていた坂井三郎と口論まで交わしたほどの性格でもある。

guam413sidenkai61945年4月15日、敵機接近の報告から源田司令は出撃を命じる。
しかしF6Fヘルキャットの襲来が早く基地上空に現れたため離陸中止命令を出すが、既に発進していた杉田機に敵が群がり撃墜され戦死。
戦死地点の鹿屋航空基地に杉田少佐の慰霊碑が建立されている。

その後343空は桜島の北にある第一国分基地に移動。
大型爆撃機B-29の迎撃任務に就く。
一機につき6門の強力な機銃を装備しているB-29は強固な要塞のようであるが、これに対する攻撃法、直上方からの降下攻撃は菅野直隊長が考案したものだ。
4月21日戦闘407飛行隊長、林喜重大尉が戦死。
4月25日大村基地に移動。

guam413sidenkai7第5航空艦隊から343空に特攻作戦を行うよう打診が来た際、志賀淑雄飛行長は「私が先頭で行きます。兵学校出は全て出しましょう。予備士官は出してはいけません。源田司令は最後に行ってください。ただし、命令して来た上級司令部参謀が最初に私と来ると言うなら343空はやります。」とし、源田司令も全くだと同意した後343空に特攻の話は来なくなったと言う。

菅野直隊長の右腕として戦ってきた杉田少尉が戦死し、その役目を担うために横須賀航空隊から源田司令の頼みで引き抜かれた来たのが武藤金義少尉。
大空の宮本武蔵と呼ばれる操縦員であり、その腕を買われて菅野直隊長の元に配備された。
「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません。」
赴任早々の挨拶で源田司令から菅野を頼むぞと言われた際の武藤金義の言葉である。

guam413sidenkai8そんな武藤少尉の343空の初出撃となるのが7月24日の呉軍港空襲である。
各基地からの攻撃を避けるため米軍の艦載機は四国南方沖から豊後水道を通って瀬戸内海を進み呉を攻撃。
そのコースを通って空母に帰還しようとするのはおよそ500機。
その巨大な敵に向かうのは343空の24機。
3飛行隊合わせてもこの数しか作戦に参加できなかったのだが、その内3機は不調により離脱する。

guam413sidenkai9源田司令は帰還中の大編隊の最後尾を狙わせるが、500対21だ。
343空は16機の撃墜を報告するが味方機も6機が未帰還となる。
戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉、戦闘301の武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹だ。

8月に入ると343空は航空機と搭乗員の補充要求を止める。
使用可能な航空機も20機ほどになっているが、残った隊員と源田司
guam413sidenkai10令、志賀飛行長も出撃する予定であったが、8月1日屋久島に飛来したB-24とP-51を迎撃中、菅野直隊長の機銃が主翼内で暴発する事故が起きる。
この日の出撃は愛機の343ー15番機ではなく343ー01番機であった。
「ワレ機銃筒内爆発ス。」という無線を聞いた二番機の堀光雄飛曹長が横に付けて護衛に回るのを見て戦闘に戻れと指示するが離れない堀光雄飛曹長に最後は拳骨するぞという仕草で戦闘に戻す。
その後菅野隊長の声で「空戦ヤメアツマレ」が聞こえたため隊長のいると思われる周辺に集まった隊員であるが、菅野隊長機は空のどこにも見つからなかった。


  
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April 12, 2018

グアムのダイビングショップ物語2295―今日のグアムと、江田島・海軍兵学校

guam412heigaku3銀座にみゆき通りという道路があるのをご存知だろうか。
1960年代にはみゆき族と呼ばれる人々が出て来て困ったもんだという時代もあったが、正式には行幸通りだ。
東京の築地にある新橋演舞場と日比谷公園を結んでいる通りで晴海通りと平行している。
つまり明治天皇が築地にあった海軍兵学校に馬車で通った道のりのことだ。

1869年、築地に海軍操練所にが創立。
1870年に海軍兵学寮と改称し1876年に海軍兵学校が開校したのだが、1888年に広島県江田島に移転。
現在も残る本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれてイギリスから軍艦で運ばれたと言われ、現在の価値にして一つのレンガが20万円ほどだと言う。
しかし校舎がすぐに完成することもなく、江田島移転後およそ20年近くは本校舎で授業は受けることができず、東京から回航した艦船(東京丸)を校舎代わりに使ったと言われている。
つまり海軍兵学校卒業生の13期生までは築地。32期生まではこの本校舎で勉強することはなかったことになるのである。

guam412heigaku11943年には岩国分校。
1944年には大原、舞鶴分校。
1945年針尾(長崎)分校が開校されたが、1945年12月までに全ての海軍兵学校が廃校となった。

海軍兵学校とは、学校内で成績優秀の1番の生徒が目指した学校であり、2番の成績の者は陸軍士官学校。
3番4番目の生徒は東大を目指したとされる超エリート集団なのである。

guam412heigaku7guam412heigaku8また卒業時の成績も大きく左右し、卒業証書を一人一人受け取ることが出来る生徒は上位3番までで、それ以降の生徒はその他大勢扱いされ、それが海軍内での出世いにも影響したのだ。
guam412heigaku2これが卒業証書を受け取る壇上であるが、この階段を上ることができた者は極少ない。
そもそも卒業式を執り行う講堂だが、広くその正面を見せているのは裏口である。
正面口は皇族の方などの位の高い人だけが許された出入り口なのだ。

guam412heigaku6最近の人は「同期の桜」という言葉を知っているだろうか。
そもそも同期とは海軍兵学校の同期生のことを指している。
同じ釜の飯を食い、同じ苦労を共にしてお国のために励んで行く。
もしも貴様に何かがあれば、その家族のことは俺に任せろ。心配せず存分に戦って来い。
俺ぐらいの絆で繋がる仲間たち。
その同期の桜がいまでもこの向こうの中庭できれいな姿を見せている。

