公官庁は今日が仕事納め。
仕事納めと言えば、私の住む大阪市も、橋本新市長のもと職員の方は戦々恐々としながらお正月休みを迎えるのでしょうね。

さて、最近とみに評判の悪いお役所ですが、その昔は経済一流、官僚二流、政治三流なんて言葉があって、日本のお役所はまあまあ優秀だとされていました。
寧ろ評判が悪かったのがお役所崩れの特殊法人。なかでも最も悪名高いのが国鉄(現在のJR)だったように思います。

日本を訪れる外国人が皆驚嘆するのが、電車が時刻通り運転されている事。
ある種現代の日本人には当たり前に様におもっていることですが、実は私が子供の頃は、”電車は遅れるのが当たり前”という時期がありました。

今日は今やすっかり忘れ去られてしまった、そんなお役所仕事の末路のお話を。


☆  電車が遅れるのが当たり前だった時代があった ☆


1970年頃、国鉄は膨大な赤字を抱え破綻寸前に陥っていました。
 
その原因は人件費の異常な増加。なにより組合が強すぎて合理化が全く進まないばかりか、毎年のように賃金があがり人件費が膨れ上がっていくのですから国としてはたまったものではありません。
しかし当時の国鉄の2大組合、国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)は、”昔陸軍、今国労”だとか、”鬼の動労”などと呼ばれるほど絶大な権力を誇り、歴代の経営陣は全く手の出せない状況だったのです。

1973年、国労と動労は国鉄経営陣に待遇改善要求として”運転手2人制の復活”を求めてきました。
これは以前機関車が主流だった時代に運転手とボイラー手が必要だった時代の名残なのですが、急速な電化の進展で職を奪われる事を恐れた組合が、運転手一人化は労働強化だとして2人制の堅持を要求したのです。(二人乗務闘争)

しかしこの時代錯誤な要求に対し当然当局はこれを拒否。
 
国労、動労はこれに対して大規模なストライキとサボタージュを行い、当局に要求をのませる戦術に出ます。

国鉄職員は公務員であるため本来ストライキはできないはずなのですが、当時組合は正統な権利を回復すると称して違法ストライキを頻発させていました。(スト権スト)
更に組合は一見正当な理由がたつ(安全速度の遵守とか線路の点検とか)名目をつけて、その実大規模なサボタージュで意図的にダイヤを乱し、列車の運行を混乱させることで当局に圧力をかけるという戦術を開発しました。
これを”順法闘争”といいます。

順法闘争順法闘争は1950年代から続けられていましたが、1970年代になって一気に組合の主力闘争戦術として多用されるようになったのです。
 
この順法闘争がどれほどのものであったかというと、首都圏の主要路線の乗車率は軒並み350%になったとか、本来37分でいける上野ー上尾間で3時間以上かかっただとか、貨物が予定通りつかないので鉄道貨物に頼っていた地方の運送業者に廃業が相次いだとか色々な話が伝わっています。

当時は電車が時刻通り着く事の方が珍しい状況になっていたので、大概の人は少なくとも30分以上は余裕を見て家を出るなどの労苦を余儀なくされたのだそうです。

こうした背景があって1973年3月5日、国鉄の労組は再び大規模な順法闘争を展開しました。(第二次順法闘争)
この闘争による電車の運休は最初の一週間だけで、3万5000本にのぼり、実に8400万人が被害をうけたと言われています。

しかし当時の組合幹部は全く気づいていなかったのですが、実は身勝手な国鉄労働組合への一般市民の怒りは既に極限にまで達していたのです。


☆  順法闘争と首都圏国電暴動事件 ☆


1973年3月12日、高崎線上尾駅で順法闘争のため列車に乗れず駅のプラットホームには乗客5000人(!)もの乗客が取り残されていました。
 
高崎線の乗車率は900%400%(※ご指摘があり修正しました)に達し、列車に乗れない乗客達は怒り心頭のあまり、誰が言うとでもなく列車の運転席や駅長室を襲撃、破壊する暴挙に出たのです。
更に争乱は桶川、鴻巣、熊谷駅にまで拡大し、数千人もが参加する一大暴動事件にまで発展してしまいました。(上尾事件)

