国王ブータンのワンチュク国王夫妻が昨日帰国されました。
 
人口70万人、しかもヒマラヤ山中のど田舎にある小国家ながら、アントニオ猪木にちょっと似てるけどイケメンな国王陛下と、現役女子大生の、それはそれはお奇麗な王女様というキャラもあってか、連日異例ともいうべき報道ラッシュでした。

しかし何と言ってもブータンは台湾、トルコと並ぶ大親日国の一つ。
同じ立憲君主制ということもありますが、日本人の西岡京治氏によってブータンの農業が飛躍的に発展したなんて話もありまして、国民にも親日感情は広く浸透しているとのこと。
やはりお友達は大事にしたいものです。 

それはそれで微笑ましい話ですが、実はこの国は現在進行形で中国の侵略を受けている真っ最中、というのはご存知でしょうか?
ということで、今日も時事ネタ続きでブータンのお話。

☆ 戦闘民族チベット人と仏教の伝来 ☆
 
さてこのブータンという国、実は世界で唯一のチベット民族の独立国。
因にチベット民族は遺伝子的にはとても日本人に近く、ある意味日本人の親戚のような民族です。

吐蕃633年、ソンツェン・カンポ王がチベット高原を統一して吐蕃という国家を建国したのがそもそものチベット国家の始まりなのですが、当時のチベット人は好戦的な上にともかく戦争が強く、最盛期には唐の首都長安を陥落させ四川省あたりまで領有するほどの勢いでした。

そこで唐のほうもチベットとの戦争は分が悪いと考え、皇女の文成公主をガンポ王に嫁がせて懐柔することにしたのです。
このとき唐は一緒に仏教を伝えることで荒々しいチベット人を穏やかにさせようとし、これは後のチベット仏教となったとかならなかったとか(嘘かホントかは不明)。

それはともかく、この後のチベット国家の盛衰は仏教をなくして語れなくなります。というのはチベット仏教は日本とは違って祭政一致を基本としており、国王=法王みたいな関係で、一種の宗教国家になっていったからです。

こうなると必ずおこるのが宗教紛争に名を借りた権力闘争。
やがてチベット仏教は、ゲルク派、カーギュ派、サキャ派、ニンマ派の4大宗派に別れ、我こそは正統チベット仏教であると相互に争うようになりました。
更にこの4大宗派の中でも次々と分派が生まれ、そのうちチベットは山のような宗派と同時に小国家が乱立する四分五裂の状態になってしまったのです。

1616年、カーギュ派の分派だったドゥルック派で内紛が起こり、当時チベットを制圧していたゲルク派によって教主の座を追われたガワンナムギャルが部族国家が乱立していたブータンに逃れ、この地を統一したのがブータン国の始まりです。
(因にブータンは正式にはドゥルック・ユルといいますが、この国名はここからきているわけです)

当然ゲルク派はなんどもブータン討伐軍を送ります。要するに西洋の十字軍みたいなもんですが、特にオイラート部族を率いてチベットを再統一したグシハンの時代には、幾度となく総攻撃に晒されます。

しかしブータンは奇跡的にこの大攻撃を凌ぎ、辛うじて独立を保つことに成功しました。
因にこのグシハシによって征服された地域はその後すべて清の領土となり、現在は中国領となっていますので、400年前の勇戦がブータンの独立を守ったと言えそうです。
☆ イギリスとインドの保護下で ☆

さてそうするうちに時代は19世紀。

帝国主義のチャンピオン、イギリスがインドを征服するとロシアや清との緩衝地帯を造る目的で(実はイギリス人の夏のバカンスの為だったという説もある(笑))ヒマラヤ一帯にも兵を進めます。
もちろんブータンも対抗できるはずもなく、1856年のドゥアール戦争の結果あっけなくイギリスの保護国となります。

ところがブータンの側でも同じ植民地でも中国の植民地よりイギリスの方が百倍まし、と考えたようで1907年にはイギリスの後押しを受けたウゲン・ワンチュクがブータンを統一、積極的にイギリスの保護の下に入ることで国づくりを進めることになったのです。
 
因にこのウゲン王が、先日訪日されたワンチュク王のひいおじいさんにあたります。
やがてこの外交関係はイギリスからインドに継承され、現在でもブータンは事実上インドの保護下にあるといってもいいくらいです。

☆ 中国とインド 2大に挟まれた小国の生きる道 ☆ 

さて、小さいながらもイギリス、インドの保護下で細々と暮らしてきたブータンですが、それが気に入らなかったのが中国です。
 
1951年にチベットを併合した中国は、まず1959年に飛び地になっていたブータン領カイラス山周辺を併合、更に61年にはブータン、ネパール国境に兵を送り、この地方の国境を巡って遂に翌年にはブータンの事実上の宗主国インドと戦争になります。
しかしこの戦いは中国の勝利に終わり、ヒマラヤの氷河地帯は中国の手に落ちることになりました。