本来はこの本校校舎内も見せていただけるようなのだが、今回ちょうど学校長が本校舎に戻って来る時間と重なったようで我々は遠慮する形になった。
しかしちょうど学校長が車で正面玄関に横付けしてお帰りになった。
我々見学者には案内役の方が色々説明してくれているのだが、その学校長に向けてスマホを向けて撮影している者が一名。
規律には反していないのだろう。
その方は何も咎めない。
しかしそれ以降無口になったのは気のせいではないはずだ。
学校長が車から降りるところはインスタ映えかもしれない。
しかしその行為には賛成できないと思うのは自分だけではなかったのだろう。

guam412heigaku5guam412heigaku4本校舎は横幅144mあるらしい。
その端から端までの廊下だ。
そしてこれが2階への階段。

世界の三大兵学校と呼ばれる江田島の海軍兵学校。
1874年から卒業生を送り出して来て、最終卒業生は78期生の4048名。
卒業は1945年10月1日であった。
  
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April 11, 2018

グアムのダイビングショップ物語2294―今日のグアムと、戦艦・大和

guam411yamato1バルバスバウ(球状艦首)だったんだ。
宇宙戦艦ヤマトを薄らと思い出してみれば波動砲を打ち出すためのデザインかと思っていたのだが、実際の大和には本当にバルバスバウが付いていたのだ。
現在のコンテナ船などに見かけるような先端が球状の円錐形ほどのものが出っ張っているのとは違い、ほんの少しだけ球状のものが出っ張っている程度だが、実はその形状に日本ならではの工夫が施されていたのだと言う。

guam411yamato5いつも同じ重量を積み込んで同じような速度で航行する場合、常にバルバスバウを水面下に入れておくことが簡単だが、どちらかに変化が起きてバルバスバウが水面上に出っ張ってしまうと逆効果になってしまうのだ。
そこで巡航速度でも戦闘時の最高速度でも効果の高いバルバスバウの開発が必要だった。この条件が叶えられなければ戦艦にバルバスバウは必要なかったのだ。

てっきりあんなへんてこな形の船首は近年の発明と思っていたが、バルバスバウ自体は1911年にアメリカで発明されていたものらしい。
それを大和に合う形に日本人らしく工夫を凝らして完成させたものが戦艦・大和には付いていたのだ。
決して波動砲のためのデザインではなかったのだ。
そして改めてよく見てみれば波動砲はバルバスバウからではなかった・・・。
バルバスバウの上にある丸い穴から発射されていた。

guam411yamato4実はこの穴にも面白いエピソードがあるようで、菊の御紋がなければ大和ではないという意見と軍国主義に見られたくないという意見の間を取って付けた丸いデザインだったそうだ。

戦艦の類いにはあまり興味がなかった。
もし大和が沈んでいるところをダイビングで見に行くことができるとしたら行くことは間違いないが、船内の複雑さ、想像できない形、生活感がないだろうと思われる船内が、徴用されていった商船とは全く別のもののように思うからだ。
だからほぼ初めて気にしてよく見た大和が今回なのだ。

guam411yamato6大和の就役は新真珠湾攻撃の直後の12月16日。
それまで極秘で建造されて来たので一般には全く知られていなかったが、1942年2月12日に連合艦隊旗艦になった。
最初の出撃は1942年6月のミッドウェー海戦。
1943年2月、司令部設部に改良を加えた姉妹艦・武蔵がトラックに進出したとき、連合艦隊旗艦任務は武蔵に移された。
その後大和は1944年6月のマリアナ沖海戦に参加するが、ほぼ戦闘はなく温存。
陸奥と同じように大和ホテルなどと言われることになる。
大和の主砲が火を噴いたのは1944年10月のレイテ沖海戦だった。
32卆茲慮えない敵艦に向けて104発の46冕い鬚屬段したのだった。

マリアナ沖海戦の敗北で空母と航空機をほとんど失った日本。
本土空襲を実現させないための絶対的国防圏を破られてしまった。
残された艦船と航空機を使い、なけなしの空母を囮にまで使うといったレイテ沖海戦でも敗北した日本にはもう一億総特攻しかなくなったのだ。
アメリカの次の狙いは沖縄。

1944年4月5日。
大和甲板に乗組員が集められた。
「本作戦は特攻作戦である」
そう告げられた乗組員たちは一瞬の沈黙の後「やってやろうぜ」「武蔵の敵討ちだ」と士気を高めたが、状況から誰もが出航前にそう思っていたことであったと言う。
4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。
君が代斉唱と万歳三唱の後、それぞれの故郷に帽子を振ったのだった。

guam411amato2九州近海までは零戦が空から護衛してくれていたが、4月7日12時34分。
アメリカ軍の航空機を50卆茲鉾見。
射撃を開始するが8分後には偵察爆撃機ヘルダイバーが艦尾に攻撃を開始するのを皮切りに戦闘機、爆撃機、雷撃機が代わる代わる攻撃を開始する。
14時23分、上空のアメリカ攻撃隊指揮官はとうとう大和の転覆を確認。
まるでお椀をひっくり返すようだったと言っている。

guam411yamato3現在、大和は水深345mの海底に眠っている。
艦首の菊の御紋はしっかりと艦首に残されたまま。

  
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April 10, 2018

グアムのダイビングショップ物語2293―今日のグアムと、戦艦・陸奥

guam410mutsu1日本海軍連合艦隊旗艦。
大和と武蔵ができるまで長門と共に陸奥が務めていたため日本人ならほとんどの人にその名を知られている。
兵装も当時としては世界に7隻しかなかった41冕い鯀備。
大和と武蔵に46冕い装備されるまでこれも世界最大級だ。

