July 16, 2018

グアムのダイビングショップ物語2353―今日のグアムと、零式水上偵察機の武装装備

guam716jake7今回6回のレックダイビングのリクエストがあったわけだがこの零式水上偵察機が最後となる。
東海丸は2回重なる事になったが、東海丸の大きさと内容の濃さからして全く足りていない。
まだまだエンジンオープニングにも船首側にも、そして艦橋部分でも見どころは残っている。
残っていると言うよりもまだまだ自分でさえも行っていないところがあるわけで何回潜ろうとも足りないと言えるのだ。

東海丸、木津川丸、日祐丸、九九式艦上爆撃機、零式水上偵察機。
全て日本の太平洋戦争中にグアムの海に沈んだ艦船と航空機である。
この他、アメリカとドイツが第一次世界大戦で敵対したと同時にグアムの海に沈んだコモラン号などもありグアムのレックもなかなか捨てたもんではないと思われる。
特にコモラン号と東海丸は、大きな世界大戦を隔てて、ドイツと日本という違う国の船が接するように沈んでいて、二つの船を同時に触れることができるというダイビングポイントは世界でここグアムにしかないと言われている。

大きな艦船と違い航空機のレックは二式大艇のような大きさがあれば別であるが一回のダイビングで大まかには全て見ることができるが、マニアックに見るダイバーには1ダイブでは時間が足りないということもあるに違いない。
しかし深度という問題が出て来るため後半は浅めの方向に移動せざるを得ないことにはなる。

今回ここに初めて潜るダイバーがいるので、後半によく行く方向のハーレーダビッドソンのバイクのフレームが残っているところを目指すことにするという予定を立ててみた。

自分も何か新たなものがないかを探す事にした。
航空機のレックの場合、ダイバーたちは完全にバディシステムを解いているに違いない。
どのポイントでもだいたい見回せば見える範囲にダイバーたちは留まっていることもあるが、それぞれがそれぞれの視点でレックを極めているため、その動きは本能のままだ。
コックピットなど人気のある箇所にはダイバーが重なっていることもあるがたいていのダイバーはどこかに首を突っ込んでいたり、中には翼の表面を見つめているダイバーもいて、そんな姿はレックダイバー以外には到底理解してもらえないだろう。
そんなダイビングが安全であるとは言い切れないのはわかっているのだが、例えば零式水上偵察機で言えば直径10mもない小さな範囲での観察であり、それぞれが明るいライトを点灯しているのでそれぞれの位置はとてもわかりやすく危険であるとも言い切れないとは思っているのだ。

guam716jake13つある内の2つの座席が外されてしまっていて現在確認できるのは真ん中に着席する偵察員用のものだけと言ったようにコックピットの中は空っぽに近いが、その後方部分には唯一の攻撃用武装となる7.7亠―討鬟札奪箸靴萄険上下に動く敵機に対して狙いを定める旋回銃架というレール状のものと機銃を装着する受け具が残っている。
そしてその後方にある何かを掛けるような金具があるが、おそらく7.7亠―突僂離疋薀犒燭涼徳劼鬟札奪箸靴討△辰燭發里隼廚錣譴襦
この写真に見えるように左舷に3つ、右舷に2つの弾倉がセットされていたはずで機銃に装填されていた弾倉を含め合計6つの装備となる。

guam716jake2胴体右舷側のコックピット後方に出っ張る棒状のものとその付根だけが残っているのが見える。
これはレーダー(電探)の支柱であり、胴体左右と右主翼の前淵にレーダーが付けられ3方向の監視をすることができた。
基本的に零式水上偵察機は11型しか生産されていないが、この電探を装備したものを11型甲と呼ぶという説明もあり、となるとこの機体がそれということになるのだが、同じく排気管に夜間偵察時でも発見されないように消炎装置を装着したものを11型乙と呼ぶとも書いてある。
グアムに沈むこの機体にはその消炎マフラーも残されているのだ。

guam716jake5guam716jake6胴体下に装着された2本の大きなフロート。
このフロートの後部にはフロートの大きさからしたらかなり小さいと思われるラダー(舵)が付けられている。
イメージ的にはiPadの分厚く
guam716jake3したものが付いている感じだ。
このラダーにより水面滑走時に左右のコントロールをするわけだが、その操作は操縦員の足元のラダーペダルで行う。
もちろんラダーペダルは垂直尾翼後端のラダーを操作するものであるので、連動してどちらも動いていると言うことになる。
空を飛んでいる零式水上偵察機に付いているフロートの後ろ端にあるiPadみたいなものがペコペコ動いていると想像するとやけに可愛いと言える。

ラダーペダルを左右に踏み込むとフロートの中を通された2本のワイヤーがラダーに繋がっていて操作できるというわけだ。
また垂直尾翼後端のラダーは木製で、不時着水などの衝撃によりほぼ必ず外れて消失してしまう。
写真に出っ張って見えるパーツが垂直尾翼の後端で、それより後方の平らな部分が木製のラダー位置ということになる。

今回予定したコースにしてよかった。
ハーレーダビッドソンのフレームにまたがってもらって記念写真をと思ったわけだが、思わぬものを発見した。
大発見かもしれない。
まだ調べが終わっていないので正式にはもうちょっと後のブログに書かせてもらうが、別の航空機のフロートを発見したのだ。
岩の下につぶされていて部分的にしか見えていなため今まで気が付かなかったと思うが、全長はフロートの一番前まで見ていないもののそれでも見つけた瞬間は二式大艇の胴体かと思った。
それほどに零式水上偵察機のものと比べて長い。

しかし二式大艇にしては細く、艇の胴体には思えない。
そして後端にはラダーが残っていたのだ。
さすがに零式水上偵察機のようにラダーは手で動かす事ができないが、大きさは同じくらいに思える。
フロートは長いのにラダーは同じくらいの大きさ。
そんな長いフロートを持つということは零式水上偵察機のように左右2本のフロートで支えるのではなく真ん中一本で支えるフロートではないか・・・。
現在はそれぐらいの推測でしかないが、これもいずれきっとその正体を明かす事ができるのだろうと思う。
これがレックダイバーの楽しみだ。  

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July 15, 2018

グアムのダイビングショップ物語2352―今日のグアムと、あの部屋は諦めだ

guam715tokai3次はいつ来る事が出来るか・・・なんて言っておきながら、もう来ちゃった。
前回の入口の感じからはみんなと一緒に来るのは無理だろうなって思ってはいたのだが・・・。
昨晩ビールを飲みながらのレック談義で、今日あの部屋に試しに一人で入らせてもらうことの許可をいただいていたので、ささっと一人入ってみたのだが、階段の付根が床から外れてしまっている分、より下へ降りるための穴を小さくしてしまっている。
東海丸が大海原を揺れながら航行していることを考えれば当たり前なのだが、階段には手摺が付いていたのだ。
この二つのことが思ったよりもさらに入口を小さくしていて、通れないこともないだろうと思われる穴は階段のステップにお腹をこする位手前に寄って行ったにも関わらず3回も背中のタンクのどこかをぶつけてしまった。

guam715tokai1その事はかなり自分にはショックで、上がるときにも3回くらいぶつけて上がって行くのだろうということと、これではお客様ダイバーと一緒は無理であるという結論になってしまうからだ。
そもそも東海丸の航海中にこの部屋に入って来ることはほぼないだろう。
だからこの部屋の入口は全く目立っていない。
どの部分もだいたい左舷からも右舷からだって出入りできる左右対称の形を取っているものだが、この入口は右舷にしかないのだ。
また中に入ってみると丸窓から光が入って来てはいるが、ダイバーの出入りはここしかあり得ないし、思ってたよりも人が動くスペースも小さい。

guam715tokai4そんな状況でこの部屋から出て行くことができるのは、この階段だけなのだ。
そう思うとちょっとビビった自分はそろそろ出る事にする。
外にいるダイバーたちだってそろそろ爆雷に見飽きた頃だろうし。
そんな、たった一人だけ、レックに入り慣れているインストラクターが動いただけなのに入口を振り返ってみると、こんな有様であり、ここを次のダイバーが通って来ると思うとちょっと心配になるのだ。

guam715tokai2そして今日は爆雷の寸法を計測してもらった。
直径は65僂如⊃管は9僂世修Δ澄
今度爆雷の種別を調べる時の参考にさせていただこう。
それにしても何個の爆雷が積み込まれたのだろう。
日祐丸の記録では何百の単位で積み込まれていたみたいだが、やはりその数は特殊ではないだろうか。
一般的に特設運搬船としたら何十個は最低でも積み込むのではないだろうかとは思うので、ここに確認できる4つというのは少な過ぎる数だろう。

guam715tokai5爆雷を見た後は前回とはちょっと違うところを通って行こう。
この部屋を覗くのは2回目である。
前回は2−3年前だろうか、もっと前かもしれない。
ここは特別室であることがわかっている。
徴用された後は何を積み込んでいたかわからないが、小さい部屋であるがしっかり壁が残っているし扉も閉じられたままである。
壁の隙間から覗くと、床は木ではないしタイルでもなさそうだ。
guam715tokai6そして壁には何かロープでも通して積荷を固定しそうな輪が壁に残されている。

横浜の氷川丸の記録に影響されて考えると、自分としては金魚でも積み込んだのではないだろうかと想像しているのだがどおだろう。
そう考えると床の材質や壁の輪のの役割がぴたっと来るのだ。

guam715tokai7ナイトロックスで潜るとまだまだこんな水深でのんびりすることができるのだ。
ちょっと昔なら考えられない光景だ。
一人じゃなく二人のダイバー。
それぞれのダイバーが明るい高性能なライトを持っている。
しかも女子ダイバーでレギュレーターが白だぞ!
レックも一般的になってきたということを信じたい。
guam715tokai8
さらにそのまま突っ込んでエンジンオープニングだ。
ここでも25mほどの深度なので浅いとは言えないが、船尾の爆雷や特別室を見てセカンドデッキを泳いで来て潜水時間は20分経っているというのに、まだエンジンを見ることができるのは凄い。
そしてエンジンオープニングをそろそろ上に上り始めよう。
真っ暗な部屋の突き当たりを上に顔を向けて見ることができる
guam715tokai9この景色。
たとえ透明度が少しくらい悪かったとしても、この景色を美しいと思うのは自分だけだろうか。
  
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July 14, 2018

グアムのダイビングショップ物語2351―今日のグアムと、日祐丸

guam714nichiyu11日祐丸は1938年12月28日に竣工した3990トンの船。
1940年12月3日に特別敷設艦として徴用。
佐世保から高雄方面で任務に就いていたが、1942年7月20日に特設運送船となり艤装替えされると機密任務に就くことになる。
1943年2月23日、呉からどこかに出航するが3月2日アメリカ潜水艦ハリバットの雷撃により損傷。
グアムで修理を受け7月16日には呉に戻っている。
そして7月25日には再び呉からどこかに出航の後の行動は不明。
いきなりほぼ1年後に記録が出て来るが、それまでどこで何をしていたのかはわからない。
1944年6月12日、グアムで空爆を受け損傷。
1944年6月25日には砲撃により損傷。
1944年7月13日に沈没。

アプラハーバーの桟橋に着岸中に攻撃されているようで旧日本海軍の桟橋横に沈没していると思われるのだが、記録上ではタロフォフォ湾に空爆で沈没したことになっている。
現在タロフォフォ湾には新玉丸が沈んでいることは確認されている。

guam714nichiyu6guam714nichiyu7空爆の規模がおそらく想像以上なようで、アッパーデッキから上の部分はほぼ形をとどめてはいない。
船首でさえも尖った形は残されていなく、船首からアンカーのチェーンを卸す丸い穴は確認できるが船首は特定するのが難しい。
また船首のアッパーデッキのすぐ下にはロープが束ねられているのも確認できる。

guam714nichiyu1これはおそらくアッパーデッキ、セカンドデッキ、サードデッキが一気に押しつぶされている状態と思われる。
グアムに入ってから桟橋から離れる事なく空爆や砲撃を受けているため、船上には遺留品が全く見られない。
きっとこの潰れたデッキの間には何もないのだろうと思う。
ところどころに原型を留めている部分もあり、その形からおよその日祐丸のどの辺りなのかを推測しながらのダイビングだ。

guam714nichiyu5これだけ船縁が傾いているのであれば、これは船首近くの左舷側ということだろうが、徴用された後、ここには大砲が艤装されていたはずなのだ。
もう一門、船尾にも備えられていた大砲から考えると、機密行動をとっていたことと合わせて何か特殊な任務に就いていた日祐丸なのかもしれない。

guam714nichiyu2guam714nichiyu8この他階段や梯子が確認できるが、東海丸と少しデザインが異なっていてアッパーデッキが窪んでいる形をしている部分もあり、この階段はそんなちょっとしたデッキ上の上り下がりのためのものではな
guam714nichiyu9guam714nichiyu3いだろうか。

そして最も確実に正体がわかる部分がこれだろう。
位置的におそらく後方デッキのマストだろう。
そのまま自らのデッキ上に落ちていることは空爆の激しさを物語るのではないだろうか。
柱が折れずにそのままデッキごと下に落ち込んで、そのまま崩れるように真下に倒れているようだ。
船体自体も倒れることなく、そのまま水深30mほどの水底に船底を付けて沈んでいる。

guam714nichiyu4そんな正にガレキのようなデッキ上を泳いでいたら、こんなカラフルなものが目に入ってしまった。
チータウミウシだろうと思うが、こいつは相当にレック好きのようだ。
東海丸にもアメリカンタンカーにも棲み付いていると思う。

自分にしても日祐丸に潜るのは二回目であるが、次回いつ来る事ができるかは未定だ。
全体をダイビングしてみて初めて分かったが、ここはあまり堂々と潜っていいところではないようだ。
内緒でこっそりと来なくてはいけないのだと思う。
ほとんどが崩れているので本当に写真を撮っても絵になるものはないだろう。

guam714nichiyu10ざっと見た限りでちょっとだけ気になるのはこの箱だろう。
たぶん日祐丸の遺留品だと思うが、もしかすると全く別のところからのものかもしれない。  
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July 13, 2018

グアムのダイビングショップ物語2350―今日のグアムと、木津川丸にコーヒーカップ

guam713kidu1久しぶりでちょっと緊張する瞬間だ。
木津川丸。
微妙に航路内に入っていて目印のブイはない。
最も浅い部分はマストだが、それでも水深20mあり、直径70僂曚匹梁世っ貍のものが2本垂直に突き立っているだけなわけで、これは広い海の中では点でしかない。
そのマストを少しずれてしまえば水深30m付近の艦橋部分に降りるまで何も見えてはいないのだ。
今日の透明度は12〜13mほどだろうか。
とてもじゃないが水面からは見えていない。

緊張の一瞬。
3圓僚鼎蠅45mのラインを結びつけて投げ込む。
たとえ重りが砂地の水底に落ちたとしてもラインの先端に付いているシグナルフロートは立ち上がらないので、果たして木津川丸に載っているのか、位置がずれて水底に落ちてしまったのかはわからないが、そのラインに沿って、そこに木津川丸があると信じて降りて行く。

よっしゃー!
ここのところ連続でこんな感じのところに命中している。
山立て的にはもうマストの南北のラインは外さなくなっている。
南北のラインの山立てがシンプルだしはっきり見える距離なので、こちらは外す訳がないのだ。
問題は東西のラインで、度付きのサングラスをしていても自分の視力の限界を少し越えている距離に山立ての目印があり、はっきり見えている距離からその目印を狂わせないように直進して南北の山立て目印と重なるところまで動くのだ。
だからぼんやりとした目印を、ここで正しいはずであると信じて重りを投げ込むのだ。

そして45mのラインを編み込みながら水深20mのマストの頂上付近に結びつけると、水面のシグナルフロートは直立するはずであり、そのまっすぐに立ち上がったシグナルフロートを合図にダイバーは降りて来る手筈なのである。

guam713kidu4guam713kidu3東海丸にも残されているが、木津川丸にも電球用に電気を送るためのワイヤーが丸く束ねられて壁にかけられているところがある。
その当時はこんなものだったのだろう。
お店に売っているようなワイヤーを束ねた周りをきれいに覆って一本のワイヤーに見えるようにしたものはなくて、いつも何とか工夫してワイヤーを接続したりして電気がちゃんと流れるように作っていたのだろう。
おそらくこんなワイヤーでも貴重品だったに違いない。
そんなこの部屋の目的は全くわかっていない。
何回も通って、外からではなくこの部屋の中に侵入したりしているうちにわかってくるのだろうと思う。
まずは写真を撮って、その中に写っているものをよく見て推測して行く。
深い所に沈んでいる木津川丸の探索は現在そんな状態である。

guam713kidu2誰かがどこからか見つけて持ち出して来たのだろう。
コーヒーカップが転がっていた。
ダイバーが写真を撮るので、カップを持ち上げたりはしていない。
だから何かロゴマークのようなものが残っているかどうかは今回は未確認であるが、旧日本海軍に属している方達が戦時中にコーヒーをすするだろうか。
そもそもコーヒーはインスタントがあったのか?
どう考えても似合わない光景となると思うのだが。
それもこれから調べる楽しみということなのだ。

guam713kidu7アッパーデッキの高さの探索はこの辺にして船首の大砲に移動する。
毎回見る部分ではあるが、船首に載せられている大砲は少しだけ深度が浅くなっているので、どうしても訪れる場所となる。
それに大砲と弾というのは他の船には残っていないことが多く、写真的にもやはり訪れたくなる場所だ。
今回ダイバーがメジャーで弾の直径を計測していた。
「やっぱり70个覆い覆◆
弾のサイズから大砲を特定しようとしているわけであるが、木津川丸の記録には装備された大砲の種類が記載されている。
それによると、靖国神社の遊就館に展示してある四十口径三年式八センチ高角砲同じものとなっているのだ。

guam713kidu6guam713kidu5そして箱の中の弾が1発だけ抜かれている。
果たしてこれは撃ったのだろうか。
敵潜水艦に攻撃したとすれば1発だけということはないだろうと思うので、まだ沈没して時間が経っていない頃に誰かが引き抜いて持ち帰ったのか。
そんな箱から消えている一発の弾というのも想像をかき立てられる楽しい要素ではあるのだ。
  
