とある歴史好きオヤジの戯言

自宅新築の直後大阪に赴任となった某企業の大阪支社長。 と思ったら、ようやく大阪生活が軌道に乗った瞬間に再び東京へ召還。 ビジネスネタを乗せるはずが、趣味に走って謎の歴史ネタばかり満載。 タイトルも実情に合わせて改題し、引き続き歴史の戯言をお楽しみただければこれ幸いということで。 (とある大阪支社長の戯言 改題)

独立への飽くなき熱情 カタルーニャ物語(後編)

 前編ではカタルーニャ=アラゴン連合王国がイベリア半島東部から遠くギリシアに至るまで、地中海に覇を唱えるまでをお話ししました。

しかしいかなる国家も盛衰からは逃れられないもの。
14世紀に入るとカタルーニャにも衰退の影が徐々に忍び寄ります。



☆ 衰退のはじまり ☆

2000px-Sardinia_in_Italy_svgケチのつけ始めは調子に乗ったカタルーニャが1324年、地中海の要衝サルデーニャ島を占領したことでした。

 

サルデーニャ島はイタリア半島の西側にある大きな島ですが、その位置は当時興隆を極めていた海洋都市で、カタルーニャの地中海貿易上の最大のライバル、ジェノバの目と鼻の先。

当然ジェノバがみすみすカタルーニャの支配を見逃すわけがありません。


貿易というのはそもそも平和だからできることです。
貿易立国の連合王国にとって、ジェノバとの長い戦争はボディーブローのように効いてきました。

しかもジェノバの支援を受けたサルデーニャ島の住民たちはゲリラ化してカタルーニャの支配に抵抗します。

カタルーニャは何度も軍を送ってサルデーニャ島の反乱を鎮圧しますが、少し目を離すとジェノバの策動で反乱が再発するという繰り返しで、さしずめサルデーニャ島はカタルーニャに取ってのベトナムとも言うべき泥沼になりつつありました。

 

悪いことに、そんな中ジェノバとの戦いでよりによってバルセロナ伯爵家唯一の跡取りだった皇太子マルティが戦死。

この不運な事件は、後にバルセロナ伯爵家の断絶を招き、連合王国が衰亡する遠因となります。

 

 

一方同じ頃イベリア半島でも新たな火種が火を吹いていました。


王位継承を巡る紛争にイベリア半島支配をねらう隣国カスティーリャが介入してきたのです。
しかも時のカスティリーヤ王は残忍王とあだ名される戦争大好きのペドロ一世。

この戦いは断続的に10年にわたって続きましたが、勝敗はつかず、単に国力を大きく疲弊しただけの結果に終わりました。

 

内憂外患が続く中、連合王国(当時はバレンシアも加わってカタルーニャ、アラゴン、バレンシアの3カ国連合)を治めてきたバルセロナ伯家は断絶し、新王を選出する為、連合王国各国の代表がカスペ城にあつまることになりました。


これが結果的にカタルーニャのとって痛恨の出来事になります。
1412年さまざまな思惑が交錯した末、よりによって宿敵、カスティーリャ出身のファラン一世が即位することになったのです。(カスペの妥協)


☆ スペイン統一 ☆ 
 

さて話は変わりますが、カタルーニャーアラゴン連合王国の最大の特徴は、欧州でイギリスと並んでもっとも古い議会政治が行われてきたことです。


特にカタルーニャの議会はラス=コルツといい、世界で一番古い身分制議会だと言われています。

またジャナラリターと呼ばれる独自の自治政府をもち、バルセロナ伯爵家は絶対君主ではなく、あくまでも議会と政府と協力の上国を収めるのが建前でした。

しかしカスティーリャは王家の力が強い君主国です。
カスティーリャ出身の王家はカタルーニャのこうした習慣を無視し、政府、議会との対立は日を追うごとに大きくなりました。

 

1462年、両者の対立はついに限界に達し、王位争いに絡んでついに王家と議会とは全面的な内戦に突入してしまいます。

この争いは結局国王側の勝利で終わり、ジャナラリターやラスコルツの権限は大きく制限されることになりました。

またカスティーリャ出身の王家は反抗的なカタルーニャに冷淡になり、出身地のカスティーリャへの傾注を深めていくきっかけにもなります。

 

1469年、国王ジュアン2世の皇太子フェルディナントがカスティーリャの王女イザベルと結婚しました。

この結婚はスペインの歴史に残る結婚となりました。

なぜならその後二人はそれぞれカスティーリャ王国、そしてカタルーニャ=アラゴン=バレンシア連合王国の国王となったのですから。


アルハンブラ宮殿1492年、カスティーリャ、カタルーニャ=アラゴン=バレンシア連合王国の連合軍はイベリア半島に残った最後のイスラム王朝ナスル王国の首都グラナダを攻略。
ここに遂にレコンキスタが完結しました。


同時にこの年はスペインにとって新たな栄光の始まりとなる記念すべき年となりました。

イザベル女王が後援したコロンブスの艦隊が新大陸、つまりアメリカを発見したのです。


ちなみにこの時点では勿論2つの王国は夫婦がともに王座にあるとはいえ、建前上はそれぞれ別個のものでした。

しかしフェルディナントとイザベルの間には男子がなく、二人の娘がハプスブルグ家に嫁いだことで、まもなくその長男カルロス一世が両国の領地を一人で継承することとなったのです。


こうしてカスティーリャとカタルーニャ=アラゴン連合王国はひとつに統合され、ハプスブルグ家による統一スペインが誕生したのでした。

  

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独立への飽くなき熱情 カタルーニャ物語(前編)

  スコットランドの独立騒動が一息ついたと思ったら、今度はスペインで火の手が上がったようです。


スペイン北東部、バルセロナを中心とするカタルーニャ州で9月27日、スペインからの独立の是非を最大の争点に州議会選挙が行われ、135の議席のうち独立を主張する3つの政党が合わせて72議席と過半数を獲得しました。

実はカタルーニャの独立騒ぎはこれで5度目。

今回の結果が最終的にどうなるかはまだわかりませんが、カタルーニャの人々の独立への熱情は実は中世から脈々と続いているものなのです。

今回はそんな独立を切望しつづけたカタルーニャの物語。
話が長くなったので、2回に分けてお届けすることにします。

 


☆ カタルーニャ最初の独立 ☆


Mediterráneo_año_800_dCさて時は8世紀、現在のスペイン全土はモロッコからジブラルタルを越えてやってきたイスラム帝国(ウマイヤ朝、後ウマイヤ朝)の軍勢に席巻されていました。

イスラム帝国の軍勢は勢いに乗ってフランスをも征服しようとしたのですが、フランク王国のカールマルテルの軍勢に阻まれ、スペインへと撤退していきます。

 

辛うじてイスラムを退けたフランク王国は、今度はピレネー山脈の麓をイスラムから奪い返し、緩衝地帯としてヒスパニア辺境領を設置しました。


これが現在のカタルーニャの始まりです。

 

9世紀の終わり頃、ヒスパニア辺境領の一つバルセロナ伯領の領主となったグフレ一世、通称毛むくじゃら伯はイスラムから次々と領土を奪い返し、ヒスパニア辺境領全土の支配者となります。