1941年12月8日真珠湾攻撃の際、山本五十六連合艦隊長官は陸奥を
guam410mutsu6guam410mutsu7含む戦艦部隊、空母、第一水雷戦隊を率いて出撃。小笠原諸島近海まで進出。
1942年6月のミッドウェー海戦。
1942年8月24-25日の第二次ソロモン海戦等に参加したが
guam410mutsu8交戦することはなく温存されていたが、8月27日第二駆逐隊の3隻(村雨・五月雨・春雨)と陸奥に接近して来たアメリカ軍飛行艇に対して主砲を発射。
アメリカ軍飛行艇は爆弾を投棄して逃走している。

1943年1月7日、陸奥は空母瑞鶴らと共にトラックから内地へ回航される。
guam410mutsu2瑞鶴は呉に向かうが陸奥は横須賀へ向かい12日には到着。
2月15日、駆逐艦3隻(山雲・旗風・野風)に護衛されながら呉に回航された。
6月8日広島湾沖の柱島泊地に停泊している陸奥。
周囲には姉妹艦の長門らも停泊している。
午後1時には旗艦ブイを長門に譲るため繋留替えをする予定であったが昼食も終わり「煙草盆出せ」の命令が出ていた12時10分頃、三
guam410mutsu3番砲塔と四番砲塔付近から突然煙を揚げ始め爆発。
陸奥は四番砲塔後方甲板から2つに折れ、前半分は右舷に傾きながら急速に沈没。

長門は潜水艦からの攻撃と判断して現場を離れながら救助艇を陸奥に送る。
後方の半分は船尾をを上にしてしばらく浮いていたため、接岸して
guam410mutsu4救助活動が行われたが、4時間後には沈没し乗員1474名の内助かったのは353名のみ。
この中には午前11時に乗り込んで来たばかりの予科練甲飛第11期練習生と教官134名も含まれていた。
戦闘機乗りなら標的になる戦艦のことも知らなければならないという艦務実習に訪れていたのだった。

guam410mutsu5guam410mutsu10引き揚げ作業は1944年から始まっているが、許可範囲を超えるはぎ取り事件があったりで中断したり再開したりであったものの、1953年8月16日には船首の菊の紋章が回収された。
guam410mutsu11この他砲塔なども引き揚げられていて陸奥の一部は各地で展示されているが、それだけではなく水中の陸奥にダイビングもできるのだ。

一方、姉妹船の長門であるが1945年7月18日の横須賀空襲で艦橋へ攻撃を受け、艦長の大塚幹少将を含むほとんどの艦橋にいた人が戦死しているが、そのまま修復されることもなく放置されたまま終
guam410mutsu9戦。
1945年8月30日にはアメリカに接収され詳細な調査の後、1946年3月18日に核実験のためビキニ諸島に向けて自力航行で出発。
しかし使えるボイラーの数が限られるためスピードは数ノットだけだった。

1946年7月1日の第一実験では爆心がずれたこともあるがほぼ無傷
guam410mutsu12であり航行も可能であった。
7月25日の第二実験後、長門は右舷に5度傾いたものの海上に浮かんでいたが、4日後の7月29日に確認したときには水面から消えていた。
誰にも見られることなく沈んでいった長門なのである。
そして陸奥と同じように長門もダイビングが可能となっているのだ。
  
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April 09, 2018

グアムのダイビングショップ物語2292―今日のグアムと、門司港駅

guam409mojieki1guam409mojieki2小倉から乗り継いだ鹿児島本線で降り立った駅は確実に昭和だった。
駅名の表示板からホームの屋根に至るまで昭和以外のものはない。
門司港駅が終着なのでホームの両側に列車が止まっているが、その列車だけはちょっと今風で残念。
ときどき昭和風の列車も来ているのを見たが、どうせならそんな列車に乗って来たかった。

門司港は門司港レトロと呼ばれて観光客を集めているが、正直大阪商船ビルと日本郵船ビル以外に興味がなかった。しかし門司港駅に降り立った瞬間に気が変わった。
駅舎そのものが歴史的建造物なのだ。

guam409mojieki31901年に下関まで伸びた山陽本線。
関門トンネルができるにはまだ41年もあるのだが、下関から門司港まで関門連絡船を国鉄が運航していたのだ。
関門トンネルが開通すると同時にその役割を終えたが関門連絡通路跡が門司港駅構内に残されている。
戦争末期だけのことだが連絡通路脇には監視孔まである。
外国航路で門司港に来る不審者の侵入をここで食い止めるのだろ
guam409mojieki5guam409mojieki4う。内側に行くに連れて穴は小さくなっていて外から内部を覗きずらい形になっているが、外に向けて銃を向けるトーチカにも見える。

