Hi-log 3

日々の生活と仕事を綴った雑記

先日『聖戦士ダンバイン』のBlu-ray Boxを買いまして、ひとまず全話視聴しました。
OVA版と特典映像はこれから観る予定。

で、今回の記事はダンバインの感想ではなく、ダンバインを含めた富野由悠季作品全体の感想になるのですが。
ダンバインを再視聴して改めて分かったのは、人間の本質はそうそう変わらないということを描いていること。
ダンバインには現実の我々の世界「地上」と、そことは異なる世界「バイストン・ウェル」という二つの世界があり、地上で暮らていた主人公「ショウ・ザマ」がバイストン・ウェルに召喚されたところから物語が始まります。
物語が進むと二つの世界が交わることが多くなり、ショウを含めた登場人物どうしが様々な交流を行なうシーンも多くなる。
バイストン・ウェルと地上は文化や価値観が異なるので、そこでいろんな誤解や衝突が起こる。
しかし上記のとおり「人間としての本質は変わらない」ことが根底に描かれているので、本質的なエゴや業、他者理解や慈愛といった辺りには大きな違いはない。
だから同じ世界どうしで同じような対立やいがみ合いが起こるし、逆に異なる世界どうしでの相互理解や愛し合いも同時に起こる。
ここから最終的にどういう解釈ができるかというと、全ての人が完全に相互理解することはできないが、細かい個々の相互理解は文化や価値観に関わらずできるということ。

この構図は他の富野作品でも多く見られます。
「イデオン」の地球とバッフ・クラン(異なる星系)、「ザブングル」のシビリアンとイノセント(被支配階級と支配階級)、「ターンAガンダム」の地球人とムーンレィス(同じ地球人だが長い年月の中で地球と月に住み分かれた者たち)、「Gのレコンギスタ」の地球・トワサンガ・ビーナスグロゥブ(同じ地球人だが長い年月の中で地球・月・金星に住み分かれた者たち)。
異なる文化・価値観を持ちながら、人としての本質は同じなので、同じエゴや慈愛を持つという描写は上記全ての作品で描かれます。
ファーストガンダムで描かれた人の理想形『ニュータイプ』も続編の「ゼータガンダム」以降では能力としての決定的違いはありながらも人としてのエゴや業に違いはないことが描かれます。
ニュータイプもオールドタイプも人の本質という部分では変わらない。
あと家族どうしで理解できない姿も富野作品では多く見受けられ、これも家族というのは構成要素に過ぎず、あくまで人間個人の本質とその変わらなさを描こうとしているからだと思います。

住む世界が変わろうが、思想や考え方が変わろうが、立場が変わろうが、人の本質は変わらないということを描くのが富野作品の共通するテーマなのかなと。
ダメダメな自分、ダメダメな社会の憂いを感じている状態では、「けっきょく人は変わらない」というのは絶望的なことかもしれない。
でも「ダメダメな自分をいったん受け入れて、そこから出来ることがないかを考えていく」方が、自分なんかは現実的な希望を持ちやすいと最近思うようになっています。
こういう視点だと富野作品の共通テーマは逆に安心できるというか、まずはこのままをベースに可能性を考えていこうということにすんなり行きやすいですよね。
改めて自分が富野作品を好きになる理由を認識した気がします。

最近は生き延びるヒントとしての宗教に関心があって、いろいろ本を読んだりテレビ番組を観たりすることがあります。
キリスト教でいう原罪とか、親鸞の悪人正機といった辺りは上記の話と関連付けて自分は考えたりしています。

富野作品語りとしては余談になりますが、エヴァンゲリオンで描かれているのも似ていますよね。
それまでの人の在り方を否定して「人類補完計画」でもってリセットしようとした大人たち(ゼーレの老人たちや碇ゲンドウ)に対して、主人公の碇シンジは「他者と分かりあうことの困難さを抱えたままであること」を承知のうえで、これまでの姿を受け入れて「できる範囲のことをやっていく」ことを選んだ。
まだ未完の新劇場版のラストがどうなるかは分かりませんが、このスタンスは変えないでほしいなと思ってます。

ダンバインのラストはいわゆる全滅エンドからのリスタートというものですが、90年代後半からの富野作品は全滅(に近いのも含めて)エンドが全くなくなります。
ダメダメな現状を描きながらも全滅せずとも可能性を考えていこうという姿勢なのかなと勝手に解釈してます。
ゼータガンダムのTV版と劇場版のラストの違いは、ラストに至るまでの過程に大きな違いはない(ダメダメな世の中のまま)のに、主人公カミーユの解釈と感じ方の違いによってカミーユ自身の未来が変化しています。
これは過程がダメダメなままでも、事態を好転させる可能性はある、ということを言いたいわけで、富野作品は長い年月をかけてそこに着地しつつあるのかなと。

