もう時代遅れの言葉になってしまいましたが、一時、KY(空気をよめない)なる言葉が流行りました。

空気をよめない人、多少迷惑な存在ではありますが実害は少ない。

逆に、空気がよめない奴と他人を貶(おとし)めて、付和雷同、迎合型の人であることを奨励するふうがあって、私はあまり好きな言葉ではありませんでした。

KYよりも子どもたちの勉強の邪魔をしているのは、MY(問題をよめない)、SY(先をよめない)だと、授業中、よく思います。

休まずに塾に通い、授業中も真剣に勉強しているのに、成績がなかなか上がらない人がたまにいます。
その共通点は、MYであり、SYです。


MY(問題をよめない)

人間は、言葉を道具に頭を使っています。

よく、「うちの子は国語の成績が悪いので算数・数学の文章題ができない。」とおっしゃる方がありますが、これは嘘、というか誤解です。

国語も、算数・数学も、英語も、理科も、社会も、実技教科ですらも、言葉を使って問いが提出され、言葉でものを覚え、言葉で考え、言葉を用いて答えを書く点ではすべて共通です。

言葉を理解し、言葉を使う能力が未発達だから、いろいろなことを理解したり、思考したりする力が見劣りするのであって、その結果として国語科という教科もできないだけです。
国語科の出来が他の科目の成績を左右するわけではありません。

塾で、同じように新しい単元を習い、概念を理解し、解き方の説明を受け、練習し、問題に慣れても、テストをすると見事に点数が分かれます。

その分かれ目はたった一つ、「問題がちゃんと読めるかどうか」です。

よく言うのですが、「いくら運動神経がすぐれていて、どれだけ人より努力したって、目をつぶったままでボールは打てないよ。」


「お宅のお子さんは国語力が弱いですなぁ。」で終わってしまって何とか食べていけるのは、評論家や学校の先生まで(学校の先生、ごめんなさい)。

塾の講師は、国語力がないということは、即、成績が上がらないことにつながってしまい、役にたたない塾だ、塾をやめてしまえという経路をたどっておまんまの食い上げですから、国語力がない、問題をよむ力がないと気づいたら、なんとかそれを解消する方策を考えないといけません。

言葉の重要性を常に子どもたちに訴え、いろいろな言葉を教え、問題を読ませ、書かせて、じわじわと言葉の力を身につけさせることをいつも考えて授業を組み立てていかないといけない。

小さなことでは、問いの中に見落とすと全問不正解になるような語句をまぎれこませて、問題をちゃんと読まないと大損をすることを味あわせるなんてことまでやったりします(こうして、塾講師はサディストになっていく)。

「勉強は習慣」ですから、家でも塾でも、声を出して読ませることから始めて、とにかく意識して言葉を使う訓練を徹底しないと、問題をよむ力は身につきません。

余談ですが、いくら時代が進んで教育機器が発達しようと、私は「対面型」「対話型」の教科指導はすたれないと思っています。それしか「言語能力」を伸ばす方法はないからです。


SY(先がよめない)

人は言葉を使ってものを考えていきますから、問題を読めない人は例外なく先もよめません。

例えば、中3数学の『式の展開』の問題を解くのに、どんな問題集も学校のテストも、必ず一番原始的な一つずつかけていく問題から始まり、次に乗法公式を使って解く基本的な問題、それから最後にいろいろな応用が必要な問題の順に出てくるのに、そういうことを一切考えないで問題を解こうとします。

乗法公式を使って解く(100+3)(100−3)のような問題で、103×97と筆算していたりする。
小学校3年生がするような問題を中3でするはずがないのに、そういう考慮をまったくしないまま暴走してしまいます(世間では暴走族はすたれたのに、勉強の世界ではあちこちでいまだにブルルン、ブルルン・・)。

だから、子どもたちからすると「狡猾な(ずるい)」と誤解されるかもしれない、「先をよむ」という勉強の仕方を教えるのも塾講師のしごとであったりします。

「こうきたら次はこうくるはずだから、それを予想して問題をこう解く」というのが、実は賢い人の頭の使い方であり、「なぜ勉強しないといけないのか?」の解答の一つが、「先をよむ能力」をつちかうこと、だからです。

どんな社会人であれ、先をよめない人は、仕事が出来ない人に他なりません。



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