最近このBlogのイスラム系の話題ばかりですが、ISIL改めイスラム国バブルで訪問者の数も増えていますので、調子に乗ってもう少しその話題を続けましょう。

イスラム教には大きく分けるとスンニ派とシーア派の2つの宗派に分かれているというのはご存知かと思いますが、では世を騒がせるアルカーイダやタリバンなど通称イスラム原理主義者は、一体なに派なのかご存知ですか?

一口にイスラム原理主義と言ってもスンニ派もあればシーア派もあるのですが、昨今話題のアルカーイダやタリバンなどはスンニ派の一派ハンバリー派に属するワッハーブ派の教えを信奉している集団です。
そしてこのワッハーブ派こそ、原理主義業界(?)最大の宗派であり、なんとそれを国教としている国も現実に存在しているのです。

その国の名はサウジアラビア。
あのアメリカの中東における同盟国であり、日本の石油の最大の輸入相手であるサウジアラビアこそが、実はイスラム原理主義の総本山だったりするわけです。


時代は18世紀の中頃に遡ります。

2014-07-23-14-08-09当時中東一体はオスマントルコ帝国の治世下に置かれていましたが、トルコの衰退と共にアラブ人達の間からは独立の機運が芽生え始めます。
そんな時、アラビア半島の中央部ネジド地方で、ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブと言う人が時代の変遷で変質したイスラム教を、元のムハンマドが説いた純粋な形に戻そう、と言う運動を始めました。

この宗教改革をワッハーブ運動と言います。

その教えは大変厳しく、ともかくクルアーン(コーラン)に基づいていないものは全部ダメ、当時流行していたスーフィズム(聖者崇拝)などは徹底的に敵視し、片っ端から聖廟などを破壊するといった原理主義の名に違わぬ過激な思想でした。

ところが、意外にもワッハーブ運動は、トルコからの独立を願っていたアラブ人に忽ち広がりました。
と言うのは、当時トルコのスルタンは同時にイスラム教の最高位であるカリフの地位も兼ねていたからです。
敬虔なムスリムでありながら、反トルコを唱える人たちにとってはトルコのスルタンを最上位とする現在のイスラム教が堕落し、間違っているというワッハーブの主張はまさに独立運動の思想的な支えになったわけです。

しかし過激な思想はいつの世も疎まれるもの。
御多分に洩れず、ワッハーブも故郷のウヤイヤを追放されてしまいます。

しかし1745年ネジドの有力な豪族サウード家の当主ムハンマド=イブン=サウードはワッハーブの主張に共感し、彼を自らの支配地ダルイーヤに招きました。
これに対しワッハーブはサウードに聖剣ラハイヤンを授け、ワッハーブ派の守護者に任じたのです。
かくしてワッハーブ派の守護者となったサウードは、勢いにのって遂にトルコからの独立を宣言、自らダルイーヤ王国の国王に即位しました。

歴史上、この王国をワッハーブ王国と呼びます。

ムハンマドの息子、アブドゥル=アジス=イブン=ムハンマドの代になると、ワッハーブ王国はいよいよ勢力を増し、アラビア半島の諸都市を次々に攻め落とし1810年頃にはほぼ全アラビア半島を征服するに至りました。

ワッハーブ王国の急膨張に驚愕したのが宗主国のトルコです。

しかしワッハーブ軍は強く、本国から遠いアラビア半島に遠征軍を出す余裕など当時のトルコには残されていませんでした。
そこでトルコのスルタンは、独自性を強めつつあったエジプト総督だったムハンマド=アリーにワッハーブ王国討滅を命じます。

2014-07-23-14-10-03ムハンマド=アリーは一代の英雄というべき人物で、この命令を留守中に彼を追い落とそうとする罠だと見抜き、本国の要請に従って軍を集める一方、遠征の準備という名目で集めた反対派を一気に粛清、逆に事実上の独立を勝ち取ってしまいます。

こうしてエジプトを平定したムハンマド=アリーは、1811年、1万の兵を率いてアラビア半島遠征を開始しました。

戦闘は地の利のあるワッハーブ軍が優勢でしたが、間も無くワッハーブ王国で後継者を巡る争いが起き、1818年首都ダルイーヤが陥落、ここに最初のイスラム原理主義の王国ワッハーブ王国は滅亡したのでした。