最後に。
「逆襲のシャア」の構図は、「人は完全に分かりあうべきだ」という想いが強いシャア(なので分かり合えないものには隕石落としで自分と異なる考え方ができる居場所を強制排除し、自分への共感を強制させようとする)と、「完全に分かり合えなくても細かい個々の相互理解の集積から可能性は生まれる」と信じているアムロ(ひとまず現状に対して全否定せず向き合う、分かり合えないものどうし無理に分かり合えなくていい)の対決の話だったと解釈しています。
シャアは自分の理想を「ニュータイプ」という言葉に込めていますが、アムロはおそらくニュータイプは幻想だと感じている。実際、劇中でアムロはニュータイプ能力をフィンファンネルを動かす道具程度にしか考えていない。アムロのラストバトルはモビルスーツどうしの殴り合いと隕石を直接持ち上げることでした。遠隔操作要素は全くなし。
そのアムロの考えに対して「サイコフレーム」を通して共感した人が多かったことが、シャアの想いの象徴である「アクシズ落とし」を防いだというのが逆シャアのラストで言いたかったこと。
そして以降の富野ガンダム作品からは、ニュータイプという設定が消えていく。
わたし自身もアムロ側の考え方に共感するし、ニュータイプ的概念が消えていく富野作品を今も観続けているのは、富野作品が持つ本質的テーマそのものに今も共感しているんだなと再認識した次第です。

ドラクエ11、クリアしました。
勢いで3DS版とPS4版の両方を入手しまして。
3DS版からプレイ→3DS版1回目のエンディング→PS4版にシフト→PS4版の真エンドといった流れ。
PS4版の終盤で3DS版の初回エンド後も手をつけてますが途中で止まってます。
さすがに食傷気味なので、少し間を置く感じ。
ドラクエ11の1週間前に入手したスプラトゥーン2もほったらかしで再開する気に今ひとつならず(面白いゲームだとは思いますが)。

そうそう、ドラクエ11を真エンドまでクリアすると、リメイク版のドラクエ1が無料でダウンロードできます。
PS4でさっそくダウンロードして、昨日は台風で天気が大荒れだったこともあり、部屋で黙々とプレイしてました。
で、驚いたのが半日でクリアできてしまったんですよね、ドラクエ1。
しかも最大のレベル30まで上げた状態で。
展開を知ったうえでのプレイとはいえ、びっくりですよ。
今となっては、これくらいのボリュームなんですな。
でも描写が淡々としてる分、想像をかきたてられるところが多くて。
それこそドラクエ1をリアルタイムでプレイしたおっさんとしては、どちらかというとドラクエはこっちの方で、最新作のドラクエ11は表現力・描写力が上がっている分、想像をかきたてられる余地はなくなっているなーと思います。
あそこまでサブキャラたちが饒舌であるのなら、むしろ主人公も喋っちゃっていいんじゃないかとさえ思うくらい。
そういう意味では、実際にやってないですけど、3DS版の2Dモードでやってみるといいのかもしれず。

ここからは若干ネタバレに触れるので、ネタバレを少しでも嫌う方はストップしてください。









今回のドラクエ11、ストーリー面でいえば、1回目のエンディングまでは自分としては良かったです。
ただ、そこから先の真エンドまでの展開は、ご都合主義すぎて好きではありません。
今回のクリア後の展開は、おまけというよりは、限りなく本編の続きなので、なおさら気になるのでしょう。
おまけであの展開なら、まぁいいかとなるのですが。
先日、同じくクリアした友人と話しましたが、とにかくホメロスが不憫すぎるというのもあります。
彼はホント報われない。

1回目のエンディングまでは、ドラクエ4以降に見受けられる「黒堀井」とでも言うべき堀井雄二独特の容赦ない展開(しかもフツーのモブキャラがそれを演じるのがさらに考えさせられる)が続き、それに主人公を含めた各キャラクターがどう向き合うかという描写が続きます。
これは現実世界にもフィードバック出来うるくらいプレイヤー個々人でいろいろ考えさせられる要素なのですが。
1回目のエンディング後はこれらが一瞬でリセットされてしまうんですよね。
嫌な意味でのゲーム的展開。
とあるキャラの結婚シーンもあるのですが、これも薄っぺらい過程を経てのもので。
1回目のエンディング後は過去シリーズのオマージュ要素がより増えて(30周年という意味合いなんでしょう)、この結婚シーンもドラクエ5がなぞられるのですが、なまじドラクエ5と対比させると、より薄っぺらさが増すという。