その他切符売り場なども当時
guam409mojieki6のままの看板を残しているが、内部はみどりの窓口である。
しかし洗面所などは看板だけではなく実際に現在もその当時のまま使っている。
当時の洗面所というのは本当にそのままの意味で長旅を終えて門司港駅に降り立ち、すすなどで汚れた顔を洗うための場所なのだろう。
トイレとは仕切られている。
guam409nojieki7guam409mojieki8やはり人が小便している脇で顔は洗いたくはないのだろう。

またその外には帰り水と呼ばれる水飲み場がある。
終戦後、戦地から復員して来た人々は戦地の透き通っていなかった水と比べて門司港の美味い水を口にしたとき、内地に帰って来たことを安堵し実感したのだろうと思う。

guam409mojieki10guam409mojieki9それにしても残念なのが駅舎だ。
本来ならこんな素敵な駅舎が見えるはずの所には工事用の幕が張られていて全く何も覗くことができない。
実はこの幕のお蔭で日本郵船門司支店ビルもちゃんと正面から見ることができないのだ。
何とかトイレ部分の外観は残されているが、駅舎の外観を見ることができないのは全くもって残念だ・・・。
  
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April 08, 2018

グアムのダイビングショップ物語2291―今日のグアムと、大阪商船・門司支店ビル

guam408moji8大阪商船は1884年に瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資してスタートしている。
代表的になったルートは阪神から九州の別府温泉へ乗客を運ぶものであった。
別府港は1871年には完成していて多くの観光客を受け入れていたが、大阪商船が1884年には佐伯丸、1912年には紅丸が就航することによって阪神ー別府間に観光航路が開設されることになったのだ。
guam408moji9その後1916年には大阪商船専用の桟橋が完成するなど、明治から昭和にかけ大阪商船は別府温泉を日本一の温泉に発展させていった。

そんな活況を呈する瀬戸内海航路を見たのか見ていないのか、神戸までしか開通していなかった東海道本線。
その鉄道を1888年姫路まで伸ばすところから始まり、岡山、三原、広島へと伸ばしていき1901年には本州最西端の下関まで開通する
guam408moji12が、門司駅が最終駅となるのは関門トンネルが開通する1942年まで待たなければならなかった。
しかし山陽本線の存在は確実に瀬戸内航路の乗客を奪うことになっていく。

1917年、大阪商船は門司港から大陸へ航路を延ばし大陸貿易の拠点とするために、大阪商船門司支店を竣工したのだ。
guam408moji11







guam408moji7guam408moji6当時は目の前まで海が迫っていたため、大阪商船の桟橋がこの門司支店ビルのすぐ前まで伸びていたので建物の一階は乗船客の待合室として使い、二階は大阪商船の事務所になっていたようだ。
建設されて101年。
地上二階建てのビルは今でもしっかりとしているが今は門司市が管理しているのだそうだ。

guam408moji3guam408moji41964年、大阪商船は大阪商船三井船舶株式会社となっているのだが、どういう経緯で三井と繋がったのかが明確ではない。
元々東海丸などを造ったのは三菱重工長崎造船所であるわ
guam408moji5けで、どこで三井がというところなのだが、二階の事務所だったスペースには当時の金庫が残されていて、観光客に開けてみろと開け方まで説明されていて触ることができるのだ。
そしてその金庫にはしっかりと三菱マークが。
三菱合資会社門司支店と書いてある。

guam408yusenguam408moji10また隣には1927年建設の日本郵船門司支店ビルが立っている。
外観は改修されているようで大阪商船ビルと比べると何の特徴もない四角いビルのように見えているが、当時の門司では初めてのエレベーターが備えられた最新ビルディングであったらしい。
海に面していることは大阪商船ビルと同じ条件だが、やはり早い者勝ちで角地は大阪商船が確保し、ビルのデザインも角を有効に使った美しい形になっている。
ここまで海が迫っていたということはビルの角に立つ八角形の塔はもしかしたら灯台の役割もしていたのではないだろうか。  
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April 05, 2018

グアムのダイビングショップ物語2290―今日のグアムと、4月初のカメラ

guam405bintro14月1日、二ヶ月ぶりのお休みを取った。
当日予約で一件連絡はあったのだが申し訳ない。
「今日は一杯なんです。」と言ってしまった・・・。
もうビールもたくさん入っていたし、午後からと言ってもちょっとケツから根が生えてしまっていたのだ。
そんな久しぶりのリフレッシュもさることながら、やはり今週末から日本へ行くと言うイベントの存在が気持ちをウキウキなものにしているのだ。

なんだかカメラを持たないでダイビングしていることが落ちつかないが、久しぶりにオープンウォーターコースを担当したりして写真
guam405bintro2がないのだ。
とても上手な女性だった。
学科的にも史上最高って思うくらいの一を言ったら十を理解してくれるような方だったので、正直風向き的にボムホールの浅いところの流れと満潮時刻が講習と重なっていて、浅い水深の気持ちの準備的な講習時間は取れず、しかし飲み込みの速さと水中の落ちつきぶりで全てカバーしてくれた。
guam405bintro4guam405bintro6高低差を付けて泳いでも対応するし、ご主人が昔サイパンで講習を受けて以来トラウマでダイビングをしていないという話で今回は子供たちのお守りでホテル待機だということだが、これは完全にご主人置いて行かれるパターンという予感がする。
桟橋と海とでうまくタイミングが合い偶然のご対面も果た
guam405bintro5し、無理だと思った水中展望塔の窓越しのご対面にも成功。
可愛らしい子供たちだった。

