スコットランドの独立騒動が一息ついたと思ったら、今度はスペインで火の手が上がったようです。


スペイン北東部、バルセロナを中心とするカタルーニャ州で9月27日、スペインからの独立の是非を最大の争点に州議会選挙が行われ、135の議席のうち独立を主張する3つの政党が合わせて72議席と過半数を獲得しました。

実はカタルーニャの独立騒ぎはこれで5度目。

今回の結果が最終的にどうなるかはまだわかりませんが、カタルーニャの人々の独立への熱情は実は中世から脈々と続いているものなのです。

今回はそんな独立を切望しつづけたカタルーニャの物語。
話が長くなったので、2回に分けてお届けすることにします。

 


☆ カタルーニャ最初の独立 ☆


Mediterráneo_año_800_dCさて時は8世紀、現在のスペイン全土はモロッコからジブラルタルを越えてやってきたイスラム帝国(ウマイヤ朝、後ウマイヤ朝)の軍勢に席巻されていました。

イスラム帝国の軍勢は勢いに乗ってフランスをも征服しようとしたのですが、フランク王国のカールマルテルの軍勢に阻まれ、スペインへと撤退していきます。

 

辛うじてイスラムを退けたフランク王国は、今度はピレネー山脈の麓をイスラムから奪い返し、緩衝地帯としてヒスパニア辺境領を設置しました。


これが現在のカタルーニャの始まりです。

 

9世紀の終わり頃、ヒスパニア辺境領の一つバルセロナ伯領の領主となったグフレ一世、通称毛むくじゃら伯はイスラムから次々と領土を奪い返し、ヒスパニア辺境領全土の支配者となります。

そして彼の子孫がこの後カタルーニャの支配者となるバルセロナ家となるわけです。

なおグフレ一世が毛むくじゃら伯といわれるのは、普通は毛が生えていない場所に生えていたからだそうですが、残念ながらその場所がどこだったかは伝わっていません。チョット残念ですね。

 

さてそれはそうとして、まもなくイスラム軍の反撃が始まりグルレーは戦死してしまいます。

更に悪いことに985年には名将アル・マンスール・ビッラーヒが大軍を率いてカタルーニャを征服し、バルセロナも陥落の憂き目にあいます。

当時のバルセロナ伯ブレイ二世は本国に救援を求めたのですが、当時フランク王国は3分裂して往年の勢いなく、しかもヒスパニアを領有する西フランク王国はノルマン人の進入に悩まされてカタルーニャを救援するどころの話ではなかったのです。

弱体化した西フランク王国に見切りを付けたブレイ二世は、新たに西フランク王となった(のちの初代フランス王)ユーグ・カペーへの臣従を拒否し、独立を宣言。


ここにカタルーニャは最初の独立を果たしたのでした。


☆ 英雄騎士 エル・シド ☆ 

 

11世紀に差し掛かるとイスラム勢力は俄かに衰え、タイファといわれる小国家に分裂しお互いに争うようになります。

逆にキリスト教徒側は勢い付き、次々とイスラムに奪われた地を奪還するようになりました。
いわゆるレコンキスタの始まりです。

レコンキスタの中心となった勢力はバスク人の国家ナバラ王国(バスク人も独立運動で有名な民族ですが、その話は別の時に)でしたが、間もなく相続によって国土が分割され、カスティリーヤ、ナバラ、アラゴン、レオンの4王国に分裂してしまいます。

こうしてイスラム教徒側も、キリスト教徒側も四分五裂になって争う時代が長く続いたのですが、そんな最中、一人の英雄が現れます。

その名はロドリゴ・ディアス・ビハール。
後の世にエル・シドとして知られるようになる、武勲誉れ高き騎士中の騎士ともいうべき存在でした。

 

22274_originalエル・シドはもともとカスティリーヤ王サンチョ2世のもと、分裂したキリスト教国統一に尽力した名将でしたが、サンチョ2世が暗殺されアフフォンソ6世が王位につくとその武功を疎まれ、カスティリーヤから追放されていました。

エル・シド亡き後のカスティリーヤは次々とイスラムの小国を征服して行ったのですが、このことがとんでもない化け物をスペインに招き寄せる結果になってしまったのです。

カスティリーヤの侵略に脅威を感じたタイファの一国が、モロッコの狂信的なイスラム原理主義者ムラビトゥーンに支援を要請したのです。

ムラビトゥーンが建国した国家をムラービト朝といいますが、これは今で言えば、イスラム国(IS)を自国内に招いたようなものでした。
ムラービト軍はサグラーハスの戦いでカスティリーヤ、アラゴン連合軍を完膚なきまでに叩きのめすと、今度は一転して同じイスラム教徒にその凶刃を向けたのです。


狂信的な信仰を持つ彼らは、タイファ諸国を堕落したイスラムと決めつけ、武力で彼らの原理主義的な教義を押し付け、次々とタイファ諸国を征服していったのです。

 

このスペイン全体の危機にキリスト教国、イスラム教国は一時的に手を結びます。
しかしムラービト朝は強く、寄せ集めの連合軍はあっという間にムラービト軍に蹴散らされスペインの南半分はほぼムラービト朝の手に落ちてしまいました。