ゲーム自体は素直に面白かったです。
9、10と変則的なものが続いていたので、久々にスタンダードなドラクエとして楽しめました。
個人的にはドラクエ8直系の続編を望んでいたのでPS4版はそういう意味では満足。
3DS版独自要素の過去シリーズに由来するクエストも懐かしさ爆発で良かったです。
特にファミコン版ドラクエ4は、いちばん懐かしい位置付け(ファミコン版ドラクエ1~3はWiiで出ていた)なので、しばらく操作せずに画面を見続け音楽を聴き続けてしまいましたよ。
真エンドのスタッフロール画面も、あれはシリーズの大半をプレイしているプレイヤー(わたし含む)には感嘆するしかない内容ですね。さすが30周年。

でも思いっきり節目っぽい内容だったので、次はどうするんでしょうね。
ドラクエ12の位置付けは、ちょっと難しい感じ。

7月17日(日)、夜間徘徊@札幌を行なってきました。通算6回目。
そちらの模様を、お伝えする次第。

・概要

・16:00 JR札幌駅

・16:30 テレビ塔

・16:40 地下ギャラリー500m美術館

・17:00 豊平川(一条大橋)

・17:30 イーアス札幌

・18:30 南郷丘公園

・19:00 地下鉄東西線・南郷7丁目駅

・19:20 地下鉄
東西線・南郷13丁目

・19:40 
地下鉄東西線・南郷18丁目

・20:00 大谷地バスターミナル

・20:30 地下鉄東西線・ひばりが丘

・21:00 新さっぽろ

・最後に
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今年も『夜間徘徊@札幌』、開催します。通算6回目。
以下、概要です。

■ 7月16日・日曜日開催(翌日は祭日)、雨天の場合はよほど雨足が強くないかぎりは決行します。

■ 参加費は無料。

■ 16時00分スタート。コースはすでに決定済み。参加希望者には追って詳細を伝えます。

■ 途中参加・途中離脱OKのコース設定になってます。

■ 所要時間は約4時間を想定(休憩時間込み)、20時~20時半くらいにゴールとなる予定です。

■ ゴール後に参加者どうしで夕食をとる時間を設けます。参加せずに帰宅されてもOKです。

■ 夏場の長時間ウォーキングとなりますので、水分補給の用意をお願いします。

■ 参加希望の方は、下記アドレスか私個人の連絡先に申し込んでください。
satsu.ikefukurou@gmail.com

一般社団法人いっぱんじん連合(ホームページ:裏庭のアレ)の人気イベント『深夜徘徊』の北海道移植版となっています。いつもお世話になってます。

これまでのレポートがありますので参考にしてみてください。
深夜徘徊・札幌2014-1回目のご報告
深夜徘徊・札幌2014-2回目のご報告
深夜徘徊・札幌2015のご報告
夜間徘徊・札幌2016-1回目のご報告
深夜徘徊・札幌2016-2回目のご報告





鉄血のオルフェンズ、ついに最終回を迎えました。
1期終了の時点でも感想を書いてましたが、全体が終わったうえでの感想も書いてみたいと思います。
ネタバレ全開ですので、気になる方は回れ右で。
1期のときの感想はこちら↓
『鉄血のオルフェンズ』は何を描くのか

主人公たちが作り上げた集団『鉄華団』は2期の前半で一時的な成功の姿が描かれたものの、その後は破滅への道、一直線でした。
主人公が乗るガンダムが敗北し、主人公・三日月も死亡する。
小説も含めた全メディアで見れば「閃光のハサウェイ」で一度描かれたシチュエーションですが、映像作品でここまでの敗北描写ははじめてでしょうかね。

物語の冒頭で、主人公の三日月が容赦なく人を殺すシーンがありました。
そこには自分たちを虐げてきた相手もいましたが、それに対してなんの迷いも躊躇もなく銃のトリガーをひく姿は冷酷で、理解できるとは言い難いものがあった。
その償いのシーンは必ずあると自分は思っていたので、そういう視点では今回のラストシーンはまぁそうだろうなと納得できるものではあります。
ただ一方で1期の感想で書いたとおり、三日月を含めた鉄華団の少年たちの非情さ・残酷さは、ろくでもない大人たちが作り上げたろくでもない社会で彼らなりに生きていくためのある種の社会適応だったとも言えると思うんですね。それ自体の是非はいったん置いといて。
すべての責任が彼らにあったわけではない。
だからストレートな罪の償いの前に、再生のための何かワンチャンスが物語の中で彼らに与えられるのではないか。
そういう期待を持って、自分はこの作品を観ていたんです。

1期でヒロインのクーデリアが、三日月を含めた鉄華団の少年たちに文字の読み書きを教えるシーンがあった。
言葉を覚え、それにより自分の内面を言語化できるようになり、そこからさらに他者への想像力が養われ、その先に相互理解とまでは言わずとも悲しいすれ違いによる闘争の末の悲劇を避けることに繋がらないか。
そういう期待が自分の中にあったんですね。
それは何故か。