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July 12, 2018

グアムのダイビングショップ物語2349―今日のグアムと、ウンコ爆弾攻撃されるかと思った

正直に言えば今現在自分のかなり気になる興味は九九式艦上爆撃機にはない。
もちろんまたひょんなことから気になって仕方ない部分が出て来るに違いないのだが、今は東海丸などに気になるものがあるのでどちらに潜りたいかと言えば東海丸になってしまう。
今回はレックスペシャルを3日間潜るダイバーと一緒だ。
6つのレックに行くチャンスがあるということだが、中には1ダイブでは足りないレックもある。
だから一つのレックは重複することになるだろうし、それはたぶん東海丸になるだろう。

現在グアムで楽しめるレックは、東海丸、コモラン号、木津川丸、日祐丸にアメリカンタンカーの艦船。
他にタグボートだとか小型の船はあったりするが、ちゃんと案内して楽しんで貰えると言う点ではおそらくこの5つと言えるだろうし、日祐丸は正式にダイビングポイントであるとは言い難い。
そしてアメリカンタンカーは普通のダイビングツアーでもかなりの割合でダイビングすることができる。
また航空機で言えば、九九式艦上爆撃機と零式水上偵察機の二つ。
その他にセメントバージや上陸用舟艇やカタリナのフロートも楽しいレックではあるが、それ単品では物足りない内容になってしまうだろう。

日本からときどきグアムにレックダイビングをしに来てくれるダイバーのみなさんにとっては九九式艦上爆撃機は目玉の一つであると思う。
おそらくグアム以外では見ることができないだろうと思われ、もちろんトラックにもない。
そこで今日の自分のテーマは左右セットである。
残念ながら九九式艦上爆撃機は前後で割れているし、左の主翼も離れてしまっている。
だから左右セットという部分を意識する事がないのだ。
しかし実際には左右セットで存在するパーツがあり、今まで気にしていなかったのでこれだけ潜って観察してきているのに今日初めて確認したものなのだ。

guam712val1guam712val2搭載しているエンジンは三菱製の金星。
星型に配列されたピストンが7本あるエンジン。
これを直列に2つ合わせてあるエンジンなので14気筒エンジンとなる巨大なものだ。
その14本のピストンからそれぞれ排気管が伸びているのだが、九九式艦上爆撃機では左右に一本ずつ集合管として2本の排気管でカウルの下部分から排気しているのだ。
左側の集合管は今もエンジンに付いたままあるが、先っぽがかなり潰れてしまっている。
エンジン自体は機体前部からポロリと外れてしまっているのだが、右側の集合管の先っぽ部分はまだ機体に残っているようだ。

guam712val3guam712val4外れてしまっている左翼は機体の10mほど離れたところで翼の上部を下にして沈んでいる。
着陸用の主輪はよほど丈夫なのかこちら側のものもしっかり付いたままであるがダイブブレーキ(急降下制動板)は無くなってしまっている。
・・・なのだが、少し離れた水底に転がっているものがよく見るとダイブブレーキに違いない。
外れてしまって、部分的に潰れたり破損したりしていると見た感じの印象が違うようにも見えるが、おそらくは間違いないだろう。
ダイブブレーキ以外のパーツとしたとき、そんな形のパーツがないのだ。

ほぼ必ず九九式艦上爆撃機を見た後にはセメントバージに向かう。
水深25mに沈む九九式艦上爆撃機をいくらナイトロックスを使って潜っていても後半は浅く帰って行かなければならない。
普通のレックはそんなときには何もする事なく、ただ浮かんで減圧していなくてはいけないのだが、セメントバージに足を伸ばす事で楽しく減圧することができるようになるのだ。

guam712cement1そして今日は久しぶりに休憩時間を使ってセメントバージNo.2に上がってみた。
クロアジサシがたくさん止まっていて、これは上からウンコ爆弾攻撃をされるかと思ったのだが、意外に素直に離れてくれた。
一匹だけ空を飛べないほどのヒナなのか、それとも羽が使えないのかおそるおそる残っておびえている子がいたのでなるべく近づかないように気を遣いながら観察いてみた。

guam712cement2未だにアメリカンタンカーで同じパーツを見つけられないでいる。
サウンディングホールド。
この真鍮の蓋を外して重り付きの紐を垂らすことで内部に残る燃料の量の確認を行っていた穴。
自分なりにこれがアメリカンタンカーで言えばどこであるという目安はつけてある。
しかしその辺りに言っても同じような真鍮製の蓋を見つけることができていない。
そこでもう一度位置確認をしたい。

改めて見てみると如何に人間の記憶はあやふやなのか思い知らされる。
大きな四角い穴のすぐ脇にあると思っていたのだが、距離は5m以上もある。
四角い穴の同じ位置と思っていたのだが、中心から少し外れた位置にあったのだ。
ここまで位置が違うと思っていた部屋の中ではなくなる。
しかしわざわざ計測する穴を部屋ではなく外に作るのだろうか。
暗い部屋の中よりも明るい外の方が都合が良かったのか。そんなところも既成概念にとらわれているということなのだろうか。

guam712cement3位置を再確認したところで、セメントバージとして潜っているときに、この蓋の裏側、つまり船内からこの蓋の位置を確認してみよう。
四角い大きな穴の部屋の壁沿いであった。
天井の角近くに真鍮製の蓋を見つけた。
こんなに壁の近くだったのか・・・。
てっきり部屋の真ん中ではないかと思っていたのだが。

guam712cement4上と下とが繋がった。
これだけ手がかりが増えて来たら、そろそろアメリカンタンカーでも同じ真鍮製の蓋を見つけることができるのでないだろうか。
忘れないうちにアメリカンタンカーに行きたいのだ。
  
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July 11, 2018

グアムのダイビングショップ物語2348―今日のグアムと、東海丸が船尾から沈んだ証拠

guam711tokai1徴用された商船の全てに爆雷は装備されていたのだろうか。
商船によっては船首にも船尾にも大砲が装備されていたものもあり、その場合はもしかすると爆雷の装備はなかったのかもしれないが、多くの商船を沈めたのは潜水艦の魚雷攻撃であり、乗組員たちにしてみれば大砲よりもずうっと頼もしい爆雷だったのかもしれない。

1943年1月11日に横須賀を出港するときに爆雷を積み込んだ記録が残っている東海丸。
いくつの爆雷を積み込んだのだろう。
爆雷の落下装置が船尾の左右に各1つ装備されていたということは、2個ということはないはずだが、「敵潜水艦だ!」という状況はもしかすると魚雷を撃たれてしまい、その航跡を認めたとき初めて敵潜水艦の存在に気が付いているのかもしれない。
つまり爆雷落とすチャンスはない・・・。

guam711tokai3戦艦であれば敵潜水艦の動きを音で探る能力も備えていることだろうが商船にはそんな装備はないはず。
盲滅法に爆雷を落としたところで敵潜水艦を破壊することはほぼないのではないか。
ならばいくつ爆雷を積み込んでいようともあまり関係ないのかもしれない。
でも現在レックダイビングとして潜る我々にとってみれば、東海丸にちゃんと形がわかる爆雷が4つ見えていて、もしかすると砂の中にあといくつか埋もれているのかもしれないが、横須賀で東海丸に積み込んだ爆雷の数がもっと多かったとすれば、どこかで攻撃に使ったと言う事である。
そしてそれは横須賀ーサイパンーグアムまでの道中のどこかに違いないという興味に繋がっていくのだ。

guam711tokai2東海丸の船尾付近のお楽しみの一つはもちろんこの爆雷と爆雷落下装置だが、当然この装備は東海丸製造時の設計図面には記されていない。
爆雷が確認できる小部屋は、船尾に作られたドッキングブリッジデッキと呼ばれる接岸時にロープ作業などを行うための細い通路のような小さいデッキの下の倉庫のようなスペースである。
他にロープなども残っているところや小さい部屋であることを考えると間違いないだろう。
東海丸が左舷を下にして沈んでいるので爆雷はゴロゴロと左舷側に転がって来たのだろう。左舷側にまとまっている。
guam711tokai5その後方デッキにある小さい建物はなぜかさらに2つに仕切られている。
横浜に浮かぶ氷川丸で言えば、艦橋から一番離れて隔離されたようなスペースのため伝染病など隔離しなくてはいけない傷病者の病室になっていたところだ。
そしてその区切りの壁と壁の間に細い通路が作られている。
その幅は細いなんてものではなく、ちょっとガタイがいい男は腕を壁に擦るほどに狭い通路だ。
そこを2mほど入ると突き当たりの壁になるのだが、そこに下へと続く階段がある。

guam711tokai4この階段を降りなくていけない状況はそうそうあるものではないだろう。
丸窓の中を覗いてみると倉庫のように色々なものを積み込んでいたようにも見えていない。
ダイビングボートのようなサイズの船には装備されていないが、アメリカンタンカーにもそれこそ横浜に浮かぶ氷川丸にも必ず装備されているものが、停電などのために操舵室の舵輪と船尾のスクリューの後方にある舵とが繋がっていない状態になったとき、艦船のコントロールが不能になり、その舵を機械式に直接操作する事で衝突などを避けるバックアップのシステムが必要になるのだ。
応急操舵装置。
東海丸のそれはこの階段を降りて行って操作したのだろう。

guam711tokai6しかし出入り口がこの一カ所。
中は丸窓や壊れた船体の隙間から青い光が船外から入って来ているが人は通り抜けることができない。
一度試しにこの階段を降りて行ってみないといけないだろう。
階段を頭から降りて行くときにどの程度沈殿物を巻き上げてしまうのかによっては唯一の出入り口が濁って見えなくなってしまう可能性がある。
いずれ入ってみたい部屋ではある。

ナイトロックスを使って潜っているので、水深30m付近にある爆雷などを見た後もまだセカンドデッキに降りて泳いで行く事ができる。
艦橋方向に行くにつれて水深は少しずつ浅くなっていくし。
東海丸が沈没したとき。
左舷側の機関室後方などに魚雷を受けたので左舷に傾きながら後方から沈んで行っている。
船尾が着底したときにもおよそ3時間は船首側に溜まっていた空気の浮力などで船首と艦橋の右前の一部は水面よりに上にあった。
その後ずぶずぶと船首も水底に落ちて行った記録がある。

guam711tokai7guam711tokai9東海丸の後方をダイビングしてみると、この沈没時の経緯の証明を見ることができる。
この床は第5船艙のシルクルーム辺りのものだが、平らだったはずの床が盛り上がっている。
guam711tokai8その付近の壁を見てみると、窓状のものがひしゃげていたり、完全に変形している壁も残っているが、これらは全て東海丸が船尾からかなりの勢いで沈んで行って水底にぶつかったかを物語るものであると思われる。
  
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July 09, 2018

グアムのダイビングショップ物語2346―今日のグアムと、シートが小さい。

今更ながらだが、九九式艦上爆撃機22型の偵察員座席が小さい。
11型とは少し回転させた時の座席高さが違うように思うが、基本的には同じシートを装備しているように思う。
つまり改良・発展させた型である22型でもこのシートを使っていたのだろう。
背もたれは十分な高さがあると思うのだがお尻を載せる座席部分の面積が相当に小さい。
これではほぼ直立に背中を立てて、ちょこんとお尻を載せるだけの姿勢しか取れないのではないだろうか。
ちょっとお尻をずらして足を前に伸ばそうという姿勢にはなることができないだろうと思う。

そんなもの戦争中に贅沢なこと言うんじゃないという結論になるのだろうが零戦と比べても相当にお尻を載せる面積が小さい。
零戦は最長10時間以上は飛び続けるだろうか。
それに対して九九式艦上爆撃機は、マリアナ沖海戦での第二次攻撃隊は10時15分頃に空母を飛び立ち索敵するが見つからず、燃料がなくなるのでグアムのオロテ岬上にある滑走路に着陸態勢に入る。ところがそれを待ち伏せていたアメリカの戦闘機F6Fに襲われる。
それは午後3時頃の出来事であったことから、おそらく6時間ほど飛び続けるほどしか燃料が持たないだろう。
しかしそれでも6時間だ。
この小さい座席に座り続けることは相当に辛かったのではないだろうか。

guam709seat座席下の右寄りに丸い穴が開いているが、あれは爆撃照準器のための穴であり直径15僂曚匹靴ない。
その穴のサイズと比べれば座席面の奥行きは30僂舛腓辰箸靴ないことがわかる。

また座席は前方を向いている。
偵察員用の座席は高さを変えて前や後に向きを変えることができるようになっている。
離着陸のときは前方を向いているだろうが、敵戦闘機が襲ってくる場合は偵察員は後ろ向きに7.7亠―討納遊發垢襪海箸砲覆襪里澄
操縦士も2梃の固定機銃で応戦することはできるが、本来の急降下爆撃機としての機能を優先していることや、前後とも7.7亠―討任呂覆なか戦闘機と空戦することは難しかったろう。

オロテ岬上の滑走路に着陸態勢に入ったところでアメリカのF6Fに襲われている記録が残っているので、偵察員の座席が前を向いていることになるのだが、それに対して応戦を始めていれば偵察員は後方に機銃を向けたはずである。
ならばこの九九式艦上爆撃機は空戦を始めたばかりに一方的に射撃され不時着水してしまった一機なのかもしれない。
不時着水と書いているのは、この機体が本来はちゃんと正体のまま機体もバラバラになっていない状態でキャノピーも開いた状態で沈んでいたと言われていること。
グラスブレイクウォーターの堤防の脇に平行に沈んでいる状態は、堤防すぐ脇に着水すれば少し泳げば堤防を歩いて戻ることができることを考えた搭乗員たちの意識的な着水と思うからだ。

guam709rudderまた操縦席の座席がないことが、この機体が最初はちゃんと上を向いていたことを証明していると思う。
現在の九九式艦上爆撃機のコックピット内部はこうして写真に撮ることはできる。
写真中央より少し下に、少し右に傾いたバーがあり、その両端には台形の四角い穴が開いているペダルのようなものが付いている。
これはラダーペダルだ。
その下、写真では欠けているが棒状ものが見えているが、これは操縦桿と思われる。
しかし肉眼ではこの操縦桿は見ることができない。
ラダーペダルは辛うじて肉眼で見ることができるが、操縦員席のキャノピー部分はつぶされて顔を中に突っ込んで覗くことができるスペースはない。
つまりこの状態から座席などを持ち出すことはできないのだ。

そして引き揚げようとしたときに使ったワイヤーが、九九式艦上爆撃機の沈んでいる砂地の水底の上にある棚に残されているのだ。
多くのダイバーたちはそのワイヤーを目印にして九九式艦上爆撃機、グアムではバルボンバーと呼ばれるが辿り着いているのだ。

guam709taimaiバルボンバーにはブイがないため、ほとんどの場合はハーレーリーフのブイから泳いで来る。
ハーレーリーフと言っても最近は5つもブイが設置されてイルカウォッチングツアーのボートがスノーケリングをしたりフィッシングしたりで使っているが、この5つのブイでもなるべく西寄りの一つ目か二つ目のブイにボートが留ってくれないと距離的には厳しい。
そのためダイバー全員がバルボンバーを見に行けるかと言えばノーとなる。
基本は泳げてエアが持つダイバー限定ではあるのだが、それだけ移動するとほぼ毎回タイマイに遭遇するおまけも付いて来る。
今日はかなり小さいのとこれと2匹のタイマイを見たが、絶滅危惧種のタイマイを2匹も見ることはグアムではそうそうないことだ。  
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July 03, 2018

グアムのダイビングショップ物語2344―今日のグアムと、BからAなのか

JALのパイロットの方がダイビングに来てくれたことでちょっと気になったことがある。
グアムに来ている理由は乗務ではなくトレーニングだと教えてくれた。
少し前から朝のグアムの空を何機もJALが飛んでいるのを見るようになったが、そんな時間帯にJALの運行はない。
何回もぐるぐる飛んで離発着のトレーニングをしているのだ。
沖縄の下地島で日本の航空会社はパイロットたちのトレーニングを行っていたはずなのだが、JALはグアムにそのトレーニング地を移転して来たというニュースも見た。
そしてそのトレーニングというのはパイロットのライセンス取得に必要なものだったのだ。
そのトレーニングを終了して新たな機体を操縦するライセンスを取るのだが、グアムの空を朝から飛んでいるのはB737だ。
成田からグアムにお客様を運んでいるのはB767なので、きっと彼らが乗務でグアムに来ることは今のところないのだと思うが、B737は小型機に属する機体でJALでは50機ほどが運用中だ。