一方ワッハーブ王国を滅ぼしたことで、エジプトに加え、アラビア半島を手中に収め、更に後にスーダン、シリアまで手に入れたムハンマド=アリーは一躍大帝国を築きました。
しかし、まもなくエジプトの伸張に脅威を感じたイギリスの謀略によって滅ぼされ、1841年、事実上イギリスの保護国に転落してしまうことになります。

さて、ワッハーブ王国は滅びましたが、サウード一族はアラビア半島中央の都市リヤドに落ち延び、再興の機会を伺っていました。
彼らに力を貸したのは宿敵エジプトを手中に収めたイギリスです。
イギリスはトルコを弱体化させるため、トルコの後背地であるアラビア半島の諸部族に武器を与え、トルコに対する反乱を起こさせようとしていたのです。
その点ワッハーブ王国という前科のあるサウード家はまさに適任でした。

果たして1914年、第一次世界大戦が起こるとイギリスはアラビア諸部族の反乱を促します。
実はこの時例によってイギリスは二股をかけていたのですが、これは後ほど明らかになります。

さて1916年イギリス外務省アラブ局はメッカの太守ハーシム家のフサイン=イブン=アリーを支援して反乱を起こさせると共に、一人に若い士官を軍事顧問としてアラビアに派遣します。
彼の名は、トーマス=エドワード=ロレンス。あの名高い『アラビアのロレンス』その人です。
ロレンスらの活躍で、シリアやヨルダン、そしてメッカやメディナなどヒジャース地方は解放され、戦争は連合軍の勝利に終わります。

しかしイギリスはせっかく奪ったシリアやヨルダンをみすみすアラブ人にくれてやるつもりなど毛頭ありませんでした。
実はイギリスは影でフランスと中東を2分割する密約を結んでいたのです。
この悪名高いサイクス=ピコ協定によって、民族や宗教を無視して引かれた国境線こそが、現在の中東の混迷の遠因なのです。

一方ロレンスらが解放に力を尽くしたヒジャース地方では、ハーシム家がカリフを名乗り、ヒジャース王国を建国しました。

しかしここでイギリスのもう一枚のカードが炸裂します。
実はイギリスは表でハーシム家を支援する一方、裏ではイギリスインド総督府を通じてサウード家にも支援を行っていたのです。万が一ハーシム家がイギリスの言うことを聞かなかった時のためにもう一枚カードを準備してあったわけです。

さすが植民地帝国のチャンピオン、イギリス。
この辺りは隙がありません。

さてエジプトやトルコの運命を見ていたサウード家の当主イブン=サウードはイギリスに楯突くことの愚かさを十分知っていました。

彼は身長2メートルの大丈人で、生涯100回位以上の結婚を繰り返した精力溢れる人物でしたが、政治的にはイギリスには従順を貫き、うまく立ち回りました。
そして、イギリスの暗黙の了解をとりつけると、1925年既にイギリスから見限られ、スンニ派の指導者であるカリフの地位を勝手に名乗ったことでアラビア諸部族の反感を買っていたハーシム家のヒジャース王国を滅ぼしたのです。

因みに余談ですが、名作アラビアのロレンスの最後のシーンで、ロレンスの乗った車がバイクに抜かれるシーンは、ロレンスが成立に尽力したハーシム家のヒジャース王国が、ワッハーブ派のサウード家に滅ぼされる未来を暗示しているそうです。

もっとも結局は全てロレンスの祖国イギリスの手の内で行われたことだったわけですから、なんとも皮肉なことではあります。

さて1923年イギリスは正式にサウード家の支配を承認、ここにサウジアラビア王国が建国されます。
イスラム原理主義のワッハーブ派が遂に恒久的な国家の樹立を果たしたのです。

しかし現在、原理主義の国家とは言え勿論サウジアラビアが中東の脅威になっていると言うことは全くありません。(とはいえ原理主義組織を影から支援していると言う噂は絶えないですが)
寧ろ中東では最も親欧米の国家として知られているくらいです。
この辺りは、初代王イブン=サウードの国際情勢に対する洞察と賢明さの賜物といえましょう。

世界の歴史は宗教同士の争いばかりですが、そう考えると結局のところ、宗教が平和を招くか、戦争を招くかは、それを信じる指導者に全てがかかっているのかもしれませんね。