そして彼の子孫がこの後カタルーニャの支配者となるバルセロナ家となるわけです。

なおグフレ一世が毛むくじゃら伯といわれるのは、普通は毛が生えていない場所に生えていたからだそうですが、残念ながらその場所がどこだったかは伝わっていません。チョット残念ですね。

 

さてそれはそうとして、まもなくイスラム軍の反撃が始まりグルレーは戦死してしまいます。

更に悪いことに985年には名将アル・マンスール・ビッラーヒが大軍を率いてカタルーニャを征服し、バルセロナも陥落の憂き目にあいます。

当時のバルセロナ伯ブレイ二世は本国に救援を求めたのですが、当時フランク王国は3分裂して往年の勢いなく、しかもヒスパニアを領有する西フランク王国はノルマン人の進入に悩まされてカタルーニャを救援するどころの話ではなかったのです。

弱体化した西フランク王国に見切りを付けたブレイ二世は、新たに西フランク王となった(のちの初代フランス王)ユーグ・カペーへの臣従を拒否し、独立を宣言。


ここにカタルーニャは最初の独立を果たしたのでした。


☆ 英雄騎士 エル・シド ☆ 

 

11世紀に差し掛かるとイスラム勢力は俄かに衰え、タイファといわれる小国家に分裂しお互いに争うようになります。

逆にキリスト教徒側は勢い付き、次々とイスラムに奪われた地を奪還するようになりました。
いわゆるレコンキスタの始まりです。

レコンキスタの中心となった勢力はバスク人の国家ナバラ王国(バスク人も独立運動で有名な民族ですが、その話は別の時に)でしたが、間もなく相続によって国土が分割され、カスティリーヤ、ナバラ、アラゴン、レオンの4王国に分裂してしまいます。

こうしてイスラム教徒側も、キリスト教徒側も四分五裂になって争う時代が長く続いたのですが、そんな最中、一人の英雄が現れます。

その名はロドリゴ・ディアス・ビハール。
後の世にエル・シドとして知られるようになる、武勲誉れ高き騎士中の騎士ともいうべき存在でした。

 

22274_originalエル・シドはもともとカスティリーヤ王サンチョ2世のもと、分裂したキリスト教国統一に尽力した名将でしたが、サンチョ2世が暗殺されアフフォンソ6世が王位につくとその武功を疎まれ、カスティリーヤから追放されていました。

エル・シド亡き後のカスティリーヤは次々とイスラムの小国を征服して行ったのですが、このことがとんでもない化け物をスペインに招き寄せる結果になってしまったのです。

カスティリーヤの侵略に脅威を感じたタイファの一国が、モロッコの狂信的なイスラム原理主義者ムラビトゥーンに支援を要請したのです。

ムラビトゥーンが建国した国家をムラービト朝といいますが、これは今で言えば、イスラム国(IS)を自国内に招いたようなものでした。
ムラービト軍はサグラーハスの戦いでカスティリーヤ、アラゴン連合軍を完膚なきまでに叩きのめすと、今度は一転して同じイスラム教徒にその凶刃を向けたのです。


狂信的な信仰を持つ彼らは、タイファ諸国を堕落したイスラムと決めつけ、武力で彼らの原理主義的な教義を押し付け、次々とタイファ諸国を征服していったのです。

 

このスペイン全体の危機にキリスト教国、イスラム教国は一時的に手を結びます。
しかしムラービト朝は強く、寄せ集めの連合軍はあっという間にムラービト軍に蹴散らされスペインの南半分はほぼムラービト朝の手に落ちてしまいました。

そんな危機の中、エル・シドはキリスト教徒のみならずイスラム教教徒をも糾合し、ムラービト朝の大軍を撃破。

彼らの一大拠点バレンシアを奪還したのです。

最終的にバレンシアはムラービト軍への防波堤として独立を果たし、エル・シドはその王位についたのでした。

 

実はエル・シドの死後バレンシアはすぐ奪還されてしまうのですが、一騎士から王にまでなった英雄的な物語と、名声は長く讃えられ、中世を代表する騎士として、様々な伝説が語り継がれていくことになります。

 

さて、エル・シドのなくなる少し前、彼の長女クリスティナはナバラ王家に嫁いだのですが、後日その子孫がスペイン王室に繋がることになります。

つまり後のスペイン王室は伝説の騎士の子孫、ということになるわけですね。

 

一方次女マリアはバルセロナ伯ラモン・バランゲ三世に嫁いだのですが、この結婚がカスティリーヤが全盛期を迎えるきっかけの一つになります。

マリアの娘ヒメナがガスコーニュを領有するフォア伯に嫁いだことで、カタルーニャは南仏の一部まで大きく領土を広げることになったのです

 

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マサダは二度と陥落しない

アラブの春以降色々と騒々しい中東ですが、もともと中東での大きな火種はイスラエルとアラブ諸国の対立でした。

そのイスラエルが建国される前、約1900年にわたってユダヤ人は流浪の民として世界で迫害を受けてきたわけですが、その大きなきっかっけとなった事件があります。

その事件がユダヤ戦争、そしてその最後の戦いとなったマサダの戦いです。


そしてこの”マサダ”こそ日本人の神風、アメリカ人のアラモと同様、ユダヤ人の心奥深くに刻まれた民族の物語といっても過言ではありません。
本日はなぜか日本ではあまり知られていない、マサダのお話などしてみましょうか。
 

☆ ユダヤの反乱 ☆ 

1
世紀の初め、パレスチナ地方はローマ帝国の支配下にありました。

当時のローマ帝国は異文化、異宗教にも寛容で、概ねうまく属州を治めていたのですが、多神教をメインとする帝国にあって、厳格な一神教を奉じるユダヤ人との関係はあまりしっくりいっていませんでした。



Roberts_Siege_and_Destruction_of_Jerusalemそんな不満がつもりにつもって、AD66
年、ユダヤ総督フロリスがインフラ整備の為にエルサレム神殿の資金17タラント(1億~15000万円位)を流用したことを切っ掛けにユダヤ人の反乱がはじまります。


当初ユダヤ人を見くびっていたローマ帝国は、あっという間に反乱の首謀者を捕まえて見せしめに十字架にかけます。
ところがこれが裏目に出てかえって反乱に火を注ぐ結果になり、あっという間にパレスチナ全土に反乱が拡大、エルサレムも反乱軍の手におちるありさまになってしまいました。

 

驚いたシリア総督ケスティウス=ガルス(フロリスの上司)は、手持ちのローマ第12軍団(フルミナタ)をエルサレム奪還に向かわせたのですが、ベテホロンという場所で反乱軍に大敗。

かえってほぼ全ユダヤ地域を失う羽目になります。

 

事態を重く見たローマ皇帝ネロは、当代一の戦上手であるウェスパシアヌス将軍に3個軍団6万(第5軍団マケドニカ、第15軍団アボリナリス、第10軍団フレテンシス)の大軍を与え、ユダヤ鎮圧を命じます。