しかし、JALがエアバス機を導入することになった。
合併した日本エアシステムが保有していたエアバス機はあるが、今まで一機も導入していなかったのに何故だろう。
アメリカにいればアメリカのメーカーであるボーイング社の航空機に乗る機会は当然多く、グアム・サイパンと日本を結んでいた路線には737、747、767、777が飛んでいた。
エンジンはGEアビエーションやプラットアンドホイットニーのものを搭載しているが、エアバス社の航空機に替えるとなるとロールスロイスのエンジンが搭載されている。

メンテナンス的にどうだろう。
パーツ保有や整備士たちの熟練度は一からスタートすることになるはずだ。
パイロットたちのライセンスは機種によって異なるわけで、おそらく誰も持っていないエアバス社のA350用のライセンスを取得しなくてはならない。

guam702aA350の導入はB777の後継機種らしい。
昨年、日本の航空会社からなくなってしまったB747。
この超大型機に代わって使用されている機体が大型機に分類されるB777だが、B777が導入されたのが1990年代後半から2000年代始めであることから、2019年の来年から順次新型機に入れ替えていく必要があり、それがA350と言うわけだ。

guam702bしかしボーイング社もB797を発表している。
自社のB757の後継機として開発してきたもので、中型機の分類ではあるが300名近くの乗客を運べる能力がある。
ただし機内の通路が2列設定となればだが、単通路となればB737が大きくなっただけの機体となりB777の代替えとはなりにくくなるのだが、コックピットはB737と共通化することになっており、新たなライセンスは不要にならないまでも取得のためのトレーニング時間は短縮されるはずである。

とは言え、納入時期が問題だろう。
A350は既に運用され3年間の実績がある。
それに対してB797は2025年に航空会社に引き渡される予定であり、だいたいが遅れるものだ。
しかしオプションも入れて51機の発注であり、JALが運用中のB777の数を上回る数である。
この発注をきっかけに中型機、小型機もエアバス社に替えて行くということも考えられるはずで、そうなると何かあったのか?と疑ってしまうのである。
  
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July 01, 2018

グアムのダイビングショップ物語2343―今日のグアムと、零戦63型?

guam701kaizo現代になってもあまり変らないが、やはり損得が絡んで来ると通る意見と通らない意見があったりするわけで、零戦は1939年から1945年までに10000機以上が生産され続けた。
アメリカがどんどん新型航空機を開発していく中で零戦の卓越した性能は平凡なものとなって行き、最後はカモ扱いされる中、日本にはまだこんな戦闘機部隊があったのかと面目躍如してくれたのが343空の紫電21型、通称・紫電改だが、時既に遅しの終戦間際のことであった。

新型機の開発はいくつか行われ、海軍の期待も高まっていったわけだが、エンジンの不調などで実践配備されるものはほとんどなく、その期待は零戦の性能アップという形でどんどん零戦の派生型が出来て行ったわけだ。
元々航空機と艦船の生産能力に圧倒的な差があった日本とアメリカ。
どうやったら日本の生産能力を高めることができるのか言ってくれという山本五十六の発言に、まあ細かいことは追々詰めて行くとしてという訳の分からない返答で三国同盟が締結されアメリカとの戦争に入っていった日本なのだ。
零戦を作る材料もない中、よくも10000機も零戦を作ったものだ。
その半数が52型と呼ばれる後期の型であるが、終戦を迎えるまでに大きく分けて8つの型式が存在する。

guam701zeke52型式番号の10の位が機体の形。
型式番号の1の位がエンジンの違い。
二桁の番号の後に付く甲・乙・丙という通信簿のような表示は武装の変化を表しているとわかると、複雑そうに見える型も整理されてわかりやすくなる。
機体に4番の形がないので1番から6番までの5種類の形の零戦があるということだ。

エンジンは最後の三菱製エンジン・金星を除けば、中島製の栄エンジンの12型、21型、31型がそれぞれ1番、2番、3番と付けられているわけで、金星は4番となる。
それにしても三菱製の航空機に中島製のエンジンが載せられているのも不思議だ。
最後には結局三菱製のエンジンに載せ変えられるのに。

guam701zeke52だから零戦は順調に11型ー21型ー32型と機体もエンジンも進歩していったかに見えるのだが、航続距離が落ちたというマイナスポイントにより、22型に戻っているわけだ。
そんなところに何故か存在していないように見える4番台が省かれて52型が最終版として登場し、一番多く生産されたのだ。

以前パラオに沈む零戦が54型であるという話を聞いたことがあるが、当時54型はテスト段階であり、2機しか造られていない機体がパラオに配備されたわけがないと思っていたが、沈船の中に残されている航空機のエンジンが金星であることがわかってみると、そのエンジンを零戦用のエンジンとしていた説明は辻褄が合うことになるわけだ。

guam701zeke62さて問題は呉の大和ミュージアムに展示されている零戦だ。
展示には62型と説明されている。
ところがこの零戦が以前展示されていた京都の嵐山では63型と言われていた・・・らしい。
自分はそれを京都に見に行ってはいないのでわからない。
また大和ミュージアムのものも63型であると言っている方もまだいてややこしい。

guam701sakae31そして零戦と並べて展示されている栄31型甲エンジンの存在なのだ。
そのエンジンにはサカエと甲という文字が書いてあり、栄31型甲エンジンであると証明されていると説明がある。だからと言って隣の零戦にもこのエンジンが積まれているのか?
実は栄21型エンジンではないのか?
それが62型なのか63型か悩ませるものにしているのではないだろうか。

63型に搭載されてる栄31型エンジンは水メタノール噴射装置付きとなっており、栄31型甲ではこの装置を装着していないタイプだ。
このターボの冷却装置みたいなインタークーラーみたいな部分にトラブルが多く、うまく働けば性能アップするものが逆効果とも言えなくなるために外したということだ。
つまり実質栄21型エンジンと変らないという意見もあり、だからたとえ栄31型甲が搭載されていても62型としていいのだという理屈も出て来ることになるのだ。

guam701zeke63guam701sandiegoもう一つ思い出した。
アメリカのサンディエゴにある航空宇宙博物館にも零戦63型が展示されていて、こんなのもあるんだぞと言わんばかりに学芸員に自慢されたが、もし大和ミュージアムのもサンディエゴのも63型として、どうしてそんなほとんど生産されていない63型の零戦が2カ所にも展示してあるのだ。
343機生産された零戦32型は現在、世界でたった一カ所、福岡県の大刀洗平和記念館でしか見ることができない貴重なものとなっているのにだ。

零戦11型
3号機以降は栄12型を搭載し64機が製作された。
着艦フックは装備されておらず防空戦闘機として配備されるが、重慶へ飛ぶ爆撃機の援護機として活躍。中国の戦闘機27機を13機の零戦が全機撃墜という伝説的戦果を上げている。

零戦21型
空母への搭載を前提として着艦フックや無線帰投方位測定機を装備。
エレベーターの寸法を考慮して設計されていたものだが実際に運用してみると斜めに入れないといけない点などが発覚し翼端の50僂鮴泙蠑める機能も追加された。
三菱が740機、中島が2821機、1944年春までに3561機が製作された。

零戦32型
主翼の折り畳み部分の50僂鬟ットしたため翼端は丸くなくなり、翼面積の低下により空気抵抗の軽減に繋がり運動性能がアップ。
エンジンは過給器付きの栄21型に換装したため高高度での速度向上が期待された。
20亠―討侶塙埣匿瑤60発から100発に増量。
運動性能の評価が高かったが、機体改修に伴い燃料タンクの容積が小さくなり、折しもガタルカナル攻防戦の時期と重なり航続性能が問題とされた。
そのため22型の開発が促進され、三菱で343機が製作されるに留まった。
アメリカでは翼端形状の違いから他の型のZekeとは違うHampというコードネームが付けられている。

零戦22型
32型の航続距離低下という欠点を補うために急遽開発されたため、三菱でのみ560機が製作された。
型番号の通り21型の翼端折畳式に戻したもので、急降下制限速度は低下した。
銃身を長くした20亠―討亡港し武装強化した22型甲も52型の生産が始まる1943年8月まで生産された。

零戦52型
主翼の幅は32型と同じ11mとしたが形状には21型と同じく丸みを持たせた。
またエンジンの排気管を集合管から単排気管として速度アップを図ったため、32型より200垓瓩重たくなった機体の速度を20劼眤くすることができた。
武装強化した甲・乙・丙を含め三菱と中島で約6000機が生産された。

零戦52型甲
20亠―討竜訝栃式をドラムからベルトに変えることで翼内スペースを活用することができ、携行弾数を125発に増量するとともに主翼外板を0.2仆襪することで急降下制限速度を向上させた。

零戦52型乙
機首右舷の7.7亠―討13.2个亡港。
風防を防弾ガラス、座席後部に防弾鋼板を装備可能とした。

零戦52型丙
機首左舷の7.7亠―討鮗菠Гぁ⇔昭舁磴13.2ミリ機銃を追加した。

零戦53型
エンジンを水メタノール噴射装置付きの栄31型に換装したものだが、エンジンの開発の遅れから量産される前に終戦と迎えている。

零戦62・63型
52型丙の胴体下に250塲弾の懸吊架を設けた戦闘爆撃機型である。
63型は53型同様ほとんど生産されていないが62型は中島で数百機、三菱で158機生産されているため、零戦62型が最終量産型と言える。

零戦54・64型
エンジンを中島の栄から三菱の金星へ換装した型である。
栄エンジンのパワー不足を補うために何回か金星に換装する話は出ていたが実現することがなく、単排気管の採用や栄31型へ期待したがそれも実現せず、ここへ来てようやく零戦に1500馬力クラスのエンジンが搭載されることになるが、試作機2機を完成しテスト飛行中に終戦を迎えた。
エンジンが増大した分、今までの零戦と機首部分は異なるため、同じく金星エンジンを搭載する彗星33型と同じスピナーとプロペラを装備していた。  
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May 12, 2018

グアムのダイビングショップ物語2317―今日のグアムと、氷川丸内部を覚えて行こう

guam512ga1氷川丸内部の素晴らしいイラストを見つけた!
見つけたと言うか、これの大きいのが氷川丸の中に展示してあって、これが欲しいと思ったら売店に売っている氷川丸のガイドブックに載っていると言うのでわざわざ売店に買いに行ったのだが・・・ない。
何だよガイドブック間違えたか?と思って諦めていたところ、何だよこんなところに隠してあった。
BlogPaint普通にめくると見えない隠し頁があったのだ。
パラパラめくるのではなく一頁ずつ指でめくると紙が二重の頁が出て来て、綴じた所からパラリンと裏側が起き上がってきて見開きにドーンとこのイラストが出て来たのだ。
エロ頁の袋とじの方がよっぽど見つけ易いと思う。
いくらだったか覚えていないが、これは盛りだくさんな情報が詰まっていてお買い得なガイドブックだ。

BlogPaint平安丸はちょうどこのイラストのように左舷を下にして横たわって沈んでいるので、こんな配置になっていると船内を覚えてダイビングすれば楽しくなると思うのであるが、実際にはイラストと違って平安丸には横幅の厚みがあるわけで、右舷側なのか左舷側なのかそれとも中央部分であるのか微妙。
それに沈んで74年が経過しているため崩れて通れない通路や入口があるのでそう簡単な話ではない。
BlogPaintでももしお皿などが落ちていれば、きっとそこはギャレー(厨房)かパントリー(配膳室)に違いないのだ。

それとこのイラストは竣工時のものであり、戦争に徴用されたあとは病院船に改装されている。
例えば三等食堂の左舷側は手術室になって、右舷側にはレントゲン室が作られているはずである。
BlogPaint船尾にあった隔離病室はそのまま患者の収容に使われたが、その後側には霊安室も設置されたとなっている。

自分も最低5回はトラックの平安丸には潜っている。
平安丸は特設潜水母艦として徴用されていたため、魚雷や潜望鏡の予備が今でも積まれたままになっているのは何回も見ているのだが、横浜の氷川丸を見に行ったり、映画のタイタニックを観ても最
BlogPaintも印象的なところが中央階段だと自分は思う。
正に今船旅の始まりに乗船して来たところのはずである。
そして階段を上がるのは一等客であり三等客はこの階段を上ることは許されないという船旅の分かれ道であるはずの中央階段を自分は見たことがない。

トラックで潜ることができる船の中で最大の163mの全長なのでとても全部を見ることはできない。
トラック現地でレックへ案内しているインストラクターに以前聞いても見たことがないのだと言っていた。
崩れてしまっている部分なのかもしれない。
もし残っているのなら見てみたいところである。

レックダイビングで最も面白い(と思っている)のは沈んだ船を見ることではなく、そこに残っているパーツ類やもしあるのであれば遺留品類。
ビール瓶であったりお皿だったりの食器や、トイレやバスタブなどの陶製品とそこに残るロゴマーク。
こういう物から歴史を辿る楽しい情報が導かれて来るに違いないのだ。

グアムに沈む東海丸を探っていて見つけたと思っていた発電機。
しかし横浜の氷川丸のエンジンオープニングで同じ形のものを見つけると、それはエンジンへ潤滑オイルを送るためのポンプであった。
でも確かに記憶では氷川丸のエンジンオープニング内に予備発電機と書かれているものがあったはずだ。
それなのにこのイラストをよく見ると、予備発電室と書かれている部屋を発見したではないか。
確かにアメリカの船の予備発電室はエンジンオープニングではなく、もっと上のデッキに離れて設置されていた映像は見ている。
コーストガードが検査のために乗り込んで来たときに最初に見るのが予備発電室と言っていたのでよく覚えている。

こんな風に自分の頭の中で沈船を描いてダイビングするとレックダイビングの楽しさは倍増するはずだと思う。
  
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May 10, 2018

グアムのダイビングショップ物語2316―今日のグアムと、オブテンノール、天應丸、第二氷川丸

guam510tennomaru先日トラック帰りのレックダイバーに色々とトラックで撮影して来た映像を見せてもらいながらレック談義に花が咲いたのだが、そのときにポナペに住んでいた当時5歳だった方が日本に帰るときに病院船に載せてもらって帰って来たという話を思い出した。
そしてトラックに停泊中にあのトラック大空襲を受けたのだと言う。
病院船なので本来は身動きできない傷病者が乗っているはずで、船室の外のデッキに人影がいたら攻撃されてもおかしくないという状況でアメリカの攻撃機が空にたくさん飛んでいる光景を見たと言う。
話を聞いた当時はそれが氷川丸だったら面白い話だと思ったが、氷川丸が空襲時にトラックにいたという記録が見つからなかったのだ。

BlogPaintその後トラックの資料を見ていると第二氷川丸という病院船がトラックにいたという記録を見つけたので調べてみた。
その方の記憶によれば日本の九州に帰って来て、それから列車を乗り継いで戻って来たとなっていた。
確かに最後は佐世保に入港しているのだが、その間にサイパン・グアムそして再びトラックへ戻った後に佐世保に帰って来ている。
もしかすると間の記憶がはっきりしていなかったのかもしれない。
それにポナペにこの船が立ち寄ったのはこれ一回だけなので、ほぼ間違いなくその方はこの船で日本に戻って来たのだと思う。

BlogPaintトラックの資料には英語で第二氷川丸と記されているが、実は1944年2月当時は天應丸と呼ばれており、まだまだ第二氷川丸という名称はなかった。
元々オランダから拿捕した病院船オブテンオールから間のテンオーに当て字をはめた名前であったが、天皇陛下の天皇と同じ発音から第二氷川丸に変えたと言われているが、パラオで銃撃を受けた後、船首と煙突を一本追加艤装し第二氷川丸として敵国に登録しているわけで、何か狙われる天應丸であったのではと勘ぐられてもおかしくはないだろう。

BlogPaint国際法で敵国の船でも病院船には攻撃をしてはいけないという決まりがあった。
識別し易いように船体は白く塗り、大きく赤十字や緑十字を船体に描くことが義務づけられていた。
しかし戦時中であり、食料や武器弾薬をどうしても運びたいとなったとき、ちょっとならいいだろう。バレなければいいだろうという行為があったはずである。
現に橘丸事件というものが実在する。
他にも当時の証言によれば傷病兵に中に撃墜され航空機を失った搭乗員を載せて戦地に連れ帰ったこともあったと言う。
「ないのだからしょうがないだろ!」
日本人の得意とする言い訳だ。

guam510trukmap1もちろん敵国にも似たような話があり、いくつかの病院船は沈められてしまったのだが、この第二氷川丸は戦後せっかく生き残ったというのに、舞鶴沖で8月23日にアメリカから言われたわけでもなく自沈処分されている。
実はオランダから拿捕したときが怪しい。
臨検では何も違反行為は発見されていない。
ただ指示した針路とは違う針路を取ったという理由であり、戦後オランダにこの件にはもう触れない代わりに1億円を支払っている。
10億円払ってもいちゃもん付け続ける国もあるが。
今も横浜に浮かんでくれている氷川丸はこういう違法行為を徹底的に受けないでいたらしく、それが最後まで狙われずに生き残った理由でもあるらしい。

