2010年08月
2010年08月06日
核の廃絶を心から願う。
今日は、広島に原爆投下から、65年の節目にあたり、国連の事務総長他、核の保有国の特使が訪れて式典を盛り上げて前世界に核の廃絶を盛り上げる狙いい゛来日している。世界で人類の被爆国は日本なので、積極的に核廃絶に世界に訴えて欲しい。
※私の思い、広島といえばサラリーマン時代の昭和42年に大阪から広島に転任、原爆投下以降、被爆地には40年以上草木も生えぬと聴いたことがあり、広島で移住する事に抵抗は熱田が有った。原爆の後遺症の余波が残っていて、自分にも目に見えない、放射線が、自分の身体にも被爆の後遺症が残るのではと心配した時期も有りましたが、着任ご、同僚の友人彼女〔被爆者〕原爆病院に治療入院中、何度か同僚の彼と一緒に見舞いに行った同僚の給料は、ほとんど彼女の入院治療費に消えて居たと聞き私も見舞いの度に見舞金として小額では有るが、添えて居ました、病院には、大勢の入院患者が居り、被爆当時の話を良く聴きました、彼女は私が着任後、1年足らずで他界、髪の毛の長い可愛い顔立ちの女性でしたが、亡くなって終い、8月に成ると悲しい昔の想い出がよみがえって来ます。
追伸
昭和40数年当時は、広島に着任、旧の広島駅に到着、当日、昭和42年に広島駅から赴任先の宇品に移動する際に乗車した市電が広い道路の端を走り、何で、と驚いた記憶があり、被爆前は、道路が狭く真ん中を市電が走って居たが、被爆後に道路拡幅工事が先行して線路の移設が後回しになったところへ着任の為、不思議な光景でしたが、毎年、8月の原爆投下記念に成ると思い出されて、過ぎ去った昔の悲しい思い出ですが、地球上で、三度ね人間同士が悲惨な原爆投下が無い世界に核廃絶を達成したいものです。
※私の思い、広島といえばサラリーマン時代の昭和42年に大阪から広島に転任、原爆投下以降、被爆地には40年以上草木も生えぬと聴いたことがあり、広島で移住する事に抵抗は熱田が有った。原爆の後遺症の余波が残っていて、自分にも目に見えない、放射線が、自分の身体にも被爆の後遺症が残るのではと心配した時期も有りましたが、着任ご、同僚の友人彼女〔被爆者〕原爆病院に治療入院中、何度か同僚の彼と一緒に見舞いに行った同僚の給料は、ほとんど彼女の入院治療費に消えて居たと聞き私も見舞いの度に見舞金として小額では有るが、添えて居ました、病院には、大勢の入院患者が居り、被爆当時の話を良く聴きました、彼女は私が着任後、1年足らずで他界、髪の毛の長い可愛い顔立ちの女性でしたが、亡くなって終い、8月に成ると悲しい昔の想い出がよみがえって来ます。
追伸
昭和40数年当時は、広島に着任、旧の広島駅に到着、当日、昭和42年に広島駅から赴任先の宇品に移動する際に乗車した市電が広い道路の端を走り、何で、と驚いた記憶があり、被爆前は、道路が狭く真ん中を市電が走って居たが、被爆後に道路拡幅工事が先行して線路の移設が後回しになったところへ着任の為、不思議な光景でしたが、毎年、8月の原爆投下記念に成ると思い出されて、過ぎ去った昔の悲しい思い出ですが、地球上で、三度ね人間同士が悲惨な原爆投下が無い世界に核廃絶を達成したいものです。