Hi-log 3

日々の生活と仕事を綴った雑記

鉄血のオルフェンズ、ついに最終回を迎えました。
1期終了の時点でも感想を書いてましたが、全体が終わったうえでの感想も書いてみたいと思います。
ネタバレ全開ですので、気になる方は回れ右で。
1期のときの感想はこちら↓
『鉄血のオルフェンズ』は何を描くのか

主人公たちが作り上げた集団『鉄華団』は2期の前半で一時的な成功の姿が描かれたものの、その後は破滅への道、一直線でした。
主人公が乗るガンダムが敗北し、主人公・三日月も死亡する。
小説も含めた全メディアで見れば「閃光のハサウェイ」で一度描かれたシチュエーションですが、映像作品でここまでの敗北描写ははじめてでしょうかね。

物語の冒頭で、主人公の三日月が容赦なく人を殺すシーンがありました。
そこには自分たちを虐げてきた相手もいましたが、それに対してなんの迷いも躊躇もなく銃のトリガーをひく姿は冷酷で、理解できるとは言い難いものがあった。
その償いのシーンは必ずあると自分は思っていたので、そういう視点では今回のラストシーンはまぁそうだろうなと納得できるものではあります。
ただ一方で1期の感想で書いたとおり、三日月を含めた鉄華団の少年たちの非情さ・残酷さは、ろくでもない大人たちが作り上げたろくでもない社会で彼らなりに生きていくためのある種の社会適応だったとも言えると思うんですね。それ自体の是非はいったん置いといて。
すべての責任が彼らにあったわけではない。
だからストレートな罪の償いの前に、再生のための何かワンチャンスが物語の中で彼らに与えられるのではないか。
そういう期待を持って、自分はこの作品を観ていたんです。

1期でヒロインのクーデリアが、三日月を含めた鉄華団の少年たちに文字の読み書きを教えるシーンがあった。
言葉を覚え、それにより自分の内面を言語化できるようになり、そこからさらに他者への想像力が養われ、その先に相互理解とまでは言わずとも悲しいすれ違いによる闘争の末の悲劇を避けることに繋がらないか。
そういう期待が自分の中にあったんですね。
それは何故か。

それはリアルな現代を生きる若者の一定数(それは決して少なくないはず)が自覚・無自覚を問わず抱える内面的な悩みは、鉄華団の少年たちが抱えるものと本質的に同じだと思うから。
リアルの日本社会は、まだ死ぬか生きるかの極限状況には至ってないし、読み書きができない子どもはほとんどいないとは思います。
でも、自分で何かを選択して主体的に生きていると思っていたら、社会のいろんなしがらみに翻弄されているだけだったというのは、若者に限らずリアルを生きる人たちが感じるところではないか。

同じく鬱展開だったゼータガンダムが放映されたのは1985年。
世がバブルに浮かれようとし始める前兆が見られた時代に「現状認識」をテーマに作られたのがこの作品でした。
当時の人が見失っていたものをあえて見せるという意味では、あの時代にゼータガンダムの内容が世に問われた意義はあったのかもしれない(それがきちんと伝わったかはともかく)。
エヴァンゲリオンの放映はその10年後となる1995年。
失われた10年と言われる時代の真っ只中で、この先どうしていいか分からないという気持ちを内面的に抱えていた人にとって、この作品の描写はリアルな共感を得やすかったのだろうと思います。
こちらも鬱展開が多かったことは多かったですが、主人公・碇シンジの視点だけで見れば、葛藤を抱えながらも未来への可能性を示唆する終わり方でした(それがきちんと伝わったかはともかく)。

そして鉄血のオルフェンズが放映された2016~2017年。
くそったれな大人や社会に自分たちが翻弄されていることは、今の若者にとってはある程度自明なことなんじゃないかと自分は思うんです。
であれば、鬱展開のまま終わるのではなく、そこをどう回避していくかという描写があった方がよかったんじゃないか。
まぁ鉄華団は全滅というわけではなく、生き延びた少年たちが彼らなりの日常を継続させていることはラストシーンで描かれます。
人によって明暗分かれてはいますけど(闇の部分も描いてるのは制作側の誠実さを感じて良いなと思います)。
ただ自分としては主人公の三日月が、言葉を覚えていく中で生き延びていく姿を見たかったというのはあります。