もう一つこの天應丸は奇跡体験アンビリーバボーにも取り上げられ「海の武士道」と言われる駆逐艦・雷の工藤艦長の逸話に関わりがあるのだ。
工藤艦長が助けたイギリスのスラバヤ沖で沈められた巡洋艦エグゼターと駆逐艦エンカウンターの漂流者450人。
彼らを1942年3月3日に病院船天應丸に載せているのだ。
これはオブテンノールを拿捕した翌日であることを考えると、この捕虜450人の輸送のために拿捕したのかもしれないが。
せっかくの工藤艦長の美談がちょっと薄れてしまうかもしれない日本海軍の作戦かもだ。

そんな病院船・天應丸(第二氷川丸)の記録を下に載せておく。
興味のある方はご覧下さい。
大きな海戦とともに病院船の行き先も変って行っていることがわかる。

1927年
8月   竣工
1941年
12月8日 オランダ海軍に徴用されて病院船に改造
1942年
1月22日 東京のスウェーデン大使館を通じ病院船であることを外務省に通知。2月4日には日本の陸・海軍      省へ周知させたこと外務省からスウェーデン大使館に回答。
2月21日 日本軍機が空襲して損傷
2月28日 スラバヤで駆逐艦村雨、駆逐艦天津風が。3月1日には駆逐艦曙が臨検。
3月2日 拿捕
3月3日 駆逐艦・雷より捕虜乗船
6月5日 天応丸と改名
1943年
1月   三菱重工業横浜造船所で整備工事
3月31日 連合艦隊付属の病院船となる。
4月25日(第1次)横須賀〜トラック〜ラバウル〜トラック〜6.10横須賀
6月27日(第2次)横須賀〜トラック〜ラバウル〜トラック〜7.31佐世保
8月9日(第3次)佐世保〜トラック〜ラバウル〜トラック〜9.22横須賀
9月30日(第4次)横須賀〜トラック〜ラバウル〜11,7トラック〜11.15佐世保〜11.19横須賀
11月23日 横浜で入梁
12月1日 出梁
12月11日(第5次)横須賀〜12.17トラック〜12.23ラバウル〜12.26トラック〜1.12ポナペ〜1.17トラック      (トラック大空襲)〜2.20サイパン〜2.22グアム〜2.25トラック〜3.1パラオ〜3.9佐世           保(病院船高砂丸より189名転院)〜3.15横須賀〜横浜で入梁
      病院船氷川丸は直前の2月3日と大空襲後の2月末にもトラックへ立ち寄っている。 
1944年
4月14日(第6次)横須賀〜4.16呉〜4.19佐世保〜4.27パラオ〜5.1グアム〜5.2サイパン〜5.6横須賀
5月18日(第7次)横須賀〜5.22サイパン〜5.25トラック〜5.27サイパン〜6.3別府〜6.6呉〜柱島沖〜6.28      呉
7月11日(第8次)呉〜7.18ダバオ〜7.25パラオ[銃撃を受ける]〜7.29高雄〜8.5昭南〜8.11西貢〜8.19マニ      ラ〜トラック〜9.9マニラ〜高雄〜9.20横須賀
10月   船首改造、二本目の煙突を艤装
10月25日 外務省に第二氷川丸として交戦国に通知を依頼
10月27日(第9次)横須賀〜11.1高雄〜あらびあ丸漂流者26名収容〜11.5ブルネイ〜11.8タラカン〜11.12      マニラ〜第84号駆潜特務艇漂流者41名収容〜11.15高雄〜11.19別府〜11.23佐世保
11月   修理
12月3日(第10次)佐世保〜12.8マニラ〜12.13昭南〜12.23高雄〜12.26樺島沖〜12.27佐世保
12月28日 入梁、応急手当
12月31日 出梁
12月31日(第11次)佐世保〜1.5マニラ〜1.9ホウスタク灯台錨地〜1.10昭南〜1.13マラッカ沖〜1.19昭南〜      1.30別府〜2.2厳島沖〜2.2呉
1945年
2月17日(第12次)呉〜2.17岩国沖〜2.17周防灘〜2.26昭南〜触雷し来島丸が曳航
5月2日 舞鶴海軍工廠第二船梁に入梁、修理
6月3日(第13次)舞鶴〜6.5佐世保〜6.15セレター〜6.19ジャカルタ〜6.27アンボン〜第113号駆潜艇漂流      者8名収容〜7.2ジャカルタ〜7.5昭南〜7.9西貢〜7.20佐世保〜7.24舞鶴
8月19日 舞鶴出航
8月23日 自沈処分
  
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May 05, 2018

グアムのダイビングショップ物語2314―今日のグアムと、トラックの彩雲

guam505tenzan1しばらく紫電改に夢中になってきたがひとまず終わりにしようと思う。
新たな資料が現れない限りは実際に海に沈んでいて、レックとして再確認に訪れることができない。今見ることができるのは引き揚げられて修復された機体なので、当時のことを報告している書物を見るだけしかない。
そして一人の証言に食い違いが出て来るなどがわかり、伝え聞いた人の記し方一つで正確な情報ではなくなる可能性があることもわかった。
誰が搭乗していたかは自分としては確認したいが、ずうっと以前から調査されている方々が公表していないでいるという状況もわからなくはない。
何か新しいものが見つかるまで中断だ。

トラック遠征ツアーもだいぶ具体的になってきた。
せっかくはるばるトラックまで行くのに、予備知識なしで行くのは勿体ないので以前の情報も含めて再確認しておきたいと思う。
トラックではそれら実物を見に行くことにしたい。
それはとても楽しみだ。

前回のトラック遠征で見せてもらった天山艦上攻撃機。
宿泊するリゾートから間もない距離の水深15mほどに沈んでいたのだが、撮影して来た写真と天山の資料を比べると合わない部分があった。
しかし天山とダイビングマップにも書いてあるので、見ている資料が足りないのだと思っていたが、2年前に違うことがわかった。
同じ中島飛行機が開発し、3人乗りの単発機。開発時期もそれほど違わないとなればデザインは似かよるのが当たり前だ。

guam505tenzan3guam505tenzan5自分が見て違うのではないかと思った箇所は単純である。
3人目の通信員座席後方に7.92个寮回機銃が装備されているのだが、トラックで見た機体はキャノピー後部に銃口を出すための穴が開けられ
guam505saiun2guam505tenzan7ていた。
しかし天山の資料を確認してみると、そのような形状のキャノピーがなかったのだ。
そして実は彩雲であったと聞いてキャノピーを確認すると、トラックで見たキャノピ
guam505saiun3ーと完全一致だった。

違うのだと分かれば見方も変って来る。
天山の水平尾翼は機体の最後尾まであるのに対して、彩雲は方向舵の手前で終わっているので、これで彩雲であることが最終回答となるわけで一件落着となるのだが、問題はなぜ彩雲がそこにあるのか?であるのだ。

guam505tenzan4guam505saiun4どなたも何かそういう資料を見たと言うのだが、彩雲は廃棄されたらしいとなっている。
らしい・・・。
では誰がいつ、どうして?
エンジンとプロペラは外した
guam505tenzan8らしい。

元々トラック周辺での戦闘はなく、トラックにいた人の話でも至って平和だったと言っている。
怪しくなって来るのはトラック大空襲のちょっと前だ。
また大空襲の後は再び静かになる。
アメリカはトラックをほぼ壊滅した後はパラオを攻め、グアム・サイパンを落とし、着々と本土攻撃に向かって止めを指すつもりだ。
トラックなどにもう構っている必要はない。

そこでトラック大空襲のときにトラックに配備されていた航空機を見てみる。

guam505tenzan2モエン島(リゾートや空港がある今のメインの島)の第一飛行場には753空の派遣隊が一式陸攻10機、552空の九九艦爆15機、582空の九七艦攻9機、902空の派遣隊が水偵5機以上、501空の艦爆2機、そして第二航空戦隊の残留隊の艦攻9機。
第二飛行場には、902空派遣隊の二座水偵5機。

エテン島(滑走路だけの島)に、204空の戦闘機31機以上、201空派
guam505tenzan6遣隊の戦闘機8機、501空の爆装機25機以上とほぼ零戦だと思われる。
この他保管機98機。
これは補充された零戦52型と思われる。

楓島には、551空の天山26機、これは空母・海鷹で到着したばかりの天山と思われる。251空の夜間戦闘機9機以上、938空の戦闘機5
guam505saiun1機。

デュブロン島(日本時代のメイン島)の水上飛行場に、902空本隊の零式水偵11機、二座水偵2機、零式水戦10機、第六艦隊偵察隊の小型水偵7機。

この他、第二航空戦隊の空母が在泊していたが、艦載機98機はラバウルに進出中であり戦力にはならなかったと言う。
どこにも彩雲の配備記録はないのである。

1945年2月4日いよいよアメリカの偵察を受けたことで警戒を強めるトラック。
早朝と夕暮れの一日2回の哨戒は、755空と753空がトラックとテニアン基地を利用し一式陸攻が行った。

2月17日早朝、トラックから天山8機、九九艦爆3機が哨戒活動しトラックの北東80ー100海里に米空母を発見するが、天山2機と九九艦爆1機が未帰還。

アメリカは真珠湾攻撃の報復のように奇襲作戦とし、その通り46分でトラック上空に到達。
日本側は201空と204空から35機が迎撃に離陸。
他に501空が爆装零戦25機を離陸。水上機17機も退避のため離陸。
アメリカの攻撃は航空兵力の掃討を狙って9回に及び、日本はこの1日だけで70機が撃墜され、補給されたばかりの零戦52型100機を含め200機が破壊された。
迎撃に飛び立った航空機で戻って来たのはたった1機だけであった。
航空機の損害はトラックに配備していたものの4分の3にあたる大被害であり204空は解隊を余儀なくなれた。

2月17日夜、モエン島に残存していた97艦攻4機、テニアンから753空の一式陸攻2機、755空の一式陸攻3機を出撃させ、755空の一式陸攻が攻撃した魚雷が空母イントレピッドに命中。
イントレピッドは6隻の護衛を付けてエニウェトクに後退した。
これがトラック大空襲の迎撃作戦の最も大きな戦果である。
エテン島の204空では機体の修理と整備で何とか6機の零戦が可動となり爆装して空母を攻撃しようとするが、側に落とされていた時限爆弾が爆発して全機飛行不能となった。

これらがトラック空襲時の航空戦闘記録であるが、やはり彩雲は見つからないのである。

彩雲は398機が生産され、343空でも第4偵察隊(奇兵隊)として大活躍しているが、終戦時にも173機が残存していた。
なかなか彩雲の手がかりが見つからない中で光作戦というのを見つけた。
「光作戦」
1944年12月16日に竣工された潜水艦・伊13と1945年3月14日に竣工した伊14。
ともに第六艦隊第一潜水隊として配備され輸送任務に就いた。これを光作戦と呼ぶ。
高速偵察機の彩雲をトラックまで輸送し、1000卆召砲△襯Ε襯掘軸直未謀験するアメリカ艦隊を偵察するためである。
そしてその偵察のもと、潜水艦・伊400と伊401から特殊攻撃機・晴嵐を飛び立たせアメリカ艦隊に奇襲攻撃するという「嵐作戦」の一環であった。
作戦予定日は1945年6月12日であった。

しかし、伊13は道中アメリカ艦隊に遭遇し、護衛空母アンツィオの艦載機と駆逐艦ローレンスCタイラーの攻撃により沈没。艦長は大橋勝夫中佐であった。
伊14は8月4日にトラックに到着し彩雲を揚陸するが、ちょうど終戦を迎えることになり作戦は中止。アメリカに回航され1946年5月28日にハワイ沖で自沈処分された。

とうとう彩雲の名前が見つかったのだ。
伊14は伊400同様に航空機を積み込んで発艦させることができる潜水艦空母だ。
特殊攻撃機・晴嵐を2機搭載することができるということは、揚陸された彩雲は1機か2機。おそらく偵察機として実際はどうであれ作戦上は2機飛ばすことになっていたと思われる。

この内の1機がトラックに廃棄されたとなっている彩雲ではないだろうか。
誰がという謎の答えはないのだが、終戦当時とすればアメリカや日本ではないのではないかと思うがトラックの人々とも思えないのである。  
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May 02, 2018

グアムのダイビングショップ物語2312―今日のグアムと、最新であり最後の情報

guam502sidenkai4「飛行靴と飛行帽があった!」

1974年7月14日に引き揚げられる7ヶ月前、潜水調査をした水中カメラマンが機体内を調べたところ、飛行靴と飛行帽が見つかったと報告している。
機体が発見されて一ヶ月後のことだ。
原型を留めていたキャノピー。
guam502sidenkai3発見時にはわずかに開いていたと言われるキャノピーだが内部を覗けるほどではなかったために、これを引き揚げ前に頂上部分を一枚分割って中を調べた者がいるのだ。
その後引き揚げられたときには何も機内に遺留品なしとなっているわけだが、ここでも墓荒らしみたいな者がいたのだろう。

不時着水をするときの搭乗員の手順を揚げてみる。
まずキャノピーを開けて固定する。
無線電話のコードが巻き付いて機体と共に沈んでいくのを防ぐためコードが付いている飛行帽を脱ぐ。
着水は尾部から行う。
落下傘バンドを外す。

発見時に搭乗員の遺体がなかったということはこの手順の他に飛行靴を脱ぐことも全て行ったということだろうが、不時着時にキャノピーが閉じられていたこと、発見時にはキャノピーが5僂曚匹靴開いてなかったことが目撃されているのだ。
機体が沈むとき、重たいエンジンが付いている機首から沈んで行ったことも目撃されているので、もしキャノピーが開いていたとしても、沈降して着底したときにキャノピーはその衝撃で閉じられたことは考えられるのだが、水中でキャノピーを開ける場合はコックピット内に水が満ちるまで開けられないという事例もあるのだ。

guam502sidenkai2ここで推測できることは、搭乗員は負傷しながらも見事な不時着をやり遂げ、沈降中にキャノピーを開けて脱出した。落下傘バンドも外したはずなのだが何かの理由で落下傘が絡み付き、その重さで救命胴衣を付けていたにも関わらず浮上できなかった。
機内から落下傘が見つかっていないことはこういう状況を意味するのかもしれない。

不時着の数日後に久良湾の西方で飛行服を着た上半身だけの遺体が横島に流れ着いた。
漂流中にサメなどにかじられてしまったとすれば上半身だけとなっていることは説明つくのだが、軍医の検死によると年齢が20歳くらいだと報告がある。
例えば武藤金義は29歳近くであったので合致しないのであるが、飛行帽に名前などがなかったのであろうか。

「機番号と弾痕」

機番号については赤外線撮影も行われたということで、それでも判別できなかったと言う。
もっとも7月24日の迎撃作戦についての編成表は終戦時に焼却処分されていて現存しないため、番号を確認できても搭乗員の特定は鴛淵・初島の両機以外はわかっていないので難しいのだと言う。

弾の条痕について、元飛行長の志賀淑雄氏の確認では胴体の左上縁に後方よりかすめた傷を確認しているが、エンジンやカウリングについての傷は腐食なのかどうかの確認が難しい。
元戦闘301の宮崎勇氏も弾痕らしきものが見えると言っているが、確証はないのだと言う。

guam502sidenkai1「機銃と残弾数」

紫電改には20亠―討4梃装備され、弾量は各200発となっている。
引き揚げられた機体には500とも515発残っていたともされている。
紫電改の20亠―討錬館譴箸眛瓜発射される仕組みであり、発射速度は毎分500発なので、800発装備されていたとすれば搭乗員は9秒間射撃をしたという計算にはなるのだが、主翼内の弾倉を確認した方によると4梃の内3梃は未発射で左翼外側の1梃だけが完全に空になっていたと証言している。
これから推測できることは、1梃には弾を装備していなかったし敵に1発も攻撃もしていない。
または1梃だけで空戦し撃ち尽くした。つまり3梃は故障していたため発射できなかったことしかないだろう。

アップルゲート中尉のコルセア2機編隊が水ノ子灯台付近で戦闘を開始しあっという間に1機が撃墜され、そこにケーグル大尉のヘルキャット1機が加わったときの攻撃は武藤・米田の2機編隊であると思われる。
この場合小隊長の武藤機が攻撃を開始し米田機は援護に回るのが通例である。
アップルゲートの頭上から逆落としで攻撃して来られて被弾していない。攻撃機が射撃の名手の武藤機だとすれば機銃の故障なのかもしれない。
続いて第二攻撃したのが堀・今井の2機編隊で堀飛曹長がスペックマン少尉を撃墜したが、これに反撃したアップルゲートは2番機を撃墜したと報告しているので、今井機が煙を吐いて背面になりながら落ちて行ったと考えられる。

そのアップルゲートの後に張り付いて攻撃をするもう1機の紫電改。
堀機は帰還しているので、これは米田機であるのかもしれない。
それを見たケーグル大尉が紫電改の後方を取る。
アップルゲートはわずか10mほどに接近した紫電改の両翼から閃光を見ている。このことは左右の機銃とも正常であることを証明している。
そしてケーグルのヘルキャットがこの紫電改の尾部を破壊して撃墜。

アップルゲートに執拗に攻撃を仕掛ける1機の紫電改が正面攻撃に出る。
射撃しながら接近する両機だが双方ともに弾を撃ち尽くしたようだ。
アップルゲートは相手の機首に命中弾があると見るが自分もエンジンに5〜6発被弾している。
お互いの距離3mで交差したアップルゲートは紫電改の搭乗員が前屈みになっているのを見ている。
アップルゲートは旋回して追おうとするがエンジンから煙を吐き始めパラシュートで脱出。
そのためこの紫電改の墜落は誰も見ていないが、搭乗員が負傷していたことが想像できるが、果たしてこの紫電改は左翼外側の1梃の機銃だけで戦ったのだろうか。

