柴田恭兵さんのご子息が・・・。
柴田恭兵さんのご子息が、昨年暮れに急逝していたことが報道されました。二十歳の若さでした。
バスケットボールと音楽に打ち込む、恭兵さんの自慢の息子さんだったと伺っています。
誕生の際は、この子の名前の入ったタンクトップシャツを、当時の撮影スタッフに配るほどの喜びようだったそうです。
恭兵さん、そしてご家族の悲しみは如何ばかりかと言葉もありません。
今年2月5日に恭兵さんは、『村川透映画祭』にゲストとして村山市にいらしてくださいました。
恭兵さんは、映画祭やトークショーの類には殆ど参加されない方なのですが、恩人である村川監督のためならと二つ返事でお引き受け下さったのは昨年9月のことでした。
10月末に、映画祭実行委員会で、些少ながら謝礼を用意していることをお伝えすると「村川監督のお役に立てるならということで伺うのですから、受け取れません。」と主張されました。
それでも、こちらで何とか受け取っていただけないでしょうか、とお願いすると、それでは、と申し出られた恭兵さんの素敵な提案通りに役立たせて戴きました。
このことを公表するのは、恭兵さんの本意ではないことは承知しておりますが、大好きな恭兵さんの恭兵さんたるエピソードということで、敢えて公表させてもらいました。申し訳ありません。
そして、12月。
最愛の息子さんの死。
それから、ひと月ちょっとでの『村川透映画祭』参加。
悲しみの底で、誰とも会わずに、家族だけで過ごしていたかったことでしょう。ましてや、‘祭り’
の文字が躍る映画祭なんて出られる精神状態ではなかったと思います。
それでも、恭兵さんは、村川監督と、楽しみに待ってくれているファンのために、
悲しみを胸にしまい、いらしてくださったのです。
控え室で、恭兵さんと監督が顔を会わせるや否や、互いの目と目を見合いながら固い握手を交わされました。トークショーを終え、会場を後にする際も、監督としっかと抱き合っていました。
それは‘長年の友情、絆の強さ’故と思っていましたが、あの時、監督だけは、恭兵さんの抱えた深い悲しみを全て知っていて、誰にも言わずにいたのでした。あのトークショーでステージに上がっていた3人の内、私だけが、その事情を知らずにいたのです。私のことだから、知っていたら配慮配慮で、あんな風に楽しくは出来なかったことでしょう。
恭兵さんは、そんなことをおくびにも出さず、村川監督、東京キッドブラザーズ、優作さん、舘さんたちとの楽しいエピソードや、故郷・静岡での子供時代の話を楽しそうに、時にはユーモアを交えながら話してくださり、会場一杯のファンを大いに湧かせてくださいました。
監督も嬉しそうにそれに応えてくださっていました。
お二人のお心遣いに心から感謝いたします。
恭兵さんは、帰りの新幹線を待つ間、駐車場での車中待機を良しとせず、沢山のファンが待ちかまえているであろう村山駅構内に入っていきました。案の定、ファンに取り囲まれ、握手・写真・サイン責めに逢いましたが、嫌な顔一つしないで、一人ひとりの要求に笑顔で応えていらっしゃいました。
その後も、『まだまだあぶない刑事』撮影最終日の5月5日には、ロケ地となった赤坂の氷川公演で、私のインタビューに屈託なく応えてくださいました。
あの時も、現場では、いつもと同じように‘いい空気、場作り’をされていました。
その時々の恭兵さんの心中を想うと熱いものが込み上げてきます。
今更ではありますが、恭兵さん、本当に、ありがとうございました。
益々のご活躍を願っております。それが、恭兵さんを尊敬し、一番の恭兵ファンだった息子さんが最も喜んでくれることではないでしょうか。
慎んで、息子さんの御冥福をお祈り申し上げます。
バスケットボールと音楽に打ち込む、恭兵さんの自慢の息子さんだったと伺っています。
誕生の際は、この子の名前の入ったタンクトップシャツを、当時の撮影スタッフに配るほどの喜びようだったそうです。
恭兵さん、そしてご家族の悲しみは如何ばかりかと言葉もありません。

