アラブの春以降色々と騒々しい中東ですが、もともと中東での大きな火種はイスラエルとアラブ諸国の対立でした。

そのイスラエルが建国される前、約1900年にわたってユダヤ人は流浪の民として世界で迫害を受けてきたわけですが、その大きなきっかっけとなった事件があります。

その事件がユダヤ戦争、そしてその最後の戦いとなったマサダの戦いです。


そしてこの”マサダ”こそ日本人の神風、アメリカ人のアラモと同様、ユダヤ人の心奥深くに刻まれた民族の物語といっても過言ではありません。
本日はなぜか日本ではあまり知られていない、マサダのお話などしてみましょうか。
 

☆ ユダヤの反乱 ☆ 

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世紀の初め、パレスチナ地方はローマ帝国の支配下にありました。

当時のローマ帝国は異文化、異宗教にも寛容で、概ねうまく属州を治めていたのですが、多神教をメインとする帝国にあって、厳格な一神教を奉じるユダヤ人との関係はあまりしっくりいっていませんでした。



Roberts_Siege_and_Destruction_of_Jerusalemそんな不満がつもりにつもって、AD66
年、ユダヤ総督フロリスがインフラ整備の為にエルサレム神殿の資金17タラント(1億~15000万円位)を流用したことを切っ掛けにユダヤ人の反乱がはじまります。


当初ユダヤ人を見くびっていたローマ帝国は、あっという間に反乱の首謀者を捕まえて見せしめに十字架にかけます。
ところがこれが裏目に出てかえって反乱に火を注ぐ結果になり、あっという間にパレスチナ全土に反乱が拡大、エルサレムも反乱軍の手におちるありさまになってしまいました。

 

驚いたシリア総督ケスティウス=ガルス(フロリスの上司)は、手持ちのローマ第12軍団(フルミナタ)をエルサレム奪還に向かわせたのですが、ベテホロンという場所で反乱軍に大敗。

かえってほぼ全ユダヤ地域を失う羽目になります。

 

事態を重く見たローマ皇帝ネロは、当代一の戦上手であるウェスパシアヌス将軍に3個軍団6万(第5軍団マケドニカ、第15軍団アボリナリス、第10軍団フレテンシス)の大軍を与え、ユダヤ鎮圧を命じます。

息子のティトゥスとともにユダヤに赴いたウェスパシアヌスは、ユダヤ人の抵抗が頑強なのを見抜き、直接反乱軍最大の拠点エルサレムに向かうのではなく、周囲の街を一つ一つ落としてエルサレムを孤立させることにしました。

 

そしてこの作戦は見事に的中します。


ローマ軍は
68年にはエルサレムを除く、ユダヤほぼ全域を奪還し、今まさにエルサレムへの総攻撃をかける直前まできていたのです。

☆ 4皇帝の年 ☆ 

ところがここで予想外の事態が発生します。


元老院や軍の支持を失い、次々と部下に裏切られた皇帝ネロが自殺したのです。

この結果帝国は大混乱に陥り、1年もの間に4人もの皇帝が擁立されるという異常事態になったのです。

 

DSCN1022AD6971日。
この年
3人目の皇帝ウィテッリウスがローマ市民の支持を得ていないと見たウェスパシアヌスは自ら皇帝に即位することを宣言。

兵力の半分を息子のティトゥスに預け、自らはウィテッリウスとの戦いに赴きます。


ウェスパシアヌスの軍勢は各地でウィテッリウス軍を破り、
1220日、ウェスパシアヌスは新たなローマ皇帝としてローマに凱旋したのでした。

 

一方シリア軍団をゆだねられたティトゥスは、父のローマ皇帝即位を見届けるとAD703月、エルサレムへの総攻撃を開始。

半年にわたる激しい戦闘の末、エルサレムを陥落させました。

この時ローマに凱旋したティトゥスの為に作られたのが、現在でもローマに残る名高いティトゥスの凱旋門なのです。

 

さて、こうしてローマは再び統一されましたが、ユダヤ人たちの反乱はまだ終わってはいませんでした。


☆ マサダの攻防 ☆ 

反乱軍の中でも特に過激だった熱心党といわれる人たちや避難民など
967人が、エルアザル・ベン・ヤーイルに率いられ、マサダ要塞に立て篭もって抵抗を続けていたのです。


マサダ要塞はその昔ユダヤのヘロデ大王が夏の離宮として建造した要塞です。

見渡す限り草木一本としてない荒涼とした不毛の大地にそびえたつ断崖の上にあり、そこに至る道はわずかに一本のみ。


masadaoutsideまさに天然の要害と呼べるような難攻不落の要塞でした。

 