この証言だが、アップルゲートは別の証言もしている。
前屈みになった搭乗員の紫電改のキャノピーが吹き飛んだと言うものである。
そうなって来ると全員の記憶は時間とともに薄れていき、伝え聞いた者の記憶もあやふやになっていくのだ。
ましてや現在はそれらの証言からさらに30年近くの時が過ぎ、もはや確認できる人々がいなくなっているだろう。
引き揚げられた機体は変らずにあるが、修復されているわけであり、機内の遺留品を海底から持ち去った人間の存在がここでも悔やまれることになるのだ。

「戦線離脱後の紫電改」

どこかに被弾し搭乗員も負傷していると思われる紫電改。
燃料は十分基地まで戻る量を残しているはずであることを考えれば飛行をコントロールできなくなっていることはほぼ間違いない。
豊後水道上空から四国方向に機首を向けたと思われる紫電改。
久良湾の北30劼砲漏蠢路だけの小さな飛行場があったのだが、おそらく343空の搭乗員たちはその存在を知らなかったのだろう。
愛南町付近の地形は山が海岸まで迫って来ていて、入り江も入り組んでいる。
この条件から言って最良の着水ポイントが久良湾であり、目撃者によれば山側から右旋回で沖に向かってきれいな着水をしたと言う。
一方パラシュートで脱出したアップルゲートは鵜来島の北西に着水。
久良湾の南南西15劼竜離である。

「ではどなたの紫電改なのか」

調査に関わったり、伝え聞いた方の意見は同じである。
武藤金義少尉であると言う。
自分が思うに、状況はどうであれフットバーの調整位置が160僂凌板垢鮖つ搭乗員に合わせられていたというのであれば、それだけで該当するのは武藤金義少尉と米田伸也上飛曹の二人だけなのである。

先に攻撃したと思われる武藤機を援護する位置にいた米田機。
第二攻撃をかけた堀光雄上飛曹と援護する今井進一飛曹。
この空戦で生還している堀光雄上飛曹を除く3名。それに宮崎県側に撃墜されたと思われる溝口憲心二飛曹。
そして鴛淵孝大尉と初島二郎上飛曹。
機体を撃破されたわけではなくエンジンから煙を吐きながら高度を下げて行ったとあり、鴛淵機には初島機が最後まで編隊を崩してはいないように思うため、この2機のどちらかであれば、1機単独で久良湾に不時着はないのかもしれない。

ケーグル大尉が攻撃し機体尾部がなくなったとされる紫電改は機銃も作動していたことがわかっているため該当しない。
アップルゲート大尉がお互い弾を撃ち尽くすまで戦った紫電改は、搭乗員が負傷している証言もしているが、キャノピーが吹き飛んだという証言もしている。
キャノピーが飛んだのが事実ならこの機体も該当しなくなる。
そしてこの機体が武藤機であり、久良湾に不時着した機体と言われてるので、アップルゲートのこの証言が大きく左右するはずなのだ。

これ以上新しい証言が入ることはあり得ないため、武藤金義少尉、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹。
この3人から絞り込むのは難しいのだが、豊後水道上空の迎撃戦。
500機に対して21機で立ち向かった343空。
4梃の20亠―討瞭癸越譴靴使えない体制での空戦を演じた紫電改。
この状況下でも立ち向かわなければならなかった搭乗員。
343空のまとめ役であった菅野直大尉もこの後の戦闘で、20亠―討亮舁稙睨夙という事故で戦死。しかも自分が乗って来た愛機ではない機体で起きた事故であるが、優秀な搭乗員たちが機体の故障で戦死というのはあまりにも辛いのである。  
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April 30, 2018

グアムのダイビングショップ物語2310―今日のグアムと、トラック遠征

guam430truk9月17日グアム出発
現地5泊して14ダイブ
9月22日の夕方グアム帰着。

トラック遠征ツアーの日程が決定しましたのでお知らせします。
オールレックダイビングなので好みは分かれることでしょう。
しかし逆にレック好きしかいないメンバーが揃って50カ所近くもあ
guam430resortる艦船や航空機のレックを潜ることに専念できるということは大きい。
宿泊はトラックで一番快適なリゾート、ブルーラグーンリゾート。
ここで毎日美しいサンセットを眺め、鳥のさえずりで目を覚まし、数分歩いた桟橋からダイビング。
5日間で14ダイブの予定なので、気に入ったレックにはもう一度行ったりしたとして10以上のレックを楽しめる予定。
アドヴァンス以上の資格とダイブコンピューターとそして明るいライトが必要だが、見たこともない世界が広がるはず。

73年前、日本海軍の一大基地であったトラック。
大和や武蔵もいたトラック。
興味のあるダイバーは問い合わせください。

guam430chukoguam430jensho






guam430sankisanguam430saiun






guam430nippoguam430nishiki






guam430zeroguam430fujukawa














  
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April 27, 2018

グアムのダイビングショップ物語2308―今日のグアムと、引き揚げられた紫電改

guam427siden4どうしても気になる。
元々、どなたが搭乗していた紫電改なのであるか知りたい目的で愛媛県まで行って来たのだ。
そこでグアムに戻ってからもう一度1945年7月24日の豊後水道上空の空戦の様子を調べてみることにした。
それについて語るには、そもそもの第343航空隊の成り立ちからも一緒に見てみないといけない。
上からの命令とは言え、自分の身を挺してまでも隊長機を守ろうとした操縦員たちの気持ちは強い絆から生まれたものに違いないのである。
そして最後に辿り着く答えは紫電改展示館の方の意見と同じものになっていくのだが、彼らの意見に惑わされたものではなく記録からの自分の推測であり、100%確実な答えではない。

guam427hisayoshiwan最初に343空に集まって来たのは菅野直大尉だ。
フィリピンのマバラカットで作戦についていた201空から301飛行隊を再建するために1944年11月末には横須賀航空隊基地に戻って来た。
また同じマバラカットから301飛行隊に転任するために笠井智一上飛曹(甲飛10期)ら4〜5名が96式陸上攻撃機で、高雄、鹿屋経由で横須賀に到着する。
輸送機の関係で何回かに分けて内地に戻った隊員たちだが、この中に杉田庄一上飛曹、米田伸也上飛曹もいた。
宮崎勇少尉は96式陸上攻撃機で台湾経由で鹿屋に航空機を受領するためマバラカットから到着するが受け取る機体はなく、横須賀で菅野大尉や杉田上飛曹らと合流することになる。
内地にいた松村正二大尉はフィリピンに零戦隊を空輸して戻ってすぐ横須賀にいた301飛行隊に転任することがわかる。
こうして横須賀航空隊基地に集まった301飛行隊隊員は20数名。
紫電数機とまだ試作機の紫電改が2機あるだけだったが飛行訓練を開始するが、他の隊も混在する手狭な横須賀基地からDC3や零戦、紫電などに分乗してに松山基地に移動することになる。

guam427siden5松山基地では品川淳大尉が343空の準備に入っており、源田司令が来るまで司令代行を務める。
343空は正式に12月25日、第三四三海軍航空隊が発令された。
1945年1月1日紫電8機を使った343空の初飛行訓練が行われたが着陸時に1機が引っ繰り返り搭乗員1名、飯田一上飛曹が殉職した。
水上機から改造した紫電の弱点である長過ぎる脚と噛み付くブレーキが原因とも言われるが、その後も着陸時の事故は続く。
その頃301飛行隊先任搭乗員の堀光雄上飛曹が到着している。

元々横須賀基地に所属していた701飛行隊はレイテ沖海戦で飛行隊長・白根大尉が戦死するなど消耗が激しく、坂井三郎少尉と要務士・中村大次郎と整備科の残留隊員だけとなっていた。
その701飛行隊も松山基地で再編することになり坂井らが到着すると西元久男上飛曹と13〜14名の搭乗員が出迎えたが分隊長や隊長が誰なのかさえ知らされていない状態であった。
紫電の着陸事故の多さを踏まえ、翌朝から坂井三郎少尉の指導で紫電の離着陸訓練が始まった。
おかげで訓練中の事故が最も少ない隊となったが、新しく入って来る紫電改は錬成の高い301飛行隊に優先的に回された。
その後先任分隊長・山田良市大尉、後任分隊長・松崎国男大尉、13期予備学生出身の岸本操ら各少尉が着任。
そして1月8日フィリピンでの負傷が癒えた隊長・鴛淵孝大尉が着任したのだ。
1月中旬には大村哲哉中尉はじめベテランの元701飛行隊の生存隊員10名がDC3で到着。
フィリピンから引き揚げて来ていた初島二郎上飛曹が701飛行隊に合流するのは3月10日のことだった。

そしていよいよ、301に続き701飛行隊も整備されていった1月14日、飛行長・志賀淑雄少佐が着任。
その5日後の19日には司令・源田実大佐が軍令部から着任した。

1月26日、隊長・林喜重大尉以下の407飛行隊が出水基地より松山基地に移動して来た。
2月1日、偵察第4飛行隊編入。
2月9日、副長中島中佐着任。
2月12日、偵4飛行隊長・橋本敏男少佐が着任し343空の全陣容が整った。
溝口憲心二飛曹の入隊は記録によると2月8日となっており、407飛行隊に編入された。

guam427siden8343空には実はもう一つ、401飛行隊が存在していた。
徳島基地で錬成隊として搭乗員を育て343空本隊に送り続けていた。
また久邇宮朝融王が301を新撰組と命名したのをきっかけにそれぞれの隊には隊員たちの士気を高めようと、701飛行隊を維新隊、407飛行隊を天誅組、偵察第4飛行隊は奇兵隊、そして401飛行隊には極天隊と名付け、隊舎の前には隊名の幟を建てたり、隊歌も作られたりした。

1945年7月24日、343空に出撃命令が下る。
飛行機隊は鴛淵大尉が率いた。
戦闘701を先頭に、戦闘407、戦闘301の順に大村基地を離陸し、会敵地点と思われる四国西端の佐田岬を目指す。

鴛淵隊長には初島二郎上飛曹が付き、光本卓雄大尉指揮の第二中隊には溝口憲心一飛曹。そして松村大尉指揮の第三中隊には武藤金義少尉、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹が加わっていた。

一方呉を攻撃するアメリカ軍は午前8時に空母・ヨークタウンから8機のF6Fヘルキャットと4機のF4Uコルセアが各機500ポンド爆弾を搭載して発進。
8隻の空母から飛び立った数百のアメリカ軍艦載機は高度12000フィートで四国南岸から進入するが、攻撃目標直前に高度を15000フィートに上げた。
大編隊は戦艦・長門などに目標を定めると呉上空で大きく旋回。

guam427siden6日本軍は天城・葛城などの空母6隻を含む20隻あまりが被害を受けたのでアメリカの攻撃目的はほぼ達成されたものとされ、任務を終えて空母・ヨークタウンへ向けて帰路につく。
10時5分、水の子島灯台付近で戦闘301がアベンジャー雷撃隊から遅れて飛んでいた3機のコルセアを捕捉。
松村隊長は武藤少尉と僚機がコルセアの後方から迫るのを見て、アベンジャー編隊に向かった。
コルセアのパイロット、アプルゲート中尉がもう一機のスペックマン中尉のコルセアがあっという間に火だるまになって落ちて行くのを見ている。
孤立したアプルゲートのコルセアの救援に向かったのはケーグル大尉とネイヤー中尉のヘルキャット2機。
アプルゲート中尉のコルセアが急旋回し敵編隊の2番機に対して60度の角度から射撃。
弾道がエンジンと操縦席付近に吸い込まれていったかと思った瞬間、紫電改は煙を吐き始め、飛び越えたアプルゲート機の後方で横転し垂直に降下した。
そのときもう1機の紫電改がアプルゲート機の背後に回り射撃体勢に。
するとケーグル大尉はアプルゲート中尉の背後に付いた紫電改に攻撃。紫電改の尾部全体がなくなった。

guam427siden2ケーグル大尉とアプルゲート中尉は合流し海峡に向かって離脱しようとすると、もう1機残っていた紫電改が4時の方向からアプルゲート機に対して上方攻撃を加え、そのまま二人の前を横切り凝り返すと今度は10時の方向から射撃しながら突っ込んで来る。
アプルゲート機とこの紫電改は500フィート以内の距離で相対したがお互い弾を撃ち尽くし、共に命中弾を感じていた。アプルゲートは衝突を回避しようとするが10フィートまで接近し紫電改のキャノピーが吹き飛び横転して落ちて行ったのを見ている。
しばらくしてアプルゲート機からも黒煙が出始めたのでパラシュートで脱出。

この3機の紫電改は第三中隊の武藤、米田、今井機であると思われる。

guam427siden7ウイリアムズ大尉と列機ギブソン大尉は2機編隊の紫電改と遭遇し撃破。
ウイリアムズ大尉が撃破した紫電改はギブソン大尉が撃破したものよりも大量の煙を吐いていたと報告されている。
鴛淵大尉機はエンジンを撃たれて白煙を吐いたという記録があるところから鴛淵機を落としたのがウイリアムズ大尉と思われるが、ギブソン大尉から撃墜報告が出されていた。
初島機は隊長機をピッタリ援護する体制をとりながらヘルキャット1機を撃墜。
隊長機が被弾しエンジンより白煙をはきつつ高度を下げて行くが隊長機を守りつつ初島機も未帰還となる。

BlogPaintヤンシー少尉の報告によると単独で飛んでいた紫電改を豊後水道の反対側へ撃墜したとなっているところから、戦闘407の唯一の未帰還機溝口憲心機ではないか。そして宮崎県の東臼杵郡門川町でエンジンが上がった紫電改だろうと思われる。
もしエンジンだけが上がった紫電改を確認でき、もし増槽タンクを見つけることができれば、溝口機は増槽タンクを落下できずに戦闘したいたと記録があるので機体が一致することになるのである。

日米双方の戦闘記録などを照らし合わせると引き揚げられた機体は戦闘301の武藤、米田、今井のどちらかの紫電改である可能性が高いように思われるが、ここでもう一つ手がかりとなり得るものがあるのだ。
フットバーの調整が一番手前になっていたことが引き揚げた機体から確認できている。
身長170僂魃曚┐討訌狃聴によれば3分の2ほど先にセットしていたということなので、今井進一飛曹の身長が170僂魃曚┐討い燭海箸ら今井機ではない可能性が高くなる。
不時着を目撃しボートを漕いで救助に向かった人の証言によれば、見事に機首を持ち上げた着水姿勢の後しばらく滑水し、操縦員はバンドを付けたまま座っているのが見えたと言う。
操縦の腕前の高さと着水したときには意識があったらしいことを物語る。

guam427siden1戦闘301で撃墜された3つの機体はエンジン付近に被弾して煙を上げて落ちて行ってる。
2機目は尾部がなくなり、3機目はキャノピーが吹き飛んでるという証言があるため、最初の1機に違いないことになる。
なるべく発見された当時のままの姿で修復された紫電改となっているが、引き揚げ時の写真には恐らく銃撃跡が残っていたように見えるカウル部分が写っているのだが、修復され展示されている機体に
guam427siden3はそれらしき穴は見えていない。
写真を撮り忘れたことに悔いが残るが、機体の状態からして残る可能性は、武藤、鴛淵、初島の機体のいずれかではないかと推測するのだが、鴛淵機には初島機がピタリと付き添っていたことが日米両方の証言にある。
そしてこの2機を落としたと思われるウイリアムズ大尉とギブソン大尉だが、10時15分頃、胴体に白い帯を描いた指揮官機を撃墜したという報告があったことがわかったが、背が高く兄弟のように似ていたと言われる鴛淵大尉と初島上飛曹の関係、また要務士中村大次郎から「隊長のことを頼む」と言われ「絶対に守り通してみせます」と返事をしたとされることから、確かに最期の最後まで一緒にいたと思われるこの2機。
フットバーの調整位置から、背が高いことも似ていると言われた二人とこの位置が合わないことを考えれば、単独で久良湾に不時着したのは武藤機である可能性が高いだろうということになっていくのだろう。





  
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April 25, 2018

グアムのダイビングショップ物語2306―今日のグアムと、木製の棚

guam425cement先日アメリカンタンカーに潜っていてちょっと思ったこと。
船首のデッキ下にある小部屋には木製の棚があった跡が残っているが、それは荷物ではなく人が寝るためのベッドの役割ではなかったのか・・・。
中央部分のデッキより下にある部屋は全てが燃料を満たしてあったタンクと思われる。
中には梯子や階段、防水された照明も設置されていたりするが、そこに人が居続けることは絶対にないはずである。例えば階段に手摺がないのはそんなに何回も上り下がりするための階段ではなく、ときどき降りて行く必要はあるといった程度と考える。

guam425tanker1また基本的にはセメントむき出しの壁と天井だ。
パイプやワイヤーが通っている壁もあるし、必ず誰かがそこにいただろうという部屋もある。
一番メインの部屋の両サイドに同じ形の小部屋があるが、あそこはトイレやシャワーと言った役割の部屋であると思っている。
位置的にも小部屋の中の仕切りを見ても間違いないと思う。
では食べると寝るという行為はどうなっていたのか。