そして今月初のカメラはボート体験ダイビングツアーだ。
昨年も来てくれた以前グアムでイルカウォッチングガイドをしていた女性のファミリー。
上手にダイビングしていたけど、ボートダイビングは初めて。
guam405bintro7両親はダイバーなので放置していいが、ご主人はちょっと信用できなそうだ。
カメを近くで見てみんなで記念撮影しているのに、わずかにフィンが写ったと思ったらそのままフレームアウトで水面に浮いて行ってしまった。
しかしこっちもカメラをみんなに向けていることが優先してるし、浅いからいいか。(笑)
guam405bintro8連れ戻しに行くまで戻って来ることはなかった・・・。

ここまで自由に泳げてしまうと、このまま体験ダイビングで潜り続ける気もするが、是非ともダイバーになってもらいたい。
横須賀の基地でダイビングの講習も受けることができるらしいので、そこで認定だけしてもらったらいいと思う。ダイビングスキルはグアムで遊んでいればどんどん上げていけるが、ダイビングの危険性と言うか安全性についてはじっくり理解するべきだろう。
グアムで自分が講習すれば学科講習は適当になってしまうだろうから。
日本人の場合とそれ以外の国の人では何と言えば良いだろう。
guam405bintro9捉え方が異なっているので、適当でもわかる日本人と徹底的に言わないとわかってもらえないのとあると思われる。
彼らは日本人のようだったりするが、教育がアメリカなのだ。

夜は10年何年ぶりの人から20数年ぶりの人まで11名が集まってステーキにビールだったが、久しぶりに楽しかった。
誰だかわからないほど成長した子供もいるし、子供の頃のままの反応の子もいたが、これは自分の頭もヒゲも白くなるわけだ。



guam3405bintro3  

March 31, 2018

グアムのダイビングショップ物語2289―今日のグアムと、3月おしまい

guam329intro13月もおしまい。
4月に入る来週は例年どおりの日本行きが待っているのだが、残念ながら今年のマリンダイビングフェアにグアムブースは出展しない。
数年前に一度出展を取りやめ、ミスグアムの派遣も終わったことがあるが何とか復活していたのが再び出展中止だ。
もしかするとこのままグアムブースは二度と出展することがないよ
guam329intro2うな気もするが、正直集客効果が高いわけではないのでよくぞ今まで出展を続けていたものだと感心もする。
しかし目に見えない効果というか、出展し続けていることでいつも通りに営業しているグアムという安心感のようなものもあるのだ。
そのまま出展が終わった場合、もうあそこはダメだなとか無(亡)くなってしまったか?という噂も広がる可能性がある。
だから今回もマリンダイビングフェアに顔は出しておく。
guam329intro4元気で頑張っているよ!って見せるために。(笑)

そういうわけで今年の春休み最後の自分が担当する体験ダイビングになるかもしれない。
午前中に全員2ダイブというツアーで満員になっていたので、1ダイブのツアーを申し込んでる二人の女子に午後に変更してもらえないだろうかとお願いしてみた。
guam329intro5その代わりこの2人だけでバッチリ案内したいと思う。

一人は経験者。
だけど未経験者がGoProを腕に付けている。
手に持っているよりはいいけど果たしてこれを使うチャンスは来るのか?
思った通り、最初は泳ぐことに精一杯なので腕に付いているGoProは明後日の方に向いちゃってるが関係ないのだ。

後半だいぶ泳ぎが安定して来たので、そのGoProの角度を直してあげて撮影してごらんってサイン。
guam329intro6もうちょっとした隙があるとカメラを向ける。
カメラを向いて欲しいので相手のことを突っつく。
もう全てがインスタ映えだ!
よかったGoProの存在を前半忘れてもらっていて。(笑)

他のチームも午後からほとんどダイビングに来ていなく、魚たちには大人気になったし、こんな珍しいウミウシが砂地を横断して来る
guam329intro3し、こりゃあ最高だ。
途中アクシデントで胸をムギュって握ってしまうトラブルはあったが、まあそれも笑い話ということになったし、怒濤の3月がようやく終了してくのだ。  

March 30, 2018

グアムのダイビングショップ物語2288―今日のグアムと、ベッドかもしれないよ

guam329tanker4連日の強風だが、風の方向が変わって来てとうとう外洋が荒れ始める方向になってしまった。
我々にはなんら問題はないのだ。
「アメリカンタンカーでいいか?」
期待していなかったレックなのでファーストダイブで潜ることは少ないし、ダイバーはそれぞれちゃんとした水中ライトを持っている。
それならば後、中央、前の一般ダイバーがあまり行かないところを探検してみよう。