息子のティトゥスとともにユダヤに赴いたウェスパシアヌスは、ユダヤ人の抵抗が頑強なのを見抜き、直接反乱軍最大の拠点エルサレムに向かうのではなく、周囲の街を一つ一つ落としてエルサレムを孤立させることにしました。

 

そしてこの作戦は見事に的中します。


ローマ軍は
68年にはエルサレムを除く、ユダヤほぼ全域を奪還し、今まさにエルサレムへの総攻撃をかける直前まできていたのです。

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スコットランドとイングランドの300年

南シナ海、ウクライナ、イスラム国、ナイジェリアとあっちこっちで紛争の種が尽きない昨今ですが、実は戦争ではなく平和的に国家を解体するかもしれない、という話がイギリスで進んでいるのはご存じでしょうか。

イギリスの正式国名がグレートブリテン・北部アイルランド連合王国という名前なのは良く知られていますが、このグレートブリテン王国自体イングランド、ウェールズ、スコットランドという3つの地域の連合体。

このうちスコットランドがグレートブリテン王国からの独立を目指し、今月18日に独立の可否を問う国民投票が行われる予定になっているのです。
イングランドとスコットランドは1707年以来実に307年間も同一国家でした。
一体なぜそれが今になって独立騒ぎになっているのか。それには長い長い歴史の確執があるのです。

ということで本日はスコットランドの話などしてみましょうか。



☆ 人生は歩きまわる影、下手な役者、阿呆が語る物語 ☆

240px-Mormaerdomsさて、時はローマ帝国の時代。
スコットランドには元々ケルト系のピクト人と呼ばれる人が住んでいました。
1世紀ごろグレートブリテン島の南半分を征服したローマ帝国は、当時カレドニアと言われていたスコットランドの征服を試み、ブリタニア総督アグリコアの下モンズ・グロビアスという場所でピクト人を破って一時はグレートブリテン島の大半を手中に収めます。

しかしアグリコアがローマに召喚されると占領地は放棄され、以後たびたびスコットランドへの遠征が試みられたものの、厳しい自然とピクト人の激しい抵抗にあい頓挫。
結局グレートブリテン島のうち、現在のイングランド、ウェールズはローマ領、スコットランドはピクト人領という形で分割されることになりました。
つまりイングランドとスコットランドとの対立は遥かローマ帝国時代にさかのぼるわけです。

4世紀の中頃になるとおなじみのゲルマン民族の大移動の嵐がヨーロッパを覆い尽くします。
イタリア本国が危うくなったローマ帝国は410年ブリタニアを放棄。ローマ軍団も撤退してしまい、ここに300年続いたローマのイギリス統治は終焉を迎えました。

かくてローマ亡きあとのスコットランドは、原住民のピクト人に加え、アイルランドから渡ってきたスコット人、ユトランド半島から移住したアングル人、そしてイングランドの原住民ブリトン人の勢力が入り乱れ、戦国時代に入ります。

この混乱を鎮めたのが、スコット人の王国ダルリアダ王国のケネス・マカルビン(ケネス一世)でした。
マカルビンはピクト人の王国アルバ王国と合併してアルバ王国を建国、更にブリトン人の領域を征服後、次のダンカン一世の時代にはアングル人の王国をも征服してカレドニアを事実上統一したのです。

やがてアルバ王国は、スコット人の国という意味でスコーシアといわれるようになります。
これが現在のスコットランドの国名の起こりです。(なお、現在でも古スコットランド語であるゲール語ではスコットランドのことはアルバと呼びます)

しかし間もなくダンカン一世は従兄によって暗殺され、その王位を奪われてしまいます。

この従兄こそ"生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ"という名せりふで有名なシェークスピアの戯曲のタイトルにもなった、あの"マクベス"です。(※これはハムレットのせりふじゃないですか。恥ずかしい。ご指摘感謝)

マクベスは統治者としてはかなり有能だったのですが、やがて力で王位を簒奪した報いを受けることになります。
王位簒奪から17年後、彼は亡きダンカン一世の息子、マルカム・カンモー(マルカム三世)の軍に敗れ、敗死したのです。


☆ すべては一人の女性から始まった ☆

一方グレートブリテン島の南、イングランドでは同じ頃歴史的大事件が起こっていました。
1066年、ノルマンディ公だったウィリアムが軍を率いてブリテン島に上陸。
イングランド国王ハロルド2世を破りイングランドを征服したのです。(所謂ノルマンコンクエスト)

唯一生き残ったハロルドの息子エドガー・アシリングと妹のマーガレットは、ハンガリーへの亡命を試みますが、船が難破してスコットランドに漂着してしまいます。
マルカム三世は兄弟を手厚保護するとともに、イングランド王家の血をひくマーガレットを自らの妃に迎えることにしました。
マーガレットとの結婚は、スコットランドとイングランドの初めての平和的な接点であり、荒々しいケルトの血を引くスコットランドにイギリス式の洗練された文化が浸透していくきっかけとなる一方、スコットランドとイングランドの歴史にとても大きな転換点をもたらすことになります。

これをきっかけにスコットランド宮廷は親イングランド派と反イングランド派に分裂してしまったからです。

マルカム三世亡きあと、スコットランド王になったドナルド三世は大のイングランド嫌いで即位するやさっそく親イングランド派を弾圧します。
これに対し親イングランド派はイングランドに援軍を求めてドナルド三世を破り、今度は親イングランド派のダンカン二世が即位。

しかしすぐに反イングランド派が巻き返し、ダンカン二世は暗殺され、ドナルド三世が復位するのですが、今度はまたしても親イングランド派が反撃し、ドナルド三世を殺害、といった具合で、以後しばらくの間スコットランド王位は、親イングランド派がイングランド軍の介入を要請すれば、反イングランド派はフランスを頼る(彼らはこれをフランスとの古い盟約と呼びました)といった具合に、両派のたらいまわしといった様相になってしまったのでした。

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異聞 赤い靴はいてた女の子

赤い靴はいてた女の子

異人さんにつれられて行っちゃった

 

横浜の波止場から汽船に乗って

異人さんにつれられて行っちゃった

 

 

ご存知、童謡『赤い靴』の一節です。
 

134157827912513203276_yokohama31私は神奈川県出身ですが、赤い靴の女の子といえば必ず思い出すのが山下公園の赤い靴の女の子像。

そして赤い靴の女の子といえば、ほとんど横浜のシンボルと言っても過言ではないくらいの存在です。

たとえばヨコハマカーニバルというお祭りでは、ハマこい踊りという踊りを踊るのですが、その中には必ず赤い靴の歌詞を入れなければいけないというルールがあるくらい、赤い靴の女の子といえば横浜、というのが地元にとって定番だったりするのです。

 


ところが、最近、通っているジムのある麻布十番に、赤い靴の女の子像があるのを発見しました。
 

よくよく見ると、きみちゃんの像と書いてあります。

どうやら赤い靴の女の子の名前は本当はきみちゃんであり、立像の説明文では彼女はこの麻布十番で亡くなったようです。
 

images異人さんにつれられて行っちゃったはずの赤い靴はいてた女の子。

それがなぜ麻布で亡くなっていたのでしょうか?