これらオイルタンカーと呼ばれていた5つのセメント製のタンカーは、おそらく1944年にハワイからグアムまで船で曳航されて来た。
それぞれが燃料を満載して来て、グアムのアプラハーバー内に留め、他の艦船の燃料補給には直接横付けして燃料を足していたのだ。
そして燃料を使い切った後、グラスブレークウォーターの基礎としてそのセメントの船体を岩積みの中に入れて使われた。

guam425tankeer2ハワイからグアムまで二週間くらいか。
アプラハーバー内で他の船に燃料を分けて空っぽになるまでに1〜2ヶ月くらいだろうか。
いずれにしてもその短期間にトイレは不可欠だとしても寝るスペースなどなくても何とかなるだろう。
だからベッドルーム的なものは見当たらない。
しかしちょっと横になろうかな的なものが全くなくて大丈夫なものだろうか。
どこもかしこもセメントむき出しでは横になっても身体痛いし冷たいだろう。

そこで唯一木製の暖かみがありそうなところが船首の小部屋なのだ。
見ようによっては二段ベッドだ。しかも下の棚の幅に対して上の棚は幅が小さい。
それでも人が横になることはできるだろうと思う最小限の幅は確保してあるのだと思う。
最初は荷物の棚だったかもしれない。
でもこれなら人が寝るのに丁度いいぞと後から思ったのかもしれない。
自分にはもうベッドにしか見えていないのだ。

guam425val1バルボンバーにも行った。
ここのところ九九式艦上爆撃機の話題がなかなかないのだが、紫電改を見て来て気になる部分があるので、それに重ねて見てみている。
そこで気になるのがキャノピー。
全く原型がわからない。
キャノピーであることはわかるが材質や細かな形状は付着物が邪魔で見ることができない。

guam425val2主脚のブレーキ。
主脚が長過ぎてブレーキの効きも左右同じじゃなかったりして着陸失敗が多かった紫電。
それに変って紫電改が登場することになっているわけで、九九式艦上爆撃機のブレーキはどうだったのだろう。
この主脚の形状も22型であることを見分けられる改良が行われていることがわかるのだ。

例のエンジンカウリング周辺と思われるパーツ。
あの近くで機銃弾を見つけた。
サイズからして7.7个任呂覆気修Δ任△襪里廼絛綣梓肋綰撃機の
guam425val3ものではない。
12.7个20个?
20个箸覆譴侘軅錣靴搭載していないし、12.7个箸垢譴丱▲瓮螢側の機体か?
この下の方には別の機体があるのだろうか。
  
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April 19, 2018

グアムのダイビングショップ物語2302―今日のグアムと、透明度の良いレック・スコーシア

guam419scotia1今日もなぜかレックダイビングになった。

156年前にイギリスで造られた船であり大西洋最後の外輪船だったが、1896年に大型化されると共に外輪船からスクリュー動力に改造された。
1902年海底ケーブル会社に買い取られ1904年3月11日、グアムにケーブルを運んで来るとき、アプラハーバーへ入るコースを誤り、サ
guam419scotia2ンゴ礁の浅瀬に座礁。
2つに折れた状態で沈没した。
というスコーシアだ。
グアムで唯一の透明度のよいレックダイビングができる。

深度が浅いのと流れが激しいこともある海域なのでレックは広範囲に散らばっているため、進入できる部屋はない。
guam419scotia3船首部分はグラスブレークウォーターの石積みの中に埋もれてしまっていて見ることはできない。
そこから沖に向かって進んで行くとスコーシアの船体に沿って船尾まで確実に辿り着くことができるので、おおよその船の位置関係はわかる。

例えば船首近くにはロープの固まりがサンゴ化しているのをいくつ
guam419scotia4か見ることができる。

元々アッパーデッキより上にはマストしかなく、部屋は全てがアッパーデッキより下の階層にあったようだが、そんな丸みを帯びた曲線の船底の一部は今も確認できる。
大きなクジラの肋骨のように見えるスコーシアの背骨、キールもちゃんと残っている。

guam419scotia5さらに船尾に向かって進んで行けば蒸気エンジンを搭載していたので蒸気を溜めておくための釜状のものが、さすがに丈夫な造りだけあって一番原型をとどめて残っている。

船尾が近付いて来ると、2本のシャフトが見えて来るが、これはおそらくエンジンから出てプロペラに続いていたシャフトだろうと思われるがプロペラは一切残っていない。
しかし船尾は辛うじて現在もこれが船尾であるとわかるだけの形で残っている。


  
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April 18, 2018

グアムのダイビングショップ物語2301―今日のグアムと、バルボンバーを見る目がちょっと変った

guam418val4何も言ってはいない。
ボート上を見回してもレックをリクエストしそうなダイバーはいないと思うが、かなりボートに乗って来るダイバーがでっかいカニみたいなカメラを持っている。
彼はレックが好きかどうか別にして東海丸には最もよく行くダイバーの一人だ。
ということは彼のリクエストか。

何と帰国早々バルボンバーだ。
九九式艦上爆撃機22型。
愛南町で見て来た紫電改は紫電21型。
つまり初代の紫電が11型ということになってエンジンそのままに機体に変更があるということだ。
水上機を得意とする川西航空機の元々水上戦闘機を局地戦闘機に改造しているので都合のよくない部分があったため、その部分を改造したのが21型の紫電改ということになり、最大の改良点は主翼が胴体の中間部分から出ていたものを胴体の一番下に合わせて付けたところだが、このお蔭で諸々改善点を修正することができたのだった。

バルボンバーのキャノピーは最初から開いていたのだろうか。
最初に沈んでいる状態を引き揚げ失敗により変えられてしまっていることが恨めしい。
キャノピーが開いていたとすれば搭乗員たちは脱出できた可能性が高い。
しかし機体が水底に向かって沈むときには恐らく重たいエンジンが付いている前方から落ちて行くと思われる。
そのまま着底したとすればキャノピーは前方に押されて閉じてしまっているのではないだろうか。

紫電改のキャノピーは5僂世嘘いてる隙間があったと聞いた。
不時着水したときの目撃談から誰も水面では脱出していないらしい。
それなのに水中のコックピットには何の痕跡も残されていなかった。
それは沈んで行ってるときにキャノピーを開けて脱出したが、水深が深過ぎたのか負傷していたのか水面に戻るだけの力が足りずに行方不明になってしまった。
guam418val5その後紫電改はエンジンから沈んで行き着底したときの反動でキャノピーが閉じてしまった。

実は紫電改を引き揚げた対岸の浜に上半身だけの遺体が流れ着いたという記録が残っているのだが、今となってはそれが搭乗員のものであったのかはわからないのだ。

guam418val1guam418val2バルボンバーを後にしたらもちろんセメントバージにも足を伸ばしてみる。
エントリーしたのはハーレーリーフ寄りだったので戻って来るつもりでいたのだが、バルボンバーの声が他のダイバーからも出て来て、ドリフトしていいのかと聞かれたキャプテンがいいと言ってくれたので、今日の流れはないけどドリフトは大歓迎なのだ。

それとカメも見た。
しかも絶滅危惧種のタイマイだ!

guam418val3以前から気になっているパーツが落ちている。
バルボンバーよりも30mほど東寄りの水深10m辺りにある。
確実に航空機のパーツと思うが、バルボンバー以外にこの近くに航空機のレックは知らない。
(あるのかもしれないが)
直径を考えればかなり小さいのだが、この曲面を考えるとエンジンカウル部分しか思い当たらない。
バルボンバーの金星エンジンと比べると絶対に合わないサイズであることはわかるのだが、ではいったいこれは何なのだ?となるのである。  
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April 16, 2018

グアムのダイビングショップ物語2299―今日のグアムと、サクラビール門司工場

guam416sakura201912年(大正元年)九州最古のビール会社、帝国麦酒株式会社が門司に誕生した。
作るビールはサクラビール。
日本国内だけではなく門司港からは世界に向けてサクラビールを広めることができる。
特に第一次世界大戦勃発により欧州が戦場となればサクラビールは世界に向けて売ることができたのだ。
そして国内では第3位のビール会社としてシェアは10%を占めてい
guam416sakura1た。

1929年社名をビールブランドのままである桜麦酒株式会社に変更。
ところが戦争の影響でビールの原材料の暢達が難しくなる中、1943年にはとうとう大日本麦酒株式会社に吸収されていくのだった。
終戦後には二つに分割された大日本麦酒株式会社。
門司のビール工場は日本麦酒株式会社側に分割され、その後サッポ
guam416sakura2ロビール門司工場として稼働。
1987年まで美味しいビールを作り続けて来たが、現在は資料館となっている。

現在も残されているレンガ造りのビルは帝国麦酒株式会社の事務所として1913年4月に竣工。
隣には同じく1913年に麦酒醸造棟も建てられ、現在も門司のシンボ
guam416sakura4guamu416sakura3ル的存在として内部を公開しており、階段の手摺には桜がデザインされていたり、暖炉には一番星が飾られている。

それでは歴代の懐かしいサッポロビールのラベルたちを紹
guam416sakura23介する、広島の原爆資料館にも熱風で溶けかかったサクラビールの瓶が展示されていたのだった。
サクラビールどんな味だったんだろう?


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April 15, 2018

グアムのダイビングショップ物語2298―今日のグアムと、原爆資料館で思った

guam415genbaku10戦闘407に所属する本田稔少尉は1944年に343空に編入されたエースパイロットの一人だ。
広島に投下された時は空から目撃し長崎の投下は音で聞いている。
もし3度目の原爆投下があるとしたらそれは体当たりしてでも阻止するという命令が下っており、343空の源田司令は自分が体当たりするので、そのときは俺の2番機を務めてくれと本田少尉に言っていた。
guam415genbaku6この場合の2番機は源田の援護ではなく、源田が失敗したときには2番手として体当たりするという意味だった。
終戦を迎えたとき無事であった本田少尉は皇統護持作戦にも参加した。

実は本田少尉は唯一日本人の空から原爆を目撃した人である。
姫路まで紫電改を受領に行った帰り道、広島上空で広島城が見えた
guam415genbaku5guam415genbaku7辺りで突然舵を取られて500mほど落下したと言う。
機体を立て直して前を見てみると中が赤黒いでっかい入道雲が見えた。
そしてその雲が消えるとさっきまで綺麗に見えていた広島
guam415genbaku8の街の景色が消えていた。
火の手も煙も一切見えないで一瞬にして広島の街が消えていたと言う。

アメリカはいくつかの候補地から広島を選んだ。
原爆投下の目標地点は相生橋。
広島にはいくつも川が流れているが相生橋は川の両岸を結ぶだけで
guam415genbaku9なく橋の中間から中州にもう一本橋を伸ばしているため上空からはTの字に見えているのだ。
川を辿りTの字型の橋に投下する。
とてもわかりやすい目標地点である。

しかし攻撃目標を少し外れ実際の爆心地は原爆ドームから西へ約200mの島病院とされている。
一面焼け野原になった広島の当時の写真を見てみるといくつかのコンクリート製のビルが残って立っているが、実際にはビルの中は全て破壊されてビルという殻だけが残っているだけの壊滅状態だったのだ。
残っていたビルは銀行などであり、原爆ドームと呼ばれるようになったあの有名な建物も広島県産業奨励館であったものだ。

guam415genbaku1本田少尉の証言の通り、一瞬にして高温の爆風が吹き飛ばして広島の街を破壊した原爆であることがわかるものが、ガスタンクに残ったハンドルだ。
表面に塗ってあったコールタールが熱風で溶けたのだが、ハンドルの陰になった部分のコールタールは溶けずに残り黒い色のままだったのだ。

guam415genbaku2三輪車で遊んでいた幼い子供が亡くなり、お父さんは三輪車と一緒に埋めた。
後にそれを掘り返して資料館に飾ってあるというが、よくみればこの三輪車からもどちらから熱風が当たったのかがわかるような気がする。

その他子供たちが着ていた服を展示してあったりして資料館を訪れる内外の人々の涙を誘っているのだが、正直何か違和感のようなものが感じられてならない。
自分がそこから目を背けたいと思っているからなのか、見てみない振りをしているというのだろうか。
鹿児島の知覧特攻平和会館で見た大量の遺書を見たときと同じ気持ちになるのだ。
特攻も原爆投下もあってはならないが、それ以前に戦争を始めたところに原因があるのだと思う。
そうしてしまった浅はかな考えや、止めようと言えない弱い気持ち、などのことをよく考え直すべきだと思うのだが涙を流すだけで先へ進もうとしないで立ち止まっているように思う。

特に戦艦「陸奥」や「大和」。そして紫電改や潜水艦に海軍兵学校。
これらを見て来た自分にとって思ってもいなかったが全てのことが原爆ドームで一つに繋がったように思う。
誰があんな巨大な船を造ろうって言ったんだ。
莫大な金を使って造っておいて実際には使ってないじゃないか。
何で誰も止めなかったんだ。
開戦当初こそ勢いに乗っていた日本だが、時間が経つにつれて劣勢になり、最後は紫電改21機が500機もの敵に向かって行かなくてはならない。
大勢の人間を乗せて航空機の援護もなく沖縄に向けて特攻する大和に意味があったのか。
何故それを止める者が出て来ないんだ。
一方343空では上からの特攻命令を拒絶している。
佐久間大尉は後のために役立ててもらえると思って最期の最後まで報告書を書いている。

海軍次官を務めていた山本五十六ら海軍には日独伊三国同盟に反対する者が多く、もし締結されればアメリカと対等に戦う装備が不足していると訴えていたのに対して陸軍は推進派が多かった。
締結後にはとうとう開戦。
それなら奇襲作戦でとにかく最初の一撃で相手の戦意を消失させる作戦を立てたのに対して、現場では二次攻撃を必要としてそれを押す司令官に対してこのまま帰る決断をするその上の司令官。
どこかに余計なことを言う大物が隠れているのだろう。
どこかの国会中継を見ているように思えてならない。

guam415genbaku4初めて広島を訪れて初めて原爆ドームを見て来たが、読んだり聞いたりして来たこととは全く違うものを感じることができた。
そしてそこを熱心に見て回る外国人の多さは浅草にも勝る数なこともわかった。
日本人として是非とも見に行って肌で感じてもらいたいところだと思った。


  
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April 14, 2018

グアムのダイビングショップ物語2297―今日のグアムと、日本海軍最初の潜水艦

guam414sub1日本初の潜水艦。
第六潜水艇。
5つ目まではアメリカ製のものを日本国内で組み立てたものに対し、アメリカ製の設計図を基本に日本で詳細な設計をして建造されたものが第六と第七潜水艇だが、アメリカ製が106トンだったのに対して第六は57トンという排水量で通常の航海でさえ果たしてできたものなのか。
guam414sub3この第六潜水艇は1906年川崎造船所神戸工場で竣工された。

そして1910年4月15日にガソリン潜航実験のため岩国から広島湾へ出航。
通常日本の潜水艦が潜水航行をするときには電気を動力に使うが、スノーケルを水面に出して給排気を行いながら水中航行を行う実験中にスノーケルから海水が逆流。
guam414sub4スノーケルの長さ以上に深度が下がったのが原因だ。
さらに逆流防止弁を閉じるためのチェーンが外れ手動による作業となり海水の逆流が増してしまう中、停電のため真っ暗闇。配電盤冠水による一酸化炭素の発生。浮力回復のための空気圧を使ってガソリンを排出の際のパイプ破損により揮発ガスの充満。メインタンク排水に使った高圧空気の艇内逆流により異常な高圧になったことなどで乗組員たちは全員死亡する。
guam414sub7
しかし最後まで乗組員たちは持ち場を離れることなく回復させる努力をしたままの状態で亡くなっていた。
艦長の佐久間勉大尉はこの事故を後の潜水艦建造に活かすべく、事故経過の報告書や乗組員遺族のための遺書などをしたためていたまま亡くなっていた。





guam414sub9真珠湾攻撃に参加した特殊潜艇・甲標的。
真珠湾入口で待機していた伊号潜水艦5隻(伊号16,18,20,22,24)から各1隻の5隻の甲標的が発進する。
しかし駆逐艦からの攻撃により真珠湾に侵入できたのは2隻のみ。魚雷は発射したとされているが戦果はなしと思われ、全ての甲標的は撃沈された。
10名の乗組員の内9名が戦死し日本国内では米艦船を撃沈させたということになっていたため軍神と讃えられ九神と呼ばれた。

guam414sub5酒巻和男少尉が乗り込んだ甲標的はジャイロの故障から真珠湾突入に失敗。
座礁を繰り返す内に魚雷発射管が故障する。
アメリカに発見されるのを防ぐために自爆装置に点火して脱出。
泳いで岸を目指すが共に脱出した稲垣清二二等兵曹は力尽き、酒巻少尉も意識を失い砂浜に漂着。
そこを発見され日本軍最初の捕虜となった。
その発覚を恐れた海軍は九神を讃える一方、酒巻少尉のことはひた隠したのである。

guam414sub6酒巻少尉は捕虜収容所では戦時国際法に違反する拷問を受けたり、自決を願い出るも拒否される中、自分のやるべきことは何かを悟り、その後同じく自決しようとした捕虜たちを救ったり、通訳として働くなどして1946年に復員するが、実情を知らない日本人からよく思われることもなく苦労するが、捕虜時代を知る中日新聞記者が酒巻の談話を発表。
それを契機にトヨタ自動車に入社。
輸出部次長などを務めた後1969年トヨタ自動車のブラジルの現地法人の社長に就任している。
海軍兵学校68期卒業生である。

guam414sub8この特殊潜航艇「甲標的」は真珠湾攻撃に実際に参加した5隻の内の1隻であり、1960年に真珠湾港外で発見され引き揚げられたものを揚陸艦しれとこに搭載されて帰ってきたものである。
その後呉造船所により復元され1962年から海軍兵学校に置かれている。