当初、敵側のライバルキャラだったマクギリスと鉄華団は終盤共闘するようになります。
貧しい身分で大人に虐げられたという共通の出自を持つ者どうしということでの共闘でした。
そう考えるとマクギリスは言葉を覚え使いこなせるようになりながらも、その使い方を誤り破滅するキャラという位置付けになります。
だからこそ、同じように言葉を使いこなし、さらにマクギリスとは違う道を選べたことで三日月が生き延びるという形だと、良い対比構造になったんじゃないか。
そういう描写も観たかったなと。

自分が今仕事にしている若者の就労支援の現場では、自分の内面を上手く言葉にできないことで、社会との折り合いを上手くつけられず、それが生きづらさにつながっている人が多い。
これは若者に限った話ではないとも思うわけですが、おそらくはそういう人が多いリアル社会であるからこそ、言葉を上手く使いこなせなかったことで破滅する姿ではなく、言葉を使いこなして生き延びる姿を描いてほしかったという個人的思いはありましたね。

残念ながら主人公の三日月はそれができませんでしたが、ただ鉄華団の中にはそれができた少年たちもいます。
タカキ・ウノという2期の序盤で鉄華団から離れた少年と、ザック・ロウという鉄華団に所属していながら鉄華団の在り方に批判的だった少年(彼も終盤で鉄華団を抜けようとしたができなかった)。
二人とも最後まで生き延びました。
この二人の在り様は自分としては共感できるものではありましたね。
鉄華団の若者たちは、後先考えずに突っ走った者より、いったん立ち止まって考える者がわりと生き延びた印象があります。

俯瞰的に見れば、今回のオルフェンズは主人公の成長物語というこれまでのガンダムシリーズで当たり前とされていたものからあえて脱却するという試みをしていたのかもしれず。
鉄華団の少年たち全体が主人公という群像劇なのだとしたら、今回の落としどころは納得できるし、批判するべき部分はありません。
あくまで上記のことは、自分の個人的主観による個人的感想ということになりますね。

リアルの世がもうじゅうぶん鬱展開なので、物語(特にリアルを描くとされる)の中ではその回避方法を模索するネタを仕込んでもらえると嬉しいなというのはありますかね。
安易な前向きで希望あふれる展開は、それはそれで嘘っぽく感じてしまいますが。
何にせよ、リアルに即した希望を描く作品を観てみたいという想いは、いまだ続くといった感じです。

久々の更新です。
わたしの両親も高齢となっており、いろいろと体調面の不調が目立ってきています。
そのため札幌の実家に様子を見に行く頻度があがっていて、さらに本業の仕事も慌ただしくなっていて、公私ともに忙しい状況。

そんな中で心身のバランスを取るには、好きなことを自由にやる時間も必要で。
そこでNintendo Switch(発売日に入手しました)と行きたいところですが、先行して手に入れたプレステ4のゲームがいろいろたまっていたので、こちらを先に進めてました。
本命の『人喰いの大鷲トリコ』を終え、気になっていた『メタルギアソリッドV』を終え、『ニーア オートマタ』を先日終わらせました。
今回はこの『ニーア オートマタ』の話。

前作『ニーア レプリカント』が面白かったので、続編をプレイするのは必然。
ただ前作の世界からさらなる未来(西暦1万年代)の話なので、密接な関係は薄い。

『ニーア オートマタ』で印象的なのが、人間(人類)が出てこないこと。
でも「人間的な描写」が数多くあるんです。
『ニーア オートマタ』の舞台は上記のとおり西暦1万年代の地球。
外宇宙からやってきたエイリアンが送り込んだロボット兵器「機械生命体」によって地球は占領され、人類は月への撤退を余儀なくされていました。
地球奪還のため人類が地球に降下させたのが、人の姿を模したアンドロイド。
そのアンドロイド軍の特殊部隊「ヨルハ」に所属するアンドロイド達がプレイヤーが操作する主人公。

