2016年02月17日
癒して業績アップ^^
一般財団法人日本スピリチュアルカウンセリング協会、宮本すみれインストラクターより、認定スピリチュアルカウンセラーとして初級スピリチュアルカウンセリングセッションができる認定証を頂きました✴http://ameblo.jp/miyamotosumire/
http://japan-spiritual.com/
問題解決を求めている経営者の方、様々なストレスから解放され、癒されながらいそいそと業績が上がってしまう、そんな世界があるとしたら、ご自分の人生で体験してみたいと思いませんか?
不思議ですが、「ある」と思うと現れてきて、「そんなのあるわけない」と思うと、まったく感じられない、そんなしくみが人間の脳や心にはあるようです。
部屋の中で青いものを探してみてと言われて、初めて青いものが意識に上がってくるのと同じで、
概念がないと五感がキャッチしないから、当然っちゃあ、当然ですけど。
本日2016年2月17日より、ちょと興味のある方々に私自身の体験を通して、そんな時間を少しづつ共有させて頂きたいと思います。
今日、2月17日は実は母の79歳の誕生日なんです。
母は
昭和12年長崎県生まれ。
幼少期に両親が離婚。
生活に困った母に連れられ、3歳の時に心中しようとしているところを、
長崎の三宅さん(警察署長)に救われそのお宅で母子2人でお世話になる。
その後、弟が生まれ、
昭和18年2月 6歳の時に母(祖母)が他界し、その後三宅さん一家と一緒に鹿児島県引っ越し、三宅さんのお姉さん宅に預けられ、その隣の方のご紹介で熊本県、天草の竹本家へ預けられ、畑仕事につく。
長崎から引っ越しするときに電車の中から自分の家の方角に空襲があって、燃えているのが怖ろしかった記憶があるそうです。
もしこのころ鹿児島に引っ越してなかったら、2年後の原爆で、母の命はなかったかもしれません。
そう思うと、僕の命もないわけですごい時代だったんだと、改めて思います・・・・。
昭和26年 会った記憶のない父親から、色んな所を経由して時間がたった手紙が届く。
父親が具合が悪く入院している病院の院長からの手紙。
「お父さんが会いたがっています」と。
14歳の母は、まわりの人から会いに行ったら?連れて行ってあげるからと強く勧められたが
「今さら会いたくない!いいです」と拒否。
4年後の昭和30年2月離れて暮らしていた父が他界。結局お墓にも行ってないそうで・・・・・。
私が代わりに今、祈りました。
昭和35年養女先の親戚にあたる鹿児島県出身の父と結婚し、東京世田谷の家具屋さんにお世話になる。
生き別れになっていた弟が1度訪ねてきたそう。その後関わりは一切ないそうで、消息不明・・・・。
まずは今、心の中で感謝をお伝えしました。
必要を感じたら、実際に動いて会いに行きたいと思います。
23歳の時昭和35年長女出産。
27歳の時の昭和39年11月11日午前2時35分に足立区の病院で二人目の子供出産。
3900グラムの男の子。
その子は
昭和40年ヘルニア(脱腸)になり(0歳)
昭和43年4月おたふくにかかり。(3歳5ヶ月)
昭和46年5月21日に水疱瘡にかかり(6歳)
昭和51年風疹にかかり(11歳)
昭和51年百日咳にかかる。(12歳)
母子手帳に記述あり。
この子が僕です。
これから母に感謝を伝えに行ってきます^^
http://japan-spiritual.com/
問題解決を求めている経営者の方、様々なストレスから解放され、癒されながらいそいそと業績が上がってしまう、そんな世界があるとしたら、ご自分の人生で体験してみたいと思いませんか?
不思議ですが、「ある」と思うと現れてきて、「そんなのあるわけない」と思うと、まったく感じられない、そんなしくみが人間の脳や心にはあるようです。
部屋の中で青いものを探してみてと言われて、初めて青いものが意識に上がってくるのと同じで、
概念がないと五感がキャッチしないから、当然っちゃあ、当然ですけど。
本日2016年2月17日より、ちょと興味のある方々に私自身の体験を通して、そんな時間を少しづつ共有させて頂きたいと思います。
今日、2月17日は実は母の79歳の誕生日なんです。
母は
昭和12年長崎県生まれ。
幼少期に両親が離婚。
生活に困った母に連れられ、3歳の時に心中しようとしているところを、
長崎の三宅さん(警察署長)に救われそのお宅で母子2人でお世話になる。
その後、弟が生まれ、
昭和18年2月 6歳の時に母(祖母)が他界し、その後三宅さん一家と一緒に鹿児島県引っ越し、三宅さんのお姉さん宅に預けられ、その隣の方のご紹介で熊本県、天草の竹本家へ預けられ、畑仕事につく。
長崎から引っ越しするときに電車の中から自分の家の方角に空襲があって、燃えているのが怖ろしかった記憶があるそうです。
もしこのころ鹿児島に引っ越してなかったら、2年後の原爆で、母の命はなかったかもしれません。
そう思うと、僕の命もないわけですごい時代だったんだと、改めて思います・・・・。
昭和26年 会った記憶のない父親から、色んな所を経由して時間がたった手紙が届く。
父親が具合が悪く入院している病院の院長からの手紙。
「お父さんが会いたがっています」と。
14歳の母は、まわりの人から会いに行ったら?連れて行ってあげるからと強く勧められたが
「今さら会いたくない!いいです」と拒否。
4年後の昭和30年2月離れて暮らしていた父が他界。結局お墓にも行ってないそうで・・・・・。
私が代わりに今、祈りました。
昭和35年養女先の親戚にあたる鹿児島県出身の父と結婚し、東京世田谷の家具屋さんにお世話になる。
生き別れになっていた弟が1度訪ねてきたそう。その後関わりは一切ないそうで、消息不明・・・・。
まずは今、心の中で感謝をお伝えしました。
必要を感じたら、実際に動いて会いに行きたいと思います。
23歳の時昭和35年長女出産。
27歳の時の昭和39年11月11日午前2時35分に足立区の病院で二人目の子供出産。
3900グラムの男の子。
その子は
昭和40年ヘルニア(脱腸)になり(0歳)
昭和43年4月おたふくにかかり。(3歳5ヶ月)
昭和46年5月21日に水疱瘡にかかり(6歳)
昭和51年風疹にかかり(11歳)
昭和51年百日咳にかかる。(12歳)
母子手帳に記述あり。
この子が僕です。
これから母に感謝を伝えに行ってきます^^