  
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April 13, 2018

グアムのダイビングショップ物語2296―今日のグアムと、愛南町の紫電改

guam413sidenkai11今回の旅の第一目的地である。
遠かった・・・。
愛媛県南宇和郡愛南町。
愛という文字が入るかわいらしい名前が付いているのかと思えば愛媛県の南端であった。
そこで海底で見つかった紫電改が展示されているのだ。
日本では唯一現存する機体であり、不時着する目撃情報から343空
guam413sidenkai1が7月24日に豊後水道上空で行った迎撃作戦中に未帰還となった6機の内の1機であると限定されている。
日本とアメリカの資料を組み合わせて考えていくとかなりの所まで特定できると思われるが、ご遺族の気持ちも配慮すると敢えて特定はしない方がいいのかもしれないという意見もあるようだ。
なかなか写真でさえも見る機会が少ない紫電改の姿、その機体を運用して戦った343空のことを知ってもらえたらと思う。

guam413sisenkai21944年7月までにサイパンとグアムの日本軍が相次いで玉砕。
絶対国防圏が破られた以上、日本本土空襲を避けることができないと判断した日本海軍が本土周辺空域の制空権を回復しようと、軍令部作戦課の源田実大佐の意見で1944年12月に創設されたのが第三四三海軍航空隊(343空)だ。
初代343空は通称隼部隊と呼ばれ、これから語る343空、通称剣部隊とは異なる。

guam413idenkai3制空権獲得には優秀な戦闘機隊の確立が必要。
それには優秀な操縦員、頑丈な戦闘機、そして優秀な無線電話が絶対不可欠という考えから動いた源田大佐は、指揮通信網の整備と高速偵察機・彩雲を装備する偵察第4飛行隊(偵4)を編成。
戦闘機には日本海軍最強の局地戦闘機・紫電改(紫電21型)を優先的に集め、世界各地に配属されていた優秀な操縦員たちも集められた。
1944年12月25日横須賀基地で343空を編成
1945年1月15日源田大佐自ら司令に就任し1月19日には松山基地に着任する。

guam413sisenkai4戦闘機隊には菅野直大尉率いる戦闘301、鴛淵孝大尉率いる戦闘701、林喜重大尉率いる戦闘407、定数各48機の3個戦闘飛行隊が選ばれた。
そして編成と同時に松山、大分、出水各基地で錬成に入り1945年1月末までに3飛行隊全てが松山基地に集結した。

1945年3月13日初めての出撃命令が出たが敵の来襲はなかった。
3月18日偵4が敵機動部隊を発見、出撃するが敵が九州方面に向かったため遭遇なし。
3月19日米機動部隊による九州沖航空戦での迎撃した松山上空戦が初陣となるが、源田司令は敵爆撃機には構わず徹底的に戦闘機を狙わせた。
F6Fヘルキャット、F4Uコルセア、SB2Cヘルダイバーから編成される米艦上機160機に対して、紫電7機、紫電改56機が迎撃し米軍機58機を撃墜し日本最後の大戦果となったのだ。

guam413sidenkai51945年4月1日343空は第5航空艦隊に編入。
沖縄に上陸する米軍を迎撃する菊水作戦のため基地を鹿屋に移す。
任務は特攻隊の護衛であり制空権確保にあたる。

松山基地で親しかった今井琴子さんが隊員たちに送った紫色のマフラー。
そのマフラーに「ニッコリ笑えば必ず墜す」と刺繍されたいた杉田庄一少尉。
1943年4月18日前線視察に訪れていた海軍連合艦隊司令長官・山本五十六が機上する一式陸上攻撃機が、ブーゲンビル島上空で米軍のP-38に撃墜されたとき護衛していた6機の内、第一小隊3番機として杉田少尉も参加していた。
撃墜数も多く、343空の教員をしていた坂井三郎と口論まで交わしたほどの性格でもある。

guam413sidenkai61945年4月15日、敵機接近の報告から源田司令は出撃を命じる。
しかしF6Fヘルキャットの襲来が早く基地上空に現れたため離陸中止命令を出すが、既に発進していた杉田機に敵が群がり撃墜され戦死。
戦死地点の鹿屋航空基地に杉田少佐の慰霊碑が建立されている。

その後343空は桜島の北にある第一国分基地に移動。
大型爆撃機B-29の迎撃任務に就く。
一機につき6門の強力な機銃を装備しているB-29は強固な要塞のようであるが、これに対する攻撃法、直上方からの降下攻撃は菅野直隊長が考案したものだ。
4月21日戦闘407飛行隊長、林喜重大尉が戦死。
4月25日大村基地に移動。

guam413sidenkai7第5航空艦隊から343空に特攻作戦を行うよう打診が来た際、志賀淑雄飛行長は「私が先頭で行きます。兵学校出は全て出しましょう。予備士官は出してはいけません。源田司令は最後に行ってください。ただし、命令して来た上級司令部参謀が最初に私と来ると言うなら343空はやります。」とし、源田司令も全くだと同意した後343空に特攻の話は来なくなったと言う。

菅野直隊長の右腕として戦ってきた杉田少尉が戦死し、その役目を担うために横須賀航空隊から源田司令の頼みで引き抜かれた来たのが武藤金義少尉。
大空の宮本武蔵と呼ばれる操縦員であり、その腕を買われて菅野直隊長の元に配備された。
「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません。」
赴任早々の挨拶で源田司令から菅野を頼むぞと言われた際の武藤金義の言葉である。

guam413sidenkai8そんな武藤少尉の343空の初出撃となるのが7月24日の呉軍港空襲である。
各基地からの攻撃を避けるため米軍の艦載機は四国南方沖から豊後水道を通って瀬戸内海を進み呉を攻撃。
そのコースを通って空母に帰還しようとするのはおよそ500機。
その巨大な敵に向かうのは343空の24機。
3飛行隊合わせてもこの数しか作戦に参加できなかったのだが、その内3機は不調により離脱する。

guam413sidenkai9源田司令は帰還中の大編隊の最後尾を狙わせるが、500対21だ。
343空は16機の撃墜を報告するが味方機も6機が未帰還となる。
戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉、戦闘301の武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹だ。

8月に入ると343空は航空機と搭乗員の補充要求を止める。
使用可能な航空機も20機ほどになっているが、残った隊員と源田司
guam413sidenkai10令、志賀飛行長も出撃する予定であったが、8月1日屋久島に飛来したB-24とP-51を迎撃中、菅野直隊長の機銃が主翼内で暴発する事故が起きる。
この日の出撃は愛機の343ー15番機ではなく343ー01番機であった。
「ワレ機銃筒内爆発ス。」という無線を聞いた二番機の堀光雄飛曹長が横に付けて護衛に回るのを見て戦闘に戻れと指示するが離れない堀光雄飛曹長に最後は拳骨するぞという仕草で戦闘に戻す。
その後菅野隊長の声で「空戦ヤメアツマレ」が聞こえたため隊長のいると思われる周辺に集まった隊員であるが、菅野隊長機は空のどこにも見つからなかった。


  
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April 12, 2018

グアムのダイビングショップ物語2295―今日のグアムと、江田島・海軍兵学校

guam412heigaku3銀座にみゆき通りという道路があるのをご存知だろうか。
1960年代にはみゆき族と呼ばれる人々が出て来て困ったもんだという時代もあったが、正式には行幸通りだ。
東京の築地にある新橋演舞場と日比谷公園を結んでいる通りで晴海通りと平行している。
つまり明治天皇が築地にあった海軍兵学校に馬車で通った道のりのことだ。

1869年、築地に海軍操練所にが創立。
1870年に海軍兵学寮と改称し1876年に海軍兵学校が開校したのだが、1888年に広島県江田島に移転。
現在も残る本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれてイギリスから軍艦で運ばれたと言われ、現在の価値にして一つのレンガが20万円ほどだと言う。
しかし校舎がすぐに完成することもなく、江田島移転後およそ20年近くは本校舎で授業は受けることができず、東京から回航した艦船(東京丸)を校舎代わりに使ったと言われている。
つまり海軍兵学校卒業生の13期生までは築地。32期生まではこの本校舎で勉強することはなかったことになるのである。

guam412heigaku11943年には岩国分校。
1944年には大原、舞鶴分校。
1945年針尾(長崎)分校が開校されたが、1945年12月までに全ての海軍兵学校が廃校となった。

海軍兵学校とは、学校内で成績優秀の1番の生徒が目指した学校であり、2番の成績の者は陸軍士官学校。
3番4番目の生徒は東大を目指したとされる超エリート集団なのである。

guam412heigaku7guam412heigaku8また卒業時の成績も大きく左右し、卒業証書を一人一人受け取ることが出来る生徒は上位3番までで、それ以降の生徒はその他大勢扱いされ、それが海軍内での出世いにも影響したのだ。
guam412heigaku2これが卒業証書を受け取る壇上であるが、この階段を上ることができた者は極少ない。
そもそも卒業式を執り行う講堂だが、広くその正面を見せているのは裏口である。
正面口は皇族の方などの位の高い人だけが許された出入り口なのだ。

guam412heigaku6最近の人は「同期の桜」という言葉を知っているだろうか。
そもそも同期とは海軍兵学校の同期生のことを指している。
同じ釜の飯を食い、同じ苦労を共にしてお国のために励んで行く。
もしも貴様に何かがあれば、その家族のことは俺に任せろ。心配せず存分に戦って来い。
俺ぐらいの絆で繋がる仲間たち。
その同期の桜がいまでもこの向こうの中庭できれいな姿を見せている。

本来はこの本校校舎内も見せていただけるようなのだが、今回ちょうど学校長が本校舎に戻って来る時間と重なったようで我々は遠慮する形になった。
しかしちょうど学校長が車で正面玄関に横付けしてお帰りになった。
我々見学者には案内役の方が色々説明してくれているのだが、その学校長に向けてスマホを向けて撮影している者が一名。
規律には反していないのだろう。
その方は何も咎めない。
しかしそれ以降無口になったのは気のせいではないはずだ。
学校長が車から降りるところはインスタ映えかもしれない。
しかしその行為には賛成できないと思うのは自分だけではなかったのだろう。

guam412heigaku5guam412heigaku4本校舎は横幅144mあるらしい。
その端から端までの廊下だ。
そしてこれが2階への階段。

世界の三大兵学校と呼ばれる江田島の海軍兵学校。
1874年から卒業生を送り出して来て、最終卒業生は78期生の4048名。
卒業は1945年10月1日であった。
  
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April 11, 2018

グアムのダイビングショップ物語2294―今日のグアムと、戦艦・大和

guam411yamato1バルバスバウ(球状艦首)だったんだ。
宇宙戦艦ヤマトを薄らと思い出してみれば波動砲を打ち出すためのデザインかと思っていたのだが、実際の大和には本当にバルバスバウが付いていたのだ。
現在のコンテナ船などに見かけるような先端が球状の円錐形ほどのものが出っ張っているのとは違い、ほんの少しだけ球状のものが出っ張っている程度だが、実はその形状に日本ならではの工夫が施されていたのだと言う。

guam411yamato5いつも同じ重量を積み込んで同じような速度で航行する場合、常にバルバスバウを水面下に入れておくことが簡単だが、どちらかに変化が起きてバルバスバウが水面上に出っ張ってしまうと逆効果になってしまうのだ。
そこで巡航速度でも戦闘時の最高速度でも効果の高いバルバスバウの開発が必要だった。この条件が叶えられなければ戦艦にバルバスバウは必要なかったのだ。

てっきりあんなへんてこな形の船首は近年の発明と思っていたが、バルバスバウ自体は1911年にアメリカで発明されていたものらしい。
それを大和に合う形に日本人らしく工夫を凝らして完成させたものが戦艦・大和には付いていたのだ。
決して波動砲のためのデザインではなかったのだ。
そして改めてよく見てみれば波動砲はバルバスバウからではなかった・・・。
バルバスバウの上にある丸い穴から発射されていた。

guam411yamato4実はこの穴にも面白いエピソードがあるようで、菊の御紋がなければ大和ではないという意見と軍国主義に見られたくないという意見の間を取って付けた丸いデザインだったそうだ。

戦艦の類いにはあまり興味がなかった。
もし大和が沈んでいるところをダイビングで見に行くことができるとしたら行くことは間違いないが、船内の複雑さ、想像できない形、生活感がないだろうと思われる船内が、徴用されていった商船とは全く別のもののように思うからだ。
だからほぼ初めて気にしてよく見た大和が今回なのだ。

guam411yamato6大和の就役は新真珠湾攻撃の直後の12月16日。
それまで極秘で建造されて来たので一般には全く知られていなかったが、1942年2月12日に連合艦隊旗艦になった。
最初の出撃は1942年6月のミッドウェー海戦。
1943年2月、司令部設部に改良を加えた姉妹艦・武蔵がトラックに進出したとき、連合艦隊旗艦任務は武蔵に移された。
その後大和は1944年6月のマリアナ沖海戦に参加するが、ほぼ戦闘はなく温存。
陸奥と同じように大和ホテルなどと言われることになる。
大和の主砲が火を噴いたのは1944年10月のレイテ沖海戦だった。
32卆茲慮えない敵艦に向けて104発の46冕い鬚屬段したのだった。

マリアナ沖海戦の敗北で空母と航空機をほとんど失った日本。
本土空襲を実現させないための絶対的国防圏を破られてしまった。
残された艦船と航空機を使い、なけなしの空母を囮にまで使うといったレイテ沖海戦でも敗北した日本にはもう一億総特攻しかなくなったのだ。
アメリカの次の狙いは沖縄。

1944年4月5日。
大和甲板に乗組員が集められた。
「本作戦は特攻作戦である」
そう告げられた乗組員たちは一瞬の沈黙の後「やってやろうぜ」「武蔵の敵討ちだ」と士気を高めたが、状況から誰もが出航前にそう思っていたことであったと言う。
4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。
君が代斉唱と万歳三唱の後、それぞれの故郷に帽子を振ったのだった。

guam411amato2九州近海までは零戦が空から護衛してくれていたが、4月7日12時34分。
アメリカ軍の航空機を50卆茲鉾見。
射撃を開始するが8分後には偵察爆撃機ヘルダイバーが艦尾に攻撃を開始するのを皮切りに戦闘機、爆撃機、雷撃機が代わる代わる攻撃を開始する。
14時23分、上空のアメリカ攻撃隊指揮官はとうとう大和の転覆を確認。
まるでお椀をひっくり返すようだったと言っている。

guam411yamato3現在、大和は水深345mの海底に眠っている。
艦首の菊の御紋はしっかりと艦首に残されたまま。

  
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April 10, 2018

グアムのダイビングショップ物語2293―今日のグアムと、戦艦・陸奥

guam410mutsu1日本海軍連合艦隊旗艦。
大和と武蔵ができるまで長門と共に陸奥が務めていたため日本人ならほとんどの人にその名を知られている。
兵装も当時としては世界に7隻しかなかった41冕い鯀備。
大和と武蔵に46冕い装備されるまでこれも世界最大級だ。

1941年12月8日真珠湾攻撃の際、山本五十六連合艦隊長官は陸奥を
guam410mutsu6guam410mutsu7含む戦艦部隊、空母、第一水雷戦隊を率いて出撃。小笠原諸島近海まで進出。
1942年6月のミッドウェー海戦。
1942年8月24-25日の第二次ソロモン海戦等に参加したが
guam410mutsu8交戦することはなく温存されていたが、8月27日第二駆逐隊の3隻(村雨・五月雨・春雨)と陸奥に接近して来たアメリカ軍飛行艇に対して主砲を発射。
アメリカ軍飛行艇は爆弾を投棄して逃走している。

1943年1月7日、陸奥は空母瑞鶴らと共にトラックから内地へ回航される。
guam410mutsu2瑞鶴は呉に向かうが陸奥は横須賀へ向かい12日には到着。
2月15日、駆逐艦3隻(山雲・旗風・野風)に護衛されながら呉に回航された。
6月8日広島湾沖の柱島泊地に停泊している陸奥。
周囲には姉妹艦の長門らも停泊している。
午後1時には旗艦ブイを長門に譲るため繋留替えをする予定であったが昼食も終わり「煙草盆出せ」の命令が出ていた12時10分頃、三
guam410mutsu3番砲塔と四番砲塔付近から突然煙を揚げ始め爆発。
陸奥は四番砲塔後方甲板から2つに折れ、前半分は右舷に傾きながら急速に沈没。