マサダの掃討に派遣されたのは、ルキニウス・フラウィウス・シルバ以下第10軍団フレテンシス1万5000。
実にユダヤ側の兵力の
10倍以上もの大軍です。

しかもユダヤ側には多くの女性や子供もいましたから、実質的な兵力差は更に広がります。


ところが、追い詰められたユダヤ人たちの戦いぶりは、まさに戦史に残るほど壮絶なものでした。

彼らは険しい地形を有効につかい、ローマの大軍を一歩も要塞に近づけさせなかったのです。


遂にローマ軍は力攻めをあきらめ、マサダを包囲して、兵糧攻めに転換せざるを得なくなります。

こうしてマサダ包囲から2年近くたちましたが、それでもなかなかマサダは落ちません。


実はユダヤ人たちは、事前に大量の食糧をマサダに運び込んでいたのです。

その量はあと78年は持ちこたえられるほどのものだったといいます。

 

業を煮やしたシルバは、今度はローマ軍得意の攻城作戦に切り替えます。

それは地形が厳しいのなら、一層のこと大量の土砂を積んで断崖の上まで新しく道を作ってしまい、そこから兵隊や攻城兵器を突入させようというもの。

具体的には構造上防御の弱い西側の突出部に向け、ローマ軍陣地から延々数百メートルもの土の傾斜路を築き、その傾斜路ぞいに攻城塔を断崖の上にあげるという作戦です。
ローマ軍は昔からこの手の土木工事が大好きなのです。

ユダヤ人の妨害にもかかわらず、工事は着々と進み、そして運命の日がやってきました。

傾斜路を通して断崖上にあげられた攻城塔によってマサダの城門が破壊されたのです。

さしもの要害もこうなれば万事休す。
明日にでもローマ軍の総攻撃が始まることはだれの目にも明らかでした。



 ☆ マサダの壮絶な最期 ☆ 


bible-masada111もはやこれまでと見定めたベン・ヤーイルは残った全員を一か所に集め、こういいました。


『敵の前で奴隷になるよりは、死を選ぼう。この世を後にして、自由の国で妻子と一緒に暮らそう。急ごうではないか!

我々を、その力の下におこうと望んでいる敵に、多くの喜びを与える代わりに、我々の死に対する驚きと、我々の勇気に対する賞賛を引き起こす様な、手本を見せてやろうではないか』


彼らは奴隷となることも、あるいは戦って殺されることも拒み、自ら死を選んだのです。


しかしユダヤ教の教義では自殺は認められていません。


そのため彼らは、まず自身の家族を殺し、その後に生き残った者の間でクジを引いて、残っている者達を殺す
10人を選んだのでした。
そして更に10人はもう一度クジを引き残りの9人を殺す1人を決めたのです。
そして、最後の1人だけが、自決しました。
彼らの信じる神の教えに背くものをできる限り少なくするために。


翌日総攻撃を開始したローマ軍が見たのは、自ら死を選んだ960人の遺体でした。


生き残ったのはわずかに女性
2人、子供5人の7人。

穴に隠れていて難を逃れたとも、後世に彼らの誇りを伝えるためあえて残されたとも言われています。

 

いずれにせよ、この戦いがローマ兵士に与えた精神的な影響は大変大きなものでした。

『敵が一掃されたというのに、彼らには如何なる喜びも湧いて来なかった。只、死者の決意の勇敢さと、この多くの者が死を持って示した、断固たる侮蔑とに、驚くばかりだった』
ユダヤ戦記はこの時のローマ兵の茫然とした様をこのように伝えています。

 

こうしてユダヤは滅び、多くのユダヤ人達は故郷を捨て、或いは追われて流浪の民となりました。

エルサレムの神殿を失ったユダヤ教はただユダヤ人だけに伝えられる秘儀となり、一方この時代までユダヤ教の一分派とみなされていたキリスト教が世界宗教へと飛躍していくことになります。

 

時は移って現代。


マサダは現代のイスラエルの人たちにとって、大きな精神的礎というべき場所となっています。

イスラエルの士官学校を卒業し、軍に正式に配属された若者たちは必ずこのマサダの丘に集められます。

そして祖国が二度と滅ばないように、二度と民族が流浪の運命に合わないように、その決意を込めて、彼らは全員でこう斉唱するのです。


『マサダは二度と陥落しない!』