☆ 赤い靴の女の子は実在の人物だった ☆
 


1973年、北海道新聞に一通の投書が寄せられました。

当初の主は岡そのさんという女性。その内容は自分の異父姉が実は『赤い靴はいてた女の子』なのだというものでした。


この投書に興味をもった北海道テレビの記者、菊池寛(著名な作家とは別人)は5年の取材の末、それが事実だと確認すると、1978年『ドキュメント 赤い靴はいてた女の子』として発表、放映したのです。
 

それによると、以下の様な話だといいます。

 

赤い靴はいてた女の子の本名は『佐野きみ』 お母さんの名前を岩崎かよといいます。

明治35年静岡に生まれたきみちゃんは私生児として母親の女で一本で育てられました。

名前が違うのはそのためなのですが、まもなくお母さんの岩崎かよが社会主義者の鈴木志郎と結婚し、当時幸徳秋水らに主導された社会主義運動の一環として注目されていた北海道の平民農場に開拓民として入植することになったのです。
 

しかし開拓生活は厳しく、生活は困窮しついに夫妻は子供を手放さざるを得なくなります。

かよはきみちゃんの義父、佐野家を頼り、その仲介で函館のアメリカ人宣教師チャールズ・ヒュイット夫妻の元へ養女として出すことになったのです。

きみちゃんが満3歳になった時のことでした。

 

その後鈴木家は農場を離れ、札幌に出て最初北鳴新報に、その後小樽の小樽日報社に就職します。

そこで出会ったのが、後に赤い靴の歌詞を書くことになる作詞家の野口雨情だったのです。

ちなみにこの時かの石川啄木も彼らの同僚だったそうです。
 

3人はいずれも社会主義思想にシンパシーを持っていたせいか、たいそう気もあったようで、その時かつて我が子を宣教師の元に養女に出さざるを得なかった苦しい時代の話を雨情に話しのです。

ちなみに雨情と啄木はアカ度合いが過ぎたせいかその後社内で労働闘争を起こして、わずか3ヶ月で新聞社を追い出されています。

 

後に雨情はこの時のことを思い出したのか、大正10年童謡『赤い靴』を発表。

翌年本居長世が曲をつけのが、皆さんご存知のあの名曲となったのです。

 

一方鈴木志郎、かよ夫妻は後に自らもカトリックの宣教師となり、樺太で布教を続けたあと、昭和15年に函館に戻ります。

夫妻には7人の子供がいましたが、幼いころ養女にだしたきみちゃんのことがよほど気になっていたのでしょう。

子どもたちには異父の姉がいた事、そして赤い靴はいた女の子は、お前たちの姉のことを歌った歌なんだよと繰り返し語っていたということです。
 

かよは昭和23年、きみちゃんごめんね、という言葉を残して永眠しました。

 


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砂に消えた女王の都 ~ イスラム国に脅かされるパルミラの物語

☆ イスラム国に占領された世界遺産 ☆

 

maxresdefault数ある世界遺産の中でどこが一番素晴らしいのか?


その答えはひとによっていくつもあるでしょうが、私が訪ねた
30か所以上の世界遺産のうち、 5指にあげられる場所の一つがシリアの古代都市「パルミラ」です

壮大なローマ都市の遺構であるパルミラは、その全盛期に滅亡し、しかし砂漠のオアシス都市という性格から、他の都市の建設のために石材を再利用される事なく1000 以上もの間、そのままの形で砂漠に埋もれたままだったという稀有な運命をたどった町なのです


結果的に、パルミラが砂漠の下から発掘された時、元の荘厳な都市が丸ごと地上に姿を現すことになりました。

そこを訪ねた観光客は、何もない砂漠に忽然と現れるこの美しい古代都市に大いに驚き感動するでしょう。

そして砂漠に守られたこのタイムカプセルは、人類がずっと守っていくべき至宝として、1980年世界遺産に指定されたのでした

 

しかし今この人類の至宝が永遠に消え去ってしまうかもしれない重大な危機を迎えています。

519、あのイスラム国が シリア軍を破ってパルミラを占領したのです

もし彼らが他の場所で行ったのと同じように、パルミラの遺跡を破壊したなら、この世界遺産は永遠に私たちの前から消えてしまうことになるのです。

 

ではこのパルミラというのはいったいどういう街なのか。

世界遺産パルミラとその統治者、歴史上最大の女帝の一人、ゼノビアをめぐる物語は、その全盛期と滅亡を迎える少し前、3世紀の初めから始まります

 

☆ 3世紀の危機 ☆

3
世紀地中海全域を支配していたローマ帝国は未曽有の大混乱の中にありました。

事の始まりは、パルティア遠征中のローマ皇帝、カラカラ帝が親衛隊長だったマクリヌスに暗殺されたことでした。


マクリヌスは自ら皇帝を名乗りましたが、カラカラ帝の妻の妹、ユリア・マエサが自分の子こそ実は亡きカラカラ帝の隠し子なのだ、とディスクローズすると
(実は大嘘 )軍は一斉にマクリヌスを裏切り、彼を殺害 ユリアマエサの子、エラガバルスを帝位につけたのでした


ところが、このエラガバルス、開けてみればローマ帝国史上最大の変態皇帝。

方端から女性に手を付けたのはまあいいとして、実は両刀使いで男色も大好き。

しかもSMプレイが何より好きで 超がつくドMプレイを好んだといわれています。

終いには性転換種々を受けて女になったとかいわれていて、いかに性的モラルがボロボロだったローマ帝国でも、さすがにここまでの変態は面倒見切れん、ということで、従弟のマルクス・アウレリウス・セウェルス・アレキサンデルが共治帝に立てられ、まもなく用済みのエラガバルスは暗殺されてしまいます。


しかも、今度はそのアレキサンデル帝も、侵入してきたゲルマン人に弱腰の姿勢を見せたことで軍の怒りを買い、235年マインツで軍の反乱に会い 暗殺されてしまったのです。

 

そんなかんだで、皇帝の権威は一気に低下。


あんなのが皇帝になるくらいなら俺が成ったほうがマシじゃね、ということで各地の軍団が勝手に皇帝を擁立し、ローマ帝国中に皇帝があふれかえる異常事態になったのです。

この帝国の一大ピンチを、「三世紀の危機」といいます。


なにせ三世紀の危機の
50年間の間、 公式に元老院から承認された皇帝だけで26副帝3 非公式の自称が41人と計70人の皇帝が乱立する 有様。

正直歴史オタクの私でさえ、誰が誰やらさっぱりわからないというか、皇帝になってもものの数か月で死んじゃうので一々覚えてられないという壮絶な時代なのです。

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独りぼっちの皇帝

☆ 中国の太閤秀吉    朱元璋 ☆

歴史上の偉人で人気のある人物のベスト10を作ると、必ず入ってくるのが織田信長、徳川家康、そして豊臣秀吉といった戦国武将。

最近は織田信長が一番人気なのだそうですが、これは大河ドラマなどのTV番組の影響が大きいようで、昔は今ほど人気はなかったようです。

一方戦前、戦後と一貫して根強い人気を誇るのが、太閤こと豊臣秀吉。

勿論大阪での人気は、別格です。


織田信長や徳川家康と違うのが、元々いいところの御曹司だった2人と違って、そこらの一介の農民出身でありながら、其の才覚だけで天下をとった日本史上たった1人の人物だという点。