長門は潜水艦からの攻撃と判断して現場を離れながら救助艇を陸奥に送る。
後方の半分は船尾をを上にしてしばらく浮いていたため、接岸して
guam410mutsu4救助活動が行われたが、4時間後には沈没し乗員1474名の内助かったのは353名のみ。
この中には午前11時に乗り込んで来たばかりの予科練甲飛第11期練習生と教官134名も含まれていた。
戦闘機乗りなら標的になる戦艦のことも知らなければならないという艦務実習に訪れていたのだった。

guam410mutsu5guam410mutsu10引き揚げ作業は1944年から始まっているが、許可範囲を超えるはぎ取り事件があったりで中断したり再開したりであったものの、1953年8月16日には船首の菊の紋章が回収された。
guam410mutsu11この他砲塔なども引き揚げられていて陸奥の一部は各地で展示されているが、それだけではなく水中の陸奥にダイビングもできるのだ。

一方、姉妹船の長門であるが1945年7月18日の横須賀空襲で艦橋へ攻撃を受け、艦長の大塚幹少将を含むほとんどの艦橋にいた人が戦死しているが、そのまま修復されることもなく放置されたまま終
guam410mutsu9戦。
1945年8月30日にはアメリカに接収され詳細な調査の後、1946年3月18日に核実験のためビキニ諸島に向けて自力航行で出発。
しかし使えるボイラーの数が限られるためスピードは数ノットだけだった。

1946年7月1日の第一実験では爆心がずれたこともあるがほぼ無傷
guam410mutsu12であり航行も可能であった。
7月25日の第二実験後、長門は右舷に5度傾いたものの海上に浮かんでいたが、4日後の7月29日に確認したときには水面から消えていた。
誰にも見られることなく沈んでいった長門なのである。
そして陸奥と同じように長門もダイビングが可能となっているのだ。
  
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April 09, 2018

グアムのダイビングショップ物語2292―今日のグアムと、門司港駅

guam409mojieki1guam409mojieki2小倉から乗り継いだ鹿児島本線で降り立った駅は確実に昭和だった。
駅名の表示板からホームの屋根に至るまで昭和以外のものはない。
門司港駅が終着なのでホームの両側に列車が止まっているが、その列車だけはちょっと今風で残念。
ときどき昭和風の列車も来ているのを見たが、どうせならそんな列車に乗って来たかった。

門司港は門司港レトロと呼ばれて観光客を集めているが、正直大阪商船ビルと日本郵船ビル以外に興味がなかった。しかし門司港駅に降り立った瞬間に気が変わった。
駅舎そのものが歴史的建造物なのだ。

guam409mojieki31901年に下関まで伸びた山陽本線。
関門トンネルができるにはまだ41年もあるのだが、下関から門司港まで関門連絡船を国鉄が運航していたのだ。
関門トンネルが開通すると同時にその役割を終えたが関門連絡通路跡が門司港駅構内に残されている。
戦争末期だけのことだが連絡通路脇には監視孔まである。
外国航路で門司港に来る不審者の侵入をここで食い止めるのだろ
guam409mojieki5guam409mojieki4う。内側に行くに連れて穴は小さくなっていて外から内部を覗きずらい形になっているが、外に向けて銃を向けるトーチカにも見える。

その他切符売り場なども当時
guam409mojieki6のままの看板を残しているが、内部はみどりの窓口である。
しかし洗面所などは看板だけではなく実際に現在もその当時のまま使っている。
当時の洗面所というのは本当にそのままの意味で長旅を終えて門司港駅に降り立ち、すすなどで汚れた顔を洗うための場所なのだろう。
トイレとは仕切られている。
guam409nojieki7guam409mojieki8やはり人が小便している脇で顔は洗いたくはないのだろう。

またその外には帰り水と呼ばれる水飲み場がある。
終戦後、戦地から復員して来た人々は戦地の透き通っていなかった水と比べて門司港の美味い水を口にしたとき、内地に帰って来たことを安堵し実感したのだろうと思う。

guam409mojieki10guam409mojieki9それにしても残念なのが駅舎だ。
本来ならこんな素敵な駅舎が見えるはずの所には工事用の幕が張られていて全く何も覗くことができない。
実はこの幕のお蔭で日本郵船門司支店ビルもちゃんと正面から見ることができないのだ。
何とかトイレ部分の外観は残されているが、駅舎の外観を見ることができないのは全くもって残念だ・・・。
  
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April 08, 2018

グアムのダイビングショップ物語2291―今日のグアムと、大阪商船・門司支店ビル

guam408moji8大阪商船は1884年に瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資してスタートしている。
代表的になったルートは阪神から九州の別府温泉へ乗客を運ぶものであった。
別府港は1871年には完成していて多くの観光客を受け入れていたが、大阪商船が1884年には佐伯丸、1912年には紅丸が就航することによって阪神ー別府間に観光航路が開設されることになったのだ。
guam408moji9その後1916年には大阪商船専用の桟橋が完成するなど、明治から昭和にかけ大阪商船は別府温泉を日本一の温泉に発展させていった。

そんな活況を呈する瀬戸内海航路を見たのか見ていないのか、神戸までしか開通していなかった東海道本線。
その鉄道を1888年姫路まで伸ばすところから始まり、岡山、三原、広島へと伸ばしていき1901年には本州最西端の下関まで開通する
guam408moji12が、門司駅が最終駅となるのは関門トンネルが開通する1942年まで待たなければならなかった。
しかし山陽本線の存在は確実に瀬戸内航路の乗客を奪うことになっていく。

1917年、大阪商船は門司港から大陸へ航路を延ばし大陸貿易の拠点とするために、大阪商船門司支店を竣工したのだ。
guam408moji11







guam408moji7guam408moji6当時は目の前まで海が迫っていたため、大阪商船の桟橋がこの門司支店ビルのすぐ前まで伸びていたので建物の一階は乗船客の待合室として使い、二階は大阪商船の事務所になっていたようだ。
建設されて101年。
地上二階建てのビルは今でもしっかりとしているが今は門司市が管理しているのだそうだ。

guam408moji3guam408moji41964年、大阪商船は大阪商船三井船舶株式会社となっているのだが、どういう経緯で三井と繋がったのかが明確ではない。
元々東海丸などを造ったのは三菱重工長崎造船所であるわ
guam408moji5けで、どこで三井がというところなのだが、二階の事務所だったスペースには当時の金庫が残されていて、観光客に開けてみろと開け方まで説明されていて触ることができるのだ。
そしてその金庫にはしっかりと三菱マークが。
三菱合資会社門司支店と書いてある。

guam408yusenguam408moji10また隣には1927年建設の日本郵船門司支店ビルが立っている。
外観は改修されているようで大阪商船ビルと比べると何の特徴もない四角いビルのように見えているが、当時の門司では初めてのエレベーターが備えられた最新ビルディングであったらしい。
海に面していることは大阪商船ビルと同じ条件だが、やはり早い者勝ちで角地は大阪商船が確保し、ビルのデザインも角を有効に使った美しい形になっている。
ここまで海が迫っていたということはビルの角に立つ八角形の塔はもしかしたら灯台の役割もしていたのではないだろうか。  
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March 30, 2018

グアムのダイビングショップ物語2288―今日のグアムと、ベッドかもしれないよ

guam329tanker4連日の強風だが、風の方向が変わって来てとうとう外洋が荒れ始める方向になってしまった。
我々にはなんら問題はないのだ。
「アメリカンタンカーでいいか?」
期待していなかったレックなのでファーストダイブで潜ることは少ないし、ダイバーはそれぞれちゃんとした水中ライトを持っている。
それならば後、中央、前の一般ダイバーがあまり行かないところを探検してみよう。

ここも水面は荒れているが透明度はグッドだ。
guam329tanker1ワイドレンズを付けずにここまでタンカーの形を写すことができれば上等な透明度だ。
応急操舵装置の部屋への降り方がよくわからないが、ここには常に人が出入りでき室内には空間があったと思う。応急操舵用の大きなレバーを動かすのに使ったと思われる大きい滑車が左右に2つずつ合計4つある。
この滑車にワイヤーなどを通して応急的に操舵する訳だから液体が入っていたわけがないと考える。

guam329tanker2中央の巨大な部屋には階段もあるので人が降りて来る必要性があったのだと思うが、電灯には防水の工夫がされている。
また特に細かいパイプやワイヤーなどは張り巡らされていない。
今はアメリカンタンカーと呼ばれているがオイルタンカーとして燃料満載してハワイからグアムに曳航されて来たことを考えれば、この巨大な部屋には燃料が満たされていただろうと思う。
階段と照明の必要性があったのかどうかだが間違いなく液体が入っていた部屋のはずだ。

guam329tanker3前方の部屋には、ようやくレックっぽい景色と言える棚の痕跡がある。
今はなくなっていることを考えれば棚が木製であり、残されているのは朽ち果ててしまった棚板を載せていたと思われる支え部分だ。
人が寝泊まりしていたとは思えない作りではあるが、もしかするとこの棚は物置ではなくベッドだったりしてと考えるとまた面白くなってくる。
だからこの部屋はまたよく見に行かないとなのだ。  
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March 29, 2018

グアムのダイビングショップ物語2287―今日のグアムと、強風のお蔭か透明度がいい

guam328jake1今までで一番いい透明度かもしれない。
アプラハーバー内がバシャバシャになっているほどの強風が吹いている。
先日なんかは風がフィンガーリーフに向かって吹いているっていうのにフィンガーリーフにボートを向けたキャプテンがいてブイのロープをシャフトに巻き付けていたけど、アップウェリングっていうのをオープンウォーター講習で習っていればそう言う場合はアプラ
guam328jake2ハーバーの北側のポイントの透明度が増しているはずなんであるとわかるのだ。
そういう理屈で風が東から吹いてくれているので強風で面倒くさいボートダイビングではあるのだが透明度には有利に働いてくれてるということだ。

ここまで全景がはっきりしてる零式水偵を上から見ると、明らかに
guam328jake3ひっくり返っていた機体の後部を持ち上げて元の形に戻そうとしたら機体の中程で折れてしまい、中央の偵察員の座席のところから後方部分だけが仰向けに戻って機体前部の上に乗っかっちゃってることがわかる。
この下には操縦席があるはずなのだ。

操縦席の前方。
エンジンの付根部分はまあまあ見える位置に出ていて、消炎効果を持つ排気管や冷却空気取り入れ口を確認することができるがエンジン類は一切残されていない。

guam328jaje6博物館で偶然見つけた写真が大きな手がかりとなって来る。
給油用の桟橋が入り組んでいる中の岸のすぐ近くの水面から、今沈んでいるのとほぼ同じ恰好で零式水偵の大きな2本のフロートが突き出ている。
戦後この場所の整理をするときに邪魔になった零式水偵を沖に引っ張って行って今の位置に沈めたと推測すると、廃棄する前に外しておきたいパーツなどがあるだろう。
例えばエンジンだとかコックピット内の計器類とか。
それが今レックダイビングとして見に行くと、綺麗さっぱりと色々持ち去られてしまった零式水偵という印象になっているのだろう。

guam328jake5もう一つこの写真から推測できるものがあると思う。
このポイントを東寄りに流して行くいくつも転がっているゴム製の物体。
ゼネラルタイヤという文字が見えるが、中が空洞になっていて、さらにその空洞を支えてるゴムパーツが波形となっていて、このまま重さだとか衝撃を吸収するためのクッションの役割を果たしていると思う。
この上の水面に作られていた給油用の桟橋。
その桟橋の材料の一つではないだろうかと考えれば、この謎のゴムの物体が転がっていることの答えではないだろうか。
ただ戦中にアメリカ製と思われるこのパーツを使うことができたのかが疑問だ。

guam328jae4今回航空機に詳しいレックダイバーと潜ったので、何やら水底からつまみ出して見ていたが、フラップの一部だと思うと言う。
砂煙が激しく写真は撮れなかったが、なるほどあの骨組はそういうものであるのか。
プラモデルを作るとパーツがよくわかるらしいのだ。
自分もプラモデル作ってみようかなと思い始めた。  
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March 28, 2018

グアムのダイビングショップ物語2286―今日のグアムと、風の影響考えないとだ

guam328kidu1一ヶ月ぶりだろうか。
久しぶりの木津川丸だ。
正直ちゃんと見つかるかどうかが心配なので、辿り着けば最高に楽しいのだが見つけるまでが相当に不安。

最初の頃は自分が先に飛び込んで見つけてからフロートを上げる。
そのフロートのラインを頼りにみんなダイバーたちが降りて来るようにしていたが、これが一発で見付けられる可能性半分もない。
水深20mにあるはずの木津川丸のマストの頂上。
しかしこれは船という大きい目標物ではなく、直径50僂曚匹離泪好箸里討辰擇鵑鮓つける作業となり、そんなピンポイントの山立ては無理だ。
GPSだって無理だと思う。
その結果水深30mまで降りて見つけられなければ一度浮上のやり直し。
そんな身体に悪そうな方法を続けてしばらくして、ダイバーの身体は思ったほど垂直には沈んでいないことが判明した。

guam327kidu2そこでなるべく細いロープに最小限の重りを付けて投げ込むことを始めたのだ。
重りが重いほど正確さは増すと思うが、言っておくがその重りは捨てては来ない。自分で持って帰って来ることを考えれば2圓妥当だろうと思う。
そのための細いロープが自分がBCDの裾にいつもぶら下げてダイビングしている黄色いロープなのだ。
いつでも木津川丸行けるし、解けばレックダイビングのガイドロープにも使えるし、ドリフトダイビングのフロートを上げるときにも使えるという一石三丁の優れものなのである。

最初に試したとき、一投目で木津川丸のデッキに乗った!
しかもマストのすぐ脇なので下まで行く前にマストが見えたほどの正確さであった。
さて今回は・・・。
ここのところ風が強いのだ。
台風3号の影響でアプラハーバーでも波がバシャバシャしている。
お前が自分でボートをそこに持って行けとばかりにフレビンが操縦を変った。
こいつ責任取る気持ちないな。(笑)

guam327kidu3よしここだ!
ゴー!
フレビンが2圓僚鼎蠅付いたロープを投げる。
自分的には確実にデッキに乗っているはずと思って潜降していくのだが、水深30mになっちゃったぜ。
でも薄らと向こうに陰のようなものが見える気がするので浅く戻りながら、ロープを持ち上げてそっち方向に泳いでみる。

1guam327kidu45mほどずれていたようだ。
おそらく自分のロープが編んであるため、それを解きながら2圓僚鼎蠅沈んで行く内に水面に浮かんでるフロートが風に押されてずれて行った誤差だと思われるので、次回は風があるとしたらその影響を考えようと反省することができた。
もう木津川丸の船の中央のマスト付近の位置は外すことはない。
山立ての距離が短くはっきり見えているので。
問題は細い船体の横方向のズレである。

今日もレックダイバーたちが興味深く大砲を眺めていれくれていた。
面白いねえ!
このひと言が苦労して辿り着く木津川丸であっても、だからこそまたここに案内したくなるレックポイントであるのだ。  
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March 27, 2018

グアムのダイビングショップ物語2285―今日のグアムと、東海丸の爆雷と投下装置

guam327bakurai5確認!
東海丸の爆雷という写真を見つけ、東海丸が1943年1月11日に東海丸が横須賀を出港するときに爆雷を積み込んだという記録を見つけた。
今日は自分の目で爆雷の確認をしたい。

何回もそこを通っているし何枚も写真を撮ってはいるのだが、爆雷があるという前提で見ていない。
まさか徴用され運搬船となった商船に爆雷が積んであるとも思っていなかったため、今まで全くそれに気が付いていない。
サイズもグアムで売っているオイル缶とかバケツ。
ギャブギャブ2で餌を入れて逆さにぶら下げている白いバケツとほぼ同じ大きさに見えているので、全くそれを爆雷とは思うこともなかったが、爆雷と言われると確かにそれは爆雷のようであった。

guam327bakurai3位置は東海丸の後部デッキ。
爆雷を船の前方で落とすやつはいない。
そしてそういう目で見てみると「ん!?」
爆雷を落とす投下装置のようなものまで見えて来た。



guam327bakurai 1この後部部分のTの字型にある一段高いところはドッキングデッキと呼ばれる接岸作業でロープなどを扱うためのデッキだ。
そしてこのT字の下の棒の先端が東海丸の最後部となり、その下には海に浮かんでいる頃には東海丸という船名が書かれていた部分。
その両脇の左右には切れ込みが入っているが、これはずうっとロープを岸壁と結びつけるための凹みだと思っていたのだが、よく見ると平ではない。
guam327bakurai2爆雷の存在がわかった上で見てみれば、これは爆雷をセットして置く台だろうと思える。
おそらく手動で動かすのだろうが、「投下!」と言われたらレバーを引くなりして台の上の爆雷を後方に放り出す役目をするように見える。
たぶん間違いないと思う。

guam327bakurai4爆雷がある部屋にはだいぶ堆積物が覆い被さっているが、パッと見て3つほどの爆雷しか見えない。
1月11日に横須賀を出港してサイパンに寄ってからグアムに到着しているが、その間に潜水艦との戦いがあったのだろうか。
何発かは潜水艦に向けて攻撃したのだろうか。
たった3つの爆雷を積み込んだとも思えないし、そんな3つのことで記録に残しているとも思えない。

しかし東海丸にさえ積み込まれて使われていた爆雷。
こうなってくるとほぼ全ての商船に積み込まれていたのだろうと思うし、確かに船首に備えられた大砲よりも敵潜水艦への攻撃には有効であるように思う。
命中することはあまりなかったのだろうが、潜水艦側からすれば大砲よりもずうっと嫌だろうと思う。  
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