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 いま世界的にも脚光を浴びているのがShibari (縛り) 、Kinbaku (緊縛)です。SMの世界に不可欠な拘束の一種である縄による拘束は、静かに見直され、芸術性豊かな表現として多くの人々によって評価され観賞されています。
 ボンデージ(BDSMのB)からすると、bondageのB。基本の基本となります。
 縄を使う拘束はとてもフレキシブルで、拘束される側の体躯に合わせて調整ができるだけではなく、相手にダメージを与えるほどのハードなものから、より安全なソフトなものまで縛る者の技術しだいで対応ができます。
 また、手錠などの器具で拘束する場合に比べると、縛る時間、解く時間、つまり間合いが生まれます。このときに縛る者と縛られる者は、縄を通して一種の会話をすることになります。これが独特の世界を生み出すのです。
 肌に食い込む縄は、とくに女性モデルをより美しく見せるとされています。理由はいろいろあるとは思いますが、一例としてはコルセットのように体の線を強調できること。そして、「捕らえられた美しい蝶」であるとか「かわいい小動物」のようであり、さらに日本的な「もののあわれ」にも通じているのではないかと思います。
 残酷さともののあわれは、かなり近接しています。そして韓国ドラマなどを見ていると、アジアの一部地域では伝統的にこの両面を感じる人たちがいるのではないかと思えます。
 そこに神であるとか悪魔を介在させる以前から、日本では独特の情緒があって、縄による人体の拘束は、古代の神事にさえ通じるのではないかと想像をかきたてます。
 SM的な人間関係を構築するかどうかはともかくとして、縛る縛られる関係は、比較的構築しやすいとも言えます。緊縛においては必ずしも裸になる必要はなく、衣装と縄の組み合わせもさまざまに工夫できます。また場所も、プライベートな空間だけではなく、パブリックな場でもある程度は可能です。
 縛られた側には、不思議なことに心の解放感があるという話もあります。拘束されることでむしろ開かれていくことがあるわけです。
 緊縛そして縄について、ここではそのあまりにも多岐にわたるであろう議論に触れることはしません。
 注意すべきなのは、現在のこのような緊縛に対する多くの人たちの美意識と、ここまで紹介してきたSMは直接は結びついていないことです。縛られているモデルさんたちが全員、BDSMの支配される側であると考えるのは間違いの元ということです。美しさの探究あるいは精神的作用を求める方法として臨んでいる人もいます。
 つまり、縛られる側は、特定の誰かに束縛されるというのではなく、もっと大きなパワーに身を委ねていると感じている場合があります。著名な緊縛師に縛られる、といった場合はまだわかりやすいですが、そもそも自分を縛っているのはなにか、といった認識の問題にまで発展する可能性はあります。
 ある人は、仕事で縛られている間、それを心地良いと感じていたようですが、のちに振り返って経験としては辛すぎたと記憶されている例もあるのです。
 この辛さには、いろいろな意味があるでしょう。拘束されることを望んでいた自分を、理解できなくなっていることもあるでしょう。
 ただそれは一時の気迷いではなかったはずで、その頃は拘束されることによる喜びに浸ることができたのに、いまはできない、忌まわしい過去、辛すぎた、もう二度としたくないといった考えになっていくのかもしれません。美しい思い出が残酷に作用することもあるのですから。
 このように、相思相愛であっても、拘束し放置する肉塊となることは、その人の考え方の変化によって肯定されもし、否定されもするのだと思っておいたほうがいいのです。
 一生、ずっと同じ考えの人もいますが、そうでない人もいるのです。
 支配される側はなにかしらの拘束を受けるし、支配する側は相手をできるだけ拘束したい。そこに一瞬の永遠があるとしても、現実には移ろいやすいものなのです。
 縄でも手錠でもいいのですが、支配される側は手足を拘束されるなどして、自由には動けない、抵抗ができない状態になるのが前提です。
 支配されていることを宣言し、自分は進んで支配されているのだと確認したいのです。
 見て、触って、感じる。支配を体感することが、BDSMにおける拘束の重要なポイントとなります。