そんな危機の中、エル・シドはキリスト教徒のみならずイスラム教教徒をも糾合し、ムラービト朝の大軍を撃破。

彼らの一大拠点バレンシアを奪還したのです。

最終的にバレンシアはムラービト軍への防波堤として独立を果たし、エル・シドはその王位についたのでした。

 

実はエル・シドの死後バレンシアはすぐ奪還されてしまうのですが、一騎士から王にまでなった英雄的な物語と、名声は長く讃えられ、中世を代表する騎士として、様々な伝説が語り継がれていくことになります。

 

さて、エル・シドのなくなる少し前、彼の長女クリスティナはナバラ王家に嫁いだのですが、後日その子孫がスペイン王室に繋がることになります。

つまり後のスペイン王室は伝説の騎士の子孫、ということになるわけですね。

 

一方次女マリアはバルセロナ伯ラモン・バランゲ三世に嫁いだのですが、この結婚がカスティリーヤが全盛期を迎えるきっかけの一つになります。

マリアの娘ヒメナがガスコーニュを領有するフォア伯に嫁いだことで、カタルーニャは南仏の一部まで大きく領土を広げることになったのです

 

☆ カタルーニャ=アラゴン連合王国の成立 ☆
 
 

th8IO6FFDFさて、そのラモン・バランゲ三世の子、ラモン・バランゲ四世はこの後のカタルーニャの運命を決める大きな決断をすることになります。

それは隣国アラゴン王国の王女パルネリャとの結婚です。

当時アラゴン王国は後継者がおらず、その隙をついてカスティリーヤの侵略を受けていました。
国内を安定させカスティリーヤに対抗するため、アラゴンはカタルーニャにラモン・バランゲ四世を両国の王とする同君連合を申し入れてきたのです。


1137年パルネリャとラモン・パランゲ四世の婚約が成立。
ここにカタルーニャ・アラゴン連合王国が成立しました。


時に新郎ラモン・パランゲ四世24歳、新婦パルネリャ2歳でした。

 

その後連合王国は急速な発展を遂げます。


特に13世紀の初め連合王国の王位についたジャウマ一世は60年あまりカタルーニャ・アラゴン連合王国を収め、その生涯の大半を周辺地域の征服に費やしました。


1229年地中海の要衝バレアレス諸島をイスラム軍から奪取したのを皮切りに、1232年にはアラム、ムレリャなどのイベリア半島北部の諸都市を奪還します。

ジャウマ一世の次の目標はあのエル・シドの故地、バレンシアです。

バレンシアをめぐる戦いは激戦となりましたが、1238年遂にバレンシアは陥落。
エル・シド以来100年ぶりにキリスト教徒の手に奪い解されたのでした。

 

こうして押しも押されぬレコンキスタの主役に踊りでたジャウマ1世は、征服王というあだ名で呼ばれるようになります。

カタルーニャ黄金時代の幕開けでした。

 

レコンキスタを完了した連合王国の次の標的は地中海。

ジャウマ一世の息子ペラ二世は、シチリアの王女コンスタンサと結婚しましたが、1266年シチリア王国はフランス王シャルルによって滅ぼされ、フランス領となっていました。

折しも1282年、フランスの圧政に苦しんでいたシチリアの人たちが反乱を起こし、鎮圧するフランス軍によって多くの住民が虐殺されるという事件が起こります。


所謂「シチリアの晩鐘」事件です。

 

ペラ二世はこの事件を利用して妻の故地シチリアに侵攻します。

住民の反乱に苦しんでしたフランス軍はほとんど戦うことなく本国に逃げ帰ったため、シチリアは戦わずしてカタルーニャの支配下に入ったのでした。

 

しかしもちろんこれで終わりではありません。

激怒したフランスはローマ教皇にカタルーニャの侵略の理不尽さを訴え、その結果教皇はペラ二世を破門、総勢10万からなる十字軍がカタルーニャに向けられることになったのです。

さしものベラ二世もこの大軍には抗しきれず、まさに絶体絶命の危機。
しかしこのピンチにカタルーニャーアラゴン連合艦隊が大活躍し、地中海のフランス艦隊を撃破するという大殊勲を上げます。

思わぬ敗戦で制海権を失ったフランスは、シチリア再征服を諦めざるをえなくなります。
こうしてカタルーニャはギリギリのところで建国以来の大ピンチを脱することができたのでした。

 

☆ 傭兵部隊の反乱 ☆

280px-Imperi_de_la_Corona_d'Aragóこうして辛うじてフランスを退けたカタルーニャが西地中海の制海権を握った頃、東地中海では新たな動きが起こっていました。

ビザンチン帝国に雇われたカタルーニャ人の傭兵部隊が反旗を翻し、トラキア、マケドニアを征服したのです。

しかも彼らはその後もアドリア海沿岸を荒らしまわり、終いには1311年にアテネも攻め落とし、勝手にアテネ公国、ネオパトリア公国と名乗って独立国を建国してしまったのです。

勿論この反乱はカタルーニャ本国は全くあずかり知らぬことだったのですが、
ビザンチン帝国の復讐を恐れた彼らはカタルーニャのペラ三世に使者を送り、征服した全領土を献上したいと申し入れます。

なんと労せずして東地中海の要衝がカタルーニャに転がり込んでくることになってしまったのです。

 

かくてカタルーニャーアラゴン連合王国は、瞬く間にスペインからシチリア島、そしてギリシアに至るまでの地中海を支配する一大帝国となったのでした。


(後編に続く)