主人公側のアンドロイドは、外見は人間と同じ。
多少の感情は持ってますが、基本論理的に思考し、任務を淡々とこなす。

敵対する機械生命体は、外見はどこからどう見てもロボット。
抑揚のない発声をする、きわめてロボット的な存在なのですが、長い年月を経る中で、人間的なコミュニティを形成していきます。
このコミュニティの形が実に多用で、王と臣下といった関係性の構築、芝居に役者として出演、家族の形成、哲学者としての研究、そしてついには村長を立てたうえで村を作ってしまいます。
軍隊・兵士という役割だけを全うする主人公たちアンドロイド側とは意図的な差別化が行われていることが分かります。
要は外見や内面の感情、他者との関係性の作り方などを含めて、「人間的」とされるものを二分化して、主人公側と敵対する側に振り分けている。
さらにはストーリーが進むと、主人公に協力する機械生命体が出てきたり、逆に主人公に敵対するアンドロイドが出てくるようになって、そういった立ち位置や所属に限定されない複雑な関係性が現れるようになって、これもまた人間的なものとして描かれるようになります。

機械生命体はもちろん主人公たちアンドロイドも機械なのですが、それがそれぞれ人間的になっていくきっかけになるのが「自我」。
ゲーム中にも「自我」という言葉が多く出てきます。
人間ではない存在を使って人間的なものを描く。
だからこそ相対的に「人間について、人間を定義するものについて」が何かをも同時に描く。
ゲーム中で自我という言葉が多く出てきますが、自我を持ったものが全て人間であると明言はしません。
でもしかし・・・、とプレイヤーはゲームをプレイしながら、あれこれ考えていくことになります。
もちろん私もあれこれ考えました。

自我について無自覚に触れ始める思春期の若者向けゲームといえるかもしれませんが、混迷の世を生きる中で様々な物事の「そもそも論」が分からなくなってきている我々おっさん世代にとっても刺さるゲームと言えなくもないのかなと思います。

新年あけました。今年もよろしくお願いします。

プレステ4自体の購入目的であった『人喰いの大鷲トリコ』を入手しているのですが、こちらの序盤をちょろっとやっただけで、今はもっぱら『メタルギアソリッドV』をやっています。
プロローグである『グラウンドゼロズ』がリリースされたのが2014年、本編である『ファントムペイン』が2015年。
共にプレステ3版も出てましたが当時はプレイする気が起きず、ネットでストーリーの結末(と言っても諸事情で未完なんですが)も確認しちゃっていました。
ただ昨年9月にプレステ4を入手したときに、上記2編がワンセットになったパッケージが出ることを知り、ストーリーを知っているとはいえ盛り込まれているテーマに興味があったので、実際にやってみようと思って入手した次第です。
まだエンディングまで行ってないのですが、現状ほぼラスト近く。
エンディング到達時に都合よくブログを書く時間が取れるかどうか分からなかったので、このタイミングで書いてしまいます。
今回書きたいのは結末についてではなく、自分が興味を持ったテーマに関わる部分なので。

メタルギアとは、このゲームシリーズの全てに登場する核搭載二足歩行戦車のこと。
文字どおりこのゲームの象徴のひとつでもあります。
本作のメタルギア「サヘラントロプス」が直立二足歩行してしまうのはちょっとどうなの?と思いましたが、それはさておき。
今回の「V」では、このメタルギアを超える最終破壊兵器が敵の元に存在することが判明し、その謎に迫るのが中盤以降の展開になります。
その最終兵器とは「声帯虫」。
人間の声帯に寄生し、特定の言語を喋った者の肺を食い荒らし死に至らしめます。しかも発症後に感染していくという。
ロシア語、フランス語、日本語など世界に存在する数千を超える言語それぞれに個別に対応する虫が存在し、当初はなぜか英語に対応する虫だけいなかったのですが実はちゃんと存在し、それこそが敵の最終目的であることが分かります。