その点で古くから庶民の憧れの的、スーパーヒーローなわけですね。


この手の裸一貫で天下を取る、という人物は世界の歴史を探してみても以外と少ないもので、最初は良くても最後に勝つのは大抵いい血筋の人間だったりするのが歴史の真理。格差社会はいつの世も厳しいのです。


明太祖さてお隣中国でもこの手の事情は一緒のようで、あれだけ長い歴史を持ちながら、本当の裸一貫から皇帝にまでのし上がった人物はたった2人しかいません。

1人が漢を建国した劉邦、そしてもう1人が本日のお題、明の建国者朱元璋です。


朱元璋が生まれたのは元の末期1328年のことです。

この頃にはかつて全世界の覇を唱えたモンゴル帝国も、もはやすっかり落ち目になりはて、元も皇位争いで13年の間に7人も皇帝が変わるという大混乱状態になっていました。


朱元璋は8人兄弟の末っ子として生まれましたが、元朝末期の混乱で食べるものもなく親兄弟は次々と餓死、或いは疫病に倒れ、朱元璋ただひとり、辛うじて乞食坊主として生き残るという凄惨だったのです。

先ほど世界史上裸一貫で天下を取った人物はほとんどいない、と言いましたが、それでも多少のバックグラウンドはあるもので、ここまで悲惨な境遇から身を起したのはもしかしたら朱元璋ただ一人かもしれません。




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中東を揺るがす、預言者の末裔 フーシ派の反乱

例によって、ご無沙汰してます。

決算も終わり、人事異動やらなんやらあって、今後多少は時間も取れそうなので、思い出した時に突然更新しているこのブログも、今後は週一度位の感覚で定期的に更新したいなあと思っています。(希望的観測ですがw)
今後ともどうぞご贔屓に。

さて、例によって例の如く久々のお題ですが、このところ世間を騒がす、いや日本では全然騒がれてませんけど(笑)、実は結構大きな火種になるかもしれないイエメンのお話なぞ取り上げてみましょう。


 ☆ 複雑怪奇なイエメン情勢    ☆

イエメンについては、以前このブログでも取り上げたことがあります。(やめるやめる詐欺で、殺されかかった!?イエメン大統領の話

確か当時の菅首相が辞める辞めると言いながら、なかなか辞めなかったことを皮肉って、同じく辞める辞めると言いながら時間を引き延ばした挙句、大統領宮殿ごと爆破されて、重傷を負ったイエメンのサーレハ大統領の話をしたような気がします。
しかしその後震災やら原発事故やらの対応で、ただの黒歴史となった菅首相と違ってサーレハの方は色々しっかりとやらかしているのです。

本日はそんなお話。


さて、その前にさっぱり訳のわからないイエメン情勢の復習をしておきましょう。
現在イエメンを支配しているのが、フーシ派(ホーシー派とも)なる連中。
今年の1月フーシ派はイエメンの首都サヌアに進軍し、イエメンの実権を掌握。
イエメンのハーディー大統領は一時フーシ派によって軟禁されていたのですが、その後南部のアデンに脱出し、フーシ派と対立姿勢を明確にします。
フーシ派はハーディー大統領を追ってアデンにも兵を進めますが、突如サウジアラビアを中心とするアラブ諸国の連合軍がイエメンに介入。
対イスラム国の有志連合など比較にならない規模の大軍勢で首都サヌアを中心に空爆を繰り返し、この原稿を書いている4月5日現在、地上軍の侵攻こそありませんが、国境を境に15万のサウジ地上軍が睨みを利かせており、まさに両軍共に一発即発の状態にある、という状態です。

さて、一体なぜこんなことになったのでしょうか?
そしてそもそもフーシ派とは一体何者なのでしょうか?


イエメンマップ  ☆ 実はフーシ派はムハンマドの末裔だった    ☆

フーシ派については日本ではたまにイスラム教過激派という表現がされることがあります。
とかく中東の話は宗教がらみなので、こう表現したくなるのもわかりますが、これは正確ではありません。
結果として宗教絡みになっている側面はあるものの、元々彼らが宗教的に過激だったということではないのです。

イエメン北部の山岳地帯にサアダという街があります。
現在フーシ派の本拠地と言われている街なのですが、首都のサヌアとサアダの中間にフースという小さな町があり、この町の出身者のことを元々フーシと呼んでいました。
つまりフーシ派とは、元々フース地方の出身者という意味なのです。

この田舎町の出身者がなぜアラビア半島を揺るがすような紛争の中心になったかといえば、彼らの出自にそもそもの遠因があります。
実は彼らはイスラム教の創始者ムハンマドの遠い子孫にあたると言われているのです。

イエメンは元々他のアラビア半島諸国と同様、アッバース朝の支配下にありました。
しかし9世紀頃にはアッバース朝の勢力はすっかり衰え、イエメンは諸侯が乱立する騒然とした状況になっていました。
そんな最中の893年ムハンマド直系の子孫である、ヤヒャ・イブン・カシム・アル・ラッシーがメディナからイエメンにやってきたのです。
優れた法学者でもあったラッシーは、今までのスンニ派の教義を否定し、ムハンマドの孫であるアリーの直系の子孫のみがカリフの地位を継ぐ資格があるという説、即ちシーア派の考え方をイエメンに広めました。

しかしラッシーの思想は、実は本来のシーア派とも異なっていました。
一般のシーア派の考え方ではアリーの子孫のうち、第5代目にあたる後継者(イマーム)はムハンマド・バーキルとする考え方が一般的ですが(12イマーム派など)、彼はザイド・ビン・アリーこそが第5代目のイマームだと考えたのです。
この為彼の思想を、5イマーム派、又はザイド派と呼びます。
ザイド派は一般的なシーア派と思想上異なる点が多いばかりか、寧ろスンニ派に近い点が多く、それが奏功したのかザイド派とスンニ派との間で大きな紛争が起こることはありませんでした。

こうして北イエメンの諸部族の支持を得たヤヒャは、896年イマームを名乗ってアッバース朝から独立。サアダを首都に定めラッシー朝を建国しました。

ラッシー朝はなんだかんだありながらも、1962年にエジプトの後ろ盾で起こったクーデターで最後の国王ムハマッドが追放されるまで、実に1000年以上北イエメンを支配することになったのです。
ラッシー朝のイマームは当然ムハンマドの直系の子孫、ヤヒャの血統の中から選ばれた訳ですが、その中で一番有力な一族が、フース地方の豪族ハミード・アッ・ディーン家でした。
つまりフーシ派とは、ムハンマドの子孫の末裔であると同時に、元々王族(イマーム)に連なる一族だという訳なのです。
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不条理の国のボコ・ハラム

幕の内はとうに過ぎていますが、まあ恒例ですので言っちゃいます。
新年明けましておめでとうございます。

 

さて滅多に更新しないこの場末のブログですが、意外にも多少なりとも楽しみにしてくださる方がいるようで、少しは更新してよ、という声もまま伺います。

大変ありがたいことです。本当にありがとうございます。

ということで、今年もゆるゆると時間の許す範囲で更新してまいりますので、どうぞよろしくお願いします。

 


さて、のっけからなんですが、次の国をみなさんどう思われるでしょうか?