 言葉だけではない、具体的に支配する側の望みのままになんでもするのだ、との姿勢を示す。その点で拘束はとても重要です。
 なぜ、態度で示すだけでは不十分で、自ら放棄しないのか。
 人間も動物ですから反射的に手足が動いてしまったり、大声を出したり噛んでしまうことはあり得えます。一般的には「お互いにそういうことがないように注意しましょう」となりますが、SM関係においては、そのような曖昧さを排除していきます。
 万が一、抵抗したくなったとしても、それすらもできないように予め拘束しておいてほしい、ということです。これは、支配する側は支配される側に一方的に危害を加えることができ、支配される側は絶対にやり返すことがない、という約束を具体化したものです。
 本格的になればなるほど、支配される側は身動きのとれない状態にされていきます。目隠しや猿ぐつわ、全頭マスクなど拘束もさまざまです。
 首輪のように、他者にも自分は拘束される側であることを知らしめる意味もあります。ですがそれ以上に拘束は、丸ごと支配者に委ねているのだ、とアピールすることになります。
 これを愛だと仮定すれば、自ら進んでなにをされても文句も言えない状態になることで、相手に愛を伝えているのです。
 それが進むと、自分自身を放棄することへもつながります。被虐的な思考の強い人は、支配者なしでも自らを拘束したり窮屈なところに閉じこもったりもします。
 肉体を遺棄することで、かえって自分を取り戻せるといった文学的な表現も可能ですが、要するにそこになにかしらの快楽が伴っているのです。
 苦痛を受けることではじめて気づく快楽があるのです。
 肉体は、絶対的な支配者に捧げる生贄(いけにえ)であり、支配者の欲望を満たすための犠牲であると考えると心が昂ぶり、脳内物質がドバドバと溢れ出し、快楽に浸ることができるのかもしれません。
 それは一種の臨死体験かもしれません。
 愛する者にそうされることで、はじめて満足できるのですし、さらには愛されていない相手にまで拡大していくこともあり得ます。
 SMに興味のない者にはわかりにくい点として、支配者はなんでも好きにできるので楽しいに違いないと推測できるものの、なに一つ自由にならない拘束された側は、なにが楽しいのでしょうか。
 拘束による締め付けられる苦痛と安堵。
 なにもできない諦めという平和。
 どんな目に遭おうと相手に委ねてしまう快感。
 肉体を自ら放棄する自由。
 拘束された苦痛から解放されるときの爽快感。
 人によって違うでしょうから、決めつけることはできません。拘束されることを望むのは、それが自分なりの楽しみにつながっているからです。
 体にピッタリの服を着ると、自分の体を抱き締められているような錯覚を得られたり、自分の体そのものをよりはっきりと認識できることもあると思います。自己愛として、こんな体が好きで、縛られたりラテックスによる締め付けを望む場合もあります。BDSMでも、とても静的な分野です。全身をゴムで包まれたり、バキュームベッドと呼ばれる、布団圧縮袋みたいなもので締め付けられる楽しみもあるのです。
 SMの理解には、こうした拘束されたい気持ちを理解することが、一つの入り口になるかもしれません。
 とくにSの気はなくても、愛するMのために拘束や縛りを学ぶこともあるでしょう。
 こうした拘束の中でも、自己愛が強い人においては、そのまま放置されることを望む場合もあります。
 SMをプレイで考えると、いつもSとMは一緒にプレイしているだけではなく、遠隔でも似た楽しみ方ができるのです。SはMを拘束しそのまま放置して、友人たちと飲みに行ったり映画を見たりする。そしてその間も、Mの苦悶を思って楽しむのです。
 M側は拘束されてほったらかしにされ、その恐怖と不安と葛藤の中で、見つめ直していきます。そしてSが戻って来てくれたときに改めてお互いの関係性、または愛を確認し涙するわけです。
 なお、拘束も放置も、危険を伴うことですから、十分に安全性を考慮して行う必要があります。事故はお互いにとって、なんの喜びにもなりませんから。

※この続きを荒縄工房本店(18禁です)に掲載しています。18禁なので、ここでは直リンクしませんが。
 
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