本を読むサルは道具を使いません。人間は進化するほど使う道具が増えていきます。

問題、課題が与えられたときに、それを解くための「道具」を修得するのが「勉強」の目的です。

例えば数学の問題を解くとき、使う「道具」は物理的には紙と鉛筆と消しゴムですが、これはみな平等。
目には見えない無形の道具をどれだけ持っていて、それをどれだけ有効に使えるかが「できる子」と「できない子」を分けます。


形(かた)の例

中1数学の正負の数、乗法・除法を例に考えてみましょう。

計算問題、(-20)÷15×6をどう解くか。

よくできる子(中1の1学期中間テストで5教科450点を超えるような子)は、いろいろな道具をすでに持っていますから、この程度の問題だと何も教える必要はありません。
(-20)×6÷15=-8でも解けるね、(-20)÷15は割り切れないから分数にして-4/3、それに6をかけて-8でもいいねと、軽くふれる程度で自分で解いていきます。

普通の子(ぎりぎり400点か、それ以下の子)だとそうはいかない。
「教えないと」いけません。
たいがいは、問題を見たらぴたっと手が止まります。「できません」、「割り切れません」ということになる(筆算にとりかかって、20÷15=1.3333…と書いて首をひねっている子もいますね)。

私は次のように教えます。

まず、下にイコール、=を書く。
次に、符号−の個数を見る。−は1個だから答えの符号は−、−と決めてそれを書く。

次に、中学生はなんでも分数にして解くんだと「強制」して、与えられた式の整数を分母1の分数に(頭の中で)なおさせる。そして、=−の後に20/1×1/15×6/1と書かせます。
最後に、書かせたその式を使って約分して、3行目で=-8と書いて終了です。

「強制して」、「形(かた)にはめる」わけです。

私が上のように教えるのは、この「形(かた)」さえ身につけてくれて、その子の「」になれば、正負の数、乗法・除法のどんな問題も同じ解き方同じ「道具」を使って解けるからです。
小数が出てこようが、分数が出てこようが、すべて同じ方法ですらすら解けます。

また、上のようなやり方さえ習得してくれたら、頭の良し悪しに関係なく、どんな子でもほとんど苦労なしで完全にこの分野の問題を解けるようになるからです。
どんな子でもできるようになる」ためには、(かた)の習得しか方法はありません。

(誤解のないように付言しておきますが、450点を超える「賢い子」には道具は必要ないということではありません。上にあげた例のような問題のレベルでは必要がないというだけです。賢い子には、賢い子のために絶対必要な道具、形(かた)がいくらでもあります。)


学校は形(かた)を教えることに徹底できない

「形(かた)にはめる」ためには、学校で習うより早目に教えないといけません。
学校で自己流の「へんな」癖がついた後にそれを矯正するのはほぼ不可能だからです。

学校の教え方が下手なわけではありません。
学校は、「形(かた)」を教える場所ではないというだけのことです。
「形(かた)」を教えないから、子どもたちは自己流でいくしかない。自己流だからへんな癖がつく。

さらに、「型にはめる」ためには反復練習が必要です。
理屈で説得しても役にはたちません。問題を見ただけでぱっとそれに応じた「形(かた)」が使えるように、「癖」になるまで練習を繰り返しておかないといけません。

今の学校には、反復練習をする時間もありません。


塾はなぜ存在するのか

この国の昔の人は、「勉強」とは「形(かた)」の習得であるということがわかっていました。

だから日本では「道場」でものを習った。
剣道場も、柔道場も、そろばん教場も、習字の手習い所も、みな「形(かた)」から入り、「形(かた)」を教えた場所です。

吉田松陰が松下村塾で指導にあたったのは、たかだか数年だといわれています。
それでもあれだけの人材を輩出したのは、松陰が生き方、学び方の「形(かた)」を教えたからです。

学習塾もまた、形(かた)を教える場所です。

塾、寺子屋がわが国独特のものであって、わが国にしか存在しないものであることには理由があるのです。


ゆとり教育が失敗した本当の理由

文部科学省のゆとり教育が失敗したのは、教育の総本山であるはずの文部科学省が、教育とは学ぶための道具の習得であって、「形(かた)」を身につけるものであるということをまったく自覚していなかったためです。

だからこそ、ゆとり教育の導入時に、文部科学省は突然、『生きる力』なんてのを提唱し始めました。つめこみ教育で細かいことを教えるのをやめよう、子ども本来の生命力を取り戻させようという、官主導の運動でした。
今になって思えば、『生きる力』とは、「道具を捨てて、動物に戻れ」というスローガンだったわけです。

そう考えると、文部科学省の当時のリーダーであった人が、いまだに、『百ます計算で馬鹿になる』なんて本を出版している理由もよくわかります。
勉強の形(かた)、道具を習得させるための手段の一つである百ます計算を目の敵にして、相変わらず、「子どもたちよ、動物にもどれ」とやっているわけです(今は誰も相手にしていないので実害はありませんが)。



10.6.3
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