 

 ☆ 人口16200 万人で日本を軽く抜いて世界第8位。しかも2053 年にはアメリカをも抜いて41115万に!中国、インドに次ぐ世界第3位になると予想されている大国。

 

 ☆ 豊富な地下資源に恵まれ特に石油は埋蔵量で世界12位、年産282億バレルと世界第8 位の輸出量を誇る。

 

 ☆GDP4000億ドルで大陸トップ。オーストラリアに匹敵する。しかも目下急成長中で2020 年位にはこの2 倍に、2050年にはフランスを抜きドイツと肩を並べる規模に!

ゴールドマンサックスからは韓国などと並んで次の経済大国ネクスト11に選ばれた。

 

 ☆ 中心都市の人口は1200万人と東京に匹敵。高層ビルに林立する大陸最大の都市。

 

 ☆ 世界最大の映画大国。エンターテーメントの世界では多くの著名人を排出。

 

 ☆ 国民の幸福度はブータンに次いで世界2位。

 

なんて素晴らしい国なんでしょう!

人口減少が続き、先々閉塞感しかない日本と比べると薔薇色の未来が想像できそうですね。

若者は日本を出て、こういう国でチャレンジすべきだ、なんてお節介な評論家がいいそうです(笑)

 

では次の国はどうでしょう?

 

 ☆ 世界最悪クラスの腐敗国家で、腐敗度は世界130位。州知事レベルで数百億、大統領ともなると兆円単位の国費の不正流用、個人蓄財しているとされる。

毎年150億ドルに登る石油収入のうち100億ドルは国庫に入らず行方不明。

 

 ☆ 国民の61%11 ドル以下で暮らす極貧層。

その一方で議員の歳費は2億円以上、大臣で6億円とされ、1% の富裕層が富の80% を握る。

貧富の差は年を追って開く一方で国民の不満は臨界点近くに。

 

 ☆ 公務員が安定した生活をする一方、若者は職にもありつけず、若年失業率は3545%

当然犯罪が激増し、大都市は場所によっては無法地帯。地方はリアル北斗の拳状態。

 

 ☆ 建国以来続く人種対立で、その犠牲者は優に数百万人を超える壮絶さ!

現在でも年間数百から数千人が犠牲になっているとされるが、その正確な数字さえ定かではない。

因みにこの国の元大統領は自国民を虐殺した独裁者ランキングで世界第10位にランクイン。

 

いやー私だったら絶対嫌ですね、こんな国に住むのは。

やっぱり日本がいいです。

 

さて、御察しの通り、この2つの国は全く同一の国家です。

この国の名はナイジェリア。そう、あの極悪テロリスト集団ボコ・ハラムの狂行で一躍有名になったあのナイジェリアです。

 

新年最初のお題は、この余りに不条理な二面性を持つ謎の国、ナイジェリアから参りましょうか。

 

 ☆ 3つの民族の物語    ☆
 

ナイジェリアはそのスペル(Nigeria)から分かる通り、お隣のニジェール(Niger)と同様地域の大河ニジェール川から取られた名前です。と言うか元々同じ地域だったのですが、ナイジェリアがイギリス領、ニジェールがフランス領だったので別れて独立しただけです。

まあアフリカではありがちな話ですね。

因みにニジェールとは現地語で『川』という意味なので、日本語では川連邦共和国になるとか、ならないとか。

 

この手の大河の近くというのは歴史的に文明が発展しやすく、ナイジェリアでも紀元前から文明が栄えた痕跡がありますが、次第に3つの大きな民族の国家に集約されていきます。

9世紀頃にまず現在のナイジェリア東部でイボ人の都市国家が栄えました。

都市国家といっていますが、このイボ族という人たちは国家そのものをつくった形跡がなく、ある種の平等な共同体であったと推察されています。もっともこのおおらかさが後の悲劇の遠因になるのですが、それは後ほどの話。


次いで10世紀頃からは南部 にヨルバ人の国々が生まれていきます。

中でも今日のベナン共和国の語源となったベニン王国(正確には王族はエド人ですが、国民の大半はヨルバ人)は一時ギニア湾最大の国家として栄えたほどでした。

更に18世紀にはそのベナン王国を従えたオヨ王国がこの地域の覇権を握ります。

 

一方農耕を主体とした東部のイボ人、南部のヨルバ人に対し、ナイジェリア北部にはハウサ人と言われる遊牧民族が暮らしていました。

ハウサ人たちは他の民族よりやや遅れて13世紀頃ハウサ諸王朝と呼ばれる7つの王国を作ります。


彼らは最初は北部アフリカを支配する大帝国ソンガイ帝国に、次にコンゴを支配するボルヌ帝国(カネム・ボルヌ帝国とも)に臣従していましたが、19 世紀にハウサ人の一派フラニ族の神学者ウスマン・ダンフォディオがイスラム革命を起こしてボルヌ帝国を退け、最終的にソコト帝国と呼ばれる一大勢力を築くことに成功しました。


ソコト帝国は周囲のイボ人、ヨルバ人の国家にジハードを宣言。ナイジェリア全土がイギリスに植民地化されるまで、最終的にこの地域を支配することになりました。
 

 

☆ 悪魔の兵器 鉄砲    ☆

さて時代を少し戻して15世紀末。ナイジェリアにとって現代の悲劇につながる大きな転換点が訪れます。


ヨーロッパからポルトガル人が来航したのです。

そして、ポルトガル人の来航は、戦国時代の日本に来航したポルトガル人と全く同じ役割を果たしました。


そうです、日本と同じようにナイジェリアにも種子島=火縄銃が伝わったのです。

この革新的な武器は忽ち争いを続けていた諸王国にとって垂涎の的となり、我先にとこの新兵器を求めるようになりました。

 

さて、ここまでは日本の場合と同じなのですが、しかしこの先が決定的に異なるのです。

苦労して鉄砲を自主生産しようとした日本と異なり、彼らは安直にこの新兵器を手に入れようとしました。

そしてその代金を、当時のヨーロッパ人が最も欲しがっていた『あるモノ』で支払う事にしたのです。

 

そのモノとは…ズバリ、奴隷でした。


彼らは力欲しさに自ら暗黒の歴史の扉を開いてしまったのでした。

当時成人男性15人で鉄砲1丁という相場だったそうです。それほど鉄砲は彼らにとってのどから手が出るほどほしいものだったのです。

 

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複雑怪奇なリビア情勢

最近中東がらみはめっきりイスラム国の話題ばかりですね。

モースル陥落の2日後に早くも取り上げた中東ウォッチャーの当ブログとしては、一気にこのバブルに乗りたいところですが、そうこう言っているうちにまたもや信じられないニュースが飛び込んできました。

UAEが秘密裏にリビアを爆撃か?(MSN産経ニュース)

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140826/mds14082610030004-n1.htm

2014-08-27T024428Z_1_LYNXMPEA7Q01W_RTROPTP_2_LIBYA-SECURITYえ、UAE?