ここも水面は荒れているが透明度はグッドだ。
guam329tanker1ワイドレンズを付けずにここまでタンカーの形を写すことができれば上等な透明度だ。
応急操舵装置の部屋への降り方がよくわからないが、ここには常に人が出入りでき室内には空間があったと思う。応急操舵用の大きなレバーを動かすのに使ったと思われる大きい滑車が左右に2つずつ合計4つある。
この滑車にワイヤーなどを通して応急的に操舵する訳だから液体が入っていたわけがないと考える。

guam329tanker2中央の巨大な部屋には階段もあるので人が降りて来る必要性があったのだと思うが、電灯には防水の工夫がされている。
また特に細かいパイプやワイヤーなどは張り巡らされていない。
今はアメリカンタンカーと呼ばれているがオイルタンカーとして燃料満載してハワイからグアムに曳航されて来たことを考えれば、この巨大な部屋には燃料が満たされていただろうと思う。
階段と照明の必要性があったのかどうかだが間違いなく液体が入っていた部屋のはずだ。

guam329tanker3前方の部屋には、ようやくレックっぽい景色と言える棚の痕跡がある。
今はなくなっていることを考えれば棚が木製であり、残されているのは朽ち果ててしまった棚板を載せていたと思われる支え部分だ。
人が寝泊まりしていたとは思えない作りではあるが、もしかするとこの棚は物置ではなくベッドだったりしてと考えるとまた面白くなってくる。
だからこの部屋はまたよく見に行かないとなのだ。  
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March 29, 2018

グアムのダイビングショップ物語2287―今日のグアムと、強風のお蔭か透明度がいい

guam328jake1今までで一番いい透明度かもしれない。
アプラハーバー内がバシャバシャになっているほどの強風が吹いている。
先日なんかは風がフィンガーリーフに向かって吹いているっていうのにフィンガーリーフにボートを向けたキャプテンがいてブイのロープをシャフトに巻き付けていたけど、アップウェリングっていうのをオープンウォーター講習で習っていればそう言う場合はアプラ
guam328jake2ハーバーの北側のポイントの透明度が増しているはずなんであるとわかるのだ。
そういう理屈で風が東から吹いてくれているので強風で面倒くさいボートダイビングではあるのだが透明度には有利に働いてくれてるということだ。

ここまで全景がはっきりしてる零式水偵を上から見ると、明らかに
guam328jake3ひっくり返っていた機体の後部を持ち上げて元の形に戻そうとしたら機体の中程で折れてしまい、中央の偵察員の座席のところから後方部分だけが仰向けに戻って機体前部の上に乗っかっちゃってることがわかる。
この下には操縦席があるはずなのだ。

操縦席の前方。
エンジンの付根部分はまあまあ見える位置に出ていて、消炎効果を持つ排気管や冷却空気取り入れ口を確認することができるがエンジン類は一切残されていない。

guam328jaje6博物館で偶然見つけた写真が大きな手がかりとなって来る。
給油用の桟橋が入り組んでいる中の岸のすぐ近くの水面から、今沈んでいるのとほぼ同じ恰好で零式水偵の大きな2本のフロートが突き出ている。
戦後この場所の整理をするときに邪魔になった零式水偵を沖に引っ張って行って今の位置に沈めたと推測すると、廃棄する前に外しておきたいパーツなどがあるだろう。
例えばエンジンだとかコックピット内の計器類とか。
それが今レックダイビングとして見に行くと、綺麗さっぱりと色々持ち去られてしまった零式水偵という印象になっているのだろう。

guam328jake5もう一つこの写真から推測できるものがあると思う。
このポイントを東寄りに流して行くいくつも転がっているゴム製の物体。
ゼネラルタイヤという文字が見えるが、中が空洞になっていて、さらにその空洞を支えてるゴムパーツが波形となっていて、このまま重さだとか衝撃を吸収するためのクッションの役割を果たしていると思う。
この上の水面に作られていた給油用の桟橋。
その桟橋の材料の一つではないだろうかと考えれば、この謎のゴムの物体が転がっていることの答えではないだろうか。
ただ戦中にアメリカ製と思われるこのパーツを使うことができたのかが疑問だ。

guam328jae4今回航空機に詳しいレックダイバーと潜ったので、何やら水底からつまみ出して見ていたが、フラップの一部だと思うと言う。
砂煙が激しく写真は撮れなかったが、なるほどあの骨組はそういうものであるのか。
プラモデルを作るとパーツがよくわかるらしいのだ。
自分もプラモデル作ってみようかなと思い始めた。  
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March 28, 2018

グアムのダイビングショップ物語2286―今日のグアムと、風の影響考えないとだ

guam328kidu1一ヶ月ぶりだろうか。
久しぶりの木津川丸だ。
正直ちゃんと見つかるかどうかが心配なので、辿り着けば最高に楽しいのだが見つけるまでが相当に不安。

最初の頃は自分が先に飛び込んで見つけてからフロートを上げる。
そのフロートのラインを頼りにみんなダイバーたちが降りて来るようにしていたが、これが一発で見付けられる可能性半分もない。
水深20mにあるはずの木津川丸のマストの頂上。
しかしこれは船という大きい目標物ではなく、直径50僂曚匹離泪好箸里討辰擇鵑鮓つける作業となり、そんなピンポイントの山立ては無理だ。
GPSだって無理だと思う。
その結果水深30mまで降りて見つけられなければ一度浮上のやり直し。
そんな身体に悪そうな方法を続けてしばらくして、ダイバーの身体は思ったほど垂直には沈んでいないことが判明した。

guam327kidu2そこでなるべく細いロープに最小限の重りを付けて投げ込むことを始めたのだ。
重りが重いほど正確さは増すと思うが、言っておくがその重りは捨てては来ない。自分で持って帰って来ることを考えれば2圓妥当だろうと思う。
そのための細いロープが自分がBCDの裾にいつもぶら下げてダイビングしている黄色いロープなのだ。
いつでも木津川丸行けるし、解けばレックダイビングのガイドロープにも使えるし、ドリフトダイビングのフロートを上げるときにも使えるという一石三丁の優れものなのである。

