前編ではカタルーニャ=アラゴン連合王国がイベリア半島東部から遠くギリシアに至るまで、地中海に覇を唱えるまでをお話ししました。

しかしいかなる国家も盛衰からは逃れられないもの。
14世紀に入るとカタルーニャにも衰退の影が徐々に忍び寄ります。



☆  衰退の始まり ☆


2000px-Sardinia_in_Italy_svgケチのつけ始めは調子に乗ったカタルーニャが1324年、地中海の要衝サルデーニャ島を占領したことでした。

 

サルデーニャ島はイタリア半島の西側にある大きな島ですが、その位置は当時興隆を極めていた海洋都市で、カタルーニャの地中海貿易上の最大のライバル、ジェノバの目と鼻の先。

当然ジェノバがみすみすカタルーニャの支配を見逃すわけがありません。


貿易というのはそもそも平和だからできることです。
貿易立国の連合王国にとって、ジェノバとの長い戦争はボディーブローのように効いてきました。

しかもジェノバの支援を受けたサルデーニャ島の住民たちはゲリラ化してカタルーニャの支配に抵抗します。

カタルーニャは何度も軍を送ってサルデーニャ島の反乱を鎮圧しますが、少し目を離すとジェノバの策動で反乱が再発するという繰り返しで、さしずめサルデーニャ島はカタルーニャに取ってのベトナムとも言うべき泥沼になりつつありました。

 

悪いことに、そんな中ジェノバとの戦いでよりによってバルセロナ伯爵家唯一の跡取りだった皇太子マルティが戦死。

この不運な事件は、後にバルセロナ伯爵家の断絶を招き、連合王国が衰亡する遠因となります。

 

 

一方同じ頃イベリア半島でも新たな火種が火を吹いていました。


王位継承を巡る紛争にイベリア半島支配をねらう隣国カスティーリャが介入してきたのです。
しかも時のカスティリーヤ王は残忍王とあだ名される戦争大好きのペドロ一世。

この戦いは断続的に10年にわたって続きましたが、勝敗はつかず、単に国力を大きく疲弊しただけの結果に終わりました。

 

内憂外患が続く中、連合王国(当時はバレンシアも加わってカタルーニャ、アラゴン、バレンシアの3カ国連合)を治めてきたバルセロナ伯家は断絶し、新王を選出する為、連合王国各国の代表がカスペ城にあつまることになりました。


これが結果的にカタルーニャのとって痛恨の出来事になります。
1412年さまざまな思惑が交錯した末、よりによって宿敵、カスティーリャ出身のファラン一世が即位することになったのです。(カスペの妥協)


☆  スペイン統一 ☆

 

さて話は変わりますが、カタルーニャーアラゴン連合王国の最大の特徴は、欧州でイギリスと並んでもっとも古い議会政治が行われてきたことです。


特にカタルーニャの議会はラス=コルツといい、世界で一番古い身分制議会だと言われています。

またジャナラリターと呼ばれる独自の自治政府をもち、バルセロナ伯爵家は絶対君主ではなく、あくまでも議会と政府と協力の上国を収めるのが建前でした。

しかしカスティーリャは王家の力が強い君主国です。
カスティーリャ出身の王家はカタルーニャのこうした習慣を無視し、政府、議会との対立は日を追うごとに大きくなりました。

 

1462年、両者の対立はついに限界に達し、王位争いに絡んでついに王家と議会とは全面的な内戦に突入してしまいます。

この争いは結局国王側の勝利で終わり、ジャナラリターやラスコルツの権限は大きく制限されることになりました。

またカスティーリャ出身の王家は反抗的なカタルーニャに冷淡になり、出身地のカスティーリャへの傾注を深めていくきっかけにもなります。

 

1469年、国王ジュアン2世の皇太子フェルディナントがカスティーリャの王女イザベルと結婚しました。

この結婚はスペインの歴史に残る結婚となりました。

なぜならその後二人はそれぞれカスティーリャ王国、そしてカタルーニャ=アラゴン=バレンシア連合王国の国王となったのですから。


アルハンブラ宮殿1492年、カスティーリャ、カタルーニャ=アラゴン=バレンシア連合王国の連合軍はイベリア半島に残った最後のイスラム王朝ナスル王国の首都グラナダを攻略。
ここに遂にレコンキスタが完結しました。


同時にこの年はスペインにとって新たな栄光の始まりとなる記念すべき年となりました。

イザベル女王が後援したコロンブスの艦隊が新大陸、つまりアメリカを発見したのです。


ちなみにこの時点では勿論2つの王国は夫婦がともに王座にあるとはいえ、建前上はそれぞれ別個のものでした。

しかしフェルディナントとイザベルの間には男子がなく、二人の娘がハプスブルグ家に嫁いだことで、まもなくその長男カルロス一世が両国の領地を一人で継承することとなったのです。