それはリアルな現代を生きる若者の一定数(それは決して少なくないはず)が自覚・無自覚を問わず抱える内面的な悩みは、鉄華団の少年たちが抱えるものと本質的に同じだと思うから。
リアルの日本社会は、まだ死ぬか生きるかの極限状況には至ってないし、読み書きができない子どもはほとんどいないとは思います。
でも、自分で何かを選択して主体的に生きていると思っていたら、社会のいろんなしがらみに翻弄されているだけだったというのは、若者に限らずリアルを生きる人たちが感じるところではないか。

同じく鬱展開だったゼータガンダムが放映されたのは1985年。
世がバブルに浮かれようとし始める前兆が見られた時代に「現状認識」をテーマに作られたのがこの作品でした。
当時の人が見失っていたものをあえて見せるという意味では、あの時代にゼータガンダムの内容が世に問われた意義はあったのかもしれない(それがきちんと伝わったかはともかく)。
エヴァンゲリオンの放映はその10年後となる1995年。
失われた10年と言われる時代の真っ只中で、この先どうしていいか分からないという気持ちを内面的に抱えていた人にとって、この作品の描写はリアルな共感を得やすかったのだろうと思います。
こちらも鬱展開が多かったことは多かったですが、主人公・碇シンジの視点だけで見れば、葛藤を抱えながらも未来への可能性を示唆する終わり方でした(それがきちんと伝わったかはともかく)。

そして鉄血のオルフェンズが放映された2016~2017年。
くそったれな大人や社会に自分たちが翻弄されていることは、今の若者にとってはある程度自明なことなんじゃないかと自分は思うんです。
であれば、鬱展開のまま終わるのではなく、そこをどう回避していくかという描写があった方がよかったんじゃないか。
まぁ鉄華団は全滅というわけではなく、生き延びた少年たちが彼らなりの日常を継続させていることはラストシーンで描かれます。
人によって明暗分かれてはいますけど(闇の部分も描いてるのは制作側の誠実さを感じて良いなと思います)。
ただ自分としては主人公の三日月が、言葉を覚えていく中で生き延びていく姿を見たかったというのはあります。

当初、敵側のライバルキャラだったマクギリスと鉄華団は終盤共闘するようになります。
貧しい身分で大人に虐げられたという共通の出自を持つ者どうしということでの共闘でした。
そう考えるとマクギリスは言葉を覚え使いこなせるようになりながらも、その使い方を誤り破滅するキャラという位置付けになります。
だからこそ、同じように言葉を使いこなし、さらにマクギリスとは違う道を選べたことで三日月が生き延びるという形だと、良い対比構造になったんじゃないか。
そういう描写も観たかったなと。

自分が今仕事にしている若者の就労支援の現場では、自分の内面を上手く言葉にできないことで、社会との折り合いを上手くつけられず、それが生きづらさにつながっている人が多い。
これは若者に限った話ではないとも思うわけですが、おそらくはそういう人が多いリアル社会であるからこそ、言葉を上手く使いこなせなかったことで破滅する姿ではなく、言葉を使いこなして生き延びる姿を描いてほしかったという個人的思いはありましたね。

残念ながら主人公の三日月はそれができませんでしたが、ただ鉄華団の中にはそれができた少年たちもいます。
タカキ・ウノという2期の序盤で鉄華団から離れた少年と、ザック・ロウという鉄華団に所属していながら鉄華団の在り方に批判的だった少年(彼も終盤で鉄華団を抜けようとしたができなかった)。
二人とも最後まで生き延びました。
この二人の在り様は自分としては共感できるものではありましたね。
鉄華団の若者たちは、後先考えずに突っ走った者より、いったん立ち止まって考える者がわりと生き延びた印象があります。

俯瞰的に見れば、今回のオルフェンズは主人公の成長物語というこれまでのガンダムシリーズで当たり前とされていたものからあえて脱却するという試みをしていたのかもしれず。
鉄華団の少年たち全体が主人公という群像劇なのだとしたら、今回の落としどころは納得できるし、批判するべき部分はありません。
あくまで上記のことは、自分の個人的主観による個人的感想ということになりますね。

リアルの世がもうじゅうぶん鬱展開なので、物語(特にリアルを描くとされる)の中ではその回避方法を模索するネタを仕込んでもらえると嬉しいなというのはありますかね。
安易な前向きで希望あふれる展開は、それはそれで嘘っぽく感じてしまいますが。
何にせよ、リアルに即した希望を描く作品を観てみたいという想いは、いまだ続くといった感じです。

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