この事件を受け磯崎国鉄総裁と目黒動労委員長が急遽トップ面談を実施するなど、国鉄全体に大きな衝撃を与えましたが、目黒委員長は国民の怒りは寧ろ事態を収拾できない国鉄当局に向けられていると判断、更なる闘争の継続を指示しました。

しかしこの判断ミスが、取り返しのつかない事件を引き起こすことになったのです。

上尾事件の余韻の残る4月24日。
 
この日は27日から予定されていたゼネストに呼応してか特に順法闘争が強化され、列車は軒並み1時間30分前後の遅れが出ていました。

首都圏国鉄暴動事件は6000人もの人であふれていた赤羽駅でおこりました。
不幸にも信号機故障で列車がストップしたことがきっかけとなり、遂に日頃溜まりにたまっていた乗客の怒りが爆発したのです。

まず赤羽駅の駅長室に暴徒がなだれ込み、駅舎が破壊されました。
更にホームに停車していた京浜東北線が放火され炎上、この影響で京浜東北線のみならず並列する山手線までストップします。

そしてこのことは各駅のホームにあふれかえっていた乗客に決定的な一撃を与えることになりました。

赤羽駅の暴動の報が伝わると、上野駅、新宿駅の乗客達が一斉に暴徒と化して駅を破壊、占拠。
更に暴動は忽ちのうちに首都圏の各駅に波及し、最終的に渋谷、秋葉原、有楽町など首都圏38の主要駅に拡大しました。
赤羽駅の暴動はわずか1時間あまりで首都圏の各駅に連鎖的に広がっていったのです。

この暴動に参加した暴徒の数は約3万2000人に達しました。
 
中でも新宿駅は2万人もの暴徒が溢れ一時無政府状態になったようです。
各駅には急遽機動隊が派遣されたものの、同時多発的に起きた暴動には対処できず、しかも興奮した暴徒に恐れをなした駅員が駅と列車を捨てて逃げ出してしまったことで首都圏の各駅は大混乱に陥ったのです。

暴動開始から1時間30分あまりがたった21時30分。
国労本部は遂に東京における順法闘争の中止を指示しましたが、既に手遅れでした。
このとき既に首都圏の全鉄道が麻痺しており、その影響は翌日まで続くことになったのです。

この首都圏国電暴動事件は、日本の労働運動の転換点の一つであると同時に、その後の国鉄の命運を決定づけた事件でした。

それまで労組の幹部達は愚かにも彼らの労働運動が国民の支持を受けているものと思っていました。
実際、当時の記録を見ると、社会党や共産党などは勿論、高名な学者や大手マスコミも順法闘争を支持する論陣を張っていたことがわかります。

しかし彼らは自分たちが公共サービスに従事しているという意識がなく、自分たちの要求を通す為に国民の足を人質に取った事で既に支持を失っていたことに気づかなかったのです。

左翼系御用学者や一部メディアの声を世論と勘違いした組合は、こうした事件があったにもかかわらず、東京をのぞく地域の順法闘争は続けるよう指示し、27日のゼネストも予定通り行われました。

完全に世論ずれし、国民の支持を失った国鉄は、これ以後急速な合理化、そして解体への道をまっしぐらに進む事になります。

国鉄が分割、民営化され、現在のJRとなったのは、この事件からちょうど10年後のことでした。



☆  昔国鉄今大阪市? ☆


さて先日大阪市長選挙の後、勝利した橋本氏に対し、”これは我々の思う民意ではない”といい処罰された大阪市役所職員がいたそうです。
この言葉と、40年前、親方日の丸に甘えたあげく、民意を読み違えて自ら解体への道を進んでいった国鉄がなんとなく被って見えます。
(そういえば左翼系学者や一部メディアがなぜか固く支持しているのも同じですね) 

大阪市の市制において、過去大阪市職員の労働組合の支持を受けずに当選した市長は一人もいません・・・唯一橋本市長をのぞいて。
というか、前平松市長以前の市長はすべて大阪市職員OBだったそうです。
まさにかつての国鉄労働組合を思わせる権勢ぶりです。 

後に国鉄の2つの組合のうち動労は過去の闘争路線を放棄し、民営化に協力する事で現在のJR総連となりました。
一方で闘争路線を捨てられなかった国労は徹底的に弾圧され、多くの職員がJRを追われることになったのです。

大阪市職員組合にはかつての国労の轍を踏まず、大阪市の将来のため、自省と市政刷新への協力をお願いしたいものです。