正直一瞬目を疑いました。


エジプトあたりならともかく、同じ中東とはいえ、およそリビアとは利害関係がなさそうなUAEが首都トリポリを爆撃とは穏やかでない話です。

どうやらエジプトとの共同作戦だったようですが、意外というかビックリしたのがアメリカが全く知らなかったらしいという点。

これも今までの国際情勢ではありえなかったことです。

まったくもって複雑怪奇な中東情勢ですが、何にもましてわからないのが、当のリビアがどうなっているのかさっぱり情報が伝わってこないこと。

一体リビアでは今何が起こっているのでしょうか。



☆ 混乱するカダフィ後のリビア ☆

当ブログでも散々取り上げたリビアの独裁者カダフィ大佐が反政府軍に敗れ死亡したのが2011年8月のことでした。

カダフィ大佐は独裁者でしたが、その統治は巧みで生前はおおむね上手く国を治めていたといってもいいでしょう。


カダフィ大佐亡きあと、国政はリビア暫定国民評議会が担うことになりましたが、その統治は最初から失敗続きでした。

しょっぱなから首相の選定や組閣が上手くいかなかった上、国軍の再建にも失敗。国内は各地の民兵組織が武器を持ったまま跳梁跋扈する有様で、挙句の果てに内戦の隙をついてアルカイダ系の武装組織アンサル・アル・シャリアが我が物顔で勢力を伸ばす有様だったのです。

それでも2012年6月、初の総選挙が行われイスラム色の強いムスリム同胞団系の政党、正義開発党が敗れ、アラブ民族主義の国民勢力連合が勝利したことで、リビアは再び落ち着きを取り戻すかに思われました。

リビア暫定国民評議会は解散、新たに制憲議会が誕生し、新首相にはリベラル派のアリー・ゼイダーンが指名されました。


しかしこの皮肉なことにこれが全ての混乱の始まりだったのです。


 

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イスラム原理主義の王国

最近このBlogのイスラム系の話題ばかりですが、ISIL改めイスラム国バブルで訪問者の数も増えていますので、調子に乗ってもう少しその話題を続けましょう。

イスラム教には大きく分けるとスンニ派とシーア派の2つの宗派に分かれているというのはご存知かと思いますが、では世を騒がせるアルカーイダやタリバンなど通称イスラム原理主義者は、一体なに派なのかご存知ですか?

一口にイスラム原理主義と言ってもスンニ派もあればシーア派もあるのですが、昨今話題のアルカーイダやタリバンなどはスンニ派の一派ハンバリー派に属するワッハーブ派の教えを信奉している集団です。
そしてこのワッハーブ派こそ、原理主義業界(?)最大の宗派であり、なんとそれを国教としている国も現実に存在しているのです。

その国の名はサウジアラビア。
あのアメリカの中東における同盟国であり、日本の石油の最大の輸入相手であるサウジアラビアこそが、実はイスラム原理主義の総本山だったりするわけです。


時代は18世紀の中頃に遡ります。

2014-07-23-14-08-09当時中東一体はオスマントルコ帝国の治世下に置かれていましたが、トルコの衰退と共にアラブ人達の間からは独立の機運が芽生え始めます。
そんな時、アラビア半島の中央部ネジド地方で、ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブと言う人が時代の変遷で変質したイスラム教を、元のムハンマドが説いた純粋な形に戻そう、と言う運動を始めました。

この宗教改革をワッハーブ運動と言います。

その教えは大変厳しく、ともかくクルアーン(コーラン)に基づいていないものは全部ダメ、当時流行していたスーフィズム(聖者崇拝)などは徹底的に敵視し、片っ端から聖廟などを破壊するといった原理主義の名に違わぬ過激な思想でした。

ところが、意外にもワッハーブ運動は、トルコからの独立を願っていたアラブ人に忽ち広がりました。
と言うのは、当時トルコのスルタンは同時にイスラム教の最高位であるカリフの地位も兼ねていたからです。
敬虔なムスリムでありながら、反トルコを唱える人たちにとってはトルコのスルタンを最上位とする現在のイスラム教が堕落し、間違っているというワッハーブの主張はまさに独立運動の思想的な支えになったわけです。

しかし過激な思想はいつの世も疎まれるもの。
御多分に洩れず、ワッハーブも故郷のウヤイヤを追放されてしまいます。

しかし1745年ネジドの有力な豪族サウード家の当主ムハンマド=イブン=サウードはワッハーブの主張に共感し、彼を自らの支配地ダルイーヤに招きました。
これに対しワッハーブはサウードに聖剣ラハイヤンを授け、ワッハーブ派の守護者に任じたのです。
かくしてワッハーブ派の守護者となったサウードは、勢いにのって遂にトルコからの独立を宣言、自らダルイーヤ王国の国王に即位しました。

歴史上、この王国をワッハーブ王国と呼びます。

ムハンマドの息子、アブドゥル=アジス=イブン=ムハンマドの代になると、ワッハーブ王国はいよいよ勢力を増し、アラビア半島の諸都市を次々に攻め落とし1810年頃にはほぼ全アラビア半島を征服するに至りました。

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生命を産んだ史上最大の台風

2014-07-10-23-20-427月としては最強クラスと言われた台風8号が本日関東に接近。
だいぶ勢力は弱まっているようですが、些か心配なところですね。

さて、7月最強と来れば、では史上最強の台風はどんなもんだったのかと来るのがお約束。
と言うことで、本日は最強の台風についてのお話をさせて頂きましょうか。

まず、日本に上陸した台風で観測史上最強と言われているのが第二室戸台風。
1961年9月16日、室戸岬に上陸し、主に近畿地方に大きな被害を出した台風です。

その中心気圧は918hPa、最大瞬間風速はなんと 84.5m/s以上。
以上ってなんやねんと言う感じですが、実は風が強すぎて観測機器が壊れてしまい、それ以上計測できなかったと言う凄まじさなのです。
この台風による被害は死者194名、行方不明者8名、負傷者4,972名、住家全壊15,238棟、半壊46,663棟、床上浸水123,103棟、床下浸水261,017棟にも及びました。
被害の方も半端ないですね。流石観測史上最強なだけはあります。

因みに日本以外では昨年11月、フィリピンを襲い6000人以上もの犠牲を出した台風30号が史上最大の台風だったと言われています。
上陸時の中心気圧は895hPa。最大瞬間風速はなんと90メートルに達し、ミンダナオ島中部に壊滅的な損害をもたらしました。
最近のことですから、記憶に新しい方も多いでしょう。

しかしこれは上陸時の記録。
海上ではもっと勢力が強かった台風もあります。
その名は昭和54年台風20号。
最低気圧は驚異の870hPaで
日本近海のみならず、世界の気象観測史上最低気圧、つまり全てのハリケーンやサイクロンも凌駕する最強のタイフーンだったと言うことです。

因みに台風20号はその後本土に上陸し、各地に大きな被害をもたらしました。
私は当時品川のNTTでアルバイトをしていたのですが、この時品川駅の港南口がスッポリ冠水し、東海道線が運休したのをよく覚えています。(その後品川駅は地下道から高架に建て替えられました。