こうしてカスティーリャとカタルーニャ=アラゴン連合王国はひとつに統合され、ハプスブルグ家による統一スペインが誕生したのでした。

  

☆  栄光の光と陰 ☆



Iberian_Union_Empiresハプスブルグの支配の序盤にはそれに反対するカスティーリャ貴族の反乱などがあったものの、国内が落ち着くとスペインは黄金時代を迎えます。



1496年エスパニョーラ島、1503年ナポリ王国、1509年ジャマイカ、1521年アステカ王国(現在のメキシコ)、1527年マヤ帝国(現在のユカタン半島)、1529年フィリピン、と統一されたスペインは破竹の勢いで征服活動を進めていきます。
そして1532年にはインカ帝国を滅ぼし、遂にブラジルを除く南米の大半をも手中に収めたのでした。

こうした征服地からもたらされる莫大な量の銀は、スペインに空前の繁栄をもたらしました。


スペインは次のフェリペ2世の時代に最盛期を迎え、レパントの海戦で宿敵トルコを打ち破るとともに、1580年にはポルトガルをもその広大な海外植民地とともに併合し、名実ともに日の沈まぬ大帝国を打ち立てたのでした。

 

しかし、こうした繁栄の果実を享受したのは、実はスペインの中でもカスティーリャだけだったのです。

というのは新大陸発見の際当時のイザベル女王が利権をすべてカスティーリャで独占し、カタルーニャには与えなかったからです。

新大陸の富で空前の繁栄に湧くカスティーリャを横目に、カスティーリャは衰退する単なる一地方に転落していました。

 

17世紀に入るとスペインは急激に衰え始めます。

各地で反乱が相次ぎ、特に当時世界経済の中心だったオランダがスペインに反旗を翻したことは、スペインの経済に決定的な打撃を与えました。


1618年に始まった30年戦争ではスペインは同じハプスブルグ家のオーストリアとともに、カトリック軍の中心となって戦うことになります。

そしてこの戦争がスペインの繁栄にとどめの一撃を見舞うことになったのです。

 


☆  カタルーニャの死 ☆


1640年、長引く戦争の戦費調達のためスペインの宰相オリバーレス伯爵はカタルーニャに重税を課し、これに反発した農民が収穫に使う鎌を片手にカタルーニャに駐屯していたカスティーリャ兵を襲撃する事件が発生しました。

この反乱はたちまちカタルーニャ全土に拡大し、19年にもわたる大反乱となります。

このカタルーニャの反乱を収穫人戦争といいます。


翌年カタルーニャのジャナラリターはカタルーニャ共和国を名乗り、遂にスペインからの独立を宣言。

反乱はまもなくスペインに併合されていたポルトガルにも飛び火し、ポルトガルの独立戦争へとつながります。

いずれにせよこのカタルーニャの反乱をきっかけに、スペイン帝国は決定的に衰退し、100年に渡った黄金時代は完全に終焉を迎えたのでした。

 

さて、その後ポルトガルは20年にも渡る独立戦争の末、独立を回復しますが、しかしカタルーニャはそうはなりませんでした。


ここでカタルーニャは決定的な過ちを犯してしまったのです。

それは独立にあたってフランスの助けを得ようとしたことでした。

 

最初は其の目論見はうまくいくように思われました。

カタルーニャーフランス連合軍はスペイン軍をカタルーニャから追い出し、軍事的には優勢だったのです。


しかし肝心のフランスにはカタルーニャを独立させようなどという気は毛頭ありませんでした。

やがてフランスは其の邪悪な本心をむき出しにし、ルイ13世は自らバルセロナ伯を名乗ってカタルーニャを占領、フランスに併合しようとしたのです。

 

1648年に30年戦争が終わると、スペインはようやくカタルーニャの反乱鎮圧に本格的に乗り出します。

こうなるとカタルーニャを占領していたフランスは、カタルーニャの北部をフランスに併合することを条件に、勝手にスペインと手打ちをしてしまいます。

見捨てられた形のカタルーニャは1659年再びスペインによって征服されたのでした。

 

さてカタルーニャ併合に失敗したフランスでしたが、彼らの狙いはカタルーニャなどという小地方ではなく、スペインそのものであることをまもなくヨーロッパの人々は知ることになります。

1700年スペインのハプスブルグ家が断絶すると、後継にはフランス王ルイ14世の後ろ盾で、ルイ14世の孫アンジュー伯フェリペ5世が即位することになったのです。


フェリペ5世は同時にフランスの王位継承権をもっていましたから、このままいくと次の世代にはフランスとスペインは合併する可能性がでてきます。

スペイン帝国の崩壊によって当時の世界最強国はフランスになっていましたが、そのフランスと衰えたとはいえ多数の海外植民地をもつスペインが合併すればヨーロッパに覇を唱えることは明白です。


フェリペ5世の即位に異を唱える諸侯は、ハプスブルグ家のカール大公を担いでフランスに宣戦を布告。

バルセロナを占領すると、ここを根城にブルボン家のスペインとの戦いを始めたのでした。(スペイン継承戦争)