最初に試したとき、一投目で木津川丸のデッキに乗った!
しかもマストのすぐ脇なので下まで行く前にマストが見えたほどの正確さであった。
さて今回は・・・。
ここのところ風が強いのだ。
台風3号の影響でアプラハーバーでも波がバシャバシャしている。
お前が自分でボートをそこに持って行けとばかりにフレビンが操縦を変った。
こいつ責任取る気持ちないな。(笑)

guam327kidu3よしここだ!
ゴー!
フレビンが2圓僚鼎蠅付いたロープを投げる。
自分的には確実にデッキに乗っているはずと思って潜降していくのだが、水深30mになっちゃったぜ。
でも薄らと向こうに陰のようなものが見える気がするので浅く戻りながら、ロープを持ち上げてそっち方向に泳いでみる。

1guam327kidu45mほどずれていたようだ。
おそらく自分のロープが編んであるため、それを解きながら2圓僚鼎蠅沈んで行く内に水面に浮かんでるフロートが風に押されてずれて行った誤差だと思われるので、次回は風があるとしたらその影響を考えようと反省することができた。
もう木津川丸の船の中央のマスト付近の位置は外すことはない。
山立ての距離が短くはっきり見えているので。
問題は細い船体の横方向のズレである。

今日もレックダイバーたちが興味深く大砲を眺めていれくれていた。
面白いねえ!
このひと言が苦労して辿り着く木津川丸であっても、だからこそまたここに案内したくなるレックポイントであるのだ。  
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March 27, 2018

グアムのダイビングショップ物語2285―今日のグアムと、東海丸の爆雷と投下装置

guam327bakurai5確認!
東海丸の爆雷という写真を見つけ、東海丸が1943年1月11日に東海丸が横須賀を出港するときに爆雷を積み込んだという記録を見つけた。
今日は自分の目で爆雷の確認をしたい。

何回もそこを通っているし何枚も写真を撮ってはいるのだが、爆雷があるという前提で見ていない。
まさか徴用され運搬船となった商船に爆雷が積んであるとも思っていなかったため、今まで全くそれに気が付いていない。
サイズもグアムで売っているオイル缶とかバケツ。
ギャブギャブ2で餌を入れて逆さにぶら下げている白いバケツとほぼ同じ大きさに見えているので、全くそれを爆雷とは思うこともなかったが、爆雷と言われると確かにそれは爆雷のようであった。

guam327bakurai3位置は東海丸の後部デッキ。
爆雷を船の前方で落とすやつはいない。
そしてそういう目で見てみると「ん!?」
爆雷を落とす投下装置のようなものまで見えて来た。



guam327bakurai 1この後部部分のTの字型にある一段高いところはドッキングデッキと呼ばれる接岸作業でロープなどを扱うためのデッキだ。
そしてこのT字の下の棒の先端が東海丸の最後部となり、その下には海に浮かんでいる頃には東海丸という船名が書かれていた部分。
その両脇の左右には切れ込みが入っているが、これはずうっとロープを岸壁と結びつけるための凹みだと思っていたのだが、よく見ると平ではない。
guam327bakurai2爆雷の存在がわかった上で見てみれば、これは爆雷をセットして置く台だろうと思える。
おそらく手動で動かすのだろうが、「投下!」と言われたらレバーを引くなりして台の上の爆雷を後方に放り出す役目をするように見える。
たぶん間違いないと思う。

guam327bakurai4爆雷がある部屋にはだいぶ堆積物が覆い被さっているが、パッと見て3つほどの爆雷しか見えない。
1月11日に横須賀を出港してサイパンに寄ってからグアムに到着しているが、その間に潜水艦との戦いがあったのだろうか。
何発かは潜水艦に向けて攻撃したのだろうか。
たった3つの爆雷を積み込んだとも思えないし、そんな3つのことで記録に残しているとも思えない。

しかし東海丸にさえ積み込まれて使われていた爆雷。
こうなってくるとほぼ全ての商船に積み込まれていたのだろうと思うし、確かに船首に備えられた大砲よりも敵潜水艦への攻撃には有効であるように思う。
命中することはあまりなかったのだろうが、潜水艦側からすれば大砲よりもずうっと嫌だろうと思う。  
Posted by aquaacademy at 15:27Comments(0)レック

March 26, 2018

グアムのダイビングショップ物語2284―今日のグアムと、まだまだ出て来る東海丸の発見

すっかり今月は卒業旅行チームやファミリーチームに囲まれて体験ダイビングに専念していた感じがあるが、3月末ともなってくれば新入社員としての準備も始まるだろうし、ダイバーだって南の島でダイビングしたいっていうシーズンだ。
そこで久しぶりのレックスペシャルだ。

テックダイビングという新しいダイビングを盛上げようとすれば、深いところへダイビングに行く大義名分というものが必要になって来るようで、テック=レックのような方程式が生まれつつある。
そんな時代背景でここのところのレックへのクローズアップであると思っているが、どんな理由にしてもレックダイビングに光が当てられて行くことに変わりないし、それは大歓迎だ。

レックダイビングと言うからには何かしら沈んでいなければならないわけだが、ただのガレキではダメだ。
そのレックを探っていくと掘り返されて出て来る歴史的な事実など。これが絶対的にそのレックの背景にあり、その歴史とともに楽しむものがレックダイビングだ。
その条件でいくと残念ながら日本の海にはあまりレックがない。
だからPADIジャパンがレックを取り上げようとしたときにパラオのレックに注目したのだろう。
テックとレックとセットでダイビング業界を盛上げようとしているのだ。
つまりレックダイビングを楽しむことができるグアムにもこれはチャンスであると考えている。

レックと言えばそれは確実にチュウック(トラック)がまずは頭に浮かんで来る。
50ものレックがあれば通っても通っても潜りきれる数ではないし、レックは一つにちょっと集中して探検しないとその歴史的背景まで辿り着くことができない。
それは潜りきれる数のレックではないのだ。(羨ましい!)