それにしてもせっかくの世界一なのに。台風20号などと言う平凡な名前だったのが悔やまれるところですね(笑)
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トヨタ戦争

2014-06-16-10-09-55☆ ゲリラに愛用されるメードインジャパン ☆

世界中で過激派が大暴れしている昨今ですが、そんな彼らが愛用する、ある日本製品があることをご存知でしょうか。

その名はトヨタのハイラックス。

実に40年以上生産されているトヨタ自動車のピックアップトラックです。(ハイラックスサーフではありませんので念のため)
日本国内ではそれほど見かけることがありませんが、海外ではバカ売れしており、トヨタの代表的な車種として認知されている車です。

ハイラックスの特徴は何と言ってもやたらめったら頑丈なこと。
しかも新興国を念頭に生産されているのでメンテナンス性も抜群。
(トヨタは元々軍用トラックも作っていたので、その辺のノウハウもあったのかもしれません)

その昔BBCがある番組で、ハイラックスを5時間海中に放置した上、鉄球で強打し、更にビルの屋上で爆破するという無茶苦茶な耐久試験をした結果、手元のわずかな工具での修理のみで自走して戻ってきたという嘘のような本当の話がある位です。
(流石に最近の車種は電子制御なのでそこまで丈夫ではないようですが)

さて世界中で戦っている過激派さんとかゲリラさんにとっては、頑丈でメンテナンス性も抜群というハイラックスはまるで宝物のようなもの。

なにせ正規軍と違ってろくに補給もない場所で道無き道を切り開いて戦わなければならないわけで、どんなに安かろうが、高性能だろうが肝心な時に使えなければ戦場では意味がないのですから。

そんなわけで、世界中のゲリラ、過激派さんからはハイラックスは大人気。ゲリラ業界(?)では圧倒的シェアNO1で、通称AK47の車版と重宝がられているとか。
今や世界中にハイラックスの改造業者があり、その荷台に荷物の代わりに重機関銃だとか軽砲を載せたテクニカル(改造)車が、日夜世界中の戦場を駆け巡っているらしいのです。

そんなハイラックスが一躍その名を高めるキッカケとなった戦争があります。
その名もズバリ『トヨタ戦争』といいます。
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イスラム国を率いるオサマビンラディンの後継者 謎の男バグダディ

2014-06-16-10-05-24
たちまちのうちにイラクは北部を制圧し一躍世界の注目の的となった謎の組織ISIL。(※当時 現在のイスラム国)
 
しかし何より謎のなのが、その指導者アブ・バクル・アル・バグダディとは何者なのか、ということでしょう。

中東ウォッチャーにはよく知られていることですが、この人は何度もアメリカ軍に殺害された、と発表されていて、結局本当だったのか嘘だったのか、或いはそれらのアブ・バクル・アル・バグダディという人物が本当に同一人物なのかもわからないと言う、それこそ謎中の謎の人物なのです。

当のアメリカでさえ、バグダディについてはよくわかっていないらしく、バグダディにつながる情報には1000万ドルもの懸賞金がかけられているほどです。

ちなみに公安調査庁のホームページでは今だに2010年にティクリートで米軍の爆撃で殺害されたと書いてあったりして、日本の諜報は大丈夫なのか公安調査庁という感じを醸し出しているのはご愛嬌です。


さてこの謎に包まれたアブ・バクル・アル・バグダディとは一体どのような人物なのでしょうか。
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ISIL(イスラム国)とは何者なのか?

えーと、いつものご挨拶ですが、ご無沙汰しております。

実はご無沙汰している間に再び東京勤務となり大阪から舞い戻っていたりするのですが、まあどうでもいいですよね、そんなことは(笑)


さて、このブログの過去の記事を見ると何気に中東関係の記事が多かったりするのですが、そんな中東ウォッチャーの私を驚愕させたのが、一昨日イラク第二の都市モスルが、アルカーイダの分派とされるイラクとレバントのイスラム国(ISIL)なる武装集団によって陥落したとのニュース。


ISIL(又はISIS)の動きについては、以前から結構注視していたのですが、まさかここまでの戦力があるとは思わず、Twitterで第一報が流れて来た時は、思わず目を疑いました。
因みにTVなど主要メディアの報道は第一報から2日近く経ってからで、ネットメディアの速報性が際立つ結果となりました。


この突如紙面を賑わすことになった謎の組織、ISIL(*現在のイスラム国)とは一体何者なのでしょうか?



☆ すべてはアフガニスタンから始まった ☆

zal1bことの始まりは、2000年アフマド・ファディール・アン=ナザール・アル=ハラーイラというやたら長い名前のテロリストがヨルダンの王政打倒のテロに失敗し、アフガニスタンに逃亡したことに始まります。


実は彼がアフガンに向かったのは、逃亡以外にもうひとつ理由がありました。
それは当時アフガンに潜伏していたアルカーイダの首領オサマ=ビンラディンと会うためだったのです。

そしてビンラディンに薫陶を受けたアフマドは、出身地ザルカーに因んでアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー(アブ・ムサブ・ザルカウィとも、日本では一時ザルカウィ容疑者と言われていた)と名乗り、アルカーイダ傘下の新たなテロ組織『タウヒードとジハード集団』を立ち上げることになりました。


翌年の9月11日、アルカイダが後に911として知られる大規模な連続テロ事件を起こすと、ザルカウィもアルカーイダの一員としてアフガニスタンでアメリカ軍と戦ったのですが、戦闘で負傷し、そのままイラクに逃れることになります。

彼はイラクのフセイン大統領の援助を受けて組織を立て直し、再びヨルダンでテロ活動を行なったのと言われていますが、実はこれはアメリカによる言いがかりで、現在ではそのような事実はなかったとされています。


しかし開戦理由を欲していたアメリカは、ザルカウィのテロ組織への援助を一つの理由として2003年イラクに侵攻し、フセイン政権を打倒したのでした。

しかし結果的にこのことがザルカウィを本当に国際テロ組織のリーダーに押し上げることになったのです。

彼は自らの組織を『イラクの聖戦アルカーイダ機構』と改め、アルカイダのNO3としてイラクで外国人を次々と誘拐し、米軍の撤退を迫るという手法で一躍国際社会の注目を集めるようになったのです。
特に2005年に発生した日本人の誘拐殺害事件は、日本国内でも大きな反響を引き起こしたことは記憶に新しいところでしょう。

2004年のファルージャで反米暴動が発生すると、アメリカ政府はこれをザルカウィ一派の行動を考え、大軍を派遣して徹底的な包囲殲滅戦を展開しました。
しかしこのことは逆に米軍への市民の憎しみを生み、結果的にザルカウィらの勢力を拡大させることになったのです。

しかし彼の絶頂も長くは続きませんでした。

残虐なザルカウィのやり方はイラク内でも評判が悪く、まもなく部下によって彼は指導者の地位から引きづり降ろされ、2006年アメリカ軍の空爆によって死亡してしてしまったのです。


こうしてアルカーイダ残党の脅威は去ったかに見えました。
しかしこれはほんの始まりにすぎなかったのです。

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とある歴史好きオヤジ とは?

とある歴史好きオヤ...

そういや、最近こんな本書きました
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