シッキムこの敗戦はインドに大きな衝撃を与えました。
特に対中国の最前線となるヒマラヤ山脈の地理的重要性を再認識したインドは、ヒマラヤの入り口にある小さな独立国シッキムを中国にとられる前に自国のものにしておくべきだと考えるようになりました。
そして1975年、遂にインドはチベット系の国民とネパール系の国民の対立を利用して強引に自国に併合するに至ったのです。

このインドの行為はブータンを心底震え上がらせました。
なぜならブータンも同じチベット人の国家というだけでなく、国内に多くのネパール系住民を抱えていたからです。
もしシッキムのようにネパール系住民がインドやネパールへの併合を求めるようになったら、ブータンもインドかネパールに併合されるかもしれません。

☆ 幸福度世界一に隠された光と影 ☆

結局ブータンは、ブータンをチベット人の国民国家にすることで他国の干渉を防ぐ、という道を選びました。
このことをきっかけにほとんど鎖国状態で、ある意味ヒマラヤの北朝鮮状態だったブータンは、農奴の解放や教育の普及など近代化を推し進めます。
更に立憲君主制に移行し議会を設立して開かれた民主的な国家になることを宣言します。
しかし実はここには大きな罠が隠されていたのです。

ブータンは選挙の結果多数派のネパール人に国をのとっとられたシッキムの過ちを見逃してはいませんでした。
彼らは選挙権を与えるにあたってネパール人の市民権を厳しく制限し、チベット人の伝統文化を強要するともに、従わないネパール系住民に容赦ない弾圧を加えたのです。
この結果多くのネパール系住民が難民となり、ブータンからネパールなどへ脱出しました。
その数は全国民の20%にもあたる12万人にも達したと言います。

結果的にどんな手を使ったにせよ、ブータンの国民の大多数(80%以上)はチベット人となりました。
2008年に初めて行われた普通自由選挙では、現体制を支持するチベット人の政党ブータン調和党が47議席中45議席を奪って圧勝しました。
ブータンは狙い通りチベット人の国民国家となり、不安定だった政治は落ち着き、国民の幸福度は世界一と言われるパラダイスとなったのです・・・勿論追放されたネパール系住民はのぞいて。

☆ 浸食される国土 国土の2割は中国領 ☆ 

しかしこの地上の楽園にも不吉な影が近づきつつありました。
しばらく鳴りを潜めていた中国が、再びブータンへの侵攻を目論み始めたのです。

2000年、中国人民解放軍がヒマラヤ山脈を南下、ブータン領内に勝手に建物を建てるなどして我が物顔で振る舞い始めます。
当然ブータン政府は抗議しますが、なにせヒマラヤの山の中のことで、なにがどうなっているのかさっぱりわからず、気づいたときには北部のガサ州の大半、8000平方キロ(だいたい兵庫県と同じくらい)が中国の実行支配地になってしまったのです。

この人民解放軍による侵略の目的はなんと”冬虫夏草の採取のため”
現在中国は生薬ブームで大変高い値段で売買されているのだそうで、1キロ600万円以上の価格で売買されているのだとか。
こんな理由で侵略するほうもするほうですが、ブータンは世界でも有数の漢方薬の産地だそうで、しかもヒマラヤの手つかずの自然が残されているため、最高級の生薬がとれるらしいのです。
結果的に2006年にブータンが発表した所によると、実に国土の18%が中国に奪われてしまったのだとか。

勿論ブータン政府も再三中国に抗議したのですが、知らぬ存ぜぬで埒があきません。
しかも2009年から中国は勝手に中国領チベットからのブータン国内にのびる道路の建設を開始。
ブータン政府は4度にわたって抗議したものの、『おたくの国の観光や産業の発展にも役立つからいいじゃん』と全く聞く耳をもたず。
結果的に道路は既に首都ティンプーの十数キロ先まできている有様となってしまいます。

こうなると独立国の尊厳もなにもあったもんじゃありません。ブータン危うし。


そう考えると今回のブータン国王夫妻の訪日もいろいろと国際政治的な背景があるような気がしてきますね。
国民幸福度世界一と言われるブータンですが、決してその幸福は安寧ものではないというのが現実の世界。
幸せそうなイケメン国王と美人王妃ばかりが注目されるブータンですが、いつまでもその幸せが長続きすることを祈るばかりです。