恭兵さんは、映画祭やトークショーの類には殆ど参加されない方なのですが、恩人である村川監督のためならと二つ返事でお引き受け下さったのは昨年9月のことでした。
10月末に、映画祭実行委員会で、些少ながら謝礼を用意していることをお伝えすると「村川監督のお役に立てるならということで伺うのですから、受け取れません。」と主張されました。
それでも、こちらで何とか受け取っていただけないでしょうか、とお願いすると、それでは、と申し出られた恭兵さんの素敵な提案通りに役立たせて戴きました。
このことを公表するのは、恭兵さんの本意ではないことは承知しておりますが、大好きな恭兵さんの恭兵さんたるエピソードということで、敢えて公表させてもらいました。申し訳ありません。

そして、12月。
最愛の息子さんの死。
それから、ひと月ちょっとでの『村川透映画祭』参加。
悲しみの底で、誰とも会わずに、家族だけで過ごしていたかったことでしょう。ましてや、‘祭り’
の文字が躍る映画祭なんて出られる精神状態ではなかったと思います。
それでも、恭兵さんは、村川監督と、楽しみに待ってくれているファンのために、
悲しみを胸にしまい、いらしてくださったのです。
控え室で、恭兵さんと監督が顔を会わせるや否や、互いの目と目を見合いながら固い握手を交わされました。トークショーを終え、会場を後にする際も、監督としっかと抱き合っていました。
それは‘長年の友情、絆の強さ’故と思っていましたが、あの時、監督だけは、恭兵さんの抱えた深い悲しみを全て知っていて、誰にも言わずにいたのでした。あのトークショーでステージに上がっていた3人の内、私だけが、その事情を知らずにいたのです。私のことだから、知っていたら配慮配慮で、あんな風に楽しくは出来なかったことでしょう。

恭兵さんは、そんなことをおくびにも出さず、村川監督、東京キッドブラザーズ、優作さん、舘さんたちとの楽しいエピソードや、故郷・静岡での子供時代の話を楽しそうに、時にはユーモアを交えながら話してくださり、会場一杯のファンを大いに湧かせてくださいました。
監督も嬉しそうにそれに応えてくださっていました。
お二人のお心遣いに心から感謝いたします。

恭兵さんは、帰りの新幹線を待つ間、駐車場での車中待機を良しとせず、沢山のファンが待ちかまえているであろう村山駅構内に入っていきました。案の定、ファンに取り囲まれ、握手・写真・サイン責めに逢いましたが、嫌な顔一つしないで、一人ひとりの要求に笑顔で応えていらっしゃいました。

あの時も、現場では、いつもと同じように‘いい空気、場作り’をされていました。
その時々の恭兵さんの心中を想うと熱いものが込み上げてきます。
今更ではありますが、恭兵さん、本当に、ありがとうございました。
益々のご活躍を願っております。それが、恭兵さんを尊敬し、一番の恭兵ファンだった息子さんが最も喜んでくれることではないでしょうか。
慎んで、息子さんの御冥福をお祈り申し上げます。
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2. 柴田恭兵二男 心臓発作で急死していた [ ブログで情報収集!Blog-Headline/enjoy ] 2005年10月27日 15:49
「柴田恭兵二男 心臓発作で急死していた」に関連するブログ記事から興味深いものを選...
1. 柴田恭兵の二男、昨年末に急死していた…死因は心臓発作 [ ネット上で得してみる? ] 2005年10月25日 10:39

この記事へのコメント
2. Posted by 森眞弓 2011年05月07日 08:07

悲しい
可愛いね
私は、耳の不自由です
よろしくお願いします
柴田さん、逢いたい…

可愛いね
私は、耳の不自由です
よろしくお願いします
柴田さん、逢いたい…
1. Posted by かえで 2005年10月25日 13:16
今朝、ご子息の訃報を知ってただただ驚き、呆然とした一人です。「まだまだあぶない刑事」の公開にあたり、プレミア試写会での舞台挨拶、赤レンガでのトークショー、そして公開初日の舞台挨拶で恭兵さんにお会いできましたが、いつも恭兵さんは、「舘さんが喜んでくれれば・・・」って思いながらいろんなギャグを考えたってことおっしゃってました。その胸の中に息子さんの死を抱えながら、微塵も感じさせず、あれだけ、舘さん、そして私たちファンを楽しませてくれる作品を作り上げてくださったこと、それ以前に、復活のお話に応じてくださったことに一ファンとして、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
そして今、荒井さんのブログを拝見して、関係者しか知り得なかったお話しを聞いて、あらためて、俳優・柴田恭兵のすごさを痛感させられました。
そして今、荒井さんのブログを拝見して、関係者しか知り得なかったお話しを聞いて、あらためて、俳優・柴田恭兵のすごさを痛感させられました。