今まで完全に魚や大物と言う生物で売って来たパラオにもそろそろ陰りが見えて来ているのか。
テックのためなのか、パラオのレックが注目されようとしている。
トラックに続いてパラオも大規模な空襲を受けているので、チュウックほどの数ではないし、ポイントの整備も完全ではないだろうがいくつも楽しそうなレックがある。

そんな大御所的なレックの宝庫ではないが、グアムもなかなかいけるレックがいくつかあるのだ。
艦船としては代表的な東海丸、木津川丸、日祐丸、コモラン、アメリカンタンカー。
全てのレックがいつでもダイビングに行くことができるわけではないが、5つも艦船が沈んでいるのだ。
航空機は九九式艦上爆撃機に零式水上偵察機と2つ。
その他にセメントバージと呼ばれるアメリカンタンカーの姉妹船や上陸用舟艇などのおまけ的だが浅い深度で楽しめるレックもある。
サイパンにも羨ましいグアムにはない航空機のレックがあるが、侵入して行くというレックが残念ながらないので、そうなって来るとグアムに行かなくちゃというレックの魅力を出すことができるのではないかと思うのだ。

今日はそんなグアムのレックの中でも最も長く詳しく調査をして来ている東海丸の一般的なダイバーでは案内することが難しいエリアに行ってみる。
東海丸には潜っても潜っても謎が尽きない興味深さがあるのだ。

guam326tokai1まずはまだインストラクターしか案内したことがないエンジンの奥。
最初見たとき発電機と思ったが、横浜の氷川丸と比べるとどうやらエンジンオイル用のポンプであると思われるこれだ。
ちゃんと左右にある。

さっき一般的なダイバーを案内することが難しいと言ったが、まず
guam326tokai2絶対的に案内できないのはライトを持っていないダイバーである。
それとアクアアカデミーではテックまでは言わないがエンリッチドエアスペシャルティーと当然それ用のダイブコンピューターを持っていさえすれば十分にレックダイビングを楽しむことができる。
それにしても最近のライトの性能向上の著しいこと!
これはエンジンオープニングの船首寄りの壁で、高さはエンジンのヘッドの部分なので、アッパーデッキの直ぐ下であるセカンドデッキであるが、こんなに一目で壁の大部分を見ることができるなんてちょっと前なら考えられないことだ。
これくらい見えたら当時の壁を思い浮かべることができるだろう。

guam36tokai3その辺りから真上を見上げると、薄らと見える青い光は煙突からのものだ。
写真の右に白い太いパイプが見えているが、これがエンジンの排気管で、このまま上の煙突へと繋がっているのだ。

まだ何カ所に男子用の小便用トイレがあったのかが正確に把握できていないが、やはり建物と同じようにトイレがあったらその同じよ
guam326tokai4うな場所の一つ下のデッキにもあるのだろうとは考えている。
その方が下水管などの工事が簡単になるわけだから。
ここの写真は初めて撮影したが、厨房の左舷側であり、消火用の二酸化炭素ボンベがある部屋の隣にあると思われたトイレの存在がこれで確認できたことになる。

東海丸のメインの消火用二酸化炭素ボンベを設置してある部屋はけ
guam326tokai5っこう大きい。
残念ながらその部屋への進入路はないため壊れた壁の穴から覗き込むくらいしかできない。
その他に6本の二酸化炭素ボンベを連結している消火用のものが厨房の隣にあるということは、これは厨房用の消火のためであると考えているのだが、メインの消火用二酸化炭素はシルクルーム用ではないだろうか。
客室の消火に二酸化炭素は使わないに違いない。
そう考えると、以前はシルクを湿気などから守るための空調ではないかと考えていたこの天井のパイプは二酸化炭素用のパイプではないかということになる。
色々考え、また新しい情報から考え直して行き、そして真実が発見されて行く。
この過程さえも楽しめるのがレックの魅力なのだ。

guam326tokai6船外へ出て浮上する準備を始める。
ここにも新たな発見があった。
よくぞこんなに規則正しくきちんとロープを巻いていったものだと思っているだけでも、このロープを巻き付けた几帳面な人の姿が想像できていたのだが・・・。
よく見て欲しい。
右へとロープが伸ばされている。
それも以前からわかっていたのだが、このロープの先端はぶらんとそこらに投げ出されているわけではなかった。
ロープの先端はなんと船外へと伸びていたのだ。
ということはこのロープは何かと東海丸を結びつけていたということだ。
ロープの先は切れて東海丸の船体にピタリと張り付いてしまっているため、外を泳いでこの部分を見ても誰もロープとは思っていない。
しかし当時は何かが結びつけられていた。
それは何だ?
船か?!
東海丸から乗り移って上陸するための小型ボートか、警備艇がこの先には結びつけられていたのではないのか・・・。
新しい発見から謎が生まれたのだ。
  
Posted by aquaacademy at 16:38Comments(0)レック