寄生された人間が発症をを逃れるためには、その言葉を喋らないようにするしかない。
敵の目的は人を死に至らしめることではなく、むしろこちら側にあります。
英語を喋らせなくする、ロシア語を喋らせなくする、日本語を喋らせなくする・・・・・。
要するに言葉を封じ込めるということです。
メタルギアソリッドVの舞台は1984年。まだSNSはもちろんインターネット自体が存在しません。
手紙など文字のコミュニケーションはありますが、直接対話に勝る効率性の高いコミュニケーション手段はありません。
そこで「言葉を発する」ことが封じられる。
そうなった世界で起こる大混乱は想像に難くないでしょう。
ちなみにこの計画の実行者であり今回の敵ボスである「スカルフェイス」は、ハンガリー語圏の北トランシルヴァニア出身で子供時代に戦争により母語を話すことを禁じられ、さらに占領のたびに占領国の言語を強制的に覚えさせられ喋らされたという出自を持っています。
言葉、というか言語の暴力への報復が、この計画の目的のひとつというわけです。

コミュニケーションのみならず人間の「思考」を司るのも言葉です。
声帯虫が発声以外に言語による思考にまで直接影響を与えることはないようですが、発声を封じられたことによる影響は思考にも及ぶかもしれません。
それは人の思考停止を促進させることにも繋がるかもしれない。
これを「最終兵器」に位置付けた『メタルギアソリッドV』は深いなと思うわけです。
シナリオ上、声帯虫の効用を無効化する手段というのが出てくるわけですが、「言葉を失ったときに人はどうなるか」ということをテーマとして盛り込んでいるのは、なかなか意義深いのではないかと。
ゲーム内を飛び越えて考えさせられる要素があることは全てのゲームに必要とまでは言いませんが、大事なことだと思います。

本作には「クワイエット」と呼ばれる女性スナイパーが登場し、主人公スネークの相棒としてストーリー上もゲームシステム上も活躍します(ゲームシステム上ではホントに役立つ存在でプレイヤーが何もせずともクワイエットさんだけで敵基地を制圧しちゃったりします、さすがに終盤は無理になってきますが)。
このクワイエットも実は虫に寄生されていて、そのため喋ることができません。クワイエットというコードネームもこれが由来になっています。
言葉を話せないことによる味方内での摩擦や軋轢が描かれる一方で、言葉を介さずとも良好なコミュニケーションが取れる可能性も同時に描写されます。
言葉が絶対的なものではないことを提示しつつ、しかし言葉がなければ人間社会は成立できない。
クワイエットもまた、このテーマを象徴する存在なんですよね。

前述のとおりメタルギアソリッドVの舞台は1984年。
これはジョージ・オーウェルが執筆し1949年に出版された小説『1984年』のオマージュでもあります。
この小説に出てくる「ニュースピーク」と呼ばれる言語統制による人民への思考統制は、このゲームにおける声帯虫による攻撃目的に繋がります。
またこの小説で描写される「相互監視社会」や「全体主義化」は、ゲーム後半に主人公が所属する組織「ダイヤモンドドッグズ」が同じ状況になっていくことで同様に描かれます。
ゲーム中の相互監視や全体主義化は終盤でそれが一見取り除かれたように見えて実はそうなっていないままエンディングを迎えることが真の恐ろしさに繋がっているような気がします。

本作は、言葉が失われたことによる混乱を想起させる一方で、言葉自体が誤解という混乱を招く描写も多くしています。
とにかく「言葉」について、メリットもデメリットも含めてあらゆる角度からプレイヤーに考えさせる材料を盛り込んでいる。
まだ実際に見ていませんが、エンディングはニーチェの言葉「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」で締められるそうです。
事実と呼ばれるものは各人それぞれの解釈で各人ごと(あるいは各人で構成される集団ごと)に成立しているものに過ぎない。その解釈を行なうにあたって使われるツールが「言葉」。
なかなか深い話だなと思うわけですが、如何でしょうかね。
今回のこの文章もわたし個人の言葉による一解釈に過ぎないわけですけども、誰かにとっては誤解に繋がる可能性を前提としつつ、それでもなお誰かに明確に伝わることを信じて発していくしかないのだな、なんてことをこの作品のテーマを受けて実感したのでした。