 

全く意図しない形でブルボン家対ハプスブルグ家の戦いに巻き込まれたカタルーニャでしたが、前回のフランスヘの恨みからかカタルーニャ軍は善戦し、2度にわたってブルボン家のスペイン軍を撃退します。


しかし肝心のカール大公が神聖ローマ帝国の皇帝に即位することが決まると、諸国は戦争継続意欲を失い、またしても勝手に和平を結んでしまいます。

再び梯子を外された形になったカタルーニャは、1714年9月11日、ブルボン朝スペイン軍の総攻撃を受け陥落。

スペインによる報復は厳しく、政府も議会も解体されて自治権を奪われ、またカタルーニャ語の使用も禁止されたのでした。

カタルーニャでは今でもこの日を国家としてのカタルーニャが死んだ日として記念しているそうです。

 


☆  4回の独立宣言 ☆


さてこうして国家としてのカタルーニャは滅亡しましたが、その後産業革命の勃興とともに経済的にはむしろ立ち直り、カタルーニャはスペインの経済的な中心になっていきます。

こうして自信を取り戻したカタルーニャには再び独立の気運が高まっていきます。

 

時は流れて1873年、時の国王アマデオ一世は引き続く混乱を収集しきれずに王座を投げ出してしまい、スペインはその歴史上初めての共和政体となりました。(第一共和政)


初代の大統領についたのはカタルーニャ出身のフィゲーラスです。

国内の混乱収拾に苦しんだフィゲーラスは苦し紛れに独立性の強い各地域に自治権を与えて、スペインを連邦国家として再編しようと考えました。


こうしてカタルーニャは再びカタルーニャ共和国として独立を宣言することになりました。

しかしそれもほんの短命に終わります。というのはまもなくフィゲーラスは失脚し、連邦制は元の木阿弥となっただけでなく、王党派のクーデターで、第一共和政はわずか1年半あまりで崩壊してしまったからです。

 

スペインは再び王政に戻りましたが、その混乱に乗じてキューバとフィリピンで反乱が発生。

スペインはそれぞれ鎮圧のための軍を送りますが、それがかえってカリブ海の支配を狙うアメリカの介入を招き、挙句にアメリカの軍艦メイン号がスペインに爆破されたというとんでもない言いがかりをつけられて宣戦を布告されてしまいました。


この戦い(米西戦争)はスペインの散々な敗戦に終わります。

かつてのスペインの繁栄を支えた外洋艦隊の大半を失い、カリブ海の植民地もフィリピンもすべてアメリカに奪われてしまいました。

この敗戦以降国王の権威は地に落ち、スペインは再び長い衰退と混乱の時期に入ります。


なんだかんだあって第一次大戦後、経済恐慌をきっかけに再び革命が勃発しました。

1913年国王アルフォンソ13世は国外へ逃亡し、スペインは共和国に復帰したのです。(第二共和政)

 

第二共和政政府が打ち出したのは、第一共和政と同じくスペインの連邦制への再編でした。

喜び勇んだカタルーニャは1931年三度カタルーニャ共和国の独立を宣言します。

しかし結果はまたしても裏切られるのです。
まもなく共和政府は連邦制の方針を撤回し、カタルーニャの独立を無効として、代わりに自治権を与えることになりました。


収まらないのはカタルーニャの独立派です。
一度は伝統的な自治政府であるジャナラリターの復活で妥協したものの、1934年の総選挙で連邦制を支持する左派が敗退しスペインの混乱が一向に収まらないと見るや、四度独立を宣言したのです。


度重なるカタルーニャの独立騒動に激怒した右派の政府は今度は軍事力を持ってカタルーニャを制圧し、ジャナラリターの指導者らを逮捕しました。

しかし1936年の総選挙では再び左派が勝利したため、独立運動の指導者たちは釈放されます。

 

250px-Espagne_guerre_aoutこうして事態が二転三転する中、右派の支持を受けたフランコ将軍がモロッコでクーデターを起こし、スペインは全面的な内戦に突入することになりました。


有名なスペイン内戦の始まりです。


独立の夢を追うカタルーニャの人たちは、左派の人民戦線政府を支持し、最後にはバルセロナは人民戦線政府の首都となるほどでしたが、1939年1月、ドイツやイタリアの支援を受けた30万ものフランコ軍の大攻勢の前に遂にバルセロナは陥落し、人民戦線政府は崩壊してしまいます。

同時にカタルーニャ独立の夢はまたしても潰え去ったのでした。

 



こうしてみるとカタルーニャの独立への熱情は実は1000年以上にも及ぶ筋金入りのものであることがわかります。


今回の選挙結果で直ちにスペイン国家が解体することは考えられませんが、度々現れては消えるスペインの連邦制の構想が再び頭をもたげてくることは十分に考えられるといえるかもしれません。