日本人がどこから日本列島に来て、どのように広がったか、確定的な学説はありません。
最初にロシアのバイカル湖周辺に居住していた狩猟民族が渡来し、その後縄文人、さらに弥生人と称される人が渡ってくるなど、何度も異種民族が流入を繰り返してきたと考えられています。

日本人の特徴は、これらの系統の違う祖先をもつ人々がお互いに孤立や抗争をせずに穏やかに混血したことにあるようです。

遺伝子的に日本人に近いのはチベット人のみであり、隣国の中国人や朝鮮人とはほとんど共通点がありません。

また、沖縄人と本州人とアイヌ人とでは身体の特徴や文化には差異が認められますが、遺伝子的にはほぼ違いが認められず、他民族とは画然と区別できる共通民族であるようです。

そうした、古い時代に日本に渡ってきた人たちが日本人の原型となり、アジア大陸の戦乱や迫害を逃れて後の時代にこの国に渡ってきた中国や朝鮮の人も少しずつ受け入れて出来上がったのが現在の日本人です。

遠い昔に共通の祖先を持ちながら、ユーラシア大陸のあちこちに住んでいた人々が、いろいろな経路をたどって日本列島までやってきて、「お互い、こんなアジアの端っこにやってきたんだから、喧嘩しないで仲良くしようや」、「結婚もどんどんしよう」と混ざり合ってできあがったのが日本人だと思ってほぼ間違いないようです。

元の居住地によって独特の身体的特徴や文化をもっていた人たちですが、本州は地続きであるために移動や混血が容易で、元の特徴は薄まっていきました。
沖縄、九州の南部や東北、北海道は日本では辺境ですから、渡来した人のグループがかたまって後世まである程度孤立した集団として残り、元の身体的特徴や文化を残した生活を営んできました。
熊襲(くまそ)蝦夷(えみし)蝦夷(えぞ)アイヌはそうした人々の呼称です。


熊襲

古代、九州南部の熊本、鹿児島に居住していたとされる部族の名前です。

大和王権(大和朝廷)が4世紀から5世紀にかけて全国の諸部族を従えて統一国家を形成していく過程で、大和王権になかなか服従しませんでした。

日本書紀や古事記に、12代天皇とされる景行天皇やその子であるヤマトタケルノミコトが熊襲と戦い、熊襲を「征伐」したことが記述されています。
数度の武力による抵抗を経て、大和王権の中に組み込まれていきました。


蝦夷(えみし)・蝦夷(えぞ)

古代、関東北部から東北、北海道など、大和王権の支配力が及びにくい地域に居住していた部族の総称が蝦夷(えみし・えぞ)です。

統一した政府はもたず、一部の人たちは大和王権に同化して独自性を失い、一部の人たちは大和王権への同化を拒否して独立性を保ち続けました。

7世紀、飛鳥時代に大和王権は東北地方に直接の支配力を伸ばそうとします。阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷の居住地に攻撃を加え、蝦夷側からは大和王権に対する防衛や反抗の戦いがしばしば起こります。

平安時代初期、アテルイの率いる蝦夷軍が官軍の砦をおとし、大和朝廷に脅威を与えます。
桓武天皇により征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が大軍を率いて蝦夷軍と戦い、蝦夷軍を破ります。
坂上田村麻呂は岩手県に胆沢城(いさわじょう)を築き、都に凱旋します(城を築いたということは、そこが大和朝廷の最前線であり、その地より北が蝦夷の地であったということです)。

軍事費の増大が朝廷の財政を圧迫し、坂上田村麻呂以後、大和朝廷は直接の軍事的支配を断念します。
その後、現地に永住した大和朝廷の役人や先住の部族の長が各地を分断して治める時代が続きます。

平安時代の後期、11世紀になると、岩手県北上川の流域に本拠を置く豪族、安倍(あべ)が朝廷に税を納めることを拒否し、独立をくわだてます。
朝廷の命を受けた源頼義(みなもとのよりよし)、源義家(みなもとのよしいえ)が安倍軍をやぶり、反乱を平定します(1051〜1062年、前9年の役)。

その後、出羽の国(現在の秋田県・山形県)を本拠としていた土着の豪族清原氏の相続争いから後3年の役が起こります(1083〜1086年)。
源義家が加担した清原清衡(きよはらのきよひら)が勝利し、清衡は実家の姓である藤原氏を名乗り(摂関政治の藤原氏と血縁関係はないので奥州藤原氏と呼ばれる)、東北地方を支配します。

奥州藤原氏は平泉(ひらいずみ)を本拠に半独立国として栄華を誇りますが、源義経をかくまったことをとがめられ、4代目の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)のときに源頼朝に滅ぼされます。


蝦夷(えぞ)

平安時代までは、関東北部から東北、北海道に住んでいた先住部族を蝦夷(えみし、えぞ)と呼んでいました。

鎌倉時代以後、「えぞ」は、旧来の「えみし、えぞ」の中の、アイヌ人を指す呼称になっていきます。
大部分が北海道に居住し、北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれるようになります。


アイヌ

現在のサハリン(ロシア)、千島列島(ロシア)、北海道、東北地方に居住していた先住民族の名前です。
鎌倉時代から江戸時代にかけては先住民族のうちのアイヌ民族だけを蝦夷(えぞ)と呼ぶようになります(他の先住民族は本州人に同化し、独自性を失います)。

遺伝子的には本州人、琉球人と同じ特徴を持つ同一民族ですが、狩猟・採集の生活をおこない、独自の文化を長い間保持しました。

江戸時代までは、東北の大名である安東氏などが北海道に交易所を置き、コシャマインの戦いなどの紛争もありましたが、ほぼ平和にアイヌとの交易をおこなっていました。

江戸時代になり、幕府は北海道の松前にあった松前藩にアイヌとの交易の独占を認めます。
松前藩は徐々にアイヌ人への搾取と支配を強め、反発したアイヌはシャクシャインの戦いを起こします。
指導者シャクシャインがだまされて殺されたことで戦いは終わり、明治時代になるまでアイヌは和人(アイヌからみた本州人の呼び名)から搾取され続けます。

1854年日露和親条約で北海道が日本領であることが確定します。

1871年戸籍法の制定により、アイヌは平民として日本国籍を与えられます。政府はアイヌ人の開墾を認めるとともに、独自の風習を禁じ、日本語教育を始めるなどの「同化政策」を始めます。

アイヌの保護をうたう『北海道旧土人保護法』が成立しますが、「旧土人」の語に当時の日本人の差別意識をうかがい知ることができます。
北海道旧土人保護法は1997年にやっと廃止され、『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律』(いわゆるアイヌ新法)が制定されました。

現在のアイヌ人の人口は北海道に約24000人、東京に約3000人といわれています。


2010.6.15追記

『関東民族』さんより、コメント欄に以下の投稿がありました。コメント欄では読者の目にふれないおそれがありますので、ここに再録します。

「蝦夷に関しては関東北部〜ではなく、関東南部〜が正確です。また、えみしがえぞになったのではなく、えみしからえびすになったのであって、本州の土着民がえぞと称されたことはありません。現代人がえびすをえぞと勝手に言い換えているだけです。」(コメント文のまま)


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