昨日から実家に帰省してます。
今年はハードな一年でした。
疲れたというのが率直かつ正直な感想。
なんというか、この「疲れた」というのを変な形で誤魔化さない方がいいという思いがあるので、まず最初の感想として挙げたい。

4月から本業の体制が変わって、そちらに集中することになったことが大きい。
昨年までと比べて余力がなくなり、いろいろと発信することも激減しました。
けれども今になって思えば、昨年までが過剰に発信気味だったという気もしないでもないので、バランスが取れてきたとも言えなくもないかなと。
上記のとおり、かなり疲れはしたのですが、こういう形で一度本業に関わっておけたのは、今後のための経験としてこれはこれで良かったとは思います。まぁこれがずっと続くのは、しんどいわけですが。

両親の老いが目に見えて進行したり、親戚が立て続けに余命いくばくもない状態になったり、自分自身も以前と比べて体力の衰えが目立ってきたりと、「老い」とか「余生」というキーワードがリアルに実感させられることが多い一年でもありました。
上記のことが立て続けに起きたから、そういう考えに極端に寄せられているってのもあるかと思いますが、「老い」に関しては親も自分も現実的事実ではあるので、その辺の気付きのきっかけが早めにあったのは心の準備という意味では良かったんじゃないかと。
何にせよ「残りの時間に限りがある」ことを認識させられたということもあるので、あまり余計なこと(自分基準で)はこれからはしたくない、しないためにはどうすればいいかを来年以降は考えていくことになりそう。

発信が激減したとはいえ、自発イベントは可能な範囲でやってきました。
小樽文学館の展示、夜間徘徊は継続できた。
「生きづラジオ」は今年前半でストップしちゃってますが、環境を整えて、またどこかのタイミングで再開させたい。

映画は全然観なくなってしまったけど、ぽつぽつと数本は観られました。
今年は『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』が良かったですね。
両者ともややマニアックな作風ですが、世間的な話題になったのもまた良かったなと。
それと両方とも観た後に語りたくなる内容だったのも特徴でした。

9月にプレステ4を入手し、久々に個人的にゲームにハマる状態になりました。
『人喰いの大鷲トリコ』目当てでしたが、『ダライアスバーストCS』、『グラビティデイズ』、『メタルギアソリッドV』なんかもやってます。
あとインディーズ系ゲームでも面白い作品が多かったのが今年の印象でもあります。
PS4だと『INSIDE』、3DSでは『いかちゃん』、『セヴァード』辺りが良かった。
来年出るであろうドラクエ11はPS4版も遊べるので、楽しみですよ。3DS版と両方やってしまいそう。
こういう状況を鑑みると、残る余生にゲームをする時間は組み込まざるを得ないなと。

話を元に戻して。
来年は今後に向けて、改めての準備・調整をする一年になりそうです。
「余生」というキーワードが挙がったとはいえ、その時間を生き延び続けるためにはどうするかということなので、「継続」というキーワードも外せない。
そうしたときに「自分の特性」を無視すると途端に継続性が失われしまうことになるので、そこにも留意しつつ。
人と話すことも多くなるかと思いますので、そのときは対象になった皆さんよろしくお願いできれば幸いです。

10月9日(日)、夜間徘徊@札幌を行なってきました。通算5回目。
そちらの模様を伝えます。

・概要

・16:00 月寒神社(月寒公園)

・16:20 地下鉄東豊線・美園駅

・16:35 地下鉄東西線・白石駅

・16:45~ 環状通り

・18:20 豊平川

・18:50 スターバックス

・19:10 地下鉄東豊線・環状通東駅

・19:25 地下鉄東豊線・元町駅

・19:40 
地下鉄東豊線・新道東駅

・20:00 地下鉄東豊線・栄町駅

・20:30 玉林酒家

・最後に
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